【昭和の今日は何があった日?】6月24日──父と観た「空飛ぶ円盤」、家で描き続けた円盤の絵

六月二十四日は「UFOの日」。昭和二十二年(1947年)にアメリカで「空飛ぶ円盤」が目撃された日にちなみます。父に連れられて通った東映まんがまつり、映画館を出たあとしばらく描き続けたUFOの絵、そして昭和六十年にゲームセンターへやってきた「UFOキャッチャー」。空のかなたにあこがれた、昭和の子どもの記憶の話です。 今日は六月二十四日。梅雨の真っただ中で、どんよりとした雲が空をおおう日が続きます。窓の外を見上げても、見えるのは灰色の雲ばかり。けれど昭和の子どもにとって、その雲の向こうにはいつも、もう一つの世界が広がっていました。 六月二十四日は「UFOの日」、別名「空飛ぶ円盤記念日」です。なんとも昭和の子ども心をくすぐる、わくわくする記念日ではありませんか。今日はこの日にちなんで、私たちの世代が夢中になった「空飛ぶ円盤」と、それにまつわる思い出を振り返ってみたいと思います。 「空飛ぶ円盤」が生まれた日 そもそも、なぜ六月二十四日が「UFOの日」なのでしょうか。 話は昭和二十二年(1947年)にさかのぼります。この日、アメリカの実業家ケネス・アーノルドさんが自家用機を操縦して飛んでいたところ、ワシントン州のレーニア山付近の上空で、ものすごい速さで飛ぶ九つの奇妙な物体を目撃しました。物体は鎖のように一直線につながり、平たい形をしていて、ジェットエンジンのような音もしなかったといいます。 アーノルドさんが、その飛び方を「水面を切って跳ねる円盤のようだった」と語ったことから、「空飛ぶ円盤(フライング・ソーサー)」という言葉が生まれました。これが近代UFO史の幕開けとなった、有名な「アーノルド事件」です。以来、世界中で「円盤を見た」という証言が相次ぎ、日本でも「空飛ぶ円盤」という言葉が、新聞や雑誌をにぎわせるようになっていきました。世界はこの記念すべき日を「UFOの日」と名付けたのです。 つまり六月二十四日は、人類が「空の向こうに、私たち以外の何かがいるのかもしれない」と、本気で空想しはじめた日なのです。 父と通った、東映まんがまつり UFOと聞いて、私の胸にまっさきによみがえってくるのは、暗い映画館の中の記憶です。 保育園の年長から小学校の低学年にかけての頃、夏休みや冬休みになると、「東映まんが祭り」という、アニメや特撮の映画を何本かまとめて上映するプログラムが映画館にかかりました。一本の入場料で、人気のキャラクターが何本も観られる。子どもにとっては、まさに夢のような時間でした。 そのたびに、父が私を映画館へ連れて行ってくれたのです。 東映まんが祭りには、入場のときに必ずもらえる紙の帽子がありました。あれをかぶるのが、子ども心にうれしくてうれしくて。映画が終わって外に出ても脱がず、帰り道、家に着くまでずっとかぶっていたものです。 ただ、紙の帽子よりも、さらに強烈に記憶に残っているものがあります。それは——映画館の入口の、左右の壁に貼られたポスターでした。 片側は、たいていお目あての『東映まんが祭り』のポスター。ところが決まって、もう片方の壁には、普段その映画館で上映しているものなのでしょうか、なんとも悩ましいポーズでこちらを見つめる、裸のお姉さんが映ったポスターの数々が貼られていたのです。 「見たいけど、見ちゃいけないよね。でも、ちょっと見たい」 入場の列に並びながら、毎回そのポスターを横目に、胸をドキドキさせていたものでした(笑)。まんが祭りへのわくわくと、見てはいけないものへのこっそりした好奇心。あの入口の数分間は、幼い私にとって、ある意味で本編の映画に負けないくらい、忘れがたいひとときだったのかもしれません。 さて、その東映まんが祭りには「UFO」ものが、けっこうあったのです。 巨大なロボットが空飛ぶ円盤と一体になって、宇宙からの敵と戦う。スクリーンいっぱいに広がる宇宙と、銀色に光る円盤。子どもだった私は、もう夢中になって見入っていました。 そして、ここが自分でも不思議なのですが——映画を観たあと、家に帰ってからしばらくの間、私はずっとUFOの絵を描いていたのです。何枚も何枚も、飽きずに描いていた記憶があります。それだけ、あの映画館で観た「空飛ぶ円盤」が、幼い私の心に強く焼きついていたのでしょう。 「UFOロボ」が飛んでいた時代 ところで、なぜあの頃の映画やテレビには、あれほどUFOものが多かったのでしょうか。 実はこれには、はっきりとした理由があります。昭和五十年代の初め、日本中に空前の「空飛ぶ円盤(UFO)ブーム」が巻き起こっていたのです。 その象徴ともいえるのが、昭和五十年(1975年)に登場したテレビアニメ『UFOロボ グレンダイザー』でした。実はこの作品、もともとは別の企画が立ち消えになったところへ、「当時のUFOブームに乗ろう」という思惑から生まれたものだったといいます。だからこそ「UFOロボ」という名前がつき、敵もはじめて本格的に「宇宙人」が据えられました。その前身となった映画『宇宙円盤大戦争』が東映まんが祭りで公開されたのも、まさに昭和五十年の夏のことです。 私が父と映画館でUFOものに夢中になっていたのは、ちょうどこの時期と、ぴったり重なっています。あの頃、銀色の円盤は、日本中の子どものノートの上を飛び回っていたのです。 ブームを支えたのは、映画やアニメだけではありませんでした。テレビでは、日本テレビの「木曜スペシャル」で、矢追純一さんが手がけたUFO特番が大人気を博していました。あの独特の効果音とともに映し出される、ぼんやりとした円盤の写真と、世界中の不思議な事件の数々。半分は嘘かもしれないと薄々感じながらも、画面に釘づけになってしまう。あの引き込まれる感覚を、同世代の方ならきっと覚えているはずです。昭和五十二年(1977年)の暮れには、ピンク・レディーが「UFO」を歌い、両手を空へ広げるあの振り付けを、誰もが真似していました。 ゴールデン☆ベスト ピンク・レディー(「UFO」収録・全シングル集)あの「UFO」も「サウスポー」も。両手を空へ広げた、昭和の歌がここに Amazonで見る › 学校へ行けば、誰それがUFOを見たという噂が、まことしやかに飛び交いました。夏の夜、夕涼みをしながら空をよぎる光を見つけては、「あれ、UFOじゃないか」と本気で胸を高鳴らせたものです。今思えば他愛のないことばかりですが、空の向こうに何かがいると信じられた、あの感覚こそ、昭和の子どもにとっての何よりのごちそうだったのかもしれません。 空の向こうへのあこがれが、テレビからも映画からも歌からも、洪水のようにあふれ出していた時代。それが、私たちの子ども時代だったのです。 ゲームセンターに着陸した「UFO」 時は流れ、昭和六十年(1985年)。「UFO」の名を持つ、もう一つの忘れがたいものが登場します。 セガが発売した、クレーンゲームの「UFOキャッチャー」です。 それまでのクレーンゲームといえば、上からのぞき込んでお菓子をすくうような、小さな機械が主流でした。ところがこの新しい機械は、二本の爪のアームを操作して、ガラスケースの中に並んだ景品をつかみ取る。そのアームの動きが空飛ぶ円盤のように見えたことから、「UFOキャッチャー」と名づけられたといいます。やがてこの名前は、クレーンゲームそのものの代名詞になっていきました。 この昭和六十年、私はもう高校生になっていました。映画館でUFOの絵を描いていたあの小さな子どもが、いつのまにかゲームセンターに出入りする年頃になっていたわけです。 正直に打ち明けると、あれほど「UFO」に夢中だった私も、この「UFOキャッチャー」そのものには、これといって強い思い出があるわけではありません。同じ「UFO」の名を持ちながら、幼い頃に映画館で円盤に胸をときめかせていたあの熱とは、もう少し冷めた距離で眺めていたように思います。それでも、子ども時代から青春時代まで、形を変えて「UFO」という三文字が私のそばにあり続けたのだと思うと、なんだか不思議な縁を感じます。 ちなみに、この「UFOキャッチャー」が誕生から三十五年を迎えたのを記念して、後の世になって、六月二十四日の「UFOの日」が「UFOキャッチャーの日」にも定められました。空飛ぶ円盤の記念日が、ゲームセンターの記念日にもなった。これもまた、なんとも昭和生まれにはくすぐったい話です。 おわりに 令和のいま、「空の向こう」は、ずいぶん身近なものになりました。 スマートフォンを開けば、宇宙ステーションから見た地球の映像も、遠い惑星の写真も、いつでも手のひらの中で眺めることができます。民間のロケットが次々と打ち上げられ、UFOは「UAP(未確認航空現象)」などと呼ばれて、各国の政府が大真面目に調査する時代にもなりました。あの頃あれほど謎めいていた「空飛ぶ円盤」も、すっかり日常の話題の一つです。 それでも——です。 ...

