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    <title>葛飾区 on 昭和44年男</title>
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    <description>Recent content in 葛飾区 on 昭和44年男</description>
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    <lastBuildDate>Wed, 10 Jun 2026 12:00:00 +0900</lastBuildDate>
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      <title>ドライブシュートだぁぁぁ ― ワールドカップ前夜に、四つ木と『キャプテン翼』を思う</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/captain-tsubasa-yotsugi-run/</link>
      <pubDate>Wed, 10 Jun 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
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      <description>&lt;h2 id=&#34;明日ワールドカップが開幕する&#34;&gt;明日、ワールドカップが開幕する&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;明日、二〇二六年六月十一日。北中米の三か国――アメリカ、カナダ、メキシコを舞台に、ワールドカップが開幕する。三つの国にまたがって行われるのは大会史上はじめてのことで、出場国はこれまでで最多の四十八か国にまでふくらんだ。開幕戦の地は、メキシコシティ。あの伝説的なスタジアム、エスタディオ・アステカに、世界中の目が集まる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、私たちの日本代表も、当然のようにそこにいる。八大会連続、八度目の出場である。グループステージの初戦も、開幕からほんの数日後に控えている。眠い目をこすりながら、夜中や明け方にテレビの前に陣取る――そんな夏が、また始まろうとしている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;――「当然のように」と書いて、ふと手が止まった。本当に、当然なのだろうか。少なくとも私が少年だったころの日本にとって、ワールドカップという舞台は、月の裏側のように遠い、手のとどかない場所だった。テレビの中の、よその国のお祭りだった。それが今では、出ていることに誰も驚かない。この四十年あまりで、私たちはずいぶん遠くまで来たものだと思う。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;野球少年がボールを持ち出した日&#34;&gt;野球少年が、ボールを持ち出した日&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;時間を、その四十年あまり巻き戻したい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一九八三年（昭和五十八年）十月十三日。木曜日の夜、テレビ東京系で一本のアニメがはじまった。『キャプテン翼』である。原作はその二年前から週刊少年ジャンプで連載がはじまっていたが、動いて、しゃべって、必殺シュートを放つ翼くんたちを茶の間で見たときの衝撃は、今もはっきりと覚えている。汗くさい根性ものとはまるで違う、明るくて、爽やかで、空までボールが飛んでいきそうな世界だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そのとき私は十四歳、中学二年生。野球一筋の、バリバリの野球少年だった。バットを振り、白球を追うことしか頭になかった少年が、たった一本のアニメに足もとをすくわれた。サッカーである。野球少年でありながら、私はすっかりサッカーに夢中になってしまった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;思えば、あの作品にはずるいくらいの魅力があった。重力を無視したようなドライブシュート、二人で放つツインシュート、そして地を這うようなタイガーショット。スポーツの「正しさ」よりも、少年の「こうだったらいいのに」を真ん中に置いた世界。野球で鍛えた負けん気が、そっくりそのままサッカーへ流れ込んでいくのに、時間はかからなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;困ったのは、サッカーボールなど持っていなかったことだ。そこで私は、部活が終わったあと、こっそりと学校のサッカーボールを持ち出した。そして帰り道の途中にある空き地で、野球のユニフォーム姿のまま、ボールを蹴った。胸には野球部の誇り、足もとには翼くんへの憧れ。今思えば、なんともちぐはぐな格好だったろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも、私は本気だった。あるときは大空翼になり、あるときは岬太郎になり、あるときはライバルの日向小次郎になりきった。「ドライブシュートだぁぁぁ……！」と叫びながらボールを蹴り上げ、「タイガーショット!!」と、一人で実況までつけた。極めつけは帽子だ。野球少年のくせに、私はゴールキーパー・若林源三と同じアディダスの帽子をかぶっていた。野球帽ではなく、である。あのころの私の頭の中では、グラウンドとサッカー場の境目が、もう溶けてなくなっていたのだと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そしてこれは、私だけのことではなかったはずだ。あの放送がはじまってから、全国の公園や空き地は、ボールを追う少年たちであふれかえった。それまで野球少年ばかりだった日本の原っぱの景色を、一本のアニメが塗り替えてしまったのだ。今の日本サッカーの土台には、あのとき足もとを変えられた、数えきれない少年たちがいる。私も、その末席に、確かにいた。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;翼くんは葛飾の子だった&#34;&gt;翼くんは、葛飾の子だった&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;大人になってから知って、思わず膝を打ったことがある。『キャプテン翼』の作者・高橋陽一先生が、私の暮らす葛飾区の、それも四つ木の出身だということだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;作中で翼くんが所属するチーム「南葛」。この名前は、高橋先生の母校である東京都立南葛飾高校の略称からきているという。物語の舞台そのものはサッカー王国・静岡をイメージしているそうだが、その名前のルーツは、まぎれもなく、私たちの葛飾にあったのだ。