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    <title>ゲームセンター on 昭和44年男</title>
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    <description>Recent content in ゲームセンター on 昭和44年男</description>
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      <title>【番外編】インベーダーゲームと孫正義 ── ブームが冷めた中古機を、太平洋の向こうで宝に変えた青年</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/invader-son-masayoshi/</link>
      <pubDate>Tue, 16 Jun 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/invader-son-masayoshi/</guid>
      <description>&lt;p&gt;六月十六日の本編では、私たちの子ども時代をまるごと呑み込んでいった、あのインベーダーゲームそのものの話をしました。きょうはその番外編です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;同じインベーダーの話なのに、舞台がまるで違います。日本の喫茶店ではありません。太平洋を渡った先、アメリカ・カリフォルニア。そして主役は、いまをときめく、あの経営者――ソフトバンクの孫正義さんです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本編でもお話ししたとおり、昭和五十三年（一九七八年）にタイトーが世に出した「スペースインベーダー」は、あっという間に日本中を呑み込みました。喫茶店のテーブルは次々とゲーム機の筐体に置き換わり、店に入ればコーヒーよりも先に、あの迫ってくる電子音が耳に飛び込んでくる。ゲーム機ばかりを並べた「インベーダーハウス」という専門店まで生まれ、子どもたちは攻略法を競い合い、大人はネクタイ姿のままテーブルに肘をついて画面をにらんでいました。あんまり百円玉が吸い込まれていくものだから、世の中で百円玉が足りなくなった、なんて話まで囁かれたほどです。子どもも大人も、テーブルの上に百円玉を積み上げて、画面の中の侵略者を撃ち落とすことに夢中になっていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はそのとき九歳。葛飾の子どもにとっても、あの「ピポピポ」と降りてくる音は、どこか特別な響きを持っていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;正直に打ち明けると、私自身は、あのブームのど真ん中で百円玉を積み上げていた口ではありません。当時は野球に明け暮れる九歳。インベーダーは、もっぱら「横目で見ていた」遊びでした。喫茶店のテーブル型の台を、ガラス越しにちらりと覗く。近所の上級生の百円玉が、次から次へと機械に吸い込まれていくのを、後ろから眺める。撃つよりも、見ていた。そんな野球少年でした。それでも、あの一歩ずつ迫ってくる電子音だけは、なぜか今でも耳の奥にはっきりと残っています。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;ブームが冷めたころ海の向こうの留学生&#34;&gt;ブームが冷めたころ、海の向こうの留学生&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;さて、ここからが本題です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あれほどの熱狂も、永遠には続きませんでした。爆発的に燃え上がったぶん、火が消えるのも早かった。一年半ほどで人々はあっさり飽きて、あれだけ高値で取引されていた筐体が、こんどは引き取り手もなく倉庫に山積みになっていきました。誰の目にも「もう終わったもの」でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ところが、その「終わったもの」を、まるで違う目で見ていた人がいた。冒頭でふれた孫正義さん、その人です。当時まだ二十歳そこそこ。カリフォルニア大学バークレー校で経済学を学ぶ、卒業前の、れっきとした「学生」の身分でした。彼は渡米まもないころから、語学学校の教師に「将来はビデオゲームを使った商売をやりたい」と語っていたといいます。漠然とした夢ではなく、すでに頭の中で算盤をはじいていたのでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;孫正義さん。ソフトバンクグループ創業者。20代の留学時代、ブームの去ったインベーダーに商機を見抜いた。（Photo: © European Union, 2025 - EC Audiovisual Service / CC BY 4.0, via Wikimedia Commons）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/masayoshi-son.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その学生が、こう考えた。──日本でブームが終わったインベーダーの機械は、いまや余って、安く手に入る。けれどアメリカでは、まだこれからだ、と。