June 24, 2026

6月23日 ── 北へ向かう夢の超特急は、なぜか「大宮始発」だった

六月二三日。梅雨の晴れ間に、少しだけ夏の匂いが混じりはじめる頃です。 カレンダーをめくると、この日にはいろいろな記念日が並んでいます。けれど私がきょう書きたいのは、四十年以上前のある朝、北へ向かって走り出した一本の列車の話です。 昭和五十七年(一九八二年)六月二三日。東北新幹線が、大宮〜盛岡間で開業しました。 そのとき私は中学一年生。高砂の電車に囲まれて育った私にとって、新幹線というのは、いつもの京成電車とはまったく別の、ちょっと手の届かない「夢の乗り物」でした。 毎日のように京成電車を眺め、すぐ近くの高砂検車区には、ずらりと電車が並んでいる。電車という乗り物なら、誰よりも身近に感じていたはずの私です。それでも、図鑑やテレビのニュースの中を走る新幹線だけは、なぜか同じ「電車」だとは思えませんでした。同じレールの上を走るのに、住んでいる世界が違う。そんなふうに感じていたのです。実をいうとこの頃の私は、まだ一度も新幹線に乗ったことがありませんでした。 夢の超特急は、なぜか「大宮始発」だった 東北新幹線の計画そのものは、ずいぶん前から進んでいました。東京〜盛岡を結ぶこの路線は、昭和四十六年(一九七一年)に着工され、十年以上の歳月をかけて、ようやく完成にこぎつけます。 ところが、いざ開業というとき、ひとつの大きな「ねじれ」がありました。 始発駅が、東京でも上野でもなく、埼玉の大宮だったのです。 東海道新幹線が当たり前のように東京駅から走り出したのに比べると、これはずいぶん変則的な船出でした。理由は、上野〜大宮の沿線にあります。この区間はすでに住宅が密集していて、新幹線の騒音をめぐる反対運動が起きていました。そのため都心への乗り入れはいったん見送られ、「とりあえず大宮から」というかたちで走り始めることになったのです。 東京〜盛岡が、それまでの在来線特急で六時間二三分。それが新幹線の開業で、三時間五八分にまで縮まりました。四割近い時間短縮です。けれど、その恩恵にあずかるには、まず大宮まで行かなければならない。そこに、もうひとりの主役が登場します。 「新幹線リレー号」という名脇役 大宮始発という事情を埋めるために用意されたのが、上野〜大宮を結ぶ専用列車、その名も「新幹線リレー号」でした。 新しく造られたばかりの185系という車両が、上野と大宮のあいだをノンストップ、わずか二十五分ほどで走りました。新幹線の特急券を持っている人だけが乗れる、文字どおりの「連絡列車」です。乗り換えで迷わないように、ホームには「リレーガール」と呼ばれる案内係の女性たちが立っていたといいます。 開業の日、大宮駅のホームでは朝七時一五分に「やまびこ一一号」の出発式が行われ、一日じゅう鉄道ファンでにぎわったそうです。白地に緑のラインをまとった200系が、最高時速210キロで北へ走り出しました。 もっとも、走り出した当初の本数は、ずいぶん控えめなものでした。速達タイプの「やまびこ」が一日に四往復、各駅停車の「あおば」が六往復ほど。これだけ大きな路線にしては、まるでローカル線のようなダイヤです。それでも、夏の帰省シーズンには大宮駅が人であふれかえったといいますから、みんながどれほどこの一本を待ちわびていたかが伝わってきます。 この「リレー号」は、三年後の昭和六十年(一九八五年)に新幹線が上野まで延びると、その役目を終えて姿を消しました。たった三年足らずの命でしたが、開業したばかりの夢の超特急を都心とつないでいたのは、この名脇役だったのです。 そして、この「上野まで延びた」という出来事が、私の家のすぐそばにも、小さな波紋を広げることになります。 私が初めて乗った新幹線は、修学旅行だった 私が通っていた中学校では、三年生の修学旅行で東海道新幹線に乗り、京都・奈良へ行くのが決まりでした。 私にとって、生まれて初めての新幹線は、このときの東海道新幹線です。当時は「生まれて初めて乗る新幹線は修学旅行のとき」という子も少なくありませんでした。家族旅行で気軽に乗るようなものではなく、新幹線は子どもにとって、人生の特別な日にだけ顔を出す乗り物だったのです。 みんなでホームに並んで、あの長い銀色の車体がすうっと滑り込んできたときの高揚。窓の外をものすごい速さで景色が流れていく、あの初めての感覚。修学旅行そのものの思い出と、初めての新幹線の興奮とが、私の中ではひとつに溶け合っています。 だからでしょうか。「初めての新幹線が修学旅行だった」という人は、新幹線そのものの記憶と、あの旅の記憶とを、生涯ひとそろいで持っているように思うのです。どの新幹線で、どこへ向かったか。それは、その人がどんな時代に子どもだったかを、そっと映す鏡でもあります。 妹の代から、行き先が「東北」になった ところが、です。 昭和六十年に東北新幹線が上野まで延びたことで、思いがけないことが起きました。一つ年下の妹の修学旅行先が、なんと東北になったのです。 どこを回ったのか、詳しいことは私も聞きそびれてしまいました。ただ、妹がお土産に「赤べこ」──赤い牛の形をした張り子の人形──を買って帰ってきたのを、はっきり覚えています。赤べこといえば、福島・会津の郷土玩具。きっと会津地方を訪れたのでしょうね。 もともと上野駅は、東北や北国へ向かう人々の「玄関口」でした。集団就職の若者たちも、帰省の家族連れも、北を目指す列車はみな上野から出ていった。その上野に新幹線が乗り入れたことで、下町の中学生にとっても、東北がぐっと手の届く行き先になったのです。その証拠のように、私の中学校では、その後しばらく「京都・奈良」と「東北」の修学旅行を、一年交代で実施するようになりました。 いつまで続いたのかは分かりません。けれど、私の世代までは「初めての新幹線=東海道新幹線」だったのが、妹の代からは「初めての新幹線=東北新幹線」という子どもたちが、どんどん増えていったわけです。 一本の新幹線が都心に少し近づいた。ただそれだけのことで、子どもたちが人生で最初に降り立つ「遠い町」が、京都から会津へと変わっていく。あらためて考えると、これはなかなか、すごいことだと思うのです。 修学旅行の行き先というのは、その時代に「子どもに見せておきたい日本」がどこだったか、という選択でもあります。長いあいだ、それは京都や奈良の古い都でした。そこに東北という新しい選択肢が加わったのは、新幹線が北を一気に近づけてくれたから。線路が一本延びるたびに、子どもたちが見る日本の地図も、少しずつ書き換えられていったのだと思います。 バスのハンドルを握る私が思うこと 私は今、路線バスの運転士をしています。 毎日、決まった道を走りながら、人を乗せて、目的地と目的地をつないでいます。華やかさはありません。けれど、誰かの「行きたい場所」と「今いる場所」のあいだを、確実につなぐ仕事です。 だからでしょうか。あの「新幹線リレー号」の話を知ると、妙に胸が熱くなるのです。 主役の超特急ではなく、その手前で、都心と大宮をつないでいた185系。脚光を浴びるのは新幹線のほうでも、リレー号がなければ、あの三年間、人は北へ向かえませんでした。つなぐ、という仕事に、上も下もありません。そんなことを、ハンドルを握りながら、時々思います。 それでも、北はぐっと近くなった 妹たちを東北へ運んだ上野延伸から六年後、平成三年(一九九一年)には、東北新幹線はついに東京駅まで乗り入れます。 ...

June 23, 2026

6月22日 ── 両さんの亀有は、私の育った葛飾のすぐ隣だった

六月二十二日。梅雨空の下、紫陽花が雨を含んで重たそうに揺れています。一年でいちばん日が長いころ。けれど私がこの日に思い出すのは、季節の風景よりも、自分の育った町の名前です。 昭和五十一年(一九七六年)のこの日、一冊の少年漫画雑誌に、ある読み切り漫画が載りました。タイトルは『こちら葛飾区亀有公園前派出所』。──そう、私の生まれ育った葛飾区が、まるごと題名になった漫画です。 もっとも、この読み切りが世に出たとき、私はまだ七歳。小学一年生になったばかりで、正直に言えば、この漫画をリアルタイムで読んではいませんでした。私と両さんが本当に出会うのは、もう少しあと――私が『週刊少年ジャンプ』を、毎週夢中でめくるようになってからの話です。 葛飾の派出所から、世界一の漫画が始まった 昭和五十一年六月二十二日に発売された『週刊少年ジャンプ』二十九号。そこに、「山止たつひこ」という名前の新人が描いた読み切り漫画が掲載されました。その年の四月期、月例の「ヤングジャンプ賞」に入選した一作です。これが、のちに四十年も続く国民的漫画『こち亀』の、世に出た最初の一歩でした。 作者は、当時二十三歳の秋本治さん。実は、ペンネームの「山止たつひこ」は、当時『がきデカ』で大人気だった漫画家・山上たつひこさんの名前をもじったものでした。「長い題名と、ちょっと変わった名前にすれば、審査員の目に留まるだろう」。そんな新人らしい工夫だったといいます(のちに山上さんご本人から「紛らわしい」と苦情が来て、連載百回目を区切りに本名へと改めることになります)。 そして秋本さんご自身が、東京都葛飾区の亀有で生まれ育った人でした。だからこの漫画の舞台は、絵空事ではありません。主人公の破天荒な巡査・両津勘吉――通称「両さん」が駆け回る亀有公園前の派出所は、作者が実際に過ごした下町そのものだったのです。読み切りの段階で、すでに両さんの相棒・中川圭一も顔を出していました。 読み切りの評判は上々で、同じ年の九月二十一日発売の四十二号から、いよいよ本格的な連載が始まります。当初は劇画に近いリアルな絵柄で、拳銃をぶっ放す両さんと中川の暴走ぶりが描かれ、いま読むと驚くほど過激です。けれど、その荒っぽさの底にいつも下町の人情があったことが、この漫画が長く愛された理由なのだと思います。秋本さんは「短期で終わるとばかり思っていた」とのちに語っていますが、両さんは誰の予想もはるかに超えて走り続けることになります。 その「世に出た最初の一歩」は、いまも一巻として手に取ることができます。リアルな絵柄の、過激で若々しい両さん。四十年の長い旅の出発点を、ぜひ一度のぞいてみてください。 こちら葛飾区亀有公園前派出所 1(ジャンプコミックス)秋本治/集英社。すべてはこの一巻から始まった Amazonで見る › 私がジャンプを開いたのは、黄金時代だった 私が『週刊少年ジャンプ』を毎週読むようになったのは、昭和五十六年から六十年(一九八一〜一九八五年)ごろ。中学から高校へと向かう、いちばん多感な時期でした。そしてそれは、ジャンプがまさに「黄金時代」へと駆け上がっていく時期と、そっくり重なっていたのです。 思い出してみてください。表紙は『キン肉マン』か『北斗の拳』、巻頭カラーは『キャプテン翼』、ギャグのページには『Dr.スランプ』や『奇面組』、そして『キャッツ♥アイ』。そんな号が、ちっとも珍しくなかった。「ウォーズマン対ラーメンマン」も、「翼くんの全国大会」も、「アラレちゃんブーム」も、ケンシロウの「お前はもう死んでいる」も、ぜんぶリアルタイムで浴びるように読んでいました。いま思えば、なんと贅沢な少年時代だったでしょう。 正直に白状すると、私のジャンプの楽しみ方には、はっきりとした主役がいました。熱血バトルの『キン肉マン』、ハードな格闘の『北斗の拳』、スポーツものの『キャプテン翼』、そして笑いの『Dr.スランプ』。この四本が、私の「メイン」でした。 では『こち亀』はどうだったか。──正直なところ、私にとってこち亀は、一番のお目当てではありませんでした。けれど、こう言えます。「こち亀は、毎週必ず読む」。派手な主役たちの陰で、両さんのページだけは、どんなに忙しい号でも、必ず開いていたのです。爆発もしない、必殺技も出ない。ただ下町の派出所で、両さんがいつものように騒いでいる。その「いつもどおり」が、なぜか妙に落ち着くのでした。 そしてあの長いタイトルを目にするたび、心のどこかで思っていました。「これ、うちの葛飾の話なんだよな」と。 寅さんと両さんと、葛飾という町 ここで少し、私自身の地元の話をさせてください。 葛飾区には、もう一人、全国に知られた看板役者がいます。映画『男はつらいよ』の車寅次郎――「寅さん」です。寅さんの故郷・柴又は、私の暮らした京成高砂のすぐ隣。金町線でひと駅、帝釈天の参道はもう目と鼻の先でした。 実は秋本さんも、あの長いタイトルをつけた理由を、こんなふうに語っています。「『男はつらいよ』のおかげで、葛飾区は全国に知られていた。亀有は知らなくても、葛飾区はみんな知っているだろうと思った」と。つまり『こち亀』のあの長い題名は、先輩格の寅さんへの目配せでもあったわけです。 柴又の寅さん、亀有の両さん。下町の人情と、破天荒な可笑しさ。葛飾という小さな区が、二人もの国民的キャラクターを生んだ町だということを、私はいまでも少し誇らしく思っています。事実、平成二十四年(二〇一二年)、秋本さんは葛飾区の名誉区民となりました。そして同じ日に並んで表彰されたのが、ほかでもない『男はつらいよ』の山田洋次監督。寅さんと両さんが、肩を並べて顕彰されたのです。 四十年、一度も休まなかった 『こち亀』のすごさは、その「続いた長さ」にもあります。 昭和五十一年に始まった連載は、平成二十八年(二〇一六年)まで、実に四十年間。その間、『週刊少年ジャンプ』で一度も休載しませんでした。毎週毎週、両さんは派出所で騒ぎを起こし続けたのです。最終回は平成二十八年九月十七日発売号。単行本は、ちょうど二百巻できれいに完結しました。 この二百巻という数字は、「もっとも発行巻数が多い単一漫画シリーズ」として、ギネス世界記録に認定されました(令和のいまは『ゴルゴ13』に記録を譲りましたが、その後の二〇二一年に、新たに二百一巻が刊行されています)。累計の発行部数は、一億五千万部を超えるといいます。 漫画だけではありません。連載開始のわずか翌年、昭和五十二年には早くも実写映画になり、平成八年(一九九六年)から平成十六年(二〇〇四年)まではフジテレビでテレビアニメが放送されました。日曜の朝、ラサール石井さんの声で「両さん」が動き回るのを覚えている方も多いでしょう。葛飾の派出所から始まった物語は、紙の上を飛び出して、お茶の間にもしっかり住み着いていたのです。 ここで、ふと思うのです。少年時代の私が夢中になった「メイン」――キン肉マンも、北斗の拳も、キャプテン翼も、Dr.スランプも、それぞれの名場面を残して、いつしか連載を終えていきました。ところが、私が「サブ」だと思って、けれど毎週必ず読んでいた両さんだけは、平成の終わりまで走り続けた。いちばん派手だった主役たちより、いちばん「いつもどおり」だった脇役のほうが、ずっと長く生き残ったのです。あのころ、私はそんな未来を、まったく想像していませんでした。 私が小学一年生だった年に始まった漫画が、私が四十七歳になるまで、ずっと同じ雑誌で続いていた。あらためて考えると、これはとんでもないことです。両さんは、昭和と平成を、まるごと走り抜けていったのでした。 令和のいま、亀有の駅前で いま、亀有の駅前に立つと、あちこちに両さんの銅像が立っています。元気よく右手を挙げた両さん、ベンチに腰かけた両さん……全国からファンが訪ねてくる、すっかり「聖地」になりました。漫画の中の派出所が、現実の町の誇りになったのです。 その銅像を見るたびに、私は不思議な気持ちになります。 子どものころ、毎週少年ジャンプを開けば、当たり前のようにそこにいた両さん。テレビをつければ、アニメでも活躍していました。その両さんが、いま自分の目の前に、銅像となって立っている。もちろん漫画の主人公なのですが、亀有ではまるで、本当にこの町で暮らしていた人のような存在です。 私は葛飾という町に縁があります。だからこそ、全国の人が「亀有」と聞いて真っ先に思い浮かべるのが『こち亀』であり、両さんであることが、少し誇らしいのです。 考えてみれば、漫画やドラマの舞台になる町は数多くあります。けれど、何十年も連載が続き、世代を超えて親しまれ、その主人公の銅像が町のシンボルになっている例は、そう多くありません。 両さんの銅像の前に立つと、昭和のころの記憶もよみがえります。商店街のにぎわい。駄菓子屋。自転車で走り回る子どもたち。ジャンプを買って、夢中で読んだ放課後。そんな時代の空気が、両さんの後ろに見えるような気がするのです。 地元が漫画やドラマで取り上げられるというのは、ただ有名になるということではないのだと思います。その作品を通じて、その町で暮らした人々の思い出や風景が、多くの人の記憶の中に残るということ。 亀有と聞けば、両さんを思い出す人がいる。柴又と聞けば、寅さんを思い出す人がいる。それは葛飾という町が、日本中の人々の心の中に生き続けている、ということでもあります。 両さんの銅像を見上げながら、私はそんなことを考えます。少年時代に読んだ漫画の主人公が、いまも変わらず地元の駅前で笑っている。それは何とも言えない懐かしさと、少しの誇らしさを感じさせてくれる風景なのです。 おわりに あなたの町にも、漫画やドラマ、歌の舞台になった場所はありますか。そして、その作品と初めて出会ったときのことを、覚えているでしょうか。 両さんのように、何十年も変わらずそこにいてくれる「町の顔」は、私たちの記憶のいちばん柔らかいところに、そっと住み着いているのかもしれません。 ※この「昭和の今日は何があった日?」シリーズは、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、その時代に子ども時代を過ごした私の目線でつづっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月21日 ── 京成・都営・京急がつながった日、私はまだ生まれていなかった | 次の記事:6月23日 ── 北へ向かう夢の超特急は、なぜか「大宮始発」だった ▶

