【昭和の今日は何があった日?】7月14日──リカちゃんは、葛飾の子だった

7月14日、あの人形が生まれたとされる日 7月14日は、「リカちゃん人形」が発売された日とされています。1967年、昭和42年のことでした。ただ、正直に書いておくと、発売日には諸説あります。7月4日という説も、7月1日という説もあって、「今日は何の日」を紹介するメディアの中には、この7月14日を発売日として挙げているものがある、というのが正確なところです。ですから今日は、日付そのものよりも、この人形が生まれた昭和という時代と、私の家にあった一体のリカちゃんの話をさせてください。 そもそも私は、リカちゃんが発売された1967年には、まだこの世にいません。私が生まれたのは、その2年後の昭和44年、1969年の4月です。ですから、発売の瞬間を覚えているはずもありません。それでも私は、リカちゃんという名前を聞くと、はっきりと思い出す光景があります。我が家の畳の上に転がっていた、あの小さな人形。あれは私のものではありませんでした。妹のものでした。 タカラトミー本社(葛飾区立石)のショーウィンドウに並ぶ、いまのリカちゃんたち。ペットサロンにケーキショップ——時代は変わっても、女の子の憧れをぎゅっと詰め込む芸は健在だ バービーに負けない、日本の女の子のための人形 リカちゃんが生まれた背景には、一つの悔しさがあったといいます。昭和40年代のはじめ、着せ替え人形の売り場に並んでいたのは、アメリカ生まれのバービーをはじめとする、外国の顔をした人形たちでした。手足が長く、大人びていて、日本の子どもにとっては少し遠い存在です。 そこで玩具メーカーのタカラは、日本の女の子が本当に身近に感じられる人形を作ろうと考えました。まず、大きさ。当時すでに人気だった海外の人形に合わせてドールハウスを作ると、日本の狭い住宅には置き場所がなく、子どもが持ち運ぶこともできません。そこで人形そのものを、女の子の手のひらにすっぽり収まる身長21センチに設計しました。顔立ちは、当時の少女たちが夢中になっていた少女漫画のヒロインそのもの。大きな瞳に、星がひとつ。広告のイラストは漫画家の牧美也子さんが手がけました。 名前もよく考えられていました。「リカ」という響きは、日本人でも外国人でも通じるように選ばれたもの。少女漫画雑誌「りぼん」の誌上で名前を公募した、ということになっていますが、実際にはタカラ側が決めた名前だったといいます。本名は香山リカ。設定では小学5年生で、フランス人の音楽家のお父さんと、日本人でデザイナーのお母さんを持つ女の子でした。狭い日本の家に暮らす女の子が、人形を通して外国や華やかな世界を夢見られるように——そんな願いが、細やかな設定の一つひとつに込められていたのです。 この作戦は見事に当たりました。発売からわずか2年後の1969年、ちょうど私が生まれた年に、リカちゃんは日本国内の売り上げでバービーを追い抜きます。それ以来、リカちゃんは長く「着せ替え人形の女王」として君臨していくことになります。 面白いエピソードがあります。デビューした年、タカラに一本の電話がかかってきたそうです。「リカちゃんはいますか?」と、女の子からの電話でした。受けた女子社員が、子どもの夢を壊してはいけないと「こんにちは、私がリカよ」と応じたところ、その子は大喜び。リカちゃんとお話しできるという噂は口コミで広がり、やがて専用回線が敷かれて、翌1968年には「リカちゃん電話」が正式に開設されました。その声を長く担当したのは、のちにアニメ「アルプスの少女ハイジ」のハイジ役でおなじみになる杉山佳寿子さん。1997年まで、実に30年にわたって、リカちゃんは電話の向こうで女の子たちの話し相手をつとめたのです。人形が、ただの人形ではなく、女の子にとっての「お友だち」だった。その手の込みようには、今さらながら感心してしまいます。 「タカラ」は、葛飾の会社だった さて、ここからが、私にとって一番驚いた話です。このリカちゃんを生んだタカラという会社は、いったいどこにあったのか。調べてみて、思わず声が出ました。葛飾区です。私が生まれ育った、あの葛飾でした。 タカラの源流は、昭和30年、葛飾区の本田宝木塚町、今の宝町に生まれた小さなビニール工業所にさかのぼります。「タカラ」という社名も、この創業の地名からとられたものだそうです。その後、本社は青戸に移り、日本中の子どもを夢中にさせた数々のおもちゃを世に送り出していきました。空気でふくらむダッコちゃん、着せ替え人形のリカちゃん、家族で遊んだ人生ゲーム、手のひらでキュルッと走るチョロQ。そのどれもが、葛飾生まれだったのです。 とりわけ、リカちゃんより前の1960年に大ヒットした「ダッコちゃん」は、社会現象と呼べるほどの騒ぎを起こしました。腕にぶら下がる、あの黒くて愛らしいビニール人形です。一時は月に1000万個も作られたというのですから、当時の熱狂ぶりがしのばれます。ビニールを加工するその技術の蓄積があったからこそ、のちにリカちゃんという着せ替え人形が生まれた——そう考えると、葛飾の町工場が積み上げてきたものの厚みが見えてきます。 しかも、話はそれだけでは終わりません。のちの2006年、タカラは同じ葛飾の立石にあったトミーという会社と合併し、タカラトミーになります。