10月1日 ── カッパバッジは覚えていない。それでも特別だった都民の日|昭和の今日は何があった日?

今日は10月1日、都民の日です。 全国のカレンダーでは、何でもない平日です。けれど東京で子ども時代を過ごした人にとっては、少しだけ特別な日でした。学校が休みになるのです。 この日付には、もうひとつ出来事が重なっています。昭和41年(1966年)の10月1日、グリコの「ポッキー」が発売されたと年表に記されています。私が生まれる2年半ほど前のことです。 東京の子どもだけがもらえた休みと、手を汚さずに食べられるチョコレート菓子。今日は、この二つの10月1日について書いてみます。 「都民の日」は、東京の子どもだけの休み 都民の日とは、そもそも何の日なのでしょうか。 話は明治時代にさかのぼります。明治22年(1889年)に生まれた東京市には、しばらくのあいだ自前の市長がいませんでした。市長の仕事は東京府知事が兼ねていて、名前だけの「特例の市」だったのです。明治31年(1898年)10月1日、東京市はほかの市と同じ仕組みになり、東京市役所と東京市長が誕生しました。 この日は大正11年(1922年)に「自治記念日」となり、戦後の昭和27年(1952年)に「都民の日」と定められました。都民の日は都内の公立学校が休みになり、上野動物園をはじめとする都の動物園や庭園にも無料で入れるようになりました。 もっとも、子どもの私に「自治」の話は関係ありません。わかっていたのは、10月1日は学校がない、ということだけでした。 とはいえ、休みなのは子どもだけです。都民の日は東京都の条例で決められた記念日で、国民の祝日ではありません。会社はふだんどおりですから、大人たちは、たぶん仕事だったのでしょう。小学生の頃の都民の日は、近所の友だちと、いつもの休みの日と同じように遊んで過ごしていたと思います。 いつの年だったかは特定できませんが、母に上野動物園へ連れて行ってもらった年があったことは、記憶に残っています。明治15年(1882年)に開園した、日本でいちばん古い動物園です。 中学、高校に上がると、都民の日は野球部の活動の日になりました。授業はなくても、グラウンドには行く。私の10月1日は、そういう日に変わっていきました。 妻は覚えていた、カッパのバッジ 昭和の都民の日を語るなら、外せないものがあります。「カッパバッジ」です。 東京都は昭和30年代のはじめから、都民の日を記念したバッジを毎年発売していました。最初は彫刻家の朝倉文夫のデザインでしたが、昭和34年(1959年)からは漫画家・清水崑の描くカッパになります。隅田川にカッパが住んでいたという言い伝えがあることと、清水崑のカッパの漫画が大ブームだったことが理由だったそうです。 このバッジは、都の施設に無料で入るときの目印でした。区役所や市役所の窓口、宝くじ売り場で売られたほか、都内の小中学校でもまとめて買うことができました。そのため、1960年代から90年代にかけて東京で子ども時代を送った人なら、たいてい覚えているのがカッパバッジです。 ところが、私にはこのバッジの記憶がまったくありません。 昭和51年(1976年)からは、デザインが漫画家・小島功のカッパに変わりました。昭和51年は、私が小学校に入学した年です。小学生時代の私の身のまわりにも、小島功のカッパがあったはずなのですが、どれだけ思い出そうとしても出てきません。 いっぽう、2歳年下の妻は、このバッジのことをはっきりと覚えていました。同じ時代に、同じ東京で子どもだったのに、片方は覚えていて、片方はまったく覚えていない。大人たちが仕事で、近所の友だちと遊んで過ごす都民の日には、バッジの出番がなかったのかもしれません。 昭和47年(1972年)からは色違いの5個セットも売られるようになりましたが、子どもが買うには高すぎる値段になってしまったそうです。やがて無料で入れる施設も減り、バッジの役目は薄れていきます。カッパバッジの販売は、平成9年(1997年)の都民の日が最後になりました。 その後、平成30年(2018年)に「東京150年」を記念して、カッパバッジは21年ぶりに復活します。新しいデザインのものと並んで、小島功が描いた昭和52年(1977年)のカッパの復刻版も売られました。昭和52年といえば、私が小学2年生だった年のカッパです。 東京ローカルだったこのバッジが全国に知られるきっかけになったのは、漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』に登場したことだといいます。自分の住んでいる場所を人に説明するとき、いまでも「こち亀の亀有」と言う葛飾育ちの私が、そのバッジを覚えていない。少し不思議で、少し可笑しな話です。 3つ年上のお菓子、ポッキー さて、もうひとつの10月1日の話です。 