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いまでこそ「輸入して転売」と聞けば誰でも思いつく発想かもしれません。けれど一九七〇年代に、留学先の異国でそれを実際にやってのけた二十歳の学生がいた、というのは、やはり並のことではありません。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;太平洋を越えた中古のインベーダー&#34;&gt;太平洋を越えた、中古のインベーダー&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;孫さんは、日本で売れ残った機械を安く仕入れました。一台百万円もした筐体を、捨て値同然で買い集めたといいます。そしてそれを、船ではなく飛行機で空輸した。船便ならずっと安く済むところを、あえて高い空輸を選んだ。アメリカでブームに火がつく前に、先回りして置いてしまいたかったからです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;アメリカ版『スペースインベーダー』（Midway製）。日本でブームが去った機械が、太平洋の向こうで新たな宝になった。（Photo: Jordiferrer / CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/space-invaders-midway-us.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;置き場所に選んだのは、若者でにぎわう店でした。日本でいう喫茶店――とは少し違って、アメリカではアイスクリーム店や、ステーキレストランの待合室。順番を待つあいだ、退屈した客が二十五セント硬貨を放り込む。売上を店と分ける、いまでいう歩合の仕組みです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もっとも、はじめから歓迎されたわけではありません。「うちにゲーム機なんか置いたら、店の雰囲気が壊れる」と渋る店主も少なくなかった。孫さんはそれを、一軒一軒、直談判で口説き落としていったといいます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、こんな話が伝わっています。設置したばかりの機械が動かない、と連絡を受けて駆けつけてみると、機械は壊れてなどいなかった。コインボックスに二十五セント硬貨が入りすぎて、あふれて、それで止まっていたのです。まわりに集まった客たちは、腹を抱えて笑っていたといいます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;結果、半年ほどで設置台数はおよそ三百五十台にまで広がり、利益は一億円を超えたと伝えられています。さらに孫さんは、キャンパス近くのゲームセンターまで一軒、銀行から借金をして買い取りました。そこに毎日の売上を細かく見る「日次決算」を持ち込み、機械一台ごとに、置いてから何日で元が取れるかまで見極めた。働く人の見極めも徹底していて、まずは広く雇い入れ、本当に働く者だけを残していったといいます。そうして、わずか一か月で売上を三倍にしてみせた。学生が片手間にやった商売、という規模では、もうありません。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;事実関係を少し整理しておきます&#34;&gt;事実関係を、少し整理しておきます&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;この逸話、語り手によって数字がまちまちです。「五万円で十台」と書くものもあれば「五万円で二十台」とするものもある。空輸代が一台七万円だった、という具体的な話も出てきます。細かい数字は伝聞で揺れているので、ここでは「ブームの去った中古機を安く仕入れ、空輸し、歩合で置いて、数か月で一億円規模を稼いだ」という骨格だけを、確かなものとして受け取っておくのがよさそうです。世に出ている記述の多くは、孫さんの評伝（大下英治氏による一連の著作）にたどりつきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このあたりの留学時代と起業の物語を、もっとじっくり読んでみたい方には、この一冊を。何も持たない若者が、自分を信じて海を渡っていく――冒険小説のような面白さがあります。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&#34;amz-box&#34;&gt;
  &lt;div class=&#34;amz-box-body&#34;&gt;
    &lt;div class=&#34;amz-box-title&#34;&gt;孫正義 起業の若き獅子&lt;/div&gt;&lt;div class=&#34;amz-box-note&#34;&gt;大下英治／講談社。インベーダー留学時代から起業までを描いた評伝&lt;/div&gt;
    &lt;a class=&#34;amz-box-btn&#34; href=&#34;https://www.amazon.co.jp/dp/4062087189?tag=showa44man22-22&#34; target=&#34;_blank&#34; rel=&#34;nofollow sponsored noopener&#34;&gt;Amazonで見る ›&lt;/a&gt;