トミーもまた、プラレールやトミカをつくってきた、葛飾を代表するおもちゃメーカーでした。つまり葛飾は、リカちゃんもプラレールも生み出した、まぎれもない「おもちゃのまち」だったのです。 葛飾区立石・タカラトミー本社の屋上看板。夏空に、あの青いロゴがよく映える 青戸も立石も、私の育った高砂と同じ葛飾区。京成線でつながる、ほんのご近所です。私が線路脇の家で、来る日も来る日も電車を見上げていたあの頃。同じ葛飾のどこかの工場では、たくさんのリカちゃんが生まれ、日本中の女の子のもとへと旅立っていたことになります。自分の遊んでいた街が、日本の子どもの夢をつくっていた——そう思うと、なんだか胸のあたりがくすぐったくなります。 妹のクリスマスと、ピンクの箱 我が家にリカちゃんがやってきたのは、あるクリスマスのことでした。妹が、プレゼントにリカちゃん人形と、着せ替え用のドレスを買ってもらったのです。そして妹は、それだけでは飽き足らなかったのでしょう。年が明けると、もらったばかりのお年玉を握りしめて、着せ替え用のドレスをさらに買い足していました。クリスマスにもらった人形のために、自分のお年玉をつぎ込む。今思えば、あれこそがタカラの狙いどおりの遊び方だったわけですが、当時の妹は、ただただ夢中だったのだと思います。 男の子だった私にとって、リカちゃんは完全な別世界でした。触ってみたいとも、うらやましいとも、思ったことは一度もありません。ピンク色のドレスや小さな靴は、同じ子ども部屋の中にありながら、まるで違う国の出来事のようでした。 なにしろ私には私で、夢中になっているものがあったのです。私もクリスマスプレゼントに買ってもらった記憶があります。「変身サイボーグ1号」と、確かキカイダーの着せ替えスーツでした。変身サイボーグ1号というのは、透明なボディの中に銀色のメカが透けて見える人形で、そこにウルトラマンや仮面ライダーといったテレビヒーローの「変身セット」を着せて遊ぶおもちゃです。仮面ライダーに始まる変身ブームの真っただ中、昭和47年に発売されて大ヒットしました。私はキカイダーのスーツを着せては脱がせ、着せては脱がせ、飽きることなく遊んだものです。 ——と、ここまで書いて、お気づきでしょうか。妹はリカちゃんにドレスを着せ、私はサイボーグにキカイダーのスーツを着せていた。やっていることは、まったく同じです。しかも、この変身サイボーグ1号を作っていたのは、どこの会社か。タカラです。リカちゃんと同じ、あの葛飾のタカラなのです。互いに「別世界」だと思い込んでいた兄と妹は、実は同じ葛飾生まれの着せ替え人形で、同じ遊びをしていたのでした。四十数年越しにこの事実に気づいたときは、思わず笑ってしまいました。 6000万体の、それぞれの物語 リカちゃんは、その後も時代に合わせて少しずつ顔立ちや設定を変えながら、令和の今日まで愛され続けています。これまでに世に送り出された数は、累計で6000万体を超えるといいます。6000万人の女の子が、それぞれのリカちゃんと、それぞれの物語を紡いできたということです。 そして、生みの親であるタカラトミーは、今もなお葛飾区立石に本社を構えています。おもちゃのまちの伝統は、令和になっても途切れていません。妹がクリスマスに抱きしめたあのリカちゃんも、そのうちの一体でした。名前も、フランス人のパパも、小学5年生という設定も、あの小さな体にぎゅっと詰まった夢も——すべては、私のご近所で生まれたものだったのです。 本社1階のショーウィンドウ。ベイブレードにポケモン、南葛SCのキャプテン翼まで——葛飾生まれの会社は、今も子どもたちの真ん中にいる 今になって思うことがあります。当時、私の身の回りにあったおもちゃは、意外と身近なところで生まれて、日本中へと広がっていたのですね。トミーのミニカー「トミカ」は立石。タカラのリカちゃんや変身サイボーグ、ミクロマンは青戸。そして、あのモンチッチを生んだセキグチも、西新小岩の会社です。調べてみれば、モンチッチが誕生したのは1974年、私が5歳のときのこと。線路脇で電車ばかり見上げていた葛飾の少年は、知らないうちに、日本中の子どもの宝物が生まれる場所のど真ん中で育っていたのでした。 みなさんの子ども時代、きょうだいや友だちが夢中になっていた「自分とは違う世界のおもちゃ」には、どんなものがありましたか。そして、そのおもちゃがどこで生まれたものだったか、考えてみたことはあるでしょうか。案外、みなさんのすぐ近くだったかもしれませんよ。 妹があの日抱きしめていたリカちゃんは、今も形を変えて、おもちゃ売り場の真ん中にいます。ドレスや小物のそろった定番のギフトセットは、お子さんやお孫さんへの贈り物にちょうどいい一箱。あの頃、妹や姉がリカちゃんに夢中だった——そんな方は、パッケージを眺めるだけでも、きっと何かを思い出すはずです。 リカちゃん ドール LD-01 だいすきリカちゃん ギフトセット(タカラトミー)ドレスや小物一式がそろった定番の入門セット。誕生から半世紀を超えて、いまも売り場の真ん中に Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月13日】少女Aが生まれた日、中森明菜と中学一年生の私 | 次の記事:【7月15日】ファミコンは買わなかった。でもチャンピオンは毎週読んでいた ▶