ポッキーは、昭和41年(1966年)に江崎グリコから発売されました。昭和38年(1963年)から売られていた棒状のプレッツェル菓子「プリッツ」にチョコレートをかけ、端の部分だけはチョコをかけずに残して「持つところ」にしたお菓子です。手を汚さずに食べられるチョコレート菓子でした。この持ち手のアイデアは、大阪名物の串カツから思いついたとも言われています。 名前の由来は、食べるときの「ポッキン」という音です。発売前は「チョコテック」という名前でしたが、すでに同じ名前の商標があることがわかり、名前を変えることになったそうです。 いまでは海外でも売られ、チョコレートでコーティングされたビスケットとして世界でいちばん売れた商品に、ギネス世界記録で認定されたこともあります。生まれ年でいえば、私より3つ年上のお菓子です。 子どもの私にとって、ポッキーはちょっとお高い、高級なお菓子という印象でした。いつでも買ってもらえるものではありません。お出かけの日など、親の財布の口が緩みそうなときに、ようやく買ってもらえる特別なお菓子です。 だから、食べ方も慎重でした。持つところを握って、チョコのかかったほうから、ちょっとずつ味わう。それこそ大事に食べました。 いちごやアーモンドなど、いろいろな種類が出ていますが、ポッキーを選ぶなら、私はチョコ味です。 私が選ぶなら、やっぱりこれです。昭和41年から変わらない、いちばん基本のチョコ味。大容量の袋なら、子どもたちと分けても足ります。 江崎グリコ ポッキー チョコレート 大容量 8袋×6個江崎グリコ。昭和41年発売のロングセラー。チョコ味の個包装8袋入りが6箱。星4.2(85件) Amazonで見る › いまの10月1日 カッパバッジがなくなった平成9年、私は28歳でした。 それでも都民の日は、いまも続いています。上野動物園、多摩動物公園、葛西臨海水族園、浜離宮恩賜庭園、六義園など、都の施設の多くには今日も無料で入れます。ただ、学校が休みになるかどうかは、いまは区や市によって違うそうです。 わが家でも、私立の中学に進んだ長男と次男には、都民の日の休みはありませんでした。いっぽう、公立の小学校、中学校、高校に進んだ子どもたちは、この日が休みです。 そして私は、基本的に都民の日には仕事を休みにして、子どもたちと過ごすことにしています。 昨年と一昨年は、小学生の子どもを連れて上野へ出かけました。先に国立博物館を見て、そのあと動物園へ回るコースです。上野の国立博物館には、私自身も小さい頃から何度も行っています。子どもの頃は歴史に特に興味はなかったのですが、子どもを連れて行くようになってからは、私のほうが強い興味をもって見て回っています。 ...

October 1, 2026

9月28日 ── 私の16年と、「全員集合」の16年|昭和の今日は何があった日?

今日は9月28日です。 昭和60年(1985年)のこの日、土曜日の夜8時。TBSの『8時だョ!全員集合』が最終回を迎えました。16年、全803回。日本中の土曜の夜を占領してきた番組の、最後の放送でした。 この番組には、私にとって少し特別な数字がついています。 番組が始まったのは、昭和44年(1969年)10月4日。私が生まれたのは、同じ昭和44年の4月です。つまり全員集合は、私が生後半年のときに始まったことになります。 そして最終回の日、私は16歳の高校1年生でした。 私の人生の最初の16年は、そっくりそのまま、この番組の16年と重なっているのです。 「8時になったら、みんな集まる」 番組名の由来には、こんな話が残っています。 企画の説明会議の席で、スポンサーだったライオン油脂の広告部長が、8時になったらテレビの前にみんなが集まるような番組を作ってほしい、と注文をつけました。それを聞いたプロデューサーの居作昌果さんが、その場で思いついたのが『8時だョ!全員集合』というタイトルだったそうです。 第1回は三鷹市公会堂からの公開録画で、初回の視聴率は12.9%。その後は各地の公会堂や市民会館を回りながら、観客を前にした生放送で、練りに練ったコントを演じ続けます。渋谷公会堂だけで136回、文京公会堂で78回。舞台がぐるりと回る「回り舞台」や、最後にセットが崩れ落ちる大仕掛けは、生放送だからこその迫力でした。 絶頂期は昭和48年です。年間の平均視聴率は43.7%、4月7日の放送では番組最高の50.5%を記録しました。加藤茶さんの「ちょっとだけヨ」が子どもたちの間で大流行したのも、この頃です。その一方で、番組は「子どもに見せたくない番組」の常連でもありました。 昭和48年といえば、私はまだ4歳です。 それでも、加藤さんの「ちょっとだけヨ」を見た記憶は残っています。4歳から5歳くらいの頃でしょうか。