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    <title>学校と子ども時代 on 昭和44年男</title>
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    <description>Recent content in 学校と子ども時代 on 昭和44年男</description>
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    <lastBuildDate>Sat, 25 Jul 2026 06:00:00 +0900</lastBuildDate>
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      <title>【昭和の今日は何があった日？】7月25日──「これが本物か」。私が回していたキューブは、偽物だった</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-july-25/</link>
      <pubDate>Sat, 25 Jul 2026 06:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-july-25/</guid>
      <description>1980年7月25日、ツクダオリジナルがルービックキューブを1,980円で発売。伊勢丹のアダルトホビー部門から入った大人の趣味の品で、下町の子どもが握ったのは偽物だった。本物を回した瞬間の「これが本物か」。考案者すら復元に一か月かかったという救いの話まで。</description>
    </item>
    <item>
      <title>6月23日 ── 北へ向かう夢の超特急は、なぜか「大宮始発」だった</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-june-23/</link>
      <pubDate>Tue, 23 Jun 2026 06:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-june-23/</guid>
      <description>&lt;p&gt;六月二三日。梅雨の晴れ間に、少しだけ夏の匂いが混じりはじめる頃です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;カレンダーをめくると、この日にはいろいろな記念日が並んでいます。けれど私がきょう書きたいのは、四十年以上前のある朝、北へ向かって走り出した一本の列車の話です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和五十七年（一九八二年）六月二三日。東北新幹線が、大宮〜盛岡間で開業しました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そのとき私は中学一年生。高砂の電車に囲まれて育った私にとって、新幹線というのは、いつもの京成電車とはまったく別の、ちょっと手の届かない「夢の乗り物」でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;毎日のように京成電車を眺め、すぐ近くの高砂検車区には、ずらりと電車が並んでいる。電車という乗り物なら、誰よりも身近に感じていたはずの私です。それでも、図鑑やテレビのニュースの中を走る新幹線だけは、なぜか同じ「電車」だとは思えませんでした。同じレールの上を走るのに、住んでいる世界が違う。そんなふうに感じていたのです。実をいうとこの頃の私は、まだ一度も新幹線に乗ったことがありませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;夢の超特急はなぜか大宮始発だった&#34;&gt;夢の超特急は、なぜか「大宮始発」だった&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;東北新幹線の計画そのものは、ずいぶん前から進んでいました。東京〜盛岡を結ぶこの路線は、昭和四十六年（一九七一年）に着工され、十年以上の歳月をかけて、ようやく完成にこぎつけます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ところが、いざ開業というとき、ひとつの大きな「ねじれ」がありました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;始発駅が、東京でも上野でもなく、埼玉の大宮だったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;上野駅に停まる200系（1992年）。白に緑のラインをまとい、最高210キロで北へ走った、開業時の主役。（Photo: sodai gomi / CC BY 2.0, via Wikimedia Commons）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/shinkansen-200-ueno.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;東海道新幹線が当たり前のように東京駅から走り出したのに比べると、これはずいぶん変則的な船出でした。理由は、上野〜大宮の沿線にあります。この区間はすでに住宅が密集していて、新幹線の騒音をめぐる反対運動が起きていました。そのため都心への乗り入れはいったん見送られ、「とりあえず大宮から」というかたちで走り始めることになったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;東京〜盛岡が、それまでの在来線特急で六時間二三分。それが新幹線の開業で、三時間五八分にまで縮まりました。四割近い時間短縮です。けれど、その恩恵にあずかるには、まず大宮まで行かなければならない。そこに、もうひとりの主役が登場します。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;新幹線リレー号という名脇役&#34;&gt;「新幹線リレー号」という名脇役&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;大宮始発という事情を埋めるために用意されたのが、上野〜大宮を結ぶ専用列車、その名も「新幹線リレー号」でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;上野〜大宮を結んだ「新幹線リレー号」（185系、1982年）。大宮始発の超特急を、都心とつないだ名脇役。（Photo: Peee / CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/shinkansen-relay-1982.