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    <title>昭和の今日は何があった日？ on 昭和44年男</title>
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    <description>Recent content in 昭和の今日は何があった日？ on 昭和44年男</description>
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      <title>6月20日 ── テレビの「向こう側」だったNHKホールに、息子と立った日</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-june-20/</link>
      <pubDate>Sat, 20 Jun 2026 06:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-june-20/</guid>
      <description>&lt;p&gt;六月二十日。梅雨のただなかの、紫陽花が雨に濡れて重たく頭を垂れるころです。昭和四十八年（一九七三年）のこの日、東京・渋谷で一つの大きな建物が動きはじめました。NHKホール。毎年大みそかの夜、茶の間に流れ込んでくる、あの『紅白歌合戦』の舞台です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先に正直なことを書いておきます。このとき私は四歳。開館のニュースなど、まるで覚えていません。覚えているはずもないのです。けれど、だからこそ書きたいことがあります。あの建物は、私が物心ついたときにはもう、子供時代の「向こう側」に、ずっと立っていました。テレビという窓の、その奥に。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;茶の間の向こう側にあった大みそか&#34;&gt;茶の間の「向こう側」にあった大みそか&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;子供のころ、一年でいちばん夜ふかしが許される日が大みそかでした。紅白歌合戦。あの幕が上がると、家じゅうの空気がどこか改まったものです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;紅白がこのNHKホールから生中継されるようになったのは、ちょうど私が生まれて間もない昭和四十八年、第二十四回からでした。それ以前は、内幸町のスタジオや日本劇場、東京宝塚劇場などを転々としていたのだといいます。私が物心つくころには、紅白は「渋谷の、あの大きな舞台」にすっかり腰を落ち着けていた。つまり私の世代は、生まれたときから「紅白といえばNHKホール」が当たり前だった、最初の世代ということになります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;思えば、あのころの紅白は、文字どおり日本じゅうが同じ時間に同じ画面を見つめる夜でした。少しさかのぼった昭和三十年代の終わりには、視聴率が八割を超えた年もあったといいます。テレビがまだ一家に一台、茶の間の真ん中にどっしりと据えられていた時代。その何千万という視線がいっせいに集まる中心に、渋谷のあのホールがありました。けれど私にとってそれは、あくまでブラウン管の「向こう側」。きらびやかで、遠くて、手の届かない場所でした。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;渋谷神南に建った二代目&#34;&gt;渋谷・神南に建った「二代目」&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;このNHKホール、実は「二代目」です。初代は内幸町のNHK東京放送会館のなかにあり、昭和三十年（一九五五年）に完成したものでした。けれど客席はわずか六百六十席ほど。紅白のような大がかりな番組を収めるには、あまりに手狭だったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;東京・渋谷の神南に立つNHKホール。毎年大みそか、『紅白歌合戦』が生中継される舞台。（Photo: Kakidai / CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/nhk-hall-shibuya.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和四十年代に入り、NHKは放送の拠点を渋谷区神南へと移していきます。世に言うNHK放送センターです。その関連施設として、昭和四十七年（一九七二年）十一月に新しいホールが完成し、翌昭和四十八年六月二十日から運用が始まりました。設計は日建設計。客席は三千席を優に超える、当時としては国内屈指の大ホールでした。NHK交響楽団、いわゆるN響の本拠地でもあります。紅白だけでなく、『NHKのど自慢』も、N響の定期演奏会も、数えきれないほどの公開番組が、この同じ舞台から全国の茶の間へと届けられてきました。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;ここがあのnhkホールか&#34;&gt;「ここが、あのNHKホールか」&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;そのテレビの「向こう側」に、私が初めて足を踏み入れたのは、三十代の、親としての一日でした。そして連れて行ってくれたのは、ほかでもない、私の息子です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;長男が保育園のころ、『おかあさんといっしょ』に夢中でした。何かと用事を片づけたいとき、ファミリーコンサートのビデオを見せておく――その間に、こちらは家のことを済ませる。あの番組には、ずいぶんとお世話になったものです。一度でいいから、本物のファミリーコンサートに連れて行ってやりたい。そう思って、何度も何度も観覧の抽選に応募しました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、ある日。なんと、その抽選に当選したのです。たしか平成十四年（二〇〇二年）ごろのことでした。会場の名前を見て、私は思わず声をあげました。NHKホール。あの、大みそかにテレビでしか見たことのなかった、渋谷の、あの大きな舞台。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当日、客席に座って、私はしみじみと天井を見上げました。「ここが、あのNHKホールかー」。子供のころ、ブラウン管の向こうに遠くきらめいていたあの場所に、私はいま、自分の息子と並んで座っている。番組の主役はもちろん子供たちです。でも、あの日いちばん胸を熱くしていたのは、案外、三十代の私のほうだったかもしれません。テレビの「向こう側」が、ようやく自分の足もとと地続きになった瞬間でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの日、息子と並んで見上げた舞台の空気は、いまも映像のなかに残っています。おかあさんといっしょのファミリーコンサートは、NHKホールで収録されたものがDVDになっていて、観るたびに、あの当選通知が届いた日のうれしさまで、ふっとよみがえってきます。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&#34;amz-box&#34;&gt;
  &lt;div class=&#34;amz-box-body&#34;&gt;
    &lt;div class=&#34;amz-box-title&#34;&gt;NHKおかあさんといっしょ ファミリーコンサート（NHKホール収録）&lt;/div&gt;&lt;div class=&#34;amz-box-note&#34;&gt;あの日、息子と見上げた舞台。ファミリーコンサートをノーカット収録&lt;/div&gt;
    &lt;a class=&#34;amz-box-btn&#34; href=&#34;https://www.amazon.co.jp/dp/B017CK78SC?tag=showa44man22-22&#34; target=&#34;_blank&#34; rel=&#34;nofollow sponsored noopener&#34;&gt;Amazonで見る ›&lt;/a&gt;
  &lt;/div&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;十五年後の同じ日に--オレンジとバナナと&#34;&gt;十五年後の同じ日に ── オレンジと、バナナと&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;六月二十日には、もう一つ、私の暮らしに地味に効いてきた出来事があります。昭和六十三年（一九八八年）のこの日――NHKホール開館からちょうど十五年後――日米の貿易交渉がまとまり、牛肉とオレンジの輸入自由化が決まりました。三年後の平成三年（一九九一年）から、それまで設けていた輸入の上限を撤廃する、という合意です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そもそも日米の貿易摩擦は、私が生まれるより前、昭和三十年代の繊維製品から始まっていました。やがて火種は鉄鋼へ、カラーテレビへ、自動車へと移り、そしてついに、牛肉とオレンジという、食卓の問題にまでたどり着いたのです。米側の狙いは、ふくらみ続ける対日貿易赤字を、農産物の輸出で少しでも埋めること。十九歳の私は、その交渉の重さなど、まだよくわかってはいませんでしたが。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;正直に言うと、私には子供のころ「オレンジ」を食べた記憶が、ほとんどありません。私のなかでオレンジとは、ほぼ「みかん」のことでした（笑）。冬のこたつに積まれた、あの手で剝けるみかん。皮の厚い、香りの強い舶来のオレンジが当たり前に店先に並ぶようになったのは、思えば、この自由化のあとのことだったのでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いっぽうバナナは、私にとってずっと身近な存在でした。遠足の前日には決まって誰かが、「先生、おやつにバナナは含まれますか？」と真顔で質問しては、どっと笑いをとる。それくらい、バナナは子供の世界にすっかり溶けこんでいたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;いまでは当たり前に手の届くバナナ。けれど昭和三十年代までは、お見舞いに持っていくような「高級品」だった。（Photo: Wilfredor / CC0）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/banana-bunch.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ところが、少し調べてみて驚きました。そのバナナも、ほんの少し前までは「高級品」だったというのです。戦後の日本は外貨が乏しく、外国からの輸入は厳しく制限されていました。バナナも例外ではなく、値段が高く、庶民が気軽に買えない。病気のときや、お見舞いの品にする――そんな、特別な果物だったといいます。おもしろいのは、その「特別」だった時代から、遠足とバナナはすでに固く結びついていたことです。気軽には買えないからこそ、遠足の日に一本か二本だけ持たせてもらう。それが子供にとって、何よりの楽しみだった。昭和三十年ごろには、一房が今でいえば数千円もしたのだとか。私たちが笑いのネタにしていたあの「バナナは含まれますか」という問いの奥には、実は、そんな時代の名残がひそんでいたのかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大きな転機は昭和三十八年（一九六三年）、バナナの輸入自由化でした。やがてフィリピン産が大量に出回り、冷蔵輸送やスーパーマーケットの普及も重なって、昭和五十年代には「普通に買える果物」になっていった。私が生まれる六年前に、バナナはもう「特別」を卒業していたわけです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;つまり、自由化の波は二度あったのです。私が生まれる前の、バナナ。そして十九歳のときの、牛肉とオレンジ。私の暮らしは、ちょうどその二つの波のあいだに、すっぽりと収まっていたことになります。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;令和の渋谷でいま&#34;&gt;令和の渋谷で、いま&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;あれから半世紀。NHKホールは今も渋谷・神南に立っています。途中、耐震補強などの工事でしばらく休館し、令和三年（二〇二一年）の紅白だけは東京国際フォーラムで行われたりもしましたが、また元の舞台に戻ってきました。あの日、息子と並んで見上げた天井も、きっと変わらずそこにあるはずです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;食卓のほうは、すっかり様変わりしました。オレンジも牛肉も、もう「特別」ではありません。バナナにいたっては、平成十六年（二〇〇四年）、ついに消費量でみかんを抜いて、日本の果物の一位になったのだそうです。オレンジを「みかん」だと思っていた子供だった私には、なんだか出来すぎた話のように聞こえます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;変わらずそこにあり続けたホールと、「特別」を「当たり前」に変えていった食べものたち。同じ六月二十日に、その両方の物語が静かに始まっていた。そして私はといえば、テレビの向こうにあったあの舞台に、自分の息子のおかげで、ようやくたどり着くことができたのです。変わるものと、変わらないもの。その両方を抱きしめながら、私たちは少しずつ年を重ねていくのでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたが、テレビでしか見たことのなかった場所に初めて実際に立ったのは、どこでしたか。そして、子供のころ「特別」だった食べものは、何でしたか。よかったら、聞かせてください。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;このシリーズ「昭和の今日は何があった日？」では、昭和四十年から六十四年までの「今日」にあった出来事を、当時子どもだった私の目線で綴っています。あなたの思い出も、ぜひ聞かせてください。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-19/&#34;&gt;6月19日 ── ベトちゃん・ドクちゃんが東京へ運ばれてきた夏、私は十七歳だった&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>6月19日 ── ベトちゃん・ドクちゃんが東京へ運ばれてきた夏、私は十七歳だった</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-june-19/</link>
      <pubDate>Fri, 19 Jun 2026 06:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-june-19/</guid>
      <description>&lt;p&gt;六月十九日。梅雨の重たい雲を見上げるたび、私はこの日のニュースを思い出します。昭和六十一年（一九八六年）のこの日、ベトナムから運ばれてきた二人の幼い兄弟が、東京の病院で手術を受けました。ベトちゃんと、ドクちゃん。下半身がつながったまま生まれた、結合双生児の兄弟です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そのとき私は十七歳、高校二年生でした。ちょうど高校野球の東東京大会を目前にひかえ、グラウンドと教室を行き来する毎日のなかにいました。ベトちゃん・ドクちゃんのニュースは、テレビで何度も目にしていました。くわしいことは、正直よく分かりませんでした。それでも、ただ「がんばれ」と願っていた——そんな自分を、いまでもはっきりと憶えています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;白状すれば、当時の私にとって、ベトナムはそれほど馴染みのある国ではありませんでした。ただ、物心ついたころから、ベトナム戦争のニュース報道を、何度も何度もテレビで見て育ってきた。だから「ベトナム」という言葉に触れると、私のなかでは決まって「戦争」という言葉が結びつきました。詳しいことは分からないのに、心がふっと「不安」になる。ベトナムとは、当時の私にとって、そういう遠い国だったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いま思うと、不思議なものです。来たる大会のことで頭がいっぱいだったはずの十七歳の私が、それでもテレビの前で足を止め、遠い国の二人の子どもに、手を合わせるように「がんばれ」とつぶやいていた。あの六月の感覚は、四十年がたったいまも、胸のどこかに残っています。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;一つの体に二つの命&#34;&gt;一つの体に、二つの命&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ベトちゃんとドクちゃんは、昭和五十六年（一九八一年）二月二十五日、ベトナム中部高原のコントゥム省で生まれました。上半身が二つ、下半身が一つ。Y字のかたちにつながった、「一胴二体」と呼ばれる結合双生児でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二人がこうして生まれた背景には、ベトナム戦争があると報じられました。米軍が大量に散布した枯葉剤——その影響ではないか、と。枯葉剤は、一九六一年からのおよそ十年間で、ベトナムの森や畑に七千万リットル以上もまかれたといわれます。その多くに、人体に有害なダイオキシンが含まれていました。直接浴びた人や、その土地の水や作物を口にした人、生まれてくる子どもにまで影響が及んだとされ、二人の母親も、枯葉剤のまかれた地域の井戸水を飲んでいたと伝えられました。はっきりとした因果は、いまも科学的に証明されたわけではありません。けれど、戦争が終わってなお、人の体に爪痕を残しているのかもしれない。そのことは、当時の日本に重く響きました。私の胸の奥にあった「ベトナム＝戦争＝不安」という結びつきも、たぶんこのあたりから来ていたのだと思います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;ベトナム戦争中、米軍ヘリが上空から枯葉剤を散布するようす（1960年代）。森や畑にまかれた除草剤が、戦争が終わってからも長く影を落とした。（Photo: U.S. Army / パブリックドメイン）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/agent-orange-spraying.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;兄はベト、弟はドク。越南（ベトナム）の「越」、東ドイツの「徳」。治療を受けたハノイの病院で、そう名づけられたといいます。下半身のつながった幼い兄弟の写真は日本中に紹介され、ベトナム戦争の傷あととして受け止められ、各地で支援の輪が広がっていきました。昭和六十年（一九八五年）には福井県敦賀市で「ベトちゃんとドクちゃんの発達を願う会」が結成され、募金で車椅子が贈られています。ちょうど私が高校一年生のころのことです。戦争を知らない世代だった私の頭にさえ、二人の名前と、あのつながった小さな体の写真は、いつのまにか焼きついていました。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;東京へ運ばれてきた六月&#34;&gt;東京へ運ばれてきた六月&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;昭和六十一年六月十一日。兄のベトちゃんが、急性脳症を発症しました。けいれんの発作を繰り返し、やがて意識を失っていきます。けれど、体のつながった弟のドクちゃんの意識は、はっきりしたままでした。一つの体の上で、二つの命がまったく違う時間を生きている。その事実の重さは、ニュースを見ていた多くの人の胸に、言葉にならないまま残ったはずです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;日本赤十字社の支援で、二人は特別機で日本へ緊急搬送されます。海を越えて運ばれてくる小さな二人の容態を、日本中が固唾をのんで見守りました。そして六月十九日、東京の病院で手術が行われました。一命はとりとめたものの、ベトちゃんには重い後遺症が残りました。治療のなかで大脳が傷つき、外の世界を感じる力の多くを失ってしまったのです。二人はその後、ベトナムへ帰っていきました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして二年後の昭和六十三年（一九八八年）十月四日。ホーチミン市のツーズー病院で、ついに二人を分ける手術が行われます。前例のない手術を前に、医療チームは何度も議論を重ね、マネキン人形を使って手順をたしかめたといいます。七十人を超える医療スタッフ、日本赤十字社の医師の立ち会い。慎重に慎重を期した大手術は、成功しました。一つだった体が、二つになった。二人はそれぞれの人生を、別々の足で歩きはじめたのです。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;フジとサクラという名前&#34;&gt;フジとサクラ、という名前&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;それから、長い歳月が流れました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;兄のベトちゃんは、分離手術のあとも体調がすぐれず、平成十九年（二〇〇七年）、二十六歳でこの世を去りました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一方、弟のドクちゃんは生き抜きました。義足で歩く訓練を重ね、コンピュータを学び、やがてツーズー病院の職員として働くようになります。自分がかつて分けられた、あの病院で——です。結婚し、双子の子どもにも恵まれました。その二人の名前が、フジと、サクラ。富士山と、桜。自分を助けてくれた日本への感謝を、わが子の名前に込めたのだといいます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;富士山と桜。ドクさんは双子のわが子に「フジ」「サクラ」と名づけた。助けてくれた日本への感謝を込めて。（Photo: Midori / CC BY 3.0, via Wikimedia Commons）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/fuji-sakura.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;新型コロナが日本を襲ったとき、ドクさんは日本へマスクを贈りました。かつて助けられた側が、こんどは助ける側にまわっていた。令和になったいまも、ドクさんは枯葉剤被害に苦しむ人たちを支える活動を続けています。二〇二四年には、ドクさんと家族の日々を追ったドキュメンタリー映画『ドクちゃん フジとサクラにつなぐ愛』が、日本各地で公開されました。ベトナム戦争が終わって、五十年あまり。あの夏、テレビのこちら側で「がんばれ」と願っていた十七歳の私が見ていたものは、まだ終わってなどいなかったのだと、いまになって思います。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;帝国劇場で観たミスサイゴン&#34;&gt;帝国劇場で観た「ミス・サイゴン」&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ここで、個人的な記憶をもう一つ、書かせてください。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あのニュースから数年がたった平成四年（一九九二年）、私は東京・日比谷の帝国劇場へ、一本のミュージカルを観に行きました。『ミス・サイゴン』です。ベトナム戦争末期のサイゴンを舞台に、ベトナム人の少女キムと、アメリカ兵クリスの、引き裂かれていく恋を描いた物語。その背景にあるのは、まさに、あの戦争でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;東京・日比谷の帝国劇場（IMPERIAL THEATRE）。日本初演『ミス・サイゴン』で、本田美奈子さんがヒロイン・キムを演じた。（Photo: Syced / CC0）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/imperial-theatre-tokyo.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;東宝が制作した日本初演で、ヒロインのキム役を演じていたのが、本田美奈子さんでした。アイドルとして親しんできた彼女が舞台の上で歌い上げる代表曲「命をあげよう」は、一年半におよぶロングランの語り草となりました。本田さんは、のちに白血病で世を去ります。まだ三十八歳の若さでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;舞台を観て、私はこれが単なる恋愛や戦争の物語ではないと感じました。当時のベトナムの社会のありさまや、人々の暮らしまでもが、ひしひしと伝わってくる。戦争によって日常も将来も大きく変えられてしまうなかで、登場人物たちは家族を、愛を、大切な人を守るために、必死に生きている。その姿が、強く印象に残りました。とりわけ主人公たちの選択を通して、平和な環境は決して当たり前のものではないこと、そして生まれた国や時代によって人生が大きく左右されてしまう現実を、考えさせられたのです。本田美奈子さんの力強くも繊細な歌声が、その感情や葛藤を、いっそう深く届けてくれました。二十代前半だった私にとって、自分の将来や生き方を改めて見つめ直す、きっかけになった作品でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ニュースのなかで「不安」だったベトナムが、このときは、舞台の物語として、音楽とともに胸に流れ込んできた。いま思えばあの夜は、私とベトナムの距離が、ほんの少し縮まった夜だったのかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&#34;amz-box&#34;&gt;
  &lt;div class=&#34;amz-box-body&#34;&gt;
    &lt;div class=&#34;amz-box-title&#34;&gt;ミス・サイゴン 日本公演ハイライト盤&lt;/div&gt;&lt;div class=&#34;amz-box-note&#34;&gt;本田美奈子ほか／日本初演キャスト。あの「命をあげよう」を収録&lt;/div&gt;
    &lt;a class=&#34;amz-box-btn&#34; href=&#34;https://www.amazon.co.jp/dp/B00005GLED?tag=showa44man22-22&#34; target=&#34;_blank&#34; rel=&#34;nofollow sponsored noopener&#34;&gt;Amazonで見る ›&lt;/a&gt;
  &lt;/div&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;お向かいさんはベトナムの家族&#34;&gt;お向かいさんは、ベトナムの家族&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;いま、日本にはたくさんのベトナムの人が暮らすようになりました。ベトナム料理のお店も、あちこちで見かけます。そして——我が家のお向かいには、ベトナム人のご家族が住んでいます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;子ども同士が本当に仲良しで、いまは一緒に学童野球のチームに入って、同じユニフォームで白球を追いかけています。パパとママからは、ベトナムのことをいろいろ教えてもらいました。おかげで私にとってベトナムは、すっかり身近な存在になったのです。国が違っても関係なく、あっという間に仲良くなってしまう子どもたちを見ていると、なんだか「ほっこり」と、いい気分になります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;思えば、昭和六十一年のあの六月、東東京大会を前にした高校二年の私は、テレビの向こうのベトナムに、ただ「がんばれ」と願うことしかできませんでした。「ベトナム」と聞けば「戦争」が浮かび、胸が「不安」になった、あの遠い国。それが四十年の時を経て、いまは目の前で、子どもたちが同じグラウンドで野球を楽しむ国になっている。ドクさんがわが子に富士と桜の名を授けたように、国境というものは、もう子どもたちのあいだには無いのかもしれません。同じ「ベトナム」という言葉が、私のなかで「不安」から「ほっこり」へと、長い時間をかけて、ゆっくりと姿を変えていったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和の終わりに、テレビの向こうにあった「不安」が、令和のいま、すぐお向かいの「ほっこり」になっている。その長い距離を縮めたのは、二人を救おうとした人たちの手であり、そして何より、過去にとらわれることなく、あっさりと手をつないでしまう子どもたちの力なのだと思います。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;六月十九日。あなたは、ベトちゃんとドクちゃんのニュースを覚えているでしょうか。あのとき、テレビのこちら側で、何を思っていたでしょうか。よかったら、聞かせてください。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;このシリーズ「昭和の今日は何があった日？」では、昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線で振り返っています。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-18/&#34;&gt;6月18日 ── おにぎりの日に、千年の握り飯と母の手を思う&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-20/&#34;&gt;6月20日 ── テレビの「向こう側」だったNHKホールに、息子と立った日&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>6月18日 ── おにぎりの日に、千年の握り飯と母の手を思う</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-june-18/</link>
      <pubDate>Thu, 18 Jun 2026 06:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-june-18/</guid>
      <description>&lt;p&gt;六月の半ば、梅雨の重たい空をながめながら、ふと握り飯のことを考えました。きょう六月十八日は「おにぎりの日」。なんとも素朴で、いい響きの記念日です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;由来を調べてみると、これがなかなか面白いのです。石川県の旧鹿西（ろくせい）町——いまの中能登町——の「ろく」をとって、六月。そして毎月十八日は「米食の日」。「米」という字をばらすと「十」と「八」になるから、十八日。その二つを掛け合わせて、六月十八日。語呂合わせのようでいて、ちゃんと米への敬意がこもった日付なのですね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そしてこの記念日には、もう一つ、はるかな裏付けがあります。後でゆっくり書きますが、昭和の終わりに、この町から「日本でいちばん古いおにぎり」が出てきたのです。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;梅雨どきのお弁当の記憶&#34;&gt;梅雨どきの、お弁当の記憶&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;おにぎりと聞いて、私の胸にまず浮かぶのは、歴史でも記念日でもありません。母の手です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;学童野球、中学野球、高校野球と、私はずっと白球を追いかけてきました。だから母が握ってくれたおにぎりは、ごく当たり前に、いつもそこにある存在でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;和皿に並んだ三角むすび。海苔と塩と、握った手のあとがあれば、それだけでごちそうだった。（Photo: 些細な日常 / CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/onigiri-three.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;具には、ずいぶんわがままなリクエストをしたものです。鮭はもちろん定番。けれど私のいちばんのお気に入りは、なんと焼肉を入れてもらったおにぎりでした。玉子焼き、ウインナーソーセージなんてのも頼みました。母は「そんなの入れて、大丈夫なの？」と苦笑いしながら、それでも握ってくれたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうそう、白状すると——あの頃は素手でおにぎりを握るのが普通でした。いまの衛生観念からすれば、素手はちょっと考えられないかもしれませんね（笑）。だからでしょうか、母のおにぎりは平気なのに、父が握ったおにぎりは、なんとなく敬遠していました。ごめん、父さん（笑）。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの頃、おにぎりはごちそうではありませんでした。けれど、ただの白い飯でもなかった。きちんと手のひらで握られて、塩がきいて、海苔が巻かれている。それだけで、あれは「だれかが私のために用意してくれたもの」になっていたのだと思います。冷めても食べられて、こぼさず手で持てて、しかも腹にたまる。子どもにとって、これほど頼もしい食べ物もありませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;野球に明け暮れた中学・高校のころにも、おにぎりはいつもかたわらにありました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とりわけ高校のころは、朝、お弁当とは別に、おにぎりを四個ほど用意してもらっていました。朝練のある日はとにかく腹が空くのです。昼まではとても我慢できない。それで、授業の合間にそのおにぎりを頬張っていました。いまでいう「早弁」ですね。育ちざかりに部活が重なれば、おにぎりの四個くらい、あっという間でした。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;おにぎりは千年を超えて握られてきた&#34;&gt;おにぎりは、千年を超えて握られてきた&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;さて、ここからは少しだけ時間をさかのぼってみます。おにぎりという食べ物が、どれほど古くから私たちのそばにあったか。これがちょっと、気が遠くなる話なのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そもそも、米を握って食べるという習慣は、文字の記録にもずいぶん古くから残っています。奈良時代に各地で編まれた『風土記』には、握り飯を指すとされる「握飯（にぎりいい）」という言葉がすでに見えるのです。茶碗も箸もいらず、ただ手で握る。これほど原初的な食べ方が、千年以上ものあいだ受け継がれてきたのですね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いまのおにぎりの直接の祖先とされるのは、平安時代の「屯食（とんじき）」という食べ物です。蒸したもち米を、大きな楕円形に握り固めたもので、一合半ほどもあったといいます。宮中や貴族の屋敷で催しがあったとき、立ち働く人々に「ご苦労さま」と配られた——そんな食べ物だったと伝えられています。千年も前から、人は米を握って、誰かに手渡していたわけです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;握り飯が、もち米からいまのうるち米に替わっていくのは、鎌倉時代の末ごろ。やがて戦国の世になると、おにぎりは武士の兵糧として欠かせないものになりました。中に梅干しを入れたのは、味のためだけでなく、傷みを防ぐ知恵でもあったのでしょう。腰にぶら下げて戦場を駆ける、携帯食としてのおにぎり。皿もいらず、手も汚さず、握ればそのまま食べられる。戦に勝つも負けるも、まずは腹が満ちていなければ始まりません。握り飯は、いわば戦国の兵士たちの命綱でもあったのです。考えてみれば、ずいぶん完成された発明です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして江戸時代。米が安定して採れるようになると、おにぎりはようやく庶民のものになりました。畑仕事の合間に、旅の途中に、行楽の弁当に。さらに明治に入ると、握り飯は駅にも進出します。明治十八年（一八八五年）、栃木県の宇都宮駅で売り出されたとされる日本で最初の駅弁は、梅干し入りのおにぎり二つにたくあんを添え、竹の皮で包んだだけの、実に簡素なものだったそうです。汽車に揺られながら、竹の皮を開いておにぎりを頬張る。その情景を想像すると、なんだか旅に出たくなります。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;海苔を巻くという発明&#34;&gt;海苔を巻く、という発明&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;いまでこそ、おにぎりといえば黒い海苔が当たり前ですが、あれが広まったのは案外あとのことです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;四角い板状の海苔——いわゆる「浅草海苔」が江戸の市場に出回るようになったのは、元禄のころ。十七世紀の終わりです。一説には、これをきっかけに海苔を巻いたおにぎりが生まれたといわれています。もっとも、幕末に書かれた『守貞謾稿（もりさだまんこう）』という書物には海苔を巻くという記述が見当たらず、じつのところ諸説あるようです。それでも、パリッとした海苔と握りたての飯が出会ったことが、おにぎりをもう一段おいしくしたのは間違いありません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;パリッとした海苔が、握りたての飯と出会う。おにぎりをもう一段おいしくした発明。（Photo: tednmiki / CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/onigiri-nori.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ついでに、長年の素朴な疑問にも触れておきましょう。「おにぎり」と「おむすび」は違うのか。これも諸説ありますが、結局のところ同じものを指す、というのが今の共通の理解だそうです。形による呼び分け説、地域による違い説——いろいろ言われますが、要は呼び方の好みなのですね。三角の形が主流なのは、神さまの宿る山をかたどったから、という説まであるそうで、たかが握り飯と侮れません。そういえば「むすび」という言葉じたい、ものを生み出す力をあらわす古い言葉「産霊（むすひ）」に通じる、という話も聞いたことがあります。真偽はともかく、昔の人は握り飯に、ただの腹ごしらえ以上の何かを感じていたのかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ちなみに、家で握るおにぎりも、海苔ひとつで驚くほど変わります。有明海産の全型海苔は、香りもパリッと感も格別。握りたての飯に巻いた瞬間の、あのいい匂いは、安いだけの海苔ではなかなか出ません。我が家も、海苔だけは少しいいものを切らさないようにしています。&lt;/p&gt;
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    &lt;div class=&#34;amz-box-title&#34;&gt;マルサンのり 有明海産 焼き海苔 全型50枚&lt;/div&gt;&lt;div class=&#34;amz-box-note&#34;&gt;おにぎりにも手巻きにも。香りとパリッと感が違う有明海産&lt;/div&gt;
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  &lt;/div&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;弥生のおにぎりとコンビニのおにぎり&#34;&gt;弥生のおにぎりと、コンビニのおにぎり&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ここで、冒頭の「おにぎりの日」の由来に戻ります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和六十二年（一九八七年）、石川県の旧鹿西町・杉谷チャノバタケ遺跡の竪穴式住居跡から、黒い炭のかたまりが見つかりました。調べてみると、それは弥生時代中期——およそ二千年前——の、蒸して焼いた跡のある米のかたまり。「チマキ状炭化米塊」と名づけられた、日本でいちばん古いおにぎりの仲間でした。私が十八歳の年のことです。二千年前の誰かが握った米のかたまりが、令和のいまも記念日として残っている。気の遠くなるような話ですが、それだけ握り飯という営みが古くて、変わらないということなのでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして不思議なことに、その同じ昭和という時代に、おにぎりはまったく新しい姿でも私たちの前に現れました。コンビニのおにぎりです。昭和五十年代、セブン-イレブンが店先でおにぎりを売り始めると、やがて海苔とご飯を分けておき、食べる直前にパリッと巻ける包装の工夫まで生まれました。家で握るものだったおにぎりが、二十四時間いつでも買えるものになっていく。ツナマヨネーズという、それまでの常識になかった具が登場したのも昭和五十八年（一九八三年）のことだそうです。当時の私には、海苔がしんなりしない包装の仕掛けが、ちょっとした発明のように思えたものでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;「引く①②③」で海苔をパッと巻ける、あの三角パッケージ。家で握るものだったおにぎりが、いつでも買えるものになった。（Photo: Koffermejia / CC0）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/onigiri-conveni.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二千年前の弥生のおにぎりと、昭和の終わりのコンビニおにぎり。同じ六月十八日が、その両方を抱えている。これも、おにぎりという食べ物のふところの深さなのだと思います。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;令和の食卓で&#34;&gt;令和の食卓で&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;いま、おにぎりは「ONIGIRI」と書かれて、海の向こうでも人気だと聞きます。専門店には行列ができ、外国から来た人が嬉しそうに頬張っている。あの素朴な握り飯が、世界の食べ物になっていく。昭和の子どもだった私には、なんともこそばゆい光景です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでいて、おにぎりはいちばん大事なところで、ちっとも変わっていません。大きな地震や災害があるたびに、炊き出しのおにぎりが配られる。冷たい握り飯を両手で受け取って、ほっと息をつく。あの「だれかが私のために握ってくれた」という手のぬくもりは、千年前の屯食からまっすぐ、今日まで続いているのですね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、いま握る側になったのは、ほかでもない私自身です。父親になった私も、子どもたちのためにおにぎりを握ります。とくに週末は、それぞれが自分の野球に持っていくものですから、八個、十個と握ることになる。これがなかなかの重労働で——握りながら、ふと思うのです。あの朝、四個のおにぎりを当たり前のように用意してくれた母も、こうして黙々と手を動かしていたのだなと。「そんなの入れて大丈夫なの？」とこぼしながら焼肉を詰めてくれた、あの苦笑いの意味が、いまになって少しわかる気がするのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ついでに白状すると、私のような不器用な父親には、おにぎり型という強い味方があります。ご飯を詰めて、ギュッと押すだけ。形も大きさもそろうし、何より手が熱くない。週末に八個も十個も握るとなれば、これがあるだけで、ずいぶん楽になります。母の時代にこれがあったら、あの苦笑いも少しは減っていたかもしれません（笑）。&lt;/p&gt;
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    &lt;div class=&#34;amz-box-title&#34;&gt;おにぎりメーカー 三角 押し型（6個同時）&lt;/div&gt;&lt;div class=&#34;amz-box-note&#34;&gt;ご飯を詰めて押すだけ。大量に握る週末の強い味方&lt;/div&gt;
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  &lt;/div&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;あなたにとっての「忘れられないおにぎり」は、どんな一個でしょうか。母の手の梅干しか、遠足の日の鮭か、それとも部活の帰りに買ったコンビニの一個か。よかったら、コメントで聞かせてください。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;このシリーズ「昭和の今日は何があった日？」では、昭和四十年（一九六五年）から昭和六十四年（一九八九年）までの出来事を、当時を生きた子どもの目線でひとつずつ綴っています。あなたの思い出も、ぜひ聞かせてください。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-17/&#34;&gt;6月17日 ── 無敵のまま畳を降りた山下泰裕と、私が初めて応援した五輪の夏&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-19/&#34;&gt;6月19日 ── ベトちゃん・ドクちゃんが東京へ運ばれてきた夏、私は十七歳だった&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>6月17日 ── 無敵のまま畳を降りた山下泰裕と、私が初めて応援した五輪の夏</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-june-17/</link>
      <pubDate>Wed, 17 Jun 2026 06:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-june-17/</guid>