  &lt;/div&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;p&gt;もうひとつ、混同されやすい点を。孫さんはこの時期、バークレーの先生たちと組んで音声付きの翻訳機を開発し、その権利をシャープに売って、やはり一億円ほどを手にしています。インベーダーの話とこの翻訳機の話は、しばしば一つに混ぜて語られますが、本来は同じ留学時代の、別々の商売です。「翻訳機で得た金を元手にゲーム機を輸入した」と書かれることもあれば、ゲーム機の商売そのものが大きな利益を生んだ、と語られることもある。どちらが先で、どちらがどちらの元手か――そこは諸説あって、はっきり一本の線では結べません。確かなのは、二十歳そこそこの留学生が、ほぼ同じ時期に、二つの商売でそれぞれ一億円規模の話を作っていた、という事実のほうです。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;そして青年は日本へ帰る&#34;&gt;そして青年は、日本へ帰る&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;アメリカでひととおりの成功を収めた孫さんは、やがて大学を卒業し、日本へ帰ってきます。そして昭和五十六年（一九八一年）九月、二十四歳のとき、福岡の地で、パソコン向けソフトの卸売を手がける「日本ソフトバンク」を起こしました。社員はわずか数人。世間がまだ「ソフトウェア」という言葉すらほとんど知らない時代の、ささやかな船出でした。けれど、ブームの去ったインベーダーの中に値打ちを見抜いたあの目は、こんどはパソコンという、これから来るものの中に未来を見ていた。仕入れて、運んで、置いて、回収して――留学時代に体ひとつで覚えた商売の型は、形を変えて、そのまま受け継がれていったように思えます。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;令和のいまあらためて思うこと&#34;&gt;令和のいま、あらためて思うこと&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;葛飾の喫茶店のテーブルで、私たちが百円玉を積み上げて遊んでいたそのゲームを、同じころ、海の向こうの二十歳の青年は「商売の種」として見ていた。同じインベーダーを、こちらは遊び、あちらは商いにしていた。こちらの百円玉と、あちらの二十五セント硬貨。同じ機械が、太平洋をはさんで、まったく違う意味を持っていた。その視点の違いを思うと、なんとも不思議な気持ちになります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかも彼が目をつけたのは、ブームの真っ盛りではなく、熱が冷めて誰もが見向きしなくなった「残り物」のほうでした。みんなが飽きて手放した機械の中に、まだ値打ちが残っている――そう見抜く目こそが、のちのソフトバンクの、あの次々と大きな賭けに出ていく経営の、いちばん最初の芽だったのかもしれません。いまや人工知能だ、巨大ファンドだと、桁の違う話ばかりが聞こえてきますが、その出発点が、私たちの子ども時代をにぎわせた、あの電子音の機械だったというのは――昭和を生きた身には、どこか痛快な話です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私たちが夢中で侵略者を撃っていたあのテーブルは、誰かにとっては、未来を撃ち出す発射台だったわけです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その発射台は、いまどこまで飛んだのか。つい先日、令和八年（二〇二六年）六月一日のことです。孫さんが率いるソフトバンクグループの時価総額が、ついにトヨタ自動車を抜いて、国内企業の首位に立ちました。トヨタが時価総額のトップを明け渡すのは、実に二十二年半ぶり。「日本一の会社といえばトヨタ」というのが長らく私たちの常識でしたから、たとえ一時的にせよ、これは大きなニュースになりました。生成AIや半導体への巨額投資が市場の期待を集めての逆転で、その時価総額は一時、四十八兆円、四十九兆円という途方もない額に達したといいます。ブームの去った中古のインベーダーを抱えて太平洋を渡った青年が、半世紀ののちに、自動車王国の頂をひっくり返した――こうして並べてみると、やはり出来すぎた物語のように思えてきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;孫さんは「三百年続く企業をつくる」といった、気の遠くなるような話を平気で口にする人です。その三百年の、いちばん最初の一歩が、私たちと同じ昭和の電子音から始まっていた。雲の上の大富豪の物語かと思いきや、出発点には、私たちの記憶と地続きの、あの懐かしい筐体が立っている。そう思うと、遠い話が急に身近に感じられて、なんだか可笑しくも、頼もしくもあるのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;みなさんは、インベーダーゲームに、どんな思い出をお持ちでしょうか。喫茶店の台、ゲームセンター、それとも友だちの家。よかったら、聞かせてください。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;この記事は「昭和の今日は何があった日？」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-16/&#34;&gt;6月16日 ── 上級生の背中越しに、私はインベーダーを見ていた&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-17/&#34;&gt;6月17日 ── 無敵のまま畳を降りた山下泰裕と、私が初めて応援した五輪の夏&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>6月16日 ── 上級生の背中越しに、私はインベーダーを見ていた</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-june-16/</link>
