【昭和の今日は何があった日?】5月4日──ラムネと予言と、休日になった日

今日は5月4日。 ゴールデンウィークも終盤だ。昭和の子どもにとって、この日は少し不思議な日だった。 5月3日(憲法記念日)と5月5日(こどもの日)という2つの祝日に挟まれながら、昭和60年(1985年)より前の5月4日は、正式な祝日ではなかった。学校は休みのこともあれば、そうでないこともある。なんとも宙ぶらりんな日付だ。 そんな5月4日に、昭和の時代に起きた3つの出来事を掘り起こしてみたい。 その一 ラムネの誕生──明治5年(1872年)5月4日 まず一つ目は、昭和より遥か昔の話だが、昭和の子どもの夏に欠かせないものの誕生秘話だ。 ラムネ。 瓶の口にビー玉が詰まった、あの独特の飲み物。昭和の縁日や駄菓子屋に必ずあって、暑い日に飲む一杯はなんとも言えない爽快感があった。 明治5年(1872年)の5月4日、東京の実業家・千葉勝五郎が、ラムネの製造販売の許可を取得した。中国人のレモン水製造技師を雇って製法を学んだというから、当時としては相当な苦労があったはずだ。 「ラムネ」という名前の由来は「レモネード」だ。外来語が日本人の口の中でなまって「レモネード→ラムネード→ラムネ」と変化していった。そのラムネが日本で正式に製造・販売できるようになったのが、この5月4日だった。 昭和の子どもには、ラムネの飲み方に一つの作法があった。瓶の口にあるビー玉を、付属の押し込み棒でグッと押し下げる。シュワッと炭酸が抜ける瞬間の音と感触。そして飲みながらビー玉がコロコロと転がる感覚。飲み終わった後、瓶を割ってビー玉を取り出そうとした子どもも少なくないはずだ。 明治の夏に生まれたあの飲み物は、昭和の子どもの夏にも確かに生きていた。 その二 「1999年に人類は滅亡する」──昭和48年(1973年)のあの予言 次は少し違う話。昭和の子どもが「怖かった」ものの話だ。 昭和48年(1973年)、一冊の本が日本中を震撼させた。 五島勉著『ノストラダムスの大予言』。 16世紀のフランスの占星術師・ノストラダムスが書いた詩集の中に、「1999年7の月、空から恐怖の大王が降ってくるだろう」という一節がある。五島勉はこれを「人類滅亡の予言」と解釈し、発売するやいなや250万部を超えるベストセラーになった。 昭和48年といえば、オイルショックが起きた年だ。トイレットペーパーが店頭から消え、将来への漠然とした不安が社会全体を覆っていた。そういう時代の空気の中に、「1999年に世界が終わる」という予言が飛び込んできたのだから、信じてしまった人が多かったのも無理はない。 そして怖かったのは、大人だけではなかった。 5月4日はノストラダムスの命日(1566年)でもある。「ノストラダムスの日」と呼ばれるのもそのためだ。 昭和50年代の子どもたちは、この予言を本気で信じていた。教室で回し読みされ、「27歳で死ぬんだ」と本気で思っていた子もいたという。携帯電話もインターネットもない時代、「本に書いてあることは全て事実」という感覚があった。怖いけれど、手放せない。昭和の子どもたちにとって、ノストラダムスの大予言はそういう存在だった。 1999年、予言は外れた。世界は続いた。 あの恐怖は、いったい何だったのだろう。今となっては少し可笑しいような、でもあの頃の本気の怖さは確かに本物だったような──そんな不思議な記憶として残っている。 その三 GWがひとつながりになった日──昭和60年(1985年) 最後は、ゴールデンウィークの話だ。 昭和60年(1985年)12月27日、祝日法が改正された。これにより、「国民の祝日に挟まれた日は、たとえ祝日でなくても休日とする」というルールが生まれた。 この法改正が実質的に意味していたのは、5月4日を休日にすることだった。 それまでの5月4日は、曜日によって休みになったりならなかったりする、なんとも不安定な日だった。3日が憲法記念日、5日がこどもの日という2つの祝日に挟まれながら、4日だけが取り残されていた。その「谷間」を埋めようというのが、この法改正の目的だった。 制度自体は昭和60年末から始まったが、翌年・翌々年の5月4日はそれぞれ日曜と月曜だったため、実際に「国民の休日」として最初に機能したのは**昭和63年(1988年)**のことだ。 こうして昭和の終わりごろ、ゴールデンウィークはようやく4月29日から5月5日まで途切れなくつながるようになった。 昭和の子どもが大人になる頃に、ようやく手に入った長い連休。あの法改正がなければ、今のゴールデンウィークの感覚はなかったかもしれない。 おわりに 5月4日という日に、こんな3つの昭和の断片がある。 明治に生まれて昭和の子どもの夏を彩ったラムネ。昭和の子どもが本気で怖れた世界の終わり。そして、GWをひとつながりにした法改正。 ゴールデンウィークの残り一日、どこかでこの日のことを思い出してもらえたら嬉しい。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月3日──今日はリカちゃんの誕生日 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月5日──屋根より高い鯉のぼりと、銭湯帰りのコーヒー牛乳 ▶

