【昭和の今日は何があった日?】7月25日──「これが本物か」。私が回していたキューブは、偽物だった

7月25日は「かき氷の日」なのだそうです。「な(7)つ(2)ご(5)おり」の語呂合わせに加えて、1933年のこの日、山形市で40.8度という当時の日本最高気温が記録されたことにちなむのだといいます。いかにも夏休みの真ん中らしい記念日です。 その7月25日に、昭和の子どもにとって忘れがたいものが世に出ています。1980年(昭和55年)7月25日、金曜日。ツクダオリジナルという玩具会社から、六面の色を揃える立体パズルが発売されました。ルービックキューブです。 このとき私は小学5年生。夏休みが始まってまだ数日という頃でした。 ただ、正直に書いておきます。その夏、私はルービックキューブを持っていませんでした。 昭和55年の夏休み、私が毎日していたのは、友達と連れ立って区民プールに行くことでした。さんざん泳いで、体を冷やしきって、外に出る。すると、プールのそばにおでんの屋台が来ているのです。串に刺さったウインナーや、ちくわぶを買い食いする。プールの塩素の匂いと、おでんのだしの匂い。私の昭和55年の夏は、立方体ではなく、その二つの匂いでできていました。 一億円で買ってきた立方体 ルービックキューブが日本にやってきた経緯は、調べてみるとなかなか面白いのです。 ツクダオリジナルの代表取締役だった和久井威さんが、ニューヨークのトイショーでこの立方体を見つけ、15万個分の販売権を1億円で獲得したのだそうです。日本ではまだ誰も知らない代物に、玩具会社が1億円を投じる。相当な博打だったはずです。 背景には、伊勢丹新宿店の「アダルトホビー部門」の担当者から、パズルゲームの商品がほしいと言われていたことがあったといいます。ここが大事なところです。ルービックキューブは、子ども向けのおもちゃとして日本に持ち込まれたわけではなかったのです。 値段の付け方にも、それが表れています。和久井さんは当初1,480円を想定していたそうですが、伊勢丹の担当者から「2000円ぐらいでも売れる」と言われ、1,980円にしたのだといいます。 発売に先立って、同じ年の6月1日には朝日新聞の日曜版が「究極の立体パズル」としてこのパズルを紹介しています。すると読者から「どこで売っているのか」という問い合わせが殺到し、それがまた記事になった。火は、発売前についていたのです。 私のキューブは、偽物だった 私がルービックキューブを手にしたのは、発売の夏より少し後のことでした。そして買ってもらったのは、正規品ではありませんでした。いわゆる偽物です。 弁解するようですが、当時の私の周りで「本物」を持っていた友達は、一人もいませんでした。みんな偽物です。それを学校に持って行って、休み時間に友達とカチャカチャ回していました。 1,980円という値段は、子ども心にも高いと感じていました。だから偽物になったのだろう、と長らく思っていたのです。ただ、記憶をたどると、それだけではない気もするのです。そもそもツクダオリジナルの本物が、売り場になかなか置いていなかった気がするのです。品薄だったのではないか、と。 本物は、町のおもちゃ屋に来なかった この記憶が引っかかったので、少し調べてみました。 たしかに、正規品だけで発売から8か月で400万個以上が売れています。1981年2月には海賊版が出回る事態にもなりました。ただ、どうやら「店頭から消えて買えない」というほどの極端な品不足ではなかったようなのです。 では、なぜ私の記憶では売り場になかったのか。 答えは、たぶん最初の話に戻ります。ルービックキューブは伊勢丹新宿店のアダルトホビー部門の要望から入ってきた、1,980円の商品です。つまりあれは、百貨店の売り場に置かれる大人の趣味の品だったのです。葛飾の町のおもちゃ屋や駄菓子屋の棚に、二千円近い舶来のパズルが並んでいたとは考えにくい。 品薄だったのではなく、そもそも私たちの町には流通していなかった。私の記憶は、たぶん間違っていなかったのです。 だから下町の子どもにとってのルービックキューブとは、最初から偽物のことでした。安っぽい作りでも、回して遊ぶぶんには本物と変わらない。あれは本物の代用品ではなく、私たちにとっては、それが唯一の実物だったのです。 「これが本物か」 そんな私が、いつだったか、本物のツクダオリジナル製を手に取る機会がありました。 回した瞬間のことは、今でも覚えています。軽いのです。偽物と比べて明らかに軽く、滑らかに、カチャカチャと回る。引っかからない。ねじれない。指先の力が、そのまま回転になって伝わっていく。 「これが本物か」 心の底から感心しました。値段の差とは、こういうことだったのか。あのとき私が感じたのは、たぶん、初めて触れた「工業製品の品質」というものでした。 もっとも、本物を回したところで、六面が揃うわけではありません。教室には必ず一人か二人、「オレ、六面そろえた」と言うやつがいましたが、たいていは嘘でした。