今日は9月29日です。 「ク(9)リー(2)ニング(9)」と読んで、クリーニングの日。昭和57年(1982年)に、全国のクリーニング店の組合でつくる連合会が定めた記念日です。明後日の10月1日は衣替え。夏物をしまって冬物を出す、季節の入り口に置かれた日でもあります。 実はこの日付には、もうひとつ昭和の出来事があります。昭和46年(1971年)9月29日、アニメ『あしたのジョー』が最終回を迎えました。 クリーニングとボクシングアニメ。何の関係もなさそうな二つですが、私の中では「真っ白」という言葉でつながっています。 昭和57年、クリーニングの日が生まれた年 クリーニングの日を定めたのは、全国クリーニング環境衛生同業組合連合会(現在の全国クリーニング生活衛生同業組合連合会)です。消費者にもっとクリーニングを利用してもらうこと、そして店の側も技術を磨いていくこと。その二つを目的に設けられました。 昭和57年といえば、私は13歳。4月に中学に入学し、野球部に入った年です。 公立の中学でしたが、練習はハードで、伝統的に強い学校でした。グラウンドを走り回り、ノックの打球に飛び込み、スライディングをくり返す毎日です。 ユニフォームは、帽子から靴下まで、すべて白でした。公式戦用のユニフォームも、それとは別にありました。その真っ白なユニフォームが、毎日あっという間に泥だらけになります。 洗ってくれたのは母です。細かいやり方までは覚えていませんが、ブラシでこすり、つけ置きをして、洗う槽と脱水する槽が並んだ二槽式の洗濯機で洗ってくれていました。どれだけ泥だらけにして帰っても、ユニフォームはいつもきれいに洗濯されていました。 クリーニング屋に出したことは、ありません。クリーニングの日が生まれた年、私のユニフォームの白は、店ではなく、家の洗濯機のそばで取り戻されていたのです。 衣替えと、町のクリーニング屋 昭和の学校では、10月1日の衣替えを境に、夏服から冬の制服へと一斉に切り替わりました。 クリーニングの店は、戦後ずっと増え続けてきました。昭和40年代以降は町の店にもドライクリーニングの設備が入り、やがて、預かった洗濯物を工場でまとめて仕上げる「取次店」のチェーンが登場します。 私の記憶でも、町のあちこちに個人のクリーニング店がありました。高砂の線路沿いの家は駅のそばだったせいか、あちらのほうが店は多かったように思います。 とはいえ、私がクリーニング屋のお世話になるようになったのは、中学に入って制服を着るようになってからです。父はスーツを着て働く仕事ではなかったので、ワイシャツや背広を店に出すこともなく、クリーニングとは無縁でした。店にお願いするのは、もっぱら学生服です。 中学の制服はブレザーでした(高校は学ランです)。ときどき自分でクリーニング店へ出しに行き、仕上がったものを取りに行きました。戻ってきたブレザーは、薄いビニールのカバーをかぶって、針金のハンガーに掛かっています。いまでも「クリーニング」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、あのビニールのカバーと針金のハンガーです。 泥だらけのユニフォームは家で母が洗い、ブレザーは町の店が仕上げる。中学生の私の服は、そんなふうに分担されていました。 昭和46年9月29日、ジョーの最終回 ここで、話を11年前に戻します。 『あしたのジョー』は、高森朝雄(梶原一騎)さん原作、ちばてつやさん作画のボクシング漫画です。東京の下町、泪橋を渡った先のドヤ街にふらりと現れた少年・矢吹丈が、元ボクサーの丹下段平と出会い、宿命のライバル・力石徹と拳を交えていく物語です。 『週刊少年マガジン』での連載は、社会現象になっていました。作中で力石徹が死んだときには、その死を悼むファンの声に押されて、現実に葬儀が開かれたほどです。 アニメはフジテレビ系で昭和45年4月1日に始まり、毎週水曜の夜7時に放送されました。そして昭和46年9月29日、第79話「燃えろ!遠く輝ける明日よ!」で最終回を迎えます。 最終回は、世界ランカーのカーロス・リベラとの死闘でした。ロープ際の奇策は二度は通じず、ジョーは強烈なアッパーでリングの外まで吹き飛ばされます。リングに戻ったジョーに、カーロスは小細工抜きの勝負を持ちかけ、二人は足を止めて打ち合います。この一戦の終わりとともに、アニメも幕を下ろしました。 ただ、この最終回は、物語の結末ではありませんでした。アニメが原作の連載に追いついてしまったのです。原作で最後の相手となるホセ・メンドーサは、名前が出てきただけでした。 このとき私は2歳5か月。本放送の記憶は、さすがにありません。 私がジョーを知ったのは、夕方の再放送でした。初めて見て興味を持ち、そこから見るようになったのです。 友だちとは、ジョーの戦い方をまねしました。両腕をだらりと下げたノーガードで相手を誘い、打ってきたところにクロスカウンター。もちろん、スローモーションです。尾藤イサオさんが歌うオープニングの主題歌も、声の感じを似せて歌っていました(笑)。 真っ白に燃え尽きた日 物語の本当の結末をアニメで描いたのは、それから9年後に始まった『あしたのジョー2』です。 日本テレビ系で昭和55年10月13日に始まり、毎週月曜の夜7時。原作の最後、ホセ・メンドーサとの世界タイトルマッチまでを描き切り、昭和56年8月31日に最終回を迎えました。最終ラウンドまで戦い抜き、判定で敗れたジョーが、コーナーの椅子に座ったまま、満足げな笑みを浮かべて真っ白に燃え尽きる。あのラストシーンです。 最終回が放送された昭和56年8月31日は、小学6年生の夏休みの、最後の日でした。 もっとも、ジョー2をリアルタイムで見ていたのは、ときどきだったと思います。全話を通して見たのは、おそらく後の再放送でした。 真っ白に燃え尽きたジョーを見て、私は「死」を思いました。 アニメの最終回も、ジョーの死を思わせる演出で終わっています。ただ、最後のエンディングの絵は、ジョーが旅立っていくような一枚に差し替えられていて、見る人によって受け取り方が分かれるつくりになっていました。子どもの私が受け取ったのは、「死」のほうだったわけです。 ジョーの舞台になった泪橋は、いまは橋ではありません。川が埋め立てられて明治通りが通り、台東区と荒川区の境にある交差点に、名前だけが残っています。 バスの乗務で通ることはありませんが、私用では、泪橋の交差点や南千住のあたりを何度も通っています。そのたびに、自然と「ジョー」を思い出します。 ジョーの翌年に、中学へ ジョーが真っ白に燃え尽きた翌年の春、私は中学生になり、帽子から靴下まで真っ白なユニフォームに袖を通しました。そしてその年の秋、9月29日がクリーニングの日になりました。 ジョーの白は、燃え尽きて、もう戻らない白でした。私のユニフォームの白は、母が毎日取り戻してくれる白でした。泥だらけになって帰っても、次の日にはまた白くなっている。そしてまた、泥だらけになりに行くのです。 減っていく町のクリーニング屋 全国のクリーニングの店は、平成9年ごろをピークに減り始めました。増え続けてきた取次店も、平成10年の約11万6千軒をピークに減少に転じます。令和6年度には、全国の施設数が、無店舗の取次店を含めても7万軒を割り込みました。 私の身のまわりを見ても、個人のクリーニング店が減ったのは明らかです。身近でクリーニング店を営んでいた友人も、近年、店をたたみました。 逆に、コインランドリーは増えている気がします。クリーニング店が減った分をコインランドリーが埋めている、という面もあるにはあるのでしょう。ただ私は、それとは別に、民泊を利用する海外からの旅行者や、一人暮らしの若い人を当て込んだ「投資」として、コインランドリーの開業が増えているのではないかと見ています。たぶん、その投資を勧めるセールスも盛んなのでしょう。 わが家も、洗濯物をクリーニングに出すことはほとんどなくなりました。ワイシャツは形状記憶の素材でアイロンがいりませんし、そもそもいまの仕事の制服では、ワイシャツを着なくなりました。 泥を落とす側になって そんなわが家でも、子どもたちの野球のユニフォームだけは、ひと手間かけて洗っています。 まず、WASHBOYというバケツ型の小さな洗濯機で、ポールという洗剤を使って下洗いをします。それからドラム式の洗濯機で洗い、ほとんど乾燥まで仕上げてしまいます。 ブラシとつけ置きが、バケツ型の洗濯機とポールに。二槽式が、乾燥までこなすドラム式に。道具はすっかり変わりましたが、まず下洗いで泥を落とすところから始めるのは、あの頃の母と同じです。 ...
9月28日 ── 私の16年と、「全員集合」の16年|昭和の今日は何があった日?
