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    <title>東武東上線 on 昭和44年男</title>
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    <description>Recent content in 東武東上線 on 昭和44年男</description>
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      <title>6月8日 ── 新木場から川越へ、一本の線がつないでいた</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-june-08/</link>
      <pubDate>Mon, 08 Jun 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
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      <description>&lt;p&gt;梅雨入りの近い六月の朝。地上は今にも降り出しそうな鈍色（にびいろ）の空でも、地下鉄のホームへ降りてしまえば、雨も風も関係のない別世界がひろがっています。少しだけ埃（ほこり）っぽくて、生暖かい風がトンネルの奥からふわりと吹いてくる、あの感じ。きょう六月八日は、その地下鉄にまつわる、私のちょっと不思議な思い出の話をさせてください。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;私にとっての地下鉄は都営浅草線だった&#34;&gt;私にとっての「地下鉄」は、都営浅草線だった&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;私は京成高砂のあたりで育ちました。だから私にとって「地下鉄」というと、まっさきに思い浮かぶのは、都営地下鉄浅草線です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高砂の駅から電車に乗って出かけるとき、行き先にはおおきく二つの方向がありました。ひとつは、京成上野のほう。もうひとつは、押上を抜けて都営浅草線へと入っていく、浅草のほうです。同じ高砂発の電車でも、上野へ向かうときと、浅草方面へ向かうときとでは、子どもながらに、何か明らかに違うものを感じていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;上野方面が、どこか馴染みのある、地つづきの世界だとすれば、浅草方面は——その先で、ほかのいくつもの地下鉄の線と複雑に絡み合っている、「難しい」世界でした。日本橋だ、新橋だと、聞いたこともない乗り換えの駅がいくつも連なっていて、子どもの私には、その入り組んだ様子が、どうにも手に負えないものに見えたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、退屈はしませんでした。車両のなかに貼られた、いくつもの地下鉄の線が色とりどりに描かれた路線図。あれを眺めているだけで、目的の駅に着くまでの時間は、あっという間に過ぎていったのです。見たこともない駅の名前をひとつひとつ目で追いながら、「ここには、いったいどんな町があるのだろう」と、私は飽きもせず想像をふくらませていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;色とりどりの路線が交差する東京メトロの運賃表。あの頃の車内にも、こんな地図が貼られていた。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/tokyo-metro-faremap.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いま思えば、そんな路線図の中に、あの黄色い線も、きっとあったはずです。行ったこともなければ、乗ったこともない。ただ眺めて、その先の町を空想するだけの、一本の線として。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;昭和六十三年六月八日黄色い線が全部つながった&#34;&gt;昭和六十三年六月八日、黄色い線が全部つながった&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;その黄色い線が、ついに端から端までひとつながりになったのが、昭和六十三年（一九八八年）の六月八日でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この日、営団地下鉄有楽町線の新富町〜新木場間が開業し、和光市から新木場までの全線、二十八・三キロが開通したのです。昭和四十九年（一九七四年）に池袋〜銀座一丁目の区間が開業してから、実に十四年越しの全線開通でした。ラインカラーは、あの黄色。湾岸の埋め立て地・新木場までが、一本の線でようやく都心と結ばれた瞬間でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;有楽町線を走っていた7000系電車。黄色いラインカラーが、あの路線図の「黄色い線」そのものだった。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/yurakucho-line-7000.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そういえば、この「有楽町線」という名前そのものが、公募で決まったものだと知ったのは、ずっとあとのことでした。開業の前の年、営団地下鉄が路線名を広く一般から募ったところ、二千五百を超える案、三万通あまりもの応募が寄せられたのだそうです。そのなかでいちばん多かったのが「有楽町線」だった。子どものころ、あの黄色い線をただ眺めていた私には、線の名前ひとつにも、どこかの誰かの「こう呼びたい」という思いがこもっていたなんて、思いもよらないことでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;終点の「新木場」という地名も、考えてみれば面白いものです。もともと江東区には材木商が集まる「木場」という街がありました。その木材の街が、手狭になった都心から湾岸の埋め立て地へと移ってできたのが「新しい木場」、すなわち新木場なのです。当時はまだ、貯木場の水面と倉庫が広がる、発展のこれからという土地でした。そこへ地下鉄が一本通った。海の近くの埋め立て地にまで、都心の地下鉄が手を伸ばしてきたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このとき、私は十九歳。昭和という時代も、いよいよ最後の年に差しかかっていました。正直に言えば、私はこのニュースを、たいして気に留めていませんでした。