【昭和の今日は何があった日?】8月1日──「男の子女の子」が鳴り出した日。新御三家と、茶の間のテレビ

夏休みのど真ん中に、ひとりのスターが生まれた 8月1日。子どものころ、この日は「夏休みがまだたっぷり残っている」という、いちばん贅沢な時期でした。カレンダーの残りが分厚くて、8月31日という言葉がまだ他人事だったころです。 その8月1日に、16歳の少年がレコード店の棚に並びました。1972年(昭和47年)、郷ひろみさんが「男の子女の子」でデビューします。 このとき、私は3歳です。当然ながら、この日のことは何ひとつ覚えていません。ただ、この日から始まったものが、そのあと十数年にわたって、私の家の夜の「音」をつくり続けることになります。 「フォーリーブスの弟」から始まった デビュー曲のキャッチフレーズは「フォーリーブスの弟」。4人組の先輩より多く伸びるようにと、4より大きい5(ゴー)から「郷」の字が当てられました。芸名の由来からして、いま聞くとずいぶん大らかな、昭和らしい話です。 郷さんはこの年の1月2日にNHK大河ドラマ『新・平家物語』で俳優デビューしており、歌手はその後でした。9月25日にはデビュー曲がオリコン週間チャートのベストテン入りを果たし、11月には第14回日本レコード大賞の新人賞を受賞します。 三人が揃った 「新御三家」。郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎の三人です。 いちばん早かったのは野口五郎さんでした。1971年5月1日に「博多みれん」でデビュー。これが演歌調で、2作目の「青いリンゴ」でポップス路線に転じて成功します。次が西城秀樹さんで、1972年3月25日の「恋する季節」。そして同じ年の8月1日に郷ひろみさん。 三人のなかでデビューはいちばん遅かったのに、オリコンのベストテン入りは郷さんが最初でした。野口さんの「オレンジの雨」、西城さんの「情熱の嵐」がベストテンに入るのは翌1973年になってから。そしてその1973年、郷さんはブロマイドの年間売上で1位となり、三人は「新御三家」と呼ばれるようになります。 こうして1年3か月ほどの間に三人が出そろい、ここから昭和50年代いっぱい、茶の間のテレビは、この三人抜きには回らなくなります。 相撲から歌番組へ ——我が家の、いつもの夜 当時は本当に毎日のように、どこかの局で歌番組が放送されていた印象があります。今のように音楽を好きなときに聴ける時代ではなかったので、新しい曲や人気歌手を見ることができる歌番組は、家族みんなの楽しみでした。 我が家でも夕食時になると自然とテレビがつき、ニュースや野球中継がない日は歌番組が流れていました。とくに1978年に始まった『ザ・ベストテン』は家族みんなが楽しみにしていた番組で、「今日は誰が1位かな」「あの歌手は何位まで上がるかな」と順位を見ながら話をするのも毎週の楽しみでした。ベストテン入りした曲は学校でも話題になり、翌日には友達同士で口ずさんでいた記憶があります。 チャンネル権というものは、我が家には特にありませんでした。父が家にいる時間帯は父の希望が優先でしたが、歌番組は家族全員で楽しめる内容だったため、大きくチャンネル争いになることはあまりなかったのです。相撲中継の時期には夕方5時の門限に間に合うように帰宅し、そのまま相撲を見て、夕食後はその流れで歌番組を見る。相撲から歌番組へと続くこの流れが、我が家のいつもの夜の過ごし方でした。 テレビは一家に一台という家庭もまだ珍しくなく、家族が同じ番組を一緒に見るのが当たり前の時代です。だからこそ流行歌は家族全員が自然と覚えてしまい、歌手の名前や新曲が共通の話題になっていました。今振り返ると、家族みんなで同じ音楽を楽しんだ、とても温かい時間だったと思います。 男の子だって、夢中でした ここで、はっきり書いておきたいことがあります。男子から見た新御三家は、決して「女の子だけのアイドル」ではありませんでした。私自身、かなり夢中になって見ていました。歌番組が始まると自然とテレビの前に座り、誰が出るのか楽しみにしていたものです。 郷ひろみさんといえば、「お嫁サンバ」はもちろん、「哀愁のカサブランカ」、そして樹木希林さんとのデュエット曲「林檎殺人事件」。あの曲は『ザ・ベストテン』で4週連続の1位になりました。ほかにも「よろしく哀愁」「ハリウッド・スキャンダル」と、挙げ始めたらきりがありません。テレビに郷さんが登場すると、華やかな衣装とキレのあるダンス、そして抜群のスター性に、子どもながら「やっぱりスターは違うな」と感じていました。 西城秀樹さんは、やはり何といっても「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」です。1979年のこの曲はオリコンで5週連続1位、80.8万枚を売り上げ、『ザ・ベストテン』では番組初の満点9999点を記録しました。あの曲が流れ始めると、日本中が熱狂していたと言っても大げさではないと思います。サビになると、みんなが自然と腕で「Y」「M」「C」「A」の文字を作りながら歌っていました。学校でも友達同士でまねをしたり、運動会やレクリエーションで振り付けを踊ったりして、「YMCA」のポーズを知らない子はいないくらいの大ブーム。今でもイントロを聴くだけで、当時の熱気がよみがえってきます。 野口五郎さんも歌唱力が抜群で、「私鉄沿線」や「甘い生活」など、しっとりとした名曲を数多く歌っていました。郷さんや西城さんとはまた違う魅力があり、新御三家はそれぞれ個性がはっきりしていて、そこが歌番組を見る楽しみの一つでもありました。 数字にも占有ぶりが出ています。1970年代後半から1980年代前半にかけて、三人のうち誰か1人が毎週『夜のヒットスタジオ』に出演していました。出演回数は西城さん188回、郷さん175回、野口さん123回です。 新曲は歌番組で初めて耳にし、翌日には学校で「あの歌よかったね」「昨日見た?」という会話が自然に始まる。男子も女子も関係なく新御三家の曲を口ずさんでいましたし、誰が好きかを話題にすることも珍しくありませんでした。彼らはまさに、時代を象徴するスターだったと思います。 「上の世代の大スター」になっていく 中学、高校へと進むにつれて、子どものころのように毎週欠かさず歌番組を見ることは少なくなっていきました。部活動や受験勉強で忙しくなり、テレビそのものを見る時間が減っていったこともあります。私自身が夢中になったのはプロレスと野球で、アイドルといえば松田聖子ではなく河合奈保子、そして中森明菜でした。 それでも、新曲が出れば気になりますし、新御三家の存在が自分の中から消えることはありませんでした。子どものころに夢中になって見ていたスターですから、歌番組で見かければ自然と足を止めてしまう、そんな存在だったように思います。 高校生になるころには、郷ひろみさん、西城秀樹さん、野口五郎さんは、もはや「憧れのお兄さん」というよりも、日本を代表する大スターという印象でした。自分たちよりずっと上の世代のスターという感覚になっていましたが、それでも新曲や活躍はしっかりチェックしていました。 二十数年後、体育館のステージに そして、その思いが何十年か後に、思いがけない形でよみがえる出来事がありました。 以前、中森明菜さんについて書いた記事で、社会人になって勤務していた会社の全国大会で、突然、体育館のステージに明菜さんが現れた感動を書きました。実はその前年の全国大会にも、私は野球で出場していたのです。そして、その年のシークレットゲストこそが、郷ひろみさんでした。 大会二日目の夜、会場となった体育館には大勢の社員が集まり、「今年は誰が来るんだろう」と期待に胸を膨らませていました。そして照明が落ち、ステージに現れたのが郷ひろみさん。あの瞬間の歓声は、今でも忘れることができません。 披露してくれたのは、当時大ヒットしていた「GOLDFINGER ‘99」。イントロが流れた瞬間、会場のボルテージは一気に最高潮に達しました。体育館中の誰もがリズムに乗り、手拍子をしながらサビを大合唱。「ア・チ・チ・ア・チ!」というフレーズは、会場全体が一つになって響き渡り、まるで本物のコンサート会場にいるような熱気でした。 子どものころ、茶の間のテレビ越しに「お嫁サンバ」や「林檎殺人事件」を夢中で見ていたあの郷ひろみさんが、いまは目の前のステージで歌っている——その不思議な感覚は、言葉では表せません。テレビの向こう側の遠いスターだった人と、同じ空間で歌い、同じ時間を共有している。その事実だけで胸がいっぱいになりました。 翌年には、中森明菜さんが同じ体育館のステージに立ちました。子どものころに歌番組で憧れていたスターたちと、大人になって同じ空間を共有できたあの二年間は、私にとって忘れることのできない特別な思い出です。少年時代にブラウン管の向こうで輝いていたスターたちが、時を経て目の前で歌ってくれた。昭和という時代を生きた私だからこそ味わえた、何ものにも代えがたい幸せな時間だったように思います。 令和のいま 2018年5月、西城秀樹さんが亡くなりました。63歳でした。三人揃って毎週テレビに映っていたころを知っている身には、いまだにうまく飲み込めない出来事です。 一方で郷ひろみさんは、70歳になったいまも現役です。1972年8月1日に棚に並んだ16歳が、54年間ずっと第一線にいる。ちょっと考えられないことです。 そして「YOUNG MAN」は、いまも運動会や応援席で鳴っています。歌った人が誰かを知らない子どもたちが、あの「Y・M・C・A」のポーズをとっている。それを見るたびに、あの人たちが作ったものは、名前が消えてもまだ残っているんだな、と思います。 みなさんは、新御三家のうち誰派でしたか。あるいは、ご家庭の茶の間ではどの歌番組が流れていましたか。よかったら教えてください。 あの夜9時、家族みんなでテレビの前に集まった『ザ・ベストテン』。その舞台裏を、番組を作った総合演出者みずからが書いた一冊です。ランキングはどう決まっていたのか、あの中継はどうやって実現したのか——歌手を追いかけて全国を飛び回ったスタッフたちの奮闘が、昭和の歌謡曲の熱気とともによみがえります。あの頃テレビの前にいた方には、たまらない読み物です。 ザ・ベストテン(新潮文庫)山田修爾。番組の総合演出者が明かす『ザ・ベストテン』の舞台裏。ランキングの仕組みから中継の裏側まで、昭和歌謡が最も輝いた時代の記録 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月31日】欠けていく太陽と、黒い下敷き | 次の記事:【8月2日】道路が笑顔で埋まった日。銀座の80万人と、高砂の路地球場 ▶ ...