今日は9月28日です。 昭和60年(1985年)のこの日、土曜日の夜8時。TBSの『8時だョ!全員集合』が最終回を迎えました。16年、全803回。日本中の土曜の夜を占領してきた番組の、最後の放送でした。 この番組には、私にとって少し特別な数字がついています。 番組が始まったのは、昭和44年(1969年)10月4日。私が生まれたのは、同じ昭和44年の4月です。つまり全員集合は、私が生後半年のときに始まったことになります。 そして最終回の日、私は16歳の高校1年生でした。 私の人生の最初の16年は、そっくりそのまま、この番組の16年と重なっているのです。 「8時になったら、みんな集まる」 番組名の由来には、こんな話が残っています。 企画の説明会議の席で、スポンサーだったライオン油脂の広告部長が、8時になったらテレビの前にみんなが集まるような番組を作ってほしい、と注文をつけました。それを聞いたプロデューサーの居作昌果さんが、その場で思いついたのが『8時だョ!全員集合』というタイトルだったそうです。 第1回は三鷹市公会堂からの公開録画で、初回の視聴率は12.9%。その後は各地の公会堂や市民会館を回りながら、観客を前にした生放送で、練りに練ったコントを演じ続けます。渋谷公会堂だけで136回、文京公会堂で78回。舞台がぐるりと回る「回り舞台」や、最後にセットが崩れ落ちる大仕掛けは、生放送だからこその迫力でした。 絶頂期は昭和48年です。年間の平均視聴率は43.7%、4月7日の放送では番組最高の50.5%を記録しました。加藤茶さんの「ちょっとだけヨ」が子どもたちの間で大流行したのも、この頃です。その一方で、番組は「子どもに見せたくない番組」の常連でもありました。 昭和48年といえば、私はまだ4歳です。 それでも、加藤さんの「ちょっとだけヨ」を見た記憶は残っています。4歳から5歳くらいの頃でしょうか。高砂の線路沿いの家だったのか、中川の土手のそばの家だったのか、そこははっきりしません。 土曜の夜8時は、父がまだ仕事から帰ってきていない時間でした。テレビの前にいたのは、母と妹と私の3人です。母も一緒になって笑っていました。 世の中では「子どもに見せたくない」と言われていた番組を、我が家では母と子どもが並んで笑って見ていたわけです。8時になったら、テレビの前にみんなが集まる。スポンサーの注文から生まれた番組名そのままの光景が、我が家の土曜の夜にもありました。 私が小学生だった6年間は、ちょうど志村けんさんが人気者になっていく時期と重なります。志村さんが「東村山音頭」を初めて披露したのは昭和51年の3月、私が小学校に上がる直前の春でした。昭和54年には加藤さんとの「ヒゲダンス」が生まれ、昭和55年には「カラスの勝手でしょ」が子どもたちの間で大流行します。 東村山音頭も、ヒゲダンスも、「カラスの勝手でしょ」も、いまでも鮮明に覚えています。土曜の夜に見たギャグは、翌週の学校で必ずまねをしていました。クラスで「お楽しみ会」を開くと、出し物には必ずドリフのギャグが入っていたものです。私もひげを付けて、「ヒゲダンス」をやった覚えがあります。 ドリフの付き人から『全員集合』の人気者になっていった志村けんさんが、自分のお笑いと人生について書いた本です。東村山音頭が生まれた頃の話も出てきます。 変なおじさん【完全版】(新潮文庫・Kindle版)志村けん/新潮社。ドリフの付き人時代から『全員集合』『加トケン』『だいじょうぶだぁ』『バカ殿様』まで、お笑いにこだわり続けた人生を本人が語る。星4.5(319件) Amazonで見る › 小学6年生で、卒業した 5月16日の回で書いたとおり、私は小学6年生の頃、全員集合を「卒業」しました。漫才ブームに乗って、裏番組の『オレたちひょうきん族』を見るようになったのです。家にはテレビが何台かあって、チャンネル争いもなかったように思います。 同じように卒業していった子どもは、全国にたくさんいたのでしょう。 中学生になると、土曜の夜8時に全員集合を見ることは、もうありませんでした。いま思えば、そもそもテレビ自体をあまり見ていなかったのかもしれません。 昭和57年10月9日、全員集合は初めて視聴率でひょうきん族に敗れます。私が中学1年生の秋です。昭和59年には、年間の平均視聴率でも18.2%と、ひょうきん族の19.5%に抜かれました。 その昭和59年の6月16日には、こんな出来事もありました。埼玉の入間市民会館からの生放送が始まる直前、会場の照明が突然すべて消えたのです。放送の機材は外の電源車につながっていたため、放送そのものは止まりませんでした。真っ暗な舞台で懐中電灯を頼りにゲストを紹介し、いかりやさんは「8時9分半だョ!」と掛け声をかけ直したといいます。この夜の視聴率は、いつもより10%ほど高い26.2%でした。 私はこの停電の回を見た記憶はありません。ただ、話題として聞いた覚えはあります。見なくなった番組の出来事が、それでもどこからか耳に入ってくる。全員集合は、まだそういう番組でした。 この停電騒ぎは、のちにスタジオ中心の放送へ切り替わるきっかけのひとつになったともいわれます。秋からは各地の公会堂を回るのをやめ、TBSのスタジオからの放送が中心になりました。私は中学3年生でした。 そして昭和60年7月19日、TBSは9月いっぱいでの番組終了を正式に発表しました。公開の生放送を続けることには限界があり、ナンセンスギャグもやり尽くした。それが理由として挙げられていました。 私が高校1年生の夏です。このニュースを聞いた覚えは、私にはありません。たぶん、気がついたら終わっていた。そんな感じだったのだと思います。 最終回の夜 昭和60年9月28日、土曜日。最終回は、TBSのGスタジオからの生放送でした。 かつてのメンバー、荒井注さんもゲストで顔を見せました。前半は、おなじみの「母ちゃんコント」。後半は番組の名場面集。そしてゲストからドリフの5人に花束が贈られ、いかりや長介さんが、16年間の声援に感謝の言葉を述べました。 最後はいつものように、出演者全員でエンディングの「ビバノン音頭」を歌います。天井からは紙吹雪が舞い、加藤さんが「長い間ありがとう」「元気で!」と呼びかける。観客は総立ちになり、画面には「長い間ありがとうございました」の字幕が流れて、番組は終わりました。 この夜の視聴率は34.0%。 この年の全員集合は、ふだんは15%前後にとどまり、ほとんどの週でひょうきん族の後ろを走っていました。最終回の前の週も15.9%です。それが、最後の夜だけ倍以上に跳ね上がりました。 ふだんは見ていなかった人たち、とうに卒業したはずの人たちが、この夜だけはテレビの前に戻ってきたのだと思います。 ...
9月27日 ── 「発車オーライ」と、ワンマンの運転席|昭和の今日は何があった日?
9月27日は「女性ドライバーの日」です。 大正6年(1917年)のこの日、ひとりの女性が自動車の運転免許試験に合格しました。日本の女性として、初めてのことでした。 私はいま、路線バスの運転士をしています。毎日ハンドルを握る仕事をしている身として、この記念日を知ったとき、自分が乗ってきたバスのことを振り返ってみたくなりました。子どもの頃に乗っていたバスのこと。そして、私が生まれる少し前まで、バスには運転手のほかに、もうひとり乗っている人がいたということを。 大正6年、23歳のハンドル その女性の名前は、渡辺はまさん。栃木県の出身で、当時23歳でした。 渡辺さんはこの年の1月に栃木から上京し、自動車学校に入りました。4月に卒業すると、自動車商会で運転手見習いとして働きながら、試験に備えたといいます。その腕前は、試験官たちが驚くほどだったそうです。 大正6年といえば、自動車そのものがまだ珍しかった時代です。車を持っていたのはごく一部の人たちで、運転は男性の仕事と考えられていました。その中で、ひとりの女性が自分の力でハンドルを握る資格を手にしたのです。 白い襟、赤い襟のバスガール 女性とバスの関わりは、運転席より先に、車掌の仕事から始まりました。 大正9年(1920年)、東京市街自動車という会社の乗合バスに、日本で初めて女性の車掌が登場します。走ったのは新宿と築地を結ぶ路線でした。採用されたのは19歳から30歳までの女性たちで、当時としては高い給料も話題になったそうです。白い襟の制服から、「白襟嬢」と呼ばれました。 大正13年(1924年)には、東京市営のバスにも女性車掌が乗るようになります。こちらは制服の襟が赤かったことから、「赤襟嬢」と呼ばれました。 「バスガール」と呼ばれたこの仕事は、やがて女性のあこがれの職業になっていきます。昭和32年には「東京のバスガール」という歌も生まれ、広く親しまれました。もっともこの歌のモデルは、路線バスの車掌さんではなく、観光バスのガイドさんだったそうです。それだけ「バスに乗って働く女性」が、あこがれの姿として見られていたということでしょう。 車掌さんの仕事は、たくさんありました。乗ってきたお客さんに行き先を聞いて切符を売り、ドアを開け閉めし、停留所を案内し、安全を確かめて、運転手に「発車オーライ」と声をかける。運転手はハンドルに集中し、車内のことは車掌さんが引き受ける。バスは、二人で走らせるものだったのです。 「東京のバスガール」を歌った初代コロムビア・ローズの全曲集です。「発車オーライ」の声が、歌の中にそのまま残っています。 初代コロムビア・ローズ全曲集 東京のバスガール日本コロムビア。昭和32年のヒット曲「東京のバスガール」をはじめ、初代コロムビア・ローズの代表曲を収めたCD。星4.1(9件) Amazonで見る › 車掌さんが消えていった頃 その車掌さんが、少しずつバスから姿を消していきます。 東京の都営バスでワンマンカー、つまり運転手ひとりで走るバスの運行が始まったのは、昭和40年(1965年)2月のことでした。車掌の人件費が経営の重荷になっていたこと、そして車掌のなり手が足りなくなっていたことが背景にあります。昭和43年からは、ワンマンで走ることを前提にした車両も入ってきました。それでも、そうした車両に車掌さんが乗ることもあったそうです。切り替えは一度にではなく、路線ごとに少しずつ進んでいきました。 そして、都営バスの全系統でワンマン化が完了したのは、昭和53年度のことです。