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;新しく造られたばかりの185系という車両が、上野と大宮のあいだをノンストップ、わずか二十五分ほどで走りました。新幹線の特急券を持っている人だけが乗れる、文字どおりの「連絡列車」です。乗り換えで迷わないように、ホームには「リレーガール」と呼ばれる案内係の女性たちが立っていたといいます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;開業の日、大宮駅のホームでは朝七時一五分に「やまびこ一一号」の出発式が行われ、一日じゅう鉄道ファンでにぎわったそうです。白地に緑のラインをまとった200系が、最高時速210キロで北へ走り出しました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もっとも、走り出した当初の本数は、ずいぶん控えめなものでした。速達タイプの「やまびこ」が一日に四往復、各駅停車の「あおば」が六往復ほど。これだけ大きな路線にしては、まるでローカル線のようなダイヤです。それでも、夏の帰省シーズンには大宮駅が人であふれかえったといいますから、みんながどれほどこの一本を待ちわびていたかが伝わってきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この「リレー号」は、三年後の昭和六十年（一九八五年）に新幹線が上野まで延びると、その役目を終えて姿を消しました。たった三年足らずの命でしたが、開業したばかりの夢の超特急を都心とつないでいたのは、この名脇役だったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、この「上野まで延びた」という出来事が、私の家のすぐそばにも、小さな波紋を広げることになります。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;私が初めて乗った新幹線は修学旅行だった&#34;&gt;私が初めて乗った新幹線は、修学旅行だった&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;私が通っていた中学校では、三年生の修学旅行で東海道新幹線に乗り、京都・奈良へ行くのが決まりでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私にとって、生まれて初めての新幹線は、このときの東海道新幹線です。当時は「生まれて初めて乗る新幹線は修学旅行のとき」という子も少なくありませんでした。家族旅行で気軽に乗るようなものではなく、新幹線は子どもにとって、人生の特別な日にだけ顔を出す乗り物だったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;みんなでホームに並んで、あの長い銀色の車体がすうっと滑り込んできたときの高揚。窓の外をものすごい速さで景色が流れていく、あの初めての感覚。修学旅行そのものの思い出と、初めての新幹線の興奮とが、私の中ではひとつに溶け合っています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だからでしょうか。「初めての新幹線が修学旅行だった」という人は、新幹線そのものの記憶と、あの旅の記憶とを、生涯ひとそろいで持っているように思うのです。どの新幹線で、どこへ向かったか。それは、その人がどんな時代に子どもだったかを、そっと映す鏡でもあります。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;妹の代から行き先が東北になった&#34;&gt;妹の代から、行き先が「東北」になった&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ところが、です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和六十年に東北新幹線が上野まで延びたことで、思いがけないことが起きました。一つ年下の妹の修学旅行先が、なんと東北になったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;会津の郷土玩具・赤べこ。妹が修学旅行のお土産に持ち帰った、首をゆらゆら振る赤い牛。（Photo: Wdqh / CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/akabeko.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どこを回ったのか、詳しいことは私も聞きそびれてしまいました。ただ、妹がお土産に「赤べこ」──赤い牛の形をした張り子の人形──を買って帰ってきたのを、はっきり覚えています。赤べこといえば、福島・会津の郷土玩具。きっと会津地方を訪れたのでしょうね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もともと上野駅は、東北や北国へ向かう人々の「玄関口」でした。集団就職の若者たちも、帰省の家族連れも、北を目指す列車はみな上野から出ていった。その上野に新幹線が乗り入れたことで、下町の中学生にとっても、東北がぐっと手の届く行き先になったのです。その証拠のように、私の中学校では、その後しばらく「京都・奈良」と「東北」の修学旅行を、一年交代で実施するようになりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いつまで続いたのかは分かりません。けれど、私の世代までは「初めての新幹線＝東海道新幹線」だったのが、妹の代からは「初めての新幹線＝東北新幹線」という子どもたちが、どんどん増えていったわけです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一本の新幹線が都心に少し近づいた。ただそれだけのことで、子どもたちが人生で最初に降り立つ「遠い町」が、京都から会津へと変わっていく。あらためて考えると、これはなかなか、すごいことだと思うのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;修学旅行の行き先というのは、その時代に「子どもに見せておきたい日本」がどこだったか、という選択でもあります。長いあいだ、それは京都や奈良の古い都でした。そこに東北という新しい選択肢が加わったのは、新幹線が北を一気に近づけてくれたから。線路が一本延びるたびに、子どもたちが見る日本の地図も、少しずつ書き換えられていったのだと思います。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;バスのハンドルを握る私が思うこと&#34;&gt;バスのハンドルを握る私が思うこと&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;私は今、路線バスの運転士をしています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;毎日、決まった道を走りながら、人を乗せて、目的地と目的地をつないでいます。