August 1, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月31日──欠けていく太陽と、黒い下敷き

今日は7月31日。7月の最終日です。 夏休みが始まって十日ほど。宿題帳の白いページと、朝顔の観察日記と、朝から降りそそぐ蝉の声。八月の本番はまだこれからで、子どもにとっては一年でいちばん長くて濃い季節の、入り口のあたりでしょうか。 そんな夏の一日ですが、昭和56年(1981年)の7月31日、日本の空ではちょっと不思議なことが起きていました。 お昼どき、太陽が欠けたのです。 昭和56年、夏の真昼に太陽が欠けた 昭和56年7月31日、日本各地で部分日食が観測されました。 日食というのは、太陽と地球のあいだに月が割り込んで、太陽を隠してしまう現象です。月が太陽をすっぽり覆えば皆既日食、真ん中だけを隠してリングのように見えれば金環日食、そして一部分だけをかじり取るように隠すのが部分日食です。 この日、月の影が地球にいちばん濃く落ちた場所——つまり皆既日食が見られたのは、当時のソ連の南部でした。黒海のあたりからシベリアへと、影の帯が大陸を横切っていったのです。日本はその帯からは外れていましたが、太陽の一部が欠ける部分日食のほうは、昼前から午後にかけての空で、しっかりと見ることができました。 では、どのくらい欠けたのか。記録によれば、名古屋で食分がおよそ0.55。食分というのは太陽の直径がどれだけ隠されたかを表す数字で、0.55なら太陽の半分以上が月に隠されたことになります。関東でもだいたい半分前後、そして北へ行くほど深く欠けました。北日本では、月が太陽をもっとぐいと食べ込んでいったのです。 太陽の半分が消える。しかも夏休みの真っ昼間に。これは子どもにとって、ちょっとした事件だったはずです。 半分も欠けると、あたりの様子も少しだけ変わります。真っ暗になるわけではありませんが、真昼の光がなんとなく薄くなり、影の輪郭がいつもより硬くなる。じりじりと照りつけていた日差しが、ほんの少しだけやわらぐ。空を見上げなくても、「あれ、なんだか変だぞ」と肌で感じる——そういう不思議な明るさになるのです。 太陽が欠けるという出来事を、昔の人はとても恐れていました。平安時代の975年、京の都で皆既日食が起きたときには、太陽が墨のように光を失い、鳥が飛び乱れ、昼なのに空に星が見えたと記録されています。人々は不吉なことの前触れだとおびえ、朝廷は「大赦」——罪人を赦す特別なはからい——まで出したほどでした。 それが、昭和の子どもにとっては、恐怖でもなんでもありませんでした。ただただ「面白いもの」だったのです。学校の理科で、なぜ日食が起きるのかを習っている。だから怖くない。怖くないから、思いきりわくわくできる。太陽と月と地球の位置関係が、自分の頭の真上で実演されている——それは、教科書が本物になる瞬間でした。 ちなみに昭和56年という年は、赤城乳業の「ガリガリ君」や、ロッテの「雪見だいふく」が世に出た年でもありました。黒柳徹子さんの『窓ぎわのトットちゃん』が大ブームになったのもこの年です。冷凍庫の中身も、テレビの中も、少しずつ新しくなっていく——そんな時代の夏でした。 下敷きと、煤ガラスと さて、昭和の子どもは、この欠けた太陽を、いったいどうやって見ていたのでしょう。 太陽をそのまま肉眼で見てはいけない。それは今も昔も同じです。でも、昭和の観察方法はなかなか大胆でした。 いちばん多かったのは、黒い下敷きです。筆箱の横にいつも差してある、あの黒いプラスチックの下敷き。あれを目に当てて、みんなで空を見上げたものです。ほかにも、ロウソクの炎でガラス板を炙って煤をつけた「煤ガラス」、真っ黒なサングラス、使い終わって真っ黒に感光したフィルム。とにかく「黒くて、向こうが透けて見えにくいもの」を、片っ端から太陽にかざしていました。 ただ、ここは正直に書いておかなければなりません。これらの方法は、今では「やってはいけない」とされています。黒い下敷きや煤ガラスは、目に見える光は減らしてくれても、目に見えない赤外線や紫外線までは防げません。気づかないうちに目の奥、網膜を傷めてしまう危険があるのです。当時はそこまで知られていませんでした。「みんながやっていたから」で済んでいた時代でした。 そんな中に、道具がいらなくて、しかも安全な方法もひとつありました。木漏れ日です。木の葉と葉のあいだの小さな隙間が、ちょうどピンホールカメラのように働いて、地面に映る木漏れ日のひとつひとつが、欠けた太陽と同じ三日月の形になる。空を見上げなくても、足元に日食が映っていたのです。あれに気づいた子は、ちょっと得意げだったものです。 夏休みという時期も、日食にはうってつけでした。学校は休みでも、こういう日は「自由研究にちょうどいい」と、太陽の欠け具合を時間ごとにスケッチした子もいたはずです。何時何分にどれだけ欠けて、いつ元に戻ったか。画用紙に並んだいくつもの丸い太陽は、それだけで立派な夏の研究になりました。宿題に追われる夏に、空のほうから宿題の題材が降ってきたようなものです。 私の記憶 昭和56年の夏、私は小学6年生、12歳でした。 正直に言うと、太陽が欠けたことそのものは、はっきりとは覚えていません。ただ、7月31日という日づけには、日食とはまったく別の、とても濃い記憶が残っています。 夏休みの朝といえば、まずラジオ体操でした。首から下げた出席カードに、毎朝ひとつずつ判子を押してもらう。そして、その最終日がちょうど7月31日だったのです。最終日には、ためた判子のカードと引き換えに、花火やお菓子、ノートといった景品と交換してもらえました。ひと夏かけて集めた判子が、最後にごほうびに変わる日。子どもにとっては、これがちょっとした晴れ舞台でした。 ラジオ体操が終わると、午前中は学校のプールです。ふた学年ごとに分かれて泳ぎに行く日があって、それがない日には、自転車で5分ほどの区民プールへ友達数人と繰り出して、2時間くらいずっと泳いでいました。プールがなければ虫取り。とにかく、朝から日が暮れるまで、外にいた夏でした。 そう考えると、あの日——太陽が昼前から午後にかけて半分近くも欠けていったころ、私はたぶん、もらったばかりの景品を握りしめていたか、区民プールの水の中で友達とふざけ合っていたかの、どちらかだったのだと思います。頭の真上の空で月が太陽を食べていることよりも、手にした花火のほうが、そのときの私にとっては、よほどの大事件だったのでしょう。 当時はインターネットもスマートフォンもありません。珍しい自然現象があっても、情報源はテレビと新聞、そして近所の口コミくらいでした。だからこそ、ひとつの出来事を、家族や友達と同じ時間に分け合うことに、特別な意味がありました。日食そのものを覚えていない私でも、「太陽を直接見ちゃだめだよ」と大人に言われたような——そんな声の記憶だけは、どこか夏の底に沈んでいる気がします。 そしてうれしいことに、あのラジオ体操は今も同じように続いていて、今度は私の子どもが、あの出席カードに判子を押してもらっています(笑)。 じつは、これは今朝の風景です。夏祭りの提灯がまだ揺れている朝の広場に、子どもたちが集まってくる。そして最終日の今日は、あの頃とまったく同じように、景品の引き換えがありました。 私の子どもがもらってきたのは、手持ち花火のセットと、のり塩のポテトチップスでした。 ——45年前に私がもらった、花火と、お菓子。並べてみれば、ほとんど同じです。カードと景品と、夏の朝のあの眠たさだけは、何ひとつ変わっていません。太陽が半分も欠けたあの夏から45年が過ぎても、子どもの夏の入り口は、ちゃんと同じ場所にありました。 令和の空を見上げる 時代は流れて、令和になりました。 平成に入ってからも、日本では大きな日食が何度かありました。平成21年(2009年)7月22日には、鹿児島のトカラ列島で皆既日食が見られ、日本中が朝から空を見上げました。平成24年(2012年)5月21日には、東京でも金環日食が見られました。朝の通勤・通学の時間帯、駅のホームでも、歩道でも、多くの人が立ち止まって同じ空を見ていた——あの朝を覚えている方も多いでしょう。 このときの主役は、もう黒い下敷きではありませんでした。「日食グラス」です。専用の遮光板が入った観察メガネが、コンビニでも本屋でも売られ、直前には売り切れが続出しました。そしてもうひとつ、昭和にはなかったもの——スマートフォン。欠けていく太陽を写真に撮って、その場でSNSに上げる。日本中が同じ瞬間に、同じ空を、画面越しにも分かち合ったのです。 道具は下敷きから日食グラスへ。ひとりで見上げた空から、みんなで見上げる空へ。ずいぶん変わりました。でも、太陽がだんだん欠けていくのを見上げるときの、あの「うわぁ」という声にならない気持ちだけは、昭和の子どもも令和の子どもも、たぶん同じなのだと思います。 おわりに 次に東京のすぐ近くで大きな日食が起きるのは、そう遠い先ではありません。2035年9月2日、北陸から北関東にかけて、皆既日食の帯が通る予定です。東京でも、太陽がほとんど欠ける大きな部分日食になります。そのとき私は66歳。孫がいれば、一緒に空を見上げているかもしれません。もちろん今度は、ちゃんとした日食グラスで。 昭和56年の、あの夏の真昼。太陽が欠けていったあの日を、あなたは覚えていますか。 そして、何で空を見上げましたか。黒い下敷きでしたか、それとも——。 昭和の子どもは黒い下敷きで見上げましたが、今はもう、それをやってはいけません。太陽観察には、専用の遮光板を使ってください。これは日本製の「たいようめがね」。JIS規格の遮光板で、日食はもちろん、太陽黒点の観察にも使えます。夏休みの自由研究にもぴったりですし、何より安全です。2035年の皆既日食まで、大切に取っておくのもいいかもしれません。 太陽観察の必需品 たいようめがね(遮光板)日食・太陽観察用の遮光板。黒い下敷きや煤ガラスと違い、赤外線・紫外線もしっかりカットして目を守る。自由研究にも Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...

July 31, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月30日──沖縄の車が右から左へ、一夜で入れ替わった日