テレビの向こうのまぶしい世界が、実はすぐ隣町とつながっていた。そう知ったときの、くすぐったいような誇らしさは、今でもうまく言葉にできない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;京成四ツ木駅は、翼くんたちの名場面で染め上げられた「キャプテン翼の駅」だ。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/tsubasa-9449.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その縁もあって、今の四つ木界隈は、すっかり「キャプテン翼の街」になっている。京成電鉄の四ツ木駅は翼くんたちの名場面で彩られ、駅を出れば、高橋先生監修のキャラクター銅像が、四つ木・立石の各所に九体も点在している。最初の大空翼像が四つ木つばさ公園にお披露目されたのが二〇一三年。地元には作中と同じ名を冠したサッカークラブ「南葛SC」も生まれ、毎年一月には「キャプテン翼CUPかつしか」という大会まで開かれている。漫画の中の南葛が、現実の葛飾の街へと、ゆっくり染み出してきたようなものである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;「ようこそ！！キャプテン翼ゆかりの地 葛飾」― シュートを放つ翼が、訪れる人を迎える。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/tsubasa-9462.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;九体の銅像を走って巡った&#34;&gt;九体の銅像を、走って巡った&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;そして今日、二〇二六年六月十日。ワールドカップ開幕の前日に、私は仕事の休憩時間を使って、九体すべてをランニングで巡ってきた。名づけて「キャプテン翼銅像コンプリートラン」。総距離は、およそ七キロである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;出発は、翼くんたちの装飾でいろどられた京成・四ツ木駅。駅前のポケットパークに立つ石崎了から走り出し――&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;石崎了。「ボ、ボールを持ってどこへ行く！」と聞こえてきそうな、あの表情で立っていた。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/tsubasa-9450.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;四つ木公園の日向小次郎、&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;日向小次郎。タイガーショットを放つ前の、あの闘志みなぎる構えで。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/tsubasa-9451.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;四つ木つばさ公園の大空翼、&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;大空翼。人差し指を天に向けて。「ボールは友達」と言いながら、頂点を目指すあの眼差し。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/tsubasa-9453.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;めだかの小道のロベルト本郷と翼――このあたりは住宅街で信号も少なく、足が気持ちよく前へ出た。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;ロベルト本郷と翼のツーショット像。師匠と弟子の物語の原点が、ここにある。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/tsubasa-9454.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;葛飾郵便局前の中沢早苗、&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;中沢早苗。女子サッカーの草分け的な存在として、翼とともにボールを蹴り続けた。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/tsubasa-9455.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;渋江公園の岬太郎を過ぎると、道はいよいよ立石エリアへ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;岬太郎。翼の相棒として、あの「スカイラブハリケーン」を二人で放った永遠のパートナー。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/tsubasa-9456.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;下町の商店街の匂いの中を進み、立石みちひろばで若林源三と再会したときには、思わず足が止まった。中学のころ、野球少年のくせに、わざわざ同じアディダスの帽子をかぶっていた、あの守護神である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;若林源三。中学時代、私が同じアディダスの帽子をかぶって真似していた、鉄壁の守護神。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/tsubasa-9457.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして奥戸街道を東へ。最後にたどり着いたゴールは、南葛飾高校の前に立つ、ツインシュートの翼像だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;南葛飾高校前のツインシュート像。「南葛」の名前が生まれた場所に、翼は立っていた。&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/tsubasa-9460.jpg&#34;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;走り終えて、はっとした。出発点は翼くんの装飾に包まれた駅、そして終着点は、「南葛」という名前そのものが生まれた高校の前。私はこの七キロで、知らず知らずのうちに、物語の名前の故郷まで走り着いていたことになる。よくできた円環だと、一人で妙に感心してしまった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;走りながら、おかしくなって、つい笑ってしまった。