ただ、女性の車掌さんの姿は、その後もしばらく、ところどころで見られたといいます。 私が生まれたのは昭和44年4月。昭和53年度といえば、私が小学3年生の頃です。つまり私の子ども時代は、ちょうどバスから車掌さんが消えていく時代と重なっていたことになります。 けれど、私には車掌さんの記憶がありません。私の記憶の中のバスは、もうワンマンでした。 小児科へ向かう京成バス 私が子どもの頃に乗った路線バスといえば、京成バスです。都営バスにはあまりなじみがなく、私にとってバスといえば京成バスでした。昭和55年から2年間だけ、都営バスが黄色く塗られた時期があったそうですが、その姿も私の記憶にはありません。 いちばん鮮明に覚えているのは、風邪をひいて小児科へ行くときに乗ったバスです。ふだんの遊びの記憶よりも、なぜかその場面のほうが、いまでもはっきりと思い出せます。 ここからは、記憶が定かではないと前置きしたうえで書きます。 そのバスには、網棚があった気がします。床は黒っぽい木の床で、その床からは油のような、オイルのようなにおいがしていました。そして、すでに運転手さんひとりで走るワンマンのバスだったと思います。 バスに乗ると、私はいちばん前の席に座って、運転席をのぞいていました。のぞきたかったのは、運転手さんの手元だけではありません。フロントガラスの向こうに広がる、運転手さんと同じ景色を見たかったのです。いま私は、毎日その景色の中を走っています。 とはいえ、バスの運転手になりたいと思っていたわけではなかったと思います。ただ、「どうやったらバスの運転手になれるのだろう」と不思議に思った記憶はあります。 大正6年の渡辺はまさんは、自分で自動車学校の門をたたき、運転手見習いをしながら試験に挑みました。子どもの私が不思議に思った「どうやったらなれるのか」の答えも、きっとそういう一歩一歩の積み重ねの中にあったのでしょう。 車掌さんがいた頃から今の路線網まで、東京の路線バスの歩みを一冊にまとめた新書です。なつかしい車両の写真も載っています。 東京の路線バスのすべて加藤佳一/マイナビ出版(新書)。東京と首都圏の路線バスの始まりから成長期、現在までの歴史を、車両や系統の写真とともにたどる。星4.2(4件) Amazonで見る › 2.9%のハンドル 渡辺はまさんが免許を取ってから、100年以上がたちました。 いまでは、女性がハンドルを握るのは特別なことではありません。それでも、バスの運転席となると話は少し違います。令和6年の国の統計では、バスの運転手のうち男性が10万人を超えるのに対して、女性は約3,000人。割合にすると、2.9%ほどにとどまっています。100人の運転士がいれば、女性は3人ほどという計算です。 かつてバスの車内を支えていたのは、女性の車掌さんたちでした。その車掌さんがいなくなった後のバスの運転席は、長いあいだ、ほとんど男性だけの職場だったのです。 私の今の職場には、これまでずっと、2〜3人の女性運転士が在籍しています。私たち男性運転士とまったく同じ仕事を、毎日ともにこなしています。 私の目から見て、女性運転士のみなさんは総じて「かなり優秀」だという印象があります。何度か、お客さんの立場で乗ってみたことがあります。運転操作はていねいで、接客の対応も、男性と比べると柔らかな感じがしました。お客さんからも好感を持たれやすいのではないかと感じています。 いま、業界では女性の運転士を増やそうという動きが広がっています。女性のバス運転士の団体は、その割合をいずれ1割にまで高めたいとしています。 ワンマンの運転席から いま私が運転しているバスに、車掌さんはいません。 ...
9月26日 ── 630万円の机と、かな漢字変換|昭和の今日は何があった日?
昭和53年(1978年)9月26日。東京芝浦電気、いまの東芝が、ひとつの機械を発表しました。 名前は「JW-10」。世界で初めての、日本語のワードプロセッサです。 この日は、いまでは「ワープロ記念日」と呼ばれています。そのとき私は9歳、小学3年生でした。もちろん、そんな機械が世に出たことなど知るはずもありません。けれど、いまこの文章をキーボードで打ちながら、ふと気づきました。私が毎日こうして日本語を「打てて」いるのは、あの日から始まったことなのだと。 630万円、220kgの「机」 JW-10は、片袖の事務机ほどの大きさがありました。重さは220kg。キーボードとブラウン管、10MBのハードディスク、8インチのフロッピーディスク、それにプリンターまでが、ひとつの筐体に収められていました。 価格は630万円。大卒の初任給が10万円ほどの時代です。630万円あれば、当時なら新車が何台も買えたはずです。発売は翌年の2月でした。 内蔵のハードディスクに保存できたのは、400字詰めの原稿用紙に直しておよそ800枚分。いまのスマホなら写真1枚にも足りない容量ですが、当時としては「文章を機械の中にしまっておける」こと自体が驚きでした。発表のその日、JW-10は展示会の会場でさっそく実演されています。 開発を率いたのは、東芝の技術者・森健一さんです。きっかけは昭和46年ごろ、新聞記者との何気ない雑談だったといいます。「日本の記者は、欧米の記者より記事を書くのが遅い」。その理由を、森さんは道具の差に見ました。アルファベットならタイプライターで打てる。けれど日本語には、ひらがな、カタカナ、そして何千もの漢字がある。 それまで日本語の文書を機械で作るには、和文タイプライターを使うしかありませんでした。大量の漢字が並んだ盤から、一文字ずつ拾って打っていく。専門の技能を持った人の仕事です。 JW-10が変えたのは、そこでした。ひらがなで読みを打ち込めば、機械が漢字に変えてくれる。「かな漢字変換」です。しかも一度打った文章を直したり、入れ替えたり、保存したりできる。和文タイプではできなかったことでした。 開発のときに掲げられた目標は、「場所を選ばず、手書きより速く日本語を書けるようにすること」だったそうです。森さんは当時から、いずれは小さく軽くなり、文章を送れるようにもなると考えていました。 この発明は、平成20年(2008年)に、電気・電子技術の歴史に残る業績を認定する「IEEEマイルストーン」にも選ばれています。 9歳の私が見ていた「大人の文字」 学校で配られるプリントや学級通信は、先生の手書きでした。ガリ版で刷られた、少し紫がかったインクの文字。紙はわら半紙です。 ガリ版は、ロウを引いた原紙に鉄筆で字を刻み、そこにインクを通して刷る印刷のしかたです。原紙を切るのも先生、刷るのも先生。学級通信の一枚一枚には、先生の手の跡がそのまま残っていました。 いま思い出してみると、家の中で目に浮かぶのは両親の手書きの文字です。父の字と、母の字。みんなそれぞれに、書く文字にはくせがありました。字を見れば、誰が書いたのかがわかりました。それが当たり前の時代でした。 630万円の机が発表されたその日も、私のまわりにあった文字は、先生の字であり、父や母の字でした。どれも、誰かの手で書かれたものだったのです。 630万円が5万円になるまで ワープロの値段は、そこから驚くほどの速さで下がっていきます。 昭和55年から、電機メーカーや事務機メーカーが次々に参入しました。昭和57年には、富士通が関取の高見山を起用したテレビCMを流し、「ワープロ」という略し方が一気に広まったといわれています。もっとも、中学1年生だった私には、このCMの記憶はありません。 昭和55年に平均200万円ほどだったワープロは、昭和60年には16万円台まで下がりました。同じ年には、カシオが5万9800円、キヤノンが4万9800円という機種を出して、「電卓戦争の再現」とまで言われます。東芝も、手で持ち運べる大きさの「Rupo」を9万9800円で売り出しました。 昭和57年には、ワープロを売るメーカーが23社にもなっていました。NECの「文豪」、シャープの「書院」、富士通の「OASYS」。名前を聞くだけで、あの頃の家電売り場のにおいを思い出す方もいるかもしれません。富士通のOASYSには、親指でシフトキーを押し分ける独特のキーボードがあり、いまも根強い愛用者がいるそうです。 630万円から、5万円へ。わずか7年ほどのあいだの出来事です。 値段が下がれば、買う人が増えます。昭和60年には、日本語ワープロの年間の生産台数が初めて100万台に届き、翌昭和61年には200万台を超えました。ワープロは、会社の机の上から、少しずつ家庭の机の上へと降りてきたのです。 昭和60年、私は高校1年生。頭の中は野球のことでいっぱいでした。高校時代にも、浪人時代にも、ワープロを見たり触ったりした記憶はありません。家電売り場に並んでいるのを見た覚えはあります。けれど、興味はもちませんでした。 9万8千円の「書院」 そんな私が、初めてワープロを買ったのは、大学4年生のときです。卒業論文の課題があったので、シャープの「書院」を購入しました。確か9万8千円ほどだったと思います。JW-10のおよそ60分の1の値段です。 ところが、結局使いこなせませんでした。卒業論文は、手書きで仕上げました。 9万8千円は、無駄になっちゃいました(笑)。 家電売り場で素通りしていたあの機械を、ようやく手に入れたのに、最後に頼ったのは自分の手だったわけです。 JW-10の開発で掲げられた「手書きより速く」という目標は、少なくとも大学4年生の私には、まだ届いていなかったようです。機械が悪かったのではありません。ガリ版と鉛筆の時代に育った手のほうが、まだ新しい道具に追いついていなかったのだと思います。 信用金庫の机の上で 平成5年(1993年)、私は大学を出て、信用金庫に入りました。 職場には業務用のパソコンがありました。ただ、それは業務上のオペレーションのためだけのものです。書類は基本的にすべて手書きでした。そしてそれは、7年後に信用金庫を退職するまで、特に変わることはありませんでした。 日本語ワープロの普及率は、平成9年ごろに4割を超えたといわれています。世の中がそこまで進んでいたころも、私の机の上の書類は手書きのままでした。ガリ版の学級通信から20年近くたっても、私はまだ手書きの側にいたのです。 令和、ブログを書く指先 いま、このブログはパソコンで書いています。 ...