よく見ればシールの角が浮いている。あるいは、いったんバラして組み直したのだと、後になって白状する。 もっとも、これは子どもが不真面目だったからではありません。配置の総数は4325京2003兆2744億8985万6000通りあるのです。京という単位を、私はこのパズルで初めて知ったような気がします。実際、翌1981年には揃え方を解説する本が出版され、数学の専門誌『数学セミナー』までが「ルービック・キューブで群論を学ぼう」という特集を組んでいます。大学で扱う数学の話が、おもちゃ売り場から立ち上がってきたわけです。 発明した本人でさえ、一か月かかった ここで、いちばん救われる話を書かせてください。 このパズルを考案したのは、ハンガリーの建築学者、ルビク・エルネー(エルノー・ルービック)さんです。ブダペスト工科大学の教授でした。1974年、立体幾何を学生に説明するための「動く模型」を求めていて、ドナウ川の流れを見てひらめいたのだといいます。最初の試作品は木でできていました。 そして彼は、完成した立方体の各面を違う色に塗り分け、動かしてみた。ところが、元に戻らなくなった。 「結果的に、出発点に戻るのに丸1か月かかった」 発明した本人が、です。 これを読んだとき、私は45年越しに肩の荷が下りたような気がしました。揃えられなくて当たり前だったのです。あれは揃えるためのおもちゃというより、揃わないことを手のひらで確かめるための装置だったのかもしれません。 帝国ホテルの四百人と、ガンダムの襲来 ブームは瞬く間に燃え上がりました。 1981年1月31日、東京の帝国ホテルで「第1回全日本キュービスト大会」が開かれています。6歳から68歳まで、約400人が集まりました。優勝したのは北島秀樹さんという当時16歳の高校生で、記録は単発46秒台、3回の合計が2分37秒。ルービックさん本人も来日し、優勝者には賞品として自動車が贈られたといいます。おもちゃの大会の賞品が、車です。 ところが、この熱はあっけなく冷めます。 ツクダオリジナルは1981年のゴールデンウィークに向けて30万個の追加発注をかけました。そこへ、まったく別の方角から津波が来ます。『機動戦士ガンダム』のプラモデル──ガンプラのブームです。 子どもたちの小遣いと関心は、立方体からモビルスーツへ移りました。売れ行きは急減し、残った大量の在庫は翌年の福袋に詰められ、それでも捌けず、結局10年かけて少しずつ処理したのだそうです。 ブームというのは、こういうふうに終わるのですね。誰かが飽きたからではなく、隣にもっと面白いものが現れるから終わる。 令和のキューブは、三秒で揃う 昭和の子どもだった私たちにとって、ルービックキューブは「揃わないもの」でした。ところが令和のいま、状況はまったく違います。 2010年、コンピュータによる解析で、どんな状態からでも最大20手あれば揃えられることが証明されました。「神の数字」と呼ばれるそうです。競技としてのスピードキュービングも確立し、3×3の単発世界記録は3.08秒(2025年2月、中国のYiheng Wang選手)まで縮んでいます。子どもたちがYouTubeで手順を覚え、小学生が十数秒で揃えてみせる時代です。 もうひとつ、調べていて驚いたことがあります。当時、日本で売られていたキューブは、世界標準とは配色が違っていたのだそうです。黄色と青の位置が入れ替わった「日本配色」。2013年のリニューアルで、ようやく世界標準に合わせられました。 本物と偽物の違いも分からなかった私たちですが、その本物のほうも、世界から見れば少しだけ違う立方体だったわけです。なんだか、それが妙に昭和らしい気がしてなりません。 昭和55年の夏、私はまだキューブを知りませんでした。区民プールで泳ぎ、屋台のウインナーとちくわぶを頬張っていました。都心の百貨店では大人たちが1,980円のパズルに列を作っていたのでしょうが、そんなことは知る由もありません。 ブームというのは、中心から周縁へ、時間差で届くものなのですね。私の手元に届いたのは一年ほど遅れて、しかも偽物でした。それでも、休み時間にカチャカチャ回していたあの音は、たしかに私の昭和の一部です。 みなさんのルービックキューブは、本物でしたか、偽物でしたか。六面は、揃いましたか。よろしければ、その顛末を教えてください。 あの日「これが本物か」と唸った、あの滑らかな回転。今はメガハウスの公式ライセンス品として、ちゃんと手に入ります。偽物しか知らなかった下町の元少年も、令和の孫も、同じ本物で遊べる時代です。夏休みの自由研究や、お孫さんへの一つに。揃わなくて当たり前——考案者すら一か月かかったのですから、どうか気楽に。 メガハウス ルービックキューブ 3×3 ver.3.0(公式ライセンス)日本正規品。回転が軽く滑らかな現行モデル。「これが本物か」の手ざわりを、令和の子どもや孫と Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...