      <description>&lt;p&gt;六月十七日。梅雨の合間の、どんよりと重たい空を思い出します。昭和六十年（一九八五年）のこの日、一人の柔道家が現役引退を表明しました。山下泰裕さん。全日本選手権九連覇、ロサンゼルス五輪・無差別級の金メダリスト。そして、いまもって破られていない二〇三連勝という記録を抱えたままの、静かな引退でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、その話をする前に、どうしても先に書いておきたい夏があります。前の年、昭和五十九年（一九八四年）の夏。ロサンゼルス・オリンピックです。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;受験勉強のはずがテレビの前に座っていた&#34;&gt;受験勉強のはずが、テレビの前に座っていた&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;私にとってロス五輪は、物心がついて初めて、テレビ画面とはいえ自分の意思でしっかり「観て」「応援した」オリンピックでした。だからでしょうか、各競技での日本人選手の活躍は、いまでも驚くほどはっきりと記憶に残っています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当時の私は中学三年生、十五歳。夏の大会を最後に野球部はもう引退していて、本来なら高校受験に向けて、机にかじりついていなければならない時期でした。ところが、です。連日のオリンピック中継が気になって気になって、どうにも勉強が手につかない。「いまは観ている場合じゃない」と頭では分かっているのに、参考書を開いては、つい音のするほうへ、テレビの前へと吸い寄せられてしまう。外では蝉が鳴いていて、母が台所で立ち働く音がして、そのなかで私だけが、教科書ではなく遠いロサンゼルスとつながっている。受験生としては、いささか困った夏でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;沸き返る1984年ロサンゼルス五輪のメイン会場、ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム。満員のスタンドと、トラックを駆ける選手たち。（Photo: Ken Hackman, U.S. Air Force / パブリックドメイン）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/la-1984-olympics-track.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このロス五輪というのは、日本にとって少し特別な大会でもありました。その四年前、昭和五十五年のモスクワ大会には、日本は政治的な事情で参加できなかった。出場すらかなわなかった選手たちの悔し涙を、子どもながらにニュースで見ていた記憶があります。だからこそ、八年ぶりに堂々と世界の舞台に戻ってきたロス五輪は、見る側の私たちにとっても、どこか「待ちわびていた夏」だったのです。受験を控えた中学三年生の私でさえ、こうして机を離れて引きずり込まれてしまうほどに。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;ぴたりと止めた着地とあの笑顔&#34;&gt;ぴたりと止めた着地と、あの笑顔&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;なかでも忘れられないのが、体操の森末慎二さんです。種目別・鉄棒の決勝。最後の最後、二回宙返りで降りてきて、その着地をぴたりと止めた瞬間。そして、ゆっくりと、かみしめるように両手を上げていったときの、あの『笑顔』。子ども心にも、「完璧というのは、こういうことを言うんだ」と思いました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あとで知ったのですが、森末さんはこの鉄棒で十点満点をマークしていたのですね。一切の減点がない、まさにパーフェクトの演技。それをリアルタイムで観ていたのだと思うと、いまさらながら鳥肌が立ちます。森末さんはこの大会、鉄棒で金、跳馬で銀、団体で銅と、一つの大会で金銀銅すべてを持ち帰りました。けれど私の中に焼きついているのは、メダルの色よりも、あの着地と、あの笑顔のほうなのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;森末さんといえば、自分の名前がそのまま技の名前になっている、数少ない選手の一人でもあります。「モリスエ」と呼ばれるオリジナルの大技。世界のだれもやっていなかった動きを、自分の体で切りひらいて、自分の名を冠した技として残す。子どもだった私には、その意味の大きさまでは分かっていませんでしたが、「この人は、ただ上手なだけの人ではないんだ」ということだけは、なんとなく伝わってきていました。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;あの夏五輪の舞台に野球があった&#34;&gt;あの夏、五輪の舞台に野球があった&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;そして、野球です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ロス五輪では、野球が公開競技として行われていました。正式競技ではないけれど、この大会から各国の代表チーム同士が本気でぶつかり合う形になった。野球小僧だった私には、これがたまらなくうれしかったのを覚えています。自分が毎日ボールを追いかけているその競技が、世界の頂点を決める同じ舞台に並んでいる。それだけで、なんだか誇らしいような気持ちになったものです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;日本代表は、大学生と社会人の選手で編成されたアマチュアチームでした。プロは一人もいない。それでも勝ち上がり、決勝では開催国アメリカを六対三で破って優勝。公開競技ながら、オリンピック初代の野球王者になったのです。プロのスターではない、自分と地続きのように見えるお兄さんたちが、世界の頂点に立った。あの夏、私の中で野球とオリンピックが、初めて一本の線でつながった気がしました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いま思えば、あの夏の私は、ただ漫然とテレビを観ていたのではなかったのかもしれません。つい数か月前まで、来る日も来る日も土埃の舞うグラウンドで白球を追いかけ、思うようにいかずに悔し涙をのみ、それでも翌朝にはまたバットを握っていた。その日々の、地続きの延長線上に、画面の向こうの選手たちがいたのです。同じように汗をかき、同じように歯を食いしばってきた人たちが、世界のいちばん高いところで、笑ったり、足を引きずったりしている。だからこそ、どうしても人ごとには思えなかった。応援というより、ほとんど自分のことのように観ていた。それが、あの夏のオリンピックだったように思います。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;勝って当たり前を背負った人&#34;&gt;「勝って当たり前」を背負った人&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;そして、山下泰裕さんです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いまの若い人には少し想像しにくいかもしれませんが、当時の日本の柔道には「勝って当たり前」という独特の空気がありました。とりわけ山下さんのような絶対王者には、銀でも銅でもなく、金メダルしか許されない。そういう途方もないプレッシャーが、目に見えない重しのようにのしかかっていたはずなのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;山下泰裕さん。全日本選手権9連覇、ロス五輪無差別級金メダル、そして203連勝。（Photo: ロシア大統領府 / CC BY 4.0, via Wikimedia Commons）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/yamashita-yasuhiro.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ロス五輪の無差別級。山下さんは二回戦で、右足のふくらはぎを痛めてしまいます。肉離れでした。足を引きずりながら畳に上がっていく王者の姿に、テレビの前の私は思わず息をのみました。あの強い山下さんが、まともに歩けていない。それでも山下さんは勝ち進み、決勝もきっちり制して、金メダルをもぎ取った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの瞬間、私はテレビ画面に向かって、歓喜の絶叫をあげていました。誰に聞かせるでもなく、一人で、本当に大きな声で叫んだのを覚えています。「勝って当たり前」を、怪我を負ってなお本当に勝ち切ってしまう人がいる。十五歳の私には、それが人間業とは思えない、途方もないことに見えました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただ、その本当の凄みを思い知ったのは、ずっと後年のことでした。大人になってから、私自身がふくらはぎを肉離れしたことがあります。そのとき、いやというほど分かったのです。肉離れというのは、満足に歩くことすらできない。一歩ごとに痛みが走って、足を引きずるのがやっと。スポーツをするなど、とんでもない話です。その状態で――しかも世界じゅうが見つめる五輪の決勝の舞台で――山下さんは相手を投げ、勝ち切ったのか、と。十五歳の夏にテレビの前で叫んだあの感動が、何十年もたって、今度は自分の足の痛みを通して、まったく違う重みでよみがえってきました。あのとき私が叫んでいたものの大きさを、本当の意味で理解できたのは、皮肉にも自分が同じ場所を痛めたときだったのです。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;そして一年後無敵のまま畳を降りた&#34;&gt;そして一年後、無敵のまま畳を降りた&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;その山下さんが、翌・昭和六十年六月十七日――あの夏に勉強そっちのけでテレビにかじりついた私が、どうにか高校に進んで一年生になっていた、その年の初夏に――記者会見で引退を表明します。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;全日本選手権は昭和五十二年から九連覇。世界選手権でも計四度、頂点に立ちました。そしてロス五輪の金メダル。引退から逆算して、その連勝記録は二〇三。負けないまま、誰にも倒されないまま、自分の意思で静かに畳を降りていったのです。前の年には国民栄誉賞も受けていました。アマチュアのスポーツ選手としては、初めての受賞だったと記憶しています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「勝って当たり前」という重圧を、最後の最後まで背負い、そして実際に勝ち続けた人。その人が、傷を負ってもなお負けず、絶頂のまま身を引いていく。あの夏の絶叫とは、また違う種類の余韻が、私の胸の中に残りました。強い人が、強いまま去っていく。それはどこか、潔さとさみしさが半分ずつ混じったような、不思議な感覚でした。負けて去るのではなく、勝ったまま終わる。子どもだった私には、その引き際の美しさの意味が、まだ半分も分かっていなかったのだと思います。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;ロス五輪がまた帰ってくる&#34;&gt;ロス五輪が、また帰ってくる&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;時は流れて、令和です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あのとき足を引きずりながら金メダルを取った山下さんは、のちに日本オリンピック委員会（JOC）の会長を務めるまでになりました。畳の上のたった一人の王者が、やがて日本のスポーツ全体を背負う立場になっていったわけです。あの夏に絶叫していた少年からすれば、なんとも感慨深い話です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;1984年ロス五輪開会式のロサンゼルス・コロシアム。聖火台と五輪マーク、そしてあの大会ロゴ。44年後、2028年にロサンゼルスへ五輪が帰ってくる。（Photo: U.S. Air Force / パブリックドメイン）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/la-coliseum-torch.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、もう一つ。私が生まれて初めて本気で応援した、あのロサンゼルスという街が、二〇二八年、ふたたびオリンピックの開催地になります。じつに四十四年ぶりのロス五輪です。あの夏、テレビの前で絶叫していた十五歳の少年は、その二〇二八年には五十九歳――六十歳を目前にした年齢になっています。子どもたちも、それぞれの道を歩き始めました。それでも、「ロサンゼルス」という地名を耳にすると、私はいまでも真っ先に、森末さんのあの笑顔と、山下さんの金メダルの瞬間を思い出すのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二〇二八年の夏、私はまた、テレビの前で誰かを本気で応援しているでしょうか。きっと、しているのだと思います。あの夏に教わった「観て、応援する」という幸せは、四十年あまりたっても、ちっとも色あせていないのですから。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;あなたが、生まれて初めて自分の意思で「観て」「応援した」オリンピックは、どの大会でしたか。テレビの前で思わず叫んでしまった、あの瞬間の記憶があれば、ぜひ聞かせてください。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;このブログ「昭和の今日は何があった日？」では、昭和四十年から六十四年（一九六五〜一九八九年）の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/invader-son-masayoshi/&#34;&gt;【番外編】インベーダーゲームと孫正義 ── ブームが冷めた中古機を、太平洋の向こうで宝に変えた青年&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-18/&#34;&gt;6月18日 ── おにぎりの日に、千年の握り飯と母の手を思う&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>【番外編】インベーダーゲームと孫正義 ── ブームが冷めた中古機を、太平洋の向こうで宝に変えた青年</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/invader-son-masayoshi/</link>
      <pubDate>Tue, 16 Jun 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/invader-son-masayoshi/</guid>
      <description>&lt;p&gt;六月十六日の本編では、私たちの子ども時代をまるごと呑み込んでいった、あのインベーダーゲームそのものの話をしました。きょうはその番外編です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;同じインベーダーの話なのに、舞台がまるで違います。日本の喫茶店ではありません。太平洋を渡った先、アメリカ・カリフォルニア。そして主役は、いまをときめく、あの経営者――ソフトバンクの孫正義さんです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本編でもお話ししたとおり、昭和五十三年（一九七八年）にタイトーが世に出した「スペースインベーダー」は、あっという間に日本中を呑み込みました。喫茶店のテーブルは次々とゲーム機の筐体に置き換わり、店に入ればコーヒーよりも先に、あの迫ってくる電子音が耳に飛び込んでくる。ゲーム機ばかりを並べた「インベーダーハウス」という専門店まで生まれ、子どもたちは攻略法を競い合い、大人はネクタイ姿のままテーブルに肘をついて画面をにらんでいました。あんまり百円玉が吸い込まれていくものだから、世の中で百円玉が足りなくなった、なんて話まで囁かれたほどです。子どもも大人も、テーブルの上に百円玉を積み上げて、画面の中の侵略者を撃ち落とすことに夢中になっていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はそのとき九歳。葛飾の子どもにとっても、あの「ピポピポ」と降りてくる音は、どこか特別な響きを持っていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;正直に打ち明けると、私自身は、あのブームのど真ん中で百円玉を積み上げていた口ではありません。当時は野球に明け暮れる九歳。インベーダーは、もっぱら「横目で見ていた」遊びでした。喫茶店のテーブル型の台を、ガラス越しにちらりと覗く。近所の上級生の百円玉が、次から次へと機械に吸い込まれていくのを、後ろから眺める。撃つよりも、見ていた。そんな野球少年でした。それでも、あの一歩ずつ迫ってくる電子音だけは、なぜか今でも耳の奥にはっきりと残っています。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;ブームが冷めたころ海の向こうの留学生&#34;&gt;ブームが冷めたころ、海の向こうの留学生&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;さて、ここからが本題です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あれほどの熱狂も、永遠には続きませんでした。爆発的に燃え上がったぶん、火が消えるのも早かった。一年半ほどで人々はあっさり飽きて、あれだけ高値で取引されていた筐体が、こんどは引き取り手もなく倉庫に山積みになっていきました。誰の目にも「もう終わったもの」でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ところが、その「終わったもの」を、まるで違う目で見ていた人がいた。冒頭でふれた孫正義さん、その人です。当時まだ二十歳そこそこ。カリフォルニア大学バークレー校で経済学を学ぶ、卒業前の、れっきとした「学生」の身分でした。彼は渡米まもないころから、語学学校の教師に「将来はビデオゲームを使った商売をやりたい」と語っていたといいます。漠然とした夢ではなく、すでに頭の中で算盤をはじいていたのでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;孫正義さん。ソフトバンクグループ創業者。20代の留学時代、ブームの去ったインベーダーに商機を見抜いた。（Photo: © European Union, 2025 - EC Audiovisual Service / CC BY 4.0, via Wikimedia Commons）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/masayoshi-son.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その学生が、こう考えた。──日本でブームが終わったインベーダーの機械は、いまや余って、安く手に入る。けれどアメリカでは、まだこれからだ、と。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いまでこそ「輸入して転売」と聞けば誰でも思いつく発想かもしれません。けれど一九七〇年代に、留学先の異国でそれを実際にやってのけた二十歳の学生がいた、というのは、やはり並のことではありません。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;太平洋を越えた中古のインベーダー&#34;&gt;太平洋を越えた、中古のインベーダー&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;孫さんは、日本で売れ残った機械を安く仕入れました。一台百万円もした筐体を、捨て値同然で買い集めたといいます。そしてそれを、船ではなく飛行機で空輸した。船便ならずっと安く済むところを、あえて高い空輸を選んだ。アメリカでブームに火がつく前に、先回りして置いてしまいたかったからです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;アメリカ版『スペースインベーダー』（Midway製）。日本でブームが去った機械が、太平洋の向こうで新たな宝になった。（Photo: Jordiferrer / CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/space-invaders-midway-us.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;置き場所に選んだのは、若者でにぎわう店でした。日本でいう喫茶店――とは少し違って、アメリカではアイスクリーム店や、ステーキレストランの待合室。順番を待つあいだ、退屈した客が二十五セント硬貨を放り込む。売上を店と分ける、いまでいう歩合の仕組みです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もっとも、はじめから歓迎されたわけではありません。「うちにゲーム機なんか置いたら、店の雰囲気が壊れる」と渋る店主も少なくなかった。孫さんはそれを、一軒一軒、直談判で口説き落としていったといいます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、こんな話が伝わっています。設置したばかりの機械が動かない、と連絡を受けて駆けつけてみると、機械は壊れてなどいなかった。コインボックスに二十五セント硬貨が入りすぎて、あふれて、それで止まっていたのです。まわりに集まった客たちは、腹を抱えて笑っていたといいます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;結果、半年ほどで設置台数はおよそ三百五十台にまで広がり、利益は一億円を超えたと伝えられています。さらに孫さんは、キャンパス近くのゲームセンターまで一軒、銀行から借金をして買い取りました。そこに毎日の売上を細かく見る「日次決算」を持ち込み、機械一台ごとに、置いてから何日で元が取れるかまで見極めた。働く人の見極めも徹底していて、まずは広く雇い入れ、本当に働く者だけを残していったといいます。そうして、わずか一か月で売上を三倍にしてみせた。学生が片手間にやった商売、という規模では、もうありません。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;事実関係を少し整理しておきます&#34;&gt;事実関係を、少し整理しておきます&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;この逸話、語り手によって数字がまちまちです。「五万円で十台」と書くものもあれば「五万円で二十台」とするものもある。空輸代が一台七万円だった、という具体的な話も出てきます。細かい数字は伝聞で揺れているので、ここでは「ブームの去った中古機を安く仕入れ、空輸し、歩合で置いて、数か月で一億円規模を稼いだ」という骨格だけを、確かなものとして受け取っておくのがよさそうです。世に出ている記述の多くは、孫さんの評伝（大下英治氏による一連の著作）にたどりつきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このあたりの留学時代と起業の物語を、もっとじっくり読んでみたい方には、この一冊を。何も持たない若者が、自分を信じて海を渡っていく――冒険小説のような面白さがあります。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&#34;amz-box&#34;&gt;
  &lt;div class=&#34;amz-box-body&#34;&gt;
    &lt;div class=&#34;amz-box-title&#34;&gt;孫正義 起業の若き獅子&lt;/div&gt;&lt;div class=&#34;amz-box-note&#34;&gt;大下英治／講談社。インベーダー留学時代から起業までを描いた評伝&lt;/div&gt;
    &lt;a class=&#34;amz-box-btn&#34; href=&#34;https://www.amazon.co.jp/dp/4062087189?tag=showa44man22-22&#34; target=&#34;_blank&#34; rel=&#34;nofollow sponsored noopener&#34;&gt;Amazonで見る ›&lt;/a&gt;
  &lt;/div&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;p&gt;もうひとつ、混同されやすい点を。孫さんはこの時期、バークレーの先生たちと組んで音声付きの翻訳機を開発し、その権利をシャープに売って、やはり一億円ほどを手にしています。インベーダーの話とこの翻訳機の話は、しばしば一つに混ぜて語られますが、本来は同じ留学時代の、別々の商売です。「翻訳機で得た金を元手にゲーム機を輸入した」と書かれることもあれば、ゲーム機の商売そのものが大きな利益を生んだ、と語られることもある。どちらが先で、どちらがどちらの元手か――そこは諸説あって、はっきり一本の線では結べません。確かなのは、二十歳そこそこの留学生が、ほぼ同じ時期に、二つの商売でそれぞれ一億円規模の話を作っていた、という事実のほうです。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;そして青年は日本へ帰る&#34;&gt;そして青年は、日本へ帰る&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;アメリカでひととおりの成功を収めた孫さんは、やがて大学を卒業し、日本へ帰ってきます。そして昭和五十六年（一九八一年）九月、二十四歳のとき、福岡の地で、パソコン向けソフトの卸売を手がける「日本ソフトバンク」を起こしました。社員はわずか数人。世間がまだ「ソフトウェア」という言葉すらほとんど知らない時代の、ささやかな船出でした。けれど、ブームの去ったインベーダーの中に値打ちを見抜いたあの目は、こんどはパソコンという、これから来るものの中に未来を見ていた。仕入れて、運んで、置いて、回収して――留学時代に体ひとつで覚えた商売の型は、形を変えて、そのまま受け継がれていったように思えます。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;令和のいまあらためて思うこと&#34;&gt;令和のいま、あらためて思うこと&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;葛飾の喫茶店のテーブルで、私たちが百円玉を積み上げて遊んでいたそのゲームを、同じころ、海の向こうの二十歳の青年は「商売の種」として見ていた。同じインベーダーを、こちらは遊び、あちらは商いにしていた。こちらの百円玉と、あちらの二十五セント硬貨。同じ機械が、太平洋をはさんで、まったく違う意味を持っていた。その視点の違いを思うと、なんとも不思議な気持ちになります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかも彼が目をつけたのは、ブームの真っ盛りではなく、熱が冷めて誰もが見向きしなくなった「残り物」のほうでした。みんなが飽きて手放した機械の中に、まだ値打ちが残っている――そう見抜く目こそが、のちのソフトバンクの、あの次々と大きな賭けに出ていく経営の、いちばん最初の芽だったのかもしれません。いまや人工知能だ、巨大ファンドだと、桁の違う話ばかりが聞こえてきますが、その出発点が、私たちの子ども時代をにぎわせた、あの電子音の機械だったというのは――昭和を生きた身には、どこか痛快な話です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私たちが夢中で侵略者を撃っていたあのテーブルは、誰かにとっては、未来を撃ち出す発射台だったわけです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その発射台は、いまどこまで飛んだのか。つい先日、令和八年（二〇二六年）六月一日のことです。孫さんが率いるソフトバンクグループの時価総額が、ついにトヨタ自動車を抜いて、国内企業の首位に立ちました。トヨタが時価総額のトップを明け渡すのは、実に二十二年半ぶり。「日本一の会社といえばトヨタ」というのが長らく私たちの常識でしたから、たとえ一時的にせよ、これは大きなニュースになりました。生成AIや半導体への巨額投資が市場の期待を集めての逆転で、その時価総額は一時、四十八兆円、四十九兆円という途方もない額に達したといいます。ブームの去った中古のインベーダーを抱えて太平洋を渡った青年が、半世紀ののちに、自動車王国の頂をひっくり返した――こうして並べてみると、やはり出来すぎた物語のように思えてきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;孫さんは「三百年続く企業をつくる」といった、気の遠くなるような話を平気で口にする人です。その三百年の、いちばん最初の一歩が、私たちと同じ昭和の電子音から始まっていた。雲の上の大富豪の物語かと思いきや、出発点には、私たちの記憶と地続きの、あの懐かしい筐体が立っている。そう思うと、遠い話が急に身近に感じられて、なんだか可笑しくも、頼もしくもあるのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;みなさんは、インベーダーゲームに、どんな思い出をお持ちでしょうか。喫茶店の台、ゲームセンター、それとも友だちの家。よかったら、聞かせてください。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;この記事は「昭和の今日は何があった日？」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
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    </item>
    <item>
      <title>6月16日 ── 上級生の背中越しに、私はインベーダーを見ていた</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-june-16/</link>
      <pubDate>Tue, 16 Jun 2026 06:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-june-16/</guid>
      <description>&lt;p&gt;六月十六日。梅雨のただ中、長靴と傘がランドセルの相棒になる季節です。カレンダーの記念日欄を見ると、きょうは「和菓子の日」。そしてもうひとつ、私たちの世代にとっては見逃せない記念日が、そっと並んでいます——「スペースインベーダーの日」です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和五十三年（一九七八年）の六月十六日、当時のタイトー本社ビルで、一台のテレビゲームの新作発表会が開かれました。その名は『スペースインベーダー』。開発したのは西角友宏さんという技術者です。画面の上から迫りくる宇宙人を、自分の操るビーム砲で迎え撃つ——いまでは当たり前の「自分で撃ち返せる」という双方向のおもしろさを、世に知らしめた一台でした。同年七月ごろから全国へ出荷されると、それはもう、文字どおり日本中を侵略していきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きょうは、その「侵略」を、いちばん下っ端の小学生として迎え撃った——いや、迎え撃てずに、ただ眺めていた私の話です。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;イトーヨーカドーの踊り場の一台&#34;&gt;イトーヨーカドーの、踊り場の一台&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;記憶を掘り起こしてみます。私とインベーダーの最初の出会いは、よく語られる喫茶店のテーブル型の筐体ではありませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イトーヨーカドーの、一階と二階をつなぐ階段。その中間にある踊り場に、立ったままプレーするタイプの大きな筐体が、ぽつんと一台、置かれていたのです。ブラウン管を上から覗き込む、背の高い箱型のやつです。喫茶店のテーブルに埋め込まれた、あの寝そべったような筐体を知ったのは、ずっとあとのことでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;上から覗き込む、立ち型のインベーダー筐体。画面には五列に並んだ宇宙人と、こちらのビーム砲。（Photo: Scalleja / CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/space-invaders-cabinet2.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当時の私は小学三年生。正直に白状すると、一ゲームいくら、というあの金額は、三年生の小遣いではそうそう出せるものではありませんでした。けれど、興味のほうはバリバリにあったのです。だから私はどうしたか。プレーしている上級生のすぐ後ろに陣取って、画面を食い入るように見ていました。自分の百円玉ではない、誰かの一機が右へ左へ動くのを、まるで自分が動かしているような顔をして、ただ見ていたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの、ズン、ズン、ズン、ズン……と地鳴りのように響く、インベーダーが一歩ずつ近づいてくる音。敵の数が減るほどにテンポが速くなって、こちらの鼓動まで一緒に速くなっていく、あの独特の音。五列に並んだ五十五匹の宇宙人と、ときおり画面の上をすーっと横切る赤い円盤（あれを撃ち落とすと点が高いのだと、上級生が教えてくれました）。踊り場の薄明かりの中でぼうっと光るその画面を、私はいったい何度、よそのお兄さんの肩越しに見上げたことでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いま思えば、おかしな話です。そもそもイトーヨーカドーというのは、当時の私たちにとって、子どもだけで出入りしてはいけないことになっている場所でした。それなのに、私はちゃっかり行っちゃっているわけです。そして、後ろから覗かせてもらっていた上級生たち——彼らだって、しょせんは小学生です。それが何回も、何回も百円玉を投入していく。あの軍資金は、いったいどこから出ていたのか。当時は「すごいなあ」と思って見ていましたが、いざ自分が親の立場になって考えてみると、よくもまあ、と苦笑いするしかありません。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;百円玉が日本から消えた夏&#34;&gt;百円玉が、日本から消えた夏&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;私が踊り場で指をくわえて見ていたころ、世の中では、とんでもないことが起きていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それまでのテレビゲームといえば、画面の壁をボールで崩していく『ブロック崩し』のようなものが主流でした。ところがインベーダーは、向こうから攻めてくる。こちらが撃つ。撃ち返される。やられる——。腕を上げれば上げるほど長く生き延びられて、もっとやりたくなる。この「上達していく手応え」と「迎え撃つ緊張感」こそが、それまでのゲームにはなかった魔力でした。喫茶店でコーヒー一杯の値段で何十分も粘る大人が続出し、社会問題のように語られたほどです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『スペースインベーダー』の人気は、喫茶店にテーブル型の筐体を持ち込ませ、やがてゲーム機ばかりを並べた「ゲーム喫茶」や、店員すらいない二十四時間営業の「インベーダーハウス」まで生み出していきます。コーヒーを飲む店だったはずの喫茶店が、いつのまにかテーブルという卓上が光る箱に置き換わっている。そんな光景が、日本中に広がっていきました。「インベーダー」は、その年の流行語になりました。なかでも語り草になっているのが、百円玉の話です。あまりに多くの百円玉がゲーム機の中に吸い込まれていったため、世間で百円硬貨が足りなくなり、日本銀行がふだんの三倍ほどの量を世に送り出した——そんな記事が新聞に載るほどだったといいます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;喫茶店のテーブル型筐体。コーヒー一杯で何十分も粘る大人が続出した、あの「ゲーム喫茶」の風景。（Photo: Tomomarusan / CC BY 2.5, via Wikimedia Commons）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/space-invaders-cabinet.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな熱狂のなかで、高得点を狙うつわものたちが編み出したのが、攻略法の元祖とも呼ばれる「名古屋撃ち」でした。インベーダーが最下段の一歩手前まで攻め込んでくると、なぜか敵の弾が自分のビーム砲をすり抜けて当たらない——もとはゲームの不具合（バグ）だったその仕様を逆手に取り、ぎりぎりまで引きつけて撃ちまくる、という技です。名前の由来は「名古屋で広まったから」とも、「あと一段で〝終わり〟、それと〝尾張（名古屋）〟をかけた」とも言われますが、本当のところは、いまもって誰も知らないのだそうです。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;三十円十円ようやく私の番が来た&#34;&gt;三十円、十円。ようやく私の番が来た&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;さて、踊り場で見ているだけだった私にも、ちゃんと順番が回ってくる日が来ます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;世の中に次々と新しいゲームが登場すると、インベーダーは少しずつ「古いゲーム」になっていきました。すると、あれほど強気だったプレー代が、一気に下がりはじめるのです。五十円、三十円、そしてついには十円なんていう値札まで現れました。そうした型落ちの筐体を、倉庫のような建物に所狭しと並べた——いわゆる倉庫型のゲームセンターが、あちこちにできました。薄暗くて、どこか秘密基地めいていて、子どもにはほんの少しだけ背伸びが必要な場所。それでも十円玉一枚で遊べるとなれば、私たちにとっては立派な天国でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そこで、ようやく私にも、遊ぶことができるようになったのです。十円玉を握りしめて。あの踊り場の上級生たちが百円玉を惜しげもなく入れていた、その同じゲームを、私は数年遅れの十円で、心ゆくまで撃ちました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、後ろから見て覚えた攻略法も、ここぞとばかりに使いました。敵が最下段の一歩手前まで降りてきたところを、端から順に狙い撃つ「名古屋撃ち」。そしてもうひとつ、群れの真ん中の列を一気に撃ち抜く技——私たちの界隈では、これを「新宿撃ち」と呼んでいました。ところがあとで知ったのですが、同じこの技、地域によっては「京都撃ち」とも「中央突破」とも呼ばれていたそうです。携帯電話もインターネットもない時代、攻略法は友だちから友だちへと口づてに伝わり、その途中で、町ごとに勝手な名前がついていったのです。同じ撃ち方なのに、隣の町では別の名前で呼ばれている。いま思えば、それもまた、ずいぶんのんびりとした、いい時代の話です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;背伸びして眺めていた憧れに、自分の指で、やっと追いついた瞬間でした。数年越しの片想いが、十円玉一枚でようやく実った——そんな気分だったように思います。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;令和の子どもは見ているだけの時間を知らない&#34;&gt;令和の子どもは、「見ているだけの時間」を知らない&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;時代は変わりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いまの子どもたちは、ゲームをするのに、お金を握りしめて家を出る必要がありません。スマートフォンの中に、家庭用ゲーム機の中に、無数のゲームが入っていて、その多くは、始めるだけならお金もかからない。上級生の背中越しに覗き込む必要も、十円玉が貯まるのを待つ必要も、ないのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それは間違いなく、豊かで、いい時代です。私だって、もし子どもの頃にそんな環境があったら、諸手を挙げて喜んだことでしょう。けれど、と私はつい思ってしまうのです。あの、一ゲームが出せなくて、ただ見ていた時間。誰かのプレーを食い入るように見つめて、技を盗んで、いつか自分も、と焦がれていたあの時間。あれはあれで、悪くないものだったな、と。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;欲しいものがすぐ手に入らない。だから、よその上級生の背中越しに憧れ、十円玉が貯まるのをじりじりと待つ。手が届かないからこそ、あの踊り場の小さな画面の光は、あんなにもまぶしく見えたのかもしれません。いまの子どもたちには、あの「待っているあいだの時間」だけは、もう手に入らない宝物なのかもしれない——そんなことを、つい考えてしまうのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;現に、わが家でもゲームに夢中になっている子どもを見て、私はつい「ゲームばっかりやって……」と、口では文句を言ってしまいます。ところが内心はどうかというと、「わかるわかる」と全力でうなずいている自分がいる。それどころか、母親が渋い顔で様子をうかがっているのに気づくと、心の中でこっそり「おい、ママの目があるんだから、もっと上手くやれ」と、すっかり子どもの肩を持っている始末です。叱る側に回ったはずなのに、気持ちのほうは、あの踊り場で背伸びをしていた頃から一歩も動いていない。我ながら、おかしくなってしまいます（笑）。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;考えてみれば、子どもだけで入ってはいけないイトーヨーカドーに、ちゃっかり忍び込んでいたのも私でした。親の目を盗んで何かに夢中になる——それはどうやら、いつの時代も変わらない、子どもの特権のようです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そういえば、あの「名古屋撃ち」を含む歴代のスペースインベーダーは、いまではNintendo Switchで、いつでも好きなだけ遊べます。十円玉も、上級生の背中も、もう要りません。あの頃の自分に教えてやったら、目を丸くするでしょうね。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&#34;amz-box&#34;&gt;
  &lt;div class=&#34;amz-box-body&#34;&gt;
    &lt;div class=&#34;amz-box-title&#34;&gt;スペースインベーダー インヴィンシブルコレクション - Switch&lt;/div&gt;&lt;div class=&#34;amz-box-note&#34;&gt;タイトー／1978年のオリジナルから歴代作品まで収録&lt;/div&gt;
    &lt;a class=&#34;amz-box-btn&#34; href=&#34;https://www.amazon.co.jp/dp/B07V3PHCYC?tag=showa44man22-22&#34; target=&#34;_blank&#34; rel=&#34;nofollow sponsored noopener&#34;&gt;Amazonで見る ›&lt;/a&gt;
  &lt;/div&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;あなたが初めてインベーダーに出会ったのは、どこの台でしたか。喫茶店のテーブルでしたか、駄菓子屋の店先でしたか、それとも私のように、デパートの踊り場あたりでしたか。一ゲーム、いくらでしたか。よかったら、あなたの「最初の一台」の思い出も、聞かせてください。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;この「昭和の今日は何があった日？」シリーズでは、昭和四十年から六十四年までの出来事を、当時子どもだった私の目線で綴っています。同じ時代を生きた方の「あの頃」の思い出やコメントも、ぜひお待ちしています。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-15/&#34;&gt;6月15日 ── 高校球児だった私の知らないところで、ジブリが産声を上げていた&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/invader-son-masayoshi/&#34;&gt;【番外編】インベーダーゲームと孫正義 ── ブームが冷めた中古機を、太平洋の向こうで宝に変えた青年&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>6月15日 ── 高校球児だった私の知らないところで、ジブリが産声を上げていた</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-june-15/</link>
      <pubDate>Mon, 15 Jun 2026 06:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-june-15/</guid>
      <description>&lt;p&gt;六月十五日。梅雨の晴れ間の、湿った緑の匂いがする季節です。きょうは何の日かと調べてみて、思わず手が止まりました。昭和六十年（一九八五年）のこの日、東京・吉祥寺の小さな貸しビルの一室で、株式会社スタジオジブリが設立されたのだそうです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;トトロの、魔女の宅急便の、あのジブリです。いまや日本中の、いや世界中の子どもたちが知っているあの名前が、産声を上げたのが四十一年前のきょう。そして当時十六歳、高校一年生だった私は、そんなことが起きていたとは、まったく知りませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;昭和六十年六月十六歳の私&#34;&gt;昭和六十年六月、十六歳の私&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;昭和六十年の六月といえば、私は高校に入学して二か月あまり。野球部の一年生です。朝練に始まり、授業中は眠気と戦い、放課後は日が暮れるまで白球を追いかけ、玉のような汗をかいて家に帰る。そんな毎日でした。夏の大会を前に、先輩たちの空気がぴりぴりと張り詰めていく、ちょうどそんな頃です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから正直に白状すると、この日の私の記憶に「ジブリ」の文字はかけらもありません。それもそのはずで、当時はまだ世の中の誰も、その名前を知らなかったのです。第一作の公開は翌年のこと。設立の日のジブリは、看板も実績もない、生まれたての小さな会社にすぎませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それに正直なところ、高校生になった私が映画館でお金を払って観ていたのは、ジブリのような作品ではありませんでした。『ビー・バップ・ハイスクール』に『スケバン刑事』。つまり、ばりばりのツッパリ青春もののほうです（笑）。ヒロシとトオルの喧嘩に痺れ、スケバンのアクションに見入る。野球部帰りの十六、七歳の私には、腐海や王蟲の壮大な世界より、不良少年たちのどたばたのほうが、よほど自分たちの放課後に近く感じられたのです。だから設立されたばかりのジブリのことなど、当時の私の視界には、これっぽっちも入っていませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;でも私たちはとっくに出会っていた&#34;&gt;でも、私たちはとっくに出会っていた&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ジブリという名前は知らなくても、実は私たちの世代は、その作り手たちの作品の中で育っていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;スタジオの中心となる宮崎駿と高畑勲。この二人は、ジブリ設立のずっと前から、テレビの中にいたのです。昭和四十九年、私が五歳のときに放送された『アルプスの少女ハイジ』。あの作品の演出が高畑勲で、画面構成として支えていたのが宮崎駿でした。昭和五十三年、小学三年生のときにNHKで放送された『未来少年コナン』は宮崎駿の初監督作。そして昭和五十四年公開の『ルパン三世 カリオストロの城』も、宮崎駿の映画初監督作品です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;つまり、夕方のテレビの前に座っていた昭和の子どもたちは、誰に教わるでもなく、のちのジブリの味を舌で覚えていたわけです。ハイジがブランコのように大きく揺れるあのオープニング。コナンが足の指で塔の壁にぶら下がる、あのありえないけれど信じてしまう動き。あれが全部、同じ人たちの手から生まれていたのだと知るのは、私の場合、ずいぶん大人になってからのことでした。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;吉祥寺のワンフロアから始まった&#34;&gt;吉祥寺のワンフロアから始まった&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;スタジオジブリ誕生の直接のきっかけは、昭和五十九年三月に公開された『風の谷のナウシカ』でした。私が中学三年に上がる、ちょうどその春のことです。腐海と王蟲の世界を描いたあの映画が大きな評判を呼び、これを受けて出版社の徳間書店が出資し、制作会社トップクラフトを母体とする新しいスタジオが作られた。それが昭和六十年六月十五日のことです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ですから厳密にいうと、『風の谷のナウシカ』はジブリ設立より前の作品で、ジブリ製ではありません。けれど再放送のときには冒頭にジブリのロゴが付きますし、公式の歴史でも事実上の第一作のように扱われています。会社よりも先に、作品のほうが生まれていた。ジブリとは、そういう順序で始まったスタジオなのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ジブリ」という名前は、サハラ砂漠に吹く熱風のことで、第二次大戦中のイタリアの偵察機の名前でもあったそうです。命名したのは、無類の飛行機好きで知られる宮崎駿。「日本のアニメーション界に熱風を巻き起こそう」という思いを込めたといいます。ちなみに本来の発音は「ギブリ」のほうが近いそうで、つまり世界一有名なあのスタジオ名は、読み間違いから生まれたことになります。なんだか、ほっとする話ではありませんか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;驚くのは、その所帯の小ささです。場所は吉祥寺駅近くの貸しビルのワンフロア。しかも設立からしばらくの間は、正社員を雇わなかったといいます。映画の興行は水物だから、いつでも畳めるように、作品ごとに七十人ほどのスタッフを集め、完成したら解散する。そんな方式だったのだそうです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;吉祥寺駅。スタジオジブリは、この街の小さな貸しビルの一室から始まった。（Photo: 江戸村のとくぞう / CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/kichijoji-station.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;のちに国民的どころか世界的な存在になるスタジオが、「いつ終わってもおかしくない」覚悟の上に建てられた仮設小屋のようなものだったとは。何が大きく育つかなんて、その瞬間には誰にも分からないものなのですね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして翌昭和六十一年八月、ジブリ第一作『天空の城ラピュタ』が公開されます。さらに昭和六十三年四月には『となりのトトロ』と『火垂るの墓』が、なんと二本立てで同時公開。いま考えると信じられないような豪華な、そして観終わったあとの心の置きどころに困る組み合わせですが、これも昭和の出来事なのです。トトロも火垂るの墓も、ぎりぎり「昭和の映画」なのですね。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;五人の子どもたちとジブリと&#34;&gt;五人の子どもたちと、ジブリと&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;考えてみると、ジブリの映画が「国民的」になっていった道のりには、映画館だけでなく、お茶の間のテレビとビデオデッキの存在が大きかったように思います。金曜の夜にテレビでジブリ作品が放映されると、翌日の学校や職場でその話になる。録画したビデオを、子どもが擦り切れるほど繰り返し観る。劇場公開のときは静かだった『となりのトトロ』が、やがて誰もが知る存在になっていったのも、そうやって一家のテレビの前で何度も再生されたからこそでしょう。映画というより、家族の暮らしの一部。ジブリ作品には、そういう染み込み方をする力がありました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私自身がジブリ作品ときちんと向き合うことになるのも、ずっとあとのことです。我が家には五人の子どもがいます。子育ての日々の中に、ジブリの映画はいつも当たり前のようにありました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;三鷹の森ジブリ美術館（東京・三鷹）。窓の向こうに、あの大きなトトロが座っている。（Photo: Rob Young / CC BY 2.0, via Wikimedia Commons）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/ghibli-museum-mitaka.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、我が家の子どもたちは、揃ってジブリ映画が大好きでした。テレビで放映されればもちろん一家でかじりつき、新作が劇場にかかれば、これは必ず観に行く。それが我が家の決まりごとのようになっていました。かつて腐海より不良少年に夢中だった父親が、いつのまにか子どもたちに連れられて映画館のジブリ作品の前に座っている。人生というのは、おかしなところに連れていってくれるものです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高校球児だった私が汗を流していたあの六月に、吉祥寺の小さな部屋で生まれた会社が、めぐりめぐって我が子たちの子ども時代を彩ることになる。十六歳の私に教えてあげたら、きっとぽかんとするでしょう。お前の子どもは五人だぞ、と教えたら、もっとぽかんとするでしょうが。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;おまけきょうは千葉県民の日&#34;&gt;おまけ──きょうは千葉県民の日&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ところで六月十五日は「千葉県民の日」でもあります。制定されたのは昭和五十九年。県の人口が五百万人を突破したのを記念して定められたもので、日付は明治六年のこの日に木更津県と印旛県が合併して千葉県が誕生したことに由来するそうです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;葛飾の子どもだった私にとって、千葉は江戸川の向こう側の世界でした。そして恥ずかしながら、私は長いあいだ、とんでもない勘違いをしていました。「千葉県民の日は、千葉県民ならディズニーランドにタダで入れる」と、本気で思い込んでいたのです（笑）。どこでそんな話を仕入れたのか、いまとなっては分かりません。調べてみると、そんな事実は過去にも一度もなかったようです。県民の日にディズニーが無料になる──いかにもありそうで、まことしやかに信じてしまう。そういう「県民の日伝説」のようなものが、あの頃あちこちにあった気がします。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;千葉県民の日には、県内の公立学校が休みになり、施設の入場が無料や割引になるところもあるとか。学校が休みになる記念日が県ごとにあるなんて、昭和の東京の子どもは知りませんでした。ちょっとうらやましい話です。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;結びに&#34;&gt;結びに&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;何かが始まった日というのは、たいてい静かなものです。昭和六十年六月十五日も、テレビが速報を流したわけでも、教室で話題になったわけでもない。けれどあの日、確かに何かが始まっていて、それは何十年もかけて、私たちの暮らしの中に深く根を下ろしました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;我が家で、子どもたちが擦り切れるほど繰り返し観た一本は、やはり『となりのトトロ』でした。昭和六十三年公開の、ぎりぎり「昭和の映画」。今では美しい高画質で、いつでも家族そろって、あの森の風に会いに行けます。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&#34;amz-box&#34;&gt;
  &lt;div class=&#34;amz-box-body&#34;&gt;
    &lt;div class=&#34;amz-box-title&#34;&gt;となりのトトロ [Blu-ray]&lt;/div&gt;&lt;div class=&#34;amz-box-note&#34;&gt;スタジオジブリ／宮崎駿監督。昭和63年公開の不朽の名作&lt;/div&gt;
    &lt;a class=&#34;amz-box-btn&#34; href=&#34;https://www.amazon.co.jp/dp/B007UMRRUM?tag=showa44man22-22&#34; target=&#34;_blank&#34; rel=&#34;nofollow sponsored noopener&#34;&gt;Amazonで見る ›&lt;/a&gt;
  &lt;/div&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;p&gt;みなさんにとって、いちばん思い出深いジブリ作品は何ですか。誰と、どこで観た映画でしょうか。よかったら、聞かせてください。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;このシリーズでは、昭和四十年から六十四年までの「きょう」に起きた出来事を、当時子どもだった私の目線で振り返っています。あなたの昭和の思い出も、ぜひコメントで教えてください。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
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    </item>
    <item>
      <title>6月14日 ── 蔵前が燃えた夜。猪木対ホーガン、そして長州力乱入</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-june-14/</link>