July 14, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月9日──蒸気が消えた年に、蒸気を走らせた鉄道があった

今日は、正直に告白するところから始めたいと思います。 1976年(昭和51年)7月9日、静岡県の大井川鉄道が、日本で初めて蒸気機関車の動態保存運転を開始しました。今回この日のことを調べるまで、私はこの出来事をまったく知りませんでした。記憶がないどころか、知識としても持っていなかったのです。 当時、私は小学1年生。京成高砂駅のすぐ近く、線路沿いの家で育った私は、毎日のように電車を眺めて暮らす鉄道少年でした。それなのに、この歴史的な出来事を知らずに57歳まで来てしまった。だから今日の記事は、いつもと少し違います。読者のみなさんと一緒に、私自身が初めて知る物語です。 昭和50年12月14日、蒸気が消えた まず、大井川鉄道の話の前に、その半年前まで時計を戻す必要があります。 1975年(昭和50年)12月14日、北海道の室蘭本線で、国鉄最後のSL定期旅客列車が走りました。室蘭発岩見沢行きの225列車。牽引したのはC57形135号機で、「さよならSL」と書かれた特製のヘッドマークが掲げられていたそうです。 この日の室蘭駅には、前日の夜から徹夜で並んだ人たちがいて、改札が始まった朝7時半には約2000人が乗車券を買い求めたといいます。ふだんは客車5両の列車がこの日は8両に増結され、満員の乗客を乗せて、定刻より1時間14分も遅れて終点の岩見沢に着きました。遅れの理由は、沿線に詰めかけた人の波だったのでしょう。1872年の新橋〜横浜間開業から103年。日本の鉄道を支え続けた蒸気機関車が、日常の風景から姿を消した瞬間でした。 構内の入換用として最後まで働いていたSLも、翌1976年3月、北海道の追分機関区で火を落とします。これで国鉄から、動くSLは一両もいなくなりました。 背景にあったのは、国鉄の「動力近代化計画」です。電化とディーゼル化を進め、燃費が悪く煙で乗客や沿線を悩ませるSLを全廃するという方針でした。高度経済成長のなか、速く大量に運ぶことが鉄道に求められた時代です。合理化としては当然の流れでした。 ただ、皮肉なことに、SLは消えると決まった瞬間から、かつてないほど愛され始めます。消えゆくSLを追いかけて全国の路線に人々が押し寄せた「SLブーム」は、ちょうど昭和40年から50年までの10年間。鉄道ファンだけでなく、老若男女が有名撮影地に集まり、最後の雄姿をフィルムに焼きつけようとしました。1972年(昭和47年)の鉄道開業100年には、京都に梅小路蒸気機関車館(現在の京都鉄道博物館)が開館し、SLを産業文化財として保存する動きも始まっています。当時の時刻表には「今やSLは、走る交通機関から、見る交通機関に変わった」という趣旨のことばが載ったそうです。 人は、なくなるとわかったときに初めて、そのものの価値に気づくのかもしれません。 その半年後、静岡の茶畑を蒸気が走った そして1976年7月9日。国鉄からSLが完全に消えて、わずか4か月後のことです。 静岡県の大井川鉄道が、大井川本線の金谷〜千頭間、約40キロでSL急行「かわね路号」の運転を始めました。日本で初めての、本線上でのSLの動態保存運転です。「動態保存」とは、博物館に静かに展示するのではなく、動く状態のまま保存すること。つまり、火を入れ、蒸気を上げ、客を乗せて走らせ続けるということです。 牽引したのはC11形227号機。1942年(昭和17年)9月製造のタンク式機関車で、戦時設計に切り替わる直前に造られた、造りの良い一両だそうです。時速85キロで走れる優れた性能を持ちながら、動力近代化の波のなかで職を失い、前年の1975年11月に北海道の標津線から大井川鉄道へやってきました。国鉄最後のSLたちが働いた北海道から、一両の機関車が静岡へ渡り、そこで再び命を吹き込まれた——調べていて、この事実に胸が熱くなりました。 もうひとつ知って驚いたのは、当時の大井川鉄道が、決して余裕のある会社ではなかったことです。昭和40年代から50年代にかけて、沿線の過疎化と人口流出で利用者は減り続け、事業の柱だった貨物輸送も落ち込み、たび重なる災害復旧に資金を注ぎ込まなければならない。経営の先行きが見通せない時期だったといいます。 そのどん底で選んだのが、「消えゆくものにこそ価値がある」という道でした。全国が捨てたものを、あえて拾い上げて走らせ、沿線の外からお客さんを呼び込む。世の中が新しさへ一直線に走っていた昭和51年に、これは相当に思い切った、常識はずれの決断だったはずです。しかし運行開始と同時に全国から乗車の申し込みが殺到し、やがて「SLといえば大井川」と呼ばれるまでになりました。捨て身の賭けは、見事に当たったのです。 跨線橋の上の私は、知らなかった さて、そのころの私です。 小学1年生の私は、京成高砂駅のそばの跨線橋の上から、飽きもせず電車を眺めていました。高砂の検車区に並ぶ車両たち、踏切を駆け抜けていくスカイライナー。私の世界は、電車でできていました。 でも、そこに蒸気機関車はいませんでした。東京の下町で生まれ育った私にとって、SLは最初から「絵本と図鑑の中のもの」だったのです。デゴイチという言葉は知っていても、それが目の前を走る姿は見たことがない。大人たちが夢中になったSLブームも、終わってから知った話です。 考えてみれば、私たちの世代は不思議な世代です。本物の蒸気機関車が走る姿を知らないのに、あのシルエットだけは、なぜか目に焼きついている。1978年(昭和53年)にテレビ放送が始まった『銀河鉄道999』のおかげでしょう。小学3年生だった私は、毎週欠かさず観ていました。『宇宙戦艦ヤマト』にも夢中でしたから、私の宇宙は、戦艦と機関車でできていたことになります。それにしても、宇宙を旅する列車が、最新型の宇宙船ではなく、あえて蒸気機関車の姿をしていたというのは、今思えば示唆的です。乗ったこともないSLの汽笛に、郷愁のようなものを感じていた——あれは、SLブームを駆け抜けた大人たちの想いが、アニメというかたちで子どもの世代に手渡された瞬間だったのかもしれません。 同じ1976年、葛飾では『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の連載が始まっています。宅急便が生まれたのもこの年です。私の身の回りの昭和51年は、新しいものが次々と生まれる年でした。その同じ年に、遠い静岡で「古いものを守り抜く」決断がされていたことを、跨線橋の上の少年は知る由もありませんでした。 半世紀、走り続けている 驚くべきことに、あのC11形227号機は、今も大井川鐵道の現役機関車です。 大井川鉄道が始めた動態保存は、その後、全国に広がりました。今、各地で週末や夏休みに走っているSLの観光列車は、すべてこの1976年7月9日が原点だと言っていい。そして大井川鐵道自身は、きかんしゃトーマス号の運行でお子さんたちにも愛される鉄道になり、2025年に創立100周年を迎えました。 面白いのは、この鉄道が守っているのはSLだけではないことです。ふだんの普通列車として走っているのも、南海電鉄や東急電鉄などから譲り受けた古い電車たち。よその鉄道で役目を終えた車両が、大井川のほとりで第二、第三の人生を送っているのです。駅舎も昭和のまま残されていて、戦前戦中を舞台にしたドラマや映画のロケ地にもなっているそうです。鉄道会社まるごとが、動く昭和なのですね。 55歳の夏、デゴイチの前に立った じつは私が初めて本物のデゴイチの前に立ったのは、つい一昨年、55歳の夏のことです。 2024年8月、次男の中学野球の全国大会で福井県を訪れました。宿泊したのは今庄の宿。その敷地に、黒く堂々とした蒸気機関車が展示されていたのです。D51形481号機。1940年(昭和15年)製造、主に中国地方で活躍した機関車だそうです。今庄はかつて北陸本線最大の難所「杉津越え」を控えた鉄道の町で、急勾配に挑む列車を後押しする補機のSLたちが活躍した土地。その歴史を伝えるために、このデゴイチが誘致され、保存されているのだと知りました。 図鑑の中でしか知らなかったデゴイチが、目の前にいる。動輪は私の背丈に届きそうなほど大きく、真正面から見上げると、黒い鉄のかたまりがこちらを見下ろしてくるようでした。息子の野球のために来た町で、まさか半世紀越しの対面を果たすとは。野球と鉄道——私の人生の二本柱が、思いがけない場所で交差した夏でした。 私は今、路線バスの運転士として働いています。だからでしょうか、機械を「動く状態で保ち続ける」ことの重みが、少しだけわかる気がするのです。80年以上前に造られた機関車を今日も走らせるためには、部品ひとつひとつを手の感触で調整し、経験と勘を次の世代に口伝えで引き継いでいくしかない。今庄のデゴイチのように静かに余生を送る機関車も尊いけれど、展示するより、走らせ続けるほうが、何倍も難しいのです。 半世紀前、小さな私が跨線橋から電車を見上げていたあの日も、静岡の茶畑の中を蒸気機関車が走っていた。そのことを57歳になって初めて知り、いつか金谷駅から「かわね路号」に乗ってみたいという、新しい夢がひとつ増えました。知らなかったことを知るのは、いくつになっても嬉しいものですね。 みなさんは、蒸気機関車に乗ったことがありますか。あの汽笛を、聞いたことがありますか。 黒く輝く動輪、白い蒸気、力強い汽笛——。デゴイチをはじめ、日本を走った蒸気機関車たちの雄姿を、豊富な写真で味わえる一冊です。あの頃SLブームを追いかけた方にも、『銀河鉄道999』で汽笛に憧れた世代にも、そしてお孫さんへの一冊にも。ページをめくれば、乗ったことのない汽車の郷愁が、また胸に立ちのぼります。 蒸気機関車大図鑑 SLのすべてがわかる金盛正樹ほか。デゴイチから大井川のかわね路号まで、写真で楽しむSLの世界 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月8日】たばこの箱に、小さな一文が生まれた日 | 次の記事:【7月10日】怪獣ブームより先に、あの男は生まれていた ▶