四十年あまり前、放課後の空き地まで、こっそり持ち出したサッカーボールを抱えて走っていったあの少年が、今は仕事の合間に、同じ葛飾の路地を、銅像を追いかけて走っている。格好こそ違え、やっていることはちっとも変わっていない。翼くんに会いに行くためなら、私はいつだって走り出してしまうらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの空き地で、私が一人何役もこなして「なりきって」いた翼も、岬も、小次郎も若林も、今は確かなかたちを与えられて、私の暮らす町に立っている。憧れて真似していたヒーローたちの足もとに、五十代も半ばを過ぎた私が、息を切らせて立つ。なんだか、長い夢の続きの中を走っているような心地だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その『キャプテン翼』も、二〇二五年の春、四十三年にわたる長い連載に幕を下ろした。私が中学二年で出会った翼くんは、私が還暦を前にするまで、ずっとどこかで走り続けていたことになる。今日、銅像となって動かない翼くんの前に立っても、不思議と「終わった」という感じはしなかった。むしろ、ここから先はきみたちを見てきた私たちが走る番だ、とでも言われているような気がした。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&#34;ワールドカップというかつての夢のゴール&#34;&gt;「ワールドカップ」という、かつての夢のゴール&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;最初の翼像の除幕式で、高橋先生はこんなことを語っていたという。この作品のゴールは、大空翼がワールドカップの舞台に立ち、そこで活躍することだ、と。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このひとことに、私はしばらく胸を掴まれた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;考えてみてほしい。翼くんがテレビの中を駆け回っていたあのころ、現実の日本代表は、ワールドカップに一度も出たことがなかった。ワールドカップで活躍することなど、漫画の中だけの、それこそ翼くんの夢物語だったのだ。空き地でドライブシュートを蹴っていた野球少年の私も、まさか自分が生きているうちに、日の丸を背負った選手たちが本当にあの舞台に立つ日が来るとは、想像もしていなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それが、どうだろう。今や日本代表は八大会連続の出場を果たし、選手たちは「ワールドカップ優勝が目標」と、ためらいなく口にする。そして私たち国民も、「もしかしたら」と、本気で期待してしまう時代になった。翼くんがひたむきに追いかけた夢のゴールに、現実のほうがいつのまにか追いつき、いまや肩を並べ、追い越そうとさえしている。漫画が現実の先を走り、現実が必死にそれを追いかけ、そしてとうとう手が届いた。これは、本当に、すごいことだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;明日、開幕の笛が鳴る。テレビの前に座るとき、私はきっと、今日めぐった九体の銅像を――そしてその向こうに、あの空き地で、野球のユニフォームのままボールを蹴っていた十四歳の自分を思い出すだろう。「ドライブシュートだぁぁぁ……！」と、誰もいない原っぱで叫んでいた、あの少年を。あの少年に、教えてやりたい。きみが夢中で真似していたあの夢物語は、いつか本物になるんだよ、と。そして四十年あまり経っても、きみはやっぱり、翼くんを追いかけて走っているよ、と。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたには、サッカーにまつわる「あのころの夢」が、ありますか。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;コースガイドキャプテン翼銅像コンプリートラン約7km&#34;&gt;【コースガイド】キャプテン翼銅像コンプリートラン（約7km）&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;最後に、今日走ったコースを記しておきます。葛飾の下町を巡りながら、翼くんたちに会える約7キロ。走ってみたい方は、ぜひ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;strong&gt;スタート：京成四ツ木駅&lt;/strong&gt;（駅前のラッピング・翼の装飾を見てから出発）&lt;/p&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;&lt;strong&gt;① 石崎了像&lt;/strong&gt; ― 四ツ木駅前ポケットパーク（駅から徒歩1分）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;strong&gt;② 日向小次郎像&lt;/strong&gt; ― 四つ木公園（平和橋通りを北へ／約300m）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;strong&gt;③ 大空翼像&lt;/strong&gt; ― 四つ木つばさ公園（北東方向へ／約450m）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;strong&gt;④ ロベルト本郷＆翼像&lt;/strong&gt; ― めだかの小道（木根川中央公園方向へ／約500m）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;strong&gt;⑤ 中沢早苗像&lt;/strong&gt; ― 葛飾郵便局前（約350m）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;strong&gt;⑥ 岬太郎像&lt;/strong&gt; ― 渋江公園（平和橋通り方向へ／約900m）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;strong&gt;⑦ 翼〈ヒールリフト〉像&lt;/strong&gt; ― 立石一丁目児童遊園（約800m）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;strong&gt;⑧ 若林源三像&lt;/strong&gt; ― 立石みちひろば（京成立石駅方面へ／約900m）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;strong&gt;⑨ 翼〈ツインシュート〉像&lt;/strong&gt; ― 南葛飾高校前（奥戸街道を東へ／約1.3km）&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;p&gt;&lt;strong&gt;ゴール！&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>パクパクと、東京のゴミと――昭和の5月22日</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-22/</link>
