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    <title>昭和53年 on 昭和44年男</title>
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    <description>Recent content in 昭和53年 on 昭和44年男</description>
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      <title>【番外編】インベーダーゲームと孫正義 ── ブームが冷めた中古機を、太平洋の向こうで宝に変えた青年</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/invader-son-masayoshi/</link>
      <pubDate>Tue, 16 Jun 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/invader-son-masayoshi/</guid>
      <description>&lt;p&gt;六月十六日の本編では、私たちの子ども時代をまるごと呑み込んでいった、あのインベーダーゲームそのものの話をしました。きょうはその番外編です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;同じインベーダーの話なのに、舞台がまるで違います。日本の喫茶店ではありません。太平洋を渡った先、アメリカ・カリフォルニア。そして主役は、いまをときめく、あの経営者――ソフトバンクの孫正義さんです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本編でもお話ししたとおり、昭和五十三年（一九七八年）にタイトーが世に出した「スペースインベーダー」は、あっという間に日本中を呑み込みました。喫茶店のテーブルは次々とゲーム機の筐体に置き換わり、店に入ればコーヒーよりも先に、あの迫ってくる電子音が耳に飛び込んでくる。ゲーム機ばかりを並べた「インベーダーハウス」という専門店まで生まれ、子どもたちは攻略法を競い合い、大人はネクタイ姿のままテーブルに肘をついて画面をにらんでいました。あんまり百円玉が吸い込まれていくものだから、世の中で百円玉が足りなくなった、なんて話まで囁かれたほどです。子どもも大人も、テーブルの上に百円玉を積み上げて、画面の中の侵略者を撃ち落とすことに夢中になっていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はそのとき九歳。葛飾の子どもにとっても、あの「ピポピポ」と降りてくる音は、どこか特別な響きを持っていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;正直に打ち明けると、私自身は、あのブームのど真ん中で百円玉を積み上げていた口ではありません。当時は野球に明け暮れる九歳。インベーダーは、もっぱら「横目で見ていた」遊びでした。喫茶店のテーブル型の台を、ガラス越しにちらりと覗く。近所の上級生の百円玉が、次から次へと機械に吸い込まれていくのを、後ろから眺める。撃つよりも、見ていた。そんな野球少年でした。それでも、あの一歩ずつ迫ってくる電子音だけは、なぜか今でも耳の奥にはっきりと残っています。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;ブームが冷めたころ海の向こうの留学生&#34;&gt;ブームが冷めたころ、海の向こうの留学生&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;さて、ここからが本題です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あれほどの熱狂も、永遠には続きませんでした。爆発的に燃え上がったぶん、火が消えるのも早かった。一年半ほどで人々はあっさり飽きて、あれだけ高値で取引されていた筐体が、こんどは引き取り手もなく倉庫に山積みになっていきました。誰の目にも「もう終わったもの」でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ところが、その「終わったもの」を、まるで違う目で見ていた人がいた。冒頭でふれた孫正義さん、その人です。当時まだ二十歳そこそこ。カリフォルニア大学バークレー校で経済学を学ぶ、卒業前の、れっきとした「学生」の身分でした。彼は渡米まもないころから、語学学校の教師に「将来はビデオゲームを使った商売をやりたい」と語っていたといいます。漠然とした夢ではなく、すでに頭の中で算盤をはじいていたのでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;孫正義さん。ソフトバンクグループ創業者。20代の留学時代、ブームの去ったインベーダーに商機を見抜いた。（Photo: © European Union, 2025 - EC Audiovisual Service / CC BY 4.0, via Wikimedia Commons）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/masayoshi-son.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その学生が、こう考えた。──日本でブームが終わったインベーダーの機械は、いまや余って、安く手に入る。けれどアメリカでは、まだこれからだ、と。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いまでこそ「輸入して転売」と聞けば誰でも思いつく発想かもしれません。けれど一九七〇年代に、留学先の異国でそれを実際にやってのけた二十歳の学生がいた、というのは、やはり並のことではありません。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;太平洋を越えた中古のインベーダー&#34;&gt;太平洋を越えた、中古のインベーダー&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;孫さんは、日本で売れ残った機械を安く仕入れました。一台百万円もした筐体を、捨て値同然で買い集めたといいます。そしてそれを、船ではなく飛行機で空輸した。船便ならずっと安く済むところを、あえて高い空輸を選んだ。アメリカでブームに火がつく前に、先回りして置いてしまいたかったからです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;アメリカ版『スペースインベーダー』（Midway製）。日本でブームが去った機械が、太平洋の向こうで新たな宝になった。（Photo: Jordiferrer / CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/space-invaders-midway-us.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;置き場所に選んだのは、若者でにぎわう店でした。日本でいう喫茶店――とは少し違って、アメリカではアイスクリーム店や、ステーキレストランの待合室。順番を待つあいだ、退屈した客が二十五セント硬貨を放り込む。売上を店と分ける、いまでいう歩合の仕組みです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もっとも、はじめから歓迎されたわけではありません。「うちにゲーム機なんか置いたら、店の雰囲気が壊れる」と渋る店主も少なくなかった。孫さんはそれを、一軒一軒、直談判で口説き落としていったといいます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、こんな話が伝わっています。設置したばかりの機械が動かない、と連絡を受けて駆けつけてみると、機械は壊れてなどいなかった。コインボックスに二十五セント硬貨が入りすぎて、あふれて、それで止まっていたのです。まわりに集まった客たちは、腹を抱えて笑っていたといいます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;結果、半年ほどで設置台数はおよそ三百五十台にまで広がり、利益は一億円を超えたと伝えられています。