今日は7月30日。夏の日差しが、いよいよ本気になってくる頃です。 正直に告白します。私はこの日にあった出来事を、まったく覚えていません。 1978年(昭和53年)のこの日、私は小学3年生。9歳です。9歳といえば、記憶にしっかり残っていておかしくない年齢です。運動会のこと、夏休みのこと、あの頃見ていたテレビ番組のことなら、いくらでも思い出せます。それなのに、この日のことだけは、頭の中が真っ白なのです。 でもそれは、私が忘れっぽいからではなかったのかもしれません。調べていくうちに、そう思うようになりました。この日、東京から遠く離れた沖縄で、世界にも例のない大事業が行われていたのです。 覚えていない、という不思議 1978年7月30日、午前6時。沖縄県じゅうの車が、一夜にして右側通行から左側通行へと切り替わりました。 実施された日付にちなんで「730(ナナサンマル)」と呼ばれるこの出来事は、いま振り返れば、日本の交通史に残る大事件です。それなのに、当時9歳だった私の記憶には、かけらも残っていません。 なぜだろう、と考えてみました。 私が育ったのは、東京・葛飾の高砂。京成高砂駅のすぐそばの、下町でした。我が家に車はありませんでした。父は週に6日働いていて、家族で遠くへ出かけることもほとんどない暮らしです。「車が右から左になる」というニュースは、車を運転しない子どもにとって、あまりにも遠い世界の話だったのだと思います。 そもそも「沖縄」という場所自体が、当時の私にはずいぶん遠かった。飛行機に乗ったこともなければ、家族旅行の記憶もない少年にとって、沖縄は地図の上の、南のほうにある名前でしかありませんでした。 実際、この記事を書くにあたって記憶をたどってみても、「沖縄」にまつわる思い出は、私の中から何ひとつ出てきませんでした。よほど縁がなかったのでしょう。あの夏、私は確かにどこかで9歳の毎日を過ごしていたはずなのに、沖縄で起きていた歴史的な一夜とは、まるで別の世界に生きていたようです。 だから、この記事は少し特別です。いつもは自分の記憶をたどって書いていますが、今日は違います。私自身が、この出来事を今あらためて知りながら、みなさんと一緒に驚いていく——そんな記事になります。 一夜で、島がひっくり返った そもそも、なぜ沖縄だけが右側通行だったのでしょうか。 沖縄は戦後の27年近く、アメリカの統治下にありました。車はアメリカと同じ右側通行。日本に復帰したのは1972年(昭和47年)5月15日ですが、そのあとも右側通行は続きました。一つの国では通行方法を一つに統一する——そう定めた国際条約があるにもかかわらず、道路も、標識も、人々の運転の習慣も、一気にひっくり返すことなど簡単にはできません。結局、日本に戻ってからも約6年間、沖縄は「日本なのに車は右」という状態が続いたのです。 その積年の宿題を、たった一晩で片づけたのが「730」でした。 7月29日の午後10時。緊急車両をのぞくすべての車の通行が禁止され、県内一斉にサイレンが鳴り響きました。それを合図に、変更作業が始まります。翌30日の午前6時まで、わずか8時間の勝負でした。 動員された作業員は約800人、車両は約300台。かかった費用は約19億円。標識を付け替え、信号を切り替え、道路に描かれた白線を引き直し、ガードレールの向きまで直していく。気の遠くなるような作業を、真夜中の8時間に詰め込んだのです。 この短時間を可能にしたのが、世界で初めて採用された「カバーアンドテープ方式」でした。あらかじめ左側通行用の標識や信号を設置しておき、それをカバーで覆って隠しておく。当日はそのカバーを外すだけ。道路の白線も、左側通行用のものを先に描いてから黒いテープで覆っておき、当日バーナーでテープを焼き剥がす。考案した久高弘さんの名を取って「久高方式」とも呼ばれています。 さらにこの数日前には台風8号が沖縄に接近していて、信号機や大型標識のカバーが先に吹き飛ばされてしまうという一幕もありました。まさに、天気とも時間とも戦った一夜だったのです。 もっとも、夜が明けてからが本当の勝負でした。長年しみついた右側通行の癖は、ある朝を境にそう簡単には抜けません。切り替え直後は各地で接触事故が相次ぎ、那覇などの市街地では、しばらく交通マヒが続いたといいます。頭ではわかっていても、体が覚えているものはすぐには変えられない。島じゅうの人が、その戸惑いを一緒にくぐり抜けたのです。 沖縄の言葉で、アメリカ統治の時代を「アメリカ世(ゆー)」、日本復帰後を「大和世(やまとゆー)」と言うそうです。「730」は、目に見える形での復帰の総仕上げでした。人々にとっては、単なる交通ルールの変更ではなかったのです。 そのとき、バスはどうなったのか ここからが、私がいちばん驚いた話です。 車が右側通行から左側通行に変わると、いちばん困るのは、実はバスなのです。 考えてみてください。右側通行の国のバスは、乗り降りするドアが車体の右側についています。運転席は左。ところが左側通行になると、お客さんは道路の左側の歩道から乗り降りするので、ドアは左になければいけない。運転席も右に移さなければならない。つまり、それまで走っていたバスは、一台残らず使えなくなってしまうのです。 当時、沖縄島にあった左ハンドル・右ドアのバスは、およそ1,200台。「729車(ナナニイキュウしゃ)」と呼ばれるこれらの車両を、たった一晩で右ハンドル・左ドアに置き換えなければなりませんでした。 全部を改造している時間はありません。そこで、右ハンドルの新車を900台あまり一気に投入し、さらに160台あまりを改造して間に合わせました。このとき導入されたバスを、いまでも「730車(ナナサンマルしゃ)」と呼びます。あまりに大量だったので、メーカーも各社で分担が決められました。琉球バスは日産ディーゼルと日野、那覇交通はいすゞ、東陽バスは日野、沖縄バスは三菱ふそう、というように。 作業当日の段取りも、聞けば聞くほど鮮やかです。 新しい730車は、事前に旧米軍基地の跡地に集結させておく。7月29日、それまでのバス(729車)が最後の運行を終えると同時に、運賃箱や両替用の小銭を抜き取って、そのまま基地跡地に格納。入れ替わりに、パトカーの先導で730車が各営業所へと回送されていきます。車庫では、路線別・ダイヤ別にバスがきれいに並べられ、両替金が積み込まれていく——。 一晩のあいだに、島じゅうのバスが、そっくり別の車両に入れ替わったのです。 私は今、路線バスの運転士として毎日ハンドルを握っています。だから、この話は他人事とは思えません。 バスというのは、一台走らせるだけでも、始業点検をして、運賃箱を確認し、忘れ物がないかを見て、ダイヤどおりに出庫させるまでに、たくさんの人の手がかかっています。営業所では何十台ものバスが、それぞれ決められた順番で動いています。 それなのに、沖縄では、そのすべてを一晩で入れ替えたというのです。車両だけではありません。運賃箱も、小銭も、行先表示も、担当する路線も、翌朝には何事もなかったかのように走り始めなければならない。現場を知る者としては、「本当にそんなことができたのか」と思ってしまうほどの大仕事です。 もし自分がその現場にいたら、一睡もできなかったでしょう。どこか一つでも段取りを間違えれば、翌朝の路線はたちまち混乱してしまいます。それをほとんど混乱なくやり遂げた先人たちの準備力とチームワークには、ただ驚くばかりです。私にとって730は、交通ルールが変わった日というだけではなく、日本のバス業界が成し遂げた、まさに奇跡の一夜だったのだと感じています。 令和に残った、二台のバス あれから、47年が経ちました。 大量に投入された730車も、時とともに古くなり、新しいバスに置き換えられて、一台また一台と姿を消していきました。そして今、当時の姿のまま沖縄に残っている730バスは、沖縄バスと東陽バスが持つ、たった2台だけになりました。記念すべき日には、この2台が右側通行時代を再現して走ることもあるそうです。 私たちが当たり前だと思っている「車は左」という光景。それは、日本のどこでも最初から当たり前だったわけではありませんでした。少なくとも沖縄では、47年前のあの一夜に、800人の手と19億円と、900台を超える新しいバスによって、人の手で作られたものだったのです。 私が毎日握っているハンドル。何百回と曲がってきた左側の車線。乗り降りするお客さんが、当たり前のように左のドアから乗ってくること。そのすべてが、誰かの膨大な準備と苦労の上に成り立っている。そう思うと、いつもの見慣れた景色が、少し違って見えてきます。 おわりに 7月30日。私にとっては、記憶が真っ白な一日でした。 でも、覚えていないということは、知らなくていいということではありませんでした。9歳の私には遠すぎた沖縄の一夜を、50年近く経って、バスのハンドルを握る立場になってから、ようやく知ることができた。そう思うと、この「記憶にない一日」も、私にとって意味のある一日になった気がします。 みなさんは、「730」を覚えていますか。沖縄で暮らしていた方なら、あの日の混乱や興奮を、はっきりと覚えているかもしれません。私のように本土にいた方は、そもそもニュースになっていたかどうかも、記憶にないのではないでしょうか。同じ夏の同じ一日でも、立っている場所によって、こんなにも見え方が違う。それもまた、昭和という時代の面白さなのだと思います。 730を成し遂げた沖縄のバスは、今も個性豊かに島を走っています。現存する730車をはじめ、路線バスで巡る沖縄の魅力を一冊にまとめたガイドブックがこちら。バス好きにはもちろん、「レンタカー以外の沖縄旅」を考えている方にもおすすめです。いつか私も、あの2台の730車に会いに行きたいと思っています。 沖縄の路線バス おでかけガイドブック[第4版]室井昌也・谷田貝哲。路線バスで巡る沖縄の観光ガイド決定版。バス会社各社の紹介から名所へのアクセスまで、バス旅の魅力が詰まった一冊 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

July 30, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月29日──17年ぶりに、夏の夜空が帰ってきた

今日は7月29日。七月もいよいよ終わりに近づき、夏の暑さがいちばん濃くなる頃です。 昭和の夏を思い出すとき、まっさきに浮かぶもののひとつが、花火です。夕暮れの空がだんだんと藍色に沈んでいって、遠くのほうで「ドン」と腹に響く音がする。少し遅れて、夜空に大きな光の花が咲く。あの音と光は、下町に育った者にとって、夏そのものと分かちがたく結びついています。 昭和53年(1978年)の7月29日、その花火をめぐる大きなできごとがありました。長いあいだ途絶えていた両国の花火が、「隅田川花火大会」と名前を変えて、17年ぶりに夜空へ帰ってきたのです。 17年ぶりの、復活だった 隅田川の花火の歴史は、驚くほど古いものです。 さかのぼること江戸時代、享保18年(1733年)。前の年に大飢饉と疫病が江戸を襲い、多くの人が命を落としました。その死者を供養し、悪い病を追い払うことを願って、八代将軍・徳川吉宗が両国橋のたもとで水神祭を営み、川開きの日に花火を打ち上げた——これが、両国の川開き花火の始まりだと伝えられています。じつに300年近くも昔のことです。 そもそも「川開き」とは、その年の夏、隅田川での舟遊びや納涼が許される初日のこと。江戸の人々にとっては、待ちに待った夏の幕開けの合図でした。両国橋のあたりには涼み舟がびっしりと浮かび、川岸には屋台や見世物が立ち並ぶ。その夜空を彩る花火こそが、夏の到来を告げるいちばんの主役だったのです。 やがて花火職人のあいだに、「鍵屋」と、そこから分かれた「玉屋」という二つの名門が生まれました。見物人が夜空を見上げて「たまや〜」「かぎや〜」と声をかける、あの掛け声も、このころに生まれたものです。とりわけ人気を集めたのは玉屋のほうで、見事な花火が上がると、江戸っ子たちは惜しみなく「たまや〜」と声を張り上げたといいます。こうして両国の川開きは、多少の中断をはさみながらも、江戸から東京へと、夏の一大行事として受け継がれていきました。 ところが、その伝統がぷつりと途切れます。昭和36年(1961年)を最後に、両国の花火は打ち上げられなくなってしまったのです。理由のひとつは、川べりにあふれる車と、ふくれあがる見物客をさばききれなくなった交通事情。そしてもうひとつが、隅田川そのものの汚れでした。高度経済成長のただ中、工場排水や生活排水が流れ込み、川の水はどす黒く濁って、悪臭を放つほどになっていたのです。花火を映すはずの川面は、とても「涼」を感じられる状態ではありませんでした。 こうして、両国の夏から花火が消えました。以来17年ものあいだ、隅田川の夜空は静かなままでした。その間に生まれた子どもたち——昭和44年生まれの私も、その一人です——は、両国の花火というものを一度も見ないまま育っていったのです。 再び夜空を取り戻すまでには、17年という歳月がかかりました。下水道の整備が進み、汚れきっていた川の水も少しずつ息を吹き返して、ようやく機が熟したのが昭和53年です。かつての両国橋周辺は交通量が増えすぎていたため、会場を少し上流へと移し、名前も「隅田川花火大会」と改めました。桜橋から言問橋のあいだ(第一会場)と、駒形橋から厩橋のあいだ(第二会場)、二つの会場で花火を競い合う——今に続くあの形が、このとき生まれたのです。 昭和53年7月29日。17年ぶりに、隅田川の夜空に光の花が咲いたのです。 実に250年近い歴史を持つ夏の風物詩が、長い空白を経て帰ってきた。その復活は新聞やテレビでも大きく取り上げられ、東京の下町に暮らす人々にとっては、待ちに待った知らせだったにちがいありません。 正直に言えば、私の「花火」は、隅田川ではない ここまで書いておいて、正直に打ち明けます。 「花火」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、じつは、あの華やかな隅田川花火大会ではありません。 もちろん、小学3、4年生の頃だったでしょうか、母と妹と私の3人で浅草へ出かけた記憶はあります。でも残っているのは、夜空いっぱいに咲く大輪の花ではなく、押し寄せる人の波に揉まれながら、ただひたすら歩き続けたという記憶です(笑)。どこかに腰を下ろして、ゆっくり花火を見上げたという思い出ではないのが、少しだけ残念でもあります。 今にして思えば、あの日の人混みこそが、復活してまもない隅田川花火大会そのものだったのかもしれません。何十万もの人が、同じ夜空を目指して押し寄せる。その大きな渦のなかに、幼い私も、母と妹とともに確かにいたのです。花火の記憶はほとんど残っていないのに、あの熱気とざわめきだけは、今も体のどこかが覚えています。 私にとって本当の「花火大会」は、高砂の隣町・柴又で毎年開かれていた、江戸川の花火大会でした。物心ついた頃から、家族や近所の人たちと河川敷の土手まで歩いて向かうのが、夏の恒例行事だったのです。 間近で打ち上がる花火は、それまで見たことのないほど大きく、お腹の底まで響く轟音に、子どもの私は少し怖さを感じていました。それでも、夜空いっぱいに広がる光の美しさに見とれ、「夏が来た」という実感を味わっていたように思います。 あの頃は、今よりもずっとあちこちで盆踊りが開かれていました。母はにぎやかな場所が大好きな人で、夏になると毎晩のように近所の盆踊りへ出かけていました。私もその後をついて歩き、太鼓の音や提灯の灯り、屋台の賑わいに胸を躍らせたことを覚えています。あの夏の空気は、今でも忘れられません。 「花火大会をやってくる!」 そして小学生になると、夏の楽しみがもう一つ増えました。 昼間、近所の友達と駄菓子屋へ行き、バラ売りの花火を一人300円分くらい買うのです。ロケット花火やねずみ花火ではなく、手持ち花火や線香花火を思い思いに選び、夜になると「花火大会をやってくる!」と言って家を出る。子どもだけの、ささやかな夜遊びでした。 今思えば、本当にささやかな冒険です。でも、少しだけ悪いことをしているような気分が、その時間を何倍も特別なものにしてくれました。友達と囲んだ線香花火の、ぽとりと落ちる火の玉。その一瞬の明るさと、すぐに訪れる暗闇。あれもまた、まぎれもない私の「花火大会」でした。 どの夏にも、父はいなかった こうして思い返してみると、どの夏の思い出にも、父の姿がありません。 父はいつも仕事で忙しく、家族で出かけることはほとんどありませんでした。でもそれは、決して我が家だけのことではなく、近所にも同じような家庭がたくさんありました。父親たちは、みんな懸命に働いていたのです。 その代わり、私たちは地域の大人たちに見守られながら育ちました。子どもたちだけで夜道を歩き、花火をしていても、近所のおじさんやおばさんが、自然と目を配ってくれていた。そんな時代だったのです。 子どもの頃には気づきませんでしたが、大人になった今、あの温かな見守りが、どれほどありがたいものだったのかを実感します。そして今度は、自分が地域の子どもたちを見守る側の世代になったのだ、ということにも気づかされます。 夏の花火は、美しかった夜空だけではなく、人と人とのつながりまで思い出させてくれる。私にとって、そういう特別な風景なのです。 おわりに 昭和53年7月29日、隅田川に17年ぶりの花火が咲きました。街じゅうの人が、その復活を心待ちにしていたといいます。 いま、隅田川花火大会は毎年当たり前のように開かれ、両岸には100万人近い人が押し寄せます。誰もがスマートフォンを夜空にかざし、光の花を写真におさめる。いっぽうで、私の夏を彩ってくれた近所の盆踊りは、櫓を見かけることさえ少なくなりました。子どもだけで夜道を歩き、線香花火に火をつけるようなことも、今では難しい時代です。 それでも——江戸の川開きも、大きな隅田川の花火も、柴又の小さな花火も、根っこにあるものは同じなのだと思います。人が集まり、同じ夜空を見上げ、「夏が来た」と感じ合う。300年ちかく前の江戸っ子が「たまや〜」と声を張り上げた気持ちと、土手で花火に見とれていた子どもの私の気持ちは、案外、地続きなのかもしれません。花火とは、光そのものよりも、その下に集う人と人とのつながりを照らすものなのでしょう。 17年ぶりの復活を待ちわびた大人たちの気持ちが、今なら少しだけ分かる気がします。当たり前に思える夏の風物詩も、途切れてみて初めて、どれほど大切だったかに気づく。だからこそ、毎年ちゃんと花火が上がるということは、それだけで、ありがたいことなのでしょう。 あなたにとって、いちばん心に残っている夏の花火は、どんな花火でしょうか。夜空いっぱいの大輪でしょうか。それとも、誰かと囲んだ、線香花火の小さな火でしょうか。 大きな花火大会に出かけるのもいいけれど、庭先や玄関先で、孫と一緒に線香花火をぽとりと落とす——そんな夏も、また格別です。これは、職人が一本ずつ手で作る純国産の線香花火。パチパチと火花を散らし、最後にほろりと玉が落ちるまで、驚くほど長く、美しく燃えます。中国産の安価なものとは、火のもちも風情もまるで別物。あの頃の夏を、今度は見守る側として、子や孫と分かち合ってみませんか。 純国産線香花火 巧(たくみ)国内の職人が手作業で仕上げる本物の線香花火。パチパチと繊細な火花が長く続き、最後に火の玉がほろりと落ちる風情は国産ならでは。桐箱風の化粧箱入りで贈り物にも Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