July 9, 2026

6月23日 ── 北へ向かう夢の超特急は、なぜか「大宮始発」だった

六月二三日。梅雨の晴れ間に、少しだけ夏の匂いが混じりはじめる頃です。 カレンダーをめくると、この日にはいろいろな記念日が並んでいます。けれど私がきょう書きたいのは、四十年以上前のある朝、北へ向かって走り出した一本の列車の話です。 昭和五十七年(一九八二年)六月二三日。東北新幹線が、大宮〜盛岡間で開業しました。 そのとき私は中学一年生。高砂の電車に囲まれて育った私にとって、新幹線というのは、いつもの京成電車とはまったく別の、ちょっと手の届かない「夢の乗り物」でした。 毎日のように京成電車を眺め、すぐ近くの高砂検車区には、ずらりと電車が並んでいる。電車という乗り物なら、誰よりも身近に感じていたはずの私です。それでも、図鑑やテレビのニュースの中を走る新幹線だけは、なぜか同じ「電車」だとは思えませんでした。同じレールの上を走るのに、住んでいる世界が違う。そんなふうに感じていたのです。実をいうとこの頃の私は、まだ一度も新幹線に乗ったことがありませんでした。 夢の超特急は、なぜか「大宮始発」だった 東北新幹線の計画そのものは、ずいぶん前から進んでいました。東京〜盛岡を結ぶこの路線は、昭和四十六年(一九七一年)に着工され、十年以上の歳月をかけて、ようやく完成にこぎつけます。 ところが、いざ開業というとき、ひとつの大きな「ねじれ」がありました。 始発駅が、東京でも上野でもなく、埼玉の大宮だったのです。 東海道新幹線が当たり前のように東京駅から走り出したのに比べると、これはずいぶん変則的な船出でした。理由は、上野〜大宮の沿線にあります。この区間はすでに住宅が密集していて、新幹線の騒音をめぐる反対運動が起きていました。そのため都心への乗り入れはいったん見送られ、「とりあえず大宮から」というかたちで走り始めることになったのです。 東京〜盛岡が、それまでの在来線特急で六時間二三分。それが新幹線の開業で、三時間五八分にまで縮まりました。四割近い時間短縮です。けれど、その恩恵にあずかるには、まず大宮まで行かなければならない。そこに、もうひとりの主役が登場します。 「新幹線リレー号」という名脇役 大宮始発という事情を埋めるために用意されたのが、上野〜大宮を結ぶ専用列車、その名も「新幹線リレー号」でした。 新しく造られたばかりの185系という車両が、上野と大宮のあいだをノンストップ、わずか二十五分ほどで走りました。新幹線の特急券を持っている人だけが乗れる、文字どおりの「連絡列車」です。乗り換えで迷わないように、ホームには「リレーガール」と呼ばれる案内係の女性たちが立っていたといいます。 開業の日、大宮駅のホームでは朝七時一五分に「やまびこ一一号」の出発式が行われ、一日じゅう鉄道ファンでにぎわったそうです。白地に緑のラインをまとった200系が、最高時速210キロで北へ走り出しました。 もっとも、走り出した当初の本数は、ずいぶん控えめなものでした。速達タイプの「やまびこ」が一日に四往復、各駅停車の「あおば」が六往復ほど。これだけ大きな路線にしては、まるでローカル線のようなダイヤです。それでも、夏の帰省シーズンには大宮駅が人であふれかえったといいますから、みんながどれほどこの一本を待ちわびていたかが伝わってきます。 この「リレー号」は、三年後の昭和六十年(一九八五年)に新幹線が上野まで延びると、その役目を終えて姿を消しました。たった三年足らずの命でしたが、開業したばかりの夢の超特急を都心とつないでいたのは、この名脇役だったのです。 そして、この「上野まで延びた」という出来事が、私の家のすぐそばにも、小さな波紋を広げることになります。 私が初めて乗った新幹線は、修学旅行だった 私が通っていた中学校では、三年生の修学旅行で東海道新幹線に乗り、京都・奈良へ行くのが決まりでした。 私にとって、生まれて初めての新幹線は、このときの東海道新幹線です。当時は「生まれて初めて乗る新幹線は修学旅行のとき」という子も少なくありませんでした。家族旅行で気軽に乗るようなものではなく、新幹線は子どもにとって、人生の特別な日にだけ顔を出す乗り物だったのです。 みんなでホームに並んで、あの長い銀色の車体がすうっと滑り込んできたときの高揚。窓の外をものすごい速さで景色が流れていく、あの初めての感覚。修学旅行そのものの思い出と、初めての新幹線の興奮とが、私の中ではひとつに溶け合っています。 だからでしょうか。「初めての新幹線が修学旅行だった」という人は、新幹線そのものの記憶と、あの旅の記憶とを、生涯ひとそろいで持っているように思うのです。どの新幹線で、どこへ向かったか。それは、その人がどんな時代に子どもだったかを、そっと映す鏡でもあります。 妹の代から、行き先が「東北」になった ところが、です。 昭和六十年に東北新幹線が上野まで延びたことで、思いがけないことが起きました。一つ年下の妹の修学旅行先が、なんと東北になったのです。 どこを回ったのか、詳しいことは私も聞きそびれてしまいました。ただ、妹がお土産に「赤べこ」──赤い牛の形をした張り子の人形──を買って帰ってきたのを、はっきり覚えています。赤べこといえば、福島・会津の郷土玩具。きっと会津地方を訪れたのでしょうね。 もともと上野駅は、東北や北国へ向かう人々の「玄関口」でした。集団就職の若者たちも、帰省の家族連れも、北を目指す列車はみな上野から出ていった。その上野に新幹線が乗り入れたことで、下町の中学生にとっても、東北がぐっと手の届く行き先になったのです。その証拠のように、私の中学校では、その後しばらく「京都・奈良」と「東北」の修学旅行を、一年交代で実施するようになりました。 いつまで続いたのかは分かりません。けれど、私の世代までは「初めての新幹線=東海道新幹線」だったのが、妹の代からは「初めての新幹線=東北新幹線」という子どもたちが、どんどん増えていったわけです。 一本の新幹線が都心に少し近づいた。ただそれだけのことで、子どもたちが人生で最初に降り立つ「遠い町」が、京都から会津へと変わっていく。あらためて考えると、これはなかなか、すごいことだと思うのです。 修学旅行の行き先というのは、その時代に「子どもに見せておきたい日本」がどこだったか、という選択でもあります。長いあいだ、それは京都や奈良の古い都でした。そこに東北という新しい選択肢が加わったのは、新幹線が北を一気に近づけてくれたから。線路が一本延びるたびに、子どもたちが見る日本の地図も、少しずつ書き換えられていったのだと思います。 バスのハンドルを握る私が思うこと 私は今、路線バスの運転士をしています。 毎日、決まった道を走りながら、人を乗せて、目的地と目的地をつないでいます。華やかさはありません。けれど、誰かの「行きたい場所」と「今いる場所」のあいだを、確実につなぐ仕事です。 だからでしょうか。あの「新幹線リレー号」の話を知ると、妙に胸が熱くなるのです。 主役の超特急ではなく、その手前で、都心と大宮をつないでいた185系。脚光を浴びるのは新幹線のほうでも、リレー号がなければ、あの三年間、人は北へ向かえませんでした。つなぐ、という仕事に、上も下もありません。そんなことを、ハンドルを握りながら、時々思います。 それでも、北はぐっと近くなった 妹たちを東北へ運んだ上野延伸から六年後、平成三年(一九九一年)には、東北新幹線はついに東京駅まで乗り入れます。 ...