さらに孫さんは、キャンパス近くのゲームセンターまで一軒、銀行から借金をして買い取りました。そこに毎日の売上を細かく見る「日次決算」を持ち込み、機械一台ごとに、置いてから何日で元が取れるかまで見極めた。働く人の見極めも徹底していて、まずは広く雇い入れ、本当に働く者だけを残していったといいます。そうして、わずか一か月で売上を三倍にしてみせた。学生が片手間にやった商売、という規模では、もうありません。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;事実関係を少し整理しておきます&#34;&gt;事実関係を、少し整理しておきます&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;この逸話、語り手によって数字がまちまちです。「五万円で十台」と書くものもあれば「五万円で二十台」とするものもある。空輸代が一台七万円だった、という具体的な話も出てきます。細かい数字は伝聞で揺れているので、ここでは「ブームの去った中古機を安く仕入れ、空輸し、歩合で置いて、数か月で一億円規模を稼いだ」という骨格だけを、確かなものとして受け取っておくのがよさそうです。世に出ている記述の多くは、孫さんの評伝（大下英治氏による一連の著作）にたどりつきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このあたりの留学時代と起業の物語を、もっとじっくり読んでみたい方には、この一冊を。何も持たない若者が、自分を信じて海を渡っていく――冒険小説のような面白さがあります。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&#34;amz-box&#34;&gt;
  &lt;div class=&#34;amz-box-body&#34;&gt;
    &lt;div class=&#34;amz-box-title&#34;&gt;孫正義 起業の若き獅子&lt;/div&gt;&lt;div class=&#34;amz-box-note&#34;&gt;大下英治／講談社。インベーダー留学時代から起業までを描いた評伝&lt;/div&gt;
    &lt;a class=&#34;amz-box-btn&#34; href=&#34;https://www.amazon.co.jp/dp/4062087189?tag=showa44man22-22&#34; target=&#34;_blank&#34; rel=&#34;nofollow sponsored noopener&#34;&gt;Amazonで見る ›&lt;/a&gt;
  &lt;/div&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;p&gt;もうひとつ、混同されやすい点を。孫さんはこの時期、バークレーの先生たちと組んで音声付きの翻訳機を開発し、その権利をシャープに売って、やはり一億円ほどを手にしています。インベーダーの話とこの翻訳機の話は、しばしば一つに混ぜて語られますが、本来は同じ留学時代の、別々の商売です。「翻訳機で得た金を元手にゲーム機を輸入した」と書かれることもあれば、ゲーム機の商売そのものが大きな利益を生んだ、と語られることもある。どちらが先で、どちらがどちらの元手か――そこは諸説あって、はっきり一本の線では結べません。確かなのは、二十歳そこそこの留学生が、ほぼ同じ時期に、二つの商売でそれぞれ一億円規模の話を作っていた、という事実のほうです。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;そして青年は日本へ帰る&#34;&gt;そして青年は、日本へ帰る&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;アメリカでひととおりの成功を収めた孫さんは、やがて大学を卒業し、日本へ帰ってきます。そして昭和五十六年（一九八一年）九月、二十四歳のとき、福岡の地で、パソコン向けソフトの卸売を手がける「日本ソフトバンク」を起こしました。社員はわずか数人。世間がまだ「ソフトウェア」という言葉すらほとんど知らない時代の、ささやかな船出でした。けれど、ブームの去ったインベーダーの中に値打ちを見抜いたあの目は、こんどはパソコンという、これから来るものの中に未来を見ていた。仕入れて、運んで、置いて、回収して――留学時代に体ひとつで覚えた商売の型は、形を変えて、そのまま受け継がれていったように思えます。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;令和のいまあらためて思うこと&#34;&gt;令和のいま、あらためて思うこと&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;葛飾の喫茶店のテーブルで、私たちが百円玉を積み上げて遊んでいたそのゲームを、同じころ、海の向こうの二十歳の青年は「商売の種」として見ていた。同じインベーダーを、こちらは遊び、あちらは商いにしていた。こちらの百円玉と、あちらの二十五セント硬貨。同じ機械が、太平洋をはさんで、まったく違う意味を持っていた。その視点の違いを思うと、なんとも不思議な気持ちになります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかも彼が目をつけたのは、ブームの真っ盛りではなく、熱が冷めて誰もが見向きしなくなった「残り物」のほうでした。みんなが飽きて手放した機械の中に、まだ値打ちが残っている――そう見抜く目こそが、のちのソフトバンクの、あの次々と大きな賭けに出ていく経営の、いちばん最初の芽だったのかもしれません。いまや人工知能だ、巨大ファンドだと、桁の違う話ばかりが聞こえてきますが、その出発点が、私たちの子ども時代をにぎわせた、あの電子音の機械だったというのは――昭和を生きた身には、どこか痛快な話です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私たちが夢中で侵略者を撃っていたあのテーブルは、誰かにとっては、未来を撃ち出す発射台だったわけです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その発射台は、いまどこまで飛んだのか。つい先日、令和八年（二〇二六年）六月一日のことです。孫さんが率いるソフトバンクグループの時価総額が、ついにトヨタ自動車を抜いて、国内企業の首位に立ちました。トヨタが時価総額のトップを明け渡すのは、実に二十二年半ぶり。「日本一の会社といえばトヨタ」というのが長らく私たちの常識でしたから、たとえ一時的にせよ、これは大きなニュースになりました。生成AIや半導体への巨額投資が市場の期待を集めての逆転で、その時価総額は一時、四十八兆円、四十九兆円という途方もない額に達したといいます。ブームの去った中古のインベーダーを抱えて太平洋を渡った青年が、半世紀ののちに、自動車王国の頂をひっくり返した――こうして並べてみると、やはり出来すぎた物語のように思えてきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;孫さんは「三百年続く企業をつくる」といった、気の遠くなるような話を平気で口にする人です。その三百年の、いちばん最初の一歩が、私たちと同じ昭和の電子音から始まっていた。雲の上の大富豪の物語かと思いきや、出発点には、私たちの記憶と地続きの、あの懐かしい筐体が立っている。そう思うと、遠い話が急に身近に感じられて、なんだか可笑しくも、頼もしくもあるのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;みなさんは、インベーダーゲームに、どんな思い出をお持ちでしょうか。喫茶店の台、ゲームセンター、それとも友だちの家。よかったら、聞かせてください。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;この記事は「昭和の今日は何があった日？」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-16/&#34;&gt;6月16日 ── 上級生の背中越しに、私はインベーダーを見ていた&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-17/&#34;&gt;6月17日 ── 無敵のまま畳を降りた山下泰裕と、私が初めて応援した五輪の夏&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>6月16日 ── 上級生の背中越しに、私はインベーダーを見ていた</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-june-16/</link>