July 29, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月28日──ロサンゼルスの朝、空を人が飛んだ

今日は7月28日。夏休みの、うだるように暑い盛りです。 今から40年余り前、1984年(昭和59年)のこの日、アメリカ・ロサンゼルスで第23回夏季オリンピックが開幕しました。日本とロサンゼルスの時差の関係で、開会式が日本のお茶の間に届いたのは、翌29日の朝でした。 その画面の中で、ひとりの人間が背中に噴射装置を背負い、スタジアムの空をふわりと飛んだのです。 当時、私は15歳。中学3年生でした。その夏、区大会で敗退して野球部はすでに引退し、高校入試に向けて気持ちを受験勉強に切り替えていた、そんな時期でした。 空を、人が飛んだ 日本時間で29日の朝に届いたロサンゼルス・メモリアル・コロシアムの開会式は、それまでの五輪の常識をひっくり返すものでした。 レーガン大統領の開会宣言。ジョン・ウィリアムズが書き下ろした、あの勇壮なトランペットのファンファーレ。84台ものグランドピアノが並び、ガーシュウィンの『ラプソディ・イン・ブルー』を一斉に奏でる。そして極めつけが、ジェットパックを背負って会場上空を飛ぶ「ロケットマン」でした。SF映画のような光景に、世界中が度肝を抜かれ、NHKの中継の視聴率は47.9%に達したといいます。 派手な演出の裏には、したたかな計算がありました。実はこのころ、オリンピックそのものが存亡の危機にあったのです。1976年のモントリオール大会は莫大な赤字を出し、1980年のモスクワ大会は西側諸国のボイコットで深く傷ついていた。「オリンピックは金がかかるだけのお荷物だ」――そんな空気さえ漂っていました。 その流れを変えたのが、大会組織委員長を務めた実業家、ピーター・ユベロスでした。彼はテレビの放映権を史上最高額でアメリカのABCに売り、スポンサーを「1業種1社」に絞って協賛金を吊り上げた。批判も浴びましたが、終わってみればロス五輪は2億ドルを超える黒字を叩き出したのです。今に続く「商業五輪」は、この夏に始まりました。空を飛ぶロケットマンは、オリンピックが新しい時代へ突入する号砲でもあったのです。 夏休みで、朝は少しゆっくり起きられる日もありました。時差の関係で、私はロサンゼルス五輪を、朝からテレビをつけて見ていた記憶があります。 なかでも一番印象に残ったのは、やはりロケットマンでした。本当に空を飛んでいる人を見たような気がして、「アメリカはすごいな」と純粋に驚いたのです。まるで映画の世界のようで、日本では絶対に見られない演出だと思いました。「商業五輪」という言葉もニュースで耳にはしていましたが、中学生の自分に難しい意味まではわかりません。スポンサーだ放映権だということよりも、「派手で面白い開会式だな」という印象のほうが、ずっと強かった。厳かだったそれまでの開会式とは違い、まるで大きなショーのようで、競技が始まる前から「日本は何個メダルを取れるだろう」と、家族と話しながら画面に見入っていました。 ボイコットの応酬と、四年越しの金メダル 華やかな開会式の一方で、この大会にはぽっかりと空いた「穴」がありました。ソ連や東ドイツをはじめとする東側諸国が、そろって不参加を決めていたのです。 理由は、報復でした。4年前の1980年、西側諸国はソ連のアフガニスタン侵攻に抗議してモスクワ大会をボイコットした。今度はその意趣返しとして、東側がロサンゼルスをボイコットする。スポーツが、またしても政治の道具にされたのです。ボイコットが二度続けば、傷つくのはいつも、その舞台を目指してきた選手たちでした。 このモスクワ・ボイコットのことは、7月19日の記事で書きました。あのとき、参加を信じて過酷な稽古を積み、それでも舞台を奪われた選手のひとりが、柔道の山下泰裕でした。 その山下が、4年の雌伏を経て、ようやくロサンゼルスの畳に立ちます。無差別級。公式戦で負け続けたことのない彼に、死角はないと言われていました。ところが2回戦、右のふくらはぎに肉離れを起こしてしまう。決勝の相手はエジプトの巨漢、モハメド・ラシュワン。山下は右足を引きずりながら畳に上がりました。 ここで、五輪史に残る場面が生まれます。ラシュワンは、山下の痛めた右足を、最後まで攻めなかったのです。試合開始からわずか1分5秒、山下は払い腰をすかしてラシュワンを崩し、横四方固めで一本勝ち。奪われ続けた金メダルを、ついに首にかけました。日本のお家芸の悲願が、結実した瞬間でした。フェアプレーに徹したラシュワンには、後に国際フェアプレー賞が贈られています。この決勝が行われたのは、開幕から2週間後の8月11日のことでした。この大会の柔道で、日本は山下を含む4階級で金メダルを獲得し、その底力を世界に見せつけました。 あの決勝を、私はテレビの前で固唾をのんで見ていました。右足を痛めていることはニュースで知っていたので、「本当に大丈夫なのかな」と心配しながらの応援でした。足を引きずる姿は見ていて苦しそうで、それでも最後まで諦めずに金メダルをつかんだ瞬間は、本当に感動しました。「これが日本の柔道なんだ」と、誇らしい気持ちになったのを覚えています。 4年前のモスクワでは、日本は参加すらできませんでした。それだけに、山下選手の金メダルは、あのときの悔しさを少し晴らしてくれたような気がしたのです。相手のラシュワン選手が、痛めた右足を狙わずに正々堂々と戦ったと後から知ったときのことも、忘れられません。勝つことが第一だと思っていた中学生の私は、この一戦に「勝ち負けだけではない感動があるんだな」と教わった気がします。 野球が、初めて五輪の金メダルを獲った日 そしてこの大会には、野球少年だった私の胸を最も熱くした競技があります。野球です。 ロサンゼルス五輪では、野球が初めて、国と国とが代表チームで争う「公開競技」として行われました。正式種目ではないものの、世界一を決める五輪の野球――それだけで胸が高鳴りました。しかも日本代表は、プロではなく、大学生7人と社会人12人で編成されたアマチュアの混成チームだったのです。 急ごしらえのチームには温度差もあり、まとまりを欠いたまま本番を迎えたと、後に選手たちは振り返っています。それでも日本は予選を1位で通過し、準決勝では台湾を延長戦の末に振り切り、決勝で野球の本場・開催国アメリカと対戦しました。そして4番を務めた大学生、広沢克己(後の広澤克実)の本塁打などで6対3。開催国を破って、日本は五輪野球の初代王者に輝いたのです。 この代表チームからは、大会後に16人がプロ野球の世界へ進みました。「オリンピックからプロへ」という道を、彼らが切りひらいたのです。指揮を執ったのは、のちに社会人野球の名将として知られる松永怜一監督。ばらばらになりかけた若いチームをまとめ上げ、世界一へと導いたのです。 野球は、私が一番好きなスポーツでした。ですから、日本代表の金メダルは、本当にうれしかった。ただ、ちょうど自分も中学最後の夏を区大会敗退で終え、野球部を引退したばかり。試合を見ながら、少し複雑な気持ちもありました。 「自分の野球はいったん終わったけれど、高校ではまた続けよう」。そう思っていた時期でしたから、日本代表のプレーは憧れそのものでした。受験勉強の合間にテレビを見ては、「来年は自分も高校球児なんだ」と、自然に前を向けたのを覚えています。4番を打った広沢克己選手の力強い打撃には、「大学生でもこんなにすごい選手がいるんだ」と驚いたものです。引退直後の寂しさよりも、「高校に入ったら、またやれる」という思いのほうが強かった。あの夏のロサンゼルス五輪の野球は、私にとって、新しい野球人生への背中を押してくれた大会でもあったのです。 令和の五輪から振り返ると あの夏、日本は金10・銀8・銅14のメダルを持ち帰りました。体操の具志堅幸司が個人総合で金、射撃では48歳の蒲池猛夫が日本の五輪史上最年長の金メダリストに。陸上では地元アメリカのカール・ルイスが4種目を制し、「ジェシー・オーエンスの再来」と讃えられました。もっとも、東側の強豪が不在だったぶん、日本のメダルが実力以上に増えた面は否めません。それでも、四年前の悔しさを晴らすように躍動した選手たちの姿は、多くの人の胸に刻まれました。 令和のいま、オリンピックはスマートフォンやタブレットで、時差を気にせず好きな競技をいつでも配信で追える時代になりました。それは便利で、ありがたいことです。けれど、あの朝の感覚――家族みんなでテレビの前に集まり、時差の向こうの一回きりの中継に一喜一憂した、あの熱を、私はときどき無性に懐かしく思い出します。 ユベロスが仕掛けた商業五輪の手法は、その後あらゆる巨大スポーツイベントの手本になりました。オリンピックはそこからどんどん巨大になり、光と影の両方を抱えていきます。空を飛ぶロケットマンが象徴した「きらびやかな未来」は、良くも悪くも本当にやってきたのだと、令和の五輪を見るたびに思うのです。 おわりに 1984年の夏、ロサンゼルスの空を、ひとりの人間が飛びました。噴射装置の煙をたなびかせ、まるで未来から舞い降りてきたかのように。 同じ大会で、右足を引きずりながら畳に立ち、それでも金メダルをつかんだ男がいた。アマチュアの野球チームが、本場アメリカを倒して世界一になった。きらびやかなショーと、泥くさい人間のドラマが、同じ2週間の中に同居していた――それが、私にとってのロサンゼルス五輪です。 あなたには、1984年のロサンゼルス五輪の、どんな場面が心に残っていますか。開会式のロケットマンでしょうか。山下泰裕の金メダルでしょうか。それとも、まったく別の誰かの、別の一瞬でしょうか。よろしければ、あなたの記憶も聞かせてください。 あの夏、ロケットマンの裏で静かに始まっていた「商業五輪」。その光と影を、ロス五輪を起点にたどった一冊です。ユベロスが何を変え、オリンピックがどこへ向かったのか――あの派手な開会式の「意味」を、大人になった今、あらためて確かめてみたい方におすすめです。 オリンピックと商業主義(集英社新書)小川勝。1984年ロサンゼルス大会から始まった五輪の商業化を検証。放映権とスポンサーが五輪をどう変えたのかを追ったノンフィクション Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 あわせて読みたい:アルプススタンドの千羽鶴に込められた思いを、親の目線で書きました▼ 千羽鶴に込められた思い――甲子園を目指す高校野球を「親の目線」で見て気づいたこと ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月27日】毎朝、テレビは「ロッキード」と言っていた | 次の記事:【7月29日】17年ぶりに、夏の夜空が帰ってきた ▶ ...