May 3, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月3日──今日はリカちゃんの誕生日

今日は5月3日、憲法記念日だ。 昭和の子どもにとって、この日はゴールデンウィークのど真ん中にある「なんとなく地味な祝日」という印象だったかもしれない。5月4日は当時まだ祝日ではなく平日だったから、翌日のことが少し気になる、そんな中途半端な位置にある休日だった。 でも、昭和42年(1967年)に誕生したある人形にとって、5月3日は特別な日だ。 リカちゃんの、誕生日。 公式プロフィールによれば、香山リカ、11歳、牡牛座。誕生日は5月3日。ゴールデンウィークのこの日に生まれた、という設定になっている。 醤油工場から生まれた、日本の女の子の夢 リカちゃんが最初に店頭に並んだのは、昭和42年(1967年)の夏のことだ。当時の価格は1体600円から、中心価格は750円。今の感覚では安く聞こえるが、昭和40年代の750円は子どもがそう簡単に手が出せる金額ではなかった。 それでも女の子たちは夢中になった。 リカちゃんが生まれた背景には、少し意外な話がある。もともとタカラは、アメリカのバービー人形を入れるための「キャリングケース」を作ろうとしていた。ところが、バービーのサイズに合わせてドールハウスを作ると、日本の住宅事情では大きすぎて置けない。それならいっそ、日本の子どもの手の平に収まるサイズの、日本独自の着せ替え人形を作ってしまおう──そういう発想の転換から、リカちゃんは生まれた。 身長21センチ。少女漫画のヒロインのような大きな目。そして「小学5年生」という、遊ぶ子どもたちと近い年齢設定。当時のバービーやタミーちゃんとは明らかに違う、日本の女の子のための人形だった。 初代リカちゃんが作られた工場の話が、また面白い。発売当初はまだ専用の製造工場が整っておらず、千葉県のある醤油工場が生産を引き受けたのだという。醤油を作っていた工場の近所の主婦たちが急遽集められ、約1ヶ月間、顔の描き方や植毛の技術を猛特訓した。そのため初代リカちゃんの顔は手描きで、右利きの人が描きやすいように、目線が少し左を向いているのだ。 醤油の香りが漂う工場で、昭和の主婦たちが一体一体手で描いた。あの流し目は、そんな場所から生まれていた。 「リカちゃんはいますか?」 発売の年、タカラの電話に一本の電話がかかってきた。 「リカちゃんはいますか?」 小さな女の子からの電話だった。受けた女性社員は、子どもの夢を壊してはいけないと思い、とっさにこう答えた。「こんにちは、私がリカよ」。 女の子は大喜びした。その話が口コミで広がり、「リカちゃんと直接話せる」という噂が日本中の女の子の間に伝わっていった。問い合わせの電話が殺到し、やがてタカラは専用回線を設けた。翌年、昭和43年(1968年)には「リカちゃんでんわ」が正式にスタートした。 リカちゃんの声を担当したのは声優の杉山佳寿子さん。アルプスの少女ハイジなどでも知られるこの人が、1997年まで実に30年間、リカちゃんの声を演じ続けた。 昭和の女の子たちは、本当にリカちゃんと話せると信じていた。そしてその電話の向こうに、30年間、同じ声が響き続けていた。 昭和の女の子が「なりたかった自分」 リカちゃんが他の人形と決定的に違ったのは、プロフィールがあったことだ。 名前は香山リカ。苗字は女優の香山美子と加山雄三から取られた。パパはフランス人の音楽家で、ママは日本人のファッションデザイナー。国際的でおしゃれな家族設定は、昭和40年代の女の子たちにとって憧れそのものだった。 人形に名前があり、家族がいて、誕生日がある。まるで本物の友達のように扱えるこの設計が、日本の子どもたちの心をつかんだ。発売からわずか2年後の昭和44年(1969年)には、それまでトップだったアメリカのバービー人形を売上で追い抜いた。 昭和を通じて、リカちゃんは何度もモデルチェンジを繰り返した。昭和47年に2代目、昭和57年に3代目、昭和62年に4代目。それぞれの時代の女の子の「こうありたい」という姿を、リカちゃんは少しずつ形を変えながら反映し続けた。 累計販売数は6000万体を超えている。日本の女の子の数より、はるかに多い。 おわりに 5月3日は憲法記念日だ。「基本的人権の尊重」を謳うこの日に、日本中の女の子たちの夢を体現した人形が誕生日を持っている。それが偶然なのか、誰かの計らいなのかは知らない。 リカちゃんを持っていた女の子たちは今、私と同世代か、少し上の世代だろう。あの小さな21センチの人形に、どんな夢を重ねていたのだろうか。 醤油工場で手描きされた流し目のリカちゃんは、今日も5月3日という誕生日を、昭和の記憶の中で迎えている。 リカちゃんは令和の今も、姿を変えながら現役だ。あの頃夢中になった世代が、今度は娘や孫娘へ。半世紀を超えて受け継がれていく人形である。 リカちゃん人形 LD-00 はじめてのリカちゃんタカラトミー/3歳から。娘さん・お孫さんへの贈り物にも Amazonで見る › ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月2日──たいやきくんは、なぜ海に逃げたのか | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月4日──ラムネと予言と、休日になった日 ▶