都営浅草線には親しんでいた私にとっても、有楽町線は、子どものころ車内の路線図でただ眺めていた、あの「行ったこともない一本」のままだったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そしてこの黄色い線には、もうひとつ、私がのちのち驚かされることになる仕掛けがありました。西の端の和光市では、東武東上線と線路がつながっていて、電車はそのまま相手の線へと乗り入れていく。新木場を出た電車が、乗り換えなしで、はるか埼玉の森林公園のほうまで走っていくのです。この「乗り換えなし」という何でもない事実が、それから十数年後、思いがけず私の胸を打つことになります。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;新木場で気づいた母へ続く一本の線&#34;&gt;新木場で気づいた、母へ続く一本の線&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;時は流れ、私は三十代になっていました。縁あって佐川急便に勤め、配属されたのが、よりによって、あの新木場の営業所だったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう、昭和六十三年にようやく全線がつながった、あの有楽町線の終着駅です。十九歳の私が聞き流していた街に、まさか自分が毎日通うことになるとは、思ってもみませんでした。荷物に追われる日々のなかで、新木場という地名が、かつてニュースで聞いた「全線開通」の終点だったことなど、すっかり忘れていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;朝早くから、トラックが何台も出入りし、伝票の束と荷物の山に追われる毎日でした。湾岸の埋め立て地は海の風が強く、冬はことさら冷えました。それでも昼休みにふと外へ出ると、すぐそこまで水辺が迫っていて、ここはやっぱり海を埋め立ててできた街なのだな、と妙に納得したものです。子どものころ路線図の上で眺めていた「新木場」という三文字の終点に、まさか自分が毎朝、汗をかきながら立っているとは——人生というのは、つくづく分からないものです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ある日のこと。新木場駅に掲示されていた路線図を、何の気なしに眺めていて、私はふと手が止まりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「この線……一本で、川越まで行けるのか」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当時、母は川越に住んでいました。新木場から有楽町線に乗れば、和光市で東武東上線へとそのまま乗り入れ、川越まで、乗り換えなしでたどり着いてしまう。あの、子どものころ車内の路線図で眺めては「どんな町だろう」と空想していた黄色い線の、ずっと先に、母の暮らす街がつながっていた。気づいた瞬間、胸の奥が、ふっと温かくなったのを覚えています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実際に私は、数えるほどではありますが、仕事を終えたその足で、職場から川越の母のもとへ向かったことがあります。東京湾の埋め立て地にある終着駅と、小江戸と呼ばれる川越の母の家。一見すると何の関わりもない二つの場所が、一本の黄色い線でまっすぐに結ばれている。揺られていく車内で、私は妙な感慨にとらわれていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;窓の外を流れていく景色が、地下のトンネルから、やがて地上の住宅街へと変わっていく。海辺の終着駅を出た電車が、いつのまにか埼玉の街並みを走っている。その車窓の移り変わりそのものが、新木場と川越という遠く離れた二つの場所が、確かにひと続きの土地なのだと、目で教えてくれているようでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;十九歳のとき、私が気にも留めなかったあの全線開通。それが巡り巡って、三十代になった私と、母とを結ぶ一本の道になっていた。子どものころ車内の路線図を眺めて「どんな町だろう」と空想していた黄色い線は、ずっと先のずっと先で、ちゃんと私自身の暮らしへとつながっていたのです。眺めるだけだったあの線に、いつのまにか私は、毎日乗っていた。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;令和の電車はもっと遠くまでつながっている&#34;&gt;令和の電車は、もっと遠くまでつながっている&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;あれから、東京の鉄道は、ますます複雑に、そして遠くまでつながりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いくつもの路線が互いに乗り入れ、横浜のずっと向こうから都心を抜け、さらに別の県へと、一本の電車が県境をいくつも越えて走っていく。今では、それが当たり前の風景です。手元のスマートフォンに行き先を打ち込めば、最短の経路が一瞬で表示される。乗り換えの回数も、何分後に着くかも、すべて画面が教えてくれます。私の子どもたちは、私のように路線図とにらめっこして、見知らぬ駅名に空想をふくらませることも、もうないのかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;便利になったぶん、あの新木場での小さな驚き——「この線、母までつながっていたのか」というあの感覚は、いまではかえって味わいにくくなった気もします。経路を教えてくれる矢印は、たしかに便利です。けれど、地図の上の一本の線が、いつのまにか自分の大切な人へとまっすぐ続いていたと気づく、あの胸の奥がふっと温かくなる驚きまでは、運んできてはくれないのですから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;地図の上のただの一本の線が、めぐりめぐって、自分の大切な人へとつながっている。そんなことに気づく瞬間が、人生にはときどき、ふいに訪れるのですね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたの暮らしの地図にも、知らないうちに、誰かと自分とを結んでいた「一本の線」は、ありませんか？&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;「昭和の今日は何があった日？」は昭和40〜64年（1965〜1989年）の出来事を、子ども目線で掘り起こすエッセイシリーズです。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
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