高砂の線路沿いの家だったのか、中川の土手のそばの家だったのか、そこははっきりしません。 土曜の夜8時は、父がまだ仕事から帰ってきていない時間でした。テレビの前にいたのは、母と妹と私の3人です。母も一緒になって笑っていました。 世の中では「子どもに見せたくない」と言われていた番組を、我が家では母と子どもが並んで笑って見ていたわけです。8時になったら、テレビの前にみんなが集まる。スポンサーの注文から生まれた番組名そのままの光景が、我が家の土曜の夜にもありました。 私が小学生だった6年間は、ちょうど志村けんさんが人気者になっていく時期と重なります。志村さんが「東村山音頭」を初めて披露したのは昭和51年の3月、私が小学校に上がる直前の春でした。昭和54年には加藤さんとの「ヒゲダンス」が生まれ、昭和55年には「カラスの勝手でしょ」が子どもたちの間で大流行します。 東村山音頭も、ヒゲダンスも、「カラスの勝手でしょ」も、いまでも鮮明に覚えています。土曜の夜に見たギャグは、翌週の学校で必ずまねをしていました。クラスで「お楽しみ会」を開くと、出し物には必ずドリフのギャグが入っていたものです。私もひげを付けて、「ヒゲダンス」をやった覚えがあります。 ドリフの付き人から『全員集合』の人気者になっていった志村けんさんが、自分のお笑いと人生について書いた本です。東村山音頭が生まれた頃の話も出てきます。 変なおじさん【完全版】(新潮文庫・Kindle版)志村けん/新潮社。ドリフの付き人時代から『全員集合』『加トケン』『だいじょうぶだぁ』『バカ殿様』まで、お笑いにこだわり続けた人生を本人が語る。星4.5(319件) Amazonで見る › 小学6年生で、卒業した 5月16日の回で書いたとおり、私は小学6年生の頃、全員集合を「卒業」しました。漫才ブームに乗って、裏番組の『オレたちひょうきん族』を見るようになったのです。家にはテレビが何台かあって、チャンネル争いもなかったように思います。 同じように卒業していった子どもは、全国にたくさんいたのでしょう。 中学生になると、土曜の夜8時に全員集合を見ることは、もうありませんでした。いま思えば、そもそもテレビ自体をあまり見ていなかったのかもしれません。 昭和57年10月9日、全員集合は初めて視聴率でひょうきん族に敗れます。私が中学1年生の秋です。昭和59年には、年間の平均視聴率でも18.2%と、ひょうきん族の19.5%に抜かれました。 その昭和59年の6月16日には、こんな出来事もありました。埼玉の入間市民会館からの生放送が始まる直前、会場の照明が突然すべて消えたのです。放送の機材は外の電源車につながっていたため、放送そのものは止まりませんでした。真っ暗な舞台で懐中電灯を頼りにゲストを紹介し、いかりやさんは「8時9分半だョ!」と掛け声をかけ直したといいます。この夜の視聴率は、いつもより10%ほど高い26.2%でした。 私はこの停電の回を見た記憶はありません。ただ、話題として聞いた覚えはあります。見なくなった番組の出来事が、それでもどこからか耳に入ってくる。全員集合は、まだそういう番組でした。 この停電騒ぎは、のちにスタジオ中心の放送へ切り替わるきっかけのひとつになったともいわれます。秋からは各地の公会堂を回るのをやめ、TBSのスタジオからの放送が中心になりました。私は中学3年生でした。 そして昭和60年7月19日、TBSは9月いっぱいでの番組終了を正式に発表しました。公開の生放送を続けることには限界があり、ナンセンスギャグもやり尽くした。それが理由として挙げられていました。 私が高校1年生の夏です。このニュースを聞いた覚えは、私にはありません。たぶん、気がついたら終わっていた。そんな感じだったのだと思います。 最終回の夜 昭和60年9月28日、土曜日。最終回は、TBSのGスタジオからの生放送でした。 かつてのメンバー、荒井注さんもゲストで顔を見せました。前半は、おなじみの「母ちゃんコント」。後半は番組の名場面集。そしてゲストからドリフの5人に花束が贈られ、いかりや長介さんが、16年間の声援に感謝の言葉を述べました。 最後はいつものように、出演者全員でエンディングの「ビバノン音頭」を歌います。天井からは紙吹雪が舞い、加藤さんが「長い間ありがとう」「元気で!」と呼びかける。観客は総立ちになり、画面には「長い間ありがとうございました」の字幕が流れて、番組は終わりました。 この夜の視聴率は34.0%。 この年の全員集合は、ふだんは15%前後にとどまり、ほとんどの週でひょうきん族の後ろを走っていました。最終回の前の週も15.9%です。それが、最後の夜だけ倍以上に跳ね上がりました。 ふだんは見ていなかった人たち、とうに卒業したはずの人たちが、この夜だけはテレビの前に戻ってきたのだと思います。 ...

