10月2日 ── 車酔いした峠の下を、関越トンネルが抜けた日|昭和の今日は何があった日?
今日は10月2日です。 昭和60年(1985年)のこの日、群馬と新潟の県境に関越トンネルが開通しました。東京の練馬から新潟の長岡までを結ぶ関越自動車道が、ようやく一本の道になった日です。 私は16歳、高校1年生の秋でした。 私の両親は、ふたりとも新潟の出身です。東京で生まれ育った私にとって、新潟は自分のふるさとではありません。けれど、まったくのよその土地でもない。山の向こうにある、両親のふるさと。今日は、その山を抜ける道の話です。 14年かけて、つながった道 関越道の歴史は、昭和46年(1971年)の練馬〜川越間の開通から始まります。そこから関東の側と新潟の側、両方から少しずつ道が延びていき、最後まで残ったのが群馬と新潟の県境、谷川岳の山々が立ちはだかる区間でした。 その県境を貫いたのが関越トンネルです。長さはおよそ11キロ。開通した当時は日本でいちばん長い道路トンネルで、いまでも、山を貫く道路トンネルとしては日本一の長さです。 工事が始まったのは昭和52年(1977年)。谷川岳のまわりは岩盤がもろく複雑な地質で、いつ水が噴き出したり崩れたりしてもおかしくない現場だったそうです。そこで、まずひと回り小さな「先進坑」を掘って地質を確かめ、避難路を確保しながら本番のトンネルを掘り進める方法がとられました。 そうして昭和60年10月2日、関越トンネルが開通し、関越道は全線がつながります。最初の開通から数えて14年。日本で初めて、本州を横断する高速道路が誕生した日でした。 もっとも、開通したときのトンネルは1本だけで、片側1車線ずつの対面通行でした。もう1本のトンネルが完成して4車線になったのは、平成3年(1991年)の夏のことです。 ちなみに、トンネルの入口は工業デザイナー・柳宗理の研究所がデザインしています。横長の馬蹄形をした入口は、運転する人に威圧感を与えず、すっと中へ誘い込むように考えられているそうです。毎日ハンドルを握っている身としては、こういう話につい目がいってしまいます。 三国峠の時代 関越トンネルができるまで、車で群馬から新潟へ抜ける道は、国道17号の三国峠を越えるしかありませんでした。 その三国峠の道も、それほど古いものではありません。峠の下に三国トンネルが開通し、群馬と新潟の県境に初めて車の通れる道ができたのは、昭和34年(1959年)6月のことです。それまでは、車で新潟へ向かうには軽井沢を経由するなど、大きく回り道をするしかなかったそうです。母が新潟で生まれた昭和13年には、県境を車で越える道は、まだなかったことになります。 この三国峠の道は、日本で初めて「クロソイド曲線」を使った道路としても知られています。カーブの入口から出口にかけて曲がり方を少しずつ変え、ハンドルを無理なく切っていけるようにする曲線です。それでも山あいのカーブが続く峠道で、冬になれば深い雪に覆われます。 川端康成の小説『雪国』の冒頭で、列車が県境の長いトンネルを抜けると雪国だった、という有名な場面があります。あのトンネルは上越線の清水トンネルのことだといわれています。列車には、早くからトンネルがありました。けれど車には、長いあいだ峠しかなかったのです。 ちなみに三国峠は、関越トンネルができたいまも役目を終えていません。ガソリンなどの危険物を積んだタンクローリーは長いトンネルを通れないため、いまも三国峠を越えて県境を行き来しています。 列車が県境のトンネルを抜けていく場面から始まる、川端康成の代表作です。車の通れる道がまだ県境になかった頃の、山の向こうの冬が描かれています。 雪国(新潮文庫)川端康成/新潮社。ノーベル文学賞作家の代表作。舞台は、上越線の清水トンネルを抜けた先の温泉町。星4.1(646件) Amazonで見る › 叔父の車と、くねくね道 子どもの頃、新潟へ行ったのは中学までに2、3回です。列車で行ったこともあれば、叔父の運転する車に乗せていってもらったこともありました。 その車の旅で覚えているのは、景色でも食べ物でもなく、車酔いです。気分が悪くなって、ずいぶん苦しんだ記憶が残っています。たぶん、三国峠のくねくね道でのことだったと思います。日本で初めてのクロソイド曲線も、子どもの胃袋にまではやさしくなかったようです。 行き先は、いまの上越市浦川原区のあたりです。当時は東頸城郡浦川原村といい、平成17年(2005年)に上越市へ編入されました。 15歳の春、直江津からバスで 中学を卒業した昭和60年の春休みには、ひとりで新潟へ向かいました。9月24日のみどりの窓口の回で書いた、はじめてのひとり旅です。その回では、きっぷをどう買ったかも覚えていない、残っているのは横川の釜めしを食べた、ような気がする、という記憶くらいだ、と書きました。 ところが、この記事を書いているうちに、思い出したことがあります。あの春、列車で向かった先は直江津駅でした。そこからバスに乗り換えて、目指す村まで行ったのです。 直江津は、日本海に面した上越の町です。上野から高崎、横川、長野を越えて直江津へ出る信越本線は、ちょうどそこへ向かう道筋でした。9月24日の回では「記憶のほうが正しいとすれば」とおそるおそる書いた横川の釜めしも、これで筋が通ります。15歳の私は、碓氷峠を越え、長野を通って、日本海側の直江津まで列車に揺られていたのだと思います。 直江津から先は、バスでした。 浦川原には、直江津の新黒井駅から頸城鉄道という小さな軽便鉄道が通っていました。地元では社紋にちなんで「まるけい」と呼ばれ、親しまれていたそうです。その線路は、私が2歳の年に姿を消しています。15歳の私が直江津からバスに乗ったのは、鉄道がなくなって14年後のことでした。 あのとき乗ったのがどの会社のバスだったかまでは、覚えていません。ただ、いまも直江津駅前からは、頸城自動車の「直江津・浦川原線」が浦川原へ向かって走っています。頸城鉄道を走らせていた会社が、名前を変えて続けているバス会社です。路線の起点は「マルケーバスセンター」。あの「まるけい」を思わせる名前が、いまもバス停に残っています。 いまバスの運転席に座っている私には、15歳の春にひとりで乗った、あの直江津からのバスが、少し特別なものに思えてきます。 昭和60年、新潟が近くなった年 あとから年表を見て気づいたのですが、昭和60年は、東京と新潟の距離がぐっと縮まった年でした。 昭和57年に大宮〜新潟間で開業した上越新幹線は、それまで大宮が始発でした。それが昭和60年3月14日、上野まで乗り入れるようになります。そして10月2日には、関越道が全線開通。鉄道でも道路でも、新潟が一気に近くなった年だったのです。 私のひとり旅は、ちょうどその二つのあいだの春でした。新幹線は上野から出るようになったばかりで、関越トンネルは半年後の開通を待っているところ。そんな時期に、15歳の私は、在来線の列車で直江津へ、そこから路線バスで村へと乗り継いで、両親のふるさとを目指していたことになります。いちばん新しい道ではなく、昔ながらの道を通っていたわけです。 ...