      <pubDate>Tue, 16 Jun 2026 06:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-june-16/</guid>
      <description>&lt;p&gt;六月十六日。梅雨のただ中、長靴と傘がランドセルの相棒になる季節です。カレンダーの記念日欄を見ると、きょうは「和菓子の日」。そしてもうひとつ、私たちの世代にとっては見逃せない記念日が、そっと並んでいます——「スペースインベーダーの日」です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和五十三年（一九七八年）の六月十六日、当時のタイトー本社ビルで、一台のテレビゲームの新作発表会が開かれました。その名は『スペースインベーダー』。開発したのは西角友宏さんという技術者です。画面の上から迫りくる宇宙人を、自分の操るビーム砲で迎え撃つ——いまでは当たり前の「自分で撃ち返せる」という双方向のおもしろさを、世に知らしめた一台でした。同年七月ごろから全国へ出荷されると、それはもう、文字どおり日本中を侵略していきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きょうは、その「侵略」を、いちばん下っ端の小学生として迎え撃った——いや、迎え撃てずに、ただ眺めていた私の話です。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;イトーヨーカドーの踊り場の一台&#34;&gt;イトーヨーカドーの、踊り場の一台&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;記憶を掘り起こしてみます。私とインベーダーの最初の出会いは、よく語られる喫茶店のテーブル型の筐体ではありませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イトーヨーカドーの、一階と二階をつなぐ階段。その中間にある踊り場に、立ったままプレーするタイプの大きな筐体が、ぽつんと一台、置かれていたのです。ブラウン管を上から覗き込む、背の高い箱型のやつです。喫茶店のテーブルに埋め込まれた、あの寝そべったような筐体を知ったのは、ずっとあとのことでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;上から覗き込む、立ち型のインベーダー筐体。画面には五列に並んだ宇宙人と、こちらのビーム砲。（Photo: Scalleja / CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/space-invaders-cabinet2.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当時の私は小学三年生。正直に白状すると、一ゲームいくら、というあの金額は、三年生の小遣いではそうそう出せるものではありませんでした。けれど、興味のほうはバリバリにあったのです。だから私はどうしたか。プレーしている上級生のすぐ後ろに陣取って、画面を食い入るように見ていました。自分の百円玉ではない、誰かの一機が右へ左へ動くのを、まるで自分が動かしているような顔をして、ただ見ていたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの、ズン、ズン、ズン、ズン……と地鳴りのように響く、インベーダーが一歩ずつ近づいてくる音。敵の数が減るほどにテンポが速くなって、こちらの鼓動まで一緒に速くなっていく、あの独特の音。五列に並んだ五十五匹の宇宙人と、ときおり画面の上をすーっと横切る赤い円盤（あれを撃ち落とすと点が高いのだと、上級生が教えてくれました）。踊り場の薄明かりの中でぼうっと光るその画面を、私はいったい何度、よそのお兄さんの肩越しに見上げたことでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いま思えば、おかしな話です。そもそもイトーヨーカドーというのは、当時の私たちにとって、子どもだけで出入りしてはいけないことになっている場所でした。それなのに、私はちゃっかり行っちゃっているわけです。そして、後ろから覗かせてもらっていた上級生たち——彼らだって、しょせんは小学生です。それが何回も、何回も百円玉を投入していく。あの軍資金は、いったいどこから出ていたのか。当時は「すごいなあ」と思って見ていましたが、いざ自分が親の立場になって考えてみると、よくもまあ、と苦笑いするしかありません。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;百円玉が日本から消えた夏&#34;&gt;百円玉が、日本から消えた夏&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;私が踊り場で指をくわえて見ていたころ、世の中では、とんでもないことが起きていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それまでのテレビゲームといえば、画面の壁をボールで崩していく『ブロック崩し』のようなものが主流でした。ところがインベーダーは、向こうから攻めてくる。こちらが撃つ。撃ち返される。やられる——。腕を上げれば上げるほど長く生き延びられて、もっとやりたくなる。この「上達していく手応え」と「迎え撃つ緊張感」こそが、それまでのゲームにはなかった魔力でした。