July 25, 2026

6月23日 ── 北へ向かう夢の超特急は、なぜか「大宮始発」だった

六月二三日。梅雨の晴れ間に、少しだけ夏の匂いが混じりはじめる頃です。 カレンダーをめくると、この日にはいろいろな記念日が並んでいます。けれど私がきょう書きたいのは、四十年以上前のある朝、北へ向かって走り出した一本の列車の話です。 昭和五十七年(一九八二年)六月二三日。東北新幹線が、大宮〜盛岡間で開業しました。 そのとき私は中学一年生。高砂の電車に囲まれて育った私にとって、新幹線というのは、いつもの京成電車とはまったく別の、ちょっと手の届かない「夢の乗り物」でした。 毎日のように京成電車を眺め、すぐ近くの高砂検車区には、ずらりと電車が並んでいる。電車という乗り物なら、誰よりも身近に感じていたはずの私です。それでも、図鑑やテレビのニュースの中を走る新幹線だけは、なぜか同じ「電車」だとは思えませんでした。同じレールの上を走るのに、住んでいる世界が違う。そんなふうに感じていたのです。実をいうとこの頃の私は、まだ一度も新幹線に乗ったことがありませんでした。 夢の超特急は、なぜか「大宮始発」だった 東北新幹線の計画そのものは、ずいぶん前から進んでいました。東京〜盛岡を結ぶこの路線は、昭和四十六年(一九七一年)に着工され、十年以上の歳月をかけて、ようやく完成にこぎつけます。 ところが、いざ開業というとき、ひとつの大きな「ねじれ」がありました。 始発駅が、東京でも上野でもなく、埼玉の大宮だったのです。 東海道新幹線が当たり前のように東京駅から走り出したのに比べると、これはずいぶん変則的な船出でした。理由は、上野〜大宮の沿線にあります。この区間はすでに住宅が密集していて、新幹線の騒音をめぐる反対運動が起きていました。そのため都心への乗り入れはいったん見送られ、「とりあえず大宮から」というかたちで走り始めることになったのです。 東京〜盛岡が、それまでの在来線特急で六時間二三分。それが新幹線の開業で、三時間五八分にまで縮まりました。四割近い時間短縮です。けれど、その恩恵にあずかるには、まず大宮まで行かなければならない。そこに、もうひとりの主役が登場します。 「新幹線リレー号」という名脇役 大宮始発という事情を埋めるために用意されたのが、上野〜大宮を結ぶ専用列車、その名も「新幹線リレー号」でした。 新しく造られたばかりの185系という車両が、上野と大宮のあいだをノンストップ、わずか二十五分ほどで走りました。新幹線の特急券を持っている人だけが乗れる、文字どおりの「連絡列車」です。乗り換えで迷わないように、ホームには「リレーガール」と呼ばれる案内係の女性たちが立っていたといいます。 開業の日、大宮駅のホームでは朝七時一五分に「やまびこ一一号」の出発式が行われ、一日じゅう鉄道ファンでにぎわったそうです。白地に緑のラインをまとった200系が、最高時速210キロで北へ走り出しました。 もっとも、走り出した当初の本数は、ずいぶん控えめなものでした。速達タイプの「やまびこ」が一日に四往復、各駅停車の「あおば」が六往復ほど。これだけ大きな路線にしては、まるでローカル線のようなダイヤです。それでも、夏の帰省シーズンには大宮駅が人であふれかえったといいますから、みんながどれほどこの一本を待ちわびていたかが伝わってきます。 この「リレー号」は、三年後の昭和六十年(一九八五年)に新幹線が上野まで延びると、その役目を終えて姿を消しました。たった三年足らずの命でしたが、開業したばかりの夢の超特急を都心とつないでいたのは、この名脇役だったのです。 そして、この「上野まで延びた」という出来事が、私の家のすぐそばにも、小さな波紋を広げることになります。 私が初めて乗った新幹線は、修学旅行だった 私が通っていた中学校では、三年生の修学旅行で東海道新幹線に乗り、京都・奈良へ行くのが決まりでした。 私にとって、生まれて初めての新幹線は、このときの東海道新幹線です。当時は「生まれて初めて乗る新幹線は修学旅行のとき」という子も少なくありませんでした。家族旅行で気軽に乗るようなものではなく、新幹線は子どもにとって、人生の特別な日にだけ顔を出す乗り物だったのです。 みんなでホームに並んで、あの長い銀色の車体がすうっと滑り込んできたときの高揚。窓の外をものすごい速さで景色が流れていく、あの初めての感覚。修学旅行そのものの思い出と、初めての新幹線の興奮とが、私の中ではひとつに溶け合っています。 だからでしょうか。「初めての新幹線が修学旅行だった」という人は、新幹線そのものの記憶と、あの旅の記憶とを、生涯ひとそろいで持っているように思うのです。どの新幹線で、どこへ向かったか。それは、その人がどんな時代に子どもだったかを、そっと映す鏡でもあります。 妹の代から、行き先が「東北」になった ところが、です。 昭和六十年に東北新幹線が上野まで延びたことで、思いがけないことが起きました。一つ年下の妹の修学旅行先が、なんと東北になったのです。 どこを回ったのか、詳しいことは私も聞きそびれてしまいました。ただ、妹がお土産に「赤べこ」──赤い牛の形をした張り子の人形──を買って帰ってきたのを、はっきり覚えています。赤べこといえば、福島・会津の郷土玩具。きっと会津地方を訪れたのでしょうね。 もともと上野駅は、東北や北国へ向かう人々の「玄関口」でした。集団就職の若者たちも、帰省の家族連れも、北を目指す列車はみな上野から出ていった。その上野に新幹線が乗り入れたことで、下町の中学生にとっても、東北がぐっと手の届く行き先になったのです。その証拠のように、私の中学校では、その後しばらく「京都・奈良」と「東北」の修学旅行を、一年交代で実施するようになりました。 いつまで続いたのかは分かりません。けれど、私の世代までは「初めての新幹線=東海道新幹線」だったのが、妹の代からは「初めての新幹線=東北新幹線」という子どもたちが、どんどん増えていったわけです。 一本の新幹線が都心に少し近づいた。ただそれだけのことで、子どもたちが人生で最初に降り立つ「遠い町」が、京都から会津へと変わっていく。あらためて考えると、これはなかなか、すごいことだと思うのです。 修学旅行の行き先というのは、その時代に「子どもに見せておきたい日本」がどこだったか、という選択でもあります。長いあいだ、それは京都や奈良の古い都でした。そこに東北という新しい選択肢が加わったのは、新幹線が北を一気に近づけてくれたから。線路が一本延びるたびに、子どもたちが見る日本の地図も、少しずつ書き換えられていったのだと思います。 バスのハンドルを握る私が思うこと 私は今、路線バスの運転士をしています。 毎日、決まった道を走りながら、人を乗せて、目的地と目的地をつないでいます。華やかさはありません。けれど、誰かの「行きたい場所」と「今いる場所」のあいだを、確実につなぐ仕事です。 だからでしょうか。あの「新幹線リレー号」の話を知ると、妙に胸が熱くなるのです。 主役の超特急ではなく、その手前で、都心と大宮をつないでいた185系。脚光を浴びるのは新幹線のほうでも、リレー号がなければ、あの三年間、人は北へ向かえませんでした。つなぐ、という仕事に、上も下もありません。そんなことを、ハンドルを握りながら、時々思います。 それでも、北はぐっと近くなった 妹たちを東北へ運んだ上野延伸から六年後、平成三年(一九九一年)には、東北新幹線はついに東京駅まで乗り入れます。 ...