June 22, 2026

6月21日 ── 京成・都営・京急がつながった日、私はまだ生まれていなかった

六月も後半に入ると、空がぐずついて、空気がねっとりと重たくなってきます。一年でいちばん昼が長い、夏至のころ。傘を片手に駅へ向かう人の足取りも、どこか急いて見える季節です。 私が育ったのは、葛飾区の高砂という町です。最寄りは京成高砂駅。ここは、ただの駅ではありません。京成本線と押上線、それに金町線が分かれていく結節点で、すぐそばには電車をしまっておく大きな車庫——高砂検車区があります。線路が何本も並び、色とりどりの電車が、出たり入ったりする。子どもにとっては、これ以上ない景色でした。 そう、私の町は「電車の街」でした。 踏切の音で、時間を計っていた 六歳ごろまで、私は高砂駅のすぐそば、線路沿いの家で暮らしていました。だから、電車の走る音だけでなく、駅に流れるアナウンスや、笛の音まで聞こえてきました。電車は、それくらい身近な存在だったのです。一歩家を出れば、すぐ目の前を電車が走っている——そんな環境でした。 特に私が好んで電車を見ていたのは、駅の踏切のそばはもちろんですが、家のそばにあった、線路をまたぐ歩道橋からでした。そこからの開けた眺めと、絶え間なく行き交う電車を見ていると、飽きることはありませんでした。 いま思えば、保育園児が、柵があったとはいえ、たった一人で線路沿いをふらふらと出歩いている。なんとものんびりとした、呑気な時代だったのですね。 あの歩道橋の上で、私が飽きもせず見上げていた電車たちが、どこから来て、どこへ向かっていたのか。当時の私は、もちろん何ひとつ知りませんでした。 昭和四十三年六月二十一日 ── 三つの会社が、一本につながった日 さて、今日は六月二十一日です。 昭和四十三年——西暦でいえば一九六八年のこの日、東京の地下で、ひとつの「輪」が完成しました。 都営地下鉄一号線、いまの都営浅草線の、大門と泉岳寺のあいだが、新しく開業しました。同じ日に、京浜急行の品川と泉岳寺のあいだも開業して、京急と都営地下鉄が線路でつながり、相互直通運転——おたがいの電車が、相手の線路へ乗り入れる運転が始まったのです。 これが、どれほど大きなことだったか。 押上から先は、京成電鉄が千葉方面へと延びています。そして泉岳寺から先は、開業したばかりの京急が、神奈川の三浦半島の方へと延びていく。つまりこの日、千葉から東京の都心を貫いて神奈川まで、三つの会社の線路が一本につながりました。乗り換えなしで、県をまたいで走れる長距離の直通運転が、現実のものになった瞬間でした。 じつは、京成電鉄と都営一号線の直通そのものは、もっと前から、少しずつ始まっていました。昭和三十五年の十二月、押上と浅草橋のあいだが開業したときに、京成の電車はもう、都営の地下へ乗り入れはじめていたのです。そこから線路は一駅、また一駅と南へ延び、昭和三十九年の十月に、大門まで届きました。 この工事には、いかにも昭和らしい逸話があります。地下鉄の建設が始まったのは昭和三十三年。ところが昭和三十九年の東京オリンピックに向けた工事を優先するため、途中でいったん中断されたのです。世界に向けて東京の姿を整えることが、何より先だった時代でした。オリンピックが終わってから工事は再び動き出し、最後に残った泉岳寺までの区間と、京急との接続にたどり着きます。品川と泉岳寺をつなぐ、わずか一・二キロ。それが五年がかりの難工事だったというのですから、ひとつなぎのために、どれほどの汗が流されたか知れません。ちょうどこの年は、京急が創立七十周年を迎える、節目の年でもありました。 ちなみに、三つの会社の電車が、おたがいの線路を走り通せるのは、レールの幅——軌間がそろっているからです。京成も、都営浅草線も、京急も、新幹線と同じ広い軌間で造られている。だからこそ、会社の枠を越えて、一本の電車が走っていけるのです。 電車の乗り入れそのものは、開業の六日前、六月十五日から始まっていたそうです。この六日間は試運転の期間で、大門と品川のあいだを、お客を乗せない電車が、静かに行き来していました。そして六月二十一日、いよいよ本番を迎えます。なお、都営の地下鉄が西馬込まで全線そろうのは、この年の十一月のこと。ですから六月二十一日は、「全線開通の日」というよりも、「三つの会社の電車が、はじめて一本に手をつないだ日」と呼ぶのが、ふさわしいように思います。 おもしろいのは、この直通の道が、いまでこそ成田空港への大切なルートになっているのに、つながった昭和四十三年の時点では、その成田空港が、まだ影も形もなかった、ということです。空港が開港するのは、これより十年もあとの昭和五十三年。つまりこの線路は、行き先となる空港が生まれるよりも先に、ちゃんと用意されていたことになります。道が先にあって、人やものが、あとからその上を流れはじめる。鉄道というのは、そういう気の長い、先回りの仕事なのだと、あらためて思わされます。 私が生まれる前の年に、道はもうつながっていた ここで、ひとつ、正直に書いておかなければならないことがあります。 私は、この日のことを覚えていません。覚えているはずがありません。私が生まれたのは、その翌年——昭和四十四年の四月だからです。三つの会社の線路が一本につながったとき、私はまだ、この世にいませんでした。 不思議な気持ちになります。 あの歩道橋の上で、私が飽きもせず電車を見上げていたとき、その電車たちが走っていく道は、私が生まれる前の年に、もう出来上がっていたのです。子どもの私は、そんなことは、何ひとつ知りませんでした。電車はただ、空気や水のように、当たり前にそこにありました。当たり前すぎて、それが誰かの五年がかりの難工事の上に成り立っているなんて、想像もしませんでした。 私はいま、路線バスの運転士として、人を乗せて街を走っています。乗り物で人を運ぶというのは、地味ですが、誰かの一日を、誰かの人生を、たしかに前へ動かしている仕事です。バスのハンドルを握りながら、ときどき思います。子どものころ眺めていたあの電車たちも、こうして毎日、誰かの暮らしを運んでいるのだなと。 当たり前にそこにある道は、誰かが汗をかいて、つないでくれた道です。それに気づくのに、私はずいぶん長い時間がかかりました。 令和のいま、その道は二つの空港をつないでいる あの日つながった三社の直通は、いまもしっかりと生きています。それどころか、昭和の人が見たら驚くような姿になりました。 いまでは、この直通ルートは、羽田空港と成田空港という、二つの空の玄関口を結ぶ大動脈になっています。神奈川の三崎口から、京成線を経由して成田空港の方まで直通する電車の距離は、なんと百四十一・六キロにもなるそうです。東京から静岡のあたりまで、乗り換えなしで一本。昭和四十三年に泉岳寺で手をつないだ三つの会社の線路は、半世紀をかけて、ここまで遠くへ伸びていきました。 高砂の車庫をのぞくと、いまでも、赤い京急の電車が、京成の車庫に、当たり前のような顔をして停まっていることがあります。会社のちがう電車が、同じ屋根の下で肩を並べている。あの六月二十一日につながった輪が、半世紀以上たったいまも、こうして目の前で静かに回り続けているのだと思うと、なんだか胸が温かくなります。 思えば、あの歩道橋の上の私は、来る日も来る日も、その「輪」が回っているところを眺めていたのです。京成の電車にまじって、よその会社の電車が走っていく。子どもの私には、それがどれほど大きな出来事の続きなのか、わかるはずもありませんでした。ただ、いろんな色の電車が来るのが、うれしかった。本当に、それだけでした。でも、その「うれしい」を毎日くれていたのは、たしかに、あの日つながった三つの会社の線路だったのです。 高砂の駅には、いまも私の子どもたちが乗り降りしています。私が見上げていたのと同じ車庫の電車を、子らもまた、当たり前の景色として見ているのでしょう。その電車が走る道が、いつ、どんなふうにつながったのか——たぶん、知らないままに。 あの日、踏切で見上げたスカイライナーは、いまでは手のひらの上でも走らせられます。子や孫と、畳の上に線路をつないで、あの銀色の車体を走らせる。私が歩道橋から眺めていた景色を、こんどは小さな手といっしょに、もう一度たどってみるのも、いいものです。 プラレール S-54 京成スカイライナー AE形タカラトミー/あの踏切で見た銀色の車体。子・孫と畳の上で走らせる一台 Amazonで見る › それで、いいのだと思います。当たり前にそこにあることこそが、つないでくれた人たちへの、いちばんの恩返しなのかもしれませんから。 あなたの町には、「当たり前にそこにあるけれど、じつは誰かが汗をかいてつないでくれた道」はありますか。電車でも、橋でも、坂の上の階段でも。今日はひとつ、思い出してみませんか。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一篇です。昭和四十年から六十四年までの「今日」を、高砂で育った一人の子どもの目線で、少しずつ書き残しています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月20日 ── テレビの「向こう側」だったNHKホールに、息子と立った日 | 次の記事:6月22日 ── 両さんの亀有は、私の育った葛飾のすぐ隣だった ▶