      <pubDate>Sun, 14 Jun 2026 06:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-june-14/</guid>
      <description>&lt;p&gt;六月も半ばになると、教室の窓の外はもう夏の匂いがしていました。昭和五十九年（一九八四年）のきょう六月十四日。中学三年生、十五歳だった私たちの世界で、いちばん熱かったものは何かと聞かれたら、私は迷わずこう答えます。プロレスです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この日の夜、東京・蔵前国技館で行われた第二回IWGP優勝戦、アントニオ猪木対ハルク・ホーガン。昭和のプロレス史に「蔵前暴動」として刻まれることになる、あの夜の話をさせてください。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;金曜八時テレビの前の私&#34;&gt;金曜八時、テレビの前の私&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;当時の私は、毎週欠かさずプロレスを見ていました。金曜夜八時、テレビ朝日の『ワールドプロレスリング』。野球部員でしたから、昼間はボールを追いかけて、夜はテレビの前でリングに釘付けになる。そんな中学生でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;金曜八時といえば、裏では『太陽にほえろ！』が放送されていた激戦の時間帯です。チャンネルをどちらに合わせるか。それは昭和の茶の間における、ひとつの政治問題でもありました。そして画面の中では、古舘伊知郎アナウンサーの実況が炸裂している。「闘いのワンダーランド」「燃える闘魂」──次から次へと繰り出される言葉の砲弾が、リングの上の攻防を何倍にも大きく見せてくれました。プロレスは目で見るだけのものではなく、耳で聴くものでもあったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夢中になった入り口は、初代タイガーマスクです。佐山聡さんがマスクの下にいた、あのタイガーマスク。ダイナマイト・キッドとの空中戦、小林邦昭との抗争。四次元殺法という言葉がぴったりの、見たこともない動きの連続に、テレビの前で本当にワクワクドキドキしたものです。私が小学六年生の春にデビューして、中学二年の夏に突然マスクを置いて消えてしまった。あの喪失感も含めて、タイガーマスクは私の昭和プロレスの原点でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、なんといってもアントニオ猪木です。ホーガンはもちろん、スタン・ハンセン、タイガー・ジェット・シン。強敵が次から次へとやってくる。なかでも忘れられないのが、昭和五十七年の、ラッシャー木村・アニマル浜口・寺西勇の「はぐれ国際軍団」三人を相手にした、一対三のハンディキャップマッチです。一人対三人ですよ。いま冷静に振り返ると、とんでもないことをやっていたと思います。けれど当時の私たちは、それを大真面目に、固唾をのんで見ていたのです。猪木なら、本当に三人倒すかもしれない。そう思わせる何かが、あの人にはありました。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;一年越しのリベンジマッチ&#34;&gt;一年越しのリベンジマッチ&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;さて、昭和五十九年六月十四日です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この試合には前段があります。ちょうど一年と少し前、昭和五十八年六月二日。同じ蔵前国技館で行われた第一回IWGP優勝戦で、猪木はホーガンの必殺技アックスボンバーを浴び、場外で失神KO負けを喫しました。世に言う「舌出し失神」です。あの猪木が、リング下で白目をむいて伸びている。テレビの前の少年には、にわかには信じられない光景でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;アントニオ猪木（左）とハルク・ホーガン（右）、1983年頃。「ハルク・ホーガン」と染め抜いた黒いガウンが、絶頂期の彼の存在感を物語っている。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/inoki-hogan-1983.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかもこの一年で、ホーガンはさらに大きくなっていました。映画『ロッキー3』に出演し、昭和五十九年の一月にはWWF世界ヘビー級王者にまで上りつめている。四十一歳の猪木と、三十一歳の絶頂期ホーガン。一年越しのリベンジマッチに、蔵前国技館は超満員。誰もが、猪木の雪辱だけを信じて集まっていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;試合は午後八時二十分にゴング。一進一退の攻防から両者場外でもつれ、十七分十五秒、両者リングアウト。協議の末に時間無制限の延長戦が決まりますが、これもわずか二分余りで再び両者カウントアウト。そして再々延長に突入した、そのときでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここで少しだけ、長州力という男の話をしなければなりません。昭和五十七年、長州は藤波辰巳（現・辰爾）に向かって「俺はお前の噛ませ犬じゃない」と吠え、下剋上ののろしを上げました。そこから始まった藤波との抗争は「名勝負数え歌」と呼ばれ、長州は維新軍のリーダーとして、猪木の新日本に反旗を翻す側のスターになっていた。つまりこの夜、リングサイドの長州は、猪木とは敵対関係の真っただ中にいたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;リングサイドにいたその長州力が、再々延長のさなか、突如として猪木とホーガンの双方にリキ・ラリアットを見舞いました。混乱の中、先にリングに戻った猪木がリングアウト勝ち。猪木は念願のIWGP初制覇を果たしました──が、館内は祝福どころではありません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「こんな決着があるか」。一年待ったリベンジマッチの結末が、第三者の乱入によるリングアウト勝ちでは、納得できるはずもない。怒った観客が座布団やゴミをリングに投げ込み、場内は騒然。ついには蔵前警察署から警官十八人が出動する事態となりました。新日本プロレス史上初の本格的な暴動、「蔵前暴動」です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さて、ここで正直に告白しなければなりません。私はこの夜のことを、覚えていないのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;毎週欠かさず『ワールドプロレスリング』を見ていた中学三年生が、昭和プロレス史に残る大事件の夜を思い出せない。自分でも不思議でなりません。翌日の教室では、絶対に話題になっていたはずなのです。誰かが「昨日の蔵前、すごかったらしいぞ」と騒ぎ、誰かがスポーツ新聞の見出しを語り、長州はけしからんと誰かが憤っていたはずなのです。それなのに、その場面がどうしても出てこない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;記憶とは不思議なものです。タイガーマスクの宙を舞う姿や、一対三に挑む猪木の背中のような「画」は、四十年経ったいまも鮮明に焼き付いているのに、事件としてのあの夜だけが、すっぽりと抜け落ちている。けれど、こうも思うのです。覚えていないのは、あの頃の私にとって、金曜八時のプロレスがそれだけ「当たり前の日常」だったからではないか、と。特別な夜として構えて見ていたのではなく、毎週の暮らしの中に、プロレスが空気のように溶け込んでいた。覚えていないことが、かえって熱中の深さの証拠になっている気がするのです。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;蔵前国技館最後の年&#34;&gt;蔵前国技館、最後の年&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ところで、この昭和五十九年は、蔵前国技館にとって最後の年でもありました。この年の秋場所を最後に三十年余りの役目を終え、翌昭和六十年一月には隅田川の対岸に両国国技館が開館します。力道山の時代から数々の名勝負を見届けてきた「プロレスの聖地」は、最後の最後に、座布団の舞う大暴動まで見届けて幕を下ろしたことになります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;昭和の蔵前国技館。色とりどりの幟がはためく正門前。相撲もプロレスも、ここが昭和の「聖地」だった。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/kuramae-kokugikan.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;蔵前という土地は、私にとって遠い場所ではありませんでした。子どもの頃から乗り慣れた都営浅草線で、京成高砂から押上を抜けて、まっすぐ行った先に蔵前駅はあります。同じ一本の線路の先で、あの夜、大人たちが本気で怒り、警官隊が駆けつけていた。そう思うと、テレビの中の出来事が、急に地続きのものに感じられるのです。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;本気で信じていたあの熱&#34;&gt;本気で信じていた、あの熱&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;いまになって思います。あの頃の私たちは、プロレスを「本当か嘘か」という物差しで見ていませんでした。猪木は本当に強いのか。あの技は本当に効いているのか。そんなことを教室で大真面目に議論するのが、あの時代の男子の日常でした。答えなんて出ません。でも、その答えの出なさこそが、昭和のプロレスの魔力だったのだと思います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大人たちは時々、「プロレスなんて八百長だろう」と水を差しました。けれど少年の私には、それはどうでもいいことでした。一対三で立ち向かう猪木の背中も、四次元殺法のタイガーマスクも、舌を出して失神した猪木が一年かけて挑んだリベンジマッチも、私の中ではぜんぶ「本当」だったからです。観客が本気で怒って暴動になるくらい、みんなが本気で信じていた。あの夜の蔵前の怒りは、裏を返せば、それだけ深く信じられていたことの証拠なのだと、いまなら分かります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あれから四十年余り。IWGPの名前は、いまも新日本プロレスの最高峰のベルトに受け継がれています。あの夜、蔵前で観客を激怒させた「IWGP」という三文字が、令和の東京ドームで歓声を浴びている。猪木さんも、ホーガンも、もうこの世にいません。けれど「元気ですかーッ！」の声は、私の耳の奥で、いまもはっきりと鳴っています。そして令和のいま、見たい試合はいつでもスマートフォンで呼び出せます。便利になりました。けれど、家族でチャンネルを取り合いながら、週に一度の放送を正座して待った、あのざわざわした金曜八時の夜は、もうどこにもないのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;みなさんは、昭和のプロレスにどんな思い出がありますか。テレビの前で叫んだ技の名前、学校でのプロレスごっこ、忘れられない名勝負──よかったら、聞かせてください。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;このシリーズでは、昭和四十年から六十四年までの「きょう」に起きた出来事を、当時子どもだった私の目線で振り返っています。あなたの昭和の思い出も、ぜひコメントで教えてください。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
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    </item>
    <item>
      <title>6月13日 ── スペインW杯が素通りした夜も、枕元にはラジオがあった</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-june-13/</link>
      <pubDate>Sat, 13 Jun 2026 06:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-june-13/</guid>
      <description>&lt;p&gt;六月十三日。カレンダーの記念日欄には「FMの日」とあります。アルファベットでFが六番目、Mが十三番目だから、という語呂合わせです。そして昭和五十七年（一九八二年）のこの日、スペインでサッカーのワールドカップが開幕しました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ちなみにこの日は、昭和六十二年（一九八七年）に広島の衣笠祥雄選手がルー・ゲーリッグの連続試合出場世界記録を塗り替えた日でもあります。ただ、鉄人の話は六月七日の記事でたっぷり書いたばかりなので、きょうは別の話を。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実は今回の二つ──FMもスペイン大会も、正直に白状すると、当時の私の記憶にはほとんど残っていません。けれど「覚えていない」ことにも、それなりの理由がありました。きょうは、その理由のほうの話です。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;世界が沸き始めた日野球少年は素振りをしていた&#34;&gt;世界が沸き始めた日、野球少年は素振りをしていた&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;昭和五十七年六月十三日、スペイン・バルセロナのカンプノウ・スタジアム。九万人を超える大観衆の前で、前回王者アルゼンチンとベルギーの開幕戦が行われました。アルゼンチンの十番をつけていたのが、当時二十一歳のディエゴ・マラドーナ。これが彼のワールドカップ・デビュー戦でした（試合はベルギーが一対〇で勝っています）。大会はその後、パオロ・ロッシを擁するイタリアが優勝。いまもサッカー史に残る名大会として語り継がれています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;で、そのとき十三歳、中学一年生だった私はといえば──何も覚えていません。本当に、何ひとつ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もっとも、これは私だけのことではなかったと思います。昭和五十七年の日本にとって、ワールドカップはまだ遠い遠い大会でした。日本代表は一度も本大会に出場したことがなく、Jリーグもまだ影も形もない時代。テレビでサッカーといえば、正月の高校サッカーくらいのもので、海の向こうの大会を生中継で追いかけるという習慣そのものが、お茶の間にはほとんどなかったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして当時の私は野球部に入ったばかりの、根っからの野球小僧でした。『キャプテン翼』の連載が少年ジャンプで始まったのは前年の昭和五十六年。けれど翼くんが私の心に飛び込んでくるのは、もう少し先の話です。つまりこの開幕の日の私は、まだ「キャプテン翼以前」。マラドーナという名前すら、知らなかったはずです。世界中がスペインの熱狂に沸いていたその夜も、私はたぶん、いつもどおり素振りをして、巨人戦を見て、眠っていたのだと思います。サッカーのワールドカップは、昭和五十七年の野球少年の暮らしの、ずっと外側にありました。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;四年後の早朝マラドーナに釘付けになった&#34;&gt;四年後の早朝、マラドーナに釘付けになった&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ところが、です。四年後の昭和六十一年（一九八六年）、メキシコ大会。十七歳の高校二年生になっていた私は、早朝のテレビ放映を夢中で見ていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;メキシコと日本の時差は十五時間。向こうの昼の試合は、日本ではちょうど夜明け前から早朝の時間帯にあたります。つまりワールドカップを見るということは、いつもよりずっと早く起きるということでした。野球少年だった私を、早起きしてまでテレビの前に座らせる「サッカーの大会」。四年前には考えられなかったことです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きっかけは、もちろん翼くんです。中学時代にこっそりはまった『キャプテン翼』が、野球少年の中に「サッカーを見る目」を作ってくれていた。そして画面の中には、漫画よりも漫画みたいな選手が、本当にいたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;1986年メキシコ大会、ベルギー戦でディフェンダーを抜き去るマラドーナ。ボールが足に吸い付いたまま、倒れない、止まらない。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/maradona-1986.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マラドーナ。決して大きくはない体で、次々とドリブルで相手選手を抜き去っていく、あの力強いプレー。ボールが足に吸い付いたまま、屈強なディフェンダーが何人がかりで止めにきても、倒れない、止まらない。準々決勝のイングランド戦では、のちに「神の手」と呼ばれるあの一撃と、五人抜きの「世紀のゴール」を、わずか数分のあいだに両方やってのけました。手で押し込んだゴールですら「ゴール」と言わせてしまう。理屈ではありません。あの小さな背中には、それを許させてしまうだけの、圧倒的な存在感があったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;スペイン大会を素通りした少年は、四年かけて、ようやくワールドカップに追いついた──いや、翼くんとマラドーナに、追いつかされたのでした。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;fmはお兄さんのもの私の相棒は携帯ラジオ&#34;&gt;FMは「お兄さんのもの」、私の相棒は携帯ラジオ&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;さて、もうひとつの「FMの日」。これも白状すると、当時の私はFM放送をあまり聞いた記憶がありません。FMといえば音楽番組。本屋には「FMレコパル」や「週刊FM」といったFM情報誌が並び、二週間分の番組表を蛍光ペンでチェックして、お目当ての曲が流れる時間にカセットテープの録音ボタンに指をかけて待つ──そんな「エアチェック」に励むのは、もう少し年上の、ちょっとお兄さんたちの世界。レコードを買うお金のない時代に、FMとカセットは音楽好きの強い味方だったわけですが、小学生の私には、まだずいぶんと背伸びの領域に感じられていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そのかわり、ラジオそのものとは、ずっと早くから深い付き合いがありました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;小学三年生のころ。すでに立派な野球小僧だった私は、プロ野球の巨人戦をテレビで欠かさず見ていました。ところが、テレビ中継には終わりがあります。たいてい二十一時前ごろ、試合の決着がつこうがつくまいが、中継はぷつりと終わってしまう。九回裏、一打逆転の場面でも、お構いなしに、です。あの「続きが見られない」悔しさは、昭和の野球少年なら誰もが知っていると思います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、ラジオなら最後まで聞ける。テレビが「ここまで」と打ち切ったその先を、ラジオの実況はちゃんと最後のアウトまで届けてくれるのです。当時のAMラジオは夜の看板がナイター中継で、各局が看板アナウンサーと解説者をそろえて、延長になろうが何だろうが、試合が終わるまで付き合ってくれました。テレビに置いていかれた野球少年にとって、これほど頼もしい存在はありません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それを知った私は、誕生日のプレゼントに携帯ラジオを選び、買ってもらいました。年に一度の誕生日プレゼントです。おもちゃでも、野球の道具でもなく、ラジオ。小学三年生の選択としてはずいぶん渋い気もしますが、当時の私にとっては「巨人戦の続きが聞ける魔法の箱」だったのですから、迷いはなかったのだと思います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;昭和の携帯トランジスタラジオ。誕生日に買ってもらったこんな一台が、「巨人戦の続きが聞ける魔法の箱」だった。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/portable-radio-sony.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それからの習慣は決まっています。テレビ中継が終わると、携帯ラジオのチャンネルを野球中継に合わせ、枕元に置いて、布団に入る。画面はないけれど、アナウンサーの声と球場のざわめきだけで、場面はいくらでも目に浮かびました。実況が早口になれば走者が走り、歓声がわっと膨らめば白球が外野の頭上を越えていく。むしろ目をつぶっているぶん、想像のグラウンドはテレビより広かったかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;スペイン大会が開幕した昭和五十七年の夜も、きっと私の枕元では、ナイター中継が小さく流れていたはずです。世界の熱狂は、まだ私の布団までは届いていなかったけれど、私には私の、夜の続きがあったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;手のひらサイズのラジオは、令和のいまも現役です。あの頃の相棒のような一台は、枕元のナイター中継はもちろん、いざというときの防災ラジオとしても、ひとつ持っておくと心強いものです。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&#34;amz-box&#34;&gt;
  &lt;div class=&#34;amz-box-body&#34;&gt;
    &lt;div class=&#34;amz-box-title&#34;&gt;ソニー ポケットラジオ ICF-P27（FM/AM/ワイドFM）&lt;/div&gt;&lt;div class=&#34;amz-box-note&#34;&gt;手のひらサイズの定番。枕元のナイターにも、防災の備えにも&lt;/div&gt;
    &lt;a class=&#34;amz-box-btn&#34; href=&#34;https://www.amazon.co.jp/dp/B09J4RMWH8?tag=showa44man22-22&#34; target=&#34;_blank&#34; rel=&#34;nofollow sponsored noopener&#34;&gt;Amazonで見る ›&lt;/a&gt;
  &lt;/div&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;令和の今枕元にはスマホがあるけれど&#34;&gt;令和の今、枕元にはスマホがあるけれど&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;あれから四十四年。いままさに、北中米でワールドカップが開幕したばかりです。スペイン大会を素通りしたあの野球少年が、いまは開幕戦の日程を指折り数えて待つようになったのですから、人生はわからないものです。つい先日は、地元の四つ木・立石に点在する『キャプテン翼』の銅像九体を、ランニングで巡ってきた話も書きました。十三歳の私に教えてあげたら、きっと信じないでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;観る環境も、すっかり変わりました。スマホひとつで試合が見られて、見逃した試合は翌朝に配信で追いかけられる。ラジオもradikoで、全国の放送局が手のひらに収まる時代になりました。野球中継が「二十一時前に終わってしまう」悔しさを、いまの子どもたちは知らないでしょう。続きが気になるなら、指先ひとつで続きが手に入るのですから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、ふと思うのです。枕元の小さなラジオに耳を澄ませて、音だけで満員の球場を思い描いた、あの夜の豊かさのことを。見えないからこそ見えたものが、確かにあった気がします。情報がいくらでも手に入る時代になったからこそ、あの「音だけの夜」が、妙に贅沢なものだったように思えてくるのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;みなさんには、「枕元のラジオ」の思い出はありますか。そして、初めて夢中になったワールドカップは、どの大会でしたか。よかったら、聞かせてください。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;この記事は「昭和の今日は何があった日？」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
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    </item>
    <item>
      <title>6月12日 ── 宮城県沖地震、夕方五時十四分に大地が揺れた日</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-june-12/</link>
      <pubDate>Fri, 12 Jun 2026 06:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-june-12/</guid>
      <description>&lt;p&gt;六月の夕方五時すぎ。梅雨どきの空はまだ十分に明るくて、子どもたちは外遊びから帰ってくるか、家のテレビの前に座りこんでいる時間です。台所からは、お母さんの包丁の音と、煮物の匂い。お父さんはまだ会社。ちゃぶ台に夕飯が並ぶまでの、あの何でもない時間。昭和の、ごくありふれた月曜日の夕方でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和五十三年（一九七八年）六月十二日、午後五時十四分。その当たり前の時間を、突然の大きな揺れが襲いました。宮城県沖地震です。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;その日東京も揺れた&#34;&gt;その日、東京も揺れた&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;地震の規模はマグニチュード七・四。震源は宮城県の沖合、深さ約四十キロ。仙台などで当時の基準の震度五を観測し、揺れは東北地方を中心に、北海道から関東、中部、近畿あたりまで、列島のほぼ半分に及びました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして東京も、震度四。私は当時九歳、小学三年生です。葛飾の家にも、あの揺れは確かに届いていたはずなのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;九歳の私に、揺れそのものの記憶は、正直なところ残っていません。けれど、その夜のニュースと翌朝のテレビは、はっきりと覚えています。倒壊した建物やブロック塀の映像が、何度も何度も繰り返し流れていました。なかでも忘れられないのが、一階部分がぺしゃんこに押しつぶされたビルの映像です。パチンコ店が入っていた雑居ビルが、上の階の重みでつぶれている。建物というのは、ああいうふうに「潰れる」ものなのか。九歳の目に焼きついたあの映像は、半世紀近くたったいまも、鮮明に思い出すことができます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夕方五時十四分という時刻を、いま改めて考えてみます。学校から帰って、ランドセルを玄関に放り出して、原っぱや路地での遊びからそろそろ戻ってくる時間。各家庭がこれから夕飯の支度にとりかかる、その入り口の時間帯です。あの地震は、そういう「暮らしのまんなか」を直撃したのでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、恐れられていた火災は、仙台市内でわずか八件と、事前の予測を大きく下回りました。「地震が来たらまず火の始末」という意識が市民に根づいていたこと、初夏で暖房を使っていなかったこと、そして本震の八分前に小さな前震があり、火を消した家庭が多かったこと。昭和の合言葉「地震だ、火を消せ」が、本当に機能した地震だったのです。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;ブロック塀が子どもたちの通学路で&#34;&gt;ブロック塀が、子どもたちの通学路で&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;宮城県沖地震では、東北全体で二十八人の方が亡くなり、負傷者は一万人を超えました。住宅の全半壊は七千棟以上。ただ、この地震が後の日本に残した教訓は、被害の数字そのものより、犠牲の「出かた」にありました。倒れた家屋の下敷きになった方よりも、ブロック塀や石塀、門柱の倒壊に巻き込まれて亡くなった方のほうが、ずっと多かったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ブロック塀は、昭和の住宅地の風景そのものでした。私が育った葛飾の下町も、細い路地の両側にブロック塀や万年塀が連なっていて、子どもたちは毎日その脇を歩いて学校に通っていました。塀の上を歩いて怒られた子、塀の穴から隣の家の犬をのぞいた子。あれほど暮らしに馴染んでいたものが、ひとたび大きく揺れれば凶器になる。誰もがうすうす知っていながら、誰も真剣に考えてこなかったことを、この地震は突きつけました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;どこの路地にもあった、昭和の住宅地のブロック塀。暮らしに馴染んだこの風景が、ひとたび揺れれば凶器になることを、あの地震は教えた。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/block-wall-alley.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もうひとつ、この地震が初めて見せたものがあります。「大都市の地震」です。当時の仙台は人口五十万を超える大都市で、丘を切りひらいた新しい住宅団地がどんどん広がっていた時代でした。被害はその新興住宅地に集中し、都市ガスの復旧には約一カ月。電気、水道、電話という、都市の暮らしを支える線がいっせいに切れたとき何が起きるのか。日本が初めて目の当たりにした「都市型地震」だったと言われています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この教訓から、昭和五十六年（一九八一年）に建物の耐震基準が大きく見直されました。いまも不動産の世界で使われる「新耐震」「旧耐震」という言葉。その境目を作ったのが、この宮城県沖地震なのです。発生日の六月十二日は、いまも宮城県の「県民防災の日」とされ、毎年この日に防災訓練が行われています。仙台のラジオ局では、毎日夕方五時十四分になると「宮城県沖地震が発生した時刻です」と伝える番組があるそうです。四十八年たっても、あの時刻は忘れられていないのです。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;大人になって震災は見るものではなくなった&#34;&gt;大人になって、震災は「見るもの」ではなくなった&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;九歳の私にとって、震災はテレビの中の出来事でした。けれど大人になるにつれ、それは少しずつ、自分の側へ近づいてきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;平成七年（一九九五年）一月十七日、阪神・淡路大震災。私は二十五歳でした。冬の早朝、まだ眠っている都市を直下の揺れが襲い、高速道路が横倒しになり、六千四百人を超える方が亡くなりました。崩れた建物の多くが「旧耐震」の時代に建てられたものだったと、後の検証は伝えています。宮城県沖地震が残した宿題は、まだ終わっていなかったのです。朝のテレビが映し出した、横倒しの阪神高速。あの一枚の画は、「都市は地震に勝てるはずだ」という、私たちがどこかで抱いていた思い込みを、根こそぎ崩していきました。このときの私はまだ、九歳のあの日と同じように、画面のこちら側にいました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;崩れ落ちた阪神高速道路（平成7年1月17日、神戸市）。「都市は地震に勝てるはずだ」という思い込みが、この朝崩れた。（出典：神戸市「阪神・淡路大震災『1.17の記録』」）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/hanshin-expressway-1995.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして平成二十三年（二〇一一年）三月十一日、東日本大震災。四十一歳の私は、もう画面のこちら側にはいませんでした。当時の私は路線バスの運転手で、あの日も乗務中だったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;走っているバスのハンドル越しにも、はっきりとわかる強い揺れでした。バスを路肩に停め、揺れが収まるのをじっと待つ。お客様を乗せたまま、車内で過ごしたあの数分間の長かったこと。やがて揺れが収まり、運行を再開しましたが、本当の異変が始まったのは、夕方の帰宅ラッシュからでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;鉄道がすべて止まっている。動いているのは、バスとタクシーだけ。そこへ、家族を迎えに行く車が都内へどっと流れ込み、道路は身動きのとれない大渋滞になりました。私のバスは営業に出たまま、その渋滞のただなかに、お客様を乗せたまま立ち往生したのです。歩道には、家路を歩く人の列が夜まで途切れることなく続いていました。結局、車庫に戻れたのは、日付が変わった夜中の三時頃だったと記憶しています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;九歳のとき、テレビ画面のこちら側から見ていた震災。その三十三年後、私は人を家へ運ぶ側として、震災の夜の中にいました。震源は皮肉にも、あの日と同じ「宮城県沖」を含む、東北の太平洋沖。同じ海が、規模も性質もまるで違う災害を、同じ土地に、そして今度は私自身の一日に、もたらしたのです。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;令和のいま次は三つ指折り数えられている&#34;&gt;令和のいま、「次」は三つ指折り数えられている&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;そして令和の今、関東に暮らす私たちは、専門家から「次」の候補をはっきり示されています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ひとつめは、首都直下地震。マグニチュード七クラスの地震が今後三十年以内に起きる確率は、七十パーセント程度とされています。私たちの足元で、いつ起きてもおかしくないと言われ続けている、いちばん身近な脅威です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふたつめは、南海トラフ巨大地震。令和七年（二〇二五年）に確率の算出方法が見直され、三十年以内の発生確率は「六十〜九十パーセント程度以上」と「二十〜五十パーセント」というふたつの数字が併記されることになりました。数字に幅はあっても、「可能性が高い」という評価そのものは変わっていません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そしてみっつめが、相模トラフの巨大地震。百年余り前、大正十二年（一九二三年）の関東大震災を起こした、関東の足元のプレート境界です。十万人を超える犠牲の多くが火災によるものだったあの震災は、私たちの祖父母の世代にとっての「地震」の原風景でした。「地震だ、火を消せ」という昭和の合言葉も、九月一日の防災の日も、もとをたどればこの震災に行き着きます。相模トラフの巨大地震そのものは数百年単位の間隔と考えられていますが、首都直下のマグニチュード七クラスは、その大きな地震に向かう過程で起きやすくなるとも言われています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;数字を並べると、正直、少し怖くなります。けれど思い出したいのは、宮城県沖地震からの四十八年間、日本がただ怯えていたわけではない、ということです。ブロック塀の点検が始まり、耐震基準が変わり、緊急地震速報が生まれ、学校の防災訓練は当たり前になった。いまでは揺れが来る数秒前に、ポケットの中のスマートフォンが一斉に鳴って教えてくれます。昭和五十三年のあの日、何の前触れもなく夕方の台所を襲った揺れのことを思えば、隔世の感があります。九歳の私たちが経験した「夕方五時十四分」は、決して無駄にはなっていないのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今夜、寝る前に、寝室の家具の置き方をひとつ見直してみる。水のペットボトルを一本、買い足しておく。それが、昭和五十三年六月十二日の揺れを知っている世代の、ささやかな務めなのかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;みなさんには、忘れられない地震の記憶がありますか。子どもの頃にテレビで見たもの、大人になって自分の身に起きたこと。よかったら、聞かせてください。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;この記事は「昭和の今日は何があった日？」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-11/&#34;&gt;6月11日 ── 入梅。ビニール傘と、列島改造の槌音と&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-13/&#34;&gt;6月13日 ── スペインW杯が素通りした夜も、枕元にはラジオがあった&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>6月11日 ── 入梅。ビニール傘と、列島改造の槌音と</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-june-11/</link>
      <pubDate>Thu, 11 Jun 2026 06:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-june-11/</guid>
      <description>&lt;p&gt;朝、玄関の戸を開けて、湿った土の匂いがふっと鼻に届くと、ああ、梅雨が来たな、と思います。きょう六月十一日は、暦の上の「入梅」。立春や八十八夜と同じ雑節のひとつで、梅の実が熟す頃に降る雨だから「梅雨」、その入り口だから「入梅」です。いまは気象庁が「梅雨入りしたとみられます」と発表してくれますが、昔の人は暦のこの日を境に、およそ三十日間を梅雨と心得ていたのだそうです。令和八年は、ちょうどきょうが暦の上の入梅にあたります。そこから六月十一日は「傘の日」という記念日にもなっています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そしてもうひとつ。昭和四十七年（一九七二年）のこの日は、当時通産大臣だった田中角栄が、あの『日本列島改造論』を発表した日でもあります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;傘と、列島改造。一見なんのつながりもない二つですが、どちらも昭和の雨の日の風景の、すぐそばにあったものです。きょうは梅雨入りの朝にふさわしく、雨の話から始めさせてください。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;雨の日の通学路&#34;&gt;雨の日の通学路&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;子どもの頃の梅雨は、いまよりずっと長く感じられました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が育った高砂のあたりは、当時はまだ木々の生い茂った空き地があちこちに残っている町でした。梅雨どきの雨の日に歩いていると、ブロック塀や草むらのそこかしこに、カタツムリやアマガエルの姿を頻繁に見つけることができたものです。アスファルトとコンクリートばかりになったいまの高砂からは、ちょっと想像がつかないかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;登校の途中でカタツムリを捕まえて、そのまま教室に持ってくるクラスメイトもいましたね。雨の日の教室の窓際で、誰かの筆箱の上をのんびり這っていくカタツムリ。あのカタツムリたちがその後どうなったのか、いまとなっては知るよしもありませんが、雨の日にしかない、あの小さなにぎわいだけは妙に記憶に残っています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;学校に着くころには、靴下のつま先がじっとり湿っている。教室の後ろにずらりと並んだ傘から、ぽたぽたと水が垂れて、廊下に細い川をつくる。雨の日の小学校には、あの独特の、濡れた布と土埃の混ざったような匂いがありました。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;ビニール傘は東京の下町生まれ&#34;&gt;ビニール傘は、東京の下町生まれ&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ところで、いまや日本の雨の日の象徴のようになっているビニール傘。あれが東京の下町で生まれた発明品だということを、ご存じでしょうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;つくったのは、江戸の享保年間から続く老舗の傘問屋「武田長五郎商店」、いまのホワイトローズという会社です。もとは煙草の商いから始まり、煙草を湿気から守る油紙で雨合羽をこしらえて雨具屋に転じ、大名行列の雨具まで納めたという、筋金入りの「雨」の家系。戦後すぐの傘は綿の布張りが主流で、雨に濡れると染料が溶けて色落ちし、服にシミをつけてしまうのが悩みの種でした。そこに目をつけた九代目が、進駐軍の持ち込んだ「ビニール」という新素材で、傘にかぶせる防水カバーをつくった。これが昭和二十八年（一九五三年）に大当たりします。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やがてナイロン傘の登場でカバーが売れなくなると、今度はビニールそのもので傘をつくってしまえと、昭和三十三年（一九五八年）、世界初のビニール傘を完成させました。昭和三十九年（一九六四年）の東京オリンピックで来日したアメリカのバイヤーの目にとまり、海を渡っていったといいますから、たいしたものです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;コンビニの傘立てに並ぶ、透明なビニール傘&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/vinyl-umbrella-konbini.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;いまやコンビニのレジ脇に当たり前のように並ぶビニール傘。その元祖は、東京・下町の老舗傘問屋が昭和三十三年（一九五八年）に世に送り出した、世界初の発明品だった。（Photo: KKPCW / &lt;a href=&#34;https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/&#34;&gt;CC BY-SA 4.0&lt;/a&gt;）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;余談をひとつ。昭和五十五年（一九八〇年）ごろ、この会社はある都議会議員から「顔が見える透明で丈夫な傘がほしい」と頼まれます。雨の日の街頭演説で、黒い傘は聴衆に圧迫感を与えるが、透明な傘なら表情が伝わるし、庶民的に見える、というのです。こうして生まれた選挙用の頑丈なビニール傘は、口コミで議員たちの間に広まったのだとか。選挙カーの上の透明な傘に、そんな来歴があったとは。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が子どもだった昭和五十年代、ビニール傘はまだいまほど「使い捨て」のものではなかったように思います。透明な傘越しに見上げる雨空が、布傘の下より少しだけ明るかったこと。あの感じは、昭和の発明がくれた小さな贈り物だったのかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;三歳の私の頭の上で日本が変わり始めた&#34;&gt;三歳の私の頭の上で、日本が変わり始めた&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;さて、もうひとつの六月十一日。昭和四十七年（一九七二年）のきょう、田中角栄が『日本列島改造論』を発表しました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;新幹線と高速道路で日本中を結び、太平洋側に集まりすぎた工場を地方に移して、東京の過密と地方の過疎を一気に解決する──そんな大風呂敷の構想です。当時の東京は、人口の三割が国土の一パーセントに住むといわれた超過密状態。発表の翌月には田中は総裁選を制して総理大臣になり、本は九十一万部を超えるベストセラーになりました。政策の本がその年の売り上げ四位に入ったというのですから、当時の熱気がうかがえます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;『日本列島改造論』を発表した田中角栄&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/kakuei-tanaka-1972.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;『日本列島改造論』を引っさげ、昭和四十七年（一九七二年）七月、総理大臣の座に駆け上がった田中角栄。新潟の寒村から身を起こした「今太閤」の描いた構想は、日本中を熱狂させた。（Photo: 首相官邸ホームページ / &lt;a href=&#34;https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/&#34;&gt;CC BY 4.0&lt;/a&gt;）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このとき私は三歳。本の中身など知るよしもありません。けれど、いま振り返ると、私が子ども時代を過ごした昭和四十年代の終わりから五十年代の町には、たしかに、いつもどこかで工事の音がしていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なかでも印象に残っているのが、環状七号線──環七の工事です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いまでこそ環七は当たり前のように中川を渡っていますが、私の小学生時代、あの橋はまだ存在しませんでした。環七は中川で分断されていて、青戸側と高砂側を行き来するには、けっこうな迂回を強いられたものです。その「最後の切れ目」をつなぐ橋の工事が、ちょうど私の小学生時代に進められていたのでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;橋の名は、青砥橋。青戸二丁目と高砂一丁目を結ぶ、長さ六百四十メートル余りの長大橋です。昭和五十四年（一九七九年）の秋に工事が始まり、完成は昭和六十年（一九八五年）一月。私が中学三年の冬のことです。そして実は、この青戸から奥戸にかけての区間こそ環七で最後まで残っていた未開通区間で、青砥橋の完成によって、環七は計画からおよそ五十八年をかけて、ようやく全線がつながったのでした。子どもの頃に毎日眺めていた工事現場が、東京の大動脈の「最後のひと筆」だったとは。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;中川に架かる青砥橋。背景に東京スカイツリーが見える&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/aoto-bashi.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;中川をまたいで青戸と高砂を結ぶ青砥橋。スカイツリーを背に、ゆるい弧を描いて伸びている。当たり前のように渡っているこの橋が完成して、環七はようやく一本につながった。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いま車で渡ると、意外と登るな、と感じるゆるい坂。歩いてみると、想像よりずっと長い。そして橋の上から見おろす中川は、下町の空が広く感じられて、なかなかの抜け感があります。高砂側から青砥駅の方へ向かうときの目印にもなっていて、すっかり生活の一部です。当たり前のように渡っているこの橋が「なかった」頃の町を知っている、というのは、考えてみれば不思議な感覚ですね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;列島改造論が環七をつくったわけではありません。環七の計画自体は戦前にまでさかのぼります。それでも、日本中を道路と橋でつなごうという、あの時代の大きなうねりの末端が、私の町の、あの工事現場だったのだと思います。子どもの頃の耳に残る槌音は、日本がまだ「建設中」だった時代の音でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もっとも、列島改造の構想は土地の投機を呼んで地価が跳ね上がり、オイルショックと重なって「狂乱物価」と呼ばれるインフレを招くことにもなりました。茶の間で大人たちが顔を曇らせていた「物価が上がる」という言葉の出どころが、まさかこの日の発表にあったとは。子どもの私は、知るはずもありませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;令和の雨の日に&#34;&gt;令和の雨の日に&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;いまの東京で雨が降ると、駅前はビニール傘の花畑になります。コンビニで数百円。壊れたら、買い替える。あの下町の傘問屋が手塩にかけて生んだ発明は、皮肉なことに「いちばん粗末に扱われる傘」の代名詞にもなってしまいました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも私は、透明な傘を差して見上げる梅雨空が、嫌いではありません。雨粒がビニールを叩く音は、昭和の雨の日と、たいして変わらないのですから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;みなさんは、子どもの頃の雨の日に、どんな思い出がありますか。お気に入りの傘の色、長靴の中に入ってしまった雨水の冷たさ、通学路で見つけたカタツムリ、そして、いつのまにか町から消えていった空き地のこと──よかったら、聞かせてください。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;このシリーズでは、昭和四十年から六十四年までの「きょう」に起きた出来事を、当時子どもだった私の目線で振り返っています。あなたの昭和の思い出も、ぜひコメントで教えてください。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-10/&#34;&gt;6月10日 ── 時を計る日に、手作りの時計と夜の高速バスを思う&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-12/&#34;&gt;6月12日 ── 宮城県沖地震、夕方五時十四分に大地が揺れた日&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>6月10日 ── 時を計る日に、手作りの時計と夜の高速バスを思う</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-june-10/</link>
      <pubDate>Wed, 10 Jun 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-june-10/</guid>