June 23, 2026

6月10日 ── 時を計る日に、手作りの時計と夜の高速バスを思う

梅雨の入り口、六月十日は「時の記念日」です。 由来は、ずいぶんと古い。『日本書紀』によれば、六七一年のこの日(新暦に換算して六月十日)、天智天皇が漏刻(ろうこく)という水時計を新しい台に据え、鐘や鼓で人々に初めて時を知らせた——とあります。それにちなんで、大正九年(一九二〇年)、東京天文台と生活改善同盟会が「時間を大切にしよう」と呼びかけて定めたのが、この記念日のはじまりだそうです。 千三百年以上も昔の人が、水の落ちる音で時を計っていた。そう思うと、なんだか不思議な気持ちになります。 そして「時の記念日」と聞くと、私がまっさきに思い出すのは、保育園で作った、あの手作りの時計のことなのです。 空き箱で作った、私だけの時計 私が保育園に通っていたのは、昭和四十七年から五十年ごろ。歳でいえば、三歳から六歳のあいだです。その保育園では毎年、この六月十日の「時の記念日」にちなんで、子どもたちがそれぞれに「時計」を作る工作をしました。 材料は、空き箱や色画用紙。お菓子の箱だったか、何かの包み紙だったか、家から持ち寄ったような気もします。丸く切った画用紙に数字を書き込んで、短い針と長い針をつけて、思い思いの時計をこしらえる。みんなが作るから、出来あがる時計は一つとして同じものがない。針の角度も、数字の並びも、それぞれにいいかげんで、それぞれに誇らしかった。 いま思えば、まだ時計の読み方さえおぼつかない年ごろです。長い針と短い針が何を指しているのか、本当のところはわかっていなかったでしょう。それでも保育園は、この日に「時間って大切なものなんだよ」と、工作という形でそっと教えてくれていたのですね。あの先生たちの心づかいに、五十年も経ってからようやく気づくのですから、私もずいぶんとのんびりしたものです。 そういえば、当時の我が家には、本物の時計がありました。柱にかけられた、縦長で、振り子が左右にゆっくりと揺れるタイプの時計です。文字盤の下で振り子がチクタクと時を刻み、毎正時になると、ボーン♪ ボーン♪……と、低い音で時を打ちました。三時には三回、十時には十回。鳴る数をかぞえれば、まだ文字盤のうまく読めない子どもにも、今が何時なのかが、ちゃんと伝わってきたのです。 思えば、天智天皇が鐘や鼓を打ち鳴らして時を知らせたのと、あの柱時計がボーンと鳴って時刻を告げていたのは、案外、同じことだったのかもしれません。水時計から、保育園児の空き箱の時計、そして柱の振り子時計まで。時を計り、時を告げようとする気持ちだけは、千三百年、ちっとも変わっていないのですね。 黄色い箱の中の、ゆっくりした時間 六月十日は、もうひとつの記念日でもあります。「ミルクキャラメルの日」。 森永製菓がこの日を選んだのには理由があります。一九一三年(大正二年)六月十日、それまでただ「キャラメル」と記して売っていたお菓子に、“ミルク"の二文字を冠して「ミルクキャラメル」として売り出した。創業者の森永太一郎が、西洋菓子になじみのなかった時代に「日本の人々に栄養価の高いおいしいお菓子を」と願って世に出した、森永の原点ともいえる一粒です。発売当初はバラ売りで一粒五厘。翌年には、二十粒入り十銭の、あの携帯用の箱が登場しました。 私が覚えているのは、もちろん大正の話ではありません。あの黄色い箱です。「滋養豊富・風味絶佳」という、子どもにはむずかしい字が並んでいて、けれど中身は文句なしに甘かった。 ただ、正直に打ち明けると、私はいつもミルクキャラメル一筋だったわけではありません。お店の前では、たいてい迷っていました。森永のミルクキャラメルにするか、それとも、グリコのおまけ付きキャラメルにするか。おまけのおもちゃが欲しい日もあれば、ただ甘いものを口にしたい日もある。子どもなりに、毎回それなりの葛藤があったのです。 ところが、不思議なことがひとつ。小学校の遠足の前は、おやつが「三百円以内」と決められていて、その限られた予算で何を買うかは、子どもにとって一大事でした。あれこれ手に取っては戻し、さんざん迷う。——のに、遠足のときだけは、どういうわけか毎回ミルクキャラメルを選んでいたのです。普段はあれだけおまけに心を揺らしていたはずの私が、遠足の朝には、なぜか黄色い箱に手が伸びる。理由は、自分でもよくわかりません(笑)。 今になって思えば、こういうことだったのかもしれません。ミルクキャラメルは、噛まずに舌の上でゆっくり溶かしていけば、一粒で長くもつ。バスに揺られ、野山を歩き、お弁当を広げ……長い長い遠足の一日に、少しずつ取り出して味わうには、ちょうどよかったのでしょう。おまけは手に入れた瞬間に終わってしまうけれど、キャラメルの甘さは、一日かけてゆっくり続いてくれる。あれもまた、時間を味わうお菓子だったのです。 あの黄色い箱は、今もそのままの姿で売られています。久しぶりに一粒、舌の上で溶かしてみると、遠足の朝の気持ちが、ふっとよみがえるかもしれません。 森永 ミルクキャラメル 大箱 149g×5箱あの懐かしい黄色い箱/森永製菓 Amazonで見る › 夜のうちに、時間を飛び越える ── ドリーム号 そして、きょうのもう一本。昭和四十四年(一九六九年)六月十日、東名ハイウェイバスの開業と同時に、夜行高速バス「ドリーム号」が走り出しました。高速道路を走り抜ける、日本で初めての夜行バスです。東京と大阪を、夜のあいだに結んでしまう。当時としては、ずいぶんと夢のある乗り物だったはずです。 この夜行バスが走り出す少し前、昭和四十四年五月に、東名高速道路が全線開通したばかりでした。それまで東京と名古屋・関西を結ぶ大動脈といえば、その五年前に開業した東海道新幹線。ドリーム号は、いわばその新幹線を夜のあいだに補う足として登場したのです。運行開始当初は、東京〜大阪が二往復、東京から名古屋を経て京都へ向かう便が一往復。眠っているうちに目的地へ届けてくれるこのバスは、開業からしばらくのあいだ、日本でいちばん長い距離を走る路線バスでもありました。 少しあとの、昭和五十年ごろの時刻表が残っています。それを見ると、東京から名古屋までのおよそ三百五十キロを、速い便でも五時間半あまりかけて走っていました。運賃はその区間で千九百円ほど、夜行に乗るにはさらに三百円の指定料金が必要だったといいます。今の感覚からすれば、ずいぶんのんびりとした道のりです。それでも、ひと晩を乗り物の中で過ごして遠い街へ向かうという体験そのものが、あのころはまだ、真新しいものだったのでしょう。 昭和四十四年という年は、私にとって少しだけ特別です。私が生まれたのが、この年の四月。つまり私がこの世に出てきて、わずか二ヶ月後に、ドリーム号は東京の夜を初めて出発していたことになります。自分が生まれた年に走り始めたものと聞くと、勝手に親近感がわいてくるのです。 その「同い年」のバスに、私が実際に乗ったのは、ずっとあとのことでした。平成二十二年(二〇一〇年)。長男が小学六年生だった年です。その春と夏、私は息子を連れて、甲子園へ高校野球を観に行きました。その足に選んだのが、夜行のドリーム号だったのです。 東京駅の八重洲南口を、夜の十時ごろ出発する。大阪に着くのは、翌朝の七時ごろ。夜行バスの乗り場には、行き先の違うバスが何台も連なって停まっていて、それぞれの行灯のような行き先表示が、夜の中にぽつぽつと浮かんでいました。これからどこかへ運ばれていく人たちの気配。そのなかに、息子と私もいる。「さあ、息子との旅が始まるぞ」という高揚感で、胸がいっぱいになったのを、今でもよく覚えています。いい思い出です。 考えてみれば、不思議なものです。私が生まれた二ヶ月後に走り出したバスに、四十年あまりが過ぎて、今度は私が自分の息子と並んで揺られている。夜のうちに距離を飛び越える乗り物が、いつのまにか、親子の時間まで運んでくれていた。 令和の今、時間は手のひらの中に いま、時刻を知るのに苦労する人は、もういません。スマートフォンの画面には、いつでも秒まで表示されている。時間は、手のひらの中に常にあります。空き箱で時計を作らなくても、針の読み方を覚えなくても、数字はいつでもそこにある。 それでも、ミルクキャラメルは今も、あの黄色い箱のまま店に並んでいます。夜行バスは全国を縦横に走り、行き先も種類も、私が子どものころには想像もつかなかったほど増えました。時を計る道具は変わっても、一粒を急がず溶かす時間や、夜のうちに遠くへ運ばれていく時間は、きっと今も変わらずそこにある。 わが子が小学生だったあの夜、八重洲のバス乗り場で胸を高鳴らせたのも、もう十数年前のこと。時間というのは、計るそばから、こうして思い出に変わっていくものなのですね。 みなさんにとって、「時間をかけて味わったもの」は、何でしょうか。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月9日 ── ロックの日に、木曜九時のザ・ベストテンを思い出す | 次の記事:6月11日 ── 入梅。ビニール傘と、列島改造の槌音と ▶