May 2, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月2日──たいやきくんは、なぜ海に逃げたのか

今日は5月2日。ゴールデンウィークも終盤に差し掛かる、少し惜しいような一日だ。 昭和の子どもにとって、このあたりから「もうすぐ学校だ」という現実がじわじわと迫ってくる時期でもあった。楽しかった連休の終わりに、どこか気持ちが沈む感覚。子どもだったから言葉にはできなかったけれど、あの感覚は今でも5月の空気の中にある気がする。 今日は、そんな「逃げ出したい気持ち」を歌にした、昭和50年の一曲の話をしたい。 昭和50年(1975年)──たいやきくんが、逃げた日 「毎日毎日僕らは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうよ」 この歌いだしを聞けば、昭和を生きた人なら誰でも、あのメロディーが頭の中に流れてくるはずだ。 「およげ!たいやきくん」。昭和50年12月25日、クリスマスの日に発売されたこの一曲は、日本中を文字通り席巻した。シングル盤の売上は最終的に450万枚以上に達し、2024年現在もなお日本歴代シングル売上の第1位に輝いている。 もともとはフジテレビの子ども番組『ひらけ!ポンキッキ』の中で流れていた曲だ。番組内でオンエアが始まったのは昭和50年の秋ごろで、子どもたちの間でじわじわと人気に火がついていた。最初に歌っていたのは無名のフォークシンガーだったが、レコード化の話が持ち上がったとき、契約の都合でその歌手は使えなくなった。急遽代わりに白羽の矢が立ったのが、子門真人という歌手だった。 子門真人は当時、特撮やアニメの主題歌を吹き込む仕事を続けていた。仮面ライダーの「レッツゴー!!ライダーキック」もこの人が歌っている。ただ、主役ではなく裏方に近い立場で、吹き込み料は一曲あたり数万円という世界だった。 「たいやきくんも歌ってみないか」と声をかけられたとき、子門は特に深く考えずに引き受けた。いつものアルバイトの感覚だ。練習なしで、スタジオに入って約1時間で録音を終えた。ギャラは5万円。それだけだった。 その5万円の歌が、日本中で450万枚売れた。 子どもが喜び、大人が泣いた歌 不思議な歌だった。 表向きには子ども向けの童謡だ。たいやき屋から逃げ出した小さなたいやきが、海を泳ぎ回り、自由を謳歌する。でも最後には釣り人に釣られて食べられてしまう。なんとも後味が複雑な結末だ。 昭和50年代、この歌はサラリーマンの心情を代弁する歌だと言われた。毎日毎日、同じ場所で同じことをして、嫌になっても逃げられない。でもいつか逃げ出してやる。海まで泳いでやる──そんな感情が、たいやきという小さな存在に重なって見えたのだ。 