June 21, 2026

6月20日 ── テレビの「向こう側」だったNHKホールに、息子と立った日

六月二十日。梅雨のただなかの、紫陽花が雨に濡れて重たく頭を垂れるころです。昭和四十八年(一九七三年)のこの日、東京・渋谷で一つの大きな建物が動きはじめました。NHKホール。毎年大みそかの夜、茶の間に流れ込んでくる、あの『紅白歌合戦』の舞台です。 先に正直なことを書いておきます。このとき私は四歳。開館のニュースなど、まるで覚えていません。覚えているはずもないのです。けれど、だからこそ書きたいことがあります。あの建物は、私が物心ついたときにはもう、子供時代の「向こう側」に、ずっと立っていました。テレビという窓の、その奥に。 茶の間の「向こう側」にあった大みそか 子供のころ、一年でいちばん夜ふかしが許される日が大みそかでした。紅白歌合戦。あの幕が上がると、家じゅうの空気がどこか改まったものです。 紅白がこのNHKホールから生中継されるようになったのは、ちょうど私が生まれて間もない昭和四十八年、第二十四回からでした。それ以前は、内幸町のスタジオや日本劇場、東京宝塚劇場などを転々としていたのだといいます。私が物心つくころには、紅白は「渋谷の、あの大きな舞台」にすっかり腰を落ち着けていた。つまり私の世代は、生まれたときから「紅白といえばNHKホール」が当たり前だった、最初の世代ということになります。 思えば、あのころの紅白は、文字どおり日本じゅうが同じ時間に同じ画面を見つめる夜でした。少しさかのぼった昭和三十年代の終わりには、視聴率が八割を超えた年もあったといいます。テレビがまだ一家に一台、茶の間の真ん中にどっしりと据えられていた時代。その何千万という視線がいっせいに集まる中心に、渋谷のあのホールがありました。けれど私にとってそれは、あくまでブラウン管の「向こう側」。きらびやかで、遠くて、手の届かない場所でした。 渋谷・神南に建った「二代目」 このNHKホール、実は「二代目」です。初代は内幸町のNHK東京放送会館のなかにあり、昭和三十年(一九五五年)に完成したものでした。けれど客席はわずか六百六十席ほど。紅白のような大がかりな番組を収めるには、あまりに手狭だったのです。 昭和四十年代に入り、NHKは放送の拠点を渋谷区神南へと移していきます。世に言うNHK放送センターです。その関連施設として、昭和四十七年(一九七二年)十一月に新しいホールが完成し、翌昭和四十八年六月二十日から運用が始まりました。設計は日建設計。客席は三千席を優に超える、当時としては国内屈指の大ホールでした。NHK交響楽団、いわゆるN響の本拠地でもあります。紅白だけでなく、『NHKのど自慢』も、N響の定期演奏会も、数えきれないほどの公開番組が、この同じ舞台から全国の茶の間へと届けられてきました。 「ここが、あのNHKホールか」 そのテレビの「向こう側」に、私が初めて足を踏み入れたのは、三十代の、親としての一日でした。そして連れて行ってくれたのは、ほかでもない、私の息子です。 長男が保育園のころ、『おかあさんといっしょ』に夢中でした。何かと用事を片づけたいとき、ファミリーコンサートのビデオを見せておく――その間に、こちらは家のことを済ませる。あの番組には、ずいぶんとお世話になったものです。一度でいいから、本物のファミリーコンサートに連れて行ってやりたい。そう思って、何度も何度も観覧の抽選に応募しました。 そして、ある日。なんと、その抽選に当選したのです。たしか平成十四年(二〇〇二年)ごろのことでした。会場の名前を見て、私は思わず声をあげました。NHKホール。あの、大みそかにテレビでしか見たことのなかった、渋谷の、あの大きな舞台。 当日、客席に座って、私はしみじみと天井を見上げました。「ここが、あのNHKホールかー」。子供のころ、ブラウン管の向こうに遠くきらめいていたあの場所に、私はいま、自分の息子と並んで座っている。番組の主役はもちろん子供たちです。でも、あの日いちばん胸を熱くしていたのは、案外、三十代の私のほうだったかもしれません。テレビの「向こう側」が、ようやく自分の足もとと地続きになった瞬間でした。 あの日、息子と並んで見上げた舞台の空気は、いまも映像のなかに残っています。おかあさんといっしょのファミリーコンサートは、NHKホールで収録されたものがDVDになっていて、観るたびに、あの当選通知が届いた日のうれしさまで、ふっとよみがえってきます。 NHKおかあさんといっしょ ファミリーコンサート(NHKホール収録)あの日、息子と見上げた舞台。ファミリーコンサートをノーカット収録 Amazonで見る › 十五年後の同じ日に ── オレンジと、バナナと 六月二十日には、もう一つ、私の暮らしに地味に効いてきた出来事があります。昭和六十三年(一九八八年)のこの日――NHKホール開館からちょうど十五年後――日米の貿易交渉がまとまり、牛肉とオレンジの輸入自由化が決まりました。三年後の平成三年(一九九一年)から、それまで設けていた輸入の上限を撤廃する、という合意です。 そもそも日米の貿易摩擦は、私が生まれるより前、昭和三十年代の繊維製品から始まっていました。やがて火種は鉄鋼へ、カラーテレビへ、自動車へと移り、そしてついに、牛肉とオレンジという、食卓の問題にまでたどり着いたのです。米側の狙いは、ふくらみ続ける対日貿易赤字を、農産物の輸出で少しでも埋めること。十九歳の私は、その交渉の重さなど、まだよくわかってはいませんでしたが。 正直に言うと、私には子供のころ「オレンジ」を食べた記憶が、ほとんどありません。私のなかでオレンジとは、ほぼ「みかん」のことでした(笑)。冬のこたつに積まれた、あの手で剝けるみかん。皮の厚い、香りの強い舶来のオレンジが当たり前に店先に並ぶようになったのは、思えば、この自由化のあとのことだったのでしょう。 いっぽうバナナは、私にとってずっと身近な存在でした。遠足の前日には決まって誰かが、「先生、おやつにバナナは含まれますか?」と真顔で質問しては、どっと笑いをとる。それくらい、バナナは子供の世界にすっかり溶けこんでいたのです。 ところが、少し調べてみて驚きました。そのバナナも、ほんの少し前までは「高級品」だったというのです。戦後の日本は外貨が乏しく、外国からの輸入は厳しく制限されていました。バナナも例外ではなく、値段が高く、庶民が気軽に買えない。病気のときや、お見舞いの品にする――そんな、特別な果物だったといいます。おもしろいのは、その「特別」だった時代から、遠足とバナナはすでに固く結びついていたことです。気軽には買えないからこそ、遠足の日に一本か二本だけ持たせてもらう。それが子供にとって、何よりの楽しみだった。昭和三十年ごろには、一房が今でいえば数千円もしたのだとか。私たちが笑いのネタにしていたあの「バナナは含まれますか」という問いの奥には、実は、そんな時代の名残がひそんでいたのかもしれません。 大きな転機は昭和三十八年(一九六三年)、バナナの輸入自由化でした。やがてフィリピン産が大量に出回り、冷蔵輸送やスーパーマーケットの普及も重なって、昭和五十年代には「普通に買える果物」になっていった。私が生まれる六年前に、バナナはもう「特別」を卒業していたわけです。 つまり、自由化の波は二度あったのです。私が生まれる前の、バナナ。そして十九歳のときの、牛肉とオレンジ。私の暮らしは、ちょうどその二つの波のあいだに、すっぽりと収まっていたことになります。 令和の渋谷で、いま あれから半世紀。NHKホールは今も渋谷・神南に立っています。途中、耐震補強などの工事でしばらく休館し、令和三年(二〇二一年)の紅白だけは東京国際フォーラムで行われたりもしましたが、また元の舞台に戻ってきました。あの日、息子と並んで見上げた天井も、きっと変わらずそこにあるはずです。 食卓のほうは、すっかり様変わりしました。オレンジも牛肉も、もう「特別」ではありません。バナナにいたっては、平成十六年(二〇〇四年)、ついに消費量でみかんを抜いて、日本の果物の一位になったのだそうです。オレンジを「みかん」だと思っていた子供だった私には、なんだか出来すぎた話のように聞こえます。 変わらずそこにあり続けたホールと、「特別」を「当たり前」に変えていった食べものたち。同じ六月二十日に、その両方の物語が静かに始まっていた。そして私はといえば、テレビの向こうにあったあの舞台に、自分の息子のおかげで、ようやくたどり着くことができたのです。変わるものと、変わらないもの。その両方を抱きしめながら、私たちは少しずつ年を重ねていくのでしょう。 あなたが、テレビでしか見たことのなかった場所に初めて実際に立ったのは、どこでしたか。そして、子供のころ「特別」だった食べものは、何でしたか。よかったら、聞かせてください。 このシリーズ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年までの「今日」にあった出来事を、当時子どもだった私の目線で綴っています。あなたの思い出も、ぜひ聞かせてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月19日 ── ベトちゃん・ドクちゃんが東京へ運ばれてきた夏、私は十七歳だった | 次の記事:6月21日 ── 京成・都営・京急がつながった日、私はまだ生まれていなかった ▶