June 23, 2026

6月21日 ── 京成・都営・京急がつながった日、私はまだ生まれていなかった

六月も後半に入ると、空がぐずついて、空気がねっとりと重たくなってきます。一年でいちばん昼が長い、夏至のころ。傘を片手に駅へ向かう人の足取りも、どこか急いて見える季節です。 私が育ったのは、葛飾区の高砂という町です。最寄りは京成高砂駅。ここは、ただの駅ではありません。京成本線と押上線、それに金町線が分かれていく結節点で、すぐそばには電車をしまっておく大きな車庫——高砂検車区があります。線路が何本も並び、色とりどりの電車が、出たり入ったりする。子どもにとっては、これ以上ない景色でした。 そう、私の町は「電車の街」でした。 踏切の音で、時間を計っていた 六歳ごろまで、私は高砂駅のすぐそば、線路沿いの家で暮らしていました。だから、電車の走る音だけでなく、駅に流れるアナウンスや、笛の音まで聞こえてきました。電車は、それくらい身近な存在だったのです。一歩家を出れば、すぐ目の前を電車が走っている——そんな環境でした。 特に私が好んで電車を見ていたのは、駅の踏切のそばはもちろんですが、家のそばにあった、線路をまたぐ歩道橋からでした。そこからの開けた眺めと、絶え間なく行き交う電車を見ていると、飽きることはありませんでした。 いま思えば、保育園児が、柵があったとはいえ、たった一人で線路沿いをふらふらと出歩いている。なんとものんびりとした、呑気な時代だったのですね。 あの歩道橋の上で、私が飽きもせず見上げていた電車たちが、どこから来て、どこへ向かっていたのか。当時の私は、もちろん何ひとつ知りませんでした。 昭和四十三年六月二十一日 ── 三つの会社が、一本につながった日 さて、今日は六月二十一日です。 昭和四十三年——西暦でいえば一九六八年のこの日、東京の地下で、ひとつの「輪」が完成しました。 都営地下鉄一号線、いまの都営浅草線の、大門と泉岳寺のあいだが、新しく開業しました。同じ日に、京浜急行の品川と泉岳寺のあいだも開業して、京急と都営地下鉄が線路でつながり、相互直通運転——おたがいの電車が、相手の線路へ乗り入れる運転が始まったのです。 これが、どれほど大きなことだったか。 押上から先は、京成電鉄が千葉方面へと延びています。そして泉岳寺から先は、開業したばかりの京急が、神奈川の三浦半島の方へと延びていく。つまりこの日、千葉から東京の都心を貫いて神奈川まで、三つの会社の線路が一本につながりました。乗り換えなしで、県をまたいで走れる長距離の直通運転が、現実のものになった瞬間でした。 じつは、京成電鉄と都営一号線の直通そのものは、もっと前から、少しずつ始まっていました。昭和三十五年の十二月、押上と浅草橋のあいだが開業したときに、京成の電車はもう、都営の地下へ乗り入れはじめていたのです。そこから線路は一駅、また一駅と南へ延び、昭和三十九年の十月に、大門まで届きました。 この工事には、いかにも昭和らしい逸話があります。地下鉄の建設が始まったのは昭和三十三年。ところが昭和三十九年の東京オリンピックに向けた工事を優先するため、途中でいったん中断されたのです。世界に向けて東京の姿を整えることが、何より先だった時代でした。オリンピックが終わってから工事は再び動き出し、最後に残った泉岳寺までの区間と、京急との接続にたどり着きます。品川と泉岳寺をつなぐ、わずか一・二キロ。それが五年がかりの難工事だったというのですから、ひとつなぎのために、どれほどの汗が流されたか知れません。ちょうどこの年は、京急が創立七十周年を迎える、節目の年でもありました。 ちなみに、三つの会社の電車が、おたがいの線路を走り通せるのは、レールの幅——軌間がそろっているからです。京成も、都営浅草線も、京急も、新幹線と同じ広い軌間で造られている。だからこそ、会社の枠を越えて、一本の電車が走っていけるのです。 電車の乗り入れそのものは、開業の六日前、六月十五日から始まっていたそうです。この六日間は試運転の期間で、大門と品川のあいだを、お客を乗せない電車が、静かに行き来していました。そして六月二十一日、いよいよ本番を迎えます。なお、都営の地下鉄が西馬込まで全線そろうのは、この年の十一月のこと。ですから六月二十一日は、「全線開通の日」というよりも、「三つの会社の電車が、はじめて一本に手をつないだ日」と呼ぶのが、ふさわしいように思います。 おもしろいのは、この直通の道が、いまでこそ成田空港への大切なルートになっているのに、つながった昭和四十三年の時点では、その成田空港が、まだ影も形もなかった、ということです。空港が開港するのは、これより十年もあとの昭和五十三年。つまりこの線路は、行き先となる空港が生まれるよりも先に、ちゃんと用意されていたことになります。道が先にあって、人やものが、あとからその上を流れはじめる。鉄道というのは、そういう気の長い、先回りの仕事なのだと、あらためて思わされます。 私が生まれる前の年に、道はもうつながっていた ここで、ひとつ、正直に書いておかなければならないことがあります。 私は、この日のことを覚えていません。覚えているはずがありません。私が生まれたのは、その翌年——昭和四十四年の四月だからです。三つの会社の線路が一本につながったとき、私はまだ、この世にいませんでした。 不思議な気持ちになります。 あの歩道橋の上で、私が飽きもせず電車を見上げていたとき、その電車たちが走っていく道は、私が生まれる前の年に、もう出来上がっていたのです。子どもの私は、そんなことは、何ひとつ知りませんでした。電車はただ、空気や水のように、当たり前にそこにありました。当たり前すぎて、それが誰かの五年がかりの難工事の上に成り立っているなんて、想像もしませんでした。 私はいま、路線バスの運転士として、人を乗せて街を走っています。乗り物で人を運ぶというのは、地味ですが、誰かの一日を、誰かの人生を、たしかに前へ動かしている仕事です。バスのハンドルを握りながら、ときどき思います。子どものころ眺めていたあの電車たちも、こうして毎日、誰かの暮らしを運んでいるのだなと。 当たり前にそこにある道は、誰かが汗をかいて、つないでくれた道です。それに気づくのに、私はずいぶん長い時間がかかりました。 令和のいま、その道は二つの空港をつないでいる あの日つながった三社の直通は、いまもしっかりと生きています。それどころか、昭和の人が見たら驚くような姿になりました。 いまでは、この直通ルートは、羽田空港と成田空港という、二つの空の玄関口を結ぶ大動脈になっています。神奈川の三崎口から、京成線を経由して成田空港の方まで直通する電車の距離は、なんと百四十一・六キロにもなるそうです。東京から静岡のあたりまで、乗り換えなしで一本。昭和四十三年に泉岳寺で手をつないだ三つの会社の線路は、半世紀をかけて、ここまで遠くへ伸びていきました。 高砂の車庫をのぞくと、いまでも、赤い京急の電車が、京成の車庫に、当たり前のような顔をして停まっていることがあります。会社のちがう電車が、同じ屋根の下で肩を並べている。あの六月二十一日につながった輪が、半世紀以上たったいまも、こうして目の前で静かに回り続けているのだと思うと、なんだか胸が温かくなります。 思えば、あの歩道橋の上の私は、来る日も来る日も、その「輪」が回っているところを眺めていたのです。京成の電車にまじって、よその会社の電車が走っていく。子どもの私には、それがどれほど大きな出来事の続きなのか、わかるはずもありませんでした。ただ、いろんな色の電車が来るのが、うれしかった。本当に、それだけでした。でも、その「うれしい」を毎日くれていたのは、たしかに、あの日つながった三つの会社の線路だったのです。 高砂の駅には、いまも私の子どもたちが乗り降りしています。私が見上げていたのと同じ車庫の電車を、子らもまた、当たり前の景色として見ているのでしょう。その電車が走る道が、いつ、どんなふうにつながったのか——たぶん、知らないままに。 あの日、踏切で見上げたスカイライナーは、いまでは手のひらの上でも走らせられます。子や孫と、畳の上に線路をつないで、あの銀色の車体を走らせる。私が歩道橋から眺めていた景色を、こんどは小さな手といっしょに、もう一度たどってみるのも、いいものです。 プラレール S-54 京成スカイライナー AE形タカラトミー/あの踏切で見た銀色の車体。子・孫と畳の上で走らせる一台 Amazonで見る › それで、いいのだと思います。当たり前にそこにあることこそが、つないでくれた人たちへの、いちばんの恩返しなのかもしれませんから。 あなたの町には、「当たり前にそこにあるけれど、じつは誰かが汗をかいてつないでくれた道」はありますか。電車でも、橋でも、坂の上の階段でも。今日はひとつ、思い出してみませんか。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一篇です。昭和四十年から六十四年までの「今日」を、高砂で育った一人の子どもの目線で、少しずつ書き残しています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月20日 ── テレビの「向こう側」だったNHKホールに、息子と立った日 | 次の記事:6月22日 ── 両さんの亀有は、私の育った葛飾のすぐ隣だった ▶