華やかさはありません。けれど、誰かの「行きたい場所」と「今いる場所」のあいだを、確実につなぐ仕事です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だからでしょうか。あの「新幹線リレー号」の話を知ると、妙に胸が熱くなるのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;主役の超特急ではなく、その手前で、都心と大宮をつないでいた185系。脚光を浴びるのは新幹線のほうでも、リレー号がなければ、あの三年間、人は北へ向かえませんでした。つなぐ、という仕事に、上も下もありません。そんなことを、ハンドルを握りながら、時々思います。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;それでも北はぐっと近くなった&#34;&gt;それでも、北はぐっと近くなった&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;妹たちを東北へ運んだ上野延伸から六年後、平成三年（一九九一年）には、東北新幹線はついに東京駅まで乗り入れます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;令和の東北新幹線E5系「はやぶさ」。東京〜盛岡を、今では約2時間10分で結ぶ。（Photo: MaedaAkihiko / CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/shinkansen-e5-hayabusa.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>6月10日 ── 時を計る日に、手作りの時計と夜の高速バスを思う</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-june-10/</link>
      <pubDate>Wed, 10 Jun 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-june-10/</guid>
      <description>&lt;p&gt;梅雨の入り口、六月十日は「時の記念日」です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;由来は、ずいぶんと古い。『日本書紀』によれば、六七一年のこの日（新暦に換算して六月十日）、天智天皇が漏刻（ろうこく）という水時計を新しい台に据え、鐘や鼓で人々に初めて時を知らせた——とあります。それにちなんで、大正九年（一九二〇年）、東京天文台と生活改善同盟会が「時間を大切にしよう」と呼びかけて定めたのが、この記念日のはじまりだそうです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;千三百年以上も昔の人が、水の落ちる音で時を計っていた。そう思うと、なんだか不思議な気持ちになります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして「時の記念日」と聞くと、私がまっさきに思い出すのは、保育園で作った、あの手作りの時計のことなのです。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;空き箱で作った私だけの時計&#34;&gt;空き箱で作った、私だけの時計&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;私が保育園に通っていたのは、昭和四十七年から五十年ごろ。歳でいえば、三歳から六歳のあいだです。その保育園では毎年、この六月十日の「時の記念日」にちなんで、子どもたちがそれぞれに「時計」を作る工作をしました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;材料は、空き箱や色画用紙。お菓子の箱だったか、何かの包み紙だったか、家から持ち寄ったような気もします。丸く切った画用紙に数字を書き込んで、短い針と長い針をつけて、思い思いの時計をこしらえる。みんなが作るから、出来あがる時計は一つとして同じものがない。針の角度も、数字の並びも、それぞれにいいかげんで、それぞれに誇らしかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いま思えば、まだ時計の読み方さえおぼつかない年ごろです。長い針と短い針が何を指しているのか、本当のところはわかっていなかったでしょう。それでも保育園は、この日に「時間って大切なものなんだよ」と、工作という形でそっと教えてくれていたのですね。あの先生たちの心づかいに、五十年も経ってからようやく気づくのですから、私もずいぶんとのんびりしたものです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そういえば、当時の我が家には、本物の時計がありました。柱にかけられた、縦長で、振り子が左右にゆっくりと揺れるタイプの時計です。文字盤の下で振り子がチクタクと時を刻み、毎正時になると、ボーン♪　ボーン♪……と、低い音で時を打ちました。三時には三回、十時には十回。鳴る数をかぞえれば、まだ文字盤のうまく読めない子どもにも、今が何時なのかが、ちゃんと伝わってきたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;振り子が左右に揺れ、正時にボーンと鳴り響く柱時計。あの音が、我が家の時間を刻んでいた。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/antique-wall-clock.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;思えば、天智天皇が鐘や鼓を打ち鳴らして時を知らせたのと、あの柱時計がボーンと鳴って時刻を告げていたのは、案外、同じことだったのかもしれません。水時計から、保育園児の空き箱の時計、そして柱の振り子時計まで。時を計り、時を告げようとする気持ちだけは、千三百年、ちっとも変わっていないのですね。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;黄色い箱の中のゆっくりした時間&#34;&gt;黄色い箱の中の、ゆっくりした時間&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;六月十日は、もうひとつの記念日でもあります。「ミルクキャラメルの日」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;森永製菓がこの日を選んだのには理由があります。一九一三年（大正二年）六月十日、それまでただ「キャラメル」と記して売っていたお菓子に、&amp;ldquo;ミルク&amp;quot;の二文字を冠して「ミルクキャラメル」として売り出した。