      <description>&lt;p&gt;梅雨の入り口、六月十日は「時の記念日」です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;由来は、ずいぶんと古い。『日本書紀』によれば、六七一年のこの日（新暦に換算して六月十日）、天智天皇が漏刻（ろうこく）という水時計を新しい台に据え、鐘や鼓で人々に初めて時を知らせた——とあります。それにちなんで、大正九年（一九二〇年）、東京天文台と生活改善同盟会が「時間を大切にしよう」と呼びかけて定めたのが、この記念日のはじまりだそうです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;千三百年以上も昔の人が、水の落ちる音で時を計っていた。そう思うと、なんだか不思議な気持ちになります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして「時の記念日」と聞くと、私がまっさきに思い出すのは、保育園で作った、あの手作りの時計のことなのです。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;空き箱で作った私だけの時計&#34;&gt;空き箱で作った、私だけの時計&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;私が保育園に通っていたのは、昭和四十七年から五十年ごろ。歳でいえば、三歳から六歳のあいだです。その保育園では毎年、この六月十日の「時の記念日」にちなんで、子どもたちがそれぞれに「時計」を作る工作をしました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;材料は、空き箱や色画用紙。お菓子の箱だったか、何かの包み紙だったか、家から持ち寄ったような気もします。丸く切った画用紙に数字を書き込んで、短い針と長い針をつけて、思い思いの時計をこしらえる。みんなが作るから、出来あがる時計は一つとして同じものがない。針の角度も、数字の並びも、それぞれにいいかげんで、それぞれに誇らしかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いま思えば、まだ時計の読み方さえおぼつかない年ごろです。長い針と短い針が何を指しているのか、本当のところはわかっていなかったでしょう。それでも保育園は、この日に「時間って大切なものなんだよ」と、工作という形でそっと教えてくれていたのですね。あの先生たちの心づかいに、五十年も経ってからようやく気づくのですから、私もずいぶんとのんびりしたものです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そういえば、当時の我が家には、本物の時計がありました。柱にかけられた、縦長で、振り子が左右にゆっくりと揺れるタイプの時計です。文字盤の下で振り子がチクタクと時を刻み、毎正時になると、ボーン♪　ボーン♪……と、低い音で時を打ちました。三時には三回、十時には十回。鳴る数をかぞえれば、まだ文字盤のうまく読めない子どもにも、今が何時なのかが、ちゃんと伝わってきたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;振り子が左右に揺れ、正時にボーンと鳴り響く柱時計。あの音が、我が家の時間を刻んでいた。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/antique-wall-clock.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;思えば、天智天皇が鐘や鼓を打ち鳴らして時を知らせたのと、あの柱時計がボーンと鳴って時刻を告げていたのは、案外、同じことだったのかもしれません。水時計から、保育園児の空き箱の時計、そして柱の振り子時計まで。時を計り、時を告げようとする気持ちだけは、千三百年、ちっとも変わっていないのですね。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;黄色い箱の中のゆっくりした時間&#34;&gt;黄色い箱の中の、ゆっくりした時間&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;六月十日は、もうひとつの記念日でもあります。「ミルクキャラメルの日」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;森永製菓がこの日を選んだのには理由があります。一九一三年（大正二年）六月十日、それまでただ「キャラメル」と記して売っていたお菓子に、&amp;ldquo;ミルク&amp;quot;の二文字を冠して「ミルクキャラメル」として売り出した。創業者の森永太一郎が、西洋菓子になじみのなかった時代に「日本の人々に栄養価の高いおいしいお菓子を」と願って世に出した、森永の原点ともいえる一粒です。発売当初はバラ売りで一粒五厘。翌年には、二十粒入り十銭の、あの携帯用の箱が登場しました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が覚えているのは、もちろん大正の話ではありません。あの黄色い箱です。「滋養豊富・風味絶佳」という、子どもにはむずかしい字が並んでいて、けれど中身は文句なしに甘かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;「滋養豊富・風味絶佳」の森永ミルクキャラメル。あの黄色い箱は、遠足のお供だった。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/morinaga-milk-caramel.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただ、正直に打ち明けると、私はいつもミルクキャラメル一筋だったわけではありません。お店の前では、たいてい迷っていました。森永のミルクキャラメルにするか、それとも、グリコのおまけ付きキャラメルにするか。おまけのおもちゃが欲しい日もあれば、ただ甘いものを口にしたい日もある。子どもなりに、毎回それなりの葛藤があったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ところが、不思議なことがひとつ。小学校の遠足の前は、おやつが「三百円以内」と決められていて、その限られた予算で何を買うかは、子どもにとって一大事でした。あれこれ手に取っては戻し、さんざん迷う。——のに、遠足のときだけは、どういうわけか毎回ミルクキャラメルを選んでいたのです。普段はあれだけおまけに心を揺らしていたはずの私が、遠足の朝には、なぜか黄色い箱に手が伸びる。理由は、自分でもよくわかりません（笑）。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今になって思えば、こういうことだったのかもしれません。ミルクキャラメルは、噛まずに舌の上でゆっくり溶かしていけば、一粒で長くもつ。バスに揺られ、野山を歩き、お弁当を広げ……長い長い遠足の一日に、少しずつ取り出して味わうには、ちょうどよかったのでしょう。おまけは手に入れた瞬間に終わってしまうけれど、キャラメルの甘さは、一日かけてゆっくり続いてくれる。あれもまた、時間を味わうお菓子だったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの黄色い箱は、今もそのままの姿で売られています。久しぶりに一粒、舌の上で溶かしてみると、遠足の朝の気持ちが、ふっとよみがえるかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&#34;amz-box&#34;&gt;
  &lt;div class=&#34;amz-box-body&#34;&gt;
    &lt;div class=&#34;amz-box-title&#34;&gt;森永 ミルクキャラメル 大箱 149g×5箱&lt;/div&gt;&lt;div class=&#34;amz-box-note&#34;&gt;あの懐かしい黄色い箱／森永製菓&lt;/div&gt;
    &lt;a class=&#34;amz-box-btn&#34; href=&#34;https://www.amazon.co.jp/dp/B003J35WEY?tag=showa44man22-22&#34; target=&#34;_blank&#34; rel=&#34;nofollow sponsored noopener&#34;&gt;Amazonで見る ›&lt;/a&gt;
  &lt;/div&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;h2 id=&#34;夜のうちに時間を飛び越える--ドリーム号&#34;&gt;夜のうちに、時間を飛び越える ── ドリーム号&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;そして、きょうのもう一本。昭和四十四年（一九六九年）六月十日、東名ハイウェイバスの開業と同時に、夜行高速バス「ドリーム号」が走り出しました。高速道路を走り抜ける、日本で初めての夜行バスです。東京と大阪を、夜のあいだに結んでしまう。当時としては、ずいぶんと夢のある乗り物だったはずです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この夜行バスが走り出す少し前、昭和四十四年五月に、東名高速道路が全線開通したばかりでした。それまで東京と名古屋・関西を結ぶ大動脈といえば、その五年前に開業した東海道新幹線。ドリーム号は、いわばその新幹線を夜のあいだに補う足として登場したのです。運行開始当初は、東京〜大阪が二往復、東京から名古屋を経て京都へ向かう便が一往復。眠っているうちに目的地へ届けてくれるこのバスは、開業からしばらくのあいだ、日本でいちばん長い距離を走る路線バスでもありました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;少しあとの、昭和五十年ごろの時刻表が残っています。それを見ると、東京から名古屋までのおよそ三百五十キロを、速い便でも五時間半あまりかけて走っていました。運賃はその区間で千九百円ほど、夜行に乗るにはさらに三百円の指定料金が必要だったといいます。今の感覚からすれば、ずいぶんのんびりとした道のりです。それでも、ひと晩を乗り物の中で過ごして遠い街へ向かうという体験そのものが、あのころはまだ、真新しいものだったのでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和四十四年という年は、私にとって少しだけ特別です。私が生まれたのが、この年の四月。つまり私がこの世に出てきて、わずか二ヶ月後に、ドリーム号は東京の夜を初めて出発していたことになります。自分が生まれた年に走り始めたものと聞くと、勝手に親近感がわいてくるのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その「同い年」のバスに、私が実際に乗ったのは、ずっとあとのことでした。平成二十二年（二〇一〇年）。長男が小学六年生だった年です。その春と夏、私は息子を連れて、甲子園へ高校野球を観に行きました。その足に選んだのが、夜行のドリーム号だったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;夜の高速道路を走るJRハイウェイバス。息子と二人でこれに乗り、甲子園へ向かった。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/dream-bus-jr.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;東京駅の八重洲南口を、夜の十時ごろ出発する。大阪に着くのは、翌朝の七時ごろ。夜行バスの乗り場には、行き先の違うバスが何台も連なって停まっていて、それぞれの行灯のような行き先表示が、夜の中にぽつぽつと浮かんでいました。これからどこかへ運ばれていく人たちの気配。そのなかに、息子と私もいる。「さあ、息子との旅が始まるぞ」という高揚感で、胸がいっぱいになったのを、今でもよく覚えています。いい思い出です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;考えてみれば、不思議なものです。私が生まれた二ヶ月後に走り出したバスに、四十年あまりが過ぎて、今度は私が自分の息子と並んで揺られている。夜のうちに距離を飛び越える乗り物が、いつのまにか、親子の時間まで運んでくれていた。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;令和の今時間は手のひらの中に&#34;&gt;令和の今、時間は手のひらの中に&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;いま、時刻を知るのに苦労する人は、もういません。スマートフォンの画面には、いつでも秒まで表示されている。時間は、手のひらの中に常にあります。空き箱で時計を作らなくても、針の読み方を覚えなくても、数字はいつでもそこにある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、ミルクキャラメルは今も、あの黄色い箱のまま店に並んでいます。夜行バスは全国を縦横に走り、行き先も種類も、私が子どものころには想像もつかなかったほど増えました。時を計る道具は変わっても、一粒を急がず溶かす時間や、夜のうちに遠くへ運ばれていく時間は、きっと今も変わらずそこにある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;わが子が小学生だったあの夜、八重洲のバス乗り場で胸を高鳴らせたのも、もう十数年前のこと。時間というのは、計るそばから、こうして思い出に変わっていくものなのですね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;みなさんにとって、「時間をかけて味わったもの」は、何でしょうか。よかったら、聞かせてください。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;この記事は「昭和の今日は何があった日？」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-09/&#34;&gt;6月9日 ── ロックの日に、木曜九時のザ・ベストテンを思い出す&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-11/&#34;&gt;6月11日 ── 入梅。ビニール傘と、列島改造の槌音と&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>6月9日 ── ロックの日に、木曜九時のザ・ベストテンを思い出す</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-june-09/</link>
      <pubDate>Tue, 09 Jun 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-june-09/</guid>
      <description>&lt;p&gt;梅雨の走りの、少し湿った朝の空気を吸い込むと、私はなぜか古いカセットテープの匂いを思い出します。きょう六月九日は、六と九で「ロック」と読む語呂合わせから、「ロックの日」とされているのだそうです。音楽のロックを称える日。そう聞いただけで、私の頭の中では、もう何十年も前のテレビの歌番組のテーマ曲が鳴りはじめてしまうのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかも六月九日は、昭和三十九年（一九六四年）生まれの薬師丸ひろ子さんの誕生日でもあります。私より五つ年上の、銀幕のスター。もっとも、その話はあとで正直に白状するとして――きょうはまず、昭和の子どもだった私が、どんなふうに音楽と出会っていったのかを書かせてください。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;木曜の夜九時が待ち遠しかった&#34;&gt;木曜の夜九時が、待ち遠しかった&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;歌番組といえば何かと問われたら、私は迷わず『ザ・ベストテン』と答えます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和五十三年（一九七八年）に始まった、TBSの音楽番組。毎週木曜日の夜九時から、黒柳徹子さんと久米宏さんの司会で、その週のランキングを一位までカウントダウンしていく生放送です。私がまだ小学生の頃のことですが、とにかく木曜の夜九時が待ち遠しくて待ち遠しくて仕方がなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして翌日の金曜日。学校に行けば、まず友だちと「答え合わせ」です。何位だったか、誰がランクインしたか、自分の予想は当たったか。ひとしきり盛り上がったあとは、もう来週の予想を語り合っている。たかが歌のランキングに、よくもまあ、あれだけ夢中になれたものだと思います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それに、私たちにとってベストテンは、観るだけでなく「録(と)る」ものでもありました。毎週、ラジカセをわざわざテレビの前まで運んできて、お気に入りの歌をカセットテープに録音するのです。録音するには、赤い録音ボタンと、それとは少し離れたところにある白い再生ボタンを、二つ同時にガチャッと押し込まなければなりませんでした。あの重たい手応えを、覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;昭和のラジカセ。ベストテンの日は、これをテレビの前まで運んで録音に備えた。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/sony-radio-cassette-1973.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ところが、これがときどき失敗するのです。押し込みが甘かったのか、肝心のところが録れていなかった――そんな&amp;quot;やらかし&amp;quot;をした仲間がいると、金曜日の教室はもう大盛り上がり。順位の答え合わせと同じくらい、いや、ときにはそれ以上に、誰それの録音失敗談こそが、その週いちばんのごちそうだったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なかでもダントツに覚えているのが、西城秀樹さんの「YOUNG MAN（Y.M.C.A.）」です。何週にもわたって一位を独走したあげく、ついに得点が満点に達してしまった。レコードの売上も、有線のリクエストも、ラジオも、はがきも、ぜんぶが一位。その満点というのが、九千九百九十九点。番組の得点ボードは四桁までしか表示できませんでしたから、子ども心にも「これ、表示する数字が足りないじゃないか！」と大騒ぎしたものです。9がずらりと並んだあの数字の壮観は、いまでも目に焼きついています。両手で「Y・M・C・A」とやる振り付けを、教室のみんなで真似していたのも、ちょうどあの頃でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もうひとつ忘れられないのが、めったにテレビに出ない歌手が出演するとなったときの騒ぎようです。たとえば松山千春さん。「テレビは出るもんじゃなく、見るものだ」という考えで、長らく出演を断っていた人でした。その千春さんがベストテンに出るらしい――そんな話が伝わってくると、私たちはもう大興奮、大騒ぎでした。ところが不思議なことに、これだけ騒いだのですから本番を見逃すはずがないのに、いざ放送を見た瞬間の記憶だけが、すっぽりと抜け落ちているのです。残っているのは、その前のソワソワした昂(たかぶ)りばかり。当日の私は、興奮しすぎて、かえってぼうっとしていたのかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、ランキングの数字とはまた別に、私の胸に深く刻まれているコーナーがあります。「今週のスポットライト」です。久米さんが独特の&amp;quot;ため&amp;quot;をきかせて「今週の……スポッ……トライト！」と読み上げる、その週の注目曲をお披露目する枠でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あれは小学生の頃です。そのスポットライトに、ゴダイゴというグループが登場して、「ガンダーラ」という曲を歌いました。ゴダイゴって何だ？ ガンダーラって何だ？ 名前からして、何もかもが分からない。頭の中は「？？？」でいっぱいでした。けれど――そのよく分からなさを吹き飛ばすように、「ガンダーラ、ガンダーラ」と繰り返されるあの旋律が、たった一度聴いただけで、私をすっかり虜(とりこ)にしてしまったのです。早く、もう一度あれが聴きたい。子どもにそう思わせるほど、その一曲は強烈でした。のちに、あれが日本テレビのドラマ『西遊記』の歌だと知るのですが、私にとっての「ガンダーラ」は、ドラマよりも先に、あのスポットライトの一瞬から始まったのでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ランキングの頂点で満点に輝く曲があり、めったに姿を見せない人がいて、そして、まだ誰も知らない才能がそっと照らし出される。一つの番組の中に、音楽との出会いのぜんぶが詰まっていたように思います。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;フォークからロックへ&#34;&gt;フォークから、ロックへ&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;私が物心つく前、世の中ではフォークソングが鳴っていました。ギター一本で、自分のことばを歌う。少し上の世代のお兄さん、お姉さんたちが夢中になっていた音楽です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それが、私が小学校から中学、高校へと上がっていくにつれて、少しずつ景色が変わっていきました。フォークがニューミュージックと呼ばれるようになり、やがてバンドの音が前に出てくる。私が高校生だった昭和六十年代の半ばには、エレキギターをかき鳴らすバンドが、すっかり時代の主役になっていました。のちに「バンドブーム」と呼ばれる、あの熱気の入り口です。自分の聴く音楽が、上の世代から受け継いだものではなく、「自分たちの世代のもの」に変わっていく。その手触りを、ちょうど多感な時期に味わえたのは、いま思えば幸せなことだったのかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;レコード貸しレコード屋そしてエアチェック&#34;&gt;レコード、貸しレコード屋、そしてエアチェック&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;とはいえ、子どもにとって音楽は、そう簡単に手に入るものではありませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;レコードは高い。アルバム一枚が、子どものお小遣いではなかなか手の届かない値段です。そんな私たちの強い味方が、貸しレコード屋でした。昭和五十五年（一九八〇年）ごろから街に増えていったあの店で、聴きたいアルバムを借りてきて、家でカセットテープに録(と)る。一枚分の値段で、何枚分もの音楽を自分のものにできた気がしたものです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、もうひとつの方法が「エアチェック」。ラジオの、とくにFM放送で流れる曲を、ラジカセで録音するのです。FMの番組表が載った雑誌をめくって、お目当ての曲がかかる時間に印をつけ、その時刻になったら録音ボタンに指をかけて待ち構える。曲の頭が切れないように、DJのおしゃべりが終わる呼吸を読んで、そっとボタンを押す。そうやって自分だけの一本を編んでいくのが、たまらなく楽しかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;テープが擦り切れるまで聴いた、あの一本。誰にも「自分のカセット」があった時代。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/vintage-cassette-tapes.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;テープが擦り切れるまで聴いた、あの一本。きっと皆さんにも、それぞれの「あの一本」があるのではないでしょうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そういえば、カセットテープは令和のいまも、ちゃんと売られています。あの頃と同じmaxellの録音用テープ。手元のラジカセがまだ動くなら、もう一度「自分だけの一本」を編んでみるのも、いいかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&#34;amz-box&#34;&gt;
  &lt;div class=&#34;amz-box-body&#34;&gt;
    &lt;div class=&#34;amz-box-title&#34;&gt;maxell 録音用カセットテープ 46分 11本パック&lt;/div&gt;&lt;div class=&#34;amz-box-note&#34;&gt;あの頃と同じノーマルポジション。音楽の録音に&lt;/div&gt;
    &lt;a class=&#34;amz-box-btn&#34; href=&#34;https://www.amazon.co.jp/dp/B008ADR9LC?tag=showa44man22-22&#34; target=&#34;_blank&#34; rel=&#34;nofollow sponsored noopener&#34;&gt;Amazonで見る ›&lt;/a&gt;
  &lt;/div&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;h2 id=&#34;私のアイドルは河合奈保子から中森明菜へ&#34;&gt;私のアイドルは、河合奈保子から中森明菜へ&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;さて、冒頭の薬師丸ひろ子さんの話です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;正直に言うと、私はそれほどの映画少年ではありませんでした。だから薬師丸さんも、私にとっては「そうそう、いたいた」という感じの存在で……熱心なファンの方には、本当に申し訳ないのですが。映画館のスクリーンよりも、私の目はもっぱらテレビの歌番組のほうを向いていたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その歌番組の中で、私の心を占めるアイドルは、ちょうど移り変わっていく時期にありました。明るくて健康的な河合奈保子さんから、どこか翳(かげ)りのある大人びた中森明菜さんへ。ちょうど私が中学に上がるころのことだったでしょうか。いま思えば、自分が子どもから少年へと背伸びをはじめた時期と、好みの移りゆきが重なっていたのかもしれません。アイドルの趣味というのは、その人がどんな子どもだったかを、案外正直に映してしまうものなのですね。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;令和の今思うこと&#34;&gt;令和の今、思うこと&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;いまは、聴きたい曲があれば、スマートフォンで指を一本動かすだけで、世界中の音楽がすぐに鳴り出します。ランキングを来週まで待つこともなければ、貸しレコード屋に走ることも、録音ボタンの前で息を殺すこともない。歌いたくなれば、カラオケに行けばいい。……そういえば、ベストテンに夢中だったあの頃、カラオケボックスなんてまだありませんでした。覚えたての歌を、私たちはいったいどこで歌っていたのでしょうね。お風呂場でしょうか。（笑）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;便利になりました。本当に、便利になったと思います。ただ、いま思うのは、あの頃は国じゅうのみんなが、たった一つの番組を囲んで、いっせいに盛り上がっていたのだということです。木曜の夜、同じ時間に、同じランキングに、一喜一憂する。翌日の教室で、その話で誰とでも通じ合える。九千九百九十九点に日本じゅうが沸く、なんていう一体感は、音楽の聴き方が一人ひとりのものになった今では、なかなか味わえないものかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;皆さんにとっての「歌番組」といえば、何でしたか。木曜の夜、テレビの前で順位を待ったあの時間に、どんな曲が流れていたでしょうか。よかったら、聞かせてください。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;この記事は「昭和の今日は何があった日？」シリーズの一編です。昭和四十年〜六十四年（一九六五〜一九八九年）の「きょう」にあった出来事を、当時子どもだった私の目線で、ゆっくりと振り返っています。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-08/&#34;&gt;6月8日 ── 新木場から川越へ、一本の線がつないでいた&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-10/&#34;&gt;6月10日 ── 時を計る日に、手作りの時計と夜の高速バスを思う&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>6月8日 ── 新木場から川越へ、一本の線がつないでいた</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-june-08/</link>
      <pubDate>Mon, 08 Jun 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-june-08/</guid>
      <description>&lt;p&gt;梅雨入りの近い六月の朝。地上は今にも降り出しそうな鈍色（にびいろ）の空でも、地下鉄のホームへ降りてしまえば、雨も風も関係のない別世界がひろがっています。少しだけ埃（ほこり）っぽくて、生暖かい風がトンネルの奥からふわりと吹いてくる、あの感じ。きょう六月八日は、その地下鉄にまつわる、私のちょっと不思議な思い出の話をさせてください。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;私にとっての地下鉄は都営浅草線だった&#34;&gt;私にとっての「地下鉄」は、都営浅草線だった&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;私は京成高砂のあたりで育ちました。だから私にとって「地下鉄」というと、まっさきに思い浮かぶのは、都営地下鉄浅草線です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高砂の駅から電車に乗って出かけるとき、行き先にはおおきく二つの方向がありました。ひとつは、京成上野のほう。もうひとつは、押上を抜けて都営浅草線へと入っていく、浅草のほうです。同じ高砂発の電車でも、上野へ向かうときと、浅草方面へ向かうときとでは、子どもながらに、何か明らかに違うものを感じていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;上野方面が、どこか馴染みのある、地つづきの世界だとすれば、浅草方面は——その先で、ほかのいくつもの地下鉄の線と複雑に絡み合っている、「難しい」世界でした。日本橋だ、新橋だと、聞いたこともない乗り換えの駅がいくつも連なっていて、子どもの私には、その入り組んだ様子が、どうにも手に負えないものに見えたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、退屈はしませんでした。車両のなかに貼られた、いくつもの地下鉄の線が色とりどりに描かれた路線図。あれを眺めているだけで、目的の駅に着くまでの時間は、あっという間に過ぎていったのです。見たこともない駅の名前をひとつひとつ目で追いながら、「ここには、いったいどんな町があるのだろう」と、私は飽きもせず想像をふくらませていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;色とりどりの路線が交差する東京メトロの運賃表。あの頃の車内にも、こんな地図が貼られていた。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/tokyo-metro-faremap.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いま思えば、そんな路線図の中に、あの黄色い線も、きっとあったはずです。行ったこともなければ、乗ったこともない。ただ眺めて、その先の町を空想するだけの、一本の線として。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;昭和六十三年六月八日黄色い線が全部つながった&#34;&gt;昭和六十三年六月八日、黄色い線が全部つながった&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;その黄色い線が、ついに端から端までひとつながりになったのが、昭和六十三年（一九八八年）の六月八日でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この日、営団地下鉄有楽町線の新富町〜新木場間が開業し、和光市から新木場までの全線、二十八・三キロが開通したのです。昭和四十九年（一九七四年）に池袋〜銀座一丁目の区間が開業してから、実に十四年越しの全線開通でした。ラインカラーは、あの黄色。湾岸の埋め立て地・新木場までが、一本の線でようやく都心と結ばれた瞬間でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;有楽町線を走っていた7000系電車。黄色いラインカラーが、あの路線図の「黄色い線」そのものだった。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/yurakucho-line-7000.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そういえば、この「有楽町線」という名前そのものが、公募で決まったものだと知ったのは、ずっとあとのことでした。開業の前の年、営団地下鉄が路線名を広く一般から募ったところ、二千五百を超える案、三万通あまりもの応募が寄せられたのだそうです。そのなかでいちばん多かったのが「有楽町線」だった。子どものころ、あの黄色い線をただ眺めていた私には、線の名前ひとつにも、どこかの誰かの「こう呼びたい」という思いがこもっていたなんて、思いもよらないことでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;終点の「新木場」という地名も、考えてみれば面白いものです。もともと江東区には材木商が集まる「木場」という街がありました。その木材の街が、手狭になった都心から湾岸の埋め立て地へと移ってできたのが「新しい木場」、すなわち新木場なのです。当時はまだ、貯木場の水面と倉庫が広がる、発展のこれからという土地でした。そこへ地下鉄が一本通った。海の近くの埋め立て地にまで、都心の地下鉄が手を伸ばしてきたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このとき、私は十九歳。昭和という時代も、いよいよ最後の年に差しかかっていました。正直に言えば、私はこのニュースを、たいして気に留めていませんでした。都営浅草線には親しんでいた私にとっても、有楽町線は、子どものころ車内の路線図でただ眺めていた、あの「行ったこともない一本」のままだったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そしてこの黄色い線には、もうひとつ、私がのちのち驚かされることになる仕掛けがありました。西の端の和光市では、東武東上線と線路がつながっていて、電車はそのまま相手の線へと乗り入れていく。新木場を出た電車が、乗り換えなしで、はるか埼玉の森林公園のほうまで走っていくのです。この「乗り換えなし」という何でもない事実が、それから十数年後、思いがけず私の胸を打つことになります。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;新木場で気づいた母へ続く一本の線&#34;&gt;新木場で気づいた、母へ続く一本の線&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;時は流れ、私は三十代になっていました。縁あって佐川急便に勤め、配属されたのが、よりによって、あの新木場の営業所だったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう、昭和六十三年にようやく全線がつながった、あの有楽町線の終着駅です。十九歳の私が聞き流していた街に、まさか自分が毎日通うことになるとは、思ってもみませんでした。荷物に追われる日々のなかで、新木場という地名が、かつてニュースで聞いた「全線開通」の終点だったことなど、すっかり忘れていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;朝早くから、トラックが何台も出入りし、伝票の束と荷物の山に追われる毎日でした。湾岸の埋め立て地は海の風が強く、冬はことさら冷えました。それでも昼休みにふと外へ出ると、すぐそこまで水辺が迫っていて、ここはやっぱり海を埋め立ててできた街なのだな、と妙に納得したものです。子どものころ路線図の上で眺めていた「新木場」という三文字の終点に、まさか自分が毎朝、汗をかきながら立っているとは——人生というのは、つくづく分からないものです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ある日のこと。新木場駅に掲示されていた路線図を、何の気なしに眺めていて、私はふと手が止まりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「この線……一本で、川越まで行けるのか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当時、母は川越に住んでいました。新木場から有楽町線に乗れば、和光市で東武東上線へとそのまま乗り入れ、川越まで、乗り換えなしでたどり着いてしまう。あの、子どものころ車内の路線図で眺めては「どんな町だろう」と空想していた黄色い線の、ずっと先に、母の暮らす街がつながっていた。気づいた瞬間、胸の奥が、ふっと温かくなったのを覚えています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実際に私は、数えるほどではありますが、仕事を終えたその足で、職場から川越の母のもとへ向かったことがあります。東京湾の埋め立て地にある終着駅と、小江戸と呼ばれる川越の母の家。一見すると何の関わりもない二つの場所が、一本の黄色い線でまっすぐに結ばれている。揺られていく車内で、私は妙な感慨にとらわれていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;窓の外を流れていく景色が、地下のトンネルから、やがて地上の住宅街へと変わっていく。海辺の終着駅を出た電車が、いつのまにか埼玉の街並みを走っている。その車窓の移り変わりそのものが、新木場と川越という遠く離れた二つの場所が、確かにひと続きの土地なのだと、目で教えてくれているようでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;十九歳のとき、私が気にも留めなかったあの全線開通。それが巡り巡って、三十代になった私と、母とを結ぶ一本の道になっていた。子どものころ車内の路線図を眺めて「どんな町だろう」と空想していた黄色い線は、ずっと先のずっと先で、ちゃんと私自身の暮らしへとつながっていたのです。眺めるだけだったあの線に、いつのまにか私は、毎日乗っていた。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;令和の電車はもっと遠くまでつながっている&#34;&gt;令和の電車は、もっと遠くまでつながっている&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;あれから、東京の鉄道は、ますます複雑に、そして遠くまでつながりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いくつもの路線が互いに乗り入れ、横浜のずっと向こうから都心を抜け、さらに別の県へと、一本の電車が県境をいくつも越えて走っていく。今では、それが当たり前の風景です。手元のスマートフォンに行き先を打ち込めば、最短の経路が一瞬で表示される。乗り換えの回数も、何分後に着くかも、すべて画面が教えてくれます。私の子どもたちは、私のように路線図とにらめっこして、見知らぬ駅名に空想をふくらませることも、もうないのかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;便利になったぶん、あの新木場での小さな驚き——「この線、母までつながっていたのか」というあの感覚は、いまではかえって味わいにくくなった気もします。経路を教えてくれる矢印は、たしかに便利です。けれど、地図の上の一本の線が、いつのまにか自分の大切な人へとまっすぐ続いていたと気づく、あの胸の奥がふっと温かくなる驚きまでは、運んできてはくれないのですから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;地図の上のただの一本の線が、めぐりめぐって、自分の大切な人へとつながっている。そんなことに気づく瞬間が、人生にはときどき、ふいに訪れるのですね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたの暮らしの地図にも、知らないうちに、誰かと自分とを結んでいた「一本の線」は、ありませんか？&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;「昭和の今日は何があった日？」は昭和40〜64年（1965〜1989年）の出来事を、子ども目線で掘り起こすエッセイシリーズです。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
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    </item>
    <item>
      <title>6月7日 ── 鉄人・衣笠祥雄、一度も休まなかった男のこと</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-june-07/</link>
      <pubDate>Sun, 07 Jun 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-june-07/</guid>
      <description>&lt;p&gt;六月の朝、まだ薄曇りの空を見上げると、私はなぜか甲子園の照明を思い出します。きょう六月七日は、昭和の野球少年だった私にとって、忘れられない大記録が生まれた日なのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和六十一年（一九八六年）六月七日。甲子園球場での阪神戦で、広島東洋カープの衣笠祥雄が、日本プロ野球史上初の「二〇〇〇試合連続出場」を達成しました。当時の衣笠は三十九歳。少年のころから「鉄人」という言葉とともに私の記憶に住みついている、あの背番号3の人です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただ、正直に白状すると——私はこの「二〇〇〇試合」という数字を、その当時、たいして凄いとは思っていませんでした。そのことも含めて、きょうは衣笠という人の話を書かせてください。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;赤ヘルの黄金期を支えた男&#34;&gt;赤ヘルの黄金期を支えた男&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;衣笠が広島カープに入ったのは昭和四十年（一九六五年）。京都の平安高校では捕手として甲子園に二度出た選手でしたが、プロでは内野手に転向します。地道な練習でレギュラーをつかみ、やがて四番の山本浩二と組んで「YK砲」と呼ばれる二枚看板になりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和五十年（一九七五年）、それまで万年Bクラスと言われ続けてきた広島カープが、球団創設から二十六年目にして、ついに初めてのリーグ優勝を果たします。あの「赤ヘル旋風」の主力打者が、衣笠でした。しかも脚も速く、昭和五十一年には盗塁王のタイトルまで獲っている。ホームランも打てば、走れもする。そういう派手さも、ちゃんと持った選手だったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だからこそ、その衣笠が「鉄人」という、どこか地味で武骨な異名で呼ばれ続けたことには、れっきとした理由があります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;昭和61年・2000試合連続出場を達成したときの衣笠祥雄のユニフォーム&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/kinugasa-uniform-1986.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;鉄人を決定づけたたった一打席&#34;&gt;「鉄人」を決定づけた、たった一打席&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;衣笠がなぜ「鉄人」と呼ばれたのか。それを語るとき、どうしても外せない一日があります。二〇〇〇試合よりも、ずっと前。昭和五十四年（一九七九年）八月一日のことです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実はこの年、衣笠は野球人生でも指折りのスランプに苦しんでいました。打率は一時、二割を切るところまで落ち込んだ。連続フルイニング出場というもうひとつの記録が懸かっていたのに、五月にはとうとう先発を外され、その記録は途切れてしまいます。それでも代打で出場して、連続試合出場のほうは何とかつなぎ続けていた。大記録が、細い糸でかろうじて保たれていた。そんなときの出来事でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;広島市民球場での巨人戦。マウンドにいた巨人の西本聖の投球が、衣笠の背中を直撃しました。倒れ込む衣笠。直後に両軍入り乱れての大乱闘になったというのですから、球場は相当な騒ぎだったのでしょう。病院に運ばれた衣笠は、左の肩甲骨を骨折していました。全治二週間。普通なら、長期欠場です。当然、医師は出場を止めました。このとき連続試合出場は千百二十二試合。十年近く積み上げてきた記録が、ここで途切れてもおかしくなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ところが、です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;翌二日の試合、衣笠は代打で打席に立ちました。骨折した体で、バットを持って。相手は、あの怪物ルーキー・江川卓。結果は三球三振でした。けれど衣笠は、その三球すべてをフルスイングした。ヘルメットが飛ぶほどの、本気の空振りだったといいます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;衣笠が代打で姿を見せた瞬間、広島ファンだけでなく、巨人ファンも、そして巨人のベンチからまで、大きな拍手が起きたそうです。敵も味方もない。野球を見ている人間なら、誰だってあの場面には胸を打たれたはずです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;試合後、衣笠が残した言葉が、また、たまらない。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote&gt;
&lt;p&gt;「一球目はファンのために、二球目は自分のために、三球目は西本君のためにスイングしました」&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;そして、こう付け足したそうです。「それにしても江川君の球は速かった」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ぶつけた西本を責めるどころか、「西本君のために振った」と言う。痛みに耐えて立った打席の話なのに、最後はちゃんと笑える。かっこよすぎませんか。この一打席がなければ、連続試合出場記録はあの夏で終わっていたのです。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;一万八千日を休まなかった&#34;&gt;一万八千日を、休まなかった&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;衣笠の連続試合出場は、昭和四十五年（一九七〇年）十月十九日に始まり、昭和六十二年（一九八七年）十月二十二日まで続きました。最終的な記録は、二二一五試合。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;十七年間、ただの一試合も休まなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;数字にすればたった四文字ですが、これがどれほど常軌を逸したことか。十七年といえば、生まれた赤ん坊が高校を卒業してしまう年月です。その間ずっと、デッドボールを受けても、熱があっても、打てない日が続いても、衣笠はグラウンドに立ち続けた。冒頭で触れた骨折の翌日でさえ休まなかった人ですから、ほかは推して知るべしでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;ゲーリッグを超えた日&#34;&gt;ゲーリッグを超えた日&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;二〇〇〇試合到達の翌年、昭和六十二年（一九八七年）の六月。ちょうど私が高校最後の年を過ごしていたころ、衣笠はさらに信じがたい場所までたどり着きます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大リーグの伝説の名選手ルー・ゲーリッグが持っていた、連続出場二一三〇試合という世界記録。それを、衣笠は抜いてしまったのです。万年Bクラスと言われた広島の、ひとりの内野手が、海の向こうの「不滅」と言われた記録を更新した。その年、衣笠は国民栄誉賞を受けました。背番号3は、いまもカープの永久欠番です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;同じ「連続出場」という記録に挑んだ二人の鉄人、衣笠祥雄とカル・リプケンJr.&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/ripken-and-kinugasa.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;高校球児だった私には地味に見えていた&#34;&gt;高校球児だった私には、地味に見えていた&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;さて、ここで最初の白状に戻ります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和六十一年に衣笠が二〇〇〇試合に到達したとき、私は高校で野球をやっていました。来る日も来る日も白球を追いかけていた、いっぱしの球児のつもりでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その私の目に、「連続試合出場記録」というのは、どうにも地味に映っていたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ホームランの数なら、わかる。打率なら、わかる。奪三振や勝ち星なら、誰が見たって凄い。でも「休まず出続けた試合の数」と言われても、当時の私は「ふうん、よく休まなかったね」くらいの感覚でしか受け止められなかった。派手なヒーローに憧れる十代の球児には、その地味さの奥にある凄みが、まるで見えていなかったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;自分が毎日グラウンドに立っていたからこそ、かえって「出続けること」を当たり前のように思っていたのかもしれません。若いというのは、そういうことなのでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いま思えば、あのころの私が憧れていたのは、一本のホームランで試合をひっくり返すような、わかりやすい英雄でした。一球、一打席で景色がガラリと変わる。その鮮やかさに、しびれていた。地道に毎日出続けるという、目立たない凄みのほうに目が向くには、私はまだ若すぎたのです。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;その凄さに気づいたのはずっと後だった&#34;&gt;その凄さに気づいたのは、ずっと後だった&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;私が衣笠の記録の本当の重さを知ったのは、それから二十年以上もたってからでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きっかけは、金本知憲です。広島から阪神へ移り、衣笠と同じように「鉄人」「アニキ」と呼ばれ、毎日フルイニングで出続けた、あの金本。けがをしてもグラウンドに立ち続けるその姿は、まさに衣笠の再来のようでした。誰もが「この男なら、いつか衣笠を抜くかもしれない」と思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ところが、その金本ですら、連続試合出場は千七百六十六試合で止まりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;衣笠の二二一五試合には、四百試合以上も届かなかった。フル出場をひとつの誇りとして生きた、現代の鉄人。その金本が、これほど積み上げてなお、あの数字に手が届かない。そのことを知ったとき、私はようやく、背筋が寒くなるような思いで理解したのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ああ、衣笠のあの記録は、そういう次元の話だったのか、と。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高校球児だった私が「地味だ」と切り捨てていたものは、実は、人ひとりの選手生命をまるごと賭けても並べるかどうか、という途方もない金字塔だった。地味どころか、いちばん真似のできない記録だったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;派手なホームランは、調子が良ければ誰にでも飛ぶ瞬間があります。けれど「休まない」は、調子が悪い日にこそ問われる。打てない日も、痛い日も、それでも立つ。その地味の積み重ねだけが、二二一五という数字になる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;衣笠が現役を退いてから、もうすぐ四十年。あの二二一五試合は、令和のいまも破られていません。誰も、まだそこへたどり着けずにいるのです。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;休まないことの静かな凄み&#34;&gt;休まないことの、静かな凄み&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;考えてみれば、これはグラウンドの上だけの話ではない気がします。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;派手な成果ではなく、ただ毎日、当たり前の顔をして同じ場所に立ち続ける。昭和という時代には、そういう「休まない大人」が、あちこちにいました。子どもの私は、その背中を見ても、当時は何とも思わなかった。衣笠を地味だと感じていたのと、たぶん同じことです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;凄さに気づくのは、いつだって、ずっとあとになってから。きょう六月七日、甲子園で二〇〇〇という数字が灯った日に、私はそんなことを思い返しています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;思えば、こうして昭和の一日一日を掘り起こす文章を書いていると、当時は素通りしてしまった出来事の値打ちに、いまさらながら気づかされてばかりです。衣笠の二〇〇〇試合も、まさにその一つでした。地味だと感じていたものほど、何十年もたってから、じわりと効いてくる。あのころの自分に「お前が地味だと思っているそれが、いちばん凄いんだぞ」と教えてやりたいような、そんな気分にもなります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;みなさんには、若いころは「地味だ」と思っていたのに、年を重ねてから「あれは凄いことだったんだ」と気づいた人や出来事は、ありませんか。よかったら、聞かせてください。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;この連載「昭和の今日は何があった日？」は、昭和四十〜六十四年（一九六五〜一九八九年）の出来事を、ひとりの子どもだった私の目線で、その日その日に振り返っていく記録です。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-06/&#34;&gt;昭和の今日は何があった日？　6月6日 ― 「外で遊んではいけません」白いモヤと光化学スモッグ注意報&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-08/&#34;&gt;6月8日 ── 新木場から川越へ、一本の線がつないでいた&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>昭和の今日は何があった日？　6月6日 ― 「外で遊んではいけません」白いモヤと光化学スモッグ注意報</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-june-06/</link>