September 28, 2026

9月26日 ── 630万円の机と、かな漢字変換|昭和の今日は何があった日?

昭和53年(1978年)9月26日。東京芝浦電気、いまの東芝が、ひとつの機械を発表しました。 名前は「JW-10」。世界で初めての、日本語のワードプロセッサです。 この日は、いまでは「ワープロ記念日」と呼ばれています。そのとき私は9歳、小学3年生でした。もちろん、そんな機械が世に出たことなど知るはずもありません。けれど、いまこの文章をキーボードで打ちながら、ふと気づきました。私が毎日こうして日本語を「打てて」いるのは、あの日から始まったことなのだと。 630万円、220kgの「机」 JW-10は、片袖の事務机ほどの大きさがありました。重さは220kg。キーボードとブラウン管、10MBのハードディスク、8インチのフロッピーディスク、それにプリンターまでが、ひとつの筐体に収められていました。 価格は630万円。大卒の初任給が10万円ほどの時代です。630万円あれば、当時なら新車が何台も買えたはずです。発売は翌年の2月でした。 内蔵のハードディスクに保存できたのは、400字詰めの原稿用紙に直しておよそ800枚分。いまのスマホなら写真1枚にも足りない容量ですが、当時としては「文章を機械の中にしまっておける」こと自体が驚きでした。発表のその日、JW-10は展示会の会場でさっそく実演されています。 開発を率いたのは、東芝の技術者・森健一さんです。きっかけは昭和46年ごろ、新聞記者との何気ない雑談だったといいます。「日本の記者は、欧米の記者より記事を書くのが遅い」。その理由を、森さんは道具の差に見ました。アルファベットならタイプライターで打てる。けれど日本語には、ひらがな、カタカナ、そして何千もの漢字がある。 それまで日本語の文書を機械で作るには、和文タイプライターを使うしかありませんでした。大量の漢字が並んだ盤から、一文字ずつ拾って打っていく。専門の技能を持った人の仕事です。 JW-10が変えたのは、そこでした。ひらがなで読みを打ち込めば、機械が漢字に変えてくれる。「かな漢字変換」です。しかも一度打った文章を直したり、入れ替えたり、保存したりできる。和文タイプではできなかったことでした。 開発のときに掲げられた目標は、「場所を選ばず、手書きより速く日本語を書けるようにすること」だったそうです。森さんは当時から、いずれは小さく軽くなり、文章を送れるようにもなると考えていました。 この発明は、平成20年(2008年)に、電気・電子技術の歴史に残る業績を認定する「IEEEマイルストーン」にも選ばれています。 9歳の私が見ていた「大人の文字」 学校で配られるプリントや学級通信は、先生の手書きでした。ガリ版で刷られた、少し紫がかったインクの文字。紙はわら半紙です。 ガリ版は、ロウを引いた原紙に鉄筆で字を刻み、そこにインクを通して刷る印刷のしかたです。原紙を切るのも先生、刷るのも先生。学級通信の一枚一枚には、先生の手の跡がそのまま残っていました。 いま思い出してみると、家の中で目に浮かぶのは両親の手書きの文字です。父の字と、母の字。みんなそれぞれに、書く文字にはくせがありました。字を見れば、誰が書いたのかがわかりました。それが当たり前の時代でした。 630万円の机が発表されたその日も、私のまわりにあった文字は、先生の字であり、父や母の字でした。どれも、誰かの手で書かれたものだったのです。 630万円が5万円になるまで ワープロの値段は、そこから驚くほどの速さで下がっていきます。 昭和55年から、電機メーカーや事務機メーカーが次々に参入しました。昭和57年には、富士通が関取の高見山を起用したテレビCMを流し、「ワープロ」という略し方が一気に広まったといわれています。もっとも、中学1年生だった私には、このCMの記憶はありません。 昭和55年に平均200万円ほどだったワープロは、昭和60年には16万円台まで下がりました。同じ年には、カシオが5万9800円、キヤノンが4万9800円という機種を出して、「電卓戦争の再現」とまで言われます。東芝も、手で持ち運べる大きさの「Rupo」を9万9800円で売り出しました。 昭和57年には、ワープロを売るメーカーが23社にもなっていました。NECの「文豪」、シャープの「書院」、富士通の「OASYS」。