July 28, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月27日──毎朝、テレビは「ロッキード」と言っていた

夏の朝、ニュースはいつも同じ事件を伝えていた 1976年、昭和51年の夏。私は7歳、小学1年生になったばかりでした。 我が家の朝は、いつも決まった風景でした。母は台所で朝食の支度をしていて、父と私と妹の三人は、正座の姿勢で箸を動かす。そのかたわらで、テレビはNHKのニュースを流している——それが、あの頃の我が家の朝でした。 正座した子どもの耳に、大人の世界の言葉が、意味もわからないまま流れ込んできます。「為替相場は、1ドル297円」。「丸紅ルートが……」。父も母も、それらについて何か話すわけではありません。ニュースはただ、朝の食卓の空気の一部として、そこに流れているだけでした。 そんな数々の言葉のなかで、なぜか私の耳に、くっきりと残ったものがあります。「ロッキード事件」。カタカナのその名前を、当時の私は、毎朝のように聞いていました。アナウンサーが繰り返し、繰り返し、その言葉を口にしていたのです。 7歳の子どもに、事件の中身などわかるはずもありません。それでも、ひとつだけ、はっきりとわかっていたことがあります。これは、政治家がお金をもらって悪いことをした事件なのだ、ということです。 「政治家が、お金で」——それだけはわかった 不思議なもので、あの言葉の“中身”を、私はその後もずっと、ちゃんとは知らないまま大人になりました。 ロッキードとは何なのか。誰が、誰から、いくらもらったのか。なぜあれほど大きな騒ぎになったのか。断片的な言葉——「田中角栄」「5億円」「記憶にございません」——は覚えているのに、それらがどうつながるのかは、ぼんやりしたままだったのです。 だから今日は、あの夏の朝に毎日聞いていた言葉の中身を、大人になった自分の目で、ひとつずつ確かめてみようと思います。 事件の正体は、一機の旅客機だった ロッキード事件とは、アメリカの航空機メーカー・ロッキード社が、自社の飛行機を各国に売り込むため、政財界の要人に賄賂をばらまいた、国際的な汚職事件です。日本にわたった工作資金は、総額30億円を超えたといわれます。 そもそもロッキード社は、戦闘機など軍用機を得意とするメーカーでした。ところが旅客機の分野では、ボーイングなどの強豪に押されて苦戦を強いられていた。なんとしても自社機を売りたい——その焦りが、世界各国での大がかりな贈賄工作につながっていったのです。賄賂を受け取ったとされる要人の名は、オランダやイタリアなど、日本以外の国々でも取り沙汰されました。まさに世界を揺るがすスキャンダルであり、日本はその最大の“市場”のひとつだったのです。 事の発端は、日本ではなくアメリカでした。1976年2月、アメリカ議会の委員会が開いた公聴会で、ロッキード社の副会長が「日本の政界に金を渡した」と証言したのです。海の向こうでのたった一言が、やがて日本列島を揺るがすことになりました。 当時の首相・三木武夫は、この疑惑の徹底究明を国民に約束します。東京地検特捜部は、警視庁や国税庁とも手を組んだ異例の合同捜査に乗り出しました。同じ自民党の、しかも最大の実力者であるはずの田中角栄に、身内の政権の側から捜査のメスが入っていく——そんな張り詰めた空気のなかで、事件は動いていったのです。 日本での舞台になったのは、全日空——ANAの旅客機選びでした。当時、全日空は新しい大型旅客機の選定を進めており、最終的にロッキード社製の「トライスター」の導入を決めます。この機種選びこそが、のちに“便宜”として問題視されることになりました。その選定の裏で、ロッキード社は商社の丸紅を窓口に、さらに「政商」と呼ばれた小佐野賢治や、右翼の大物・児玉誉士夫といった人物を通じて、日本の中枢へと金を流していきました。その金の流れの先に名前が挙がったのが——時の前首相、田中角栄だったのです。 ここで問われたのが、「受託収賄」という罪でした。政治家がその立場を使って特定の企業に有利なように取り計らい、その見返りに金を受け取る——それがこの罪の中身です。全日空が、どの会社の旅客機を選ぶのか。ただそれだけのことに、これほどの金額と、これほどの権力が動いていた。子どもだった私が「政治家がお金で悪いことをした」と受け取っていたのは、つきつめれば、こういうことだったのです。 「今太閤」の逮捕 田中角栄という政治家を、少し紹介しておきます。 新潟の農村に生まれ、学歴は高等小学校まで。それでも一代でのし上がり、54歳の若さで総理大臣にのぼりつめた人物です。「日本列島改造論」を掲げて全国に道路や鉄道を通し、庶民の出であることから「今太閤」と呼ばれました。まさに立志伝中の宰相です。1972年に首相となって日中国交正常化を成し遂げますが、金脈問題への批判を受け、1974年に退陣していました。 その田中が、ロッキード社から丸紅を通じて5億円を受け取り、全日空にトライスター導入の便宜を図った——という容疑で、1976年7月27日、東京地検特捜部に逮捕されます。罪状は受託収賄と、外国為替管理法違反。総理大臣を務めた大物政治家が、しかも現職の国会議員のまま逮捕される。それは日本じゅうを震え上がらせる、衝撃的なできごとでした。東京・目白の田中邸の前にはカメラマンが群がり、その様子はテレビで生中継されました。逮捕を受けて田中は自民党を離党しますが、それでも日本じゅうが、連日この事件にくぎづけになりました。私が毎朝聞いていた「ロッキード事件」とは、まさにこの一連の騒動のことだったのです。 「記憶にございません」と「ピーナッツ」 この事件は、いくつもの流行語を残しました。 ひとつは「記憶にございません」。逮捕に先立つ2月の証人喚問で、事件の鍵を握るとされた小佐野賢治が、質問のたびにこの言葉を繰り返したのです。嘘をつけば偽証罪に問われる。かといって本当のことは言いたくない。その狭間で編み出された絶妙な逃げ口上は、たちまちその年の流行語になりました。そして半世紀近くたった今も、追い詰められた政治家が国会でしばしば口にする——おなじみの言葉として、生き続けています。 もっとも、事件のいちばんの核心にいたとされた児玉誉士夫は、証人喚問が決まったとたんに「病気」を理由に、公の場に姿を見せませんでした。テレビ中継された喚問の場を国民が固唾をのんで見守るなか、肝心の口ほど、重く閉ざされていたのです。 もうひとつは「ピーナッツ」。賄賂の領収書に、金額を隠すための隠語として書かれていた言葉で、「1ピーナッツ」が100万円を意味しました。抗議のデモ隊が、関係者の事務所にピーナッツの粒を投げつけた、という逸話まで残っています。 裁判は、答えの出ないまま終わった 驚くべきことに、田中角栄は逮捕されても失脚しませんでした。その年の12月の総選挙では、地元・新潟でトップ当選を果たします。逮捕されたばかりの政治家に、有権者が誰よりも多くの票を入れたのです。雪深い新潟の人々にとって、田中は、自分たちの郷里に道路や鉄道を引いてくれた恩人でした。中央の政界で何を言われようと、暮らしをよくしてくれた「おらが先生」を、地元は見捨てなかったのです。田中はその後も「闇将軍」と呼ばれ、政界に絶大な影響力を持ち続けました。 裁判は、長い長い年月に及びました。その途中の1981年には、田中の秘書だった榎本敏夫の元妻が、法廷で検察側の証人に立ち、5億円の授受を裏づける証言を行っています。身内からの決定的なひと言に世間はどよめき、彼女が会見で口にした「ハチの一刺し」という言葉もまた、この事件が生んだ流行語のひとつになりました。そして1983年、一審の東京地裁は、田中に懲役4年・追徴金5億円の有罪判決を言い渡します。しかし田中はただちに控訴。争いが最高裁まで続くなか、1993年、田中は判決の確定を見ないまま、75歳でこの世を去りました。「総理大臣の犯罪」は、はっきりと白黒がつくことのないまま、歴史の中に沈んでいったのです。 半世紀後、あの言葉はまだ国会にある こうして事件の全体像を追いかけてみて、私は少し不思議な気持ちになりました。 あの夏の朝、7歳の私がテレビの前で聞いていた言葉。その中身は、これほどまでに込み入っていて、これほどまでに大きなものだったのか、と。そして、子どもの私が「政治家がお金で悪いことをした」と受け取っていたことは、乱暴なようでいて、案外、事件の芯を突いていたのかもしれません。 そういえば、あの食卓で耳にしていた「丸紅ルート」も、「為替」も——実はこの事件のまん中にあった言葉でした。丸紅は、5億円を田中のもとへ運んだ商社の名前。そして「外国為替管理法違反」は、田中にかけられた罪状そのものです。事件の核心にある言葉を、7歳の私は、意味も知らないまま毎朝口にできるほど聞いていたことになります。正座して箸を動かしていたあの食卓は、思っていたよりずっと、時代のまん中につながっていたのでした。 令和の今も、政治とお金をめぐるニュースは、形を変えて流れ続けています。政治資金や裏金をめぐる問題が報じられ、「記憶にございません」という言葉が国会で聞こえてくるたび、私はあの夏の朝を思い出すのです。半世紀たっても、人は同じ言葉で、同じように逃げる。あのカタカナの事件名を、幼い私が意味もわからず覚えてしまったのは、それが来る日も来る日も、朝のニュースを埋め尽くしていたからでした。そして今も、テレビは少しだけ姿を変えて、同じような事件を伝え続けているのかもしれません。 みなさんにとって「ロッキード」という言葉は、どんな記憶と結びついているでしょうか。リアルタイムで固唾をのんで見守った方も、私のように言葉の響きだけを覚えている方も、よかったらその頃のことを聞かせてください。 「政治家がお金で」という子どもの直感の、その先にある本当の複雑さ。ロッキード事件を一冊で骨太に味わうなら、経済小説の名手・真山仁が事件の深層に迫ったこの一作がおすすめです。田中角栄はなぜ裁かれ、なぜ今なお語られるのか。あの朝のニュースの“中身”が、大人の読み物として立ち上がってきます。 ロッキード(文春文庫)真山仁。『ハゲタカ』の著者が、半世紀の時を経てロッキード事件の深層に挑んだ渾身のノンフィクション Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月26日】僕はいつも別の場所にいた | 次の記事:【7月28日】ロサンゼルスの朝、空を人が飛んだ ▶ ...