9月25日 ── 1%の手術と、サンデー兆治|昭和の今日は何があった日?
昭和49年(1974年)9月25日。アメリカ・ロサンゼルスで、ひとりのピッチャーが手術台に上がりました。 ドジャースの左腕、トミー・ジョン。切れてしまった肘の靭帯を、体の別の場所の腱で作り直すという、それまで誰も受けたことのない手術でした。成功の見込みは1%。医師自身がそう伝えたといいます。 その年の私は5歳。保育園に通っていました。ちょうどこの頃、父が出勤前の早朝に、近所の広い公園でキャッチボールをしてくれるようになり、それが私と野球の出会いになりました。 キャッチボールをしたのは、高砂北公園でした。私の最初のグローブは、父がどこかでもらってきた「SSK」でした。ボールは最初こそやわらかいボールでしたが、わりとすぐに軟球に変わりました。 父は、特に何かを教えるでもなく、何も言いませんでした。ただただ投げて、取って、投げて、取って。それをもくもくと繰り返すだけです。それでも、あの朝の光景は、今でもはっきりと覚えています。 海の向こうで、ひとりの投手が選手生命を懸けて肘にメスを入れていた頃、葛飾の公園では、5歳の子どもが初めてボールを投げていた。もちろん当時の私は、そんなことを知るよしもありません。この手術の名前を知るのは、それから10年ほど先のことです。 成功率1%の賭け トミー・ジョンは、もともと速球で押すタイプではなく、沈む球で内野ゴロを打たせる頭脳派の投手でした。昭和49年のシーズンも13勝3敗と好調で、チームは地区優勝を目指していました。 ところが7月17日の試合中、得意のシンカーを投げた瞬間に、左腕がしびれるような違和感に襲われます。診断は肘の靭帯の断裂でした。当時の常識では、ピッチャーとしてはもう終わりです。 そこでチームドクターのフランク・ジョーブ博士が提案したのが、傷んだ靭帯の代わりに、体のほかの部位から正常な腱を移して肘を作り直すという方法でした。前例はひとつもありません。それでもジョンは、この手術に懸けました。 結果は、奇跡と呼ばれるものになりました。1年9か月のリハビリを経て、昭和51年(1976年)4月にマウンドへ戻ると、翌年には自身初の20勝。ヤンキースに移ってからも勝ち続け、46歳まで投げ抜きます。手術のあとだけで164勝、通算288勝。この復活劇から、肘の靭帯再建手術は、彼の名前で呼ばれるようになりました。 マサカリが帰ってきた春 日本でこの手術の名前が一気に広まったのは、昭和60年(1985年)のことです。主役はロッテ・オリオンズの村田兆治でした。 左足を高く上げ、全体重を右足にためてから、斧を振り下ろすように投げ込む「マサカリ投法」。そこから繰り出す剛速球と、伝家の宝刀フォークボール。昭和50年代の村田は、最多セーブ、最優秀防御率、最多勝と、数々のタイトルを手にした豪腕でした。 その村田の肘が悲鳴を上げたのが、昭和57年(1982年)4月です。先発した試合で、わずか1回で降板。当時の日本球界では、投手の肘にメスを入れるのはタブーのように考えられていました。村田は迷った末に海を渡り、昭和58年、あのジョーブ博士の手術を受けます。 博士の教えを守って地道なリハビリを続け、昭和59年の終盤に一軍へ復帰。そして迎えた昭和60年、村田は開幕から11連勝という劇的な復活を見せます。肘をいたわるために中6日の間隔を空け、日曜日に先発を重ねたことから、ついた呼び名が「サンデー兆治」。この年17勝5敗でカムバック賞に輝き、「トミー・ジョン手術」という言葉は、日本の野球ファンにも知れ渡っていきました。 高校1年生になったばかりの私は、この「サンデー兆治」の活躍に毎週注目していました。テレビのスポーツニュース、新聞、友だちとの会話。村田兆治の情報は、ちくいちチェックしていたものです。 とはいえ、ロッテ戦をテレビ中継で観ることはありませんでした。村田兆治が投げる姿を目にできたのは、『プロ野球ニュース』の映像だけです。それでも、巨人ファンの私にとって、村田兆治は特別な投手のひとりでした。あのマサカリ投法は、私もまねをしました。 だからこそ、「肘を手術して復活した」と聞いたとき、私は正直「本当に?」と疑いました。肘にメスを入れた投手が、またあの豪快なフォームで投げられる。そんなことが、にわかには信じられなかったのです。 その疑いは、見事に裏切られました。村田はその後も投げ続け、平成元年(1989年)には通算200勝を達成し、最優秀防御率のタイトルも手にします。翌平成2年、10勝を挙げたシーズンを最後にユニフォームを脱ぎました。ロッテ一筋で、通算215勝です。 ロッテ番の記者として村田兆治を間近で見てきた著者が、マサカリ投法の現役時代から引退後までを書いた一冊です。あの復活の裏で何が起きていたのかが読めます。 村田兆治という生き方 <マサカリ投法、永遠なれ>松山秀明/ベースボール・マガジン社(2024年12月刊)。サンデー兆治への軌跡、ロッテ番の目で見た大エース、引退スクープ、離島での野球振興まで。星5.0(7件) Amazonで見る › 全打者、三振のつもりで 私自身も、中学の野球部ではピッチャーでした。公立中学ながら練習はハードで、伝統的に強い学校です。マウンドに立つときは、本気で全打者を三振に取るつもりで投げていました。お手本にしていた投手が特にいたわけではありません。とにかく、ヒットを打たれるのが嫌だったのです。 ときどき、肘に痛みが出ることがありました。それでも当時は、「みんなどこか痛いところを持ちながらやっている」なんて思い込んでいましたから、休まずに練習を続けていました。1試合で150球くらいは投げていたのではないかと思います。 連投は当たり前でした。「昨日2試合、今日1試合」なんてこともあったくらいです。 そして、まさに「肩を冷やすな」「水を飲むな」の時代でした。とはいえ、飲まないわけにはいきません。私はトイレでこっそり水を飲んでいました。練習で何がきつかったかといえば、やっぱり水が飲めなかったことです。 昭和の野球では、痛みをこらえて投げることが、どこか美談として語られていました。エースは連投してあたりまえ。肘や肩の痛みは、根性で乗り越えるもの。私も、そんな空気のなかでマウンドに立っていたひとりです。その頃の野球少年にとって、「肘にメスを入れて復活する」という村田兆治の姿は、ひとつの時代の常識を静かに揺さぶる出来事だったのかもしれません。 令和のマウンドで あれから40年。いまやトミー・ジョン手術は、特別な出来事ではなくなりました。ダルビッシュ有や大谷翔平といったトップ選手も受け、プロ野球では毎年のように、若い投手がこの手術から復帰を目指しています。 元ピッチャーとして、これは本当に良かったと思います。肘を壊せばそれで終わりだった時代から、手術を受けてもう一度マウンドを目指せる時代へ。再起への希望が持てるようになったのですから。 高校野球にも、投手の体を守るための球数制限が導入されました。連投が当たり前で、1試合150球を投げ、水さえ隠れて飲んでいた私の頃とは、まるで別の世界です。 変わったのは、ルールだけではありません。今はYouTubeの動画などで、投げ方や体の使い方について、良い情報に触れられる時代です。子どもたちのレベルは、私の頃とは比べものにならないくらい上がったと感じます。 そして今年の8月15日、トミー・ジョン本人が83歳で亡くなったというニュースが届きました。成功率1%の手術を受けたあの日から、半世紀あまり。彼の名前は、これからも世界中のマウンドで、肘を痛めた投手たちの希望として呼ばれ続けるのでしょう。 肩と肘を痛めない投げ方を、写真と図でていねいに説明した本です。子どもや孫が野球をしているご家庭に、一冊あっていいと思います。 投球障害0へ! ゼロポジションでつくる最強の肩と肘ナツメ社(2025年7月刊)。肩甲骨と上腕骨を同じ平面に保つ「ゼロポジション」を軸に、肩・肘の故障を防ぐ投げ方とトレーニングを解説。星4.8(10件) Amazonで見る › おわりに 今でも私は、細々とではありますが、自分で野球を続けています。子どもたちの練習を見たり、キャッチボールをしたりすると、結局、自分も野球が好きなんだなと思います。 路線バスの運転席から、公園で親子がキャッチボールをしている姿を見かけることがあります。そんなときは、つい目で追ってしまいます。お父さんが少し強く投げ過ぎれば「もうちょっと優しく投げてやれよ」と思ったり、子どもが懸命にボールを追いかけている姿を見れば、「頑張れ」と心の中で声をかけたりします。 トミー・ジョン手術を乗り越えた投手たちや、村田兆治さんの「サンデー兆治」を振り返ると、野球は若いときだけのものではないのだと思います。速い球を投げられなくなっても、遠くまで走れなくなっても、ボールを握ったときの気持ちまで失う必要はない。 私もこれから年齢を重ねていく中で、走ることも、体を動かすことも、そして子どもたちと野球をすることも、できる限り続けていきたいと思っています。 ...