名前を聞くだけで、あの頃の家電売り場のにおいを思い出す方もいるかもしれません。富士通のOASYSには、親指でシフトキーを押し分ける独特のキーボードがあり、いまも根強い愛用者がいるそうです。 630万円から、5万円へ。わずか7年ほどのあいだの出来事です。 値段が下がれば、買う人が増えます。昭和60年には、日本語ワープロの年間の生産台数が初めて100万台に届き、翌昭和61年には200万台を超えました。ワープロは、会社の机の上から、少しずつ家庭の机の上へと降りてきたのです。 昭和60年、私は高校1年生。頭の中は野球のことでいっぱいでした。高校時代にも、浪人時代にも、ワープロを見たり触ったりした記憶はありません。家電売り場に並んでいるのを見た覚えはあります。けれど、興味はもちませんでした。 9万8千円の「書院」 そんな私が、初めてワープロを買ったのは、大学4年生のときです。卒業論文の課題があったので、シャープの「書院」を購入しました。確か9万8千円ほどだったと思います。JW-10のおよそ60分の1の値段です。 ところが、結局使いこなせませんでした。卒業論文は、手書きで仕上げました。 9万8千円は、無駄になっちゃいました(笑)。 家電売り場で素通りしていたあの機械を、ようやく手に入れたのに、最後に頼ったのは自分の手だったわけです。 JW-10の開発で掲げられた「手書きより速く」という目標は、少なくとも大学4年生の私には、まだ届いていなかったようです。機械が悪かったのではありません。ガリ版と鉛筆の時代に育った手のほうが、まだ新しい道具に追いついていなかったのだと思います。 信用金庫の机の上で 平成5年(1993年)、私は大学を出て、信用金庫に入りました。 職場には業務用のパソコンがありました。ただ、それは業務上のオペレーションのためだけのものです。書類は基本的にすべて手書きでした。そしてそれは、7年後に信用金庫を退職するまで、特に変わることはありませんでした。 日本語ワープロの普及率は、平成9年ごろに4割を超えたといわれています。世の中がそこまで進んでいたころも、私の机の上の書類は手書きのままでした。ガリ版の学級通信から20年近くたっても、私はまだ手書きの側にいたのです。 令和、ブログを書く指先 いま、このブログはパソコンで書いています。 ...

September 26, 2026

9月25日 ── 1%の手術と、サンデー兆治|昭和の今日は何があった日?

昭和49年(1974年)9月25日。アメリカ・ロサンゼルスで、ひとりのピッチャーが手術台に上がりました。 ドジャースの左腕、トミー・ジョン。切れてしまった肘の靭帯を、体の別の場所の腱で作り直すという、それまで誰も受けたことのない手術でした。成功の見込みは1%。医師自身がそう伝えたといいます。 その年の私は5歳。保育園に通っていました。ちょうどこの頃、父が出勤前の早朝に、近所の広い公園でキャッチボールをしてくれるようになり、それが私と野球の出会いになりました。 キャッチボールをしたのは、高砂北公園でした。私の最初のグローブは、父がどこかでもらってきた「SSK」でした。ボールは最初こそやわらかいボールでしたが、わりとすぐに軟球に変わりました。 父は、特に何かを教えるでもなく、何も言いませんでした。ただただ投げて、取って、投げて、取って。それをもくもくと繰り返すだけです。それでも、あの朝の光景は、今でもはっきりと覚えています。 海の向こうで、ひとりの投手が選手生命を懸けて肘にメスを入れていた頃、葛飾の公園では、5歳の子どもが初めてボールを投げていた。もちろん当時の私は、そんなことを知るよしもありません。この手術の名前を知るのは、それから10年ほど先のことです。 成功率1%の賭け トミー・ジョンは、もともと速球で押すタイプではなく、沈む球で内野ゴロを打たせる頭脳派の投手でした。昭和49年のシーズンも13勝3敗と好調で、チームは地区優勝を目指していました。 ところが7月17日の試合中、得意のシンカーを投げた瞬間に、左腕がしびれるような違和感に襲われます。診断は肘の靭帯の断裂でした。当時の常識では、ピッチャーとしてはもう終わりです。 そこでチームドクターのフランク・ジョーブ博士が提案したのが、傷んだ靭帯の代わりに、体のほかの部位から正常な腱を移して肘を作り直すという方法でした。前例はひとつもありません。それでもジョンは、この手術に懸けました。 