大人たちがこの歌を聴いて涙を流した、という話が当時の雑誌にも載っていた。子ども向けの番組から生まれた歌が、なぜか働く大人の胸を打った。昭和50年という時代は、高度経済成長が一段落し、豊かにはなったけれどどこかくたびれた感じが社会全体に漂い始めた時期だった。オイルショックの後遺症もまだ残っていた。そんな時代の空気が、あのたいやきくんに乗り移っていたのかもしれない。 子どもだった私には、そんなことは何もわからなかった。ただ、あの独特のメロディーと「鉄板の上で焼かれる」という言葉が不思議に頭に残って、何度も口ずさんでいたのを覚えている。 5万円のギャラと、450万枚の皮肉 子門真人のギャラが5万円だったという話は、後に大きな話題になった。 印税契約ではなく買い取りで録音したため、450万枚売れても子門に入るお金は最初の5万円だけだった。後にレコード会社から特別に100万円と白いギターが贈られたが、23億円以上の売り上げに対してその扱いは切ない。 「歩合か買い取りか選べると言われて、何となく買い取りにした」と子門は語っている。まさかこれほど売れるとは思っていなかった。そりゃそうだ。子ども番組の一曲に、そんな夢を見る人はいない。 皮肉なことに、あの「逃げ出したい」という歌を歌った本人が、利益という意味では一番損をした形になった。たいやきくんと同じで、最後に食べられてしまったのは歌手のほうだったのかもしれない。 それでも子門真人は、その後も「ホネホネロック」「はたらくくるま」など子ども向けの歌を歌い続けた。昭和の子どもたちの記憶のどこかに、この人の声は確かにある。 おわりに 「およげ!たいやきくん」の発売は昭和50年12月25日だ。5月2日とは直接の関係はない。 でも、ゴールデンウィークの終わりが近づいて「また日常が始まる」という感覚を覚えるこの時期に、この歌のことをどうしても思い出してしまう。毎日毎日焼かれて嫌になっちゃう、という気持ちは、昭和の子どもにも、大人にも、そして今を生きる私たちにも、どこかに宿っているものだから。 たいやきくんは海に逃げた。最後は食べられてしまったけれど、あの自由に泳いだ時間は本物だったはずだ。 あなたが最後に「逃げ出したい」と思ったのは、いつのことだろうか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月1日──ゴールデンウィークのど真ん中、あの昭和50年の春 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月3日──今日はリカちゃんの誕生日 ▶

May 1, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月1日──ゴールデンウィークのど真ん中、あの昭和50年の春