June 20, 2026

「株主」にはなれた。でも「投資家」にはなれなかった ── 高配当株投資、爆速参入・爆速撤退の記録

お金と僕の12年戦争・第8話 ― 高配当株投資、爆速参入・爆速撤退の記録 すべては「リベ大」から始まった 私が株式投資という世界に足を踏み入れたきっかけ。それは、両学長の「リベ大」YouTubeでした。第3話で書いたとおり、妻からプレゼントされた一冊『お金の大学』をきっかけにリベ大の動画を見るようになった私は、そこからお金の世界へとぐいぐい引き込まれていきました。 2020年頃のリベ大では、「FIRE」の話題や、当時の株式市場の状況を反映してか「高配当株投資」の話題がとても盛んだったように思います。とはいえ、聞き始めの頃は正直、何を話しているのかさっぱり理解できませんでした。それでも学長が「聞いていたら、そのうち何となくわかるようになってくるよー」と言うので、その言葉を信じて、過去の動画を隅から隅まで見まくったのです(笑)。 【改訂版】本当の自由を手に入れる お金の大学両@リベ大学長/朝日新聞出版。私のすべての出発点になった一冊 Amazonで見る › 「FIRE」という生き方との衝撃の出会い 見続けるうちに、私の中で一番の衝撃だったのは——「FIRE」という生き方が、この世に実在するということ。そして「そんな生き方を選んでもいいんだ」ということでした。 もっとも、私の現実はというと、子ども5人の大家族、しかも住宅ローンあり。FIREという生き方が自分に当てはまるとは、正直まったく思えませんでした。それでもこの出会いは、「自分が知らなかったこと」「間違って思い込んでいたこと」が世の中にはまだまだたくさんありそうだ——そう私に気づかせてくれたのです。 そんな中で、私が強烈に憧れてしまった言葉があります。「不労所得」。なんとも魅惑的な響きではありませんか。 爆速で整えた「高配当株投資」の準備 憧れてしまったら、もう止まりません。リベ大を参考に、楽天銀行・楽天証券を開設し、NISAの手続きも完了。「高配当株投資」を始める準備を、猛スピードで整えてしまいました。 ——実は私、とにかく動き出すのが早いんです。そのおかげで失敗することも、まあまああるのですが(苦笑)。 当時の学長は、「学長が今月から高配当株投資を始めるなら」というコンテンツを、毎月オープンに発信してくれていました(現在はオンラインコミュニティ『リベシティ』の中での発信になっています)。しかもそこでは、実際の企業名を数十社あげ、それぞれ「いくらずつ買うか」まで具体的に示してくれていたのです。 私はそれにすぐ食いつきました。そして総額でおよそ450万円分を、一気に購入してスタートを切ったのです。 30銘柄の「株主」になれた喜び 一社一社、株を買い進めていく作業。最初はドキドキで、緊張しました。それでも、ようやく30社ほどの株を手にできたときには、なんとも言えない喜びが湧いてきたんです。 だって、私はもう「株主」ですからね。 それまで私にとって株とは、「お金持ちがやること」でした。でも実際にやってみて気づいたのです。株とは「お金持ちになるためにやること」でもあったんだ、と。 あっけない「撤退」——一度も配当金を受け取れずに ところが。意気揚々と始めた高配当株投資は、あっけなく失敗に終わりました。 原因は、はっきりしています。「高配当株投資とはどういう投資なのか」を本当の意味で理解しないまま始めてしまったこと。これに尽きます。 当たり前の話ですが、私は毎日毎日、持っている株の株価の変動が気になって気になって、仕方がない状態になってしまったのです。 私の本業は、路線バスの運転手です。お客様の命を預かるこの仕事に、株価の上下が頭をよぎるような精神状態で臨むわけにはいきません。「このままでは本業に支障をきたしかねない」——そう判断した私は、ただの一度も「配当金」を受け取ることなく、すべての株を売却しました。あえなく『撤退』です。 結局のところ、私がやっていたのは「高配当株投資」ではなく、ただの「短期トレード」でしかなかったわけですね(笑)。 せめてもの幸いは、20万円ほどの利益が出たこと——だったでしょうか。いやでも、これはやっぱり「失敗」です。 そして「王道」インデックス投資へ この撤退をきっかけに、私は現在も続けている「王道」のインデックス投資の道を歩み始めることになりました。日々の値動きに一喜一憂せず、長期でコツコツ積み立てていく——今思えば、あの高配当株での大失敗があったからこそ、自分に合う投資のスタイルにたどり着けたのかもしれません。 「日々眺めなくていい」というこの考え方を、私のように値動きに振り回されてしまう人間に教えてくれたのが、次の一冊でした。タイトルがもう、すべてを言い表しています。 【全面改訂 第3版】ほったらかし投資術山崎元・水瀬ケンイチ/朝日新書。インデックス投資の「王道」を最短で教えてくれる定番 Amazonで見る › ▼ 私の場合の、ふたつの投資スタイル 高配当株投資(当時の私) インデックス投資(現在) 買い方 数十社を自分で選び、一気に約450万円 1本の投資信託を、毎月コツコツ積立 日々やること 毎日、株価が気になって仕方ない 基本ほったらかし。見なくていい 本業への影響 運転に支障が出かねないと判断 気にならず、仕事に集中できる 結果 配当金ゼロのまま撤退(+20万円) 今も継続中 おまけ——あのとき売らずに持ち続けていたら 最後に、ちょっと笑える(そして少し悔しい)後日談を。 最近、当時買っていた高配当株の銘柄を、Yahoo!ファイナンスに入力して管理していたデータが、ひょっこり出てきたんです。せっかくなので、株式分割した銘柄を調整したりしながら、今いくらになっているのか確かめてみました。 すると——なんと株価が軒並み爆上がりしていて、含み益はおよそ600万円。 とりわけ効いていたのが、銀行株と商社株でした。当時は「どうせ上がらない」「万年割安株」などと揶揄されることもあった顔ぶれです。正直なところ、私自身も買ったはいいものの、さほど期待はしていなかった銘柄たち。それが数年後には株価を大きく伸ばし、今の水準にまで化けていたのです。 ...

June 19, 2026

6月19日 ── ベトちゃん・ドクちゃんが東京へ運ばれてきた夏、私は十七歳だった

六月十九日。梅雨の重たい雲を見上げるたび、私はこの日のニュースを思い出します。昭和六十一年(一九八六年)のこの日、ベトナムから運ばれてきた二人の幼い兄弟が、東京の病院で手術を受けました。ベトちゃんと、ドクちゃん。下半身がつながったまま生まれた、結合双生児の兄弟です。 そのとき私は十七歳、高校二年生でした。ちょうど高校野球の東東京大会を目前にひかえ、グラウンドと教室を行き来する毎日のなかにいました。ベトちゃん・ドクちゃんのニュースは、テレビで何度も目にしていました。くわしいことは、正直よく分かりませんでした。それでも、ただ「がんばれ」と願っていた——そんな自分を、いまでもはっきりと憶えています。 白状すれば、当時の私にとって、ベトナムはそれほど馴染みのある国ではありませんでした。ただ、物心ついたころから、ベトナム戦争のニュース報道を、何度も何度もテレビで見て育ってきた。だから「ベトナム」という言葉に触れると、私のなかでは決まって「戦争」という言葉が結びつきました。詳しいことは分からないのに、心がふっと「不安」になる。ベトナムとは、当時の私にとって、そういう遠い国だったのです。 いま思うと、不思議なものです。来たる大会のことで頭がいっぱいだったはずの十七歳の私が、それでもテレビの前で足を止め、遠い国の二人の子どもに、手を合わせるように「がんばれ」とつぶやいていた。あの六月の感覚は、四十年がたったいまも、胸のどこかに残っています。 一つの体に、二つの命 ベトちゃんとドクちゃんは、昭和五十六年(一九八一年)二月二十五日、ベトナム中部高原のコントゥム省で生まれました。上半身が二つ、下半身が一つ。Y字のかたちにつながった、「一胴二体」と呼ばれる結合双生児でした。 二人がこうして生まれた背景には、ベトナム戦争があると報じられました。米軍が大量に散布した枯葉剤——その影響ではないか、と。枯葉剤は、一九六一年からのおよそ十年間で、ベトナムの森や畑に七千万リットル以上もまかれたといわれます。その多くに、人体に有害なダイオキシンが含まれていました。直接浴びた人や、その土地の水や作物を口にした人、生まれてくる子どもにまで影響が及んだとされ、二人の母親も、枯葉剤のまかれた地域の井戸水を飲んでいたと伝えられました。はっきりとした因果は、いまも科学的に証明されたわけではありません。けれど、戦争が終わってなお、人の体に爪痕を残しているのかもしれない。そのことは、当時の日本に重く響きました。私の胸の奥にあった「ベトナム=戦争=不安」という結びつきも、たぶんこのあたりから来ていたのだと思います。 兄はベト、弟はドク。越南(ベトナム)の「越」、東ドイツの「徳」。治療を受けたハノイの病院で、そう名づけられたといいます。下半身のつながった幼い兄弟の写真は日本中に紹介され、ベトナム戦争の傷あととして受け止められ、各地で支援の輪が広がっていきました。昭和六十年(一九八五年)には福井県敦賀市で「ベトちゃんとドクちゃんの発達を願う会」が結成され、募金で車椅子が贈られています。ちょうど私が高校一年生のころのことです。戦争を知らない世代だった私の頭にさえ、二人の名前と、あのつながった小さな体の写真は、いつのまにか焼きついていました。 東京へ運ばれてきた六月 昭和六十一年六月十一日。兄のベトちゃんが、急性脳症を発症しました。けいれんの発作を繰り返し、やがて意識を失っていきます。けれど、体のつながった弟のドクちゃんの意識は、はっきりしたままでした。一つの体の上で、二つの命がまったく違う時間を生きている。その事実の重さは、ニュースを見ていた多くの人の胸に、言葉にならないまま残ったはずです。 日本赤十字社の支援で、二人は特別機で日本へ緊急搬送されます。海を越えて運ばれてくる小さな二人の容態を、日本中が固唾をのんで見守りました。そして六月十九日、東京の病院で手術が行われました。一命はとりとめたものの、ベトちゃんには重い後遺症が残りました。治療のなかで大脳が傷つき、外の世界を感じる力の多くを失ってしまったのです。二人はその後、ベトナムへ帰っていきました。 そして二年後の昭和六十三年(一九八八年)十月四日。ホーチミン市のツーズー病院で、ついに二人を分ける手術が行われます。前例のない手術を前に、医療チームは何度も議論を重ね、マネキン人形を使って手順をたしかめたといいます。七十人を超える医療スタッフ、日本赤十字社の医師の立ち会い。慎重に慎重を期した大手術は、成功しました。一つだった体が、二つになった。二人はそれぞれの人生を、別々の足で歩きはじめたのです。 フジとサクラ、という名前 それから、長い歳月が流れました。 兄のベトちゃんは、分離手術のあとも体調がすぐれず、平成十九年(二〇〇七年)、二十六歳でこの世を去りました。 一方、弟のドクちゃんは生き抜きました。義足で歩く訓練を重ね、コンピュータを学び、やがてツーズー病院の職員として働くようになります。自分がかつて分けられた、あの病院で——です。結婚し、双子の子どもにも恵まれました。その二人の名前が、フジと、サクラ。富士山と、桜。自分を助けてくれた日本への感謝を、わが子の名前に込めたのだといいます。 新型コロナが日本を襲ったとき、ドクさんは日本へマスクを贈りました。かつて助けられた側が、こんどは助ける側にまわっていた。令和になったいまも、ドクさんは枯葉剤被害に苦しむ人たちを支える活動を続けています。二〇二四年には、ドクさんと家族の日々を追ったドキュメンタリー映画『ドクちゃん フジとサクラにつなぐ愛』が、日本各地で公開されました。ベトナム戦争が終わって、五十年あまり。あの夏、テレビのこちら側で「がんばれ」と願っていた十七歳の私が見ていたものは、まだ終わってなどいなかったのだと、いまになって思います。 帝国劇場で観た「ミス・サイゴン」 ここで、個人的な記憶をもう一つ、書かせてください。 あのニュースから数年がたった平成四年(一九九二年)、私は東京・日比谷の帝国劇場へ、一本のミュージカルを観に行きました。『ミス・サイゴン』です。ベトナム戦争末期のサイゴンを舞台に、ベトナム人の少女キムと、アメリカ兵クリスの、引き裂かれていく恋を描いた物語。その背景にあるのは、まさに、あの戦争でした。 東宝が制作した日本初演で、ヒロインのキム役を演じていたのが、本田美奈子さんでした。アイドルとして親しんできた彼女が舞台の上で歌い上げる代表曲「命をあげよう」は、一年半におよぶロングランの語り草となりました。本田さんは、のちに白血病で世を去ります。まだ三十八歳の若さでした。 舞台を観て、私はこれが単なる恋愛や戦争の物語ではないと感じました。当時のベトナムの社会のありさまや、人々の暮らしまでもが、ひしひしと伝わってくる。戦争によって日常も将来も大きく変えられてしまうなかで、登場人物たちは家族を、愛を、大切な人を守るために、必死に生きている。その姿が、強く印象に残りました。とりわけ主人公たちの選択を通して、平和な環境は決して当たり前のものではないこと、そして生まれた国や時代によって人生が大きく左右されてしまう現実を、考えさせられたのです。本田美奈子さんの力強くも繊細な歌声が、その感情や葛藤を、いっそう深く届けてくれました。二十代前半だった私にとって、自分の将来や生き方を改めて見つめ直す、きっかけになった作品でした。 ニュースのなかで「不安」だったベトナムが、このときは、舞台の物語として、音楽とともに胸に流れ込んできた。いま思えばあの夜は、私とベトナムの距離が、ほんの少し縮まった夜だったのかもしれません。 ミス・サイゴン 日本公演ハイライト盤本田美奈子ほか/日本初演キャスト。あの「命をあげよう」を収録 Amazonで見る › お向かいさんは、ベトナムの家族 いま、日本にはたくさんのベトナムの人が暮らすようになりました。ベトナム料理のお店も、あちこちで見かけます。そして——我が家のお向かいには、ベトナム人のご家族が住んでいます。 子ども同士が本当に仲良しで、いまは一緒に学童野球のチームに入って、同じユニフォームで白球を追いかけています。パパとママからは、ベトナムのことをいろいろ教えてもらいました。おかげで私にとってベトナムは、すっかり身近な存在になったのです。国が違っても関係なく、あっという間に仲良くなってしまう子どもたちを見ていると、なんだか「ほっこり」と、いい気分になります。 思えば、昭和六十一年のあの六月、東東京大会を前にした高校二年の私は、テレビの向こうのベトナムに、ただ「がんばれ」と願うことしかできませんでした。「ベトナム」と聞けば「戦争」が浮かび、胸が「不安」になった、あの遠い国。それが四十年の時を経て、いまは目の前で、子どもたちが同じグラウンドで野球を楽しむ国になっている。ドクさんがわが子に富士と桜の名を授けたように、国境というものは、もう子どもたちのあいだには無いのかもしれません。同じ「ベトナム」という言葉が、私のなかで「不安」から「ほっこり」へと、長い時間をかけて、ゆっくりと姿を変えていったのです。 昭和の終わりに、テレビの向こうにあった「不安」が、令和のいま、すぐお向かいの「ほっこり」になっている。その長い距離を縮めたのは、二人を救おうとした人たちの手であり、そして何より、過去にとらわれることなく、あっさりと手をつないでしまう子どもたちの力なのだと思います。 六月十九日。あなたは、ベトちゃんとドクちゃんのニュースを覚えているでしょうか。あのとき、テレビのこちら側で、何を思っていたでしょうか。よかったら、聞かせてください。 このシリーズ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線で振り返っています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月18日 ── おにぎりの日に、千年の握り飯と母の手を思う | 次の記事:6月20日 ── テレビの「向こう側」だったNHKホールに、息子と立った日 ▶