      <pubDate>Sat, 06 Jun 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-june-06/</guid>
      <description>&lt;p&gt;六月六日になりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この日には、昔から少し変わった言い伝えがあります。「芸事は、六歳の六月六日に始めると上達する」というもの。日本舞踊やお琴、三味線といった習い事の世界で、よく語られてきた験かつぎです。指を一本ずつ折って数えていくと、ちょうど六本目で小指が立って「六」の形になる――だから六歳の六月六日がいい、なんて説もあるそうですね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この縁起にちなんで、六月六日は「楽器の日」「邦楽の日」とも定められています。歌舞伎の名作『寺子屋』に出てくる手習いの場面も、ちょうどこの季節。昔の子どもたちは、梅雨入り前のしっとりとした六月のはじめに、筆を持ち、三味線を抱え、新しい何かを始めたのですね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なんとも風流な話です。けれど、正直に言えば、私自身の「六月」の記憶をたぐり寄せると、芸事よりも先に、もっと無粋な言葉が浮かんできてしまうのです。それも、習い事のような上品なものとは正反対の、当時の東京の空にべったりと貼りついていた、あの言葉が。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それが――&lt;strong&gt;「光化学スモッグ注意報」&lt;/strong&gt;。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今日は少し、あの白くかすんだ夏空の話を、のんびり振り返ってみたいと思います。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;テレビと校内放送から流れてきたあの決まり文句&#34;&gt;テレビと校内放送から流れてきた、あの決まり文句&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;小学生のころ、夏が近づくと、テレビのニュースからこんな声が流れてきました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「本日、東京都内に光化学スモッグ注意報が発令されました。屋外での激しい運動は避けてください」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;子ども心にも、なんだか物々しい響きでした。そして決まって、その日は学校でも校内放送が入るのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ただいま、光化学スモッグ注意報が発令されました。外で遊ばないでください」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;スピーカーから流れるあの放送が入ると、先生からもひと言。「今日は昼休みの外遊びは禁止です」。せっかくの晴れた昼休みに、教室や廊下でおとなしくしていなさい、というわけです。ドッジボールもおにごっこもお預け。窓の外には、なんだかいつもより白っぽい空が広がっている。あれはちょっと、納得のいかない時間でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;晴れているのに外に出られない、というのは、子どもにとってなかなか不条理なものです。雨で中止になるなら、まだあきらめもつく。けれどもピカピカに晴れた空を窓越しに眺めながら、教室で席に着いているのは、どうにも落ち着かない。教室に取り残された男の子たちは、黒板の前で相撲を取ったり、消しゴムを指ではじいて机の上で「消しゴム相撲」をやったり。先生の目を盗んでは、廊下の隅で小さな騒ぎを起こしていたものです。今思えば、外が危ないからと閉じ込められていたはずの教室の中のほうが、よほど騒がしかったかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;これが光化学スモッグかぁわかった気になっていた私&#34;&gt;「これが光化学スモッグかぁ」――わかった気になっていた私&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ただ、ここで正直に白状しておかなければなりません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私自身は、光化学スモッグが原因で目がチカチカしたとか、喉が痛くなったとか、そういう体の不調を自覚したことが、ただの一度もなかったのです。まわりの友達にも、「やられた」という子はいませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ですから、注意報が出ているといっても、私たちにとってはどこか他人事。学校では神妙な顔で放送を聞いていても、いざ下校してしまえば、へっちゃらなものです。ランドセルを玄関に放り込んで、いつも通り、夕方まで外遊びに明け暮れていました。注意報も何も、あったものではありません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、空を見上げると――たしかに、白いモヤがかかっているように見えるのですね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;抜けるような青空ではなく、どこか牛乳を一滴落としたような、ぼんやりと濁った白。「ああ、これが光化学スモッグかぁ」。そうつぶやきながら、本当のところは何ひとつわかっていないくせに、なんだか自分は世の中の仕組みを一つ知ったような、わかった気になっていた。子どもというのは、そういうところがありますね。今思い出すと、少し可笑しくなります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;むしろ、注意報の出た日は、どこか胸が躍るような気持ちさえあったかもしれません。いつもと違う校内放送が入り、先生が少しあわてた様子を見せる。それだけで、退屈な学校の一日に、ちょっとした事件の気配が混じる。危ないものの正体を知らない子どもにとっては、災害も警報も、半分は冒険のようなものだったのです。下校のチャイムが鳴れば、そんな白い空の下へ、われ先にと飛び出していくのですから、世話はありません。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;あの白い空のほんとうの正体&#34;&gt;あの白い空の、ほんとうの正体&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;では、あの「光化学スモッグ」とは、いったい何だったのか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ごく簡単に言えば、自動車の排気ガスなどに含まれる物質が、夏の強い日差しを浴びて化学反応を起こし、目やのどを刺激する有害な成分に変わってしまう――それが空にたまった状態のことです。風の弱い、よく晴れた蒸し暑い日に起こりやすい。だから夏に多かったわけですね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;昭和の東京を覆ったスモッグ。空撮するとよくわかる、あの白いもや。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/tokyo-smog-aerial.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;おもしろいもので、朝のうちは何ともなかった空が、日が高くのぼる昼すぎになると、じわじわと白く濁ってくる。注意報が出るのも、たいてい午後でした。今思えば、太陽が真上から照りつけて、空の上で見えない化学の実験がいちばん盛んに進む時間帯だったわけです。あの「昼休み禁止」は、理屈の上では、ちゃんと筋が通っていたのですね。当時の私には、知るよしもありませんでしたが。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;日本でこの被害が初めて大きく知られたのは、昭和四十五年（一九七〇年）七月十八日のこと。東京・杉並の東京立正中学・高校で、体育の授業中だった生徒四十三名が、いっせいに目やのどの痛みを訴えて倒れ、大騒ぎになりました。当時は原因がすぐにはわからず、人びとを不安にさせたといいます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、ちょうど今日――六月六日も、忘れられない日でした。昭和四十七年（一九七二年）の六月六日、関東一帯を大規模な光化学スモッグが襲い、埼玉県では学校の生徒を中心に約千八百人、東京都内でも九百人を超える人たちが、目やのどの痛みを訴えたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;注意報が出される延べ日数は、昭和四十八年（一九七三年）にピークを迎え、その年だけで全国で三百日を超えました。昭和五十年ごろまでの数年間は、毎年のように二百五十日以上。――そう、私がランドセルを背負って葛飾の町を駆け回っていた、まさにあの時期が、日本の空がいちばん白く濁っていた季節だったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当時の東京には、注意報が出ているかどうかを知らせる電光の表示灯が、町なかや学校に設けられていたといいます。今の若い人に話しても、なかなか信じてもらえないでしょう。空の状態を、信号機のように灯りで知らせなければならなかった時代があった――そう書いてみると、あらためて、ずいぶん遠くまで来たのだなという気がします。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高度経済成長のまっただ中。車が増え、工場が煙を上げ、町はどんどん便利で豊かになっていきました。その豊かさの裏側で、空はあんなふうに白くかすんでいた。子どもだった私は、便利さの代償なんて言葉も知らないまま、その白い空の下で、ただ無邪気に遊んでいたのですね。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;令和の子どもたちには別の言葉が&#34;&gt;令和の子どもたちには、別の言葉が&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ところで――最近、「光化学スモッグ注意報」という言葉を、めっきり聞かなくなったと思いませんか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;車の排ガスがきれいになる仕組みが進んだおかげで、あの白い空は、いつの間にか青さを取り戻していきました。今の子どもたちは、校内放送で「外で遊ぶな」と言われた経験など、ほとんどないのではないでしょうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;街に立ちこめるスモッグ。「外で遊んではいけません」と言われたあの空の色。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/smog-in-tokyo.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その代わりに、今の夏に響いているのは「熱中症アラート」です。「危険な暑さです。屋外での運動は控えてください」――言われてみれば、私たちの「光化学スモッグ注意報」と、ずいぶんよく似ています。空から降ってくる危険の中身は変わっても、晴れた日に子どもを外から呼び戻す、大人たちの心配そうな声だけは、半世紀を越えて変わらないのですね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もっとも、中身をよく見ると、ずいぶん違うようにも思います。光化学スモッグは、私たちが車や工場で自ら作り出してしまった汚れでした。だからこそ、技術の力で、いったんはきれいに片づけることができた。けれど今の暑さは、もっと大きく、もっと根の深いところから来ているように見えます。教室に閉じ込められてふくれっ面をしていればよかった私たちの時代より、令和の子どもたちが向き合っている空のほうが、ひょっとすると手ごわいのかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あのころ、白いモヤの正体もよくわからないまま、注意報なんてどこ吹く風で遊び回っていた私。令和の今、外で遊ぶ子に「暑いから無理しちゃだめだよ」と声をかける側になってみると、なんとも不思議な気持ちになります。あれほど大人の心配を素通りしていた子どもが、いつの間にか、同じ言葉を口にする番になっている。時というのは、そうやって静かに、役回りを入れ替えていくものなのですね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;みなさんの夏空は、青かったでしょうか。それとも、あの白いモヤを覚えているでしょうか。よろしければ、あなたの「注意報」の思い出も、聞かせてください。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;また明日、別の「今日」でお会いしましょう。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;この連載「昭和の今日は何があった日？」は、昭和四十〜六十四年（一九六五〜一九八九年）の出来事を、ひとりの子どもだった私の目線で、その日その日に振り返っていく記録です。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
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    </item>
    <item>
      <title>「トキ」という、少し寂しい言葉 ― 6月5日・環境の日に</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-june-05/</link>
      <pubDate>Fri, 05 Jun 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-june-05/</guid>
      <description>&lt;p&gt;六月五日は「環境の日」です。世界では「世界環境デー」と呼ばれています。一九七二年のこの日、スウェーデンのストックホルムで「国連人間環境会議」というものが開かれた。それにちなんで定められた日なのだそうです。……と書くと、ずいぶんとお堅い話に聞こえますね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;正直に言えば、子どもの頃の私にとって「環境」などという言葉は、どこか遠い、大人の世界の言葉でした。学校で「公害」と一緒に教わったような、なんだか難しくて、自分の暮らしとはつながらない言葉。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも今日は、その「環境」という言葉が、私の中でずっと一羽の鳥と結びついている、という話をさせてください。トキの話です。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;四十年前の小さな夕刊記事&#34;&gt;四十年前の、小さな夕刊記事&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ちょうど四十年前、昭和六十一年の今日――一九八六年六月五日の新聞の夕刊に、小さな、けれどどこか胸の奥がしんとするような記事が載りました。見出しはこうです。「雌のアオ死ぬ 残るのは二羽」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アオというのは、佐渡で大切に守られていたトキの名前でした。鳥に一羽ずつ名前がついている。それだけでも、どれほど大事に、まるで家族のように見守られていたかが伝わってきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;繁殖の望みが、また一つ消えた。残されたトキは、もう二羽だけ。一羽、また一羽と減っていく、その静かなカウントダウンの一コマだったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この時、私はもう十七歳になっていました。けれど、この夕刊の記事をリアルタイムで読んだ記憶は、実は私にはありません。私の「トキ」の記憶は、もっと前の、もっとぼんやりとしたところにあるのです。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;テレビから流れてきたトキ&#34;&gt;テレビから流れてきた「トキ」&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;子どもの頃、夕方のテレビから、ときどき「トキ」という言葉が流れてきました。たいていはニュースの時間です。そして決まって、その後ろには「絶滅の危機」という言葉がくっついていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;正直なところ、意味はよく分かっていませんでした。佐渡という島がどこにあるのかも知らない。ピンクがかった白い羽の鳥なんて、もちろん見たこともない。葛飾の、東京の二十三区でも東のいちばん端っこに住んでいた子どもにとって、トキはどこまでも縁のない存在でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;ニッポニア・ニッポン（トキ）― 日本の名を冠した、この国で最も有名な鳥&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/toki-nipponia-nippon.png&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから私の中のトキは、鳥というより「言葉」だったのです。「トキは佐渡に数羽だけいて、どうやら、もうすぐいなくなるらしい」。理解していたのは、それくらい。あとはただ、ぼんやりとした寂しさの気配だけが残りました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夕飯前のあの時間、テレビでは六時五十分からドラえもんが始まる。明るくて、にぎやかで、楽しい。けれど、その前のニュースの時間にときおり顔を出す「トキ」という言葉だけは、なぜか少しうつむいた、ひんやりとした響きをしていました。同じ茶の間のテレビから流れてくるのに、まるで別の色をしている。子ども心にも、「これはあまり楽しい話ではないらしいぞ」という空気は、ちゃんと伝わってきたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの頃、テレビからは「絶滅」という言葉が、いろいろな生きものの名前とくっついて、ときどき流れてきました。けれど不思議なもので、その多くは右から左へ抜けていったのに、「トキ」だけは、なぜか妙に耳に残りました。短くて、やわらかくて、口にしやすい名前だったからかもしれません。あるいは、ニュースを読む大人たちの声が、その言葉のときだけ、ほんの少し沈んで聞こえたからかもしれません。理屈ではなく、「大事なものが、手の届かないところで静かに終わろうとしている」という感じ。子どもは、案外そういう気配だけは、敏感に受け取ってしまうものです。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;日本の日本という名の鳥&#34;&gt;「日本の日本」という名の鳥&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;大人になってから知ったことですが、トキの学名は「ニッポニア・ニッポン（Nipponia nippon）」というのだそうです。日本の、日本。これほど日本という国を背負わされた名前の鳥も、なかなかいないでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その「日本の日本」が、なぜ消えていったのか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;明治のころから、美しい羽や肉を目当てに、トキはさかんに捕られました。さらに戦後、田んぼに強い農薬がまかれるようになると、トキが食べていたドジョウやカエル、小さな生きものたちが姿を消していきます。餌そのものが、田んぼから失われていったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、私が今回いちばん胸を打たれた一羽がいます。「能里（のり）」という名のトキです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一九七〇年（昭和四十五年）の一月、本州で最後の一羽となっていたトキが、石川県の穴水町で捕獲されました。それが能里でした。これ以上、本州の野生で生き延びることはできない。せめて繁殖のためにと、佐渡へ移されることになったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;移送に携わった地元の方が、のちにこう振り返っています。何としても無事に送り届け、長生きさせたい。そう祈るような気持ちで、車に同乗して県境まで運んだ、と。けれど能里は、翌年の春に死んでしまいました。そして解剖をしてみると、その小さな体には、農薬と水銀が残っていたといいます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;田んぼを追われた鳥の体に、田んぼの毒が残っていた。これほど切ない話が、あるでしょうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その方は穴水町の生まれで、子どもの頃は、家のすぐそばの神社の境内から、毎日のようにトキが空を舞う姿を見上げていたそうです。ピンク色の羽がきれいで、身近で、大切な存在だった、と。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;つまり、ほんの一世代前には、トキは「あたりまえに空にいる鳥」だったのです。それが、私が子どもの頃には、もう「テレビの中の、消えかけた言葉」になっていた。たった数十年の間に、あたりまえに見上げていたものが、一羽ずつ、名前と寂しさだけを残して空から消えていった。そういうことだったのだと、今になって分かります。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;カウントダウンのその先&#34;&gt;カウントダウンの、その先&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;一九八六年にアオが死んで、残るは二羽。あの夕刊が伝えた静かなカウントダウンは、その後も止まりませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一九九五年（平成七年）には、ミドリという一羽が死にます。残されたのは、キンというトキ、ただ一羽だけ。日本で生まれた、最後のトキです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;佐渡のケージで晩年を過ごした「キン」― 日本産最後のトキ&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/toki-kin.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして二〇〇三年（平成十五年）の秋、そのキンも、佐渡のケージの中で静かに息を引き取りました。推定で三十六歳。鳥としては、たいへんな長寿だったといいます。新聞各紙は、大きな見出しで「日本産のトキは絶滅した」と報じました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このときには、私もすっかり大人になり、自分の子どもを抱える父親になっていました。子どもの頃、夕方のテレビからぼんやりと受け取っていた「もうすぐいなくなる鳥」という言葉は、こうして、ついにいちばん寂しい場所まで行き着いてしまったのです。「危機」ではなく、「絶滅」。日本の空から、ニッポニア・ニッポンが、本当にいなくなった瞬間でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これで終わっていたら、今日の話は、ただただ寂しいだけの話になっていたはずです。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;そして今年のこと&#34;&gt;そして、今年のこと&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ここからは、つい先日、私自身が初めて知って、思わず声が出てしまった話です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二〇二六年五月三十一日、石川県の羽咋市で、トキが本州で初めて放鳥されました。空に放たれたのは八羽。秋篠宮ご夫妻も見守るなか、箱からいっせいに飛び立ったトキを、会場の七百人ほどの人たちが、拍手と歓声で見送ったといいます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本州の空をトキが堂々と舞うのは、あの能里が捕らえられた一九七〇年以来、実に五十六年ぶりのことでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;考えてみてください。私がテレビの前で「もうすぐいなくなるらしい」と、ぼんやり寂しさだけを受け取っていた、あの鳥です。それが、半世紀を越えて、また本州の空に帰ってきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;日本産のトキが絶滅したあと、希望をつないだのは、中国から贈られた一組のつがいでした。一九九九年（平成十一年）、「友友（ヨウヨウ）」と「洋洋（ヤンヤン）」という二羽が海を渡ってきて、佐渡で人工繁殖に成功します。最初に生まれたヒナには「優優（ユウユウ）」という名がつきました。そこから一羽、また一羽と数が増え、二〇〇八年にはついに佐渡で放鳥が始まります。今、日本の空を舞うトキは、みなこの中国生まれのつがいの子孫なのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうして佐渡でこつこつと数が積み上がり、二〇二四年の暮れには、野生のトキは推定五百七十六羽にまでなりました。今年の三月には、絶滅危惧のランクも一段、引き下げられたそうです。そして能登では、このトキの放鳥が、地震からの「復興のシンボル」として位置づけられている。傷ついた土地に、希望の鳥が帰ってくる。そういう物語になっているのです。地元には「のとっきー」という応援キャラクターまで生まれて、子どもたちと一緒に放鳥を見守ったと聞きます。さらに来年度には、島根県の出雲でも放鳥が予定されているそうです。トキの空は、これから少しずつ広がっていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;先日、私はこのブログでパンダの話を書きました。あちらは「今、日本に一頭もいなくなってしまった」という、少し寂しい話でした。けれど今日のトキは、ちょうどその逆です。「五十六年ぶりに、帰ってきた」という話なのですから。同じ週に、こんなに対照的な二羽（一頭と一羽、ですね）の話を書くことになるとは、思ってもみませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;トキという言葉のその後&#34;&gt;「トキ」という言葉の、その後&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;子どもの頃、私のテレビから流れてきた「トキ」は、いつも少しうつむいた、寂しい言葉でした。「絶滅の危機」「もうすぐいなくなる鳥」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それが、半世紀を越えた今、能登の青空を堂々と舞っています。私の子どもたちや、さらにその先の世代にとって、「トキ」はもう、寂しい言葉ではないのかもしれません。むしろ「帰ってきた鳥」「守りきった鳥」として、明るい響きで耳に入ってくるのでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;言葉の響きは、時代とともに変わっていくものなのですね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;六月五日の「環境の日」と聞いても、子どもの頃の私なら、やっぱりピンとこなかったと思います。けれど今は、少しだけ分かる気がします。環境を守るというのは、難しい理屈の話である前に、「あたりまえに空にいた鳥を、もう一度あたりまえに空へ戻す」という、それくらい具体的で、それくらい気の長い営みなのだと。能里を県境まで運んだ人も、田んぼの農薬を減らした佐渡や能登の農家の人たちも、半世紀をかけて、その地道な仕事を続けてきたのでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたのテレビからも、あの頃、「トキ」という言葉は、どこか寂しい響きで流れてきませんでしたか。そして今、その同じ言葉が、青空を飛んでいくのです。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;もう一つのトキ&#34;&gt;もう一つの「トキ」&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;最後に、もう少しだけ、私自身の話をさせてください。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実をいうと、私にとって「トキ」という言葉は、ニュースの中だけのものではありませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の母は、昭和十三年の生まれで、今年で八十八歳になります。新潟県の生まれ。そして、名を「トキ子」というのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;佐渡島の出身というわけではありませんし、名前の由来を、私は母の口から聞いたことがありません。トキ子という名は、あの時代の女の子に、わりとよくつけられた名前でもありました。だから、あの鳥にちなんだものなのかどうか、本当のところは分かりません。聞いておけばよかったと思うのですが、こういうことは、たいてい聞きそびれたまま、時間だけが過ぎてしまうものですね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも――新潟に生まれた、トキ子。もしかしたら、生まれ故郷の空に、まだトキがあたりまえに舞っていた最後の時代に、その美しい鳥にあやかって名づけられたのかもしれない。そう想像すると、私の中で、ニュースの「トキ」と、母の「トキ子」が、そっと一本の線でつながるのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その母は今、病と闘いながら、入院しています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;新潟の隣、能登の空に、五十六年ぶりにトキが帰ってきた。私はこのニュースを、何より母に伝えたいと思いました。お母さん、あなたと同じ名前の鳥が、半世紀をこえて、またこの国の空を飛んでいるよ、と。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;絶滅したとまで言われた鳥が、それでもあきらめずに守られて、こうして帰ってきました。その同じ名を持つ母にも、どうかもう少しだけ、こちらの空の下にいてほしい。「トキ子」という名前に、私はもう一度、力を貸してもらいたいのです。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-04/&#34;&gt;6月4日は「むし歯予防デー」── 歯医者さんと駄菓子のあいだで&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-06/&#34;&gt;昭和の今日は何があった日？　6月6日 ― 「外で遊んではいけません」白いモヤと光化学スモッグ注意報&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>6月4日は「むし歯予防デー」── 歯医者さんと駄菓子のあいだで</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-june-04/</link>
      <pubDate>Wed, 03 Jun 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-june-04/</guid>
      <description>&lt;p&gt;六月に入って、空気がだんだん重たくなってきました。もうすぐ梅雨ですね。じめじめした季節の入り口に、私がいつも思い出す「数字あそび」があります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;六月四日。「6（む）4（し）」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう、きょうは「むし歯予防デー」です。子どものころ、これを学校で教わったときに「うまいこと言うなあ」と妙に感心したのを、いまでもよく覚えています。数字を語呂に変えてしまう、あの感覚。考えてみれば、昭和の子どもは、こういう語呂合わせをやたらと覚えるのが得意でしたよね。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;むし歯予防デーは戦争よりも前から&#34;&gt;「むし歯予防デー」は、戦争よりも前から&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;調べてみると、この語呂合わせはずいぶん古い。日本歯科医師会が「6（む）4（し）」にちなんで六月四日を「むし歯予防デー」と定めたのは、なんと昭和三年（一九二八年）のことだそうです。私の生まれるよりも、ずっとずっと前。父や母が生まれるよりも前の話です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;おもしろいのは、戦争のさなかにも、この日が大事にされていたということ。戦時下の東京・後楽園スタジアムで「歯みがき大会」が開かれ、球場がぎっしり埋まるほどの人が集まったという記録が残っています。食べるものも満足にない時代に、それでも「歯を大切に」と人が集まった。そう聞くと、歯というのは、贅沢とは関係のない、生きることそのものに直結した話なのだなと、あらためて思います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;戦後にも、この日はちゃんと受け継がれました。昭和三十年（一九五五年）からは六月四日から十日までを「歯の衛生週間」として、全国の学校で歯の検診が行われるようになります。いまは名前を変えて「歯と口の健康週間」と呼ばれていますが、起点が六月四日であることは、ずっと変わっていません。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;体育館に並んだあの一日&#34;&gt;体育館に並んだ、あの一日&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;小学校のころ、六月になると必ず「歯科検診」がありました。みなさんも覚えていませんか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;体育館だったか、保健室の前の廊下だったか。クラスごとにずらりと並んで、順番を待つ。前に進むにつれて、消毒薬のにおいがだんだん濃くなってくる。白衣の歯医者さんが、小さな鏡と細い金具を持って待ちかまえている。口を「あーん」と開けると、先生は私の口の中をのぞきこみながら、横にいる先生に向かって、暗号のような言葉を読み上げていきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「上の六番、シー。下の……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの「シー」が、つまり「C」、むし歯のことだと知ったのは、もう少し大きくなってからでした。子どもの私は、その記号が何を意味するのか分からないまま、ただ「あ、いま何か悪いことを言われた気がする」と、漠然とした不安だけを抱えて列を出ていったものです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;歯ブラシの歴史（古代の枝から現代のナイロンブラシまで）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/toothbrush-history.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;古代の枝（咬み棒）から現代の歯ブラシへ。人類は何千年もかけて「歯を磨く道具」を進化させてきた。昭和の子どもたちが使っていたのも、この流れの中のひとつだ。（Photo: Stewart Shearer / &lt;a href=&#34;https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0/&#34;&gt;CC BY-SA 2.0&lt;/a&gt;）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;歯みがき指導の日もありました。赤い「染め出し液」を歯に塗られて、鏡を見ると、磨き残したところが真っ赤に染まっている。「ほら、こんなに磨けていませんよ」と言われて、自分の歯がこんなに汚れていたのかと、子どもながらにちょっとショックを受ける。あの毒々しい赤色だけは、四十年以上たったいまでも、はっきり目に浮かびます。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;それでも甘いものはやめられなかった&#34;&gt;それでも、甘いものはやめられなかった&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;なぜ私たちの世代は、あんなにむし歯が多かったのか。理由は、はっきりしています。甘いものが、大好きだったからです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;学校から帰れば、駄菓子屋へ一目散。手のなかの小銭を握りしめて、ガラスケースの前で何を買おうか延々と悩む。ラムネ、あめ玉、よく伸びるガム、紙の上に乗った小さな練りもの、糸を引くようなあの飴……。一つひとつが安いものだから、少ないお小遣いでも、口の中をずっと甘いもので満たしていられた。むし歯にならないほうが、むしろ不思議なくらいです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;昭和の駄菓子屋（日本・埼玉県）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/dagashiya-shop.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;色とりどりの駄菓子が並ぶ駄菓子屋。花火や玩具まで売っている。少ない小銭を握りしめて、何を買おうか真剣に悩んだ記憶は、昭和の子ども全員が共有している。（Photo: urawa / &lt;a href=&#34;https://creativecommons.org/licenses/by/2.0/&#34;&gt;CC BY 2.0&lt;/a&gt;）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;母が仕事に出るとき、テーブルに百円玉を置いていってくれることがありました。短いメモを添えて。あの百円玉の、ずっしりとした手ざわり。あれをどう使うか、子どもなりに真剣に考えたものです。たいていは、甘いものに化けていましたけれどね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夜になって、母に「歯、磨いたの？」と聞かれる。「うん」と答えながら、本当は磨いていない日もありました。あのころの私に、いまの私が言ってやりたい。「ちゃんと磨いておけよ」と。大人になってから歯医者さんに通うはめになって、はじめて分かることって、ありますよね。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;令和の子どもはむし歯が激減している&#34;&gt;令和の子どもは、むし歯が激減している&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ここで、ちょっと驚く数字を一つ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;文部科学省が調べている「十二歳の子ども一人あたりの平均むし歯本数」というものがあります。昭和六十二年（一九八七年）には、なんと一人あたり四・九本もありました。十二歳で、すでに約五本。これがまさに、駄菓子に夢中だった私たちの世代の現実です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ところが、いまはどうでしょう。この数字は年々ぐんぐん減り続けて、令和に入ってからは〇・七本前後にまで下がっています。五本から一本以下へ。これは本当にすごい変化です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;フッ素入りの歯みがき粉が当たり前になったこと、学校や家庭での歯みがき指導が行き届いたこと、おやつとの付き合い方が変わったこと。あの「むし歯予防デー」が、昭和三年から地道に訴え続けてきたことが、令和になってようやく、はっきりと数字になって表れている。そう考えると、なんだか感慨深いものがあります。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;親になってみて思うこと&#34;&gt;親になってみて、思うこと&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;私の住む東京・葛飾区では、子どもが高校を卒業する三月末まで、保険診療の窓口負担がありません。ゼロ円です。しかも、親の所得による制限もない。こうした行政の支えのおかげで、家庭の経済事情に左右されることなく、子どもたちは安心して歯科医療を受けられます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;むし歯がこれだけ減った背景には、フッ素や歯みがき指導だけでなく、「どの子も等しく治療を受けられる仕組み」が広がったことも、きっと大きな要因の一つなのでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「八〇二〇（ハチマルニイマル）」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。八十歳になっても自分の歯を二十本残そう、という運動です。子どものころは歯のありがたみなんて、これっぽっちも考えなかった私も、この歳になると、しみじみそう思うようになりました。きょうあたり、久しぶりに歯医者さんの予約でも入れようかな、なんて思いながら、これを書いています。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;きょう六月四日。みなさんは、子どものころの「歯」にまつわる記憶、何か残っていますか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの赤い染め出し液。歯医者さんのキイーンという音と、独特のにおい。むし歯の紙を親に渡したときの気まずさ。あるいは、駄菓子屋で握りしめた小銭の感触。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;よかったら、あなたの昭和の「歯の記憶」を、聞かせてください。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「昭和の今日は何があった日？」は、昭和40〜64年（1965〜1989年）の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
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    </item>
    <item>
      <title>「世界の盗塁王」福本豊と、すりこぎ棒のバット──昭和の今日は何があった日？（6月3日）</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-june-03/</link>
      <pubDate>Tue, 02 Jun 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-june-03/</guid>