June 21, 2026

6月8日 ── 新木場から川越へ、一本の線がつないでいた

梅雨入りの近い六月の朝。地上は今にも降り出しそうな鈍色(にびいろ)の空でも、地下鉄のホームへ降りてしまえば、雨も風も関係のない別世界がひろがっています。少しだけ埃(ほこり)っぽくて、生暖かい風がトンネルの奥からふわりと吹いてくる、あの感じ。きょう六月八日は、その地下鉄にまつわる、私のちょっと不思議な思い出の話をさせてください。 私にとっての「地下鉄」は、都営浅草線だった 私は京成高砂のあたりで育ちました。だから私にとって「地下鉄」というと、まっさきに思い浮かぶのは、都営地下鉄浅草線です。 高砂の駅から電車に乗って出かけるとき、行き先にはおおきく二つの方向がありました。ひとつは、京成上野のほう。もうひとつは、押上を抜けて都営浅草線へと入っていく、浅草のほうです。同じ高砂発の電車でも、上野へ向かうときと、浅草方面へ向かうときとでは、子どもながらに、何か明らかに違うものを感じていました。 上野方面が、どこか馴染みのある、地つづきの世界だとすれば、浅草方面は——その先で、ほかのいくつもの地下鉄の線と複雑に絡み合っている、「難しい」世界でした。日本橋だ、新橋だと、聞いたこともない乗り換えの駅がいくつも連なっていて、子どもの私には、その入り組んだ様子が、どうにも手に負えないものに見えたのです。 それでも、退屈はしませんでした。車両のなかに貼られた、いくつもの地下鉄の線が色とりどりに描かれた路線図。あれを眺めているだけで、目的の駅に着くまでの時間は、あっという間に過ぎていったのです。見たこともない駅の名前をひとつひとつ目で追いながら、「ここには、いったいどんな町があるのだろう」と、私は飽きもせず想像をふくらませていました。 いま思えば、そんな路線図の中に、あの黄色い線も、きっとあったはずです。行ったこともなければ、乗ったこともない。ただ眺めて、その先の町を空想するだけの、一本の線として。 昭和六十三年六月八日、黄色い線が全部つながった その黄色い線が、ついに端から端までひとつながりになったのが、昭和六十三年(一九八八年)の六月八日でした。 この日、営団地下鉄有楽町線の新富町〜新木場間が開業し、和光市から新木場までの全線、二十八・三キロが開通したのです。昭和四十九年(一九七四年)に池袋〜銀座一丁目の区間が開業してから、実に十四年越しの全線開通でした。ラインカラーは、あの黄色。湾岸の埋め立て地・新木場までが、一本の線でようやく都心と結ばれた瞬間でした。 そういえば、この「有楽町線」という名前そのものが、公募で決まったものだと知ったのは、ずっとあとのことでした。開業の前の年、営団地下鉄が路線名を広く一般から募ったところ、二千五百を超える案、三万通あまりもの応募が寄せられたのだそうです。そのなかでいちばん多かったのが「有楽町線」だった。子どものころ、あの黄色い線をただ眺めていた私には、線の名前ひとつにも、どこかの誰かの「こう呼びたい」という思いがこもっていたなんて、思いもよらないことでした。 終点の「新木場」という地名も、考えてみれば面白いものです。もともと江東区には材木商が集まる「木場」という街がありました。その木材の街が、手狭になった都心から湾岸の埋め立て地へと移ってできたのが「新しい木場」、すなわち新木場なのです。当時はまだ、貯木場の水面と倉庫が広がる、発展のこれからという土地でした。そこへ地下鉄が一本通った。海の近くの埋め立て地にまで、都心の地下鉄が手を伸ばしてきたのです。 このとき、私は十九歳。昭和という時代も、いよいよ最後の年に差しかかっていました。正直に言えば、私はこのニュースを、たいして気に留めていませんでした。都営浅草線には親しんでいた私にとっても、有楽町線は、子どものころ車内の路線図でただ眺めていた、あの「行ったこともない一本」のままだったのです。 そしてこの黄色い線には、もうひとつ、私がのちのち驚かされることになる仕掛けがありました。西の端の和光市では、東武東上線と線路がつながっていて、電車はそのまま相手の線へと乗り入れていく。新木場を出た電車が、乗り換えなしで、はるか埼玉の森林公園のほうまで走っていくのです。この「乗り換えなし」という何でもない事実が、それから十数年後、思いがけず私の胸を打つことになります。 新木場で気づいた、母へ続く一本の線 時は流れ、私は三十代になっていました。縁あって佐川急便に勤め、配属されたのが、よりによって、あの新木場の営業所だったのです。 そう、昭和六十三年にようやく全線がつながった、あの有楽町線の終着駅です。十九歳の私が聞き流していた街に、まさか自分が毎日通うことになるとは、思ってもみませんでした。荷物に追われる日々のなかで、新木場という地名が、かつてニュースで聞いた「全線開通」の終点だったことなど、すっかり忘れていました。 朝早くから、トラックが何台も出入りし、伝票の束と荷物の山に追われる毎日でした。湾岸の埋め立て地は海の風が強く、冬はことさら冷えました。それでも昼休みにふと外へ出ると、すぐそこまで水辺が迫っていて、ここはやっぱり海を埋め立ててできた街なのだな、と妙に納得したものです。子どものころ路線図の上で眺めていた「新木場」という三文字の終点に、まさか自分が毎朝、汗をかきながら立っているとは——人生というのは、つくづく分からないものです。 ある日のこと。新木場駅に掲示されていた路線図を、何の気なしに眺めていて、私はふと手が止まりました。 「この線……一本で、川越まで行けるのか」 当時、母は川越に住んでいました。新木場から有楽町線に乗れば、和光市で東武東上線へとそのまま乗り入れ、川越まで、乗り換えなしでたどり着いてしまう。あの、子どものころ車内の路線図で眺めては「どんな町だろう」と空想していた黄色い線の、ずっと先に、母の暮らす街がつながっていた。気づいた瞬間、胸の奥が、ふっと温かくなったのを覚えています。 実際に私は、数えるほどではありますが、仕事を終えたその足で、職場から川越の母のもとへ向かったことがあります。東京湾の埋め立て地にある終着駅と、小江戸と呼ばれる川越の母の家。一見すると何の関わりもない二つの場所が、一本の黄色い線でまっすぐに結ばれている。揺られていく車内で、私は妙な感慨にとらわれていました。 窓の外を流れていく景色が、地下のトンネルから、やがて地上の住宅街へと変わっていく。海辺の終着駅を出た電車が、いつのまにか埼玉の街並みを走っている。その車窓の移り変わりそのものが、新木場と川越という遠く離れた二つの場所が、確かにひと続きの土地なのだと、目で教えてくれているようでした。 十九歳のとき、私が気にも留めなかったあの全線開通。それが巡り巡って、三十代になった私と、母とを結ぶ一本の道になっていた。子どものころ車内の路線図を眺めて「どんな町だろう」と空想していた黄色い線は、ずっと先のずっと先で、ちゃんと私自身の暮らしへとつながっていたのです。眺めるだけだったあの線に、いつのまにか私は、毎日乗っていた。 令和の電車は、もっと遠くまでつながっている あれから、東京の鉄道は、ますます複雑に、そして遠くまでつながりました。 いくつもの路線が互いに乗り入れ、横浜のずっと向こうから都心を抜け、さらに別の県へと、一本の電車が県境をいくつも越えて走っていく。今では、それが当たり前の風景です。手元のスマートフォンに行き先を打ち込めば、最短の経路が一瞬で表示される。乗り換えの回数も、何分後に着くかも、すべて画面が教えてくれます。私の子どもたちは、私のように路線図とにらめっこして、見知らぬ駅名に空想をふくらませることも、もうないのかもしれません。 便利になったぶん、あの新木場での小さな驚き——「この線、母までつながっていたのか」というあの感覚は、いまではかえって味わいにくくなった気もします。経路を教えてくれる矢印は、たしかに便利です。けれど、地図の上の一本の線が、いつのまにか自分の大切な人へとまっすぐ続いていたと気づく、あの胸の奥がふっと温かくなる驚きまでは、運んできてはくれないのですから。 地図の上のただの一本の線が、めぐりめぐって、自分の大切な人へとつながっている。そんなことに気づく瞬間が、人生にはときどき、ふいに訪れるのですね。 あなたの暮らしの地図にも、知らないうちに、誰かと自分とを結んでいた「一本の線」は、ありませんか? 「昭和の今日は何があった日?」は昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で掘り起こすエッセイシリーズです。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月7日 ── 鉄人・衣笠祥雄、一度も休まなかった男のこと | 次の記事:6月9日 ── ロックの日に、木曜九時のザ・ベストテンを思い出す ▶