      <pubDate>Thu, 21 May 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
      <guid>https://showa44man.com/posts/showa-may-22/</guid>
      <description>&lt;p&gt;5月22日。私にとってこの日付は、黄色い丸い生き物と、東京じゅうに積み上がったゴミの山という、まったく違う二つの光景が重なる日だ。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;パクパクが迷路を走り出した日&#34;&gt;「パクパク」が迷路を走り出した日&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;昭和55年（1980年）5月22日、渋谷のゲームセンターに一台の筐体が置かれた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;黄色い丸がパクパクとエサを食べながら迷路を走り、赤・ピンク・青・オレンジの4匹のモンスターから逃げる。ゲームの名前は『パックマン』。ナムコが送り出したそのゲームが、のちに世界を席巻することになるとは、だれも思っていなかっただろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;パックマン筐体（名古屋市博物館、2020年）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/pacman-nagoya.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;Photo by inunami / &lt;a href=&#34;https://creativecommons.org/licenses/by/2.0/&#34;&gt;CC BY 2.0&lt;/a&gt;&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当時、ゲームセンターはスペースインベーダーの衝撃がまだ冷めやらない頃だった。エイリアンを撃つ、戦車を撃つ。アーケードというのは「撃つ」場所だった。ところが、パックマンには敵を攻撃する要素がない。ひたすら「食べて逃げる」だけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;開発者の岩谷徹氏は「アーケードは暴力的なゲームであふれていた。エイリアンをやっつけるような内容のものばかりだった」と振り返る。だからこそ、違うものを作りたかった。食べることをテーマにした、やわらかいゲームを。パックマンという名前も、物を食べる時の「パクパク」という日本語の擬態語から生まれた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私がパックマンをはじめて目にしたのは、あの安い倉庫みたいなゲームセンターだったと思う。30円か50円のコインを握りしめて薄暗い店内に入ると、ブラウン管の光の中でそのまるっこい黄色い顔が笑っていた。レバーを4方向に倒しながら迷路を走る感覚は、それまでのシューティングゲームとはまるで違っていた。「逃げる」という体験が、あんなに面白いとは知らなかった。&lt;/p&gt;
&lt;h3 id=&#34;敵にはそれぞれ性格があった&#34;&gt;敵には、それぞれ「性格」があった&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;ゲームに夢中になりながら、私たちは気づかないうちにある不思議を感じていたはずだ。「なんか敵が生きてるみたいだな」と。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実は4匹のモンスターには、それぞれ個性が設計されていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;赤の「アカベイ」はパックマンをしつこく追いかけてくる。ピンクの「ピンキー」は追いかけるのではなく、パックマンの進行方向の先へ先回りする。水色の「アオスケ」は気まぐれな動きをして、どこへ来るか読みにくい。オレンジの「グズタ」はパックマンに近づきすぎると急にふらふらと離れていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これは「個性のある敵キャラクター」という発想の、世界でも最初期の試みだった。今でいえばAIのような概念が、1980年という時代にすでに迷路の中に息づいていた。「追う」「先回り」「気まぐれ」「迷う」という4つの行動パターンが絡み合うことで、迷路の中の戦況は毎回違う顔を見せた。それが「なんか生きてる感じ」の正体だったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今から46年前のゲームが、現代のAI技術にも通じる考え方を持っていたとは、当時の子どもだった私には想像もできなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;パックマンには迷路を攻略するパターンがあり、友達の間で「このルートで行けば5面まで死なない」という攻略法が口伝えに広まった。放課後のゲームセンターで真剣に迷路を走る子どもたちの後ろに人だかりができる。そんな光景が各地であったはずだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;1980年から7年間で総販売台数は約29万台を超え、「最も成功した業務用ゲーム機」としてギネス・ワールド・レコーズにも認定された。あの黄色い丸が初めて走り出したのが、昭和55年の今日だったとは、当時は知るよしもなかった。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;h2 id=&#34;東京がゴミ戦争を戦っていた日&#34;&gt;東京が「ゴミ戦争」を戦っていた日&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;もうひとつ、この5月22日には忘れられない出来事がある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和48年（1973年）5月22日、東京・江東区が杉並区のゴミ搬入を実力で阻止した日だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「東京ゴミ戦争」という言葉は、正直なところ、私の記憶にない。当たり前といえば当たり前で、昭和48年の私はまだ4歳だった。怒鳴り合うニュース映像もわかるはずがない。それでも、この出来事を調べていたとき、ふと頭に浮かんだ光景があった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;葛飾区・水元のあの温水プールだ。&lt;/p&gt;