      <description>&lt;p&gt;6月3日。梅雨入りを目前にした、少し蒸し暑い季節だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;カレンダーのこの一日には、子どものころの私がテレビ越しに見ていたはずの、二人のヒーローが並んでいる。ひとりは海を渡って日本人になった力士。もうひとりは、日本から「世界」へ駆け抜けた、小さな大選手だ。今日はとくに、後者の話をたっぷりさせてほしい。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;まずさらっとハワイのジェシーが日本人になった日&#34;&gt;まず、さらっと──ハワイの「ジェシー」が日本人になった日&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;1980年（昭和55年）の6月3日、大相撲の高見山が日本国籍を取得して帰化した。新しい名は「渡辺大五郎」。奥さんの姓と四股名を組み合わせた名前だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ハワイからやってきた、戦後初の外国出身力士。大きな体に低くしわがれた声、みんなが「ジェシー」と呼んでいた人だ。1972年の名古屋場所では、外国出身者として初めて幕内優勝も果たしている。新弟子のころ、あまりに厳しい股割りの稽古に「目から汗が出た」と漏らした逸話も忘れがたい。涙、とは言わず、汗だと言い張る。その不器用な強がりが、私は好きだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;大相撲の立ち合い（両国国技館）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/sumo-japan.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;大相撲の立ち合い。両国国技館で行われた2010年9月場所より。高見山が活躍した昭和の土俵にも、同じような熱気があった。（Photo: Gusjer / &lt;a href=&#34;https://creativecommons.org/licenses/by/2.0/&#34;&gt;CC BY 2.0&lt;/a&gt;）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;国籍まで変えたのは、引退後に親方として相撲界に残るため。土俵を降りたあとも相撲とともに生きるために、生まれた国の国籍を手放したのだ。のちに東関親方として、同じハワイ出身の曙を横綱まで育て上げた。海を渡ってきた青年が、今度は次の世代を呼び寄せる。その長い橋のちょうど真ん中に、あの帰化の日はあったのだと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さて──ここからが、今日の本題だ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;世界の盗塁王が生まれた日昭和58年1983年&#34;&gt;「世界の盗塁王」が生まれた日──昭和58年（1983年）&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;高見山の帰化から3年後、同じ6月3日。阪急ブレーブスの福本豊が、通算939個目の盗塁を決めて世界新記録を打ち立てた。それまでの記録は、メジャーリーグのルー・ブロックが持つ938盗塁。福本はそれをひとつ上回り、文字どおり「世界の盗塁王」になった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その日の記録達成には、いかにも福本らしい逸話が残っている。舞台は西武球場での西武戦。一回表、ブロックに並ぶ通算938個目をあっさり決めてタイ記録に追いつくと、新記録はもう目前だった。ところが試合は終盤、点差が大きく開いてしまう。福本は「記録のためだけに走った」と思われるのを嫌い、もう走らないと心に決めていたという。それなのに、相手の内野手がしつこく牽制を入れてくる。それで負けん気に火がついて、九回、つい三塁へ飛び出してしまった──。世界記録が、半ば本人の意に反して生まれてしまったというのが、なんとも可笑しい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;プロ野球の試合（イチロー出場試合・シアトル2005年）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/mlb-baseball-game.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;プロ野球の試合のひとコマ（2005年シアトル、イチロー出場試合）。盗塁とは走者と捕手・内野手の緊張した駆け引きの果てに生まれるものだ。（Photo: Galaksiafervojo / &lt;a href=&#34;https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/&#34;&gt;CC BY-SA 3.0&lt;/a&gt;）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;阪急は関西のパ・リーグの球団だから、東京の子どもだった私のテレビには、ふだんあまり映らない。それでも「世界新記録」という言葉だけは、ニュースでも学校でも、何度も耳に飛び込んできた。あの「世界」という二文字が、昭和の子どもにはとんでもなくまぶしかったのだ。あのころ、王貞治のホームランも「世界一」、福本の盗塁も「世界一」。アメリカという、はるか遠くの本場の記録を日本人が抜いていく──それは私たち少年にとって、ヒーローが怪獣を倒すのと同じくらい胸のすく出来事だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、私にとっての福本豊は、成績の数字よりも、もっと不思議で、もっと忘れがたい三つの「伝説」とともにある。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;その一足に一億円の保険&#34;&gt;その一・足に一億円の保険&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;私たち昭和の野球少年のあいだでは、「福本の足には一億円の保険がかかっている」という話が、かなり有名だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;調べてみると、これは1972年（昭和47年）のこと。シーズン盗塁記録の更新へ快走していた福本の「足」に、阪急が一億円の保険をかけたという。当時の球界では破格の金額で、大きな話題になった。もっとも、本人が一億円を受け取るという単純な話ではなく、球団側のリスク対策と話題づくりの意味合いも強かったらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;考えてみれば、1972年といえば私はまだ3歳。リアルタイムで知っていたはずもない。それでも、少し大きくなった私の耳に、この「一億円の足」の伝説はしっかり届いていた。人間の足に一億円──子どもにとって、それは盗塁の数字よりもずっと具体的で、ずっと夢のある話だった。校庭で足の速い子に「お前の足、一億円な」とからかうのが、しばらく流行ったりもした。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;その二サラブレッドと競走した男&#34;&gt;その二・サラブレッドと競走した男&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;もっとすごい話がある。福本は、馬と走ったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;1983年（昭和58年）、西宮球場で行われたイベントで、阪急の選手たちがサラブレッドと短距離走で競走した。面白いのは、福本さん自身が後年、「最初は断った」と語っていること。ところがバンプ・ウィルスが出場を承諾したものだから、球団社長に頼まれ、結局は出場することになったそうだ。当時すでに35歳、盗塁王の大ベテランと、サラブレッドを競走させてしまうという発想自体が、いかにも昭和のプロ野球イベントらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実はこのイベント、中学生だった私はかなりワクワクしながら見ていた記憶がある。……ところが情けないことに、競走の距離も、福本が勝ったのか負けたのかも、まったく覚えていないのだ。あんなに胸を躍らせたのに。覚えているのは「世界の盗塁王が、本物の馬と走るらしい」という、あの開始前の高揚感だけ。今となっては、それで十分な気もしている。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;その三すりこぎ棒のようなバット&#34;&gt;その三・すりこぎ棒のようなバット&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;そして、これがいちばん意外な話かもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いまのファンは「盗塁王といえば、軽いバットでコンパクトに当てる選手」と思い込みがちだ。ところが福本は、まるで逆だった。本人の証言によれば、初期は940グラム台、その後はなんと1060〜1080グラムという超重量級のバットを使っていた。太くて、まるで「すりこぎ棒」のような形。周囲はその姿から「つちのこバット」とも呼んだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;バットを構えるバッター&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/baseball-swing.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;バットを力いっぱい振り切るバッター。福本豊の「すりこぎ棒」バットも、この振り切る姿勢が原点だった。（Photo: Danny Meyer, U.S. Air Force / パブリックドメイン）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;持ち方も独特で、グリップエンドを数センチ余らせて、短く持って振った。だから、あの重いバットでも自在に操れたのだ。体が小さく非力だった福本は、その重さを逆に味方につけ、速い球にも力負けしなくなったのだという。決して大きくない体で通算208本塁打を放った秘密は、このあたりにありそうだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そもそも福本は、入団当初まったく期待されていなかった。小柄で非力な体つきを見て、周囲は「こんな選手を獲って可哀想や」とまで陰口を叩いたという。その彼に、名将・西本幸雄監督は「振り切れ」と教えた。非力な男が長打力を身につけるための逆転の発想だ。重いバットを短く持つあの独特の打ち方は、監督の教えと本人の工夫が出会ったところに生まれた答えだったのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;足だけの人ではなかった。頭と工夫の人だった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;立ちションもできんようになる&#34;&gt;立ちションもできんようになる&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;最後にもうひとつ。世界記録のあと、福本は国民栄誉賞の打診を受けながら、「そんな偉い賞をもらったら、立ちションもできんようになる」と言って断ってしまった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;世界一になった人が、まじめな顔でそんなことを言う。足に一億円、馬と競走、すりこぎ棒のバット──どのエピソードにも、肩の力が抜けた可笑しみと、人を食ったような愛嬌がある。私が福本豊をいつまでも好きなのは、たぶんその飄々とした感じのせいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;思えば6月3日は、不思議な日だ。ハワイ生まれの大男が線を越えて日本人になり、大阪生まれの小男が線の向こうの世界記録を越えていった。向きはまるで逆なのに、どちらも「日本」と「世界」のあいだにある一本の線を、自分の体ひとつでまたいでみせた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;記録は、いつか抜かれる。実際、939という世界記録も、のちにメジャーのリッキー・ヘンダーソンが1406まで大きく塗り替えた。それでも、ブラウン管の前で「世界一だ」とワクワクした昭和の少年の胸の高鳴りは、誰にも抜かれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたの記憶の中の福本豊は、足の速さですか。それとも、すりこぎ棒のバットですか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「昭和の今日は何があった日？」は、昭和40〜64年（1965〜1989年）の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
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    </item>
    <item>
      <title>昭和の今日は何があった日？ ── 6月2日、月にそっと手を伸ばした日</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-june-02/</link>
      <pubDate>Mon, 01 Jun 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-june-02/</guid>
      <description>&lt;p&gt;6月2日。梅雨入りを前にした空は、晴れたり曇ったりと、どっちつかずの顔をしている。蒸し暑い昼のあと、夜になって雲が切れると、まだ低いところに月が出ていたりする。今日は、その月の話から始めたい。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;私が生まれる三年前月にそっと降りた機械があった&#34;&gt;私が生まれる三年前、月にそっと降りた機械があった&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;正直に書くと、私はこの日付をつい最近まで知らなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私にとって「人類と月」といえば、まずアポロ11号だ。ニール・アームストロングが月面に足跡を残し、「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」と語った、あの夏。昭和44年(1969年)の7月のことだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ところが、その昭和44年というのは、私が生まれた年でもある。私が生まれたのは4月だから、人類が初めて月に立ったとき、私はまだ生まれて三か月ほどの赤ん坊だった。当然、何ひとつ覚えていない。母に抱かれて、月のことなどつゆ知らず、すやすや眠っていたのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;つまり、私の世代にとって月とは、物心ついたときには「もう人間が行ったことのある場所」だった。教科書にもテレビにも、月は当たり前のように「行ける星」として出てきた。月へ行くというのが、どれほど途方もない挑戦だったのか、私たちはほとんど実感しないまま大きくなった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな私たちの「当たり前」を、こっそり用意してくれていたのが、今日6月2日の出来事だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和41年(1966年)6月2日。アメリカの無人月探査機「サーベイヤー1号」が、月面にそっと軟着陸した。アメリカにとって、初めての月軟着陸だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それまでの探査機は、月にぶつかる寸前まで写真を撮りながら、最後は文字どおり月面に激突して終わっていた。「届く」ことと「降りる」ことは、まったく別の難しさだったのだ。空気のない月では、パラシュートは使えない。だから逆噴射のロケットだけを頼りに、落ちていく速度を、ぎりぎりまで自力で殺さなければならない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;サーベイヤー1号は、それをやってのけた。エンジンを噴かしてゆっくりと速度を落とし、四本の脚で、静かに月面に立った。そして、何ごともなかったかのように、1万枚を超える月面の写真を地球に送り続けた。砂利のような地面。小さなクレーター。地球からは決して見えなかった、足もとの月の素顔。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;サーベイヤー1号（月面軟着陸機）を月周回軌道上から撮影した画像&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/surveyor1-moon.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;月面に静かに立つサーベイヤー1号。NASAの月周回探査機「ルナー・リコネサンス・オービター」が撮影。昭和41年6月2日、この機械が月に降りたことで、アポロへの道が開かれた。（Photo: NASA / パブリックドメイン）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これは、来たるべきアポロ計画──人間を月に着陸させる計画──のための、いわば下見であり、リハーサルだった。人を乗せて降ろす前に、まず機械だけで「本当にちゃんと降りられるのか」「月の地面はやわらかすぎて沈んでしまわないか」を確かめておく。その地味で慎重な一歩が、今日という日だったわけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;派手なアポロ11号の陰に隠れて、私はこの「先に降りた機械」のことをずっと知らずにいた。けれど、考えてみればこのサーベイヤーがいなければ、私が赤ん坊だったあの夏の偉業もなかった。私たちの「月は行ける場所」という当たり前は、この日、誰にも気づかれないくらい静かに始まっていたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;アポロ11号は月に行ったんだぞすごいよなぁ&#34;&gt;「アポロ11号は月に行ったんだぞ。すごいよなぁ」&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;私が宇宙を意識するようになったきっかけは、はっきりしている。父だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;物心ついてから何度も、父は私にこう言った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「アポロ11号は月に行ったんだぞ。すごいよなぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何度も、何度も聞いた。テレビで月が映るたび、夜空に月が出ているのを見つけるたび、父はまるで自分のことのように、誇らしげにそう言うのだった。その「すごいよなぁ」には、嘘やお世辞のない、心からの感嘆がこもっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;子どもだった私は、父がそこまで言うのだから、よほどすごいことなのだろう、と素直に思った。今思えば、父は私が生まれたまさにその年に人類が月へ行くのを、大人として、リアルタイムで目撃した世代なのだ。あの興奮を、息子にも分けてやりたかったのだろう。父にとって月は「行ける場所」になったばかりの、まだ熱を持った夢だったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうして父から受け取った「宇宙ってすごい」という気持ちは、私の中でどんどん育っていった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;スペースシャトルが筆箱の上を飛んでいた&#34;&gt;スペースシャトルが、筆箱の上を飛んでいた&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;小学生になると、私たちの宇宙の主役は、アポロからスペースシャトルへと変わっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ロケットは打ち上げると使い捨て。それが当たり前だった時代に、スペースシャトルは「翼を持ち、宇宙から滑空して帰ってきて、また飛ぶ」という、まるでSFそのものの乗り物だった。打ち上げのときはロケットなのに、帰りは飛行機のように滑走路に降りてくる。あの白い機体が大気圏に突入してくる映像を、私は固唾をのんで見ていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして気がつけば、スペースシャトルは、私たちの身のまわりのありとあらゆる文房具の上を飛んでいた。筆箱にスペースシャトル。下敷きにスペースシャトル。ノートの表紙にも、消しゴムのケースにも、スペースシャトル。あの精悍な白い翼が、青い地球を背景にプリントされていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;スペースシャトル・チャレンジャー打ち上げ（昭和58年）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/space-shuttle-challenger.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;スペースシャトル「チャレンジャー」の打ち上げ（1983年4月）。あの白い翼と噴煙が、昭和の子どもたちの筆箱や下敷きの上を飛んでいた。（Photo: U.S. Department of Defense / パブリックドメイン）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、テレビの中の宇宙も負けてはいなかった。「宇宙戦艦ヤマト」で地球を救うために十四万八千光年の旅に出て、「銀河鉄道999」で汽車に乗って星々を渡り、「キャプテンハーロック」の黒い髑髏の旗に胸を熱くした。私はもう、すっかり夢中だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夜、近所の空き地から見上げる月は、ただの白い丸ではなかった。「あそこに人が行ったんだ」「あそこに、足跡があるんだ」と思いながら見上げる月だった。父の「すごいよなぁ」と、筆箱のスペースシャトルと、テレビのヤマトとが、すべて一本につながって、私の頭の上の夜空に広がっていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;そして令和宇宙はとうとう商売になった&#34;&gt;そして令和、宇宙はとうとう「商売」になった&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;時は流れて、令和8年(2026年)。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;宇宙の主役は、いまやイーロン・マスク氏が率いる民間企業「スペースX(SpaceX)」だ。国家がしのぎを削っていた宇宙開発を、一企業が引っ張る時代が来た。これだけでも、昭和の子どもだった私には、十分に未来の話である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マスク氏が掲げる究極の目標は途方もない。「人類を多惑星種族にする」──つまり、地球に大災害が起きても人類が絶滅しないように、火星に自立した都市を作る、という構想だ。百人以上を一度に運べる超大型宇宙船「スターシップ」を完成させ、やがて数十万人から百万人規模の火星都市を目指す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;野球にたとえるなら、こうなるだろうか。使い捨てないロケット「ファルコン9」は地区大会の優勝。衛星網「スターリンク」で甲子園出場決定。火星に着陸できたら、いよいよ全国制覇。そして火星に都市を建設するというのは──プロリーグをまるごと一つ新設するようなものだ。それくらい、一段ごとの難しさが桁違いなのである。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;すべてはあの慎重な一歩の延長線上に&#34;&gt;すべては、あの慎重な一歩の延長線上に&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;こんな時代が来るなんて、昭和の子どもだった私には、想像もつかなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;筆箱の上を飛んでいたスペースシャトルが、まさか民間企業のロケットに主役を譲る時代が来るとは。ヤマトやハーロックが旅した宇宙の、その手前の火星に、人が町を作ろうとしているとは。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;けれど、忘れてはいけない。それもこれも、すべては今日6月2日の、あの「サーベイヤー1号 月面軟着陸」からの、まっすぐな延長線上にあるのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;逆噴射でそろりそろりと速度を落とし、四本の脚で静かに月へ降りた、あの小さな機械。誰にも気づかれないほど慎重だったあの一歩がなければ、アポロの足跡も、父の「すごいよなぁ」も、私の筆箱のスペースシャトルも、そしてマスク氏の火星都市の夢も、何ひとつ始まらなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夢というのは、いきなり大きく見えるものではない。たいていは、誰かがそっと脚を伸ばした、地味で慎重な一歩から始まっている。六十年かけて、その一歩は火星にまで届こうとしている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今夜、もし雲が切れて月が見えたら、ぜひ一度、見上げてみてほしい。あの白い丸の上には、六十年前の小さな機械が、今もまだ静かに立っている。父が「すごいよなぁ」と言った、あの月だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたの宇宙への入り口は、いったい誰の、どんな一言でしたか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「昭和の今日は何があった日？」は、昭和40〜64年（1965〜1989年）の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-01/&#34;&gt;昭和の今日は何があった日？　6月1日 ― 父の肩車と、上野のパンダがいた時代&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-03/&#34;&gt;「世界の盗塁王」福本豊と、すりこぎ棒のバット──昭和の今日は何があった日？（6月3日）&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>昭和の今日は何があった日？　6月1日 ― 父の肩車と、上野のパンダがいた時代</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-june-01/</link>
      <pubDate>Sun, 31 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-june-01/</guid>
      <description>&lt;p&gt;六月になりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;カレンダーをめくると、一日はちょうど衣替え。学校に通っていたころは、この日を境に冬服が夏服に変わって、教室の景色がいっせいに明るくなったのを覚えています。詰襟の窮屈さから解放されて、白い半袖シャツの軽さが妙に誇らしかった。台所の冷蔵庫に冷えた麦茶が常備されはじめるのも、だいたいこのころでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな夏のはじまりの六月一日。昭和の時代、この日にはいろいろなことがありました。たとえば昭和六十一年（一九八六年）の六月一日には、上野動物園で日本初の人工授精による赤ちゃんパンダ「トントン」が誕生しています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、私にとっての「上野のパンダ」と言えば、やっぱりこの二頭なのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;strong&gt;ランランと、カンカン。&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今日はこの話を、少し長めに、のんびりと書かせてください。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;父の肩車の上で&#34;&gt;父の肩車の上で&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;昭和四十八年（一九七三年）のことだったと思います。私はまだ保育園に通う幼い子どもでした。その日は遠足で、両親も一緒に上野動物園へ行きました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お目当ては、もちろんパンダです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和四十七年（一九七二年）、日中国交正常化の記念として中国からやってきたランランとカンカン。白と黒の、丸っこくて、笹を抱えてもそもそ食べるあの不思議な生きものを一目見ようと、日本中が熱に浮かされていました。その熱が、私たち親子を上野へと連れて行ったわけです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;ジャイアントパンダ&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/panda-grosser.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;ジャイアントパンダ。白と黒の丸い体で笹を食べる姿が、日本中を夢中にさせた。（Photo: J. Patrick Fischer / &lt;a href=&#34;https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/&#34;&gt;CC BY-SA 3.0&lt;/a&gt;）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ところが――です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;正直に告白しますと、私は&lt;strong&gt;あの日、ランランとカンカンを本当に見られたのかどうか、思い出せないのです。&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;覚えているのは、別のことばかり。パンダのいる建物の前には、気が遠くなるような大行列ができていました。長い長い時間を並んで、ようやく中へ入れたこと。そして父が私を肩車してくれたこと。あの高い視界の感触は、今でもはっきりと残っています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、肩車の上から、私はちゃんとパンダを見たのでしょうか。それとも、人垣の向こうの黒い点のような何かを、パンダだと思い込んだだけだったのでしょうか。記憶の肝心なところが、すっぽりと抜け落ちているのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そのかわりに鮮明に残っているのは、&lt;strong&gt;人、人、人で溢れかえっていた園内の光景&lt;/strong&gt;。そして、園内放送でやたらと流れていた「迷子のお知らせ」のアナウンスです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「○○色のズボンに、○○の絵のシャツを着た、○歳くらいの男の子を保護しています……」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの放送ばかりが、なぜか耳に焼きついている。肝心のパンダではなく、迷子の放送。我ながら「そこっ？」とツッコミたくなりますが、子どもの記憶というのは、案外そういうものなのかもしれません。大人が「これを覚えておきなさい」と思うところより、ぜんぜん別の隅っこを、勝手に大事にしまい込んでしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでもいいのです。父の肩の温かさと、迷子の放送と、果てしない行列。それが私にとっての「ランランとカンカンに会いに行った日」の、まぎれもない全部なのですから。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;v3とタロウの輝かしい年&#34;&gt;V3とタロウの、輝かしい年&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ちなみに、その昭和四十八年という年。私にとっては、パンダ以外でも特別に光り輝いている一年でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なぜなら、テレビの中のヒーローがいちばん格好よかった時代だからです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;仮面ライダーは、&lt;strong&gt;V3&lt;/strong&gt;。（昭和四十八年二月〜昭和四十九年二月）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そしてウルトラマンは、&lt;strong&gt;タロウ&lt;/strong&gt;。（昭和四十八年四月〜昭和四十九年四月）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この二人が同じ時期に画面の中で戦っていたのですから、当時の男の子にとって、これ以上の幸福があったでしょうか。風見志郎が変身する三段変身に胸を躍らせ、ウルトラの父と母の息子であるタロウの登場に、ウルトラ兄弟の世界がどこまでも広がっていくのを感じていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;保育園からの帰り道、私はきっとV3かタロウになりきって、見えない怪人や怪獣と戦っていたはずです。そして週末になれば、上野のパンダのように、テレビの前にもまた「人、人、人」――いや、こちらは家族みんなが集まって、かじりつくようにして見ていたのでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;パンダもV3もタロウも、ぜんぶ同じ年の出来事。そう並べてみると、昭和四十八年というのは、私の幼い心がいちばん豊かに満たされていた年だったのだなと、しみじみ思います。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;そして令和八年の六月&#34;&gt;そして、令和八年の六月&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;さて、ここからは少し、今の話をしなければなりません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;strong&gt;令和八年（二〇二六年）の六月一日、現在。日本国内に、ジャイアントパンダは一頭もいません。&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これを書いていて、自分でも信じられないような気持ちになります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まず、令和七年（二〇二五年）の六月。和歌山のアドベンチャーワールドにいた四頭――良浜（らうひん）、結浜（ゆいひん）、彩浜（さいひん）、楓浜（ふうひん）――が、中国へ返還されました。涙ながらに見送ったファンの姿が、ニュースで大きく取り上げられていたのを覚えている方も多いでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、日本に残ったのは、東京・上野動物園の双子、「シャオシャオ」と「レイレイ」だけ。この二頭も、令和八年の一月下旬、ついに中国へと返還されました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これをもって、日本国内のパンダの飼育頭数は、&lt;strong&gt;ゼロ。&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和四十七年にランランとカンカンがやってきてから、五十四年。半世紀以上にわたって途切れることなく続いてきた「日本の動物園でパンダに会える時代」が、今、いったん幕を閉じたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;笹を食べるジャイアントパンダ&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/panda-bamboo.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;笹をもそもそと食べるパンダ。この姿を日本の動物園で見られる日が、また来ることを願っている。（Photo: Manyman / &lt;a href=&#34;https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/&#34;&gt;CC BY-SA 3.0&lt;/a&gt;）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;いなくなってはじめてわかること&#34;&gt;いなくなって、はじめてわかること&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;「上野にパンダがいない。」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この一文を、昭和の子どもだった私が読んだら、いったいどんな顔をするでしょう。たぶん、まったく信じないと思います。上野の動物園にパンダがいないなんて、空に太陽がないと言われるくらい、ありえないことに感じられたはずですから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの日、果てしない行列に並び、父に肩車をしてもらってまで会いに行った白黒の生きもの。見られたのかどうかも怪しい、けれども確かにそこに「いた」はずのランランとカンカン。その末裔とも言える時代の流れが、半世紀の時を経て、ひとつの区切りを迎えた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;考えてみれば、私が肩車の上で見たかもしれない（見られなかったかもしれない）あの光景は、「日本にパンダがいる時代」の、ほんとうに初期の一場面だったわけです。そしてその時代の終わりを、私は今、こうして大人になって見届けている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なんだか、不思議な巡り合わせです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;時代は変わります。当たり前にそこにあったものが、ある日ふっと姿を消す。パンダだけの話ではありません。近所の駄菓子屋も、屋上の遊園地も、いつの間にか消えていきました。そして私たちは、なくなってからようやく、「ああ、あれは特別なものだったんだな」と気づくのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも――きっと、また会える日が来ると、私は思っています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いつかまた、上野の動物園に黒と白のあの姿が戻ってきて、孫の手を引いたおじいさんやおばあさんが、長い行列に並ぶ日が来る。そのとき子どもたちは、肩車の上から、ちゃんとパンダを見られるでしょうか。それとも、私のように迷子の放送ばかり覚えて帰るのでしょうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どちらでもいい。その記憶は、きっと一生ものになるのですから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;みなさんにとっての「上野のパンダ」は、どの子でしょうか。ランランとカンカンでしょうか。トントンや、シャンシャンでしょうか。よろしければ、あなたのパンダの思い出も、聞かせてください。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「昭和の今日は何があった日？」は、昭和40〜64年（1965〜1989年）の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-may-31/&#34;&gt;昭和の今日は何があった日？ ～5月31日～「世界禁煙デー」――煙が当たり前だった、あの頃の空気&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-02/&#34;&gt;昭和の今日は何があった日？ ── 6月2日、月にそっと手を伸ばした日&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>昭和の今日は何があった日？ ～5月31日～「世界禁煙デー」――煙が当たり前だった、あの頃の空気</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-31/</link>
      <pubDate>Sat, 30 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-31/</guid>
      <description>昭和64年5月31日、WHOが世界禁煙デーを制定した。両親そろって喫煙し家じゅうが煙でまんえんしていた子ども時代、echoのお使い、校庭で一服する野球部の顧問――煙が生活に溶け込んでいた昭和を静かに思い返す。</description>
    </item>
    <item>
      <title>昭和の今日は何があった日？ ～5月30日～</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-30/</link>
      <pubDate>Fri, 29 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-30/</guid>
      <description>昭和42年、世界初の量産ロータリーエンジン車「コスモスポーツ」が颯爽と登場。そして昭和50年、愛知県豊橋市で「530運動」が生まれた日でもある。</description>
    </item>
    <item>
      <title>5月29日——昭和が生んだ声と、千年の都を走った地下鉄</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-29/</link>
      <pubDate>Thu, 28 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-29/</guid>
      <description>&lt;p&gt;五月も末になると、空気がじっとりとしてくる。梅雨の足音がそこまで聞こえてくるような、少し重たい青空が広がる季節だ。昭和の子どもたちにとって、この頃は運動会が終わり、夏休みまでまだずいぶん先という、少し間延びした時期だった。特別なことが起きるわけでもない、ただ日々が流れていく5月の終わり。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、5月29日という日は、昭和という時代を語るうえで忘れられないふたつの出来事を抱えている。今日は少し遠回りしながら、その話をしてみたい。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;昭和の女王は横浜の魚屋の娘だった&#34;&gt;「昭和の女王」は横浜の魚屋の娘だった&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;昭和12年（1937年）5月29日、神奈川県横浜市磯子区の小さな魚屋「魚増」に、一人の女の子が生まれた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本名は加藤和枝。のちに「美空ひばり」として、昭和の歌謡界を丸ごと背負って立つ人物となる、その赤ちゃんである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が生まれたのは昭和44年（1969年）だから、ひばりさんとは32年もの開きがある。物心ついたのが昭和50年代に入った頃だから、考えてみれば私はリアルタイムの美空ひばりをほとんど知らない。紅白歌合戦で歌う姿も、テレビの歌番組での映像も、子ども時代の記憶にはほとんど出てこない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実はそれには理由があった。昭和48年（1973年）、実弟が起こした不祥事のあおりを受けて、ひばりさんは紅白歌合戦への出場を辞退せざるを得なくなった。それまで10年連続で紅組のトリを務めてきた大歌手が、である。私が物心ついた昭和50年代はちょうどその時期と重なっていた。だから、茶の間のテレビでひばりさんの歌う姿をなかなか目にすることができなかったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その代わり、美空ひばりという名前は、どこか別の形で私の中に刷り込まれていた。母が台所で口ずさむ鼻歌。街のどこかから流れてくるラジオの音。駄菓子屋の軒先でも、銭湯の脱衣所でも、「美空ひばり」という名前が大人たちの間でさりげなく語られた。顔も声もよく知らないまま、「すごい人がいる」という空気だけが漂っていた。子どもの私の中で、美空ひばりはいつしか「テレビに出てこない伝説の人」になっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ひばりさんは9歳でデビューした。終戦直後の昭和21年（1946年）のことだ。焼け野原の横浜で、母・喜美枝が一念発起して「青空楽団」を作り、近所の公民館や銭湯に舞台を設けた。そこで初めて「美空和枝」の名で歌った女の子が、のちに昭和最大のスターになるとは、誰も想像しなかっただろう。戦争に出征した父の壮行会で「九段の母」を歌い、周囲の大人たちを泣かせたのは、まだ6歳の頃だったという。人を泣かせる力は、最初からあの小さな体に宿っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和40年（1965年）には「柔」でレコード大賞を受賞した。そのころの私はまだ生まれてもいないが、昭和の茶の間ではひばりさんの歌声が、家族みんなで囲むテレビから流れていたはずだ。歌番組も、ドラマも、映画も。あの時代のひばりさんはまさに全盛期を走っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;生涯で発表したオリジナル曲は517曲、レコードの売り上げは8000万枚を超えたという。映画にも160本近く出演した。そんな数字を並べても、ひばりさんという存在の大きさはうまく伝わらない気がする。「女王」とか「昭和の歌姫」とか、どんな言葉を当てはめても、すぐに溢れ出してしまうような人だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がはっきりと「ああ、これが美空ひばりだ」と感じた瞬間は、昭和63年（1988年）の「川の流れのように」だった。長い闘病を乗り越えて、東京ドームのこけら落とし公演で復活を果たしたひばりさんが、晩年に残した曲だ。テレビ画面のなかのひばりさんは、歌っているというより、ただそこに存在しているだけでオーラを放っていた。「伝説」とはこういうことか、と19歳の私は感じた。言葉にならない何かが、画面を通しても伝わってきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その東京ドームコンサートは昭和63年（1988年）4月に開かれた。体調は決して万全ではなかった。足腰の痛みはほとんど回復しておらず、肝機能の数値も心もとない状態のまま本番の日を迎えたという。それでもひばりさんは「すべてのお客様に顔を見てもらいたい」と言い、本人の希望で作られた長い花道を、歌い終えたあとに歩いた。5万人の観衆の前で。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その翌年、平成元年（1989年）の6月24日、美空ひばりは52歳でこの世を去った。昭和という元号の最後の年のことだった。死去後、女性として初めて国民栄誉賞が贈られた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和の始まりとともに生まれ、昭和の終わりとほぼ重なるように逝った人。横浜の小さな魚屋に生まれた女の子が、ひとつの時代を丸ごと背負って歌った。5月29日は、そんな奇跡のような声が産声を上げた日でもある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;美空ひばりの手形（上野公園）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/misora-hibari-handprints.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;東京・上野公園に残る美空ひばりの手形。昭和12年（1937年）5月29日生まれ。昭和とともに歌い続け、平成元年に52歳で逝った。（Photo: Daderot / CC0 パブリックドメイン）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;地下を走った夢千年の都の地面の下へ&#34;&gt;地下を走った夢、千年の都の地面の下へ&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;もうひとつ、5月29日の出来事を話したい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和56年（1981年）のこの日、京都市で「烏丸線」が開業した。京都市内初の市営地下鉄である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は当時12歳。葛飾に住む中学生だったから、京都の地下鉄開業など直接には関係のない話だ。でも、当時の子どもたちがそうであったように、「地下鉄」というものには不思議な憧れがあった。地面の下をトンネルが通り、電車が走っている。その事実だけで、何かSFのような、冒険のようなわくわく感があった。新しい路線が開業するたびにニュースになった時代で、地下鉄は都市の「現代化」を象徴するものでもあった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この地下鉄が生まれるまでには、長い長い歴史がある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;京都には、日本最初の一般営業用電車として明治28年（1895年）に開業した路面電車があった。クリーム色と深緑のツートンカラーの車体が烏丸通や四条通を走り、83年間にわたって市民の足となってきた。ところが昭和に入ると自動車が急増した。昭和40年（1965年）に14万台だった京都市内の自家用車は、1980年には38万台と3倍近くに膨れ上がった。古都ならではの道幅の狭い通りを車が埋め、市電は渋滞に巻き込まれて定時運行もままならなくなっていった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;存続を求める署名が27万人分も集まったにもかかわらず、昭和53年（1978年）9月30日、京都市電は全廃された。日本初の路面電車が83年の歴史に幕を閉じた日として、全国的にも大きく報道されたという。廃止後も全国から記念乗車券の注文が殺到し、再販売したほどだった。市民がその消滅をどれほど惜しんだか、伝わってくる気がする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;市電が消えてから、京都市内の公共交通はほぼバスだけになった。渋滞は深刻なままで、バスも定時には走れない。市民は地下鉄の開業を、じっと待ち続けていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;工事は昭和49年（1974年）に始まった。千年の都の地下を掘るのだから、普通の工事ではすまない。文化財保護法に基づいて、あちこちで埋蔵文化財の発掘調査が行われた。平安京の遺構が眠っているかもしれない土の下を、少しずつ、丁寧に掘り進んでいく。工期が延び、財政難も重なり、何度も計画が見直された。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もうひとつ、この地下鉄には当時としては特別な思いが込められていた。バリアフリーだ。昭和44年（1969年）頃から、車椅子を使う市民や障害者支援団体が何年もかけて京都市に請願を続け、主要4駅にエレベーターを設置することを実現させた。当初の設計から駅のホーム形式を変更するという大きな決断もあった。「バリアフリー」という言葉さえまだ一般的でなかった時代に、市民の声が行政を動かした。千年以上の歴史が積み重なった都市の地下に、新しい時代の思いが込められていたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして昭和56年5月29日、北大路駅から京都駅までの6.6キロメートルが開通した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;前夜から駅に並んで始発電車に乗ろうとした中学生たちの話が残っている。深夜に京都駅前をうろついていたら警察官に「こんな夜中にアカン」と叱られ、タクシーで帰宅させられた子もいた。翌朝また早起きして乗りに来たという子もいたというから、その熱狂がしのばれる。新しい地下鉄の始発電車に乗るためなら、お巡りさんに怒られたって構わない。そういう気持ちになれた時代だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;京都市営地下鉄烏丸線ホームドア&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/kyoto-subway-karasuma.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;京都市営地下鉄烏丸線のホームドア。昭和56年（1981年）5月29日に開業した京都市初の地下鉄は、今も千年の都の地下を走り続けている。（Photo: NatsuTV / CC0 パブリックドメイン）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;5月29日という日&#34;&gt;5月29日という日&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;美空ひばりの誕生日と、京都地下鉄の開業日。一見まったく関係のない二つの出来事だが、どちらも「昭和の時間の積み重なり」というものを感じさせる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ひばりさんは昭和という時代そのものを声にした。地下鉄は、千年という時間が眠る地面の下を走った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和の時代を生きた私たちは、それとは気づかないまま、そういう大きな流れの中に埋もれて日々を過ごしていた。駄菓子を買って、公園で野球をして、夕暮れになれば家に帰って。大人の世界では大きなことが起きていたのに、子どもの目には届かなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの頃の街に、美空ひばりの声が流れていたとき、私は何をしていたのだろう。公園でボールを追いかけていたのか、駄菓子屋の前でたむろしていたのか。確かめようのないことだが、あの声は確かにどこかで流れていて、気づかないまま聴いていたはずだ。記憶の底に、あの声は静かに沈んでいる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;5月29日という日付を手がかりに、こうして昭和を掘り起こしてみると、知らなかったことがまだまだ山ほどある。自分が生きた時代のことなのに、知らないことがこんなにある。それが、このシリーズを書き続ける理由でもある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたにとって、美空ひばりという声はどんな記憶と結びついていますか？&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;「昭和の今日は何があった日？」は昭和40〜64年（1965〜1989年）の出来事を、子ども目線で掘り起こすエッセイシリーズです。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-may-28/&#34;&gt;昭和の今日は何があった日？ ～5月28日～&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-may-30/&#34;&gt;昭和の今日は何があった日？ ～5月30日～&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>昭和の今日は何があった日？ ～5月28日～</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-28/</link>
      <pubDate>Wed, 27 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-28/</guid>
