今日は5月18日。
昭和45年(1970年)のこの日、ひとつの法律が静かに公布された。
全国新幹線鉄道整備法。
長い名前だが、内容はシンプルだ。「新幹線を、日本中に走らせよう」という国の約束だ。
この法律のことを調べていたら、自分の記憶がどんどんよみがえってきた。新幹線にまつわる記憶。テレビ越しに見ていた「あの乗り物」への憧れ。そして中学3年の春、東京駅のホームで初めて0系の鼻先を目の前にしたときの、あの感覚。
今日はその話を書いてみたい。
新幹線は、テレビの中にいた
私が育ったのは東京23区の東のはずれだ。下町の気配が残る、庶民的な町だった。
子どもの頃、新幹線はいつも「テレビの中」にあった。
ゴールデンウィーク前になると、ニュースが決まってこの映像を流した。東海道新幹線の車内。通路まであふれかえる乗客。車窓の外を流れる富士山。アナウンサーが「今年のUターンラッシュは——」と話す。
画面を見ながら、子どもの私はぼんやりと思っていた。
あれに乗っている人たちは、どこへ行くんだろう。
京都か。大阪か。あるいはもっと遠い、知らない場所か。
でも、それは完全に「他人事」だった。我が家とは無関係な世界の映像として、ただ眺めていた。
理由は単純で、我が家には旅行の習慣がなかったからだ。
父は、連休が年に一度だけだった
父の仕事は週に1回、平日に休みがあった。日曜日は働いていた。
ゴールデンウィークも、お盆も、関係なかった。世の中がいくら盛り上がっていても、父は仕事に出かけた。まとまった連休といえば、1年にたった一度、お正月の1日と2日——その2日間だけだった。
今の感覚で言えば「それは大変だったね」となるかもしれない。でも当時、私のまわりではそれはめずらしいことではなかった。近所の友達の父親も、似たようなものだった。昭和40年代、50年代の「お父さん」はそういうものだった。家族よりも仕事を優先するのが当たり前で、誰もそれを疑わなかった。
だから、家族でお泊まり旅行に出かけた記憶が、私にはない。
修学旅行や林間学校はあった。でも「家族みんなで旅行」という体験は、子ども時代についぞなかった。
今の常識からすると「えっ、そうなの?」と驚かれるかもしれない。でも私のまわりでは、それはごくふつうのことだった。それくらい、昭和40年代・50年代・60年代のお父さんたちは、よく働いていたのだ。
だから新幹線の映像をテレビで見ながら「来年の夏、乗れるかな」などとは考えなかった。そんな発想自体が、最初からなかった。
昭和45年5月18日、「約束」が生まれた
少し話を遡る。
昭和39年(1964年)、東海道新幹線が開業した。東京オリンピックの9日前のことだ。東京と新大阪を、それまでの特急列車なら6時間以上かかっていたところを、「ひかり」は3時間10分で結んだ。
当初は「あんな高いものを作っても赤字になるだけだ」という声もあった。ところが蓋を開けると、新幹線は大人気だった。通勤でも出張でも観光でも、人々は喜んで乗った。「夢の超特急」と呼ばれた0系の白い車体は、あっという間に時代のシンボルになった。
その成功を見て、政治家や官僚は考えた。「これを全国に広げれば、日本中が豊かになる」と。
そして昭和45年5月18日、全国新幹線鉄道整備法が公布された。
内容はこうだ。時速200キロメートル以上で走れる幹線鉄道を「新幹線」と定義し、全国的な鉄道網として整備していく——という法律だ。要するに「東京と大阪だけじゃなく、日本中に新幹線を走らせる計画を国が主導する」という宣言だった。
この日から3年後の昭和48年、東北新幹線や北陸新幹線などの整備計画が決定される。そしてさらに時間をかけて、新幹線は少しずつ北へ、西へと延びていった。
とはいえ、昭和45年に法律ができたからといって、すぐに全国を新幹線が走り回るわけではない。東北新幹線が東京まで延びてくるのは、昭和60年(1985年)のことだ。
私が子どもだった昭和40年代、50年代——仙台や盛岡に新幹線で行けるようになる未来は、まだ「夢の話」だった。
中学3年、修学旅行の朝
昭和57年(1982年)の春のことだ。
中学3年生の修学旅行。行き先は京都・奈良。
その朝、私はいつもより早起きして、母に用意してもらった弁当を持って中学校へ向かった。校庭に集合して、先生から注意事項を聞いて、クラスごとに並んで出発した。電車を乗り継いで東京駅へ。先生に引率されてホームへ向かった。
そして——目の前に、0系があった。
あの丸っこい白い鼻先。白とブルーの塗り分け。ずらりと並んだ窓。テレビの中でしか見たことがなかったものが、手を伸ばせば届きそうな距離に、本物として存在していた。
正直に言うと、少し呆然とした。
「あ、本当にあるんだ」と思った。変な感想だが、そういう気持ちだった。ずっとテレビ越しに見ていたものが、突然、目の前の現実になった感覚。
車内に乗り込んで、席に着いた。
隣に座った友達と、顔を見合わせた。
お互いにニヤニヤしていた。声に出さなくても、わかった。「こいつも、初めてなんだな」と。