9月24日 ── 緑色のきっぷが生まれた日|昭和の今日は何があった日?
駅で「みどりの窓口」の看板を見かけると、なぜだか少しほっとします。 券売機でもスマホでも買えない、ちょっと込み入ったきっぷ。乗り継ぎのややこしい旅程。そういうときに頼れる、人のいる窓口。その「みどりの窓口」が生まれたのが、昭和40年(1965年)の今日、9月24日です。 私が生まれる、4年前のことでした。 正直に書くと、私自身はこの窓口とほとんど縁がないまま大人になりました。それでも今日は、この緑色の看板の話をしてみたいと思います。 電話と台帳の時代 みどりの窓口ができる前、特急や寝台の指定券はどうやって売られていたのか。 答えは「台帳」と「電話」です。列車ごとに座席の台帳があり、それを持つ駅や乗車券センターへ、窓口の駅員さんが電話で空席を問い合わせる。空いていれば押さえてもらい、きっぷを書いて渡す。1枚の指定券を出すのに1〜2時間かかることもあり、同じ座席を二重に売ってしまうことさえあったそうです。 これを変えたのが、コンピュータでした。国鉄は昭和35年から「マルス(MARS)」と呼ばれる座席予約システムを試験的に動かし始め、昭和40年9月24日、それを本格的に使う指定券の売り場を、全国の主要152駅と日本交通公社の83か所の営業所に一斉に開設します。これが「みどりの窓口」です。10月1日のダイヤ改正で走り出す列車から、発売が始まりました。 開設を前にした昭和40年の夏には、新聞の新潟版で、県内3駅へのみどりの窓口設置が報じられています。両親のふるさとでも、同じ年に緑色のきっぷが売られ始めていたわけです。 名前の由来も、なかなか味わい深いものです。当時、駅にあらかじめ刷って置いてあるきっぷは赤や青の地紋が主流でした。ところがマルスの端末から打ち出される指定券は、淡い緑色だった。その緑色のきっぷを売る窓口だから、「みどりの窓口」。 コンピュータという最新の機械に、色の名前をつけて呼んだ。その素朴さが、いかにも昭和らしいなと思います。 昭和五十年代、まだ国鉄だった全線をきっぷ一枚ずつ乗りつぶしていった人の記録です。時刻表の読み方そのものが旅になっていた頃の空気が、そのまま残っています。 時刻表2万キロ(河出文庫・Kindle版)宮脇俊三/河出書房新社。サラリーマンをしながら国鉄全線約2万キロの完乗を目指した紀行。日本ノンフィクション賞受賞作。星4.3 Amazonで見る › 京成の子と、金町駅 私が育ったのは、京成高砂駅のすぐそば、線路沿いの家でした。小さい頃は、線路をまたぐ歩道橋の上から、飽きもせずに電車を眺めていたものです。 ただ、私にとっての「いつもの電車」は、あくまで京成でした。いちばん身近な国鉄の駅は金町駅。とはいえ、日常的に使う駅ではありません。 子どもの私にとって、国鉄は「特別なお出掛けのときに乗る電車」でした。京成が毎日の足なら、国鉄はよそ行きの服を着て乗るもの。そんな感覚です。 だから、みどりの窓口とはまったく縁がありませんでした。緑の看板の前に並んだ記憶も、窓口の奥の機械を覗き込んだ記憶もない。指定席をとって遠くへ行く、ということ自体が、我が家の暮らしのなかにほとんどなかったのだと思います。 15歳の春、ひとりで新潟へ そんな私にも、一度だけ、国鉄で遠くへ出かけた忘れられない旅があります。 私の両親は、ふたりとも新潟の出身です。母・時子は昭和13年、新潟の農家に生まれました。母は農作業が嫌で嫌で仕方なかったそうで、「早く東京へ出たかった」とよく言っていました。そうして東京へ出てきた両親のもとに生まれたのが、私です。 子どもの頃、両親のふるさとへ行ったのは、中学までの間に2、3回くらい。そのなかでいちばんよく覚えているのが、中学を卒業して高校に入学するまでの春休み、昭和60年(1985年)の春に、ひとりで新潟へ行ったときのことです。 15歳の、はじめてのひとり旅でした。 ところが、肝心のきっぷのことを、ほとんど覚えていないのです。なんとか自分で買ったのでしょうが、どこで、どうやって買ったのか。窓口に並んだ記憶はありません。乗ったのはたぶん特急だったと思うのですが、それも「だったのかな」という程度です。 覚えているのは、横川の釜めしを買って食べたこと。……いや、正確には「食べた、ような気がする」です。益子焼の土釜に入った、あの「峠の釜めし」。碓氷峠のふもと、信越本線の横川駅の名物駅弁です。 記憶のほうが正しいとすれば、私が乗ったのは上野から高崎、横川を越えて、長野を経由して新潟へ向かう信越本線の列車だったことになります。15歳の私にとって、行き先までの細かい道筋はたいした問題ではなかったのでしょう。残っているのは、きっぷではなく、駅弁の記憶でした。 横川という駅には、釜めしが名物になるだけの理由がありました。すぐ先に待っているのは、急勾配で知られる碓氷峠です。当時、横川から軽井沢へ向かう列車には、すべて専用の電気機関車EF63形が補機として連結され、峠の上まで後ろから押し上げていました。その連結作業のために、列車は横川駅でしばらく停まる。その停車時間に、乗客たちはホームへ降りて釜めしを買い求めたのです。「峠の釜めし」の発売は昭和33年。私が生まれるより前から、この駅の風景の一部でした。 その横川〜軽井沢間の線路も、平成9年(1997年)10月、長野新幹線(現在の北陸新幹線)の開業とともに廃止されました。15歳の私が通ったかもしれない峠越えの道は、もう列車では通れません。緑色のきっぷと同じように、あの春の旅路そのものが、昭和の側に置いてきた風景になりました。 その「峠の釜めし」は、いまは荻野屋から直接取り寄せることもできます。横川の駅で買うのがいちばんですが、そこまで行けないときに。 荻野屋 峠の釜めし(冷蔵便)株式会社荻野屋の直販。秘伝のだしで炊いた飯に9種類の具をのせた、昭和33年発売の駅弁。この商品は軽いパルプモールド容器入りで、冷蔵便のため送料が別にかかります。星4.3 Amazonで見る › 同じ春、窓口の向こうで あとから調べてみて、少し驚いたことがあります。 ...
9月23日 ── 「こんばんは」と蔵前の蛍の光、そして生まれる前の55本|昭和の今日は何があった日?