結果は、奇跡と呼ばれるものになりました。1年9か月のリハビリを経て、昭和51年(1976年)4月にマウンドへ戻ると、翌年には自身初の20勝。ヤンキースに移ってからも勝ち続け、46歳まで投げ抜きます。手術のあとだけで164勝、通算288勝。この復活劇から、肘の靭帯再建手術は、彼の名前で呼ばれるようになりました。 マサカリが帰ってきた春 日本でこの手術の名前が一気に広まったのは、昭和60年(1985年)のことです。主役はロッテ・オリオンズの村田兆治でした。 左足を高く上げ、全体重を右足にためてから、斧を振り下ろすように投げ込む「マサカリ投法」。そこから繰り出す剛速球と、伝家の宝刀フォークボール。昭和50年代の村田は、最多セーブ、最優秀防御率、最多勝と、数々のタイトルを手にした豪腕でした。 その村田の肘が悲鳴を上げたのが、昭和57年(1982年)4月です。先発した試合で、わずか1回で降板。当時の日本球界では、投手の肘にメスを入れるのはタブーのように考えられていました。村田は迷った末に海を渡り、昭和58年、あのジョーブ博士の手術を受けます。 博士の教えを守って地道なリハビリを続け、昭和59年の終盤に一軍へ復帰。そして迎えた昭和60年、村田は開幕から11連勝という劇的な復活を見せます。肘をいたわるために中6日の間隔を空け、日曜日に先発を重ねたことから、ついた呼び名が「サンデー兆治」。この年17勝5敗でカムバック賞に輝き、「トミー・ジョン手術」という言葉は、日本の野球ファンにも知れ渡っていきました。 高校1年生になったばかりの私は、この「サンデー兆治」の活躍に毎週注目していました。テレビのスポーツニュース、新聞、友だちとの会話。村田兆治の情報は、ちくいちチェックしていたものです。 とはいえ、ロッテ戦をテレビ中継で観ることはありませんでした。村田兆治が投げる姿を目にできたのは、『プロ野球ニュース』の映像だけです。それでも、巨人ファンの私にとって、村田兆治は特別な投手のひとりでした。あのマサカリ投法は、私もまねをしました。 だからこそ、「肘を手術して復活した」と聞いたとき、私は正直「本当に?」と疑いました。肘にメスを入れた投手が、またあの豪快なフォームで投げられる。そんなことが、にわかには信じられなかったのです。 その疑いは、見事に裏切られました。村田はその後も投げ続け、平成元年(1989年)には通算200勝を達成し、最優秀防御率のタイトルも手にします。翌平成2年、10勝を挙げたシーズンを最後にユニフォームを脱ぎました。ロッテ一筋で、通算215勝です。 ロッテ番の記者として村田兆治を間近で見てきた著者が、マサカリ投法の現役時代から引退後までを書いた一冊です。あの復活の裏で何が起きていたのかが読めます。 村田兆治という生き方 <マサカリ投法、永遠なれ>松山秀明/ベースボール・マガジン社(2024年12月刊)。サンデー兆治への軌跡、ロッテ番の目で見た大エース、引退スクープ、離島での野球振興まで。星5.0(7件) Amazonで見る › 全打者、三振のつもりで 私自身も、中学の野球部ではピッチャーでした。公立中学ながら練習はハードで、伝統的に強い学校です。マウンドに立つときは、本気で全打者を三振に取るつもりで投げていました。お手本にしていた投手が特にいたわけではありません。とにかく、ヒットを打たれるのが嫌だったのです。 ときどき、肘に痛みが出ることがありました。それでも当時は、「みんなどこか痛いところを持ちながらやっている」なんて思い込んでいましたから、休まずに練習を続けていました。1試合で150球くらいは投げていたのではないかと思います。 連投は当たり前でした。「昨日2試合、今日1試合」なんてこともあったくらいです。 そして、まさに「肩を冷やすな」「水を飲むな」の時代でした。とはいえ、飲まないわけにはいきません。私はトイレでこっそり水を飲んでいました。練習で何がきつかったかといえば、やっぱり水が飲めなかったことです。 昭和の野球では、痛みをこらえて投げることが、どこか美談として語られていました。エースは連投してあたりまえ。肘や肩の痛みは、根性で乗り越えるもの。私も、そんな空気のなかでマウンドに立っていたひとりです。その頃の野球少年にとって、「肘にメスを入れて復活する」という村田兆治の姿は、ひとつの時代の常識を静かに揺さぶる出来事だったのかもしれません。 令和のマウンドで あれから40年。