      <pubDate>Tue, 16 Jun 2026 06:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-june-16/</guid>
      <description>&lt;p&gt;六月十六日。梅雨のただ中、長靴と傘がランドセルの相棒になる季節です。カレンダーの記念日欄を見ると、きょうは「和菓子の日」。そしてもうひとつ、私たちの世代にとっては見逃せない記念日が、そっと並んでいます——「スペースインベーダーの日」です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和五十三年（一九七八年）の六月十六日、当時のタイトー本社ビルで、一台のテレビゲームの新作発表会が開かれました。その名は『スペースインベーダー』。開発したのは西角友宏さんという技術者です。画面の上から迫りくる宇宙人を、自分の操るビーム砲で迎え撃つ——いまでは当たり前の「自分で撃ち返せる」という双方向のおもしろさを、世に知らしめた一台でした。同年七月ごろから全国へ出荷されると、それはもう、文字どおり日本中を侵略していきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きょうは、その「侵略」を、いちばん下っ端の小学生として迎え撃った——いや、迎え撃てずに、ただ眺めていた私の話です。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;イトーヨーカドーの踊り場の一台&#34;&gt;イトーヨーカドーの、踊り場の一台&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;記憶を掘り起こしてみます。私とインベーダーの最初の出会いは、よく語られる喫茶店のテーブル型の筐体ではありませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;イトーヨーカドーの、一階と二階をつなぐ階段。その中間にある踊り場に、立ったままプレーするタイプの大きな筐体が、ぽつんと一台、置かれていたのです。ブラウン管を上から覗き込む、背の高い箱型のやつです。喫茶店のテーブルに埋め込まれた、あの寝そべったような筐体を知ったのは、ずっとあとのことでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;上から覗き込む、立ち型のインベーダー筐体。画面には五列に並んだ宇宙人と、こちらのビーム砲。（Photo: Scalleja / CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/space-invaders-cabinet2.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当時の私は小学三年生。正直に白状すると、一ゲームいくら、というあの金額は、三年生の小遣いではそうそう出せるものではありませんでした。けれど、興味のほうはバリバリにあったのです。だから私はどうしたか。プレーしている上級生のすぐ後ろに陣取って、画面を食い入るように見ていました。自分の百円玉ではない、誰かの一機が右へ左へ動くのを、まるで自分が動かしているような顔をして、ただ見ていたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの、ズン、ズン、ズン、ズン……と地鳴りのように響く、インベーダーが一歩ずつ近づいてくる音。敵の数が減るほどにテンポが速くなって、こちらの鼓動まで一緒に速くなっていく、あの独特の音。五列に並んだ五十五匹の宇宙人と、ときおり画面の上をすーっと横切る赤い円盤（あれを撃ち落とすと点が高いのだと、上級生が教えてくれました）。踊り場の薄明かりの中でぼうっと光るその画面を、私はいったい何度、よそのお兄さんの肩越しに見上げたことでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いま思えば、おかしな話です。そもそもイトーヨーカドーというのは、当時の私たちにとって、子どもだけで出入りしてはいけないことになっている場所でした。それなのに、私はちゃっかり行っちゃっているわけです。そして、後ろから覗かせてもらっていた上級生たち——彼らだって、しょせんは小学生です。それが何回も、何回も百円玉を投入していく。あの軍資金は、いったいどこから出ていたのか。当時は「すごいなあ」と思って見ていましたが、いざ自分が親の立場になって考えてみると、よくもまあ、と苦笑いするしかありません。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;百円玉が日本から消えた夏&#34;&gt;百円玉が、日本から消えた夏&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;私が踊り場で指をくわえて見ていたころ、世の中では、とんでもないことが起きていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それまでのテレビゲームといえば、画面の壁をボールで崩していく『ブロック崩し』のようなものが主流でした。ところがインベーダーは、向こうから攻めてくる。こちらが撃つ。撃ち返される。やられる——。腕を上げれば上げるほど長く生き延びられて、もっとやりたくなる。この「上達していく手応え」と「迎え撃つ緊張感」こそが、それまでのゲームにはなかった魔力でした。喫茶店でコーヒー一杯の値段で何十分も粘る大人が続出し、社会問題のように語られたほどです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『スペースインベーダー』の人気は、喫茶店にテーブル型の筐体を持ち込ませ、やがてゲーム機ばかりを並べた「ゲーム喫茶」や、店員すらいない二十四時間営業の「インベーダーハウス」まで生み出していきます。コーヒーを飲む店だったはずの喫茶店が、いつのまにかテーブルという卓上が光る箱に置き換わっている。そんな光景が、日本中に広がっていきました。「インベーダー」は、その年の流行語になりました。なかでも語り草になっているのが、百円玉の話です。あまりに多くの百円玉がゲーム機の中に吸い込まれていったため、世間で百円硬貨が足りなくなり、日本銀行がふだんの三倍ほどの量を世に送り出した——そんな記事が新聞に載るほどだったといいます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;喫茶店のテーブル型筐体。コーヒー一杯で何十分も粘る大人が続出した、あの「ゲーム喫茶」の風景。（Photo: Tomomarusan / CC BY 2.5, via Wikimedia Commons）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/space-invaders-cabinet.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな熱狂のなかで、高得点を狙うつわものたちが編み出したのが、攻略法の元祖とも呼ばれる「名古屋撃ち」でした。インベーダーが最下段の一歩手前まで攻め込んでくると、なぜか敵の弾が自分のビーム砲をすり抜けて当たらない——もとはゲームの不具合（バグ）だったその仕様を逆手に取り、ぎりぎりまで引きつけて撃ちまくる、という技です。名前の由来は「名古屋で広まったから」とも、「あと一段で〝終わり〟、それと〝尾張（名古屋）〟をかけた」とも言われますが、本当のところは、いまもって誰も知らないのだそうです。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;三十円十円ようやく私の番が来た&#34;&gt;三十円、十円。ようやく私の番が来た&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;さて、踊り場で見ているだけだった私にも、ちゃんと順番が回ってくる日が来ます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;世の中に次々と新しいゲームが登場すると、インベーダーは少しずつ「古いゲーム」になっていきました。