July 27, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月26日──僕はいつも別の場所にいた

「昭和の今日は何があった日?」——このシリーズを書くために、私はまず7月26日という日を調べてみました。すると、有名な出来事が三つ、目に飛び込んできます。 「ゲームは1日1時間」という、あの名言が生まれた日。「幽霊の日」という、いかにも夏らしい記念日。そして、月へ向かうロケットが打ち上がった日。 ところが、三つを並べて、私は正直に告白しなければなりません。——どれ一つとして、私の「思い出」ではないのです。ファミコンは買ったこともなかった。幽霊に震えた記憶もない。月ロケットに至っては、私はまだ2歳でした。 いつもなら、この欄には子ども時代の私の記憶が並びます。でも今日は違います。今日は、この三つの出来事を、読者のみなさんと一緒に、初めて調べていくことにします。そしてたぶん、最後に分かるはずです。世界がこの日を記憶しているあいだ、私はいったい、どこにいたのか。 ゲームは1日1時間、僕は一日中グラウンドに まず、あの名言です。「ゲームは1日1時間」。 調べてみて驚きました。生まれたのは、1985年7月26日。福岡市のダイエー香椎店で開かれた、ファミコンの全国キャラバン大会でのことでした。ハドソンの社員だった高橋名人が、集まった子どもたちに向けて、即興でこう言ったのだそうです。「ゲームが上手くなりたいなら、1時間くらい集中してやったほうがいいよ」と。それがいつしか「ゲームは1日1時間」という合言葉になり、日本中の親のお墨付きになっていきました。 任天堂がファミコンを発売して、ちょうど2年。あの『スーパーマリオブラザーズ』が世に出るのは、この年の9月です。つまり1985年の夏は、ファミコンブームがまさに夜明けを迎えようとしていた季節でした。コントローラーのボタンを1秒間に16回押す「16連射」で、高橋名人は子どもたちの憧れの的でした。『月刊コロコロコミック』の誌面をにぎわせ、全国のデパートやスーパーを回るキャラバン大会には、黒山の人だかりができたといいます。 そして「ゲームは1日1時間」。この一言は、ゲームに夢中になる子どもと、それを心配する親の、ちょうど真ん中に立つ言葉でした。ゲームをつくって売る側の人間が「やりすぎるな」と言う。そのふしぎな説得力もあって、この合言葉は日本中の家庭に広まっていったのでしょう。 ……と、ここまで書いて、私は気づきました。この夏、私は16歳。高校1年生でした。そして、ファミコンを持っていませんでした。興味も、正直なところ、まるでありませんでした。 理由ははっきりしています。野球です。 しかも、あのブームの真ん中にいたのは、小学生から中学生——つまり『コロコロ』を読む年頃の子たちでした。16歳の私は、ちょうどその世代の、一つ上のふちに立っていたことになります。 みんなが16連射を練習していたその夏、私は素振りのバットを振っていました。日本中の子どもたちがマリオを走らせていたその時間、私はグラウンドで白球を追いかけ、土にまみれていました。朝は誰よりも早くグラウンドに立ち、日が暮れるまでボールを追う。夏休みも、お盆も、その繰り返しです。ゲームに費やす1時間など、私にはありませんでした。仮にあったとしても、私はきっと、バットを振っていたと思います。 野球に夢中で、ゲームには本当に、これっぽっちも興味がありませんでした。だから、友達とゲームの話をしたという記憶さえ、私には一つもないのです。誰かの家に集まってコントローラーを奪い合う——そんな、いかにも昭和の子どもらしい光景の中に、私はとうとう一度も入っていきませんでした。ゲームというものは、私にとって、最後まで「よその世界の出来事」だったのです。 だから「ゲームは1日1時間」という名言も、当時の私の耳には一度も届いていませんでした。今の子どもたちが聞けば「そんなの当たり前」と笑うこの言葉が、実は40年も前に、しかも福岡のスーパーの店先で生まれていた——そのことを、私はこの歳になって、ようやく知ったのです。 幽霊も、僕を訪ねてはこなかった 二つめは「幽霊の日」です。 これも調べて知りました。1825年のこの日、鶴屋南北の歌舞伎『東海道四谷怪談』が、江戸の中村座で初めて上演された。それにちなんで、7月26日は「幽霊の日」とされているのだそうです。お岩さんの、あの怪談です。 そして昭和の夏といえば、怪談はごく身近なものでした。テレビをつければ夏の怪奇特番や心霊写真、遊びに行けばお化け屋敷や夜の肝試し。口裂け女のうわさに、学校の理科室や階段にまつわる怖い話。思えば昭和の子どもは、そこかしこで「怖いもの」と隣り合わせに夏を過ごしていました。背筋をひやりとさせて涼をとる——それが昭和の夏の定番だったはずです。 ところが、ここでもまた、私にはこれといった思い出がありません。怪談にも、お化け屋敷にも、心霊写真にも——どういうわけか、私は縁がありませんでした。 思い返せば、中学、高校と、私の夏の夜は早く更けていきました。翌日の練習のために、幽霊よりも早く床につく。テレビの前で夜ふかしをして震える、という夏の楽しみを味わう暇は、私にはありませんでした。体は疲れ果てていて、怖い話に付き合っている余裕など、なかったのかもしれません。四谷怪談のお岩さんも、心霊写真のあの手この手も、汗と泥にまみれた野球少年のところには、どうやら訪ねてこなかったようです。 2歳の僕は、月を見上げてもいなかった そして三つめ。1971年7月26日、アメリカの月ロケット「アポロ15号」が打ち上げられました。 これは三つの中でも、私からいちばん遠い出来事です。なにしろ当時、私は2歳。記憶があろうはずもありません。 それでも調べてみると、これがなかなか面白いミッションでした。アポロ15号は、月の上を走る車——「月面車」を初めて使った探検だったのです。船長のデビッド・スコットは、月面でちょっとした実験をしてみせます。左手に羽根、右手にハンマーを持ち、同時に手を離す。空気のない月では、重い鉄のハンマーと軽い羽根が、まったく同じ速さで、すとんと同時に地面に落ちました。「空気がなければ、物の落ちる速さは重さに関係ない」——400年ほど前にガリレオが唱えたこの法則を、人類は月の上で、その目で確かめてみせたのです。月の上を車が走り、その車から中継の映像が届く。冷静に考えれば、とんでもないことをやっていた時代でした。 ただ、月に人が降り立つという偉業も、このアポロ15号で四度目。世界の驚きは、少しずつ「見慣れたもの」へと変わりつつあった頃でもありました。 月といえば、私には一つだけ思い出があります。父が、事あるごとに「アポロ11号は月に行ったんだぞ。すごいよなぁ」と口にしていたことです。あの言葉は、それこそ何度も何度も聞かされました。けれど不思議なことに、その2年後に打ち上がったこの15号の話は、父の口から一度も聞いた覚えがありません。人類が二度目、三度目と月へ通ううちに、月はいつしか、わざわざ語るまでもない、当たり前の場所になっていたのかもしれません。 2歳の私は、もちろん月を見上げてなどいませんでした。きっと、眠っていたことでしょう。 僕の7月26日は、いつも同じ場所にあった こうして三つを調べ終えて、私は妙に納得しています。 ゲームの名言も、夏の幽霊も、月のロケットも——世界はちゃんと、この7月26日を記憶している。けれど私には、そのどれもが「自分ごと」ではありませんでした。 理由は、たぶん、いつも同じだったのです。私はその日、別の場所にいた。あるときは2歳で親の腕の中にいて、あるときは翌日の練習に備えて眠っていて、そしてあるときは——炎天下のグラウンドで、ただひたすらに白球を追いかけていた。 世界を沸かせた名言も、夏を彩った怪談も、人類の偉業も、私の横をすうっと通り過ぎていきました。同じ時代の空気を吸いながら、私はまるで違うものを見ていたのです。 みんなが夢中になったものを、私は知らずにいました。それは少しさびしいことのようでいて、でも、そうではないのだと思います。ファミコンを知らなかったのは、私の両手が、別のもので塞がっていたからです。そしてその「別のもの」こそが、あの頃の私にとっては、月よりも、幽霊よりも、どんなゲームよりも大切なものでした。 みんなと同じ思い出を持たないことは、思い出がないことと同じではありません。私の7月26日は、ただ、みんなとは違うかたちをしていた。それだけのことなのだと、今は思えます。 みなさんの7月26日は、どんな一日でしたか。ファミコンに夢中だった方、怪談に震えた方、月を見上げた方——それぞれの「あの日、いた場所」を、よかったら聞かせてください。 「ゲームは1日1時間」の一言が、福岡のスーパーの店先から日本中へ広まっていった顛末。それを当の高橋名人本人が振り返ったのが、この一冊です。ファミコンに背を向けて野球ばかりしていた私のような人間が読んでも、めっぽう面白い。あの夏、コントローラーを握っていた側の"答え合わせ"として、同世代におすすめします。 高橋名人のゲーム35年史(ポプラ新書)高橋名人。16連射と「ゲームは1日1時間」の伝説を、本人がユーモアたっぷりに語る。ファミコン世代の必読書 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月25日】「これが本物か」。私が回していたキューブは、偽物だった | 次の記事:【7月27日】毎朝、テレビは「ロッキード」と言っていた ▶

July 26, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月25日──「これが本物か」。私が回していたキューブは、偽物だった