いまやトミー・ジョン手術は、特別な出来事ではなくなりました。ダルビッシュ有や大谷翔平といったトップ選手も受け、プロ野球では毎年のように、若い投手がこの手術から復帰を目指しています。 元ピッチャーとして、これは本当に良かったと思います。肘を壊せばそれで終わりだった時代から、手術を受けてもう一度マウンドを目指せる時代へ。再起への希望が持てるようになったのですから。 高校野球にも、投手の体を守るための球数制限が導入されました。連投が当たり前で、1試合150球を投げ、水さえ隠れて飲んでいた私の頃とは、まるで別の世界です。 変わったのは、ルールだけではありません。今はYouTubeの動画などで、投げ方や体の使い方について、良い情報に触れられる時代です。子どもたちのレベルは、私の頃とは比べものにならないくらい上がったと感じます。 そして今年の8月15日、トミー・ジョン本人が83歳で亡くなったというニュースが届きました。成功率1%の手術を受けたあの日から、半世紀あまり。彼の名前は、これからも世界中のマウンドで、肘を痛めた投手たちの希望として呼ばれ続けるのでしょう。 肩と肘を痛めない投げ方を、写真と図でていねいに説明した本です。子どもや孫が野球をしているご家庭に、一冊あっていいと思います。 投球障害0へ! ゼロポジションでつくる最強の肩と肘ナツメ社(2025年7月刊)。肩甲骨と上腕骨を同じ平面に保つ「ゼロポジション」を軸に、肩・肘の故障を防ぐ投げ方とトレーニングを解説。星4.8(10件) Amazonで見る › おわりに 今でも私は、細々とではありますが、自分で野球を続けています。子どもたちの練習を見たり、キャッチボールをしたりすると、結局、自分も野球が好きなんだなと思います。 路線バスの運転席から、公園で親子がキャッチボールをしている姿を見かけることがあります。そんなときは、つい目で追ってしまいます。お父さんが少し強く投げ過ぎれば「もうちょっと優しく投げてやれよ」と思ったり、子どもが懸命にボールを追いかけている姿を見れば、「頑張れ」と心の中で声をかけたりします。 トミー・ジョン手術を乗り越えた投手たちや、村田兆治さんの「サンデー兆治」を振り返ると、野球は若いときだけのものではないのだと思います。速い球を投げられなくなっても、遠くまで走れなくなっても、ボールを握ったときの気持ちまで失う必要はない。 私もこれから年齢を重ねていく中で、走ることも、体を動かすことも、そして子どもたちと野球をすることも、できる限り続けていきたいと思っています。 ...

September 25, 2026

9月22日 ── 「なぜだ!」と叫んだ大人と、何も知らなかった野球少年|昭和の今日は何があった日?

9月22日という日付を調べていて、少し不思議な気持ちになった。 昭和57年のこの日と、昭和60年のこの日。3年をはさんだ二つの9月22日に、大人の世界ではそれぞれ大きな出来事が起きている。ひとつは東京・日本橋のデパートの会議室で、もうひとつはニューヨークのホテルで。 昭和57年の私は中学1年生、昭和60年の私は高校1年生。どちらの秋も、頭の中は野球のことだけだった。 今回は、その二つの9月22日の話を書いてみたい。 昭和57年9月22日、日本橋の会議室で 昭和57年(1982年)9月22日、東京・日本橋の三越本店で、定例の取締役会が開かれた。 議題がひととおり終わり、最後の「その他」に入ったところで、社長の腹心として知られていた専務が立ち上がり、社長の解任を提案した。社長以外の取締役が次々と起立し、16対0で可決。10年にわたって三越を率いてきた岡田茂社長は、その場で代表権を失った。 岡田社長は「流通界の革命児」と呼ばれる一方、社内では異論を許さない独裁的な経営で「岡田天皇」とまで呼ばれていた人である。この年の夏には、日本橋本店で開いた「古代ペルシア秘宝展」の展示品の多くが偽物だったことが新聞で報じられ、さらに親しい女性の会社への不当な利益供与も問題になっていた。老舗デパートの名門ぶりとは裏腹に、内側はかなり揺れていたのである。 解任を告げられたとき、岡田社長が口にしたとされるのが「なぜだ!」のひと言だった。この言葉はテレビや新聞で繰り返し取り上げられ、その年の流行語になった。岡田氏はその翌月、特別背任の容疑で逮捕された。その後、裁判で実刑判決を受け、上告して争っている最中の平成7年に80歳で亡くなっている。