うちだけじゃなかった。同じ町の同じ中学に通っている友達も、同じように「初めて」だったのだ。それが少し、嬉しかった。
動き出したときの、あの感覚
列車が動き出した。
最初はゆっくりだった。東京駅のホームが、少しずつ後ろに流れていく。窓の外の景色が、じわじわと速くなっていく。
そしてある瞬間から、流れる景色が全然違うものになった。
ビルが、電線が、人が、全部流れていって何がなんだかわからなくなる。ただ白と緑のぼんやりした帯になって、後ろへ後ろへ飛んでいく。
スピードというものをあれほど体で感じたのは、後にも先にもあの瞬間だけだと思う。「速い」という言葉が意味を失って、ただ体ごと時間が圧縮されていくような、変な感覚だった。
富士山が見えた。
「富士山だ」と誰かが言い、みんなが窓に顔を寄せた。日本一高い山が、ただただそこにあった。東京から生まれて初めて離れた中学生にとって、富士山の存在感は圧倒的だった。
新幹線は「高嶺の花」だった
修学旅行から帰って、しばらくは新幹線の話ばかりしていた気がする。
でも、それで終わりだった。
その後、自分の意思で新幹線に乗る機会は、なかなかやってこなかった。就職して、出張で乗るようになるまで、新幹線は「特別なとき」だけの乗り物だった。
新幹線は「高嶺の花」だった。
手が届かないわけじゃない。でも、気軽に乗るものじゃない。ゴールデンウィークにテレビで見ていた満員の映像は、「あそこに乗っている人たちとは、自分は違う世界にいる」という感覚と一緒にあった。
今になって思えば、それは思い込みだったかもしれない。でも当時の感覚は確かにそうだった。
「夢の超特急」という言葉は、言い得て妙だと思う。夢——すなわち、「いつかは」という距離感。私にとって長い間、新幹線はそういう存在だった。
長男に乗せてやりたかった
大人になって、子どもが生まれた。
長男が5歳のとき、仕事の関係で九州へ行く用事ができた。会社は往復の飛行機チケットを用意してくれた。でも私は、帰りのチケットをキャンセルした。
博多から東京まで、新幹線で帰ることにしたのだ。
妻と長男を連れて、博多駅のホームに立った。
長男は生まれて初めて新幹線を目の前にして、目を丸くしていた。
「乗るの?これに乗るの?」と聞いた。
「乗る」と答えた。
席に着いて、列車が動き出した瞬間、長男は窓に顔をくっつけて景色を見ていた。その横顔を見ながら、私は何も言わなかった。ただ、昭和57年の春に感じたあの感覚が、じわっと戻ってきた気がした。
飛行機のほうが速かった。コストだって、たぶん飛行機のほうがよかった。でも私はそのとき、効率より大事なものがあると思っていた。
自分が子ども時代に感じた「特別さ」を、この子にも感じてほしかった。自分が修学旅行まで待ち続けたあの興奮を、もっと早く、もっと近くで、この子に渡してやりたかった。
「俺の子ども時代よりも、もっともっと——」という思いが、ずっと心のどこかにあった。
あの選択を、一度も後悔していない。
昭和の父親は、本当によく働いていた
全国新幹線鉄道整備法が公布されたのは、昭和45年5月18日。
私が5歳の頃だ。
その年、日本は大阪万博で沸いていた。高度経済成長の真っ只中で、日本は豊かになろうとしていた。新幹線を全国に張り巡らせる「約束」も、その時代の熱気の中で生まれた。
でも、その豊かさを支えていたのは、週に1日しか休まず、まとまった連休は年に一度のお正月だけ、それでも黙って働き続けた、無数の「昭和の父親」たちだった。
家族を旅行に連れて行く時間も余裕もなかった父親たちが、工場で、商店で、建設現場で、黙々と働いていた。新幹線のレールが延びていく先の街で、汗をかいていた。
テレビに映る満員の新幹線を見ながら「他人事だな」と感じていた子どもたちの父親が、まさにその豊かさを作っていた——という皮肉というか、切なさというか。そういうものが、今になってじわじわとわかる。
だから新幹線は「夢の超特急」だった。
豊かになっていく日本の象徴として、テレビの向こうを走っていた。私の父が作り、私の父が届けることのできなかった、夢として。
おわりに
私が中学3年で初めて乗った0系は、昭和39年の開業からずっと走り続けていた車両だった。丸い鼻先はそのままで、白とブルーの塗り分けもそのままで、子ども時代の私がテレビで見ていたあのまま、東京駅のホームで待っていた。
0系が引退したのは平成20年(2008年)のことだ。44年間走り続けた。
全国新幹線鉄道整備法が公布されてから半世紀以上が経った今、北海道から九州まで、新幹線は本当に日本中を走るようになった。法律が約束した「地図」は、長い時間をかけて現実になった。
今の子どもたちにとって、新幹線は「高嶺の花」でも「夢の超特急」でもないかもしれない。当たり前に乗る、ただの速い電車だ。
それは、豊かになったということだ。昭和の父親たちが働き続けた先に、その当たり前がある。
5月18日という日に、そんなことを思う。
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