June 10, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月18日──新幹線が、日本中を走る「約束」をした日

今日は5月18日。 昭和45年(1970年)のこの日、ひとつの法律が静かに公布された。 全国新幹線鉄道整備法。 長い名前だが、内容はシンプルだ。「新幹線を、日本中に走らせよう」という国の約束だ。 この法律のことを調べていたら、自分の記憶がどんどんよみがえってきた。新幹線にまつわる記憶。テレビ越しに見ていた「あの乗り物」への憧れ。そして中学3年の春、東京駅のホームで初めて0系の鼻先を目の前にしたときの、あの感覚。 今日はその話を書いてみたい。 新幹線は、テレビの中にいた 私が育ったのは東京23区の東のはずれだ。下町の気配が残る、庶民的な町だった。 子どもの頃、新幹線はいつも「テレビの中」にあった。 ゴールデンウィーク前になると、ニュースが決まってこの映像を流した。東海道新幹線の車内。通路まであふれかえる乗客。車窓の外を流れる富士山。アナウンサーが「今年のUターンラッシュは——」と話す。 画面を見ながら、子どもの私はぼんやりと思っていた。 あれに乗っている人たちは、どこへ行くんだろう。 京都か。大阪か。あるいはもっと遠い、知らない場所か。 でも、それは完全に「他人事」だった。我が家とは無関係な世界の映像として、ただ眺めていた。 理由は単純で、我が家には旅行の習慣がなかったからだ。 父は、連休が年に一度だけだった 父の仕事は週に1回、平日に休みがあった。日曜日は働いていた。 ゴールデンウィークも、お盆も、関係なかった。世の中がいくら盛り上がっていても、父は仕事に出かけた。まとまった連休といえば、1年にたった一度、お正月の1日と2日——その2日間だけだった。 今の感覚で言えば「それは大変だったね」となるかもしれない。でも当時、私のまわりではそれはめずらしいことではなかった。近所の友達の父親も、似たようなものだった。昭和40年代、50年代の「お父さん」はそういうものだった。家族よりも仕事を優先するのが当たり前で、誰もそれを疑わなかった。 だから、家族でお泊まり旅行に出かけた記憶が、私にはない。 修学旅行や林間学校はあった。でも「家族みんなで旅行」という体験は、子ども時代についぞなかった。 今の常識からすると「えっ、そうなの?」と驚かれるかもしれない。でも私のまわりでは、それはごくふつうのことだった。それくらい、昭和40年代・50年代・60年代のお父さんたちは、よく働いていたのだ。 だから新幹線の映像をテレビで見ながら「来年の夏、乗れるかな」などとは考えなかった。そんな発想自体が、最初からなかった。 昭和45年5月18日、「約束」が生まれた 少し話を遡る。 昭和39年(1964年)、東海道新幹線が開業した。東京オリンピックの9日前のことだ。東京と新大阪を、それまでの特急列車なら6時間以上かかっていたところを、「ひかり」は3時間10分で結んだ。 当初は「あんな高いものを作っても赤字になるだけだ」という声もあった。ところが蓋を開けると、新幹線は大人気だった。通勤でも出張でも観光でも、人々は喜んで乗った。「夢の超特急」と呼ばれた0系の白い車体は、あっという間に時代のシンボルになった。 その成功を見て、政治家や官僚は考えた。「これを全国に広げれば、日本中が豊かになる」と。 そして昭和45年5月18日、全国新幹線鉄道整備法が公布された。 内容はこうだ。時速200キロメートル以上で走れる幹線鉄道を「新幹線」と定義し、全国的な鉄道網として整備していく——という法律だ。要するに「東京と大阪だけじゃなく、日本中に新幹線を走らせる計画を国が主導する」という宣言だった。 この日から3年後の昭和48年、東北新幹線や北陸新幹線などの整備計画が決定される。そしてさらに時間をかけて、新幹線は少しずつ北へ、西へと延びていった。 とはいえ、昭和45年に法律ができたからといって、すぐに全国を新幹線が走り回るわけではない。東北新幹線が東京まで延びてくるのは、昭和60年(1985年)のことだ。 私が子どもだった昭和40年代、50年代——仙台や盛岡に新幹線で行けるようになる未来は、まだ「夢の話」だった。 中学3年、修学旅行の朝 昭和57年(1982年)の春のことだ。 中学3年生の修学旅行。行き先は京都・奈良。 その朝、私はいつもより早起きして、母に用意してもらった弁当を持って中学校へ向かった。校庭に集合して、先生から注意事項を聞いて、クラスごとに並んで出発した。電車を乗り継いで東京駅へ。先生に引率されてホームへ向かった。 そして——目の前に、0系があった。 あの丸っこい白い鼻先。白とブルーの塗り分け。ずらりと並んだ窓。テレビの中でしか見たことがなかったものが、手を伸ばせば届きそうな距離に、本物として存在していた。 正直に言うと、少し呆然とした。 「あ、本当にあるんだ」と思った。変な感想だが、そういう気持ちだった。ずっとテレビ越しに見ていたものが、突然、目の前の現実になった感覚。 車内に乗り込んで、席に着いた。 隣に座った友達と、顔を見合わせた。 お互いにニヤニヤしていた。声に出さなくても、わかった。「こいつも、初めてなんだな」と。 うちだけじゃなかった。同じ町の同じ中学に通っている友達も、同じように「初めて」だったのだ。それが少し、嬉しかった。 動き出したときの、あの感覚 列車が動き出した。 最初はゆっくりだった。東京駅のホームが、少しずつ後ろに流れていく。窓の外の景色が、じわじわと速くなっていく。 そしてある瞬間から、流れる景色が全然違うものになった。 ビルが、電線が、人が、全部流れていって何がなんだかわからなくなる。ただ白と緑のぼんやりした帯になって、後ろへ後ろへ飛んでいく。 スピードというものをあれほど体で感じたのは、後にも先にもあの瞬間だけだと思う。「速い」という言葉が意味を失って、ただ体ごと時間が圧縮されていくような、変な感覚だった。 富士山が見えた。 「富士山だ」と誰かが言い、みんなが窓に顔を寄せた。日本一高い山が、ただただそこにあった。東京から生まれて初めて離れた中学生にとって、富士山の存在感は圧倒的だった。 新幹線は「高嶺の花」だった 修学旅行から帰って、しばらくは新幹線の話ばかりしていた気がする。 でも、それで終わりだった。 その後、自分の意思で新幹線に乗る機会は、なかなかやってこなかった。就職して、出張で乗るようになるまで、新幹線は「特別なとき」だけの乗り物だった。 新幹線は「高嶺の花」だった。 手が届かないわけじゃない。でも、気軽に乗るものじゃない。ゴールデンウィークにテレビで見ていた満員の映像は、「あそこに乗っている人たちとは、自分は違う世界にいる」という感覚と一緒にあった。 今になって思えば、それは思い込みだったかもしれない。でも当時の感覚は確かにそうだった。 「夢の超特急」という言葉は、言い得て妙だと思う。夢——すなわち、「いつかは」という距離感。私にとって長い間、新幹線はそういう存在だった。 長男に乗せてやりたかった 大人になって、子どもが生まれた。 長男が5歳のとき、仕事の関係で九州へ行く用事ができた。会社は往復の飛行機チケットを用意してくれた。でも私は、帰りのチケットをキャンセルした。 博多から東京まで、新幹線で帰ることにしたのだ。 妻と長男を連れて、博多駅のホームに立った。 長男は生まれて初めて新幹線を目の前にして、目を丸くしていた。 「乗るの?これに乗るの?」と聞いた。 「乗る」と答えた。 席に着いて、列車が動き出した瞬間、長男は窓に顔をくっつけて景色を見ていた。その横顔を見ながら、私は何も言わなかった。ただ、昭和57年の春に感じたあの感覚が、じわっと戻ってきた気がした。 ...