7月25日は「かき氷の日」なのだそうです。「な(7)つ(2)ご(5)おり」の語呂合わせに加えて、1933年のこの日、山形市で40.8度という当時の日本最高気温が記録されたことにちなむのだといいます。いかにも夏休みの真ん中らしい記念日です。 その7月25日に、昭和の子どもにとって忘れがたいものが世に出ています。1980年(昭和55年)7月25日、金曜日。ツクダオリジナルという玩具会社から、六面の色を揃える立体パズルが発売されました。ルービックキューブです。 このとき私は小学5年生。夏休みが始まってまだ数日という頃でした。 ただ、正直に書いておきます。その夏、私はルービックキューブを持っていませんでした。 昭和55年の夏休み、私が毎日していたのは、友達と連れ立って区民プールに行くことでした。さんざん泳いで、体を冷やしきって、外に出る。すると、プールのそばにおでんの屋台が来ているのです。串に刺さったウインナーや、ちくわぶを買い食いする。プールの塩素の匂いと、おでんのだしの匂い。私の昭和55年の夏は、立方体ではなく、その二つの匂いでできていました。 一億円で買ってきた立方体 ルービックキューブが日本にやってきた経緯は、調べてみるとなかなか面白いのです。 ツクダオリジナルの代表取締役だった和久井威さんが、ニューヨークのトイショーでこの立方体を見つけ、15万個分の販売権を1億円で獲得したのだそうです。日本ではまだ誰も知らない代物に、玩具会社が1億円を投じる。相当な博打だったはずです。 背景には、伊勢丹新宿店の「アダルトホビー部門」の担当者から、パズルゲームの商品がほしいと言われていたことがあったといいます。ここが大事なところです。ルービックキューブは、子ども向けのおもちゃとして日本に持ち込まれたわけではなかったのです。 値段の付け方にも、それが表れています。和久井さんは当初1,480円を想定していたそうですが、伊勢丹の担当者から「2000円ぐらいでも売れる」と言われ、1,980円にしたのだといいます。 発売に先立って、同じ年の6月1日には朝日新聞の日曜版が「究極の立体パズル」としてこのパズルを紹介しています。すると読者から「どこで売っているのか」という問い合わせが殺到し、それがまた記事になった。火は、発売前についていたのです。 私のキューブは、偽物だった 私がルービックキューブを手にしたのは、発売の夏より少し後のことでした。そして買ってもらったのは、正規品ではありませんでした。いわゆる偽物です。 弁解するようですが、当時の私の周りで「本物」を持っていた友達は、一人もいませんでした。みんな偽物です。それを学校に持って行って、休み時間に友達とカチャカチャ回していました。 1,980円という値段は、子ども心にも高いと感じていました。だから偽物になったのだろう、と長らく思っていたのです。ただ、記憶をたどると、それだけではない気もするのです。そもそもツクダオリジナルの本物が、売り場になかなか置いていなかった気がするのです。品薄だったのではないか、と。 本物は、町のおもちゃ屋に来なかった この記憶が引っかかったので、少し調べてみました。 たしかに、正規品だけで発売から8か月で400万個以上が売れています。1981年2月には海賊版が出回る事態にもなりました。ただ、どうやら「店頭から消えて買えない」というほどの極端な品不足ではなかったようなのです。 では、なぜ私の記憶では売り場になかったのか。 答えは、たぶん最初の話に戻ります。ルービックキューブは伊勢丹新宿店のアダルトホビー部門の要望から入ってきた、1,980円の商品です。つまりあれは、百貨店の売り場に置かれる大人の趣味の品だったのです。葛飾の町のおもちゃ屋や駄菓子屋の棚に、二千円近い舶来のパズルが並んでいたとは考えにくい。 品薄だったのではなく、そもそも私たちの町には流通していなかった。私の記憶は、たぶん間違っていなかったのです。 だから下町の子どもにとってのルービックキューブとは、最初から偽物のことでした。安っぽい作りでも、回して遊ぶぶんには本物と変わらない。あれは本物の代用品ではなく、私たちにとっては、それが唯一の実物だったのです。 「これが本物か」 そんな私が、いつだったか、本物のツクダオリジナル製を手に取る機会がありました。 回した瞬間のことは、今でも覚えています。軽いのです。偽物と比べて明らかに軽く、滑らかに、カチャカチャと回る。引っかからない。ねじれない。指先の力が、そのまま回転になって伝わっていく。 「これが本物か」 心の底から感心しました。値段の差とは、こういうことだったのか。あのとき私が感じたのは、たぶん、初めて触れた「工業製品の品質」というものでした。 もっとも、本物を回したところで、六面が揃うわけではありません。教室には必ず一人か二人、「オレ、六面そろえた」と言うやつがいましたが、たいていは嘘でした。よく見ればシールの角が浮いている。あるいは、いったんバラして組み直したのだと、後になって白状する。 もっとも、これは子どもが不真面目だったからではありません。配置の総数は4325京2003兆2744億8985万6000通りあるのです。京という単位を、私はこのパズルで初めて知ったような気がします。実際、翌1981年には揃え方を解説する本が出版され、数学の専門誌『数学セミナー』までが「ルービック・キューブで群論を学ぼう」という特集を組んでいます。大学で扱う数学の話が、おもちゃ売り場から立ち上がってきたわけです。 発明した本人でさえ、一か月かかった ここで、いちばん救われる話を書かせてください。 このパズルを考案したのは、ハンガリーの建築学者、ルビク・エルネー(エルノー・ルービック)さんです。ブダペスト工科大学の教授でした。1974年、立体幾何を学生に説明するための「動く模型」を求めていて、ドナウ川の流れを見てひらめいたのだといいます。最初の試作品は木でできていました。 そして彼は、完成した立方体の各面を違う色に塗り分け、動かしてみた。ところが、元に戻らなくなった。 「結果的に、出発点に戻るのに丸1か月かかった」 発明した本人が、です。 これを読んだとき、私は45年越しに肩の荷が下りたような気がしました。揃えられなくて当たり前だったのです。あれは揃えるためのおもちゃというより、揃わないことを手のひらで確かめるための装置だったのかもしれません。 帝国ホテルの四百人と、ガンダムの襲来 ブームは瞬く間に燃え上がりました。 1981年1月31日、東京の帝国ホテルで「第1回全日本キュービスト大会」が開かれています。6歳から68歳まで、約400人が集まりました。優勝したのは北島秀樹さんという当時16歳の高校生で、記録は単発46秒台、3回の合計が2分37秒。ルービックさん本人も来日し、優勝者には賞品として自動車が贈られたといいます。おもちゃの大会の賞品が、車です。 ところが、この熱はあっけなく冷めます。 ツクダオリジナルは1981年のゴールデンウィークに向けて30万個の追加発注をかけました。そこへ、まったく別の方角から津波が来ます。『機動戦士ガンダム』のプラモデル──ガンプラのブームです。 子どもたちの小遣いと関心は、立方体からモビルスーツへ移りました。売れ行きは急減し、残った大量の在庫は翌年の福袋に詰められ、それでも捌けず、結局10年かけて少しずつ処理したのだそうです。 ブームというのは、こういうふうに終わるのですね。誰かが飽きたからではなく、隣にもっと面白いものが現れるから終わる。 令和のキューブは、三秒で揃う 昭和の子どもだった私たちにとって、ルービックキューブは「揃わないもの」でした。ところが令和のいま、状況はまったく違います。 2010年、コンピュータによる解析で、どんな状態からでも最大20手あれば揃えられることが証明されました。「神の数字」と呼ばれるそうです。競技としてのスピードキュービングも確立し、3×3の単発世界記録は3.08秒(2025年2月、中国のYiheng Wang選手)まで縮んでいます。子どもたちがYouTubeで手順を覚え、小学生が十数秒で揃えてみせる時代です。 もうひとつ、調べていて驚いたことがあります。当時、日本で売られていたキューブは、世界標準とは配色が違っていたのだそうです。黄色と青の位置が入れ替わった「日本配色」。2013年のリニューアルで、ようやく世界標準に合わせられました。 本物と偽物の違いも分からなかった私たちですが、その本物のほうも、世界から見れば少しだけ違う立方体だったわけです。なんだか、それが妙に昭和らしい気がしてなりません。 昭和55年の夏、私はまだキューブを知りませんでした。区民プールで泳ぎ、屋台のウインナーとちくわぶを頬張っていました。都心の百貨店では大人たちが1,980円のパズルに列を作っていたのでしょうが、そんなことは知る由もありません。 ブームというのは、中心から周縁へ、時間差で届くものなのですね。私の手元に届いたのは一年ほど遅れて、しかも偽物でした。それでも、休み時間にカチャカチャ回していたあの音は、たしかに私の昭和の一部です。 みなさんのルービックキューブは、本物でしたか、偽物でしたか。六面は、揃いましたか。よろしければ、その顛末を教えてください。 あの日「これが本物か」と唸った、あの滑らかな回転。今はメガハウスの公式ライセンス品として、ちゃんと手に入ります。偽物しか知らなかった下町の元少年も、令和の孫も、同じ本物で遊べる時代です。夏休みの自由研究や、お孫さんへの一つに。揃わなくて当たり前——考案者すら一か月かかったのですから、どうか気楽に。 メガハウス ルービックキューブ 3×3 ver.3.0(公式ライセンス)日本正規品。回転が軽く滑らかな現行モデル。「これが本物か」の手ざわりを、令和の子どもや孫と Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...

July 25, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月24日──注意報の放送を、私たちは聞き流していた

今日は7月24日。夏休みが始まって、まだ数日というところです。 令和の夏、子どもたちが「今日は外に出るのをやめなさい」と言われる理由は、たいてい熱中症警戒アラートです。 けれど私たちが子どもだった頃、夏の外遊びを止めた言葉は、まったく別のものでした。 「光化学スモッグ注意報が発令されました」 あの、少しだけ事務的な声。同じ世代の方なら、きっと頭より先に体が覚えているはずです。 そして1972年(昭和47年)の今日、7月24日。その「汚れた空」をめぐる、戦後日本に残る判決が、三重県の小さな法廷で言い渡されました。 校内放送は流れた。けれど、私たちは止まらなかった 私が小学校に上がったのは1976年(昭和51年)の4月です。葛飾区の高砂で育った私にとって、夏とは朝から日が暮れるまで外にいるものでした。空き地で野球、自転車で川べりを走り回る。その日課を止めにくるのが、あの放送でした。 注意報を知るのは、主に校内放送です。教室のスピーカーから声が流れてくると、中休みと昼休みの外遊びが禁止になる。放課後についても、外で遊ぶのは控えるようにと言われました。 ところが、です。 私は「目がチカチカする」「のどが痛い」という症状を、自覚した経験が一度もありません。だからなのか——注意報が出ても、私も、周りの友達も、平気で外遊びをしていました。 放送は流れる。先生は控えろと言う。でも、体はなんともない。ならば行くに決まっている。あの頃の子どもの理屈は、それだけで十分でした。 今にして思えば、ずいぶん危なっかしいことをしていたのかもしれません。同じ空の下で、実際に苦しい思いをした子どもも全国にはたくさんいたはずです。ただ、当時の私の中では、「注意報」という言葉と「自分の体」が、どうしても結びつかなかったのです。 1970年7月18日、東京の空で起きたこと 光化学スモッグという言葉が日本中に広まるきっかけは、私がまだ1歳の頃の出来事でした。 1970年(昭和45年)7月18日、東京都杉並区。環七通りのすぐそばにある東京立正中学校・高等学校で、グラウンドで体育の授業を受けていた生徒43人が、目の痛みやのどの痛みを訴えて次々に倒れました。 原因はすぐには分かりませんでした。のちの東京都の調査で、自動車などから出た窒素酸化物が強い紫外線を浴びて化学反応を起こし、光化学オキシダントという別の物質に変わっていたことが判明します。日本で初めて確認された光化学スモッグの被害でした。 この日、体の異常を訴えた人は都内だけで5200人。隣の埼玉県でも407人にのぼりました。 以後、注意報は夏の風物詩のようになっていきます。全国の発表延べ日数は1973年(昭和48年)に328日でピークを迎え、1975年までの3年間は毎年250日を超えました。夏のあいだ、日本のどこかでほぼ毎日、誰かが「外に出るな」と言われていた計算になります。 1972年7月24日、津地方裁判所四日市支部 そしてその2年後の今日、7月24日。三重県四日市市。津地方裁判所四日市支部の法廷で、日本の空気の歴史を変える判決が言い渡されました。四日市公害裁判です。 四日市市の海沿いに、磯津という地区があります。1960年代、目の前の埋立地に巨大な石油コンビナートが次々と建ちました。煙突から出る煙には、硫黄酸化物——いわゆる亜硫酸ガスが大量に含まれています。1964年の磯津地区の二酸化硫黄の年平均濃度は0.075ppm。今の環境基準のおよそ4倍近い数字でした。住民は激しい咳と呼吸困難に苦しみます。これが四日市ぜんそくです。 1967年(昭和42年)9月1日、公害病と認定された患者と遺族あわせて12人が、コンビナートの6社を相手取って裁判を起こしました。 法廷で、企業側はこう主張します。 「どの煙突から出た煙が、誰のぜんそくを引き起こしたのか。それを立証できないのなら、我々に責任を問うことはできない」 煙は混ざり合い、風に流され、そこに境目などありません。たしかに手強い主張でした。 しかし判決は、これを退けます。 裁判所は、コンビナート各社の行為を共同不法行為と認定します。個々の煙突を特定できなくても、一体となって汚染を生んだ以上、責任は共同で負う。因果関係の立証も、疫学調査の結果で足りるとしました。 さらに判決は、企業に対してこう述べています。人の生命や身体に危険が及ぶと知り得る汚染物質を排出する以上、企業は経済性を度外視してでも、世界最高の技術と知識を動員して防止措置を講ずるべきである。それを怠れば、過失は免れない——。 賠償額は8800万円あまり。被告6社は控訴を断念し、判決はそのまま確定しました。 イタイイタイ病、新潟水俣病、四日市、熊本水俣病。四大公害裁判の三番目にあたるこの判決は、四つのなかで唯一、大気汚染を正面から裁いたものでした。 このとき私は3歳3か月。もちろん、何ひとつ知りません。 なぜ私は、「チカチカ」を知らずに済んだのか 判決の影響は、思いのほか早く現れます。 企業は総額1000億円ともいわれる費用をかけて排煙脱硫装置を整備し、三重県は全国で初めて硫黄酸化物の総量規制に踏み切りました。1973年(昭和48年)10月には公害健康被害補償法が成立します。 ここで正直に補足しておきます。四日市の煙突から出ていた硫黄酸化物と、東京の空をかすませた光化学スモッグは、じつは原因物質が違います。後者の主犯は自動車などから出る窒素酸化物でした。 けれど、四日市の判決が動かしたのは、一つの煙突ではありませんでした。「経済性を度外視してでも」と裁判所が迫ったあの論理は、そのまま自動車にも向かっていきます。1978年(昭和53年)4月、日本は当時世界一厳しいといわれた自動車排出ガス規制を実施します。いわゆる日本版マスキー法です。 このとき私は、小学3年生です。 つまり私の小学生時代の6年間は、ちょうど「日本の空が、ゆっくりきれいになっていく途中」でした。注意報はまだ夏の日常でしたが、いちばんひどい時期はすでに過ぎ、全国の発表日数は1980年代に入ると100日前後まで減っていきます。 私が「チカチカ」を知らずに済んだのは、私が丈夫だったからではないのでしょう。私が校内放送を聞き流して校庭に飛び出す何年も前に、四日市の患者さんたちが5年近くかけて裁判を戦い、その判決を受けた大人たちが、空を洗い始めていたからです。 もっとも、当時の私がそんなことを知るはずもありません。「公害」という言葉を知ったのは、学校の社会科の授業でした。教科書の中の、遠い場所で起きた出来事として。それが自分の外遊びの日数と地続きだなどとは、思いもしませんでした。 そして、7月24日生まれのカナリー・ガール 少し重たい話が続いたので、ここで一息つかせてください。 7月24日は、河合奈保子さんの誕生日でもあります。1963年(昭和38年)、大阪市生まれ。 1980年(昭和55年)、「第1回 ヒデキの弟・妹コンテスト」でグランプリを受賞し、同年6月1日に「大きな森の小さなお家」でデビュー。キャッチフレーズは「ほほえみさわやか カナリー・ガール」。同期は4月デビューの松田聖子さん、同じ6月の柏原よしえさん、岩崎良美さん。のちに「1980年組」と呼ばれる、アイドル黄金期の幕開けを飾った顔ぶれです。 そして私は、その中の奈保子さん一択でした。 まわりは圧倒的に松田聖子ファンが多かったので、その反発心から河合奈保子ファンになったのかな? 自分でもよくわかりませんが、一番の「推し」でした。 当時、アイドルグッズを売る店がありました。プロマイドも何枚も買いましたし、生写真も買いました。今の言葉でいうなら、なかなかのガチ勢です。 曲でいえば、「スマイル・フォー・ミー」ですね。 1981年(昭和56年)6月1日発売の5枚目のシングル。作詞・竜真知子、作曲・馬飼野康二、編曲・大村雅朗。オリコン最高4位、26万枚。奈保子さんにとって初のトップ10入りで、この曲で年末の第32回NHK紅白歌合戦に初出場を果たしました。ハート形のスマイルマークが付いた、あの特注のスタンドマイクを覚えている方も多いはずです。 この曲には、こんな逸話があります。もともとコンサートでだけ披露していた曲を、ファンの熱い要望に応えてレコード化したのだそうです。つまりあの曲は、客席にいた私たちのような子どもが、レコードにさせたことになります。 発売は1981年6月1日。私は小学6年生でした。 つまり、校内放送を聞き流して校庭へ飛び出していたあの夏と、まったく同じ夏の話なのです。 おわりに 今年の夏も、熱中症警戒アラートが何度も出ています。子どもたちは、あの頃の私たちとまったく同じように「今日は外に出るのはやめておきなさい」と言われている。 止められる理由だけが、入れ替わりました。昭和の子どもは「空気が汚いから」。令和の子どもは「暑すぎるから」。 けれど、決定的に違うことが一つあります。 私たちは、放送を聞き流して外へ飛び出すことができました。今の子どもたちには、それができません。アラートを無視して炎天下に出れば、本当に倒れてしまうからです。 そして私たちが平気でいられたのは、顔も名前も知らない誰かが、その何年も前に代わりに戦ってくれていたからでした。 1972年7月24日の判決文にあった、あの一節を思い出します。経済性を度外視してでも、世界最高の技術と知識を動員せよ——。半世紀以上前の裁判所が企業に突きつけたその言葉は、この暑すぎる夏空の下で読み返すと、まだ終わっていない宿題のように響いてきます。 ...