9月23日は秋分の日。昼と夜の長さがほぼ同じになる日だ。 昭和の暦をめくってみると、この日にはいくつもの「東京の大舞台」の出来事が重なっている。昭和56年、プロレスのリングで起きた、たったひと言の事件。昭和59年、隅田川のほとりにあった蔵前国技館の最後の日。 そしてもうひとつ。私がまだこの世にいなかった昭和39年のこの日、王貞治が年間55本目のホームランを打っている。 今回は、私が「知らなかった数字」から話を始めてみたい。 生まれる前の55本 昭和39年(1964年)9月23日、巨人の王貞治がシーズン55本目のホームランを放った。それまでの日本記録は、昭和25年に小鶴誠が記録した51本。14年ぶりの記録更新だった。東京オリンピックの開幕を、半月あまり後に控えた秋のことである。 この「55」という数字は、その後、驚くほど長く生き続けた。平成13年にローズ、平成14年にカブレラが並びはしたものの、破られることはなかった。ようやく塗り替えられたのは平成25年、バレンティンの60本。実に49年間、日本の頂点に立ち続けた数字だった。 もちろん、昭和44年生まれの私に、この日の記憶などあるはずもない。 私が野球に興味を持ったのは、保育園の年長の頃だ。父とキャッチボールを始めたのがきっかけだった。父が出勤する前の早朝、近所の広い公園へ行き、よく相手をしてもらった。 ただ、父の口からプロ野球の話を聞いた覚えはない。王さんの55本の話も、家で聞いたことはなかった。あの頃の私にとって野球とは、プロ野球ではなく、朝の公園で父と投げ合うボールのことだった。 プロ野球を意識し始めたのは、小学校に入ってからだ。クラスの友だちと野球の話をするうちに、王さんの55本という記録も、いつの間にか知っていたのだと思う。そして昭和52年、8歳の秋。王さんがハンク・アーロンを抜く756号を打ち、日本中が沸いた。私が王さんに夢中になったのは、この頃である。 つまり、私が王さんを知ったとき、55本はもう「伝説の数字」だった。自分の目で見た756号とは違い、55本は最初から歴史の中にあった数字なのだ。 小学6年生の秋、「こんばんは」 時計を昭和56年(1981年)まで進める。私は小学6年生、12歳だった。 この年の9月23日、東京・大田区の田園コロシアムで、新日本プロレスの大会が開かれた。会場には1万3000人を超す観客が詰めかけ、テレビの全国中継も入っていた。藤波辰巳やタイガーマスクが試合に出て、アンドレ・ザ・ジャイアント対スタン・ハンセンという大一番まで組まれた、豪華な興行だった。 その日、リングに上がったのが、ラッシャー木村である。所属していた国際プロレスが解散し、新日本のリングに乗り込んできたのだ。アントニオ猪木を前に、どんな啖呵を切るのか。会場の誰もが待ち構えていた。 マイクを握った木村の第一声は、「こんばんは」だった。 会場は失笑に包まれた。これが今も語り継がれる「こんばんは事件」である。のちにビートたけしがものまねで広めた「こんばんは、ラッシャー木村です」は、たけしの創作で、実際は「こんばんは」のひと言だけだったそうだ。 当時の私は、プロレス中継をよく見ていた。タイガーマスク、アントニオ猪木、藤波辰巳。夢中になって試合を見ては技を覚え、翌週の月曜日には、教室の後ろで友だちと技の掛け合いをした。今思えば、よくケガをしなかったものだ(笑)。 ところが残念なことに、肝心の「こんばんは」の場面は覚えていない。覚えているのは、その後の猪木と木村軍団の数々の口論と試合だ。こちらは毎週、しっかりと見ていた。伝説の始まりの一言は見逃して、その続きに夢中になっていたことになる。 実はこの田園コロシアムでの乗り込みには、続きがあった。半月後の10月8日、新日本プロレスと国際プロレスの全面対抗戦が予定されていたのだ。その舞台が、蔵前国技館だった。 昭和47年の旗揚げから、昭和63年までの新日本プロレスを一冊にまとめた本です。「こんばんは事件」の頃の熱気が、当時のファンの目線で書かれています。 新日本プロレス50年物語 第1巻 昭和黄金期週刊プロレス編・流智美/ベースボール・マガジン社。新日本誕生の1972年から飛龍革命の1988年まで、昭和の新日本プロレスをたどる287ページ。星4.2(34件) Amazonで見る › 中学3年生の秋、蔵前の「蛍の光」 さらに3年進めて、昭和59年(1984年)9月23日。私は中学3年生、15歳になっていた。 この日、大相撲秋場所の千秋楽をもって、蔵前国技館が閉館した。 蔵前国技館の始まりは、戦後すぐにさかのぼる。戦前の両国国技館が占領軍に接収されたため、相撲協会は蔵前に仮設の国技館を建て、昭和25年の初場所から本場所を開いた。正式な開館は昭和29年。昭和25年から数えて35年近く、東京の本場所はずっと蔵前で行われてきた。 その最後の場所で優勝したのは、横綱でも大関でもなかった。西前頭12枚目の多賀竜。番付上位には北の湖、千代の富士、隆の里と3人の横綱が並ぶ場所で、平幕力士が賜杯を抱くという、まさかの幕切れだった。取組がすべて終わると、「蛍の光」が流れる中、力士と満員の観客がペンライトを振って別れを惜しんだという。 私は結局、蔵前国技館に一度も行く機会がなかった。相撲もプロレスも、いつもテレビの中の蔵前だった。当時いちばんのオシは、やはり千代の富士である。 中学野球を引退したあとのこの秋、私は高校受験に向けて勉強に励んでいた。それでも蔵前の閉館は、なんとなく覚えている。そして、多賀竜の優勝も記憶にある。横綱が3人もいる場所で、平幕が優勝をさらっていった。 翌年1月の初場所からは、隅田川の向こう岸、両国に完成した新しい国技館へと舞台が移った。 その両国国技館にも、私はまだ行ったことがない。ところが、そのまわりの道は、路線バスの乗務で幾度となく走っている。蔵前もテレビの中、両国も窓の外。考えてみれば、私はいつも国技館を「外から」見てきたことになる。 土地に残るもの 蔵前国技館の跡地は、いま東京都の下水道施設になっていて、「蔵前水の館」では国技館にまつわる展示も見られるそうだ。大きな建物がなくなっても、土地には、そこであったことの記憶が残っている。 そういえば同じ昭和59年、全国宅地建物取引業協会連合会が、「ふ(2)どう(10)さん(3)」の語呂合わせで、9月23日を「不動産の日」に定めている。 「土地」と聞いて、私が思い出すのは両親のことだ。子どもの頃から、両親が自分たちの土地と家を持つことに強いこだわりを持っていたのを感じていた。「子どもに家を残したい」とも言っていた。 ...
9月22日 ── 「なぜだ!」と叫んだ大人と、何も知らなかった野球少年|昭和の今日は何があった日?
9月22日という日付を調べていて、少し不思議な気持ちになった。 昭和57年のこの日と、昭和60年のこの日。3年をはさんだ二つの9月22日に、大人の世界ではそれぞれ大きな出来事が起きている。ひとつは東京・日本橋のデパートの会議室で、もうひとつはニューヨークのホテルで。 昭和57年の私は中学1年生、昭和60年の私は高校1年生。どちらの秋も、頭の中は野球のことだけだった。 今回は、その二つの9月22日の話を書いてみたい。 昭和57年9月22日、日本橋の会議室で 昭和57年(1982年)9月22日、東京・日本橋の三越本店で、定例の取締役会が開かれた。 議題がひととおり終わり、最後の「その他」に入ったところで、社長の腹心として知られていた専務が立ち上がり、社長の解任を提案した。社長以外の取締役が次々と起立し、16対0で可決。10年にわたって三越を率いてきた岡田茂社長は、その場で代表権を失った。 岡田社長は「流通界の革命児」と呼ばれる一方、社内では異論を許さない独裁的な経営で「岡田天皇」とまで呼ばれていた人である。この年の夏には、日本橋本店で開いた「古代ペルシア秘宝展」の展示品の多くが偽物だったことが新聞で報じられ、さらに親しい女性の会社への不当な利益供与も問題になっていた。老舗デパートの名門ぶりとは裏腹に、内側はかなり揺れていたのである。 解任を告げられたとき、岡田社長が口にしたとされるのが「なぜだ!」のひと言だった。この言葉はテレビや新聞で繰り返し取り上げられ、その年の流行語になった。岡田氏はその翌月、特別背任の容疑で逮捕された。その後、裁判で実刑判決を受け、上告して争っている最中の平成7年に80歳で亡くなっている。「革命児」と呼ばれた経営者の、あまりに苦い幕切れだった。 昭和57年の9月といえば、私は中学に入学して半年。伝統的に強い野球部で、毎日きつい練習に明け暮れていた頃である。 では、中学1年生の私はこの騒ぎをどう見ていたのか。 正直に書くと、まったく覚えていない。 流行語さえ、届いていなかった 大人の世界の事件というのは、子どもにとってはたいてい中身がよく分からない。取締役会とは何か、代表権とは何か、特別背任とは何か。中学1年生がそれを理解していたとは思えない。 それでも「なぜだ!」という言葉くらいは、子どもの耳にも入りやすかったはずである。短くて、感情がむき出しで、どんな場面にも使える。昭和の流行語には、大人の事件が言葉ひとつに縮んで子どもの世界に流れ込んでくるものが多かった。 ところが私の記憶には、その言葉すら残っていない。テレビのニュースで見た覚えも、教室や部室で誰かが真似していた覚えもない。世間で流行語になるほどの騒ぎでも、野球漬けの中学1年生のところまでは届かなかったらしい。 もうひとつ理由があるとすれば、三越というデパートそのものに、私はほとんど馴染みがなかった。 葛飾で育った私にとって、デパートといえば上野の松坂屋だった。