すると、あれほど強気だったプレー代が、一気に下がりはじめるのです。五十円、三十円、そしてついには十円なんていう値札まで現れました。そうした型落ちの筐体を、倉庫のような建物に所狭しと並べた——いわゆる倉庫型のゲームセンターが、あちこちにできました。薄暗くて、どこか秘密基地めいていて、子どもにはほんの少しだけ背伸びが必要な場所。それでも十円玉一枚で遊べるとなれば、私たちにとっては立派な天国でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そこで、ようやく私にも、遊ぶことができるようになったのです。十円玉を握りしめて。あの踊り場の上級生たちが百円玉を惜しげもなく入れていた、その同じゲームを、私は数年遅れの十円で、心ゆくまで撃ちました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、後ろから見て覚えた攻略法も、ここぞとばかりに使いました。敵が最下段の一歩手前まで降りてきたところを、端から順に狙い撃つ「名古屋撃ち」。そしてもうひとつ、群れの真ん中の列を一気に撃ち抜く技——私たちの界隈では、これを「新宿撃ち」と呼んでいました。ところがあとで知ったのですが、同じこの技、地域によっては「京都撃ち」とも「中央突破」とも呼ばれていたそうです。携帯電話もインターネットもない時代、攻略法は友だちから友だちへと口づてに伝わり、その途中で、町ごとに勝手な名前がついていったのです。同じ撃ち方なのに、隣の町では別の名前で呼ばれている。いま思えば、それもまた、ずいぶんのんびりとした、いい時代の話です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;背伸びして眺めていた憧れに、自分の指で、やっと追いついた瞬間でした。数年越しの片想いが、十円玉一枚でようやく実った——そんな気分だったように思います。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;令和の子どもは見ているだけの時間を知らない&#34;&gt;令和の子どもは、「見ているだけの時間」を知らない&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;時代は変わりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いまの子どもたちは、ゲームをするのに、お金を握りしめて家を出る必要がありません。スマートフォンの中に、家庭用ゲーム機の中に、無数のゲームが入っていて、その多くは、始めるだけならお金もかからない。上級生の背中越しに覗き込む必要も、十円玉が貯まるのを待つ必要も、ないのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それは間違いなく、豊かで、いい時代です。私だって、もし子どもの頃にそんな環境があったら、諸手を挙げて喜んだことでしょう。けれど、と私はつい思ってしまうのです。あの、一ゲームが出せなくて、ただ見ていた時間。誰かのプレーを食い入るように見つめて、技を盗んで、いつか自分も、と焦がれていたあの時間。あれはあれで、悪くないものだったな、と。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;欲しいものがすぐ手に入らない。だから、よその上級生の背中越しに憧れ、十円玉が貯まるのをじりじりと待つ。手が届かないからこそ、あの踊り場の小さな画面の光は、あんなにもまぶしく見えたのかもしれません。いまの子どもたちには、あの「待っているあいだの時間」だけは、もう手に入らない宝物なのかもしれない——そんなことを、つい考えてしまうのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;現に、わが家でもゲームに夢中になっている子どもを見て、私はつい「ゲームばっかりやって……」と、口では文句を言ってしまいます。ところが内心はどうかというと、「わかるわかる」と全力でうなずいている自分がいる。それどころか、母親が渋い顔で様子をうかがっているのに気づくと、心の中でこっそり「おい、ママの目があるんだから、もっと上手くやれ」と、すっかり子どもの肩を持っている始末です。叱る側に回ったはずなのに、気持ちのほうは、あの踊り場で背伸びをしていた頃から一歩も動いていない。我ながら、おかしくなってしまいます（笑）。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;考えてみれば、子どもだけで入ってはいけないイトーヨーカドーに、ちゃっかり忍び込んでいたのも私でした。親の目を盗んで何かに夢中になる——それはどうやら、いつの時代も変わらない、子どもの特権のようです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そういえば、あの「名古屋撃ち」を含む歴代のスペースインベーダーは、いまではNintendo Switchで、いつでも好きなだけ遊べます。十円玉も、上級生の背中も、もう要りません。あの頃の自分に教えてやったら、目を丸くするでしょうね。&lt;/p&gt;
&lt;div class=&#34;amz-box&#34;&gt;
  &lt;div class=&#34;amz-box-body&#34;&gt;
    &lt;div class=&#34;amz-box-title&#34;&gt;スペースインベーダー インヴィンシブルコレクション - Switch&lt;/div&gt;&lt;div class=&#34;amz-box-note&#34;&gt;タイトー／1978年のオリジナルから歴代作品まで収録&lt;/div&gt;
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  &lt;/div&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;あなたが初めてインベーダーに出会ったのは、どこの台でしたか。喫茶店のテーブルでしたか、駄菓子屋の店先でしたか、それとも私のように、デパートの踊り場あたりでしたか。一ゲーム、いくらでしたか。よかったら、あなたの「最初の一台」の思い出も、聞かせてください。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;この「昭和の今日は何があった日？」シリーズでは、昭和四十年から六十四年までの出来事を、当時子どもだった私の目線で綴っています。同じ時代を生きた方の「あの頃」の思い出やコメントも、ぜひお待ちしています。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-15/&#34;&gt;6月15日 ── 高校球児だった私の知らないところで、ジブリが産声を上げていた&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/invader-son-masayoshi/&#34;&gt;【番外編】インベーダーゲームと孫正義 ── ブームが冷めた中古機を、太平洋の向こうで宝に変えた青年&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>6月12日 ── 宮城県沖地震、夕方五時十四分に大地が揺れた日</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-june-12/</link>
      <pubDate>Fri, 12 Jun 2026 06:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-june-12/</guid>