June 8, 2026

昭和の今日は何があった日? ―― 5月21日、スカイライナーが走り出した朝

昭和53年(1978年)の5月、私は小学5年生だった。 その日のテレビには、見たことのない風景が広がっていた。巨大な旅客機が滑走路に降りてくる映像。空港の制服を着た人たちが忙しそうに動き回っている映像。「新東京国際空港、初便到着」とアナウンサーが興奮を抑えながら伝えていた。 しかし正直なところ、成田空港の開港というニュースは、10歳の私にはまだ遠い存在だった。千葉の成田というのは、なんとなく「遠くの場所」で、自分の日常と結びつくような感覚がまるでなかった。 ところが同じ5月21日に、もうひとつの出来事があった。こちらは、私の目の前で起きていたことだった。 踏切の向こうに現れたもの 私は葛飾区に住んでいる。最寄り駅は京成高砂駅だ。 昭和53年5月21日、京成電鉄の空港線が開業し、京成上野駅から成田空港駅(現・東成田駅)まで、特急「スカイライナー」の運行が始まった。 マルーンとクリームの2色塗り。この塗装で昭和53年から走り始めた。 その日、父と一緒に高砂駅の近くの踏切へ見に行った記憶が、今も残っている。あの踏切は「開かずの踏切」と呼ばれるほど電車の通りが多い場所だ。遮断機が下りたまま、なかなか上がらない。その踏切の向こうを、スカイライナーが通り過ぎていった。 マルーンとクリームに塗り分けられた車体。すっと伸びた流線型のボディ。普通の京成電車とは明らかに違う、特別な風格があった。 子どもながらに、「かっこいい」と思った。そして、誇らしかった。 私にとっての「新幹線」 東海道新幹線が開通したのは昭和39年(1964年)のことで、私が生まれる前の話だ。だから「新幹線の開通」という興奮を、私はリアルタイムでは体験していない。 スカイライナーの開通は、私にとってそれに近い感覚だったと思う。 自分の暮らす町の、見慣れた踏切を、特別な列車が通り過ぎていく。それが今日から毎日走るようになった。その事実が、子ども心にずっしりと響いた。遠くの出来事だった「成田空港の開港」とは違って、スカイライナーは目の前にいた。 「スカイライナー」という名前も好きだった。あとで知ったことだが、この名前は日本全国の小学生からの公募で決まったという。子どもたちが名付け親というわけで、余計に親しみを感じた。 騒ぎの中でようやく開いた扉 とはいえ、当時の私には成田空港の開港をめぐる複雑な事情など、何も見えていなかった。 成田空港は本来、昭和48年(1973年)3月に開港する予定だったが、大幅に遅れた。農地を守ろうとする地元農民の反対運動に新左翼の活動家が加わり、機動隊との激しい衝突が続いた。開港直前の昭和53年3月には、反対派が管制塔に突入して機器を破壊し、開港がさらに2か月延期されるという事態まで起きた。 機動隊が重装備で警戒する中での開港式典。出席者はわずか56名だったという。 5月21日、開港後の初便である日本航空のロサンゼルス発の貨物機が到着第1便として着陸し、正午過ぎに旅客機初便のフランクフルト発の日本航空機も続いた。同じ日にスカイライナーも走り始めた。 その日のニュース映像の裏に、そんな長い長い歴史があったとは、踏切の前で目を輝かせていた10歳の私には知る由もなかった。 今も変わらない光景 2010年登場。在来線最速の時速160kmで走り、日暮里―成田空港間を最速36分で結ぶ。 現在、スカイライナーはボディカラーを濃い青と白に変え、シャープな車体でさらに速く成田空港と都心を結んでいる。 高砂駅の近くで、スカイライナーを親子で見に来ている光景を目にすることがある。子どもが目を輝かせ、親が「あれがスカイライナーだよ」と教えている。 そのたびに、あの日の父と私のことを思い出す。 遮断機が下りて、しばらく待って、轟音とともに通り過ぎていったあの列車。成田空港はまだ遠い存在だったけれど、スカイライナーだけは、確かに私の目の前で走っていた。 それが昭和53年5月21日のことだった。 昭和40〜64年の「今日」を、子どもだったあの頃の目線で振り返るシリーズです。あなたにも、昭和の5月21日にまつわる記憶がありますか? ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:成田が開いた日、ジェシーが泣いた日――5月20日の昭和 | 次の記事:パクパクと、東京のゴミと――昭和の5月22日 ▶

May 20, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月18日──新幹線が、日本中を走る「約束」をした日