喫茶店でコーヒー一杯の値段で何十分も粘る大人が続出し、社会問題のように語られたほどです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『スペースインベーダー』の人気は、喫茶店にテーブル型の筐体を持ち込ませ、やがてゲーム機ばかりを並べた「ゲーム喫茶」や、店員すらいない二十四時間営業の「インベーダーハウス」まで生み出していきます。コーヒーを飲む店だったはずの喫茶店が、いつのまにかテーブルという卓上が光る箱に置き換わっている。そんな光景が、日本中に広がっていきました。「インベーダー」は、その年の流行語になりました。なかでも語り草になっているのが、百円玉の話です。あまりに多くの百円玉がゲーム機の中に吸い込まれていったため、世間で百円硬貨が足りなくなり、日本銀行がふだんの三倍ほどの量を世に送り出した——そんな記事が新聞に載るほどだったといいます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;喫茶店のテーブル型筐体。コーヒー一杯で何十分も粘る大人が続出した、あの「ゲーム喫茶」の風景。（Photo: Tomomarusan / CC BY 2.5, via Wikimedia Commons）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/space-invaders-cabinet.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな熱狂のなかで、高得点を狙うつわものたちが編み出したのが、攻略法の元祖とも呼ばれる「名古屋撃ち」でした。インベーダーが最下段の一歩手前まで攻め込んでくると、なぜか敵の弾が自分のビーム砲をすり抜けて当たらない——もとはゲームの不具合（バグ）だったその仕様を逆手に取り、ぎりぎりまで引きつけて撃ちまくる、という技です。名前の由来は「名古屋で広まったから」とも、「あと一段で〝終わり〟、それと〝尾張（名古屋）〟をかけた」とも言われますが、本当のところは、いまもって誰も知らないのだそうです。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;三十円十円ようやく私の番が来た&#34;&gt;三十円、十円。ようやく私の番が来た&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;さて、踊り場で見ているだけだった私にも、ちゃんと順番が回ってくる日が来ます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;世の中に次々と新しいゲームが登場すると、インベーダーは少しずつ「古いゲーム」になっていきました。すると、あれほど強気だったプレー代が、一気に下がりはじめるのです。五十円、三十円、そしてついには十円なんていう値札まで現れました。そうした型落ちの筐体を、倉庫のような建物に所狭しと並べた——いわゆる倉庫型のゲームセンターが、あちこちにできました。薄暗くて、どこか秘密基地めいていて、子どもにはほんの少しだけ背伸びが必要な場所。それでも十円玉一枚で遊べるとなれば、私たちにとっては立派な天国でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そこで、ようやく私にも、遊ぶことができるようになったのです。十円玉を握りしめて。あの踊り場の上級生たちが百円玉を惜しげもなく入れていた、その同じゲームを、私は数年遅れの十円で、心ゆくまで撃ちました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、後ろから見て覚えた攻略法も、ここぞとばかりに使いました。敵が最下段の一歩手前まで降りてきたところを、端から順に狙い撃つ「名古屋撃ち」。そしてもうひとつ、群れの真ん中の列を一気に撃ち抜く技——私たちの界隈では、これを「新宿撃ち」と呼んでいました。ところがあとで知ったのですが、同じこの技、地域によっては「京都撃ち」とも「中央突破」とも呼ばれていたそうです。携帯電話もインターネットもない時代、攻略法は友だちから友だちへと口づてに伝わり、その途中で、町ごとに勝手な名前がついていったのです。同じ撃ち方なのに、隣の町では別の名前で呼ばれている。いま思えば、それもまた、ずいぶんのんびりとした、いい時代の話です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;背伸びして眺めていた憧れに、自分の指で、やっと追いついた瞬間でした。数年越しの片想いが、十円玉一枚でようやく実った——そんな気分だったように思います。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;令和の子どもは見ているだけの時間を知らない&#34;&gt;令和の子どもは、「見ているだけの時間」を知らない&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;時代は変わりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いまの子どもたちは、ゲームをするのに、お金を握りしめて家を出る必要がありません。スマートフォンの中に、家庭用ゲーム機の中に、無数のゲームが入っていて、その多くは、始めるだけならお金もかからない。上級生の背中越しに覗き込む必要も、十円玉が貯まるのを待つ必要も、ないのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それは間違いなく、豊かで、いい時代です。私だって、もし子どもの頃にそんな環境があったら、諸手を挙げて喜んだことでしょう。けれど、と私はつい思ってしまうのです。