      <description>&lt;p&gt;六月の夕方五時すぎ。梅雨どきの空はまだ十分に明るくて、子どもたちは外遊びから帰ってくるか、家のテレビの前に座りこんでいる時間です。台所からは、お母さんの包丁の音と、煮物の匂い。お父さんはまだ会社。ちゃぶ台に夕飯が並ぶまでの、あの何でもない時間。昭和の、ごくありふれた月曜日の夕方でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和五十三年（一九七八年）六月十二日、午後五時十四分。その当たり前の時間を、突然の大きな揺れが襲いました。宮城県沖地震です。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;その日東京も揺れた&#34;&gt;その日、東京も揺れた&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;地震の規模はマグニチュード七・四。震源は宮城県の沖合、深さ約四十キロ。仙台などで当時の基準の震度五を観測し、揺れは東北地方を中心に、北海道から関東、中部、近畿あたりまで、列島のほぼ半分に及びました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして東京も、震度四。私は当時九歳、小学三年生です。葛飾の家にも、あの揺れは確かに届いていたはずなのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;九歳の私に、揺れそのものの記憶は、正直なところ残っていません。けれど、その夜のニュースと翌朝のテレビは、はっきりと覚えています。倒壊した建物やブロック塀の映像が、何度も何度も繰り返し流れていました。なかでも忘れられないのが、一階部分がぺしゃんこに押しつぶされたビルの映像です。パチンコ店が入っていた雑居ビルが、上の階の重みでつぶれている。建物というのは、ああいうふうに「潰れる」ものなのか。九歳の目に焼きついたあの映像は、半世紀近くたったいまも、鮮明に思い出すことができます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夕方五時十四分という時刻を、いま改めて考えてみます。学校から帰って、ランドセルを玄関に放り出して、原っぱや路地での遊びからそろそろ戻ってくる時間。各家庭がこれから夕飯の支度にとりかかる、その入り口の時間帯です。あの地震は、そういう「暮らしのまんなか」を直撃したのでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、恐れられていた火災は、仙台市内でわずか八件と、事前の予測を大きく下回りました。「地震が来たらまず火の始末」という意識が市民に根づいていたこと、初夏で暖房を使っていなかったこと、そして本震の八分前に小さな前震があり、火を消した家庭が多かったこと。昭和の合言葉「地震だ、火を消せ」が、本当に機能した地震だったのです。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;ブロック塀が子どもたちの通学路で&#34;&gt;ブロック塀が、子どもたちの通学路で&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;宮城県沖地震では、東北全体で二十八人の方が亡くなり、負傷者は一万人を超えました。住宅の全半壊は七千棟以上。ただ、この地震が後の日本に残した教訓は、被害の数字そのものより、犠牲の「出かた」にありました。倒れた家屋の下敷きになった方よりも、ブロック塀や石塀、門柱の倒壊に巻き込まれて亡くなった方のほうが、ずっと多かったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ブロック塀は、昭和の住宅地の風景そのものでした。私が育った葛飾の下町も、細い路地の両側にブロック塀や万年塀が連なっていて、子どもたちは毎日その脇を歩いて学校に通っていました。塀の上を歩いて怒られた子、塀の穴から隣の家の犬をのぞいた子。あれほど暮らしに馴染んでいたものが、ひとたび大きく揺れれば凶器になる。誰もがうすうす知っていながら、誰も真剣に考えてこなかったことを、この地震は突きつけました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;どこの路地にもあった、昭和の住宅地のブロック塀。暮らしに馴染んだこの風景が、ひとたび揺れれば凶器になることを、あの地震は教えた。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/block-wall-alley.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もうひとつ、この地震が初めて見せたものがあります。「大都市の地震」です。当時の仙台は人口五十万を超える大都市で、丘を切りひらいた新しい住宅団地がどんどん広がっていた時代でした。被害はその新興住宅地に集中し、都市ガスの復旧には約一カ月。電気、水道、電話という、都市の暮らしを支える線がいっせいに切れたとき何が起きるのか。日本が初めて目の当たりにした「都市型地震」だったと言われています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この教訓から、昭和五十六年（一九八一年）に建物の耐震基準が大きく見直されました。いまも不動産の世界で使われる「新耐震」「旧耐震」という言葉。その境目を作ったのが、この宮城県沖地震なのです。発生日の六月十二日は、いまも宮城県の「県民防災の日」とされ、毎年この日に防災訓練が行われています。仙台のラジオ局では、毎日夕方五時十四分になると「宮城県沖地震が発生した時刻です」と伝える番組があるそうです。四十八年たっても、あの時刻は忘れられていないのです。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;大人になって震災は見るものではなくなった&#34;&gt;大人になって、震災は「見るもの」ではなくなった&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;九歳の私にとって、震災はテレビの中の出来事でした。けれど大人になるにつれ、それは少しずつ、自分の側へ近づいてきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;平成七年（一九九五年）一月十七日、阪神・淡路大震災。私は二十五歳でした。冬の早朝、まだ眠っている都市を直下の揺れが襲い、高速道路が横倒しになり、六千四百人を超える方が亡くなりました。崩れた建物の多くが「旧耐震」の時代に建てられたものだったと、後の検証は伝えています。宮城県沖地震が残した宿題は、まだ終わっていなかったのです。朝のテレビが映し出した、横倒しの阪神高速。あの一枚の画は、「都市は地震に勝てるはずだ」という、私たちがどこかで抱いていた思い込みを、根こそぎ崩していきました。このときの私はまだ、九歳のあの日と同じように、画面のこちら側にいました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;崩れ落ちた阪神高速道路（平成7年1月17日、神戸市）。「都市は地震に勝てるはずだ」という思い込みが、この朝崩れた。（出典：神戸市「阪神・淡路大震災『1.17の記録』」）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/hanshin-expressway-1995.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして平成二十三年（二〇一一年）三月十一日、東日本大震災。四十一歳の私は、もう画面のこちら側にはいませんでした。当時の私は路線バスの運転手で、あの日も乗務中だったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;走っているバスのハンドル越しにも、はっきりとわかる強い揺れでした。バスを路肩に停め、揺れが収まるのをじっと待つ。お客様を乗せたまま、車内で過ごしたあの数分間の長かったこと。やがて揺れが収まり、運行を再開しましたが、本当の異変が始まったのは、夕方の帰宅ラッシュからでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;鉄道がすべて止まっている。動いているのは、バスとタクシーだけ。そこへ、家族を迎えに行く車が都内へどっと流れ込み、道路は身動きのとれない大渋滞になりました。私のバスは営業に出たまま、その渋滞のただなかに、お客様を乗せたまま立ち往生したのです。歩道には、家路を歩く人の列が夜まで途切れることなく続いていました。結局、車庫に戻れたのは、日付が変わった夜中の三時頃だったと記憶しています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;九歳のとき、テレビ画面のこちら側から見ていた震災。その三十三年後、私は人を家へ運ぶ側として、震災の夜の中にいました。震源は皮肉にも、あの日と同じ「宮城県沖」を含む、東北の太平洋沖。同じ海が、規模も性質もまるで違う災害を、同じ土地に、そして今度は私自身の一日に、もたらしたのです。