May 17, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月11日──「ぱたぱたママ」が聞こえたら、保育園へ行く時間

今日は5月11日。 昭和の朝には、決まったリズムがあった。 目が覚めると台所からご飯の炊ける匂いがして、テレビをつけると子ども番組が始まっている。朝ごはんを食べながらテレビを見て、時計の代わりに番組の流れで時間を感じていた。 あの頃の朝のことを、今日は書きたい。 朝ごはんとピンポンパン 朝ごはんを食べながら見ていたのが、フジテレビの**「ママとあそぼう!ピンポンパン」**だった。 昭和41年(1966年)10月3日から昭和57年(1982年)まで、実に15年半にわたって放送されたこの幼児番組は、フジテレビの若手女性アナウンサーが「おねえさん」として司会を務める形式で、歌や体操やお話のコーナーが続く、朝の子どもの定番だった。 お茶碗を両手で持ちながら、画面を眺めていた。おねえさんが歌う。カッパのカータンがとぼけたことを言う。子どもたちが体操をする。 朝ごはんを食べながら見る番組というのは、不思議と記憶に残るものだ。おかずの味と、テレビから流れてくる音楽と、台所で動く母の気配が、全部混ざり合って一つの記憶になっている。 そして番組のフィナーレに、あれがあった。 「おもちゃへいこう!」 新兵ちゃんの掛け声とともに、スタジオに出演していた子どもたちが一斉にスタジオセットの大木へと突進していく。「おもちゃの木」の節穴の中には、おもちゃがぎっしり詰まっている。子どもたちは我先にと手を伸ばして、おもちゃを抱きしめる。 テレビの前で、それをただ見ていた。 本当に羨ましかった。 昭和40年代の子どもにとって、おもちゃは誕生日かクリスマスの「特別なもの」だ。駄菓子屋で10円のお菓子を買うのとは、まったく違う話だ。だからあの木が眩しかった。「ねえ、ピンポンパン出たい」と母に言った子どもが、日本中に無数にいたはずだ。 「ぱたぱたママ」が流れたら、保育園の時間 ピンポンパンが終わると、続いて始まるのが**「ひらけ!ポンキッキ」**だった。 昭和48年(1973年)4月から始まったフジテレビの幼児番組で、ガチャピンとムックという2体のキャラクターと「おねえさん」が進行する、こちらも昭和を代表する子ども番組だ。「およげ!たいやきくん」を世に出した番組としても知られている。 ポンキッキが始まると、それが保育園へ行く時間の合図だった。 番組の最初のほうに流れていたのが**「ぱたぱたママ」と「一本でもニンジン」**。のこいのこさんが歌うこれらの曲が聞こえてくると、「そろそろだな」という感覚があった。 「いちほんでもにんじん、にほんでもにんじん、さんぼんでもにんじん……」 そのメロディーを1曲聞き終わると、母の声がかかった。 「行くわよ」 玄関に向かう。年子の妹も一緒だ。外に出ると、母が自転車を出して待っている。後ろの荷台と前のカゴ、あるいはハンドルにまたがるようにして、3人で乗り込む。 3人乗り自転車。 今の感覚では「危ない」と言われるが、昭和の頃はそれが当たり前だった。お母さんが自転車をこいで、子どもを前後に乗せて保育園や幼稚園に連れて行く。朝の住宅街には、そういう自転車がたくさん走っていた。 母の背中に顔をうずめながら、自転車が走り出す。まだテレビの音が耳の中に残っていた。「ぱたぱたママ」のメロディーが、頭の中でまだ続いていた。 阿久悠と小林亜星が作った朝の歌 「ピンポンパン体操」はオリコン童謡チャート1位、260万枚の大ヒットを記録した曲だが、その作詞・作曲を手掛けたのが阿久悠と小林亜星というコンビだ。 当時の日本を代表する作詞家と作曲家が、子ども番組のために本気で曲を作っていた。「トラのプロレスラーはシマシマパンツ……」というあの歌詞は、今も口をついて出てくる人がいるはずだ。 「ひらけ!ポンキッキ」の「ぱたぱたママ」や「一本でもニンジン」も同様だ。一見シンプルな子ども向けの歌に、プロの作り手たちが真剣に向き合っていた。だからこそ半世紀経った今も、あのメロディーは記憶の奥底に生きている。 子どもの頃に耳に入った音楽は、言葉や映像よりも深いところに刻まれる。「ぱたぱたママ」が流れると、今でも反射的に「そろそろ行かないと」という感覚がよみがえる。頭ではなく体が覚えているのだ。 おわりに ピンポンパンのおもちゃの木を羨ましく眺めて、ポンキッキの「ぱたぱたママ」を聞きながら保育園へ向かった。母の背中に揺られる自転車の上で、テレビから流れてきた歌がまだ耳の中に残っていた。 毎朝、毎朝、同じことの繰り返しだった。 でも今になって思う。あの繰り返しの中に、昭和の朝のすべてが詰まっていた。朝ごはんの匂いと、テレビの音楽と、母の「行くわよ」という声と、年子の妹と一緒に乗り込んだ自転車の揺れ。 それが私の、昭和の朝だった。 あなたの昭和の朝には、どんな音楽が流れていただろうか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月10日──母の日に、カーネーションを渡せなかった話 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月12日──青いまわしの、あの力士が好きだった ▶