June 19, 2026

6月18日 ── おにぎりの日に、千年の握り飯と母の手を思う

六月の半ば、梅雨の重たい空をながめながら、ふと握り飯のことを考えました。きょう六月十八日は「おにぎりの日」。なんとも素朴で、いい響きの記念日です。 由来を調べてみると、これがなかなか面白いのです。石川県の旧鹿西(ろくせい)町——いまの中能登町——の「ろく」をとって、六月。そして毎月十八日は「米食の日」。「米」という字をばらすと「十」と「八」になるから、十八日。その二つを掛け合わせて、六月十八日。語呂合わせのようでいて、ちゃんと米への敬意がこもった日付なのですね。 そしてこの記念日には、もう一つ、はるかな裏付けがあります。後でゆっくり書きますが、昭和の終わりに、この町から「日本でいちばん古いおにぎり」が出てきたのです。 梅雨どきの、お弁当の記憶 おにぎりと聞いて、私の胸にまず浮かぶのは、歴史でも記念日でもありません。母の手です。 学童野球、中学野球、高校野球と、私はずっと白球を追いかけてきました。だから母が握ってくれたおにぎりは、ごく当たり前に、いつもそこにある存在でした。 具には、ずいぶんわがままなリクエストをしたものです。鮭はもちろん定番。けれど私のいちばんのお気に入りは、なんと焼肉を入れてもらったおにぎりでした。玉子焼き、ウインナーソーセージなんてのも頼みました。母は「そんなの入れて、大丈夫なの?」と苦笑いしながら、それでも握ってくれたのです。 そうそう、白状すると——あの頃は素手でおにぎりを握るのが普通でした。いまの衛生観念からすれば、素手はちょっと考えられないかもしれませんね(笑)。だからでしょうか、母のおにぎりは平気なのに、父が握ったおにぎりは、なんとなく敬遠していました。ごめん、父さん(笑)。 あの頃、おにぎりはごちそうではありませんでした。けれど、ただの白い飯でもなかった。きちんと手のひらで握られて、塩がきいて、海苔が巻かれている。それだけで、あれは「だれかが私のために用意してくれたもの」になっていたのだと思います。冷めても食べられて、こぼさず手で持てて、しかも腹にたまる。子どもにとって、これほど頼もしい食べ物もありませんでした。 野球に明け暮れた中学・高校のころにも、おにぎりはいつもかたわらにありました。 とりわけ高校のころは、朝、お弁当とは別に、おにぎりを四個ほど用意してもらっていました。朝練のある日はとにかく腹が空くのです。昼まではとても我慢できない。それで、授業の合間にそのおにぎりを頬張っていました。いまでいう「早弁」ですね。育ちざかりに部活が重なれば、おにぎりの四個くらい、あっという間でした。 おにぎりは、千年を超えて握られてきた さて、ここからは少しだけ時間をさかのぼってみます。おにぎりという食べ物が、どれほど古くから私たちのそばにあったか。これがちょっと、気が遠くなる話なのです。 そもそも、米を握って食べるという習慣は、文字の記録にもずいぶん古くから残っています。奈良時代に各地で編まれた『風土記』には、握り飯を指すとされる「握飯(にぎりいい)」という言葉がすでに見えるのです。茶碗も箸もいらず、ただ手で握る。これほど原初的な食べ方が、千年以上ものあいだ受け継がれてきたのですね。 いまのおにぎりの直接の祖先とされるのは、平安時代の「屯食(とんじき)」という食べ物です。蒸したもち米を、大きな楕円形に握り固めたもので、一合半ほどもあったといいます。宮中や貴族の屋敷で催しがあったとき、立ち働く人々に「ご苦労さま」と配られた——そんな食べ物だったと伝えられています。千年も前から、人は米を握って、誰かに手渡していたわけです。 握り飯が、もち米からいまのうるち米に替わっていくのは、鎌倉時代の末ごろ。やがて戦国の世になると、おにぎりは武士の兵糧として欠かせないものになりました。中に梅干しを入れたのは、味のためだけでなく、傷みを防ぐ知恵でもあったのでしょう。腰にぶら下げて戦場を駆ける、携帯食としてのおにぎり。皿もいらず、手も汚さず、握ればそのまま食べられる。戦に勝つも負けるも、まずは腹が満ちていなければ始まりません。握り飯は、いわば戦国の兵士たちの命綱でもあったのです。考えてみれば、ずいぶん完成された発明です。 そして江戸時代。米が安定して採れるようになると、おにぎりはようやく庶民のものになりました。畑仕事の合間に、旅の途中に、行楽の弁当に。さらに明治に入ると、握り飯は駅にも進出します。明治十八年(一八八五年)、栃木県の宇都宮駅で売り出されたとされる日本で最初の駅弁は、梅干し入りのおにぎり二つにたくあんを添え、竹の皮で包んだだけの、実に簡素なものだったそうです。汽車に揺られながら、竹の皮を開いておにぎりを頬張る。その情景を想像すると、なんだか旅に出たくなります。 海苔を巻く、という発明 いまでこそ、おにぎりといえば黒い海苔が当たり前ですが、あれが広まったのは案外あとのことです。 四角い板状の海苔——いわゆる「浅草海苔」が江戸の市場に出回るようになったのは、元禄のころ。十七世紀の終わりです。一説には、これをきっかけに海苔を巻いたおにぎりが生まれたといわれています。もっとも、幕末に書かれた『守貞謾稿(もりさだまんこう)』という書物には海苔を巻くという記述が見当たらず、じつのところ諸説あるようです。それでも、パリッとした海苔と握りたての飯が出会ったことが、おにぎりをもう一段おいしくしたのは間違いありません。 ついでに、長年の素朴な疑問にも触れておきましょう。「おにぎり」と「おむすび」は違うのか。これも諸説ありますが、結局のところ同じものを指す、というのが今の共通の理解だそうです。形による呼び分け説、地域による違い説——いろいろ言われますが、要は呼び方の好みなのですね。三角の形が主流なのは、神さまの宿る山をかたどったから、という説まであるそうで、たかが握り飯と侮れません。そういえば「むすび」という言葉じたい、ものを生み出す力をあらわす古い言葉「産霊(むすひ)」に通じる、という話も聞いたことがあります。真偽はともかく、昔の人は握り飯に、ただの腹ごしらえ以上の何かを感じていたのかもしれません。 ちなみに、家で握るおにぎりも、海苔ひとつで驚くほど変わります。有明海産の全型海苔は、香りもパリッと感も格別。握りたての飯に巻いた瞬間の、あのいい匂いは、安いだけの海苔ではなかなか出ません。我が家も、海苔だけは少しいいものを切らさないようにしています。 マルサンのり 有明海産 焼き海苔 全型50枚おにぎりにも手巻きにも。香りとパリッと感が違う有明海産 Amazonで見る › 弥生のおにぎりと、コンビニのおにぎり ここで、冒頭の「おにぎりの日」の由来に戻ります。 昭和六十二年(一九八七年)、石川県の旧鹿西町・杉谷チャノバタケ遺跡の竪穴式住居跡から、黒い炭のかたまりが見つかりました。調べてみると、それは弥生時代中期——およそ二千年前——の、蒸して焼いた跡のある米のかたまり。「チマキ状炭化米塊」と名づけられた、日本でいちばん古いおにぎりの仲間でした。私が十八歳の年のことです。二千年前の誰かが握った米のかたまりが、令和のいまも記念日として残っている。気の遠くなるような話ですが、それだけ握り飯という営みが古くて、変わらないということなのでしょう。 そして不思議なことに、その同じ昭和という時代に、おにぎりはまったく新しい姿でも私たちの前に現れました。コンビニのおにぎりです。昭和五十年代、セブン-イレブンが店先でおにぎりを売り始めると、やがて海苔とご飯を分けておき、食べる直前にパリッと巻ける包装の工夫まで生まれました。家で握るものだったおにぎりが、二十四時間いつでも買えるものになっていく。ツナマヨネーズという、それまでの常識になかった具が登場したのも昭和五十八年(一九八三年)のことだそうです。当時の私には、海苔がしんなりしない包装の仕掛けが、ちょっとした発明のように思えたものでした。 二千年前の弥生のおにぎりと、昭和の終わりのコンビニおにぎり。同じ六月十八日が、その両方を抱えている。これも、おにぎりという食べ物のふところの深さなのだと思います。 令和の食卓で いま、おにぎりは「ONIGIRI」と書かれて、海の向こうでも人気だと聞きます。専門店には行列ができ、外国から来た人が嬉しそうに頬張っている。あの素朴な握り飯が、世界の食べ物になっていく。昭和の子どもだった私には、なんともこそばゆい光景です。 それでいて、おにぎりはいちばん大事なところで、ちっとも変わっていません。大きな地震や災害があるたびに、炊き出しのおにぎりが配られる。冷たい握り飯を両手で受け取って、ほっと息をつく。あの「だれかが私のために握ってくれた」という手のぬくもりは、千年前の屯食からまっすぐ、今日まで続いているのですね。 そして、いま握る側になったのは、ほかでもない私自身です。父親になった私も、子どもたちのためにおにぎりを握ります。とくに週末は、それぞれが自分の野球に持っていくものですから、八個、十個と握ることになる。これがなかなかの重労働で——握りながら、ふと思うのです。あの朝、四個のおにぎりを当たり前のように用意してくれた母も、こうして黙々と手を動かしていたのだなと。「そんなの入れて大丈夫なの?」とこぼしながら焼肉を詰めてくれた、あの苦笑いの意味が、いまになって少しわかる気がするのです。 ついでに白状すると、私のような不器用な父親には、おにぎり型という強い味方があります。ご飯を詰めて、ギュッと押すだけ。形も大きさもそろうし、何より手が熱くない。週末に八個も十個も握るとなれば、これがあるだけで、ずいぶん楽になります。母の時代にこれがあったら、あの苦笑いも少しは減っていたかもしれません(笑)。 おにぎりメーカー 三角 押し型(6個同時)ご飯を詰めて押すだけ。大量に握る週末の強い味方 Amazonで見る › あなたにとっての「忘れられないおにぎり」は、どんな一個でしょうか。母の手の梅干しか、遠足の日の鮭か、それとも部活の帰りに買ったコンビニの一個か。よかったら、コメントで聞かせてください。 このシリーズ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年(一九六五年)から昭和六十四年(一九八九年)までの出来事を、当時を生きた子どもの目線でひとつずつ綴っています。あなたの思い出も、ぜひ聞かせてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