屋上には遊園地があり、食堂があった。その光景は今でも覚えている。上野は、国立博物館にも何度も連れて行ってもらった町で、子どもの私が知っている「都会」はだいたいそのあたりまでだった。 日本橋の三越は、同じデパートでも、私の暮らしの外側にあったのだと思う。だからその社長が解任されようが「なぜだ!」と言おうが、自分とつながる話として受け取る手がかりがなかったのだろう。 三越も松坂屋も、江戸時代の呉服屋から始まっています。屋上に遊園地があった頃から、いまの苦しい時代まで。デパートという商売の四百年を一冊でたどれる新書です。 百貨店・デパート興亡史(イースト新書)梅咲恵司/イースト・プレス。三越、伊勢丹、高島屋、松坂屋、大丸、西武……日本の百貨店がどう栄え、どう揺らいできたかをたどる。星4.1(31件) Amazonで見る › 昭和60年9月22日、ニューヨークのホテルで それから3年後の昭和60年(1985年)9月22日。今度の舞台は、ニューヨークのプラザホテルである。 この日、日本・アメリカ・イギリス・フランス・西ドイツの5か国の大蔵大臣と中央銀行総裁が集まり、行き過ぎたドル高を是正するために協調して為替市場に介入することで合意した。会議が開かれたホテルの名前をとって「プラザ合意」と呼ばれている。日本からは、のちに首相となる竹下登大蔵大臣が出席していた。 会議そのものは20分ほどで終わる形式的なものだったというが、その効き目はすさまじかった。1ドル235円前後だった為替相場は、合意の翌日までに約20円も円高に動き、1年後には150円台で取引されるようになった。昭和62年の暮れには、1ドル120円台にまで達している。わずか2年ほどで、ドルの値打ちがほぼ半分になった計算である。 円高は、輸出で稼いできた日本の製造業を苦しめた。一方で、輸入品が安くなり、海外旅行ブームが起きた。そして円高不況を心配した日本銀行が低金利を続けたことで、お金が土地や株に流れ込み、やがてバブル景気へとつながっていく。昭和の終わりから平成のはじめにかけての、あの浮かれた時代の出発点のひとつが、この9月22日だったと言われている。 昭和60年の9月、私は高校1年生だった。 このニュースも、私はまったく憶えていない。たぶん関心もなかったし、仮に聞いていたとしても理解はできなかっただろう。ドルだの為替だのという言葉は、耳に入ったとしても、そのまま通り抜けていったのだと思う。 当時の私にとって、関心ごとは野球だけだった。 8年後、信用金庫で 高校1年生の私が何も知らないうちに始まった円高とバブルは、その後、思いがけない形で私の人生にも届いてきた。 私が大学を卒業して信用金庫に入ったのは、平成5年(1993年)のこと。プラザ合意からちょうど8年後である。そのころにはバブルはすでにはじけ、世の中の金融機関は膨らんだ土地や株の後始末に追われていた。 もっとも、入って間もない私にとって、バブル崩壊後の空気はこれといって印象に残っていない。入社当時は、何も分からずに働いていた。ここでもまた、大きな時代のうねりは、私の頭の上を通り過ぎていったことになる。 それでも、信用金庫で過ごした7年間は、その後の生活に相当役に立っている。金利、簿記、借入、預金。窓口と帳簿の中で身につけた知識と経験は、いま自分が行っている「投資」へとつながっていった。お金の話に尻込みすることなく、積極的に取り組める基礎になったのは、間違いなくあの7年間である。 ニューヨークのホテルで20分ほどで決まったことは、16歳の私には何ひとつ届かなかった。24歳の私にも、その余波ははっきりとは見えていなかった。けれど、その余波の中で働いた日々が、何十年もたった今の私を支えている。時代というのは、見えないところで、ちゃんと人の人生に流れ込んでくるものらしい。 プラザ合意による円高と、その後の低金利。そこから土地と株の狂乱までを、経済記者として四十年見続けた人が書いた一冊です。高校1年生の私が素通りした出来事の、その先で何が起きていたのかが分かります。 バブル―日本迷走の原点―(新潮文庫)永野健二/新潮社。プラザ合意から金融自由化、地価と株価の狂乱、そして崩壊まで。日本経済新聞の記者として現場を見続けた著者によるノンフィクション。星4.2(398件) Amazonで見る › おわりに 昭和57年の三越事件、そして昭和60年のプラザ合意。 ...
9月21日 ── 私の町の名前が、少年ジャンプの表紙に載った日|昭和の今日は何があった日?
今日は9月21日。 昭和51年(1976年)のこの日、『週刊少年ジャンプ』42号が発売された。その号から連載が始まったのが、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』である。 葛飾区。私が生まれ育ち、今も住んでいる区の名前だ。 自分の町の名前が、少年漫画のタイトルにそのまま入っている。しかも40年続く。こんな経験をした区民は、そう多くないはずである。 なぜ、あんなに長いタイトルなのか 作者の秋本治は、葛飾区亀有の生まれである。のちに葛飾区の名誉区民にもなった、正真正銘の地元の人だ。 『こち亀』はいきなり連載で始まったわけではない。昭和51年6月発売の『週刊少年ジャンプ』29号に、月例ヤングジャンプ賞の入選作として読み切りが載ったのが最初だった。その反響が1か月以上続いたことから連載会議にかけられ、42号からの連載が決まる。 このとき使われていたペンネームが「山止たつひこ」。当時『がきデカ』で人気だった山上たつひこをもじったものである。のちに本人からクレームが来て、連載100回を区切りに本名の「秋本治」に変わった。なかなか大胆な新人である。 そして、あの長いタイトル。 秋本治は、映画監督の山田洋次との対談でこう語っている。『男はつらいよ』のおかげで葛飾区は全国的に知られていた。だから亀有を知らない人でも、葛飾区ならみんな知っているだろうと思った、と。 つまり『こち亀』というタイトルは、寅さんの肩に乗って生まれている。 柴又の帝釈天は、高砂のすぐ隣である。渥美清の寅さんが全国に広めた「葛飾」という地名を借りて、今度は両津勘吉が亀有を全国区にしていった。昭和という時代に、この小さな区は二度も日本中に名前を売ったことになる。 私にとっては、『サーキットの狼』のついでだった ただし、当時7歳・小学1年生だった私が、この歴史的な42号をありがたがって読んでいたかというと、まったくそんなことはない。 正直に書くと、いつから『こち亀』を読み始めたのか、はっきりとは覚えていない。当時の私にとってのお目当ては別にあった。『サーキットの狼』である。 池沢さとしの『サーキットの狼』は、昭和50年1月に『週刊少年ジャンプ』で連載が始まり、スーパーカーブームの火付け役になった漫画だ。ロータス・ヨーロッパ、ランボルギーニ・カウンタック、フェラーリ512BB。小学生がそらで車の名前を言えるようになったのは、あの漫画のせいである。スーパーカー消しゴムを筆箱に溜め込んだ世代だ。 つまり、私はまず『サーキットの狼』を読み、そのついでに『こち亀』も読む。そういうサブ的な存在だったと思う。 いま思えば、ずいぶん贅沢な誌面である。同じ一冊の中に、スーパーカーが走る漫画と、自分の住む区の名前が付いた漫画が並んで載っていた。後者が40年続く大記録になるとは、当時の誰も——たぶん編集部も——思っていなかっただろう。 その『サーキットの狼』の第1巻です。読み返すと、四十年前に筆箱の中で転がっていた消しゴムの車が、そのまま走り出してきます。 サーキットの狼 愛蔵版1 ウワサの男の巻(Kindle版)池沢さとし/ゴマブックス。スーパーカーブームの火付け役になったレーシング漫画。ロータス・ヨーロッパを駆る風吹裕矢の物語の第1巻。星4.2(10件) Amazonで見る › 野球用品を買いに行く町 葛飾区に住んでいる人間からすると、亀有と高砂は「同じ区」ではあるが、日常的に行き来する町ではない。 高砂は京成線、亀有はJR常磐線。路線が違うと、子どもの生活圏はきれいに分かれる。それでも自転車に乗るようになった頃には、亀有はそれほど遠い場所ではなくなった。 もっとも、漫画に出てくる亀有公園や派出所が本当に実在するのかどうか、気になって確かめに行く——というほどの存在感ではなかった。私が亀有駅の近くまで行っていたのは、野球用品を買うためである。グラブやバットやスパイクを買いに行く町。それが子どもの頃の私にとっての亀有だった。 ちなみに、いまバスの運転士として亀有方面を走ることはない。ただ、路線バス運転士に転職したばかりの頃には亀有駅始発の路線があり、ときどきその担当に入ることがあった。かつて野球用品を買いに自転車で通った駅前に、何十年かあとにハンドルを握って立ち寄っていたわけである。 「寅さんの柴又」と「こち亀の亀有」 自分の住む町が全国的に有名になっていくことについては、誇らしく感じていた。 子どもの頃、学校でも親戚の集まりでも、『こち亀』や寅さんの話は当然のように出た。そして今に至るまで、私が自分の住んでいる場所を人に説明するとき、必ずと言っていいほど使う言い回しがある。 「寅さんの柴又の近く」「こち亀の亀有の近く」 高砂と言って通じる相手は、正直なところそう多くない。けれど柴又と亀有なら、たいていの人に伝わる。寅さんと両さんは、半世紀近くにわたって、私の自己紹介を手伝い続けてくれている。いまも現役で、である。 40年、一度も休まなかった 『こち亀』の記録を並べると、少し現実離れしている。 昭和51年42号から平成28年(2016年)42号まで、ちょうど40年。連載回数1960回。