May 10, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月5日──屋根より高い鯉のぼりと、銭湯帰りのコーヒー牛乳

今日は5月5日、こどもの日だ。 ゴールデンウィーク最後の祝日。子どもにとっては「もうすぐ学校が始まる」という一抹の切なさと、それでも「今日はまだ特別な日だ」という気持ちが混在する、不思議な一日だった。 昭和の5月5日には、今では見かけなくなったある光景があった。 空を泳ぐ、大きな鯉のぼりだ。 空が、鯉で埋まっていた 昭和40年代から50年代にかけて、こどもの日が近づくと、日本中の住宅街の空に鯉のぼりが上がった。 大きな真鯉(黒)、その下に緋鯉(赤)、そして小さな子鯉(青)。一家に男の子がいれば、屋根の上に竿を立て、高々と鯉のぼりを掲げるのが当たり前だった。風が吹くたびに鯉のぼりがはためいて、丸く開いた口から風を飲み込んでいく。あの姿は、昭和の5月の空の定番だった。 「♪屋根より高い鯉のぼり」という歌の通り、本当に屋根より高いところに掲げた家が多かった。父親が梯子をかけて竿を立てる姿を、子どもは下から見上げていた。 鯉のぼりの由来は江戸時代に遡る。中国の伝説に「滝を登り切った鯉は竜になれる」というものがあり、それにちなんで「この子も鯉のように、どんな困難も乗り越えて育ってほしい」という親の願いが込められた。でも子どもだった私には、そんな由来はどうでもよかった。あの大きな黒い鯉が空に泳いでいるのを見るだけで、なんとなく特別な気分になれた。それだけで十分だった。 兜と、柏餅と、そして銭湯へ 昭和のこどもの日には、家の中にも決まった景色があった。 床の間や棚の上には兜飾りや五月人形が鎮座していた。黒塗りの台の上に飾られた金色の兜は、子どもの目には圧倒的な存在感があった。触ってはいけないと言われながら、こっそり手を伸ばした記憶がある。 食べ物といえば柏餅。柏の葉で包まれた白いお餅の中に、あんこが入っている。柏の葉は「新しい芽が出るまで古い葉が落ちない」という特徴があり、「子孫繁栄」の縁起を担ぐとされていた。昭和の子どもには縁起よりも、あの独特の葉の香りとモチモチした食感の方が大切だったけれど。 そして夜になると、父か母に手を引かれて、銭湯へ向かった。 あの頃、まだ家にお風呂がない家庭は珍しくなかった。昭和40年代の日本では、内風呂の普及率はまだ6割にも満たなかったという。近所の銭湯が、毎日の生活に当たり前のように溶け込んでいた時代だ。 こどもの日の銭湯には、菖蒲湯が用意されていた。大きな湯船に、細長い菖蒲の葉が何本も浮かんでいる。独特の青くさい香りが、湯気と混じって浴室に漂っていた。菖蒲の強い香りが邪気を払うと言われていたし、「菖蒲(しょうぶ)」が「尚武」「勝負」と同じ読みであることから、男の子の健やかな成長を願う意味もあった。 銭湯のおじさんかおばさんが、湯船に菖蒲をどっさりと入れてくれていた。あの光景は、こどもの日だけの、特別な銭湯の顔だった。 湯上りの、コーヒー牛乳 銭湯から上がった後の記憶が、今も鮮やかに残っている。 体を拭いて着替えて、番台の横の冷蔵ケースの前に立つ。そこに並んでいた瓶入りの飲み物の中から、母が「今日はこどもの日だから」と言って、コーヒー牛乳を買ってくれた。 瓶のふたを開けると、甘い香りがふわっと立ちのぼる。冷たくて、甘くて、ほんのりビターで。あの味は、コーヒー牛乳というよりも「ご褒美」そのものだった。普段はなかなか買ってもらえなかったから、特別感がひとしおだった。 当時の銭湯の定番飲み物といえば、白い牛乳、フルーツ牛乳、そしてコーヒー牛乳の三種類が並んでいた。腰に手を当ててグビグビと飲む、あのスタイルも含めて、銭湯帰りの儀式のようなものだった。 コーヒー牛乳1本、ちょっぴり嬉しかった。そのくらいの小さな幸せが、昭和のこどもの日には確かにあった。 鯉のぼりが空から消えていった それから時代が変わった。 昭和50年代後半になると、住宅街の空を泳ぐ大きな鯉のぼりが、少しずつ減っていった。都市部でマンションや集合住宅が増え、大きな竿を立てられる家が少なくなった。内風呂が普及し、銭湯が一軒また一軒と姿を消していった。瓶入りのコーヒー牛乳も、紙パックやペットボトルに取って代わられた。 鯉のぼりが似合っていたのは、あの時代の暮らしの形そのものだったのかもしれない。庭付きの一軒家、縁側、床の間。毎日歩いて通う近所の銭湯。そういう暮らしが当たり前だったからこそ、鯉のぼりもコーヒー牛乳も、あれほど輝いて見えた。 町の空が変わり、家の形が変わり、暮らしが変わる中で、昭和のこどもの日の風景は、少しずつ遠ざかっていった。 おわりに 5月5日、こどもの日。 空には大きな鯉のぼり。夜には銭湯の菖蒲湯。そして湯上りに、冷たい瓶のコーヒー牛乳。 あれだけのことが、あんなにも嬉しかった。 昭和を生きた私たちにとって、こどもの日はそういう日だったのだと思う。あなたの記憶の中の5月5日には、どんな味や香りが残っているだろうか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月4日──ラムネと予言と、休日になった日 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月5日──鉄球が飛び、総理が捕まり、国鉄がなくなった日々 ▶