&lt;h3 id=&#34;社会科見学とゴミを燃やす熱&#34;&gt;社会科見学と、ゴミを燃やす熱&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;小学4年生、昭和54年ごろのことだ。葛飾区の小学生は「社会科見学」で水元の葛飾清掃工場を訪れた。職員の方に焼却炉の仕組みを教えてもらい、ゴミを燃やした時に出る熱が蒸気となって、隣接する施設のプールを温めていると聞いた。「ゴミの熱でプールが温かくなる」という話は、10歳の子どもにも妙に印象深く残った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;見学のあと、友達とそのプールでばちゃばちゃと泳いだ。余熱利用の仕組みは頭に入っていたけれど、それがどんな歴史の流れの上にあるのかまでは、もちろんわかっていなかった。&lt;/p&gt;
&lt;h3 id=&#34;自分のゴミは自分で処理せよ&#34;&gt;「自分のゴミは自分で処理せよ」&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;ゴミ戦争のあらましはこうだ。江戸時代から現代まで、東京のゴミを受け入れてきた土地が江東区だった。昭和40年代の大量消費社会でゴミが激増すると、江東区の「夢の島」はハエやネズミが大量発生する悪臭の島と化した。東京都は各区に清掃工場を建設して「自区内処理」を推進しようとしたが、杉並区では住民の反対で建設計画が何度も頓挫した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;杉並区で5月21日に反対派による流会が起きたため、江東区では翌5月22日、杉並区のゴミ搬入を実力阻止した。東京都清掃労働組合も連帯してボイコットし、杉並区内のゴミ収集は止まった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;自分たちのゴミを処理する施設を「うちには要らない」と拒み続けた結果、区内にゴミの山が積み上がる。この対立は全国ニュースとなり、「自分のゴミは自分の区で処理する」という原則が東京じゅうで問い直された。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img alt=&#34;夢の島（1989年・航空写真）&#34; loading=&#34;lazy&#34; src=&#34;https://showa44man.com/images/yumenoshima-1989.jpg&#34;&gt;
&lt;em&gt;東京・江東区の夢の島。かつてゴミで埋め立てられた島は、現在は公園として整備されている。／国土交通省 国土地理院「国土画像情報（カラー空中写真）」&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;h3 id=&#34;あの夏のプールと歴史の線&#34;&gt;あの夏のプールと歴史の線&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;その問い直しの流れが、東京各区の清掃工場整備を加速させた。葛飾区も例外ではなかった。工場が整備されれば、その焼却熱を地域に還元しようという発想が生まれる。余熱は蒸気となり、隣接する施設のプールを温める。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私が友達と泳いだあの水元のプールは、その歴史的な流れの終着点のひとつだったのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「東京ゴミ戦争」→「自区内処理の推進」→「各区の清掃工場整備」→「余熱利用施設（温水プール）の設置」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;社会科見学でその仕組みを教わっていたのに、どうしてその工場ができたのか、なぜ余熱利用という発想が生まれたのか、その背景まで考えたことは一度もなかった。4歳の私には届かなかったニュースが、10歳の私をプールで泳がせていたとは。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;昭和55年5月22日、黄色い丸が東京の繁華街に生まれた日。
昭和48年5月22日、東京じゅうのゴミの置き場をめぐって大人たちが怒鳴り合った日。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;子どもには見えなかったことが、50年近く経ってようやくつながる。歴史の線は、いつもあとから引かれるものらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あなたの子ども時代に「あれはそういうことだったのか」と気づいた出来事は、何かあるだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;「昭和の今日は何があった日？」は、昭和40年〜64年のできごとを、ひとつひとつ掘り起こしていく連載です。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;em&gt;▼ 昭和の今日は何があった日？（前後の記事）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;◀ 前の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-may-21/&#34;&gt;昭和の今日は何があった日？ ―― 5月21日、スカイライナーが走り出した朝&lt;/a&gt;　｜　次の記事：&lt;a href=&#34;https://showa44man.com/posts/showa-may-23/&#34;&gt;昭和の今日は何があった日？ ～5月23日～&lt;/a&gt; ▶&lt;/p&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>昭和の今日は何があった日？ ―― 5月21日、スカイライナーが走り出した朝</title>
      <link>https://showa44man.com/posts/showa-may-21/</link>
      <pubDate>Wed, 20 May 2026 10:00:00 +0900</pubDate>
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      <description>昭和53年5月21日、スカイライナーが走り出した。成田空港の開港はまだ遠い話だったが、目の前の踏切を轟音とともに通り過ぎていくあの列車は、10歳の私にとって「新幹線」と同じくらい誇らしいものだった。</description>
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