六月も後半に入ると、空がぐずついて、空気がねっとりと重たくなってきます。一年でいちばん昼が長い、夏至のころ。傘を片手に駅へ向かう人の足取りも、どこか急いて見える季節です。

私が育ったのは、葛飾区の高砂という町です。最寄りは京成高砂駅。ここは、ただの駅ではありません。京成本線と押上線、それに金町線が分かれていく結節点で、すぐそばには電車をしまっておく大きな車庫——高砂検車区があります。線路が何本も並び、色とりどりの電車が、出たり入ったりする。子どもにとっては、これ以上ない景色でした。

そう、私の町は「電車の街」でした。

京成高砂駅を見下ろす。本線・押上線・金町線が分かれ、すぐそばに高砂検車区がある「電車の街」。


踏切の音で、時間を計っていた

六歳ごろまで、私は高砂駅のすぐそば、線路沿いの家で暮らしていました。だから、電車の走る音だけでなく、駅に流れるアナウンスや、笛の音まで聞こえてきました。電車は、それくらい身近な存在だったのです。一歩家を出れば、すぐ目の前を電車が走っている——そんな環境でした。

特に私が好んで電車を見ていたのは、駅の踏切のそばはもちろんですが、家のそばにあった、線路をまたぐ歩道橋からでした。そこからの開けた眺めと、絶え間なく行き交う電車を見ていると、飽きることはありませんでした。

家のそばの歩道橋から。飽きもせず、行き交う電車を眺めていた。子どもにとって、これ以上ない遊び場だった。

いま思えば、保育園児が、柵があったとはいえ、たった一人で線路沿いをふらふらと出歩いている。なんとものんびりとした、呑気な時代だったのですね。

あの歩道橋の上で、私が飽きもせず見上げていた電車たちが、どこから来て、どこへ向かっていたのか。当時の私は、もちろん何ひとつ知りませんでした。


昭和四十三年六月二十一日 ── 三つの会社が、一本につながった日

さて、今日は六月二十一日です。

昭和四十三年——西暦でいえば一九六八年のこの日、東京の地下で、ひとつの「輪」が完成しました。

都営地下鉄一号線、いまの都営浅草線の、大門と泉岳寺のあいだが、新しく開業しました。同じ日に、京浜急行の品川と泉岳寺のあいだも開業して、京急と都営地下鉄が線路でつながり、相互直通運転——おたがいの電車が、相手の線路へ乗り入れる運転が始まったのです。

これが、どれほど大きなことだったか。

押上から先は、京成電鉄が千葉方面へと延びています。そして泉岳寺から先は、開業したばかりの京急が、神奈川の三浦半島の方へと延びていく。つまりこの日、千葉から東京の都心を貫いて神奈川まで、三つの会社の線路が一本につながりました。乗り換えなしで、県をまたいで走れる長距離の直通運転が、現実のものになった瞬間でした。

じつは、京成電鉄と都営一号線の直通そのものは、もっと前から、少しずつ始まっていました。昭和三十五年の十二月、押上と浅草橋のあいだが開業したときに、京成の電車はもう、都営の地下へ乗り入れはじめていたのです。そこから線路は一駅、また一駅と南へ延び、昭和三十九年の十月に、大門まで届きました。

この工事には、いかにも昭和らしい逸話があります。地下鉄の建設が始まったのは昭和三十三年。ところが昭和三十九年の東京オリンピックに向けた工事を優先するため、途中でいったん中断されたのです。世界に向けて東京の姿を整えることが、何より先だった時代でした。オリンピックが終わってから工事は再び動き出し、最後に残った泉岳寺までの区間と、京急との接続にたどり着きます。品川と泉岳寺をつなぐ、わずか一・二キロ。それが五年がかりの難工事だったというのですから、ひとつなぎのために、どれほどの汗が流されたか知れません。ちょうどこの年は、京急が創立七十周年を迎える、節目の年でもありました。

ちなみに、三つの会社の電車が、おたがいの線路を走り通せるのは、レールの幅——軌間がそろっているからです。京成も、都営浅草線も、京急も、新幹線と同じ広い軌間で造られている。だからこそ、会社の枠を越えて、一本の電車が走っていけるのです。

電車の乗り入れそのものは、開業の六日前、六月十五日から始まっていたそうです。この六日間は試運転の期間で、大門と品川のあいだを、お客を乗せない電車が、静かに行き来していました。そして六月二十一日、いよいよ本番を迎えます。なお、都営の地下鉄が西馬込まで全線そろうのは、この年の十一月のこと。ですから六月二十一日は、「全線開通の日」というよりも、「三つの会社の電車が、はじめて一本に手をつないだ日」と呼ぶのが、ふさわしいように思います。