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;令和のいま次は三つ指折り数えられている&#34;&gt;令和のいま、「次」は三つ指折り数えられている&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;そして令和の今、関東に暮らす私たちは、専門家から「次」の候補をはっきり示されています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ひとつめは、首都直下地震。マグニチュード七クラスの地震が今後三十年以内に起きる確率は、七十パーセント程度とされています。私たちの足元で、いつ起きてもおかしくないと言われ続けている、いちばん身近な脅威です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふたつめは、南海トラフ巨大地震。令和七年（二〇二五年）に確率の算出方法が見直され、三十年以内の発生確率は「六十〜九十パーセント程度以上」と「二十〜五十パーセント」というふたつの数字が併記されることになりました。数字に幅はあっても、「可能性が高い」という評価そのものは変わっていません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そしてみっつめが、相模トラフの巨大地震。百年余り前、大正十二年（一九二三年）の関東大震災を起こした、関東の足元のプレート境界です。十万人を超える犠牲の多くが火災によるものだったあの震災は、私たちの祖父母の世代にとっての「地震」の原風景でした。「地震だ、火を消せ」という昭和の合言葉も、九月一日の防災の日も、もとをたどればこの震災に行き着きます。相模トラフの巨大地震そのものは数百年単位の間隔と考えられていますが、首都直下のマグニチュード七クラスは、その大きな地震に向かう過程で起きやすくなるとも言われています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;数字を並べると、正直、少し怖くなります。けれど思い出したいのは、宮城県沖地震からの四十八年間、日本がただ怯えていたわけではない、ということです。ブロック塀の点検が始まり、耐震基準が変わり、緊急地震速報が生まれ、学校の防災訓練は当たり前になった。いまでは揺れが来る数秒前に、ポケットの中のスマートフォンが一斉に鳴って教えてくれます。昭和五十三年のあの日、何の前触れもなく夕方の台所を襲った揺れのことを思えば、隔世の感があります。九歳の私たちが経験した「夕方五時十四分」は、決して無駄にはなっていないのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今夜、寝る前に、寝室の家具の置き方をひとつ見直してみる。水のペットボトルを一本、買い足しておく。それが、昭和五十三年六月十二日の揺れを知っている世代の、ささやかな務めなのかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;みなさんには、忘れられない地震の記憶がありますか。子どもの頃にテレビで見たもの、大人になって自分の身に起きたこと。よかったら、聞かせてください。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;この記事は「昭和の今日は何があった日？」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-11/&#34;&gt;6月11日 ── 入梅。ビニール傘と、列島改造の槌音と&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-june-13/&#34;&gt;6月13日 ── スペインW杯が素通りした夜も、枕元にはラジオがあった&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>昭和の今日は何があった日？ ── 5月25日、銀河系が地球に降ってきた日</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-25/</link>
      <pubDate>Sun, 24 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-25/</guid>
      <description>&lt;p&gt;今日、5月25日は、私がずっと「夏の映画」だと思い込んでいた出来事の、本当の誕生日だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和52年（1977年）5月25日。アメリカで一本の映画が公開された。タイトルは『スター・ウォーズ』。わずか32の劇場からスタートしたその映画は、瞬く間に全米を席巻し、ジョーズが打ち立てた興行収入の記録を塗り替え、やがてアカデミー賞7部門を獲得した。しかし私は、この日付を長い間知らなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そりゃそうだ。私にとってスター・ウォーズは「昭和53年の夏」の記憶だからだ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;一年間日本の子どもたちは待たされた&#34;&gt;一年間、日本の子どもたちは待たされた&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;全米公開から約一年が経った昭和53年（1978年）6月、ようやく『スター・ウォーズ』は日本の劇場にやってきた。今でこそ日米ほぼ同時公開が当たり前だが、当時は半年や一年のタイムラグは珍しくなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、その一年間が長かったことは確かだ。「スター・ウォーズ」という映画の噂は、日本にいる子どもたちの耳にもじわじわと届いていた。アメリカで信じられない映像が作られた、光の剣で戦うシーンがある、ロボットが出てくる……。「宇宙戦艦ヤマト」でSFアニメの洗礼を受け、「仮面ライダー」で変身ヒーローに慣れ親しんだ当時の日本の子どもたちにとって、その情報は十分すぎるほど想像を掻き立てるものだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;待ちきれないファンの中には、大枚をはたいてアメリカまで観に行った人もいたという。今の感覚では信じられないような話だが、海外旅行がまだ贅沢だった時代に、映画一本のためにそこまでした人がいたというのだから、いかに熱狂的だったかがわかる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;チュニジア・ネフタの砂丘&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/starwars-nefta-dunes.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;映画の舞台「タトゥイーン惑星」のロケ地となったチュニジア・ネフタ周辺の砂丘。あの幻の惑星は、北アフリカの実在する大地に宿っていた。（Photo: DamienSlattery / &lt;a href=&#34;https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/&#34;&gt;CC BY-SA 3.0&lt;/a&gt;）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;王冠の裏に銀河がいた&#34;&gt;王冠の裏に、銀河がいた&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;私の記憶の中でスター・ウォーズは、映画館よりも先に「コカ・コーラの王冠」で登場した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;日本公開に合わせて、コカ・コーラとファンタのびん入り飲料に、スター・ウォーズのタイアップ王冠が登場した。1本50円の190ミリリットル入り。王冠の内側のビニールをペりとめくると、そこにダース・ベイダーやR2-D2、C-3POといったキャラクターが印刷されていた。コンプリートしたくても、毎日毎日コーラを買い続ける小遣いなどあるはずがない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だから子どもたちはどうしたか。