今日は5月18日。 昭和45年(1970年)のこの日、ひとつの法律が静かに公布された。 全国新幹線鉄道整備法。 長い名前だが、内容はシンプルだ。「新幹線を、日本中に走らせよう」という国の約束だ。 この法律のことを調べていたら、自分の記憶がどんどんよみがえってきた。新幹線にまつわる記憶。テレビ越しに見ていた「あの乗り物」への憧れ。そして中学3年の春、東京駅のホームで初めて0系の鼻先を目の前にしたときの、あの感覚。 今日はその話を書いてみたい。 新幹線は、テレビの中にいた 私が育ったのは東京23区の東のはずれだ。下町の気配が残る、庶民的な町だった。 子どもの頃、新幹線はいつも「テレビの中」にあった。 ゴールデンウィーク前になると、ニュースが決まってこの映像を流した。東海道新幹線の車内。通路まであふれかえる乗客。車窓の外を流れる富士山。アナウンサーが「今年のUターンラッシュは——」と話す。 画面を見ながら、子どもの私はぼんやりと思っていた。 あれに乗っている人たちは、どこへ行くんだろう。 京都か。大阪か。あるいはもっと遠い、知らない場所か。 でも、それは完全に「他人事」だった。我が家とは無関係な世界の映像として、ただ眺めていた。 理由は単純で、我が家には旅行の習慣がなかったからだ。 父は、連休が年に一度だけだった 父の仕事は週に1回、平日に休みがあった。日曜日は働いていた。 ゴールデンウィークも、お盆も、関係なかった。世の中がいくら盛り上がっていても、父は仕事に出かけた。まとまった連休といえば、1年にたった一度、お正月の1日と2日——その2日間だけだった。 今の感覚で言えば「それは大変だったね」となるかもしれない。でも当時、私のまわりではそれはめずらしいことではなかった。近所の友達の父親も、似たようなものだった。昭和40年代、50年代の「お父さん」はそういうものだった。家族よりも仕事を優先するのが当たり前で、誰もそれを疑わなかった。 だから、家族でお泊まり旅行に出かけた記憶が、私にはない。 修学旅行や林間学校はあった。でも「家族みんなで旅行」という体験は、子ども時代についぞなかった。 今の常識からすると「えっ、そうなの?」と驚かれるかもしれない。でも私のまわりでは、それはごくふつうのことだった。それくらい、昭和40年代・50年代・60年代のお父さんたちは、よく働いていたのだ。 だから新幹線の映像をテレビで見ながら「来年の夏、乗れるかな」などとは考えなかった。そんな発想自体が、最初からなかった。 昭和45年5月18日、「約束」が生まれた 少し話を遡る。 昭和39年(1964年)、東海道新幹線が開業した。東京オリンピックの9日前のことだ。東京と新大阪を、それまでの特急列車なら6時間以上かかっていたところを、「ひかり」は3時間10分で結んだ。 当初は「あんな高いものを作っても赤字になるだけだ」という声もあった。ところが蓋を開けると、新幹線は大人気だった。通勤でも出張でも観光でも、人々は喜んで乗った。「夢の超特急」と呼ばれた0系の白い車体は、あっという間に時代のシンボルになった。 その成功を見て、政治家や官僚は考えた。「これを全国に広げれば、日本中が豊かになる」と。 そして昭和45年5月18日、全国新幹線鉄道整備法が公布された。 内容はこうだ。時速200キロメートル以上で走れる幹線鉄道を「新幹線」と定義し、全国的な鉄道網として整備していく——という法律だ。要するに「東京と大阪だけじゃなく、日本中に新幹線を走らせる計画を国が主導する」という宣言だった。 この日から3年後の昭和48年、東北新幹線や北陸新幹線などの整備計画が決定される。そしてさらに時間をかけて、新幹線は少しずつ北へ、西へと延びていった。 とはいえ、昭和45年に法律ができたからといって、すぐに全国を新幹線が走り回るわけではない。東北新幹線が東京まで延びてくるのは、昭和60年(1985年)のことだ。 私が子どもだった昭和40年代、50年代——仙台や盛岡に新幹線で行けるようになる未来は、まだ「夢の話」だった。 中学3年、修学旅行の朝 昭和57年(1982年)の春のことだ。 中学3年生の修学旅行。行き先は京都・奈良。 その朝、私はいつもより早起きして、母に用意してもらった弁当を持って中学校へ向かった。校庭に集合して、先生から注意事項を聞いて、クラスごとに並んで出発した。電車を乗り継いで東京駅へ。先生に引率されてホームへ向かった。 そして——目の前に、0系があった。 あの丸っこい白い鼻先。白とブルーの塗り分け。ずらりと並んだ窓。テレビの中でしか見たことがなかったものが、手を伸ばせば届きそうな距離に、本物として存在していた。 正直に言うと、少し呆然とした。 「あ、本当にあるんだ」と思った。変な感想だが、そういう気持ちだった。ずっとテレビ越しに見ていたものが、突然、目の前の現実になった感覚。 車内に乗り込んで、席に着いた。 隣に座った友達と、顔を見合わせた。 お互いにニヤニヤしていた。声に出さなくても、わかった。「こいつも、初めてなんだな」と。 うちだけじゃなかった。同じ町の同じ中学に通っている友達も、同じように「初めて」だったのだ。それが少し、嬉しかった。 動き出したときの、あの感覚 列車が動き出した。 最初はゆっくりだった。東京駅のホームが、少しずつ後ろに流れていく。窓の外の景色が、じわじわと速くなっていく。 そしてある瞬間から、流れる景色が全然違うものになった。 ビルが、電線が、人が、全部流れていって何がなんだかわからなくなる。ただ白と緑のぼんやりした帯になって、後ろへ後ろへ飛んでいく。 スピードというものをあれほど体で感じたのは、後にも先にもあの瞬間だけだと思う。「速い」という言葉が意味を失って、ただ体ごと時間が圧縮されていくような、変な感覚だった。 富士山が見えた。 「富士山だ」と誰かが言い、みんなが窓に顔を寄せた。日本一高い山が、ただただそこにあった。東京から生まれて初めて離れた中学生にとって、富士山の存在感は圧倒的だった。 新幹線は「高嶺の花」だった 修学旅行から帰って、しばらくは新幹線の話ばかりしていた気がする。 でも、それで終わりだった。 その後、自分の意思で新幹線に乗る機会は、なかなかやってこなかった。就職して、出張で乗るようになるまで、新幹線は「特別なとき」だけの乗り物だった。 新幹線は「高嶺の花」だった。 手が届かないわけじゃない。でも、気軽に乗るものじゃない。ゴールデンウィークにテレビで見ていた満員の映像は、「あそこに乗っている人たちとは、自分は違う世界にいる」という感覚と一緒にあった。 今になって思えば、それは思い込みだったかもしれない。でも当時の感覚は確かにそうだった。 「夢の超特急」という言葉は、言い得て妙だと思う。夢——すなわち、「いつかは」という距離感。私にとって長い間、新幹線はそういう存在だった。 長男に乗せてやりたかった 大人になって、子どもが生まれた。 長男が5歳のとき、仕事の関係で九州へ行く用事ができた。会社は往復の飛行機チケットを用意してくれた。でも私は、帰りのチケットをキャンセルした。 博多から東京まで、新幹線で帰ることにしたのだ。 妻と長男を連れて、博多駅のホームに立った。 長男は生まれて初めて新幹線を目の前にして、目を丸くしていた。 「乗るの?これに乗るの?」と聞いた。 「乗る」と答えた。 席に着いて、列車が動き出した瞬間、長男は窓に顔をくっつけて景色を見ていた。その横顔を見ながら、私は何も言わなかった。ただ、昭和57年の春に感じたあの感覚が、じわっと戻ってきた気がした。 ...

May 17, 2026