今日は5月1日。ゴールデンウィークのど真ん中だ。 昭和の子どもにとって、この時期は一年でいちばん気持ちが浮き立つ季節だったと思う。学校は休み、外は暖かく、どこかに連れて行ってもらえるかもしれないという期待感。あの頃の5月の空気は、今でも体のどこかに染み付いている気がする。 今回は、5月1日という日付にまつわる昭和の出来事というよりも、「あの昭和50年の春」に生まれたものを3つ振り返ってみたい。昭和50年(1975年)──私が9歳になった年だ。 昭和50年(1975年)──「きのこの山」が生まれた年 今も売り続けているあの定番チョコ菓子、きのこの山が誕生したのは昭和50年のことだ。 チョコレートとサクサクのクラッカーを組み合わせた、きのこの形のお菓子。今では「きのこ派」か「たけのこ派」かの論争が毎年のように話題になるが、そのきのこ派の総本山がこの年に誕生した。 開発のきっかけは意外な話で、明治の小粒チョコ「アポロ」の生産ラインが余っていたことだったという。アポロの円錐形の型にチョコを流し込み、クラッカーの棒を刺してきのこの形を作った。今見ると可愛らしくて当たり前のデザインだが、当時はチョコレートといえば「板チョコ」が主流の時代だった。きのこの形のお菓子なんて奇妙だ、売れるわけがない──社内でそんな声もあったという。 しかし発売するや爆発的なヒットとなり、生産ラインをフル稼働しても追いつかないほどの人気になった。4年後には姉妹品「たけのこの里」も登場し、日本にチョコスナックという新しいジャンルが生まれた。 昭和50年の春、駄菓子屋の棚にあのきのこが初めて並んだ。 昭和50年(1975年)4月15日──「一休さん」が始まった日 **『一休さん』**の放送が始まったのも、昭和50年のこの春だ。 室町時代の実在の僧侶・一休宗純をモデルにしたアニメで、頓智(とんち)で難問を解いていく機転の利いた少年僧の物語だ。「そうだ!とんちだ!」と膝を打つあの感覚を、子どもながらに楽しんでいた記憶がある。 「このはし渡るべからず」と書いてある橋の前で、一休さんは「はし(端)ではなく真ん中を渡ればいい」と言って渡る。「屏風の虎を捕まえよ」と言われれば、「まず虎を屏風から出してください」と切り返す。とんちといえばこの番組、というくらい昭和の子どもたちの記憶に刻まれた作品だ。 一休さんは1982年まで7年間・全296話が放送される長寿アニメとなった。「ぽくぽくぽく……チーン」というおなじみのシーンは、今でも頭の中で鳴り響く。 昭和50年(1975年)4月15日──「ローソン」が生まれた日 もう一つ、昭和50年の春に生まれたものがある。 今も街のあちこちにある**コンビニエンスストア「ローソン」**だ。昭和50年4月15日、ダイエーローソンとして設立された。 今でこそコンビニは生活の一部だが、当時の日本にはまだほとんど存在していなかった。「いつでも買い物できる店」という概念自体が新しかった時代に、ローソンはその先駆けの一つとしてスタートした。 ちなみにセブンイレブンの1号店が日本に開いたのは昭和49年(1974年)のことで、ローソンはその翌年だ。昭和50年前後は、日本のコンビニ元年とも言える時期だった。 あの頃の子どもには「コンビニ」という言葉すらなかった。でも気がつけば、私たちの生活の中にそれは深く入り込んでいる。昭和50年の春に産声を上げた店が、今も全国に1万4000店以上ある。 おわりに 昭和50年(1975年)の春に生まれたものを3つ振り返った。 きのこの山、一休さん、そしてローソン。どれも今でも続いているというのが、なんとも感慨深い。あの年の春に生まれたものが、半世紀を超えて今も私たちの生活の中にある。 昭和50年、私は9歳だった。きのこの山を食べ、一休さんを見ながら、コンビニのない町で育っていた。あの春の空気と一緒に、この3つの誕生を覚えておきたいと思う。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】4月30日──カードを集めたくて、スナックを買い続けた | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月2日──たいやきくんは、なぜ海に逃げたのか ▶