July 24, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月23日──午後1時19分、東京の電気が消えた。私はそれを知らずに、高校野球を終えた

1987年、昭和62年7月23日。 この日、私の高校野球が終わりました。 そして同じ日の午後、首都圏の電気が消えました。280万戸。地震でも台風でもなく、ただ暑かったという理由だけで、東京の都市機能が止まった日です。 その時刻が、午後1時19分。 私たちの試合開始は、午後1時ちょうどでした。 つまり私は、プレイボールから19分後に街の電気が落ちた、そのど真ん中にいたことになります。神宮第二球場のグラウンドに、ユニフォーム姿で立っていました。 そして——何も、覚えていないのです。 五日で三試合、そして幕が下りた あの夏のことは、日付まで正確に言えます。 7月19日、二回戦。神宮球場。相手は強豪のシード校でした。雨の中の試合です。こちらは2本のホームランが飛び出し、壮絶な点の取り合いになりました。9対8、劇的なサヨナラ勝ちです。 7月22日、三回戦。同じく神宮球場。相手は私立校。この日は猛暑でした。終盤にかけて、またもホームランをきっかけに追いつき、8対7。これも劇的なサヨナラ勝ち。ベスト16に駒を進めました。 そして7月23日、四回戦。神宮第二球場。力のある私立校が相手でした。 勢いよく臨んだ試合です。この日もホームランが出ました。しかし接戦のまま、2対3。何度も追いつけそうなチャンスがあり、私にも打席が回ってきていました。それでも、この日は逆転できませんでした。 最後のアウトの瞬間、涙が自然と溢れてきて、止めることができませんでした。整列を終え、控室に戻っても止められなかった。高校野球生活の終わりを認め、ここまで仲間とともに過ごしてきたなかでの数々の思い出が次々と押し寄せてきて、どうにもならなかった。 そうです。青春です。 三試合とも、ホームランが出ていました。それでも最後は、一点足りませんでした。 足の裏が、熱かった 五日で三試合、しかも最後は連戦です。今にして思えば、よく体がもったものだと思います。 汗だくになったユニフォームで、ヘッドスライディングから立ち上がると、胸から太ももまで土がべっとりとついて、真っ黒になりました。 そして足の裏です。当時のスパイクは、靴底に天然皮革が使われていました。その革を通してグラウンドの熱が伝わってきて、足裏が熱かった。これは鮮明に記憶しています。 ただ、いちばんきつかったのは暑さそのものではありませんでした。当時の大会は日程がかなり詰まっていましたから、疲労が抜けないのです。体が回復する間がない。体力、気力の勝負で、私たちは負けていたのだと思います。 午後1時19分、首都圏が止まった さて、その同じ時間、グラウンドの外で何が起きていたか。 原因は、暑さでした。 気象庁の統計を見ると、あの三日間の変わりようがはっきり出ています。二回戦のあった19日、全国で最高気温30度以上を記録した地点は、わずか29でした。雨の中で戦っていたのですから、当然です。それが21日には210地点、三回戦の22日には356地点、そして敗れた23日には460地点にまで跳ね上がっています。35度以上の地点数にいたっては、22日がたった1、23日が79です。 私たちの三試合は、そのまま昭和62年の夏が本気を出していく過程を、なぞっていたことになります。 梅雨明け直後の、逃げ場のない暑さ。首都圏じゅうのクーラーが、一斉に回りはじめました。 ここで問題になったのが、無効電力というものでした。電気には、実際に機械を動かして働く分と、働きはしないけれど電気を送り届けるために必要な分があります。冷房のようなモーターを使う機器が増えると、この「働かない分」が急激に膨らんでいく。電力会社は変電所に置いてある電力用コンデンサを次々と投入して、これを抑え込もうとしました。 午後1時07分、コンデンサを全量投入。それでも追いつきません。基幹の変電所では、50万ボルトの母線電圧が37万から39万ボルトまで落ち込んでいたといいます。 そして午後1時19分。不足電圧リレーが働き、基幹系の変電所が停電しました。豊島、京北、北東京、多摩、上尾、池上。笹目、北相模、新秦野、新富士。名前の挙がった変電所の下にぶら下がっていた地域が、連鎖的に落ちていきます。 停電した戸数は280万。停止した電力は816.8万キロワット。範囲は東京、埼玉、神奈川、静岡、山梨、千葉の6都県に及びました。 東北・上越・東海道の各新幹線が止まり、在来線も都営地下鉄も私鉄も、運休と遅れが相次ぎました。信号機が消え、エレベーターには人が閉じ込められました。国会議事堂のある永田町も停電し、予算委員会が開けなくなっています。 東京23区内は午後1時36分に復旧しました。しかし関東全域が完全に復旧したのは、午後4時40分。三時間を超えて電気の来ない地域が、いくつも残っていたのです。 皮肉なのは、当時普及しはじめていたインバーター式エアコンが、事態を悪化させたと言われていることです。この方式は電圧が下がっても冷房能力を落とさないように働きます。すると電圧が下がった分だけ電流が増え、それがさらに電圧を下げる。省エネのための新技術が、悪循環の輪をまわしてしまったわけです。 短絡も地絡もありません。設備が壊れたわけでもない。ただ、暑かった。それだけで首都が止まりました。 なぜ、私は気づかなかったのか こうして調べてみると、自分が何も覚えていない理由が、だんだん分かってきました。 まず、私は屋外にいました。真昼です。照明はいりません。 そして神宮第二球場のスコアボードは、手書きでした。電光掲示ではなく、係の人が数字の板を掛け替える方式です。つまりあの球場は、電気が来ていようがいまいが、試合を続けられる場所だったのです。 停電した区域の記録も、資料によって書き方に幅があります。「東京都区内北部・南部」とだけ記したものもあれば、荒川区・足立区・文京区・北区といった具体名を挙げたものもある。私が生まれ育った葛飾も、球場のあった神宮外苑一帯も、実際に消えたかどうかは、私の手元の資料では断定できませんでした。 けれど、たとえあのとき球場の周りが真っ暗になっていたとしても、私は気づかなかったと思います。 18歳の私にとって、あの日の世界は、白いラインと黒い土と、相手投手の球筋だけでできていました。三年間の全部がかかった一試合です。その外側で何が起きていようと、目に入るはずがなかった。 大人たちが「首都機能が麻痺した」と大騒ぎしていた三時間と、球児が最後の夏を終えていった三時間が、同じ空の下で、まったく交わらずに流れていた。 そういう日だったのだと思います。 私が帰り着いたとき、東京はもう明るかった 神宮からは、JRと京成線を使って、普通に帰ってきたと思います。帰宅したのは18時頃でしょうか。 そして正直に言えば、テレビのニュースも含めて、大規模な停電があったという記憶が、まったくないのです。 これも、調べてみて腑に落ちました。 関東全域の完全復旧は、午後4時40分。私が高砂の家の玄関を開けたのは、その一時間以上あとです。電車も、とっくに動いていました。 つまり私が帰り着いたとき、東京はもう何事もなかったかのように電気が点いていたわけです。復旧を待つ人の列も、止まったエスカレーターも、消えた信号機も、私は一つも見ていない。都市が止まって、また動き出すまでの一部始終を、私は丸ごと通り過ぎていたのです。 あの日、私が家まで持って帰ったのは、都市の話ではありませんでした。ユニフォームにこびりついた土と、まだ収まりきらない涙の残りだけです。 消えたのは、球場のほうだった この停電のあと、東京電力は徹底的に手を打ちました。無効電力を補う装置の設置、コンデンサの増設、系統の電圧を高めに運用すること、需要をオンラインで測って先回りすること。そのおかげで、同じ原因による広域停電は、その後今日まで起きていません。 つまり、あの日消えた電気は、三時間で戻ってきて、それきり二度と消えなかったのです。 戻ってこなかったのは、球場のほうでした。 ...

July 23, 2026