おもしろいのは、この直通の道が、いまでこそ成田空港への大切なルートになっているのに、つながった昭和四十三年の時点では、その成田空港が、まだ影も形もなかった、ということです。空港が開港するのは、これより十年もあとの昭和五十三年。つまりこの線路は、行き先となる空港が生まれるよりも先に、ちゃんと用意されていたことになります。道が先にあって、人やものが、あとからその上を流れはじめる。鉄道というのは、そういう気の長い、先回りの仕事なのだと、あらためて思わされます。


私が生まれる前の年に、道はもうつながっていた

ここで、ひとつ、正直に書いておかなければならないことがあります。

私は、この日のことを覚えていません。覚えているはずがありません。私が生まれたのは、その翌年——昭和四十四年の四月だからです。三つの会社の線路が一本につながったとき、私はまだ、この世にいませんでした。

不思議な気持ちになります。

あの歩道橋の上で、私が飽きもせず電車を見上げていたとき、その電車たちが走っていく道は、私が生まれる前の年に、もう出来上がっていたのです。子どもの私は、そんなことは、何ひとつ知りませんでした。電車はただ、空気や水のように、当たり前にそこにありました。当たり前すぎて、それが誰かの五年がかりの難工事の上に成り立っているなんて、想像もしませんでした。

私はいま、路線バスの運転士として、人を乗せて街を走っています。乗り物で人を運ぶというのは、地味ですが、誰かの一日を、誰かの人生を、たしかに前へ動かしている仕事です。バスのハンドルを握りながら、ときどき思います。子どものころ眺めていたあの電車たちも、こうして毎日、誰かの暮らしを運んでいるのだなと。

当たり前にそこにある道は、誰かが汗をかいて、つないでくれた道です。それに気づくのに、私はずいぶん長い時間がかかりました。


令和のいま、その道は二つの空港をつないでいる

あの日つながった三社の直通は、いまもしっかりと生きています。それどころか、昭和の人が見たら驚くような姿になりました。

京成高砂を走り抜けるスカイライナー(AE形)。あの日つながった三社直通は、いまや羽田と成田を結ぶ大動脈になった。

いまでは、この直通ルートは、羽田空港と成田空港という、二つの空の玄関口を結ぶ大動脈になっています。神奈川の三崎口から、京成線を経由して成田空港の方まで直通する電車の距離は、なんと百四十一・六キロにもなるそうです。東京から静岡のあたりまで、乗り換えなしで一本。昭和四十三年に泉岳寺で手をつないだ三つの会社の線路は、半世紀をかけて、ここまで遠くへ伸びていきました。

高砂検車区。会社の違う電車が、同じ屋根の下で肩を並べることもある。あの日つながった「輪」が、いまも回り続けている。

高砂の車庫をのぞくと、いまでも、赤い京急の電車が、京成の車庫に、当たり前のような顔をして停まっていることがあります。会社のちがう電車が、同じ屋根の下で肩を並べている。あの六月二十一日につながった輪が、半世紀以上たったいまも、こうして目の前で静かに回り続けているのだと思うと、なんだか胸が温かくなります。

思えば、あの歩道橋の上の私は、来る日も来る日も、その「輪」が回っているところを眺めていたのです。京成の電車にまじって、よその会社の電車が走っていく。子どもの私には、それがどれほど大きな出来事の続きなのか、わかるはずもありませんでした。ただ、いろんな色の電車が来るのが、うれしかった。本当に、それだけでした。でも、その「うれしい」を毎日くれていたのは、たしかに、あの日つながった三つの会社の線路だったのです。

高砂の駅には、いまも私の子どもたちが乗り降りしています。私が見上げていたのと同じ車庫の電車を、子らもまた、当たり前の景色として見ているのでしょう。その電車が走る道が、いつ、どんなふうにつながったのか——たぶん、知らないままに。

あの日、踏切で見上げたスカイライナーは、いまでは手のひらの上でも走らせられます。子や孫と、畳の上に線路をつないで、あの銀色の車体を走らせる。私が歩道橋から眺めていた景色を、こんどは小さな手といっしょに、もう一度たどってみるのも、いいものです。

プラレール S-54 京成スカイライナー AE形
タカラトミー/あの踏切で見た銀色の車体。子・孫と畳の上で走らせる一台
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それで、いいのだと思います。当たり前にそこにあることこそが、つないでくれた人たちへの、いちばんの恩返しなのかもしれませんから。


あなたの町には、「当たり前にそこにあるけれど、じつは誰かが汗をかいてつないでくれた道」はありますか。電車でも、橋でも、坂の上の階段でも。今日はひとつ、思い出してみませんか。

この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一篇です。昭和四十年から六十四年までの「今日」を、高砂で育った一人の子どもの目線で、少しずつ書き残しています。


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