創業者の森永太一郎が、西洋菓子になじみのなかった時代に「日本の人々に栄養価の高いおいしいお菓子を」と願って世に出した、森永の原点ともいえる一粒です。発売当初はバラ売りで一粒五厘。翌年には、二十粒入り十銭の、あの携帯用の箱が登場しました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が覚えているのは、もちろん大正の話ではありません。あの黄色い箱です。「滋養豊富・風味絶佳」という、子どもにはむずかしい字が並んでいて、けれど中身は文句なしに甘かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;「滋養豊富・風味絶佳」の森永ミルクキャラメル。あの黄色い箱は、遠足のお供だった。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/morinaga-milk-caramel.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただ、正直に打ち明けると、私はいつもミルクキャラメル一筋だったわけではありません。お店の前では、たいてい迷っていました。森永のミルクキャラメルにするか、それとも、グリコのおまけ付きキャラメルにするか。おまけのおもちゃが欲しい日もあれば、ただ甘いものを口にしたい日もある。子どもなりに、毎回それなりの葛藤があったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ところが、不思議なことがひとつ。小学校の遠足の前は、おやつが「三百円以内」と決められていて、その限られた予算で何を買うかは、子どもにとって一大事でした。あれこれ手に取っては戻し、さんざん迷う。——のに、遠足のときだけは、どういうわけか毎回ミルクキャラメルを選んでいたのです。普段はあれだけおまけに心を揺らしていたはずの私が、遠足の朝には、なぜか黄色い箱に手が伸びる。理由は、自分でもよくわかりません（笑）。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今になって思えば、こういうことだったのかもしれません。ミルクキャラメルは、噛まずに舌の上でゆっくり溶かしていけば、一粒で長くもつ。バスに揺られ、野山を歩き、お弁当を広げ……長い長い遠足の一日に、少しずつ取り出して味わうには、ちょうどよかったのでしょう。おまけは手に入れた瞬間に終わってしまうけれど、キャラメルの甘さは、一日かけてゆっくり続いてくれる。あれもまた、時間を味わうお菓子だったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの黄色い箱は、今もそのままの姿で売られています。久しぶりに一粒、舌の上で溶かしてみると、遠足の朝の気持ちが、ふっとよみがえるかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&#34;amz-box&#34;&gt;
  &lt;div class=&#34;amz-box-body&#34;&gt;
    &lt;div class=&#34;amz-box-title&#34;&gt;森永 ミルクキャラメル 大箱 149g×5箱&lt;/div&gt;&lt;div class=&#34;amz-box-note&#34;&gt;あの懐かしい黄色い箱／森永製菓&lt;/div&gt;
    &lt;a class=&#34;amz-box-btn&#34; href=&#34;https://www.amazon.co.jp/dp/B003J35WEY?tag=showa44man22-22&#34; target=&#34;_blank&#34; rel=&#34;nofollow sponsored noopener&#34;&gt;Amazonで見る ›&lt;/a&gt;
  &lt;/div&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;h2 id=&#34;夜のうちに時間を飛び越える--ドリーム号&#34;&gt;夜のうちに、時間を飛び越える ── ドリーム号&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;そして、きょうのもう一本。昭和四十四年（一九六九年）六月十日、東名ハイウェイバスの開業と同時に、夜行高速バス「ドリーム号」が走り出しました。高速道路を走り抜ける、日本で初めての夜行バスです。東京と大阪を、夜のあいだに結んでしまう。当時としては、ずいぶんと夢のある乗り物だったはずです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この夜行バスが走り出す少し前、昭和四十四年五月に、東名高速道路が全線開通したばかりでした。それまで東京と名古屋・関西を結ぶ大動脈といえば、その五年前に開業した東海道新幹線。ドリーム号は、いわばその新幹線を夜のあいだに補う足として登場したのです。運行開始当初は、東京〜大阪が二往復、東京から名古屋を経て京都へ向かう便が一往復。眠っているうちに目的地へ届けてくれるこのバスは、開業からしばらくのあいだ、日本でいちばん長い距離を走る路線バスでもありました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;少しあとの、昭和五十年ごろの時刻表が残っています。それを見ると、東京から名古屋までのおよそ三百五十キロを、速い便でも五時間半あまりかけて走っていました。運賃はその区間で千九百円ほど、夜行に乗るにはさらに三百円の指定料金が必要だったといいます。今の感覚からすれば、ずいぶんのんびりとした道のりです。それでも、ひと晩を乗り物の中で過ごして遠い街へ向かうという体験そのものが、あのころはまだ、真新しいものだったのでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和四十四年という年は、私にとって少しだけ特別です。私が生まれたのが、この年の四月。つまり私がこの世に出てきて、わずか二ヶ月後に、ドリーム号は東京の夜を初めて出発していたことになります。自分が生まれた年に走り始めたものと聞くと、勝手に親近感がわいてくるのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その「同い年」のバスに、私が実際に乗ったのは、ずっとあとのことでした。平成二十二年（二〇一〇年）。長男が小学六年生だった年です。その春と夏、私は息子を連れて、甲子園へ高校野球を観に行きました。その足に選んだのが、夜行のドリーム号だったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;夜の高速道路を走るJRハイウェイバス。息子と二人でこれに乗り、甲子園へ向かった。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/dream-bus-jr.