その間、一度の休載もない。単行本は全200巻に達した。始まったのも42号、終わったのも42号である。 40年というのは、私が7歳から47歳になるまでの時間だ。小学1年生だった子どもが、就職して、転職して、子どもを育てるまでのあいだ、両さんはずっと亀有公園前の派出所にいたことになる。しかも両さんは年をとらない。こちらだけが勝手に年をとって、追い越していった。 連載終了のとき、私にはもう漫画を読む習慣はなくなっていた。それでも「こち亀終了」を知らせるニュースは、どこからともなく耳に入ってきた。やはり、ちょっとさびしい気持ちになったのを覚えている。 亀有駅の北口と南口には、両さんの銅像が立っている。区内には『こち亀』のマンホールも埋まっている。銅像もマンホールも、私は見に行った。漫画のキャラクターが、実在の町の風景の一部になってしまった珍しい例だと思う。 連載第1巻です。絵柄はいまの『こち亀』とだいぶ違って、劇画に近い両さんが出てきます。この記事を書いている時点では、9月30日まで無料で読めるようになっていました。 こちら葛飾区亀有公園前派出所 1(ジャンプコミックスDIGITAL)秋本治/集英社。昭和51年に始まった連載の第1巻。全200巻の一冊目。星4.1(720件) Amazonで見る › 同じ9月21日、ホンダが世界の頂点に立った ここからは話が変わる。時代も場所も、まったく別の9月21日である。 昭和61年(1986年)のこの日、ポルトガルGPの舞台エストリル・サーキットで、ホンダエンジンを積んだウィリアムズがF1のコンストラクターズ・チャンピオンを決めた。日本の自動車メーカーがF1のタイトルを獲ったのは、これが初めてのことである。 この年のウィリアムズ・ホンダは、ネルソン・ピケとナイジェル・マンセルという二人の速いドライバーを擁し、16戦9勝という成績を残した。ただしチーム内で勝ち星を食い合った結果、ドライバーズタイトルのほうはマクラーレンのアラン・プロストにさらわれている。速さはあったのに王座はひとつだけ、という少し皮肉な年だった。ここからホンダは1991年まで6年連続でチャンピオンエンジンとなり、やがてマクラーレン・ホンダとアイルトン・セナの時代へつながっていく。 さて、ここで話が最初に戻る。 『サーキットの狼』の主人公・風吹裕矢は、街の走り屋から始まって、やがてサーキットへ、そして最後はF1へ向かっていく。小学生の私が夢中で追いかけていたのは、そういう物語だったはずである。 ところが、である。 昭和61年当時の私は、F1などのモータースポーツにまったく興味を持っていなかった。セナやプロストの名前を知ったのは、日本にF1ブームがやって来てから。1年の浪人を経て大学に入ったあとのことである。ホンダが世界の頂点に立ったその日、高校2年生の私は、秋の野球部の練習の中にいた。 子どもの頃に好きだったものが、そのまま大人の関心につながるとは限らない。むしろ、ほとんどの場合つながらない。ジャンプで並んで載っていた二本のうち、私の人生に最後まで残ったのは、スーパーカーのほうではなく、町の名前のほうだった。 おわりに 『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の連載が始まった昭和51年、私はまだ子どもだった。 ...
9月20日 ── 夕やけが終わった日と、「バスの日」が生まれた年|昭和の今日は何があった日?
今日は9月20日。 昭和62年(1987年)のこの日、日曜日の国立代々木競技場第一体育館で、ひとつのグループが解散した。おニャン子クラブである。結成からわずか2年半の幕切れだった。 そして同じ昭和62年、9月20日という日付は「バスの日」に定められた。おニャン子が解散した、その翌月のことである。 終わったものと、生まれたもの。たまたま同じ年に、同じ日付をめぐって起きた二つの話を書いてみたい。 私の高校生活と、ほぼぴったり重なっていた 『夕やけニャンニャン』がフジテレビで始まったのは、昭和60年(1985年)4月1日。平日の月曜から金曜、夕方5時からの1時間番組だった。 この日付を目にしたとき、少し驚いた。昭和60年の4月というのは、私が高校に入学した月そのものだからだ。 番組のコンセプトは「放課後」。出演していたのは、芸能界に染まっていない現役の女子高生たちだった。番組内のオーディション「ザ・スカウト アイドルを探せ!」で合格すれば、翌週にはもうレギュラーとしてテレビに映っている。結成時は11人、解散時には19人が在籍していた。 デビューシングル「セーラー服を脱がさないで」が出たのが、同じ昭和60年の7月5日。これが大ヒットして、「おニャン子旋風」と呼ばれる社会現象になっていく。 つまりおニャン子クラブの活動期間は、私の高校生活とほぼぴったり重なっている。入学した月に始まり、卒業を控えた秋に終わった。 ところが、である。 私は『夕やけニャンニャン』を、ほとんど見ていない。夕方5時といえば、野球部の練習の真っ最中だったからだ。日本中の中高生がテレビの前に座っていたその時間、私はグラウンドにいた。 もちろん、その存在は知っていた。教室では話題になっていたからだ。番組を見ていなくても、おニャン子クラブというものが世の中を席巻していることだけは、しっかり伝わってきていた。 「会員番号○○番の○○ちゃん」 いま振り返ると、おニャン子クラブは、それまでのアイドルとは仕組みからして違っていた。 松田聖子や中森明菜のような、遠くで輝いているスターではない。隣のクラスにいそうな女子高生が、オーディションに受かった次の週にはブラウン管の中にいる。メンバーには会員番号がつき、卒業という形で出ていく。のちのAKB48まで続いていく「手の届くアイドル」の、いちばん最初がここにあったと言われることが多い。 その「会員番号」という仕組みがいかによくできていたかを、私は野球部の部室で知ることになる。 私自身は、特に好きなメンバーがいたわけではなかった。ところが同級生の部員の中には、「会員番号○○番の○○ちゃんがかわいい」と話している者がいた。番号で呼ぶのである。いま思えば、あれは単なる番号ではなく、追いかけている側の熱量を測る物差しだったのだろう。 番組を見ていない私にも、その会話だけはやけに記憶に残っている。 番組を見ていなかった私でも、頭のひと節を聞けば「ああ、これか」となります。あの頃の教室で鳴っていた音が、一枚にまとまっています。 プラチナムベスト おニャン子クラブ(UHQCD)ポニーキャニオン。「セーラー服を脱がさないで」をはじめ、おニャン子クラブ名義の曲を集めたベスト盤。収録1時間8分。星4.3(25件) Amazonで見る › 抜け殻だった秋 昭和62年の夏は、私にとって特別な夏だった。 7月23日、神宮第二球場。東東京大会。2対3で負けて、私の高校野球は終わった。 その、ちょうどひと月あと。8月31日に『夕やけニャンニャン』が最終回を迎え、番組の終了とともにおニャン子クラブも解散することが決まっていた。そして9月19日と20日、代々木第一体育館でファイナルコンサート。20日が、最後の一日だった。 私の夏が終わり、テレビの中の夏も終わった。けれど正直に書いておくと、当時の私はそのことをまったく知らなかった。 高校野球が終わってしまって、私は抜け殻のようになっていた。あれだけ毎日を埋めていたものが、ある日を境にごっそり無くなる。頭を切り替えて受験に向かわなければならないと分かってはいても、体も心も追いつかない。そんな秋だった。 だから、おニャン子解散のニュースは、私の耳には入ってきていない。日本中がひとつの時代の終わりを見届けていたその日に、私は自分の時代の終わりに呆然としていた。 同じ9月20日を生きていながら、私にはまったく別の景色しか見えていなかったのである。 その翌月、「バスの日」が生まれた さて、ここからは話が大きく変わる。 同じ昭和62年の10月。全国バス事業者大会で、日本バス協会が9月20日を「バスの日」と定めた。テーマは「いつでも、どこでも、みんなのバス」。 なぜ9月20日なのか。由来は昭和でも大正でもなく、明治までさかのぼる。 明治36年(1903年)9月20日、京都で二井商会という会社が、堀川中立売から七条を経て祇園までの区間で乗合自動車の運行を始めた。これが日本初の営業バスとされている。 その車がどんなものだったかというと、蒸気自動車を改造したもので、定員は6人。運転手と助手を除けば、乗せられる客はたった4人である。しかも幌がない。風も雨も砂ぼこりも、そのまま浴びる乗り物だった。乗合馬車屋からの妨害や車両の故障も相次ぎ、この事業は翌明治37年の1月には行き詰まって営業を終えている。 ちなみに同じ明治36年の1月には広島でも乗合自動車が走り出していて、そちらが実質的な日本初ではないかとも言われている。京都の9月20日が記念日に選ばれたのは、営業免許証が交付された日付がはっきり分かっているからだそうだ。 定員4人の、屋根もないバス。そこから始まった商売のハンドルを、私はいま握っている。 車掌さんが消えていった昭和 明治の話はさておき、私たちの記憶にある昭和のバスは、どんな乗り物だっただろうか。 東京のバスには、かつて車掌さんが乗っていた。大正13年に東京市営のバスが始まって間もなく、赤襟の制服を着た女性車掌が乗るようになり、「バスガール」と呼ばれて昭和の初めには花形の職業になった。 その車掌さんが、昭和のうちに消えていく。都営バスがワンマンカーの運行を始めたのが昭和40年2月。全系統のワンマン化が完了したのは、昭和53年度のことだった。 ...