あの、一ゲームが出せなくて、ただ見ていた時間。誰かのプレーを食い入るように見つめて、技を盗んで、いつか自分も、と焦がれていたあの時間。あれはあれで、悪くないものだったな、と。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;欲しいものがすぐ手に入らない。だから、よその上級生の背中越しに憧れ、十円玉が貯まるのをじりじりと待つ。手が届かないからこそ、あの踊り場の小さな画面の光は、あんなにもまぶしく見えたのかもしれません。いまの子どもたちには、あの「待っているあいだの時間」だけは、もう手に入らない宝物なのかもしれない——そんなことを、つい考えてしまうのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;現に、わが家でもゲームに夢中になっている子どもを見て、私はつい「ゲームばっかりやって……」と、口では文句を言ってしまいます。ところが内心はどうかというと、「わかるわかる」と全力でうなずいている自分がいる。それどころか、母親が渋い顔で様子をうかがっているのに気づくと、心の中でこっそり「おい、ママの目があるんだから、もっと上手くやれ」と、すっかり子どもの肩を持っている始末です。叱る側に回ったはずなのに、気持ちのほうは、あの踊り場で背伸びをしていた頃から一歩も動いていない。我ながら、おかしくなってしまいます（笑）。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;考えてみれば、子どもだけで入ってはいけないイトーヨーカドーに、ちゃっかり忍び込んでいたのも私でした。親の目を盗んで何かに夢中になる——それはどうやら、いつの時代も変わらない、子どもの特権のようです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そういえば、あの「名古屋撃ち」を含む歴代のスペースインベーダーは、いまではNintendo Switchで、いつでも好きなだけ遊べます。十円玉も、上級生の背中も、もう要りません。あの頃の自分に教えてやったら、目を丸くするでしょうね。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&#34;amz-box&#34;&gt;
  &lt;div class=&#34;amz-box-body&#34;&gt;
    &lt;div class=&#34;amz-box-title&#34;&gt;スペースインベーダー インヴィンシブルコレクション - Switch&lt;/div&gt;&lt;div class=&#34;amz-box-note&#34;&gt;タイトー／1978年のオリジナルから歴代作品まで収録&lt;/div&gt;
    &lt;a class=&#34;amz-box-btn&#34; href=&#34;https://www.amazon.co.jp/dp/B07V3PHCYC?tag=showa44man22-22&#34; target=&#34;_blank&#34; rel=&#34;nofollow sponsored noopener&#34;&gt;Amazonで見る ›&lt;/a&gt;
  &lt;/div&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;あなたが初めてインベーダーに出会ったのは、どこの台でしたか。喫茶店のテーブルでしたか、駄菓子屋の店先でしたか、それとも私のように、デパートの踊り場あたりでしたか。一ゲーム、いくらでしたか。よかったら、あなたの「最初の一台」の思い出も、聞かせてください。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;この「昭和の今日は何があった日？」シリーズでは、昭和四十年から六十四年までの出来事を、当時子どもだった私の目線で綴っています。同じ時代を生きた方の「あの頃」の思い出やコメントも、ぜひお待ちしています。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-15/&#34;&gt;6月15日 ── 高校球児だった私の知らないところで、ジブリが産声を上げていた&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/invader-son-masayoshi/&#34;&gt;【番外編】インベーダーゲームと孫正義 ── ブームが冷めた中古機を、太平洋の向こうで宝に変えた青年&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>パクパクと、東京のゴミと――昭和の5月22日</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-22/</link>
      <pubDate>Thu, 21 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-22/</guid>