April 30, 2026

【昭和の今日は何があった日?】4月30日──カードを集めたくて、スナックを買い続けた

今日は4月30日。ゴールデンウィークのど真ん中だ。 昭和の子どもにとって、この時期は「連休の中日」という感覚よりも、「外で遊びまくる日々の一つ」という感じだった。近所の空き地、駄菓子屋、公園──あの頃の春休みやGWの記憶が、なんとなく頭の中によみがえってくる。 そんな4月30日に、昭和40年代から64年のあいだ、何があったのか。今回は3つの出来事を振り返ってみた。 昭和46年(1971年)──「仮面ライダースナック」という、社会問題 4月30日ぴったりの話ではないが、昭和46年(1971年)の4月に起きた出来事として欠かせないものがある。 仮面ライダースナックだ。 4月3日に仮面ライダーの放送が始まると、カルビーは「仮面ライダースナック」を発売した。1袋20円のスナック菓子に、仮面ライダーカードが1枚封入されていた。カードの裏には怪人の能力や弱点、ストーリーの解説が書いてあって、集めれば集めるほど仮面ライダーの世界が広がっていく。 子どもたちは夢中になった。 問題は、カードを手に入れた後のスナックだ。 当時の子どもたちは、カードだけ抜いてスナックを捨てていた。ゴミ箱に、道ばたに、スナックだけが山積みになっていく光景が全国で続出した。「食べ物を粗末にしている」と大人たちは怒った。これが社会問題として報じられ、カルビーはスナックの量を増やしたり、「残さず食べましょう」と呼びかけたりと、いろいろな対応を迫られた。 でも子どもにとっては、スナックよりカードのほうが大切だったのだ。当たり前だ。 この「カード付き菓子」の仕組みは、後のビックリマンチョコや現代の食玩・トレーディングカードゲームへと受け継がれていく。仮面ライダースナックは、日本のおまけ文化の原点の一つと言えるかもしれない。 昭和50年(1975年)4月30日──テレビの前で、大人が固まっていた日 これは子ども目線ではなく、大人の話だ。 昭和50年のこの日、ベトナム戦争が終結した。 北ベトナム軍の戦車が南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン市)の大統領官邸に突入し、南ベトナム政府が崩壊した。アメリカ大使館の屋上からヘリコプターで逃げ出す人たちの映像は、世界中に衝撃を与えた。 日本では、NHKがこの日の正午前に速報を流し、夜には特別番組を編成した。 ベトナム戦争は1965年ごろから日本でも反戦運動と結びついて語られ続けてきた戦争だ。昭和40年代の子どもたちにとっても、学校でも家でも「ベトナム」という言葉は時々耳に入っていたはずだ。何かが起きているらしい、遠い国で戦争をしているらしい──そんな漠然とした感覚。 この日、テレビの前で大人たちが真剣な顔をしていたのを、当時の子どもたちは覚えているだろうか。私にとっても、大人がニュースを見て黙り込んでいるのを横目で眺めていた記憶がある。 戦争が終わったのに、なぜ大人たちはあんな顔をしていたのだろう。長い時間が経った今なら、少しわかる気がする。 昭和46年(1971年)──変身ブームと、あの春の空気 仮面ライダーが放送を始めたこの春、昭和46年の4月は子どもたちにとって特別な季節だった。 仮面ライダーが始まる少し前、同じく昭和46年の4月には『帰ってきたウルトラマン』も放送開始していた。怪獣ブームが再びやってきて、「変身」というキーワードが街中に溢れていた時代だ。 「変身!」と叫んで両腕を広げるポーズは、翌年以降に登場する仮面ライダー2号・一文字隼人から生まれた。だが昭和46年の春、まだそのポーズも生まれる前から、子どもたちは自転車にまたがって風を切り、どこかのバッタの怪人を倒しに行くつもりでいた。 カードを集め、スナックを捨て、変身ポーズの真似をして、ちょっと怖いけど目が離せなかったあのヒーロー。 昭和46年の4月30日は、そんなブームの真っ只中にあった。 おわりに 4月30日という日に、私が知らなかった昭和の断片がここにある。 カードのためにスナックを買い続けた子どもたち。テレビの前で黙り込んでいた大人たち。変身ブームの熱気の中にいたあの春。 どれも、昭和という時代のリアルな一コマだ。 あなたの記憶の4月30日と、どこかで交差してくれたら嬉しい。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】4月29日──天皇誕生日のこの日、あの黒と白のゲームが生まれた | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月1日──ゴールデンウィークのど真ん中、あの昭和50年の春 ▶