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;東京駅の八重洲南口を、夜の十時ごろ出発する。大阪に着くのは、翌朝の七時ごろ。夜行バスの乗り場には、行き先の違うバスが何台も連なって停まっていて、それぞれの行灯のような行き先表示が、夜の中にぽつぽつと浮かんでいました。これからどこかへ運ばれていく人たちの気配。そのなかに、息子と私もいる。「さあ、息子との旅が始まるぞ」という高揚感で、胸がいっぱいになったのを、今でもよく覚えています。いい思い出です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;考えてみれば、不思議なものです。私が生まれた二ヶ月後に走り出したバスに、四十年あまりが過ぎて、今度は私が自分の息子と並んで揺られている。夜のうちに距離を飛び越える乗り物が、いつのまにか、親子の時間まで運んでくれていた。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;令和の今時間は手のひらの中に&#34;&gt;令和の今、時間は手のひらの中に&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;いま、時刻を知るのに苦労する人は、もういません。スマートフォンの画面には、いつでも秒まで表示されている。時間は、手のひらの中に常にあります。空き箱で時計を作らなくても、針の読み方を覚えなくても、数字はいつでもそこにある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、ミルクキャラメルは今も、あの黄色い箱のまま店に並んでいます。夜行バスは全国を縦横に走り、行き先も種類も、私が子どものころには想像もつかなかったほど増えました。時を計る道具は変わっても、一粒を急がず溶かす時間や、夜のうちに遠くへ運ばれていく時間は、きっと今も変わらずそこにある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;わが子が小学生だったあの夜、八重洲のバス乗り場で胸を高鳴らせたのも、もう十数年前のこと。時間というのは、計るそばから、こうして思い出に変わっていくものなのですね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;みなさんにとって、「時間をかけて味わったもの」は、何でしょうか。よかったら、聞かせてください。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;この記事は「昭和の今日は何があった日？」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;!-- showa-nav --&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-09/&#34;&gt;6月9日 ── ロックの日に、木曜九時のザ・ベストテンを思い出す&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-11/&#34;&gt;6月11日 ── 入梅。ビニール傘と、列島改造の槌音と&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>【昭和の今日は何があった日？】5月18日──新幹線が、日本中を走る「約束」をした日</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-18/</link>
      <pubDate>Sun, 17 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-18/</guid>
      <description>昭和45年5月18日、全国に新幹線を張り巡らせるための法律が公布された。でも私が初めて新幹線に乗ったのは、中学3年の修学旅行まで待たなければならなかった。あの東京駅のホームで感じた興奮を、今でもはっきり覚えている。</description>
    </item>
    <item>
      <title>【昭和の今日は何があった日？】5月11日──「ぱたぱたママ」が聞こえたら、保育園へ行く時間</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-11/</link>
      <pubDate>Sun, 10 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-11/</guid>
      <description>昭和の朝。ごはんを食べながらピンポンパンを見て、ひらけポンキッキが始まったら保育園の時間。「ぱたぱたママ」が流れると母の声がかかり、妹と3人で自転車に乗って出発した。あの頃の朝の記憶と、おもちゃの木への羨望を書きたい。</description>
    </item>
    <item>
      <title>【昭和の今日は何があった日？】5月5日──屋根より高い鯉のぼりと、銭湯帰りのコーヒー牛乳</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-05/</link>
      <pubDate>Mon, 04 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-05/</guid>
      <description>こどもの日。昭和の5月5日には、空にたくさんの鯉のぼりが泳いでいた。夜は銭湯の菖蒲湯に入り、湯上りに瓶入りのコーヒー牛乳を買ってもらった。あの頃の端午の節句と、少し切ない記憶を振り返る。</description>
    </item>
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      <title>【昭和の今日は何があった日？】5月5日──鉄球が飛び、総理が捕まり、国鉄がなくなった日々</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-05b/</link>
      <pubDate>Mon, 04 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
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      <description>こどもの日。昭和の5月5日、テレビには「大人の難しい話」が流れていた。浅間山荘の鉄球、ロッキードという聞き慣れない言葉、国鉄民営化の議論。意味はわからなかったけれど、何か大変なことが起きているとは感じていた。あの頃の「事件」を、今になってようやく理解する。</description>
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