      <description>&lt;h2 id=&#34;5月28日昭和に刻まれた三つの記憶&#34;&gt;5月28日、昭和に刻まれた三つの記憶&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;5月も終わりに近づいた28日。この日付には、昭和という時代の厚みを感じさせる出来事がいくつも重なっている。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;縄文の巨人山の奥で目を覚ます昭和41年1966年&#34;&gt;縄文の巨人、山の奥で目を覚ます――昭和41年（1966年）&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;まず昭和41年のこの日から始めたい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;屋久島の標高1,300メートル、高塚山の南斜面で、一人の役場職員が巨木に辿り着いた。旧上屋久町の観光課に勤める岩川貞次さん、42歳。古老から「山の奥に化け物みたいな杉がある」と聞かされ、その伝承を確かめるために深い森をかき分けてきたのだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そこに立っていたのは、胸の高さで周囲16メートルを超える、人類の記憶をはるかに遡るような杉の木だった。岩川さんはその姿に圧倒され、自分の名前「岩」の字を取って「大岩杉」と名付けた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;後に「縄文杉」と呼ばれるようになるこの木の推定樹齢は、7,200年とも2,170年とも言われる。どちらにせよ、弥生時代どころか縄文の昔から、その島で風雨をやり過ごしてきたことになる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;縄文杉（屋久島）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/jomon-sugi.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;屋久島の縄文杉。胸高周囲16.4メートル、推定樹齢2000〜7200年。昭和41年5月28日に現代人が初めて「発見」した。（Photo: Chris 73 / &lt;a href=&#34;https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/&#34;&gt;CC BY-SA 3.0&lt;/a&gt;）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が生まれたのは昭和40年代。縄文杉が「発見」されたのはその直前だった。発見後しばらくは世間にもほとんど知られることなく、登山ブームで一般に広まるのはずっと先のことだ。私が子どもだった頃、縄文杉という言葉を耳にした記憶はほとんどない。だが今思えば、私が公園で草野球をしたり、近所の駄菓子屋でアイスを買ったりしていたあの頃も、屋久島の奥深くでは縄文杉がただ静かにそこに立っていたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;人間の営みとはまったく別の時間軸で生きている木がある。そう知るだけで、昭和という時代も、自分の子どもの頃も、ずいぶんと小さく、そしてかけがえのないものに見えてくる。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;ヘルメットが宙を舞った日昭和55年1980年5月28日&#34;&gt;ヘルメットが宙を舞った日――昭和55年（1980年）5月28日&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;昭和55年のこの日、川崎球場は異様な熱気に包まれていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ロッテ・オリオンズの張本勲が、プロ野球史上初となる通算3000本安打の大台に、あと2本まで迫っていたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この年、張本は40歳。かつて首位打者を7度も獲得した「安打製造機」も、いまや選手生活の最終盤にいた。巨人を離れ、ロッテに移籍したのはただ一つの目的のため――3000本安打を達成すること。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;阪急ブレーブス戦の第1打席で1本を積み重ね2998本。第2、第3打席は凡退。迎えた6回裏、第4打席。マウンドには、速球で名を馳せた山口高志が立っていた。張本はマウンドを見つめながら読んでいた。「記録がかかった場面で、山口もかわすピッチングはしないだろう。初球は甘く来る」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;初球だった。真ん中高めへの速球。張本のバットがうなりを上げた。打った瞬間に分かる、文句なしの当たりだった。打球はライトスタンドの照明塔を直撃して大きく弾んだ。3000本安打、それもホームランでの達成だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;張本はヘルメットを力いっぱい宙に投げ上げ、自身も飛び上がった。ベンチが総出で駆け寄り、花火が15発打ち上げられ、黄金のくす玉が割れた。スタンドからは色とりどりのテープが舞い降りた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そしてスタンドには、故郷・広島から母が来ていた。野球には詳しくない母だったが、3000本まで残り10本となったとき、白い丸を10個書いて1本ずつ塗りつぶしていたという。試合後、張本は母の手を取り、グラウンドへ連れ出した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;川崎球場（1989年）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/kawasaki-stadium-1989.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;川崎球場のライトスタンド（1989年撮影）。昭和55年5月28日、この球場で張本勲が3000本安打をホームランで達成した。（Photo: Yasuoyamada / &lt;a href=&#34;https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/&#34;&gt;CC BY-SA 3.0&lt;/a&gt;）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はあのとき小学5年生。野球が好きで、公園でよく素振りをしていた。王貞治の一本足打法を真似ることもあったが、巨人時代の張本勲の打撃フォームもよく真似ていた。あの独特の構え、広角に弾き返すしなやかなスイング。子どもが公園でコピーしたくなる、そういう「形」を持っている打者だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから張本がロッテに移籍したと聞いたとき、正直「なぜ？」という気持ちがあった。巨人のユニフォームが似合いすぎていたからだ。移籍の理由が3000本安打への執念だったと知ったのは、もう少し後のことだ。そして迎えたこの5月28日、40歳の張本が現役でスタンドにホームランを叩き込んだ。いま思えば、40歳でプロの球場に立ち続けていること自体が、すでに常人の域を超えた話だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;3085本という通算安打数は、いまも日本プロ野球の最多記録として破られていない。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;教授とボウイとたけしが同じ画面にいた昭和58年1983年5月28日&#34;&gt;教授とボウイとたけしが同じ画面にいた――昭和58年（1983年）5月28日&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;昭和58年、同じ5月28日に、まったく別の衝撃が日本の映画館を揺るがしていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大島渚監督の映画『戦場のメリークリスマス』の公開初日だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;出演者の顔ぶれを見ると、当時の中学・高校生たちがどれほど興奮したか想像できる。デヴィッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけし。世界的ロックスター、YMOの「教授」、漫才の天才。三人とも役者が本業ではない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は昭和58年に14歳、中学2年生だった。YMOの音楽はラジオから流れてきていたし、ビートたけしは「THE MANZAI」や「オレたちひょうきん族」で笑いの頂点にいた時期だ。「その二人が、デヴィッド・ボウイと同じ戦争映画に出る」という情報が流れた時の、あの不思議な感覚は今も覚えている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;舞台は第二次世界大戦中のジャワ島、日本軍の捕虜収容所。坂本龍一が日本軍将校ヨノイ大尉を演じ、ボウイが捕虜の英国将校セリアズを演じた。ビートたけしは、独特の存在感で下士官ハラを演じた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;坂本龍一が手がけた映画音楽は、映像と同時代の語り草となった。「Merry Christmas Mr. Lawrence」のあのメロディは、映画を観ていない人の耳にも届いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;坂本龍一（2013年、品川）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/ryuichi-sakamoto.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;坂本龍一。『戦場のメリークリスマス』で俳優・作曲家として世界に名を刻み、2023年に71歳で逝去した。（Photo: Ryota Nakanishi / &lt;a href=&#34;https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/&#34;&gt;CC BY-SA 3.0&lt;/a&gt;）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大島渚監督はかつてこう言った。「ボウイやタケシやサカモトが私を選んでくれたおかげで完成した。そのことは日本のみならず世界の驚異だった」と。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;5月28日という日付に、あの映画の初日が重なっていたとは、長い間知らなかった。昭和58年の私はまだ、そこまで映画情報を丁寧に追いかけていなかった。だが今こうして振り返ると、あの夏の前、初夏の空気の中であの映画が産声を上げたことが、妙に腑に落ちる気がする。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;昭和の5月28日三つの層&#34;&gt;昭和の5月28日、三つの層&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;縄文杉の発見、張本の3000本安打、戦場のメリークリスマスの公開。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一つは人間の時間を超えた木の話。一つは人間が血と汗で刻んだ数字の話。もう一つは、時代のアイコンたちが一つのスクリーンに集った話。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和という時代は、こんなふうに何層にも重なっている。あなたの5月28日の記憶には、どんなものがありますか。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-may-27/&#34;&gt;昭和の今日は何があった日？ ～5月27日～ドラゴンクエストの日、伝説はこうして始まった&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-may-29/&#34;&gt;5月29日——昭和が生んだ声と、千年の都を走った地下鉄&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>昭和の今日は何があった日？ ～5月27日～ドラゴンクエストの日、伝説はこうして始まった</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-27/</link>
      <pubDate>Tue, 26 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-27/</guid>
      <description>&lt;p&gt;5月27日。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この日付を聞いて、ピンと来る人はきっと「あの音楽」が頭の中で鳴り出す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ダダダン、ダダダダダン――。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの壮大な序曲とともに、画面に浮かぶ「ドラゴンクエスト」の文字。昭和61年（1986年）5月27日、この日はのちに「ドラゴンクエストの日」と呼ばれることになる記念日だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は当時、高校2年生だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;グラウンドにいた。泥まみれで、ボールを追いかけていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;球児には関係のない話だったはずが&#34;&gt;球児には関係のない話、だったはずが&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;昭和61年5月27日。私は17歳の高校球児として、日々の練習に明け暮れていた。5月といえば夏の地方大会を前に、チームがいちばん張り詰めてくる時期だ。朝練に始まり、放課後も日が暮れるまでグラウンドに残る。帰り道は足が棒のようで、家に着いたら飯を食って風呂に入ってすぐ眠る。そんな生活の中で、ファミコンが入り込む余地はどこにもなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;日本の高校野球（明治神宮球場）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/highschool-baseball.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;明治神宮球場で行われる高校野球。あの頃の私も、こんな眩しい夏の空の下でボールを追いかけていた。（Photo: DX Broadrec / &lt;a href=&#34;https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/&#34;&gt;CC BY-SA 3.0&lt;/a&gt;）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから「ドラゴンクエスト」が発売されたこの日のことを、私はリアルタイムでは知らない。同級生の中にも野球部以外の友人はいて、後から「あのゲームすごいよ」と聞かされた記憶があるような、ないような。それくらい遠い世界の話だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも今、あの日のことを調べてみると、同じ5月27日という日に、まったく別の青春が交差していたのだと気づく。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;今新しい伝説が生まれようとしている&#34;&gt;「今、新しい伝説が生まれようとしている」&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;キャッチコピーは、そう謳っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;発売したのはエニックス（現・スクウェア・エニックス）。プラットフォームは任天堂のファミリーコンピュータ。プレイヤー自身が勇者となり、広大な世界を歩き回りながら魔王を倒す――いわゆるロールプレイングゲームというジャンルを、日本の子どもたちに初めて届けた作品だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;任天堂ファミリーコンピュータ（ファミコン）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/famicom-console.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;任天堂ファミリーコンピュータ（HVC-001）。昭和58年（1983年）に発売され、日本中の子ども部屋を変えた。（Photo: Rama / &lt;a href=&#34;https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0/fr/&#34;&gt;CC BY-SA 2.0 FR&lt;/a&gt;）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;シナリオを書いたのは堀井雄二。「週刊少年ジャンプ」でゲームコーナー「ファミコン神拳」を担当していたライターあがりの男だ。キャラクターデザインには『ドラゴンボール』『Dr.スランプ』で一世を風靡していた鳥山明。音楽はすぎやまこういち。後に堀井自身が「奇跡のメンバーだった」と述懐する顔ぶれが、一本のカセットに詰まっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;発売当初、売り上げは芳しくなかったという。それが口コミでじわじわと広がり、最終的に約150万本にまで膨らんでいく。テレビゲームソフトが「社会現象」という言葉で語られた、初めての瞬間に近いものだったかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;あの頃甲子園が消えた年&#34;&gt;あの頃、甲子園が消えた年&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;高校野球の話を少しさせてほしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和61年というのは、甲子園を知る人間には特別な意味を持つ年だ。前の年、昭和60年の夏、PL学園の桑田真澄と清原和博――KKコンビと呼ばれた二人が、涙をのんで甲子園を去った。1年生の夏から3年連続で甲子園の土を踏んだ二人が卒業し、あの二人がいなくなった甲子園は、なんとなく空洞になったように感じた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私たちのような高校球児にとって、桑田と清原は神様みたいな存在だった。テレビの中で見る甲子園は遠くて眩しくて、ああいう選手になりたいという気持ちと、自分とは違う世界の話だという諦めが、いつも胸の中で混ざっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和61年の夏の甲子園は天理（奈良）が優勝した。しかしその夏を目指して、全国3800校以上の球児たちが地方の土を踏んでいた。私もその中の一人だった。グラウンドに転がるボールを、まるで命がけで追いかけていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;二つの伝説が生まれた年&#34;&gt;二つの「伝説」が生まれた年&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ドラゴンクエストが生まれた日、私はバットを振っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それは単なるすれ違いではなく、あの頃の昭和という時代が持っていた、ある種の豊かさだったのかもしれない。画面の中で勇者が剣を抜く子どもたちがいた。グラウンドで泥に塗れながらノックを受ける子どもたちがいた。誰かの青春は誰かの知らないところで静かに燃えていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ふっかつのじゅもん」を紙に書き留めて、書き間違えて、また最初からやり直した子どもたちの話を今になって聞くと、妙に懐かしい気持ちになる。私はやり直すたびに素振りをしていた。同じ時代に、同じように何度も何度も繰り返した者同士として、どこかで通じるものがある気がして。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;あの音楽がある限り&#34;&gt;あの音楽がある限り&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;すぎやまこういちは2021年に90歳で亡くなった。鳥山明も2024年に逝ってしまった。堀井雄二だけが今も筆をとり続けている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;三人がともに作り上げたあの「序曲」は、いまも世界中の耳に残っている。コンサートホールでオーケストラが演奏し、お客さんがスタンディングオベーションを送る。昭和61年の5月27日に生まれた音楽が、令和の今も鳴り続けている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの日、グラウンドにいた私には聞こえなかった音楽が、こうして何十年も経ってから耳の中で鳴っている。不思議な話だと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたは、初めてドラゴンクエストを遊んだのはいつ頃でしたか？&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-may-26/&#34;&gt;昭和の今日は何があった日？ ―5月26日―&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-may-28/&#34;&gt;昭和の今日は何があった日？ ～5月28日～&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>昭和の今日は何があった日？ ―5月26日―</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-26/</link>
      <pubDate>Mon, 25 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-26/</guid>
      <description>昭和44年、東名高速道路が全線開通。私が生まれた翌月の出来事だった。テレビの向こうの「夢」が、半世紀を経て子どもたちとの家族旅行になる日まで。</description>
    </item>
    <item>
      <title>昭和の今日は何があった日？ ── 5月25日、銀河系が地球に降ってきた日</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-25/</link>
      <pubDate>Sun, 24 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-25/</guid>
      <description>&lt;p&gt;今日、5月25日は、私がずっと「夏の映画」だと思い込んでいた出来事の、本当の誕生日だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和52年（1977年）5月25日。アメリカで一本の映画が公開された。タイトルは『スター・ウォーズ』。わずか32の劇場からスタートしたその映画は、瞬く間に全米を席巻し、ジョーズが打ち立てた興行収入の記録を塗り替え、やがてアカデミー賞7部門を獲得した。しかし私は、この日付を長い間知らなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そりゃそうだ。私にとってスター・ウォーズは「昭和53年の夏」の記憶だからだ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;一年間日本の子どもたちは待たされた&#34;&gt;一年間、日本の子どもたちは待たされた&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;全米公開から約一年が経った昭和53年（1978年）6月、ようやく『スター・ウォーズ』は日本の劇場にやってきた。今でこそ日米ほぼ同時公開が当たり前だが、当時は半年や一年のタイムラグは珍しくなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、その一年間が長かったことは確かだ。「スター・ウォーズ」という映画の噂は、日本にいる子どもたちの耳にもじわじわと届いていた。アメリカで信じられない映像が作られた、光の剣で戦うシーンがある、ロボットが出てくる……。「宇宙戦艦ヤマト」でSFアニメの洗礼を受け、「仮面ライダー」で変身ヒーローに慣れ親しんだ当時の日本の子どもたちにとって、その情報は十分すぎるほど想像を掻き立てるものだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;待ちきれないファンの中には、大枚をはたいてアメリカまで観に行った人もいたという。今の感覚では信じられないような話だが、海外旅行がまだ贅沢だった時代に、映画一本のためにそこまでした人がいたというのだから、いかに熱狂的だったかがわかる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;チュニジア・ネフタの砂丘&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/starwars-nefta-dunes.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;映画の舞台「タトゥイーン惑星」のロケ地となったチュニジア・ネフタ周辺の砂丘。あの幻の惑星は、北アフリカの実在する大地に宿っていた。（Photo: DamienSlattery / &lt;a href=&#34;https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/&#34;&gt;CC BY-SA 3.0&lt;/a&gt;）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;王冠の裏に銀河がいた&#34;&gt;王冠の裏に、銀河がいた&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;私の記憶の中でスター・ウォーズは、映画館よりも先に「コカ・コーラの王冠」で登場した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;日本公開に合わせて、コカ・コーラとファンタのびん入り飲料に、スター・ウォーズのタイアップ王冠が登場した。1本50円の190ミリリットル入り。王冠の内側のビニールをペりとめくると、そこにダース・ベイダーやR2-D2、C-3POといったキャラクターが印刷されていた。コンプリートしたくても、毎日毎日コーラを買い続ける小遣いなどあるはずがない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから子どもたちはどうしたか。自販機に備え付けられた栓抜きを使って、大人たちが飲み干してそのまま置いていった王冠を拾ったのだ。栓抜きの溝に引っかかったまま残っている王冠に指を突っ込んで取り出す。地面に落ちているものも当然見逃さない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はさらに大胆な手に出た。小学校の正門前にある駄菓子屋——学校指定の用品も売っているような、あの馴染みの店だ——に置いてあった栓抜きの下の王冠受け容器ごと外して、ひっくり返して中身をぶちまけたのだ。今思えば相当なことをしていたが、当時はそれを「工夫」だと信じて疑わなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし王冠を手に入れても、それで終わりではない。本当の目的はここからだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;集めた王冠をアスファルトの地面に置き、靴底で踏みながら足を引きずる。ゴリゴリと摩擦をかけ続けると、王冠のギザギザの縁と、内側のビニール面が少しずつ分離してくる。それをTシャツの布地を外側と内側からはさみ込んで、ギザギザの縁を布に食い込ませる——完成。手製のスター・ウォーズバッジである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ダース・ベイダーのバッジを胸に貼り付けた瞬間の、あの満足感。100円も使わずに、靴底と地面だけで作り上げた銀河系グッズ。今思えばなんとも必死な話だが、当時はそれが当たり前の「創意工夫」だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;チュニジア・アジムのモス・アイズリー・カンティーナ跡&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/starwars-cantina-ajim.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;チュニジア・アジムの「モス・アイズリー・カンティーナ」のロケ地。映画の中でルークとハン・ソロが出会った宇宙酒場は、ここで撮影された。（Photo: Stefan Krasowski / &lt;a href=&#34;https://creativecommons.org/licenses/by/2.0/&#34;&gt;CC BY 2.0&lt;/a&gt;）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お菓子屋さんでも同じような熱気があった。明治の「マーブルチョコレート」には、スター・ウォーズのキャラクター入りマスコットが同梱された小さな筒入り商品が登場し、1個70円で売られた。みんなが欲しがったのはダース・ベイダーだったが、なぜかチューバッカばかり出てきた──そんな「恨み節」が後になっても語り継がれているのだから、あのブームはリアルだった。森永は「スター・ウォーズ・キャラメル」を発売し、マクドナルドではドリンクを頼むとルーク・スカイウォーカー、C-3PO＆R2-D2、ダース・ベイダーの絵柄が入ったカップが出てきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;映画を観る前から、銀河はすでに子どもたちの手のひらに降りてきていたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;光の剣でチャンバラをした夏&#34;&gt;光の剣でチャンバラをした夏&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;昭和53年の夏休み。映画館の前に子どもたちが列を作った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;宇宙船が音を轟かせてスクリーンを横切る冒頭のシーン。ルーク・スカイウォーカーがライトセーバーを手にする場面。ダース・ベイダーが黒いマントとともに登場した瞬間の、あの重低音。CGなど存在しない時代に、あれほどの映像をどうやって作ったのか今でも不思議だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;映画館を出た子どもたちは、棒切れや傘を手にしてライトセーバーのチャンバラを始めた。「シュウゥゥ」という効果音を口で言いながら。「フォース」という言葉の意味はよくわからなくても、なんとなく重要なものだということはわかった。ダース・ベイダーに憧れた子も、少なくなかったと思う。あの声、あの存在感、あのマスク——悪役なのに、主人公よりもかっこよかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ジョージ・ルーカス監督は、日本の時代劇、特に黒澤明監督の作品から大きなインスピレーションを得ていたとされている。ライトセーバーは刀を、ダース・ベイダーのヘルメットは鎧兜を模したものだと言われていた。遠い銀河の物語が、実は私たちの文化の血を受け継いでいたという事実は、後になって知ると不思議な誇らしさがあった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;チュニジア・アジムのオビ=ワン・ケノービの家跡&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/starwars-obi-wan-house.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;チュニジア・アジムに残る「オビ=ワン・ケノービの家」のロケ地。荒野に立つ白い石造りの家——ルークが初めてオビ=ワンと出会う、あの場所だ。（Photo: Stefan Krasowski / &lt;a href=&#34;https://creativecommons.org/licenses/by/2.0/&#34;&gt;CC BY 2.0&lt;/a&gt;）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;昭和52年5月25日知らなかった私の時代の誕生日&#34;&gt;昭和52年5月25日——知らなかった、私の時代の誕生日&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;話を戻そう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和52年の今日、5月25日。私は12歳だった。その日もおそらく、公園で野球をしていたか、駄菓子屋でホームランバーを買っていたか、テレビのアニメに夢中になっていたか——そんな普通の一日を過ごしていたはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;遠い国の映画館で、歴史が変わっていることを知る由もなく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それが一年後、コカ・コーラの王冠になり、マーブルチョコのマスコットになり、映画館の行列になって、私の目の前にやってきた。昭和の子ども時代の記憶は、案外そういう形で届くものだったのかもしれない——誰かが5月25日に作ったものが、一年かけて、夏の思い出になって。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたも、あの夏の行列を覚えているだろうか。王冠を拾って歩いた、あの日のことを。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-may-24/&#34;&gt;昭和の今日は何があった日？ ── 5月24日&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-may-26/&#34;&gt;昭和の今日は何があった日？ ―5月26日―&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>昭和の今日は何があった日？ ── 5月24日</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-24/</link>
      <pubDate>Sat, 23 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-24/</guid>
      <description>&lt;h2 id=&#34;黒澤明世界を黙らせた日の翌朝&#34;&gt;黒澤明、世界を黙らせた日の翌朝&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;昭和55年（1980年）5月24日の朝刊を、私は覚えていない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当時の私はまだ小学校に上がったばかりで、新聞を読む習慣などなかったし、カンヌという南フランスの街の名前も知らなかった。でも大人たちは知っていた。おそらくテレビのニュースでも伝えられていた。黒澤明監督の映画『影武者』が、カンヌ国際映画祭の最高賞であるパルム・ドールを受賞した、という知らせを。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;前日の5月23日（日本時間）、フランスで開かれた第33回カンヌ国際映画祭の授賞式で、『影武者』がグランプリに輝いた。日本映画がこの賞をとったのは、昭和29年（1954年）の衣笠貞之助監督『地獄門』以来、実に26年ぶりのことだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この映画には、公開前から話題が絶えなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;武田信玄の影武者として生きる小泥棒の物語を、黒澤はおよそ23億円という当時の日本映画では破格の製作費をかけて作り上げた。しかもその資金集めに協力したのが、ほかならぬハリウッドの二大巨匠、フランシス・フォード・コッポラとジョージ・ルーカスだった。あの「ゴッドファーザー」のコッポラと、「スター・ウォーズ」のルーカスが、それぞれ外国版プロデューサーとして名を連ね、世界配給のために動いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;子どもの私が「スター・ウォーズ」の名前を聞いて目を輝かせていた頃、そのルーカスが、海の向こうで黒澤明のために奔走していたわけだ。あとになってその事実を知ったとき、なにか不思議な縁のようなものを感じた。黒澤の「隠し砦の三悪人」が、ルーカスの「スター・ウォーズ」に影響を与えていたとも言われているから、返礼のようなものだったのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;主演の仲代達矢が二役を演じ、山崎努、萩原健一、根津甚八といった芸達者が揃う。北海道から姫路城、熊本城へとロケ地を縦断し、富士山麓には巨大な武田屋形のオープンセットまで建てられた。その配給収入は27億円を超え、その年の邦画のトップに輝いた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;カンヌ映画祭の赤いカーペット&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/cannes-redcarpet.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;カンヌ映画祭の赤いカーペット。昭和55年5月23日、ここで『影武者』がパルム・ドールを受賞した。（Photo: Rita Molnár / &lt;a href=&#34;https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/&#34;&gt;CC BY-SA 3.0&lt;/a&gt;）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;パルム・ドールの報が届いた翌朝の5月24日、大人たちの間でこの映画の話が弾んでいたことは想像に難くない。職場でも、居酒屋でも、「黒澤はやっぱりすごい」「コッポラやルーカスも認めたんだから」という声が聞こえてきただろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はそのとき何をしていたのだろうか。たぶん、ホームランバーを舐めながら公園で遊んでいたか、友達の家でゲームに興じていたか。世界が黒澤明に喝采を送っていたその5月の昼下がりに、昭和の子どもたちはいつも通りの日常を生きていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;赤線が消えていくその少し前の話&#34;&gt;赤線が消えていく、その少し前の話&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ずっと以前のこと、昭和31年（1956年）5月24日に、ひとつの法律が公布された。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;売春防止法、という。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;売春を助長する行為を処罰し、その防止を図ることを目的としたこの法律は、翌昭和32年4月に施行され、罰則の完全施行は昭和33年4月とされた。そして昭和33年に、「赤線」と呼ばれた地域が廃止されていった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「赤線」とは何か。それは地図に赤い線で囲われた、公娼制度のもとで黙認されていた地区のことだ。戦後の混乱期に各地で形成されたそうした場所は、昭和20年代から30年代にかけて、街の地理の一部として存在していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が育った葛飾でも、立石という町にその痕跡が残っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;京成立石駅の北口あたり、商店街の喧騒からほんの少し路地に入ったところに、子どもの目にも「ここはなんか違う」と感じさせる一角があった。建物の造り、看板の雰囲気、ひっそりとした佇まい。大人が子どもに説明するような場所ではなかったから、私はただ漠然と「近づいてはいけない」という空気だけを感じていた。昭和の時分、立石には旧赤線の名残りを留めた一角や特殊浴場と呼ばれる施設が残っており、それは人々の日常のすぐそばに、当然のように溶け込んでいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今になって調べてみると、戦後の東京には赤線と呼ばれる地域が十数か所も存在していたという。立石もそのひとつだった。「東京中が赤線だった」と当時の新聞記者が嘆いたという記録すら残っている。昭和33年の赤線廃止以降も、そうした場所の「残り香」は街のあちこちにしみついていて、私が小学生だった昭和50年代にも、その気配はまだ消えてはいなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;葛飾区立石の航空写真（2006年）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/tateishi-2006.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;葛飾区立石の航空写真（2006年撮影）。昭和の面影を残す路地が、今も密集している。／国土交通省 国土地理院「国土画像情報」CC BY 4.0&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;売春防止法の公布から、私が生まれるまでに10年以上ある。だから「赤線」そのものを見た記憶はない。しかし、その名残のような場所が日常のすぐ隣に当たり前に存在していたあの頃と、今の時代とでは、街の風景も、人々の感覚も、まるで別の世界のように変わってしまった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;法律ひとつで街の風景が変わる。昭和という時代は、そういう変化が幾重にも積み重なってできた時代だったのだと、今になって思う。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;5月24日という日は、大人の世界では二つの大きな出来事に挟まれた日だ。世界に誇る映画監督の受賞という晴れやかな知らせと、街の闇を法律で塗り替えようとした戦後の苦しみと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どちらも昭和という同じ時代の、同じ5月24日に刻まれている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたは、この日の昭和をどう覚えていますか？&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
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    </item>
    <item>
      <title>昭和の今日は何があった日？ ～5月23日～</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-23/</link>
      <pubDate>Fri, 22 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-23/</guid>
      <description>&lt;p&gt;五月の風が少し強くなる頃、世界のどこかで、昭和の日本を揺さぶるニュースが届くことがある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この日付には、四年という時間を隔てて、まったく別の舞台で生まれたふたつの「快挙」が眠っている。どちらも、当時の新聞のスポーツ欄や社会面を飾り、茶の間の話題をさらった出来事だ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;世界のクロサワカンヌで勝つ昭和55年1980年5月23日&#34;&gt;世界のクロサワ、カンヌで勝つ——昭和55年（1980年）5月23日&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;フランスのカンヌから、日本中が沸くようなニュースが飛び込んできた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;黒澤明監督の映画「影武者」が、第33回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを受賞したのだ。日本映画がカンヌの頂点に立つのは、昭和29年（1954年）の衣笠貞之助監督「地獄門」以来、実に26年ぶりの快挙だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「影武者」は、戦国武将・武田信玄の影武者に仕立てられた小泥棒の物語だ。信玄の死後、その秘密を守るために「信玄」を演じ続けることを強いられた男が、やがて武田家の滅亡とともに無名のまま消えていく。主演は仲代達矢さん。もともと主演に決まっていた勝新太郎さんが撮影途中で降板するという大騒動もあり、公開前から世間の注目を集めていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私は当時小学生で、「カンヌ映画祭」が何なのかわかるはずもなかった。ただ「日本の映画がフランスで一番になった」というニュースが夕方のテレビで繰り返し流れ、父か母が「えらいことになったな」とつぶやいていた記憶だけがある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それが何の意味を持つのか、大人になってから少しずつわかってきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当時の黒澤明は、日本の映画会社から資金を出してもらえない状況が続いていた。そこに手を差し伸べたのが、「ゴッドファーザー」のフランシス・フォード・コッポラと「スター・ウォーズ」のジョージ・ルーカスだった。世界の頂点にいたハリウッドの鬼才ふたりは、「マスター・クロサワが資金難で映画を撮れないなどあってはならない」と20世紀FOXへの出資交渉に動いた。黒澤が描いた数百枚にも及ぶ絵コンテを目にした彼らは、驚愕して言葉を失ったという。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私たちが公園で野球をしたり、駄菓子屋でアイスを舐めていたあの頃、世界はそれほどの目で、日本の一人の老監督を見つめていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;黒澤明の手形プレート（東京・上野公園）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/kurosawa-handprints.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;上野公園に残る黒澤明の手形。世界が認めた「マスター・クロサワ」の足跡。（Photo: Daderot / CC0）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;後年「影武者」を改めて観たとき、私はその映像美に言葉を失った。信玄の影武者として「本物」になろうと足掻きながら、最後まで「偽者」のままで死んでいく男の孤独。土煙の戦場に身一つで踏み込み、矢に射られて倒れていくラストシーン。あれだけの絵を、あの時代に一人の人間がつくり上げたという事実に、今も静かに圧倒される。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;三兄弟同時に関取へ昭和59年1984年5月23日&#34;&gt;三兄弟、同時に関取へ——昭和59年（1984年）5月23日&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;舞台はがらりと変わって、大相撲の世界へ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この日、一つの番付発表が相撲ファンを沸かせた。井筒部屋の三男・寺尾の十両昇進が決まり、すでに関取だった長兄・鶴嶺山、次兄・逆鉾と合わせて、史上初の&lt;strong&gt;三兄弟同時関取&lt;/strong&gt;が実現したのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「井筒三兄弟」——。父は、「もろ差しの名人」と呼ばれた元関脇・鶴ヶ嶺昭男。自らが師匠を務める井筒部屋に、三人の息子を全員入門させた。長男・鶴嶺山、次男・逆鉾、そして末っ子の寺尾。鹿児島の血を引く父子四人が、同じ土俵で汗を流していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がちょうど千代の富士の昇進を追いかけながら相撲中継に熱中していた頃の話だ。千代の富士が横綱へと駆け上がっていったあの時代、テレビには引き締まった筋肉の「ウルフ」と並んで、細身の体で激しい突っ張りを繰り出す寺尾の姿があった。あの甘いマスクと、信じられないほど速い突っ張りのコントラストが妙に記憶に残っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;三兄弟の母・節子さんは、当時「蔵前小町」と呼ばれるほどの美人だったという。三兄弟から深く慕われていた節子さんが亡くなったとき、すでに力士だった長男と次男に、父・鶴ヶ嶺はこう言ったそうだ。「おまえらお客さんいるんだから帰れ」と。そうして三男・寺尾の四股名は、亡き母の旧姓から一字をとって付けられた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;相撲の家族とは、こういうものなのだ、と思った。土俵の上の激しさとは裏腹に、その根っこに流れているものは、ひどく人間的なあたたかさだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;寺尾（錣山親方）― 2011年1月場所&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/terao-2011.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;寺尾こと現・錣山親方。細身の体から繰り出す突っ張りで長く土俵を沸かせた。（Photo: FourTildes / &lt;a href=&#34;https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/&#34;&gt;CC BY-SA 3.0&lt;/a&gt;）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和59年のあの番付発表の日、父親の鶴ヶ嶺はどんな顔をしていたのだろう。三人の息子が同時に「関取」として土俵に立つ——親として、師匠として、どんな言葉もきっとうまく出てこなかったのではないか、と想像する。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;二つの父と子の話として&#34;&gt;二つの「父と子」の話として&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;並べてみると、昭和55年と59年のこの日の出来事には、どこか共鳴するものがある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;カンヌでパルム・ドールを受けた黒澤明も、自分の映画を撮るために敬愛する弟子たちの力を借りた。三兄弟も、父親が切り拓いた土俵の上を、それぞれの足で歩いた。受け継ぐもの、超えようとするもの、守り続けるもの。「影武者」の問いかけと、三人の力士の姿が、同じ五月二十三日という日付の中でひそかに重なって見える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そしてこの話を書きながら、ふと自分のことを思った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私には妻との間に4男1女、5人の子どもがいる。歳の差はあるが、みな丈夫で元気に育ってくれた。そして5人全員が、小学生時代に同じ学童野球チームに所属した（末っ子は現在も所属中だ）。そのチームは、今から45、6年前——私自身が小学生だった頃に所属していたチームでもある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;同じグラウンド、同じユニフォーム、世代をまたいで続く縁というものが、確かにある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いつの日か、私も含めた6人全員で同じグラウンドに立って、野球の試合をしたい。それが今の私の、ひそかな楽しみであり目標だ。そのためにも毎日のランニングと懸垂を続けている。笑われるかもしれないが、本気でそう思っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;鶴ヶ嶺親方が三人の息子と同じ土俵に立った気持ちが、少しだけわかる気がする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたには、子どもや孫と「同じ場所に立つ」夢があるだろうか？&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;【昭和55年（1980年）5月23日】第33回カンヌ国際映画祭にて、黒澤明監督「影武者」がパルム・ドール受賞。日本映画26年ぶりの栄冠。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;【昭和59年（1984年）5月23日】大相撲・井筒部屋の三男・寺尾の十両昇進が決定。長兄・鶴嶺山、次兄・逆鉾とともに史上初の三兄弟同時関取が実現。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