June 18, 2026

6月17日 ── 無敵のまま畳を降りた山下泰裕と、私が初めて応援した五輪の夏

六月十七日。梅雨の合間の、どんよりと重たい空を思い出します。昭和六十年(一九八五年)のこの日、一人の柔道家が現役引退を表明しました。山下泰裕さん。全日本選手権九連覇、ロサンゼルス五輪・無差別級の金メダリスト。そして、いまもって破られていない二〇三連勝という記録を抱えたままの、静かな引退でした。 でも、その話をする前に、どうしても先に書いておきたい夏があります。前の年、昭和五十九年(一九八四年)の夏。ロサンゼルス・オリンピックです。 受験勉強のはずが、テレビの前に座っていた 私にとってロス五輪は、物心がついて初めて、テレビ画面とはいえ自分の意思でしっかり「観て」「応援した」オリンピックでした。だからでしょうか、各競技での日本人選手の活躍は、いまでも驚くほどはっきりと記憶に残っています。 当時の私は中学三年生、十五歳。夏の大会を最後に野球部はもう引退していて、本来なら高校受験に向けて、机にかじりついていなければならない時期でした。ところが、です。連日のオリンピック中継が気になって気になって、どうにも勉強が手につかない。「いまは観ている場合じゃない」と頭では分かっているのに、参考書を開いては、つい音のするほうへ、テレビの前へと吸い寄せられてしまう。外では蝉が鳴いていて、母が台所で立ち働く音がして、そのなかで私だけが、教科書ではなく遠いロサンゼルスとつながっている。受験生としては、いささか困った夏でした。 このロス五輪というのは、日本にとって少し特別な大会でもありました。その四年前、昭和五十五年のモスクワ大会には、日本は政治的な事情で参加できなかった。出場すらかなわなかった選手たちの悔し涙を、子どもながらにニュースで見ていた記憶があります。だからこそ、八年ぶりに堂々と世界の舞台に戻ってきたロス五輪は、見る側の私たちにとっても、どこか「待ちわびていた夏」だったのです。受験を控えた中学三年生の私でさえ、こうして机を離れて引きずり込まれてしまうほどに。 ぴたりと止めた着地と、あの笑顔 なかでも忘れられないのが、体操の森末慎二さんです。種目別・鉄棒の決勝。最後の最後、二回宙返りで降りてきて、その着地をぴたりと止めた瞬間。そして、ゆっくりと、かみしめるように両手を上げていったときの、あの『笑顔』。子ども心にも、「完璧というのは、こういうことを言うんだ」と思いました。 あとで知ったのですが、森末さんはこの鉄棒で十点満点をマークしていたのですね。一切の減点がない、まさにパーフェクトの演技。それをリアルタイムで観ていたのだと思うと、いまさらながら鳥肌が立ちます。森末さんはこの大会、鉄棒で金、跳馬で銀、団体で銅と、一つの大会で金銀銅すべてを持ち帰りました。けれど私の中に焼きついているのは、メダルの色よりも、あの着地と、あの笑顔のほうなのです。 森末さんといえば、自分の名前がそのまま技の名前になっている、数少ない選手の一人でもあります。「モリスエ」と呼ばれるオリジナルの大技。世界のだれもやっていなかった動きを、自分の体で切りひらいて、自分の名を冠した技として残す。子どもだった私には、その意味の大きさまでは分かっていませんでしたが、「この人は、ただ上手なだけの人ではないんだ」ということだけは、なんとなく伝わってきていました。 あの夏、五輪の舞台に野球があった そして、野球です。 ロス五輪では、野球が公開競技として行われていました。正式競技ではないけれど、この大会から各国の代表チーム同士が本気でぶつかり合う形になった。野球小僧だった私には、これがたまらなくうれしかったのを覚えています。自分が毎日ボールを追いかけているその競技が、世界の頂点を決める同じ舞台に並んでいる。それだけで、なんだか誇らしいような気持ちになったものです。 日本代表は、大学生と社会人の選手で編成されたアマチュアチームでした。プロは一人もいない。それでも勝ち上がり、決勝では開催国アメリカを六対三で破って優勝。公開競技ながら、オリンピック初代の野球王者になったのです。プロのスターではない、自分と地続きのように見えるお兄さんたちが、世界の頂点に立った。あの夏、私の中で野球とオリンピックが、初めて一本の線でつながった気がしました。 いま思えば、あの夏の私は、ただ漫然とテレビを観ていたのではなかったのかもしれません。つい数か月前まで、来る日も来る日も土埃の舞うグラウンドで白球を追いかけ、思うようにいかずに悔し涙をのみ、それでも翌朝にはまたバットを握っていた。その日々の、地続きの延長線上に、画面の向こうの選手たちがいたのです。同じように汗をかき、同じように歯を食いしばってきた人たちが、世界のいちばん高いところで、笑ったり、足を引きずったりしている。だからこそ、どうしても人ごとには思えなかった。応援というより、ほとんど自分のことのように観ていた。それが、あの夏のオリンピックだったように思います。 「勝って当たり前」を背負った人 そして、山下泰裕さんです。 いまの若い人には少し想像しにくいかもしれませんが、当時の日本の柔道には「勝って当たり前」という独特の空気がありました。とりわけ山下さんのような絶対王者には、銀でも銅でもなく、金メダルしか許されない。そういう途方もないプレッシャーが、目に見えない重しのようにのしかかっていたはずなのです。 ロス五輪の無差別級。山下さんは二回戦で、右足のふくらはぎを痛めてしまいます。肉離れでした。足を引きずりながら畳に上がっていく王者の姿に、テレビの前の私は思わず息をのみました。あの強い山下さんが、まともに歩けていない。それでも山下さんは勝ち進み、決勝もきっちり制して、金メダルをもぎ取った。 あの瞬間、私はテレビ画面に向かって、歓喜の絶叫をあげていました。誰に聞かせるでもなく、一人で、本当に大きな声で叫んだのを覚えています。「勝って当たり前」を、怪我を負ってなお本当に勝ち切ってしまう人がいる。十五歳の私には、それが人間業とは思えない、途方もないことに見えました。 ただ、その本当の凄みを思い知ったのは、ずっと後年のことでした。大人になってから、私自身がふくらはぎを肉離れしたことがあります。そのとき、いやというほど分かったのです。肉離れというのは、満足に歩くことすらできない。一歩ごとに痛みが走って、足を引きずるのがやっと。スポーツをするなど、とんでもない話です。その状態で――しかも世界じゅうが見つめる五輪の決勝の舞台で――山下さんは相手を投げ、勝ち切ったのか、と。十五歳の夏にテレビの前で叫んだあの感動が、何十年もたって、今度は自分の足の痛みを通して、まったく違う重みでよみがえってきました。あのとき私が叫んでいたものの大きさを、本当の意味で理解できたのは、皮肉にも自分が同じ場所を痛めたときだったのです。 そして一年後、無敵のまま畳を降りた その山下さんが、翌・昭和六十年六月十七日――あの夏に勉強そっちのけでテレビにかじりついた私が、どうにか高校に進んで一年生になっていた、その年の初夏に――記者会見で引退を表明します。 全日本選手権は昭和五十二年から九連覇。世界選手権でも計四度、頂点に立ちました。そしてロス五輪の金メダル。引退から逆算して、その連勝記録は二〇三。負けないまま、誰にも倒されないまま、自分の意思で静かに畳を降りていったのです。前の年には国民栄誉賞も受けていました。アマチュアのスポーツ選手としては、初めての受賞だったと記憶しています。 「勝って当たり前」という重圧を、最後の最後まで背負い、そして実際に勝ち続けた人。その人が、傷を負ってもなお負けず、絶頂のまま身を引いていく。あの夏の絶叫とは、また違う種類の余韻が、私の胸の中に残りました。強い人が、強いまま去っていく。それはどこか、潔さとさみしさが半分ずつ混じったような、不思議な感覚でした。負けて去るのではなく、勝ったまま終わる。子どもだった私には、その引き際の美しさの意味が、まだ半分も分かっていなかったのだと思います。 ロス五輪が、また帰ってくる 時は流れて、令和です。 あのとき足を引きずりながら金メダルを取った山下さんは、のちに日本オリンピック委員会(JOC)の会長を務めるまでになりました。畳の上のたった一人の王者が、やがて日本のスポーツ全体を背負う立場になっていったわけです。あの夏に絶叫していた少年からすれば、なんとも感慨深い話です。 そして、もう一つ。私が生まれて初めて本気で応援した、あのロサンゼルスという街が、二〇二八年、ふたたびオリンピックの開催地になります。じつに四十四年ぶりのロス五輪です。あの夏、テレビの前で絶叫していた十五歳の少年は、その二〇二八年には五十九歳――六十歳を目前にした年齢になっています。子どもたちも、それぞれの道を歩き始めました。それでも、「ロサンゼルス」という地名を耳にすると、私はいまでも真っ先に、森末さんのあの笑顔と、山下さんの金メダルの瞬間を思い出すのです。 二〇二八年の夏、私はまた、テレビの前で誰かを本気で応援しているでしょうか。きっと、しているのだと思います。あの夏に教わった「観て、応援する」という幸せは、四十年あまりたっても、ちっとも色あせていないのですから。 あなたが、生まれて初めて自分の意思で「観て」「応援した」オリンピックは、どの大会でしたか。テレビの前で思わず叫んでしまった、あの瞬間の記憶があれば、ぜひ聞かせてください。 このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【番外編】インベーダーゲームと孫正義 ── ブームが冷めた中古機を、太平洋の向こうで宝に変えた青年 | 次の記事:6月18日 ── おにぎりの日に、千年の握り飯と母の手を思う ▶