April 29, 2026

【昭和の今日は何があった日?】4月29日──天皇誕生日のこの日、あの黒と白のゲームが生まれた

今日は4月29日。 今は「昭和の日」と呼ばれているこの祝日、昭和の時代には「天皇誕生日」という名前だった。学校は休みで、街全体がどこかお祝いムードに包まれていた、あの春の日。 ゴールデンウィークの始まりでもあって、子どもにとっては嬉しくてたまらない一日だった。 そんな4月29日という日に、昭和40年代から64年のあいだ、いったい何が起きていたのか。今回は、私自身が「知らなかった」と驚いた出来事を3つ、掘り起こしてみた。 昭和48年(1973年)4月29日──黒と白のゲームが、この日に生まれた オセロの盤と石(出典:Wikimedia Commons / パブリックドメイン) 「オセロ」が発売されたのは、昭和48年のこの日だ。 黒と白のコマを置いて、相手のコマを挟んでひっくり返す。ルールはシンプルなのに、一手ごとに形勢がガラリとひっくり返る。あの独特の緊張感は、子どもの頃に家族や友達と何度も経験したはずだ。 発売したのは株式会社ツクダ。発明したのは茨城県水戸市出身の長谷川五郎さんという人物で、なんと牛乳びんのフタを改造してコマの試作品を作り、玩具メーカーに売り込んだのが始まりだという。 企画段階でメーカー側が検討していた名前は、前年に中国から贈られて日本中の人気者になっていたジャイアントパンダにちなんで「ランランとカンカン」が有力候補だったそうだ。 なるほど、昭和48年はパンダ旋風が巻き起こっていた年でもあった。もしその名前になっていたら、今ごろどうなっていただろうか。 「覚えるのは1分、極めるのは一生」。そのキャッチコピーのとおり、オセロは今も世界中で愛されているボードゲームだ。あの黒と白は、昭和48年の4月29日に産声を上げた。 昭和60年(1985年)4月29日──「皇帝」が、五冠に輝いた日 競馬の話を一つ。 昭和60年のこの日、シンボリルドルフが天皇賞(春)を制して、史上2頭目となる「五冠馬」に輝いた。 シンボリルドルフは、前年の昭和59年に史上初の無敗での三冠を達成した名馬だ。皐月賞、ダービー、菊花賞をすべて勝って、そのまま有馬記念も制した。翌年も日経賞を圧勝し、そして迎えたこの天皇賞(春)でも、もう一頭の三冠馬・ミスターシービーの奇襲を冷静にかわして優勝。表彰式で騎手の岡部幸雄が高々と5本指を掲げた映像は、競馬ファンなら知っている名シーンだ。 「競馬に絶対はない」というのがこの世界の常識だが、この馬には絶対があると言われた。のちに「皇帝」「七冠馬」と呼ばれるシンボリルドルフの、その五冠目の勝利がこの日だった。 4月29日は天皇誕生日。そして「天皇賞」という名のレースが行われる日。まるで誂えたような一致だと思った。 昭和52年(1977年)4月29日──19歳の大学生が、日本一になった スポーツをもう一つ。 全日本柔道選手権大会は毎年4月29日、東京の日本武道館で開かれていた。体重の区別なし、体格も年齢も関係なく、すべての選手が同じ畳の上で戦う。日本最高峰の一本勝負だ。 昭和52年のこの日、一人の大学2年生が日本中を驚かせた。 山下泰裕、19歳。 決勝でオリンピック銅メダリストを判定で制し、史上最年少での優勝を果たした。まだ大学の授業を受けているような年齢で、日本一の称号を手にしたのだ。それまで「怪童」と呼ばれていたこの青年は、この日から「怪物」と呼ばれるようになった。 その後の山下泰裕はご存知のとおり。全日本選手権9連覇、ロサンゼルスオリンピック金メダル、公式戦203連勝。2019年にはギネス世界記録にも認定されている。 おわりに 昭和40〜64年の4月29日には、こんな出来事があった。 牛乳びんのフタから生まれたオセロ。5本指を高く掲げた騎手。19歳で日本一になった怪物。 どれもあの「天皇誕生日」という祝日の空気の中で起きた出来事だ。昭和を生きた私たちにとって、4月29日はそういう日だった。 あなたの記憶の中の4月29日と、ここで書いた出来事が、どこかで交差してくれたら嬉しい。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】4月30日──カードを集めたくて、スナックを買い続けた ▶

April 29, 2026