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    </item>
    <item>
      <title>パクパクと、東京のゴミと――昭和の5月22日</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-22/</link>
      <pubDate>Thu, 21 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-22/</guid>
      <description>&lt;p&gt;5月22日。私にとってこの日付は、黄色い丸い生き物と、東京じゅうに積み上がったゴミの山という、まったく違う二つの光景が重なる日だ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;パクパクが迷路を走り出した日&#34;&gt;「パクパク」が迷路を走り出した日&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;昭和55年（1980年）5月22日、渋谷のゲームセンターに一台の筐体が置かれた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;黄色い丸がパクパクとエサを食べながら迷路を走り、赤・ピンク・青・オレンジの4匹のモンスターから逃げる。ゲームの名前は『パックマン』。ナムコが送り出したそのゲームが、のちに世界を席巻することになるとは、だれも思っていなかっただろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;パックマン筐体（名古屋市博物館、2020年）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/pacman-nagoya.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;Photo by inunami / &lt;a href=&#34;https://creativecommons.org/licenses/by/2.0/&#34;&gt;CC BY 2.0&lt;/a&gt;&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当時、ゲームセンターはスペースインベーダーの衝撃がまだ冷めやらない頃だった。エイリアンを撃つ、戦車を撃つ。アーケードというのは「撃つ」場所だった。ところが、パックマンには敵を攻撃する要素がない。ひたすら「食べて逃げる」だけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;開発者の岩谷徹氏は「アーケードは暴力的なゲームであふれていた。エイリアンをやっつけるような内容のものばかりだった」と振り返る。だからこそ、違うものを作りたかった。食べることをテーマにした、やわらかいゲームを。パックマンという名前も、物を食べる時の「パクパク」という日本語の擬態語から生まれた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がパックマンをはじめて目にしたのは、あの安い倉庫みたいなゲームセンターだったと思う。30円か50円のコインを握りしめて薄暗い店内に入ると、ブラウン管の光の中でそのまるっこい黄色い顔が笑っていた。レバーを4方向に倒しながら迷路を走る感覚は、それまでのシューティングゲームとはまるで違っていた。「逃げる」という体験が、あんなに面白いとは知らなかった。&lt;/p&gt;
&lt;h3 id=&#34;敵にはそれぞれ性格があった&#34;&gt;敵には、それぞれ「性格」があった&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;ゲームに夢中になりながら、私たちは気づかないうちにある不思議を感じていたはずだ。「なんか敵が生きてるみたいだな」と。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実は4匹のモンスターには、それぞれ個性が設計されていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;赤の「アカベイ」はパックマンをしつこく追いかけてくる。ピンクの「ピンキー」は追いかけるのではなく、パックマンの進行方向の先へ先回りする。水色の「アオスケ」は気まぐれな動きをして、どこへ来るか読みにくい。オレンジの「グズタ」はパックマンに近づきすぎると急にふらふらと離れていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これは「個性のある敵キャラクター」という発想の、世界でも最初期の試みだった。今でいえばAIのような概念が、1980年という時代にすでに迷路の中に息づいていた。「追う」「先回り」「気まぐれ」「迷う」という4つの行動パターンが絡み合うことで、迷路の中の戦況は毎回違う顔を見せた。それが「なんか生きてる感じ」の正体だったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今から46年前のゲームが、現代のAI技術にも通じる考え方を持っていたとは、当時の子どもだった私には想像もできなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;パックマンには迷路を攻略するパターンがあり、友達の間で「このルートで行けば5面まで死なない」という攻略法が口伝えに広まった。放課後のゲームセンターで真剣に迷路を走る子どもたちの後ろに人だかりができる。そんな光景が各地であったはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;1980年から7年間で総販売台数は約29万台を超え、「最も成功した業務用ゲーム機」としてギネス・ワールド・レコーズにも認定された。あの黄色い丸が初めて走り出したのが、昭和55年の今日だったとは、当時は知るよしもなかった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;東京がゴミ戦争を戦っていた日&#34;&gt;東京が「ゴミ戦争」を戦っていた日&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;もうひとつ、この5月22日には忘れられない出来事がある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和48年（1973年）5月22日、東京・江東区が杉並区のゴミ搬入を実力で阻止した日だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「東京ゴミ戦争」という言葉は、正直なところ、私の記憶にない。当たり前といえば当たり前で、昭和48年の私はまだ4歳だった。怒鳴り合うニュース映像もわかるはずがない。それでも、この出来事を調べていたとき、ふと頭に浮かんだ光景があった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;葛飾区・水元のあの温水プールだ。&lt;/p&gt;
&lt;h3 id=&#34;社会科見学とゴミを燃やす熱&#34;&gt;社会科見学と、ゴミを燃やす熱&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;小学4年生、昭和54年ごろのことだ。葛飾区の小学生は「社会科見学」で水元の葛飾清掃工場を訪れた。職員の方に焼却炉の仕組みを教えてもらい、ゴミを燃やした時に出る熱が蒸気となって、隣接する施設のプールを温めていると聞いた。「ゴミの熱でプールが温かくなる」という話は、10歳の子どもにも妙に印象深く残った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;見学のあと、友達とそのプールでばちゃばちゃと泳いだ。余熱利用の仕組みは頭に入っていたけれど、それがどんな歴史の流れの上にあるのかまでは、もちろんわかっていなかった。&lt;/p&gt;
&lt;h3 id=&#34;自分のゴミは自分で処理せよ&#34;&gt;「自分のゴミは自分で処理せよ」&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;ゴミ戦争のあらましはこうだ。江戸時代から現代まで、東京のゴミを受け入れてきた土地が江東区だった。昭和40年代の大量消費社会でゴミが激増すると、江東区の「夢の島」はハエやネズミが大量発生する悪臭の島と化した。東京都は各区に清掃工場を建設して「自区内処理」を推進しようとしたが、杉並区では住民の反対で建設計画が何度も頓挫した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;杉並区で5月21日に反対派による流会が起きたため、江東区では翌5月22日、杉並区のゴミ搬入を実力阻止した。東京都清掃労働組合も連帯してボイコットし、杉並区内のゴミ収集は止まった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;自分たちのゴミを処理する施設を「うちには要らない」と拒み続けた結果、区内にゴミの山が積み上がる。この対立は全国ニュースとなり、「自分のゴミは自分の区で処理する」という原則が東京じゅうで問い直された。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;夢の島（1989年・航空写真）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/yumenoshima-1989.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;東京・江東区の夢の島。かつてゴミで埋め立てられた島は、現在は公園として整備されている。／国土交通省 国土地理院「国土画像情報（カラー空中写真）」&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;h3 id=&#34;あの夏のプールと歴史の線&#34;&gt;あの夏のプールと歴史の線&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;その問い直しの流れが、東京各区の清掃工場整備を加速させた。葛飾区も例外ではなかった。工場が整備されれば、その焼却熱を地域に還元しようという発想が生まれる。余熱は蒸気となり、隣接する施設のプールを温める。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が友達と泳いだあの水元のプールは、その歴史的な流れの終着点のひとつだったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「東京ゴミ戦争」→「自区内処理の推進」→「各区の清掃工場整備」→「余熱利用施設（温水プール）の設置」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;社会科見学でその仕組みを教わっていたのに、どうしてその工場ができたのか、なぜ余熱利用という発想が生まれたのか、その背景まで考えたことは一度もなかった。4歳の私には届かなかったニュースが、10歳の私をプールで泳がせていたとは。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;昭和55年5月22日、黄色い丸が東京の繁華街に生まれた日。
昭和48年5月22日、東京じゅうのゴミの置き場をめぐって大人たちが怒鳴り合った日。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;子どもには見えなかったことが、50年近く経ってようやくつながる。歴史の線は、いつもあとから引かれるものらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたの子ども時代に「あれはそういうことだったのか」と気づいた出来事は、何かあるだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;「昭和の今日は何があった日？」は、昭和40年〜64年のできごとを、ひとつひとつ掘り起こしていく連載です。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-may-21/&#34;&gt;昭和の今日は何があった日？ ―― 5月21日、スカイライナーが走り出した朝&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-may-23/&#34;&gt;昭和の今日は何があった日？ ～5月23日～&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>昭和の今日は何があった日？ ―― 5月21日、スカイライナーが走り出した朝</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-21/</link>
      <pubDate>Wed, 20 May 2026 10:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-21/</guid>
      <description>昭和53年5月21日、スカイライナーが走り出した。成田空港の開港はまだ遠い話だったが、目の前の踏切を轟音とともに通り過ぎていくあの列車は、10歳の私にとって「新幹線」と同じくらい誇らしいものだった。</description>
    </item>
    <item>
      <title>成田が開いた日、ジェシーが泣いた日――5月20日の昭和</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-20/</link>
      <pubDate>Tue, 19 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-20/</guid>
      <description>&lt;p&gt;5月の空は高い。梅雨前の、束の間の晴れ間が続くこの季節に、昭和はふたつの大きな出来事を刻んでいる。ひとつは「夢」が開いた日。もうひとつは「夢」が終わった日の話だ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;朝ごはんを食べながら聞いた言葉&#34;&gt;朝ごはんを食べながら聞いた言葉&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;1978年（昭和53年）5月20日。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「成田空港反対運動」「過激派」「機動隊と衝突」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;小学生だった私は、朝ごはんを食べながら流れてくるテレビのニュースで、こういう言葉を毎日のように耳にしていた。ヘルメットをかぶった学生、泥まみれの農民、機動隊の盾。子どもには意味がよくわからない、でもなんとなく怖くて騒々しい映像の連続だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実は、この日の開港はギリギリの滑り込みだった。本来の開港予定は3月30日。ところが2日前に過激派グループが管制塔に乱入して機器を破壊し、やむなく約2か月延期となった末の、この5月20日だったのだ。開港当日も反対同盟と機動隊の衝突は続き、反対派が燃やした古タイヤの黒煙が空に立ちこめる中、新東京国際空港は産声を上げた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、飛行機そのものは夢だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;29か国の航空会社34社が乗り入れる、日本初の本格的な国際空港。テレビニュースの騒然とした映像の向こうに、なんとなく「外国」という輝きが透けて見えた気がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ところで、このころの為替レートは1ドル300円前後だった。今は1ドル160円くらいでも「大変な円安だ！」と騒がれているが、300円というのはそれより倍もドル高な時代だ。そして振り返ってみれば、昭和から平成、令和と、時代はいつも「円高だ！」「円安だ！」と騒ぎ続けてきた。どうやら、為替というものはいつの時代も誰かを悲鳴させるようにできているらしい。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;笑点とサザエさんの間に流れたあの声&#34;&gt;笑点とサザエさんの間に流れたあの声&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;もうひとつは1984年（昭和59年）5月20日の話だ。大相撲の力士、高見山大五郎が引退を表明した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;日曜日の夕方といえば、私にとって「笑点」と「サザエさん」の時間だった。その間に流れてくる丸八真綿の布団CM。でんぐり返しからの「まるはーち！」、そしてあのしゃがれた声で「2枚、2枚！2倍、2倍！」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;子どもたちは次の日、学校でこれを真似した。「2倍！2倍！」というキャッチフレーズは一躍ブームになり、子どもから芸人までが口真似をするほどだった。武家屋敷風の部屋に入ってきた高見山が布団に入り、最後に電気を消し忘れるというオチのバージョンもあった。ヒツジの着ぐるみをまとって「ジェシーの羊」（メリーさんの羊の替え歌）が流れるバージョンもあった。どれも、あの図体に似合わない愛嬌があふれていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ハワイ・マウイ島出身、本名ジェシー・ジェームス・ワイラニ・クハウルア。身長192センチ、体重205キロ。愛称「ジェシー」。彼は1968年に外国出身力士として初めて幕内に入り、1972年7月場所では外国人力士として史上初の幕内最高優勝を果たした。表彰式ではニクソン米大統領の祝電が読み上げられたというのだから、その注目度がわかる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただ、正直に言う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当時の私が「知っているお相撲さん」といえば、北の湖、輪島、貴ノ花、そして高見山だった。でも相撲中継で見る高見山の印象といえば……ほとんど負けていた記憶しかないのだ。突き落とされ、投げられ、土俵の外に転がり出ていく大きな背中。子ども心に「なんか強くないな、この人」と思っていた。高見山関、本当に申し訳ない（笑）。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん実際には、20年間土俵に立ち続けた鉄人だった。「40歳まで相撲を取りたい」「建設中の両国国技館で相撲を取りたい」という夢を胸に、怪我をおしながら出場を続けた。引退宣言は場所の途中、突然のことだった。千秋楽の最後の一番は黒星だったが、満員の観衆から大声援が降り注ぎ、花道に花束が舞った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「20年間、相撲を取り続けてきたことを誇りに思う」「生まれ変わっても力士になりたい」と彼は言った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和天皇がのちに「高見山がなぜ辞めたのかね」「残念だったろうな」と語られたと伝わっている。それを知らされた高見山は、「もったいないです、もったいないです」と涙を流したという。40歳まであと1か月。両国国技館の開場は翌1985年。どちらの夢も、わずかに届かなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、ジェシーは日本に残った。東関部屋を興し、やがて弟子の曙を横綱に育て上げる。彼の昭和は、引退の日に終わったわけではなかった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;5月20日。煙の中を飛行機が降りてきた日と、土俵を去った大男が泣いた日。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたは「まるはーち！」をまだ口から出せますか？&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-may-19/&#34;&gt;5月19日は「ボクシングの日」――ラジオ、テレビ、そしてネット配信。日本人はいつも世界チャンピオンに熱狂してきた&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-may-21/&#34;&gt;昭和の今日は何があった日？ ―― 5月21日、スカイライナーが走り出した朝&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>5月19日は「ボクシングの日」――ラジオ、テレビ、そしてネット配信。日本人はいつも世界チャンピオンに熱狂してきた</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-19/</link>
      <pubDate>Mon, 18 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-19/</guid>
      <description>&lt;p&gt;昭和27年（1952年）の5月19日、東京・後楽園球場に4万人の人間が詰めかけた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;野球の試合ではない。ボクシングだ。しかも特設リングをグラウンドの真ん中に組んで戦うというのだから、どれほど異様な熱気だったかが想像できる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その夜から74年。5月19日は「ボクシングの日」として今も残っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして私は今、この日付を眺めながら思う。日本人はずっと、ボクシングの世界チャンピオンに熱狂してきたのだ、と。時代ごとに「チャンピオン」は変わり、「熱狂の道具」も変わった。でも熱狂そのものは、変わらなかった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;昭和27年ラジオの前に家族が集まった夜&#34;&gt;昭和27年　ラジオの前に家族が集まった夜&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;白井義男という名前を、今の若い人はほとんど知らないだろう。でも昭和の大人たちに聞けば、きっと目が変わる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼は昭和27年5月19日、世界フライ級チャンピオンのダド・マリノ（アメリカ）に15回判定勝ちし、日本人として初めてプロボクシングの世界王者となった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当時の世界ボクシングにはフライ級からヘビー級まで8つの階級しかなかった。世界チャンピオンは地球上に8人しかいない、ということだ。その「世界の8分の1」に、敗戦からまだ7年しか経っていない日本人がなってしまった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;白井の戦い方は独特だった。「打たれたら打ち返す」が当時の日本ボクシングの常識だったのに対し、彼は「打たせないで打つ」スタイルを貫いた。それを仕込んだのは、GHQの職員として来日していたアルビン・カーン博士というアメリカ人。ボクシングの経験はほとんどないのに、スポーツ生理学の知識を武器に白井を育て上げた。このちょっと不思議なコンビが、日本に初めての世界チャンピオンをもたらした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その夜、4万人が詰めかけた後楽園球場に来られなかった人々はどうしていたか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;テレビはまだほとんどの家庭にない時代だ（NHKのテレビ放送が始まるのは翌昭和28年）。だから人々はラジオに耳をかっていた。この試合のラジオ聴取率は83%を記録したという。日本中の家が、ラジオの前で固まっていたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;83%という数字の凄まじさを想像してみてほしい。日本中の家がほぼ全部で、同じ音声を聴いている。家族全員が息を殺して、アナウンサーの声に耳を澄ませている。15ラウンドを戦い抜いて判定が告げられた瞬間、ラジオの前でも飛び上がった家族がいたに違いない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;白井が勝ったことは、単純な「スポーツで勝った」ではなかったと思う。あの戦争から立ち直れるんだ、という証明だった。敗戦後の日本人が、自分自身を取り戻す一つの節目。後楽園球場の4万人の歓声は、そういう重さを持っていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;昭和50年代テレビの前にかじりついた夜&#34;&gt;昭和50年代　テレビの前にかじりついた夜&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;それから四半世紀が過ぎ、日本は高度経済成長を経て、テレビが一家に一台の時代になっていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「私にとってのボクシング世界チャンピオンは具志堅用高だ」と言える世代は、おそらく昭和40年代生まれ前後だろう。その感覚、私にはよくわかる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;具志堅用高は昭和51年（1976年）10月10日にWBA世界ライトフライ級王座を獲得し、そこから昭和56年（1981年）3月8日まで、約4年5か月にわたってチャンピオンに君臨し続けた。13回連続防衛。これは長い間、日本記録だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;小学生の間ずっと「世界チャンピオンが具志堅用高」という状況だったのだから、それはもう「当たり前の風景」のように感じていたはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;試合の夜は特別だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふだんはボクシングにそれほど興味がなくても、具志堅用高の世界タイトルマッチとなれば話は別だった。テレビの前にかじりついて応援した。家族みんなで。それが当時の日本の、ゴールデンタイムの風景だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;具志堅の魅力は、強さだけではなかった。独特のアフロヘアと、沖縄訛りの底抜けに明るいキャラクター。「ちばりよー！」という言葉が全国に広まり、沖縄出身の若者が日本中のヒーローになった。那覇の小さな少年がここまで来たんだという物語が、日本人の感情を揺さぶった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;白井義男の時代に「83%のラジオ」があったとすれば、具志堅用高の時代には「茶の間のテレビ」があった。ゴールデンタイムに全国生中継。チャンネルを変えるという選択肢がない時代、日本中が同じ画面を見ていた。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;令和の今スマホの画面に映るモンスター&#34;&gt;令和の今　スマホの画面に映る「モンスター」&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;そして今、令和の日本に「モンスター」がいる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;井上尚弥だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;神奈川県座間市出身、1993年生まれ。ライトフライ級から始まり、スーパーバンタム級まで世界4階級を制覇した。愛称は「モンスター」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何がそこまで凄いのか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;軽量級というのは、一般に「判定が多い」と言われる。体重が軽い分、一発でKOするほどのパワーを出しにくいからだ。ところが井上尚弥は、世界王者クラスの相手でも試合を終わらせてしまう。ボディブロー、左フック、カウンター、連打——どれもが凶器になる。特にボディ打ちは「内臓をえぐる」とまで表現されるほどだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかも、スピード・テクニック・パワーのどれか一つが突出しているのではなく、全部がトップ水準にある。ボクシング関係者から「欠点が少なすぎる」と言われるゆえんだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;忘れられない試合がある。2019年のノニト・ドネア戦。井上選手は眼窩底骨折を負いながら激闘を制し、強さだけでなく精神力と修正能力を世界に示した。2023年のスティーブン・フルトン戦では階級を上げて挑み、内容で圧倒してTKO勝利。「井上尚弥は本物中の本物」という評価が決定的になった試合だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;海外でも評価は高い。パウンド・フォー・パウンド（階級の差を取り払った最強ランキング）で常に上位に名前があり、アメリカやイギリスでもスター選手扱いだ。「日本ボクシング史上最高のボクサー」と評価する声は、国内にとどまらない。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;ところでどこで見るのか問題&#34;&gt;ところで、どこで見るのか問題&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ただし、である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;井上尚弥の試合を見たいと思ったとき、かつてのような「テレビをつければゴールデンタイムにやっている」という状況ではなくなっている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;主な視聴方法は今やこうなっている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まず&lt;strong&gt;Amazon Prime Video&lt;/strong&gt;。近年の日本開催ビッグマッチはAmazonが独占することが多く、プライム会員なら追加料金なしで生配信を観られる。次に&lt;strong&gt;Lemino&lt;/strong&gt;（NTTドコモ系の配信サービス）。ボクシング関連コンテンツを多く扱っており、無料部分もある。それから&lt;strong&gt;WOWOW&lt;/strong&gt;。海外開催の試合やビッグマッチで今も放送される。以前より頻度は減ったが、ボクシング中継の伝統は残っている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;地上波テレビはどうなったかというと、具志堅用高の時代、辰吉丈一郎の時代、亀田興毅の時代のような「ゴールデンタイム全国生中継」はかなり減った。放映権料の高騰、配信サービスの普及、若年層のテレビ離れ、配信会社による独占契約——理由はいくつか重なっている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和世代からすれば「寂しい」と感じる変化かもしれない。茶の間のテレビで家族みんなが見ていたあの感覚は、もう戻らない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、実は今のほうが「見やすい」面もある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;かつては深夜開始の試合もあった。録画に失敗することもあった。延長で別の番組がズレることもあった。今はスマホでも観られるし、Amazon Prime Videoなら高画質・見逃し配信・一時停止が当たり前だ。テレビに接続すれば大画面でも楽しめる。「意外と便利」と感じている昭和・平成世代も多いはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;ラジオテレビスマホ道具は変わっても&#34;&gt;ラジオ、テレビ、スマホ。道具は変わっても&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;昭和27年、日本中がラジオの前で固まって白井義男を応援した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和50年代、日本中が茶の間のテレビで具志堅用高にかじりついた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;令和の今、日本中がスマホやタブレットの画面で井上尚弥を追いかけている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;道具は変わった。でも熱狂は変わっていない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;白井義男が戦後の日本人に「俺たちも世界一になれる」という夢を見せたように、具志堅用高が沖縄の少年を「日本中のヒーロー」にしたように、井上尚弥は今まさに「日本人が世界の頂点に立てる」ことを体で証明し続けている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;5月19日、ボクシングの日。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;後楽園球場に4万人が詰めかけたあの夜から、時代は変わった。でも変わらないものが、ちゃんとある。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;昭和50年代当時、具志堅用高の試合は何度ゴールデンタイムで中継されたことか。ボクシングにさほど興味のない私でさえテレビの前にかじりついていたのだから、それがどれほど特別な時間だったかがわかる。そういう「日常の中の非日常」が、もう少しテレビにあってもいいのになあと、たまに思う。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-may-18/&#34;&gt;【昭和の今日は何があった日？】5月18日──新幹線が、日本中を走る「約束」をした日&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-may-20/&#34;&gt;成田が開いた日、ジェシーが泣いた日――5月20日の昭和&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>【昭和の今日は何があった日？】5月18日──新幹線が、日本中を走る「約束」をした日</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-18/</link>
      <pubDate>Sun, 17 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-18/</guid>
      <description>昭和45年5月18日、全国に新幹線を張り巡らせるための法律が公布された。でも私が初めて新幹線に乗ったのは、中学3年の修学旅行まで待たなければならなかった。あの東京駅のホームで感じた興奮を、今でもはっきり覚えている。</description>
    </item>
    <item>
      <title>【昭和の今日は何があった日？】5月17日──お母さんが、外に出て働き始めた時代</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-17/</link>
      <pubDate>Sat, 16 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-17/</guid>
      <description>昭和60年5月17日、男女雇用機会均等法が成立した。昭和の女性は結婚したら家庭に入るのが当然とされていた時代。パートで働きながら子どもを育てた母親たちの背中と、その時代を変えた一本の法律の話。</description>
    </item>
    <item>
      <title>【昭和の今日は何があった日？】5月16日──土曜の夜8時、チャンネル争いが始まった</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-16/</link>
      <pubDate>Fri, 15 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-16/</guid>
      <description>昭和56年5月16日、「オレたちひょうきん族」が産声を上げた。漫才ブームが日本中を席巻し、教室でも「笑ってる場合ですよ！」とクラス全員で叫んでいた時代。全員集合を卒業した小学6年生が、新しい笑いに乗り換えた、あの昭和56年の話。</description>
    </item>
    <item>
      <title>【昭和の今日は何があった日？】5月15日──今日はコロコロの発売日だった</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-15/</link>
      <pubDate>Thu, 14 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-15/</guid>
      <description>昭和52年5月15日、コロコロコミックが創刊された。そして毎月15日はコロコロの発売日。ドラえもんのアニメが始まった小学4年生の頃からコロコロを買い始め、ゲームセンターあらしに夢中になり、「炎のコマ！」と叫びながら格安ゲームセンターに通った。あの頃の15日のことを書きたい。</description>
    </item>
    <item>
      <title>【昭和の今日は何があった日？】5月14日──「もしかめ」が、家に帰ってきた</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-14/</link>
      <pubDate>Wed, 13 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-14/</guid>
      <description>5月14日はけん玉の日。大正8年のこの日、現代のけん玉の原型「日月ボール」が実用新案登録された。昭和52年のけん玉ルネッサンス、そして我が家の5人の子どもたちが次々とけん玉に夢中になった話。上の子が下の子に『どや顔』で技を披露する、あの光景のことを書きたい。</description>
    </item>
    <item>
      <title>【昭和の今日は何があった日？】5月13日──デパートの屋上が、子どもの天国だった頃</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-13/</link>
      <pubDate>Tue, 12 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-13/</guid>
      <description>昭和47年5月13日深夜、大阪・千日デパートで火災が発生した。死者118人、日本のビル火災史上最悪の惨事。その火災が消防法の改正を促し、昭和の子どもたちの天国だったデパートの屋上遊園地が、少しずつ消えていった。今年の冬、上野松坂屋のレストランで息子がお子様ランチを注文した話とともに。</description>
    </item>
    <item>
      <title>【昭和の今日は何があった日？】5月12日──青いまわしの、あの力士が好きだった</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-12/</link>
      <pubDate>Mon, 11 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-12/</guid>
      <description>平成3年5月12日、18歳の貴花田が横綱・千代の富士を破り、史上最年少金星。2日後、千代の富士は引退を表明した。昭和の大横綱が平成の新星に道を譲ったあの日と、小結から大関へ駆け上がっていく上昇期の青いまわしの千代の富士に心を奪われた、あの頃の記憶を書きたい。</description>
    </item>
    <item>
      <title>【昭和の今日は何があった日？】5月11日──「ぱたぱたママ」が聞こえたら、保育園へ行く時間</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-11/</link>
      <pubDate>Sun, 10 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-11/</guid>
      <description>昭和の朝。ごはんを食べながらピンポンパンを見て、ひらけポンキッキが始まったら保育園の時間。「ぱたぱたママ」が流れると母の声がかかり、妹と3人で自転車に乗って出発した。あの頃の朝の記憶と、おもちゃの木への羨望を書きたい。</description>
    </item>
    <item>
      <title>【昭和の今日は何があった日？】5月10日──母の日に、カーネーションを渡せなかった話</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-10/</link>
      <pubDate>Sat, 09 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-10/</guid>
      <description>今日は母の日。昭和の子どもにとって、母の日は少し気恥ずかしくて、でも心のどこかがそわそわする日だった。カーネーション1本をどうやって渡すか。それだけのことが、なぜあんなに難しかったのか。そして今年、母は88歳になる。</description>
    </item>
    <item>
      <title>【昭和の今日は何があった日？】5月9日──100円玉2枚と、母からの手紙</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-09/</link>
      <pubDate>Fri, 08 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-09/</guid>
      <description>5月9日はアイスクリームの日。明治2年のこの日、日本で初めてアイスクリームが売られた。1個8000円の超高級品から始まったアイスが、昭和の子どもの手に届くまでの100年。そしてホームランバーを食べながら王さんの一本足打法を真似た、あの公園の夕方のことを書きたい。</description>
    </item>
    <item>
      <title>【昭和の今日は何があった日？】5月8日──あの土曜日の夜が、一番好きだった</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-08/</link>
      <pubDate>Thu, 07 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-08/</guid>
      <description>昭和40年5月8日、タツノコプロのテレビアニメ第1号作品「宇宙エース」が放送開始した。その番組を私は知らない。でもそこから生まれたタイムボカンシリーズが、あの土曜日の夜の記憶の中に輝いている。18時30分から始まる、あの最高の夜のことを書きたい。</description>
    </item>
    <item>
      <title>【昭和の今日は何があった日？】5月7日──フライみたいなアイスの、あの衝撃</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-07/</link>
      <pubDate>Wed, 06 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-07/</guid>
      <description>昭和44年5月7日、竹下製菓がブラックモンブランを発売した。フランスの雪山を眺めながら生まれたそのアイスは、やがて「チョコバリ系」という新しいジャンルを日本に作り上げた。昭和50年代の東京で初めてチョコバリを見たときの衝撃と、今もそれを見るたびによみがえる記憶の話。</description>
    </item>
    <item>
      <title>【昭和の今日は何があった日？】5月6日──「ワープロ」という言葉が生まれた日、そして今</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-06/</link>
      <pubDate>Tue, 05 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-06/</guid>
      <description>昭和57年5月6日、富士通が日本初の100万円以下のワープロ「マイオアシス」を発表した。75万円の機械が「文明の利器」と呼ばれた時代から40年。今や15万円のMacBook AirでAIが使え、エージェント型AIが人の代わりに仕事を完了させる時代になった。昭和を振り返ることで、進化の凄まじさと、ありがたさがじわじわと湧いてくる。</description>
    </item>
    <item>
      <title>【昭和の今日は何があった日？】5月5日──屋根より高い鯉のぼりと、銭湯帰りのコーヒー牛乳</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-05/</link>
      <pubDate>Mon, 04 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
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      <description>こどもの日。昭和の5月5日には、空にたくさんの鯉のぼりが泳いでいた。夜は銭湯の菖蒲湯に入り、湯上りに瓶入りのコーヒー牛乳を買ってもらった。あの頃の端午の節句と、少し切ない記憶を振り返る。</description>
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      <title>【昭和の今日は何があった日？】5月5日──鉄球が飛び、総理が捕まり、国鉄がなくなった日々</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-05b/</link>
      <pubDate>Mon, 04 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-05b/</guid>
      <description>こどもの日。昭和の5月5日、テレビには「大人の難しい話」が流れていた。浅間山荘の鉄球、ロッキードという聞き慣れない言葉、国鉄民営化の議論。意味はわからなかったけれど、何か大変なことが起きているとは感じていた。あの頃の「事件」を、今になってようやく理解する。</description>
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      <title>【昭和の今日は何があった日？】5月4日──ラムネと予言と、休日になった日</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-04/</link>
      <pubDate>Sun, 03 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
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      <description>5月4日は昭和の子どもにとって、なんとも宙ぶらりんな日だった。祝日でもなく、かといって普通の平日でもない。そんなこの日に刻まれた3つの昭和の記憶──ラムネ、ノストラダムスの大予言、そしてGWがひとつながりになった瞬間を振り返る。</description>
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      <title>【昭和の今日は何があった日？】5月3日──今日はリカちゃんの誕生日</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-03/</link>
      <pubDate>Sat, 02 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
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      <description>5月3日は憲法記念日。でも昭和の女の子たちにとって、この日にはもう一つの意味があった。リカちゃんの誕生日だ。昭和42年に生まれた小さな着せ替え人形が、どのようにして日本中の女の子の夢になったのか。その知られざる誕生秘話を掘り起こす。</description>
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      <title>【昭和の今日は何があった日？】5月2日──たいやきくんは、なぜ海に逃げたのか</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-02/</link>
      <pubDate>Fri, 01 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
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      <description>昭和50年の冬、日本中が一曲の歌に熱狂した。「およげ！たいやきくん」。子どもが夢中になったこの歌には、大人たちが泣いた理由があった。あの歌の誕生と、その裏に隠れたもう一つの物語を掘り起こす。</description>
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      <title>【昭和の今日は何があった日？】5月1日──ゴールデンウィークのど真ん中、あの昭和50年の春</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-01/</link>
      <pubDate>Thu, 30 Apr 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
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      <description>昭和50年の春は特別だった。きのこの山が生まれ、一休さんが始まり、ローソンが産声を上げた。ゴールデンウィークのど真ん中、5月1日に昭和を振り返る。</description>
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      <title>【昭和の今日は何があった日？】4月30日──カードを集めたくて、スナックを買い続けた</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-april-30/</link>
      <pubDate>Wed, 29 Apr 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
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      <description>昭和46年から50年の4月30日。仮面ライダースナックのカード集め、ベトナム戦争終結の日にテレビの前で固まっていた大人たち。あの春の日の昭和を振り返る。</description>
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      <title>【昭和の今日は何があった日？】4月29日──天皇誕生日のこの日、あの黒と白のゲームが生まれた</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-april-29/</link>
      <pubDate>Wed, 29 Apr 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-april-29/</guid>
      <description>昭和の4月29日は、ずっと「天皇誕生日」だった。そのお祝いムードの春の日に、どんな出来事があったのか。オセロの誕生、皇帝ルドルフの五冠、そして19歳の怪物柔道家──あの日の昭和を振り返る。</description>
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