June 17, 2026

【番外編】インベーダーゲームと孫正義 ── ブームが冷めた中古機を、太平洋の向こうで宝に変えた青年

六月十六日の本編では、私たちの子ども時代をまるごと呑み込んでいった、あのインベーダーゲームそのものの話をしました。きょうはその番外編です。 同じインベーダーの話なのに、舞台がまるで違います。日本の喫茶店ではありません。太平洋を渡った先、アメリカ・カリフォルニア。そして主役は、いまをときめく、あの経営者――ソフトバンクの孫正義さんです。 本編でもお話ししたとおり、昭和五十三年(一九七八年)にタイトーが世に出した「スペースインベーダー」は、あっという間に日本中を呑み込みました。喫茶店のテーブルは次々とゲーム機の筐体に置き換わり、店に入ればコーヒーよりも先に、あの迫ってくる電子音が耳に飛び込んでくる。ゲーム機ばかりを並べた「インベーダーハウス」という専門店まで生まれ、子どもたちは攻略法を競い合い、大人はネクタイ姿のままテーブルに肘をついて画面をにらんでいました。あんまり百円玉が吸い込まれていくものだから、世の中で百円玉が足りなくなった、なんて話まで囁かれたほどです。子どもも大人も、テーブルの上に百円玉を積み上げて、画面の中の侵略者を撃ち落とすことに夢中になっていました。 私はそのとき九歳。葛飾の子どもにとっても、あの「ピポピポ」と降りてくる音は、どこか特別な響きを持っていました。 正直に打ち明けると、私自身は、あのブームのど真ん中で百円玉を積み上げていた口ではありません。当時は野球に明け暮れる九歳。インベーダーは、もっぱら「横目で見ていた」遊びでした。喫茶店のテーブル型の台を、ガラス越しにちらりと覗く。近所の上級生の百円玉が、次から次へと機械に吸い込まれていくのを、後ろから眺める。撃つよりも、見ていた。そんな野球少年でした。それでも、あの一歩ずつ迫ってくる電子音だけは、なぜか今でも耳の奥にはっきりと残っています。 ブームが冷めたころ、海の向こうの留学生 さて、ここからが本題です。 あれほどの熱狂も、永遠には続きませんでした。爆発的に燃え上がったぶん、火が消えるのも早かった。一年半ほどで人々はあっさり飽きて、あれだけ高値で取引されていた筐体が、こんどは引き取り手もなく倉庫に山積みになっていきました。誰の目にも「もう終わったもの」でした。 ところが、その「終わったもの」を、まるで違う目で見ていた人がいた。冒頭でふれた孫正義さん、その人です。当時まだ二十歳そこそこ。カリフォルニア大学バークレー校で経済学を学ぶ、卒業前の、れっきとした「学生」の身分でした。彼は渡米まもないころから、語学学校の教師に「将来はビデオゲームを使った商売をやりたい」と語っていたといいます。漠然とした夢ではなく、すでに頭の中で算盤をはじいていたのでしょう。 その学生が、こう考えた。──日本でブームが終わったインベーダーの機械は、いまや余って、安く手に入る。けれどアメリカでは、まだこれからだ、と。 いまでこそ「輸入して転売」と聞けば誰でも思いつく発想かもしれません。けれど一九七〇年代に、留学先の異国でそれを実際にやってのけた二十歳の学生がいた、というのは、やはり並のことではありません。 太平洋を越えた、中古のインベーダー 孫さんは、日本で売れ残った機械を安く仕入れました。一台百万円もした筐体を、捨て値同然で買い集めたといいます。そしてそれを、船ではなく飛行機で空輸した。船便ならずっと安く済むところを、あえて高い空輸を選んだ。アメリカでブームに火がつく前に、先回りして置いてしまいたかったからです。 置き場所に選んだのは、若者でにぎわう店でした。日本でいう喫茶店――とは少し違って、アメリカではアイスクリーム店や、ステーキレストランの待合室。順番を待つあいだ、退屈した客が二十五セント硬貨を放り込む。売上を店と分ける、いまでいう歩合の仕組みです。 もっとも、はじめから歓迎されたわけではありません。「うちにゲーム機なんか置いたら、店の雰囲気が壊れる」と渋る店主も少なくなかった。孫さんはそれを、一軒一軒、直談判で口説き落としていったといいます。 そして、こんな話が伝わっています。設置したばかりの機械が動かない、と連絡を受けて駆けつけてみると、機械は壊れてなどいなかった。コインボックスに二十五セント硬貨が入りすぎて、あふれて、それで止まっていたのです。まわりに集まった客たちは、腹を抱えて笑っていたといいます。 結果、半年ほどで設置台数はおよそ三百五十台にまで広がり、利益は一億円を超えたと伝えられています。さらに孫さんは、キャンパス近くのゲームセンターまで一軒、銀行から借金をして買い取りました。そこに毎日の売上を細かく見る「日次決算」を持ち込み、機械一台ごとに、置いてから何日で元が取れるかまで見極めた。働く人の見極めも徹底していて、まずは広く雇い入れ、本当に働く者だけを残していったといいます。そうして、わずか一か月で売上を三倍にしてみせた。学生が片手間にやった商売、という規模では、もうありません。 事実関係を、少し整理しておきます この逸話、語り手によって数字がまちまちです。「五万円で十台」と書くものもあれば「五万円で二十台」とするものもある。空輸代が一台七万円だった、という具体的な話も出てきます。細かい数字は伝聞で揺れているので、ここでは「ブームの去った中古機を安く仕入れ、空輸し、歩合で置いて、数か月で一億円規模を稼いだ」という骨格だけを、確かなものとして受け取っておくのがよさそうです。世に出ている記述の多くは、孫さんの評伝(大下英治氏による一連の著作)にたどりつきます。 このあたりの留学時代と起業の物語を、もっとじっくり読んでみたい方には、この一冊を。何も持たない若者が、自分を信じて海を渡っていく――冒険小説のような面白さがあります。 孫正義 起業の若き獅子大下英治/講談社。インベーダー留学時代から起業までを描いた評伝 Amazonで見る › もうひとつ、混同されやすい点を。孫さんはこの時期、バークレーの先生たちと組んで音声付きの翻訳機を開発し、その権利をシャープに売って、やはり一億円ほどを手にしています。インベーダーの話とこの翻訳機の話は、しばしば一つに混ぜて語られますが、本来は同じ留学時代の、別々の商売です。「翻訳機で得た金を元手にゲーム機を輸入した」と書かれることもあれば、ゲーム機の商売そのものが大きな利益を生んだ、と語られることもある。どちらが先で、どちらがどちらの元手か――そこは諸説あって、はっきり一本の線では結べません。確かなのは、二十歳そこそこの留学生が、ほぼ同じ時期に、二つの商売でそれぞれ一億円規模の話を作っていた、という事実のほうです。 そして青年は、日本へ帰る アメリカでひととおりの成功を収めた孫さんは、やがて大学を卒業し、日本へ帰ってきます。そして昭和五十六年(一九八一年)九月、二十四歳のとき、福岡の地で、パソコン向けソフトの卸売を手がける「日本ソフトバンク」を起こしました。社員はわずか数人。世間がまだ「ソフトウェア」という言葉すらほとんど知らない時代の、ささやかな船出でした。けれど、ブームの去ったインベーダーの中に値打ちを見抜いたあの目は、こんどはパソコンという、これから来るものの中に未来を見ていた。仕入れて、運んで、置いて、回収して――留学時代に体ひとつで覚えた商売の型は、形を変えて、そのまま受け継がれていったように思えます。 令和のいま、あらためて思うこと 葛飾の喫茶店のテーブルで、私たちが百円玉を積み上げて遊んでいたそのゲームを、同じころ、海の向こうの二十歳の青年は「商売の種」として見ていた。同じインベーダーを、こちらは遊び、あちらは商いにしていた。こちらの百円玉と、あちらの二十五セント硬貨。同じ機械が、太平洋をはさんで、まったく違う意味を持っていた。その視点の違いを思うと、なんとも不思議な気持ちになります。 しかも彼が目をつけたのは、ブームの真っ盛りではなく、熱が冷めて誰もが見向きしなくなった「残り物」のほうでした。みんなが飽きて手放した機械の中に、まだ値打ちが残っている――そう見抜く目こそが、のちのソフトバンクの、あの次々と大きな賭けに出ていく経営の、いちばん最初の芽だったのかもしれません。いまや人工知能だ、巨大ファンドだと、桁の違う話ばかりが聞こえてきますが、その出発点が、私たちの子ども時代をにぎわせた、あの電子音の機械だったというのは――昭和を生きた身には、どこか痛快な話です。 私たちが夢中で侵略者を撃っていたあのテーブルは、誰かにとっては、未来を撃ち出す発射台だったわけです。 その発射台は、いまどこまで飛んだのか。つい先日、令和八年(二〇二六年)六月一日のことです。孫さんが率いるソフトバンクグループの時価総額が、ついにトヨタ自動車を抜いて、国内企業の首位に立ちました。トヨタが時価総額のトップを明け渡すのは、実に二十二年半ぶり。「日本一の会社といえばトヨタ」というのが長らく私たちの常識でしたから、たとえ一時的にせよ、これは大きなニュースになりました。生成AIや半導体への巨額投資が市場の期待を集めての逆転で、その時価総額は一時、四十八兆円、四十九兆円という途方もない額に達したといいます。ブームの去った中古のインベーダーを抱えて太平洋を渡った青年が、半世紀ののちに、自動車王国の頂をひっくり返した――こうして並べてみると、やはり出来すぎた物語のように思えてきます。 孫さんは「三百年続く企業をつくる」といった、気の遠くなるような話を平気で口にする人です。その三百年の、いちばん最初の一歩が、私たちと同じ昭和の電子音から始まっていた。雲の上の大富豪の物語かと思いきや、出発点には、私たちの記憶と地続きの、あの懐かしい筐体が立っている。そう思うと、遠い話が急に身近に感じられて、なんだか可笑しくも、頼もしくもあるのです。 みなさんは、インベーダーゲームに、どんな思い出をお持ちでしょうか。喫茶店の台、ゲームセンター、それとも友だちの家。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月16日 ── 上級生の背中越しに、私はインベーダーを見ていた | 次の記事:6月17日 ── 無敵のまま畳を降りた山下泰裕と、私が初めて応援した五輪の夏 ▶ ...

June 16, 2026