May 4, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月5日──鉄球が飛び、総理が捕まり、国鉄がなくなった日々

今日は5月5日、こどもの日だ。 空には鯉のぼりが泳ぎ、家には柏餅があって、夜は銭湯の菖蒲湯に入る。昭和のこどもの日にはそういう、穏やかで決まった景色があった。 でも、テレビをつければ、そこには違う景色が映っていた。 難しい顔をしたアナウンサーが、子どもには意味のわからない言葉を繰り返していた。「あさまさんそう」「ロッキード」「りんちょう」。何かが起きているとは感じた。でも何が起きているのかは、わからなかった。 あれから五十年近くが経った。今ならば、あの言葉の意味がわかる。 鉄球が、山荘に打ち込まれた──浅間山荘事件(昭和47年) 1972年の冬、日本中がテレビの前に釘づけになった。 2月19日、長野県軽井沢の山荘に武装した若者たちが立て籠もった。「連合赤軍」という名の学生運動グループが、管理人の妻を人質に取り、山荘に閉じこもったのだ。警察との対峙は10日間に及んだ。 子どもだった私には、「立て籠もり」という言葉の意味もよくわからなかった。でも、テレビに映し出された光景は目に焼き付いている。雪の中に機動隊員が並んでいて、クレーン車の先に大きな鉄球がぶら下がっていた。 2月28日の強行突入、あの鉄球が山荘の壁に打ち込まれる瞬間、視聴率は89.7%を記録した。ほぼ日本中の家のテレビが、同じ画面を映していたことになる。 事件が終わった後、もっと恐ろしい事実が明らかになっていった。 連合赤軍のメンバーたちは、山荘に立て籠もる前に、山の中で仲間どうしを「総括」という名目で殺し合っていた。14人が粛清された。革命を叫んでいた若者たちの末路は、自分たちの手で仲間を殺すことだったのだ。 大人たちが深刻な顔でそのことを話していた。子どもには意味がわからなかった。でも、何か取り返しのつかないことが起きたのだということは、なんとなく伝わってきた。 あの事件が、日本の学生運動の「終わりの始まり」だったと、今はわかる。 総理大臣が、捕まった──ロッキード事件(昭和51年) 「ロッキード」という言葉を、初めて聞いたのはいつだっただろうか。 1976年、私はまだ小学生だった。ニュースでは毎日のように「ロッキード」という聞き慣れないカタカナが飛び交っていた。父が「大変なことになった」と言いながらテレビを見ていた。 アメリカの航空機メーカー・ロッキード社が、日本の政治家や官僚に巨額の賄賂を渡していた。そのことが、2月のアメリカ上院の公聴会で暴露された。日本中が震えた。 そして7月、信じられないことが起きた。 元総理大臣の田中角栄が、逮捕されたのだ。 子どもながら、これは普通のことではないと感じた。総理大臣というのは日本で一番偉い人のはずだ。その人が手錠をかけられて連行される——そんなことがありえるのか、と。 「5億円」という金額がニュースで繰り返された。子どもには5億円がどれくらいの金額なのか想像もできなかったけれど、大変な数字だということはわかった。父が「やっぱりそういうことか」とつぶやいていた。 田中角栄という人は不思議な人だった。 逮捕されて裁判にかけられても、なお選挙では大量得票で当選し続けた。地元の新潟では英雄扱いだった。「コンピューター付きブルドーザー」と呼ばれた政治手腕を惜しむ声は根強かった。有罪判決が確定した後も、「闇将軍」として政界に影響力を持ち続けた。 この事件は「政治とカネ」という言葉を日本語に定着させた。それから五十年、同じ言葉が何度も何度も繰り返されている。 あの夏に見たニュースの衝撃は、大人になった今も消えない。 国鉄が、なくなった──臨調と行政改革(昭和56年) 「国鉄がなくなる」と聞いたとき、子どもの私には意味がわからなかった。 国鉄とは「国有鉄道」のことで、日本全国の鉄道を国が直接運営していた組織だ。昭和の子どもにとって、国鉄は空気のような存在だった。旅行に行けば国鉄、通学に使えば国鉄。あって当たり前で、なくなるはずのないものだと思っていた。 1981年3月、鈴木善幸内閣は「第二次臨時行政調査会」、通称「臨調」を発足させた。会長は土光敏夫という財界の大物で、「増税なき財政再建」というスローガンを掲げた。国鉄・電電公社・専売公社という三つの巨大な国営事業を民間に移すという、大改革の議論が始まった。 5月5日の頃、その審議は本格的に動き出していた。 でも子どもには、臨調が何なのかわからなかった。なぜ国鉄をなくす必要があるのかもわからなかった。ニュースの映像に出てくる難しい顔のおじさんたちが、難しい言葉で何かを言い合っている。それだけだった。 あれから時が流れ、1987年、国鉄は本当になくなった。 JR東日本、JR西日本、JR東海——今私たちが毎日使っている鉄道会社は、あの議論の果てに生まれたものだ。電電公社はNTTになり、専売公社はJTになった。「官から民へ」という言葉が日本政治のキーワードになり、その流れは二十年後の小泉構造改革まで続いた。 国鉄の赤字は、廃止の時点で37兆円にのぼっていたという。その借金は国民全体で分担することになった。平成になっても、令和になっても、まだ返し続けているものがある。財政の問題というのは、一度積み重なると、そう簡単には消えない。 「国鉄がなくなる」という言葉の本当の意味を、子どもの私はわかっていなかった。 おわりに 5月5日、こどもの日。 空には鯉のぼりが泳いでいた。でも、テレビの中では何かが揺れていた。 浅間山荘の鉄球。田中角栄の逮捕。国鉄をなくすという議論。 子どもだった私には意味がわからなかった。でも、あの出来事のひとつひとつが、今の日本を作ってきた。警察の特殊部隊が生まれ、「政治とカネ」という言葉が定着し、JRとNTTが誕生した。 大人たちがあの頃に格闘していた問題が、形を変えて今も続いている。 こどもの日に、昭和の大人たちが背負っていたものを振り返る。それが、あの時代を生きた私たちにできることのひとつかもしれない。 あなたの記憶の中の5月5日には、テレビの向こうにどんな景色が映っていただろうか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月5日──屋根より高い鯉のぼりと、銭湯帰りのコーヒー牛乳 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月6日──「ワープロ」という言葉が生まれた日、そして今 ▶

May 4, 2026