自販機に備え付けられた栓抜きを使って、大人たちが飲み干してそのまま置いていった王冠を拾ったのだ。栓抜きの溝に引っかかったまま残っている王冠に指を突っ込んで取り出す。地面に落ちているものも当然見逃さない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私はさらに大胆な手に出た。小学校の正門前にある駄菓子屋——学校指定の用品も売っているような、あの馴染みの店だ——に置いてあった栓抜きの下の王冠受け容器ごと外して、ひっくり返して中身をぶちまけたのだ。今思えば相当なことをしていたが、当時はそれを「工夫」だと信じて疑わなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし王冠を手に入れても、それで終わりではない。本当の目的はここからだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;集めた王冠をアスファルトの地面に置き、靴底で踏みながら足を引きずる。ゴリゴリと摩擦をかけ続けると、王冠のギザギザの縁と、内側のビニール面が少しずつ分離してくる。それをTシャツの布地を外側と内側からはさみ込んで、ギザギザの縁を布に食い込ませる——完成。手製のスター・ウォーズバッジである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ダース・ベイダーのバッジを胸に貼り付けた瞬間の、あの満足感。100円も使わずに、靴底と地面だけで作り上げた銀河系グッズ。今思えばなんとも必死な話だが、当時はそれが当たり前の「創意工夫」だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;チュニジア・アジムのモス・アイズリー・カンティーナ跡&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/starwars-cantina-ajim.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;チュニジア・アジムの「モス・アイズリー・カンティーナ」のロケ地。映画の中でルークとハン・ソロが出会った宇宙酒場は、ここで撮影された。（Photo: Stefan Krasowski / &lt;a href=&#34;https://creativecommons.org/licenses/by/2.0/&#34;&gt;CC BY 2.0&lt;/a&gt;）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お菓子屋さんでも同じような熱気があった。明治の「マーブルチョコレート」には、スター・ウォーズのキャラクター入りマスコットが同梱された小さな筒入り商品が登場し、1個70円で売られた。みんなが欲しがったのはダース・ベイダーだったが、なぜかチューバッカばかり出てきた──そんな「恨み節」が後になっても語り継がれているのだから、あのブームはリアルだった。森永は「スター・ウォーズ・キャラメル」を発売し、マクドナルドではドリンクを頼むとルーク・スカイウォーカー、C-3PO＆R2-D2、ダース・ベイダーの絵柄が入ったカップが出てきた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;映画を観る前から、銀河はすでに子どもたちの手のひらに降りてきていたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;光の剣でチャンバラをした夏&#34;&gt;光の剣でチャンバラをした夏&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;昭和53年の夏休み。映画館の前に子どもたちが列を作った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;宇宙船が音を轟かせてスクリーンを横切る冒頭のシーン。ルーク・スカイウォーカーがライトセーバーを手にする場面。ダース・ベイダーが黒いマントとともに登場した瞬間の、あの重低音。CGなど存在しない時代に、あれほどの映像をどうやって作ったのか今でも不思議だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;映画館を出た子どもたちは、棒切れや傘を手にしてライトセーバーのチャンバラを始めた。「シュウゥゥ」という効果音を口で言いながら。「フォース」という言葉の意味はよくわからなくても、なんとなく重要なものだということはわかった。ダース・ベイダーに憧れた子も、少なくなかったと思う。あの声、あの存在感、あのマスク——悪役なのに、主人公よりもかっこよかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ジョージ・ルーカス監督は、日本の時代劇、特に黒澤明監督の作品から大きなインスピレーションを得ていたとされている。ライトセーバーは刀を、ダース・ベイダーのヘルメットは鎧兜を模したものだと言われていた。遠い銀河の物語が、実は私たちの文化の血を受け継いでいたという事実は、後になって知ると不思議な誇らしさがあった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;チュニジア・アジムのオビ=ワン・ケノービの家跡&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/starwars-obi-wan-house.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;チュニジア・アジムに残る「オビ=ワン・ケノービの家」のロケ地。荒野に立つ白い石造りの家——ルークが初めてオビ=ワンと出会う、あの場所だ。（Photo: Stefan Krasowski / &lt;a href=&#34;https://creativecommons.org/licenses/by/2.0/&#34;&gt;CC BY 2.0&lt;/a&gt;）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;昭和52年5月25日知らなかった私の時代の誕生日&#34;&gt;昭和52年5月25日——知らなかった、私の時代の誕生日&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;話を戻そう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和52年の今日、5月25日。私は12歳だった。その日もおそらく、公園で野球をしていたか、駄菓子屋でホームランバーを買っていたか、テレビのアニメに夢中になっていたか——そんな普通の一日を過ごしていたはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;遠い国の映画館で、歴史が変わっていることを知る由もなく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それが一年後、コカ・コーラの王冠になり、マーブルチョコのマスコットになり、映画館の行列になって、私の目の前にやってきた。昭和の子ども時代の記憶は、案外そういう形で届くものだったのかもしれない——誰かが5月25日に作ったものが、一年かけて、夏の思い出になって。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたも、あの夏の行列を覚えているだろうか。王冠を拾って歩いた、あの日のことを。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-may-24/&#34;&gt;昭和の今日は何があった日？ ── 5月24日&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-may-26/&#34;&gt;昭和の今日は何があった日？ ―5月26日―&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>昭和の今日は何があった日？ ―― 5月21日、スカイライナーが走り出した朝</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-21/</link>