      <description>&lt;p&gt;5月22日。私にとってこの日付は、黄色い丸い生き物と、東京じゅうに積み上がったゴミの山という、まったく違う二つの光景が重なる日だ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;パクパクが迷路を走り出した日&#34;&gt;「パクパク」が迷路を走り出した日&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;昭和55年（1980年）5月22日、渋谷のゲームセンターに一台の筐体が置かれた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;黄色い丸がパクパクとエサを食べながら迷路を走り、赤・ピンク・青・オレンジの4匹のモンスターから逃げる。ゲームの名前は『パックマン』。ナムコが送り出したそのゲームが、のちに世界を席巻することになるとは、だれも思っていなかっただろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;パックマン筐体（名古屋市博物館、2020年）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/pacman-nagoya.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;Photo by inunami / &lt;a href=&#34;https://creativecommons.org/licenses/by/2.0/&#34;&gt;CC BY 2.0&lt;/a&gt;&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当時、ゲームセンターはスペースインベーダーの衝撃がまだ冷めやらない頃だった。エイリアンを撃つ、戦車を撃つ。アーケードというのは「撃つ」場所だった。ところが、パックマンには敵を攻撃する要素がない。ひたすら「食べて逃げる」だけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;開発者の岩谷徹氏は「アーケードは暴力的なゲームであふれていた。エイリアンをやっつけるような内容のものばかりだった」と振り返る。だからこそ、違うものを作りたかった。食べることをテーマにした、やわらかいゲームを。パックマンという名前も、物を食べる時の「パクパク」という日本語の擬態語から生まれた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がパックマンをはじめて目にしたのは、あの安い倉庫みたいなゲームセンターだったと思う。30円か50円のコインを握りしめて薄暗い店内に入ると、ブラウン管の光の中でそのまるっこい黄色い顔が笑っていた。レバーを4方向に倒しながら迷路を走る感覚は、それまでのシューティングゲームとはまるで違っていた。「逃げる」という体験が、あんなに面白いとは知らなかった。&lt;/p&gt;
&lt;h3 id=&#34;敵にはそれぞれ性格があった&#34;&gt;敵には、それぞれ「性格」があった&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;ゲームに夢中になりながら、私たちは気づかないうちにある不思議を感じていたはずだ。「なんか敵が生きてるみたいだな」と。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実は4匹のモンスターには、それぞれ個性が設計されていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;赤の「アカベイ」はパックマンをしつこく追いかけてくる。ピンクの「ピンキー」は追いかけるのではなく、パックマンの進行方向の先へ先回りする。水色の「アオスケ」は気まぐれな動きをして、どこへ来るか読みにくい。オレンジの「グズタ」はパックマンに近づきすぎると急にふらふらと離れていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これは「個性のある敵キャラクター」という発想の、世界でも最初期の試みだった。今でいえばAIのような概念が、1980年という時代にすでに迷路の中に息づいていた。「追う」「先回り」「気まぐれ」「迷う」という4つの行動パターンが絡み合うことで、迷路の中の戦況は毎回違う顔を見せた。それが「なんか生きてる感じ」の正体だったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今から46年前のゲームが、現代のAI技術にも通じる考え方を持っていたとは、当時の子どもだった私には想像もできなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;パックマンには迷路を攻略するパターンがあり、友達の間で「このルートで行けば5面まで死なない」という攻略法が口伝えに広まった。放課後のゲームセンターで真剣に迷路を走る子どもたちの後ろに人だかりができる。そんな光景が各地であったはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;1980年から7年間で総販売台数は約29万台を超え、「最も成功した業務用ゲーム機」としてギネス・ワールド・レコーズにも認定された。あの黄色い丸が初めて走り出したのが、昭和55年の今日だったとは、当時は知るよしもなかった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;東京がゴミ戦争を戦っていた日&#34;&gt;東京が「ゴミ戦争」を戦っていた日&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;もうひとつ、この5月22日には忘れられない出来事がある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和48年（1973年）5月22日、東京・江東区が杉並区のゴミ搬入を実力で阻止した日だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「東京ゴミ戦争」という言葉は、正直なところ、私の記憶にない。当たり前といえば当たり前で、昭和48年の私はまだ4歳だった。怒鳴り合うニュース映像もわかるはずがない。それでも、この出来事を調べていたとき、ふと頭に浮かんだ光景があった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;葛飾区・水元のあの温水プールだ。&lt;/p&gt;