      <pubDate>Wed, 20 May 2026 10:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-21/</guid>
      <description>昭和53年5月21日、スカイライナーが走り出した。成田空港の開港はまだ遠い話だったが、目の前の踏切を轟音とともに通り過ぎていくあの列車は、10歳の私にとって「新幹線」と同じくらい誇らしいものだった。</description>
    </item>
    <item>
      <title>成田が開いた日、ジェシーが泣いた日――5月20日の昭和</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-20/</link>
      <pubDate>Tue, 19 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-20/</guid>
      <description>&lt;p&gt;5月の空は高い。梅雨前の、束の間の晴れ間が続くこの季節に、昭和はふたつの大きな出来事を刻んでいる。ひとつは「夢」が開いた日。もうひとつは「夢」が終わった日の話だ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;朝ごはんを食べながら聞いた言葉&#34;&gt;朝ごはんを食べながら聞いた言葉&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;1978年（昭和53年）5月20日。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「成田空港反対運動」「過激派」「機動隊と衝突」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;小学生だった私は、朝ごはんを食べながら流れてくるテレビのニュースで、こういう言葉を毎日のように耳にしていた。ヘルメットをかぶった学生、泥まみれの農民、機動隊の盾。子どもには意味がよくわからない、でもなんとなく怖くて騒々しい映像の連続だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実は、この日の開港はギリギリの滑り込みだった。本来の開港予定は3月30日。ところが2日前に過激派グループが管制塔に乱入して機器を破壊し、やむなく約2か月延期となった末の、この5月20日だったのだ。開港当日も反対同盟と機動隊の衝突は続き、反対派が燃やした古タイヤの黒煙が空に立ちこめる中、新東京国際空港は産声を上げた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、飛行機そのものは夢だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;29か国の航空会社34社が乗り入れる、日本初の本格的な国際空港。テレビニュースの騒然とした映像の向こうに、なんとなく「外国」という輝きが透けて見えた気がした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ところで、このころの為替レートは1ドル300円前後だった。今は1ドル160円くらいでも「大変な円安だ！」と騒がれているが、300円というのはそれより倍もドル高な時代だ。そして振り返ってみれば、昭和から平成、令和と、時代はいつも「円高だ！」「円安だ！」と騒ぎ続けてきた。どうやら、為替というものはいつの時代も誰かを悲鳴させるようにできているらしい。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;笑点とサザエさんの間に流れたあの声&#34;&gt;笑点とサザエさんの間に流れたあの声&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;もうひとつは1984年（昭和59年）5月20日の話だ。大相撲の力士、高見山大五郎が引退を表明した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;日曜日の夕方といえば、私にとって「笑点」と「サザエさん」の時間だった。その間に流れてくる丸八真綿の布団CM。でんぐり返しからの「まるはーち！」、そしてあのしゃがれた声で「2枚、2枚！2倍、2倍！」。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;子どもたちは次の日、学校でこれを真似した。「2倍！2倍！」というキャッチフレーズは一躍ブームになり、子どもから芸人までが口真似をするほどだった。武家屋敷風の部屋に入ってきた高見山が布団に入り、最後に電気を消し忘れるというオチのバージョンもあった。ヒツジの着ぐるみをまとって「ジェシーの羊」（メリーさんの羊の替え歌）が流れるバージョンもあった。どれも、あの図体に似合わない愛嬌があふれていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ハワイ・マウイ島出身、本名ジェシー・ジェームス・ワイラニ・クハウルア。身長192センチ、体重205キロ。愛称「ジェシー」。彼は1968年に外国出身力士として初めて幕内に入り、1972年7月場所では外国人力士として史上初の幕内最高優勝を果たした。表彰式ではニクソン米大統領の祝電が読み上げられたというのだから、その注目度がわかる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただ、正直に言う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当時の私が「知っているお相撲さん」といえば、北の湖、輪島、貴ノ花、そして高見山だった。でも相撲中継で見る高見山の印象といえば……ほとんど負けていた記憶しかないのだ。突き落とされ、投げられ、土俵の外に転がり出ていく大きな背中。子ども心に「なんか強くないな、この人」と思っていた。高見山関、本当に申し訳ない（笑）。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん実際には、20年間土俵に立ち続けた鉄人だった。「40歳まで相撲を取りたい」「建設中の両国国技館で相撲を取りたい」という夢を胸に、怪我をおしながら出場を続けた。引退宣言は場所の途中、突然のことだった。千秋楽の最後の一番は黒星だったが、満員の観衆から大声援が降り注ぎ、花道に花束が舞った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「20年間、相撲を取り続けてきたことを誇りに思う」「生まれ変わっても力士になりたい」と彼は言った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和天皇がのちに「高見山がなぜ辞めたのかね」「残念だったろうな」と語られたと伝わっている。それを知らされた高見山は、「もったいないです、もったいないです」と涙を流したという。40歳まであと1か月。両国国技館の開場は翌1985年。どちらの夢も、わずかに届かなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、ジェシーは日本に残った。東関部屋を興し、やがて弟子の曙を横綱に育て上げる。彼の昭和は、引退の日に終わったわけではなかった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;5月20日。煙の中を飛行機が降りてきた日と、土俵を去った大男が泣いた日。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたは「まるはーち！」をまだ口から出せますか？&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-may-19/&#34;&gt;5月19日は「ボクシングの日」――ラジオ、テレビ、そしてネット配信。日本人はいつも世界チャンピオンに熱狂してきた&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-may-21/&#34;&gt;昭和の今日は何があった日？ ―― 5月21日、スカイライナーが走り出した朝&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
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