&lt;h3 id=&#34;社会科見学とゴミを燃やす熱&#34;&gt;社会科見学と、ゴミを燃やす熱&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;小学4年生、昭和54年ごろのことだ。葛飾区の小学生は「社会科見学」で水元の葛飾清掃工場を訪れた。職員の方に焼却炉の仕組みを教えてもらい、ゴミを燃やした時に出る熱が蒸気となって、隣接する施設のプールを温めていると聞いた。「ゴミの熱でプールが温かくなる」という話は、10歳の子どもにも妙に印象深く残った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;見学のあと、友達とそのプールでばちゃばちゃと泳いだ。余熱利用の仕組みは頭に入っていたけれど、それがどんな歴史の流れの上にあるのかまでは、もちろんわかっていなかった。&lt;/p&gt;
&lt;h3 id=&#34;自分のゴミは自分で処理せよ&#34;&gt;「自分のゴミは自分で処理せよ」&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;ゴミ戦争のあらましはこうだ。江戸時代から現代まで、東京のゴミを受け入れてきた土地が江東区だった。昭和40年代の大量消費社会でゴミが激増すると、江東区の「夢の島」はハエやネズミが大量発生する悪臭の島と化した。東京都は各区に清掃工場を建設して「自区内処理」を推進しようとしたが、杉並区では住民の反対で建設計画が何度も頓挫した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;杉並区で5月21日に反対派による流会が起きたため、江東区では翌5月22日、杉並区のゴミ搬入を実力阻止した。東京都清掃労働組合も連帯してボイコットし、杉並区内のゴミ収集は止まった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;自分たちのゴミを処理する施設を「うちには要らない」と拒み続けた結果、区内にゴミの山が積み上がる。この対立は全国ニュースとなり、「自分のゴミは自分の区で処理する」という原則が東京じゅうで問い直された。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;夢の島（1989年・航空写真）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/yumenoshima-1989.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;東京・江東区の夢の島。かつてゴミで埋め立てられた島は、現在は公園として整備されている。／国土交通省 国土地理院「国土画像情報（カラー空中写真）」&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;h3 id=&#34;あの夏のプールと歴史の線&#34;&gt;あの夏のプールと歴史の線&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;その問い直しの流れが、東京各区の清掃工場整備を加速させた。葛飾区も例外ではなかった。工場が整備されれば、その焼却熱を地域に還元しようという発想が生まれる。余熱は蒸気となり、隣接する施設のプールを温める。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が友達と泳いだあの水元のプールは、その歴史的な流れの終着点のひとつだったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「東京ゴミ戦争」→「自区内処理の推進」→「各区の清掃工場整備」→「余熱利用施設（温水プール）の設置」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;社会科見学でその仕組みを教わっていたのに、どうしてその工場ができたのか、なぜ余熱利用という発想が生まれたのか、その背景まで考えたことは一度もなかった。4歳の私には届かなかったニュースが、10歳の私をプールで泳がせていたとは。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;昭和55年5月22日、黄色い丸が東京の繁華街に生まれた日。
昭和48年5月22日、東京じゅうのゴミの置き場をめぐって大人たちが怒鳴り合った日。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;子どもには見えなかったことが、50年近く経ってようやくつながる。歴史の線は、いつもあとから引かれるものらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたの子ども時代に「あれはそういうことだったのか」と気づいた出来事は、何かあるだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;「昭和の今日は何があった日？」は、昭和40年〜64年のできごとを、ひとつひとつ掘り起こしていく連載です。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
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