「革命児」と呼ばれた経営者の、あまりに苦い幕切れだった。 昭和57年の9月といえば、私は中学に入学して半年。伝統的に強い野球部で、毎日きつい練習に明け暮れていた頃である。 では、中学1年生の私はこの騒ぎをどう見ていたのか。 正直に書くと、まったく覚えていない。 流行語さえ、届いていなかった 大人の世界の事件というのは、子どもにとってはたいてい中身がよく分からない。取締役会とは何か、代表権とは何か、特別背任とは何か。中学1年生がそれを理解していたとは思えない。 それでも「なぜだ!」という言葉くらいは、子どもの耳にも入りやすかったはずである。短くて、感情がむき出しで、どんな場面にも使える。昭和の流行語には、大人の事件が言葉ひとつに縮んで子どもの世界に流れ込んでくるものが多かった。 ところが私の記憶には、その言葉すら残っていない。テレビのニュースで見た覚えも、教室や部室で誰かが真似していた覚えもない。世間で流行語になるほどの騒ぎでも、野球漬けの中学1年生のところまでは届かなかったらしい。 もうひとつ理由があるとすれば、三越というデパートそのものに、私はほとんど馴染みがなかった。 葛飾で育った私にとって、デパートといえば上野の松坂屋だった。屋上には遊園地があり、食堂があった。その光景は今でも覚えている。上野は、国立博物館にも何度も連れて行ってもらった町で、子どもの私が知っている「都会」はだいたいそのあたりまでだった。 日本橋の三越は、同じデパートでも、私の暮らしの外側にあったのだと思う。だからその社長が解任されようが「なぜだ!」と言おうが、自分とつながる話として受け取る手がかりがなかったのだろう。 三越も松坂屋も、江戸時代の呉服屋から始まっています。屋上に遊園地があった頃から、いまの苦しい時代まで。デパートという商売の四百年を一冊でたどれる新書です。 百貨店・デパート興亡史(イースト新書)梅咲恵司/イースト・プレス。三越、伊勢丹、高島屋、松坂屋、大丸、西武……日本の百貨店がどう栄え、どう揺らいできたかをたどる。星4.1(31件) Amazonで見る › 昭和60年9月22日、ニューヨークのホテルで それから3年後の昭和60年(1985年)9月22日。今度の舞台は、ニューヨークのプラザホテルである。 この日、日本・アメリカ・イギリス・フランス・西ドイツの5か国の大蔵大臣と中央銀行総裁が集まり、行き過ぎたドル高を是正するために協調して為替市場に介入することで合意した。会議が開かれたホテルの名前をとって「プラザ合意」と呼ばれている。日本からは、のちに首相となる竹下登大蔵大臣が出席していた。 会議そのものは20分ほどで終わる形式的なものだったというが、その効き目はすさまじかった。1ドル235円前後だった為替相場は、合意の翌日までに約20円も円高に動き、1年後には150円台で取引されるようになった。昭和62年の暮れには、1ドル120円台にまで達している。わずか2年ほどで、ドルの値打ちがほぼ半分になった計算である。 円高は、輸出で稼いできた日本の製造業を苦しめた。一方で、輸入品が安くなり、海外旅行ブームが起きた。そして円高不況を心配した日本銀行が低金利を続けたことで、お金が土地や株に流れ込み、やがてバブル景気へとつながっていく。昭和の終わりから平成のはじめにかけての、あの浮かれた時代の出発点のひとつが、この9月22日だったと言われている。 昭和60年の9月、私は高校1年生だった。 このニュースも、私はまったく憶えていない。たぶん関心もなかったし、仮に聞いていたとしても理解はできなかっただろう。ドルだの為替だのという言葉は、耳に入ったとしても、そのまま通り抜けていったのだと思う。 当時の私にとって、関心ごとは野球だけだった。 8年後、信用金庫で 高校1年生の私が何も知らないうちに始まった円高とバブルは、その後、思いがけない形で私の人生にも届いてきた。 私が大学を卒業して信用金庫に入ったのは、平成5年(1993年)のこと。プラザ合意からちょうど8年後である。そのころにはバブルはすでにはじけ、世の中の金融機関は膨らんだ土地や株の後始末に追われていた。 もっとも、入って間もない私にとって、バブル崩壊後の空気はこれといって印象に残っていない。入社当時は、何も分からずに働いていた。ここでもまた、大きな時代のうねりは、私の頭の上を通り過ぎていったことになる。 それでも、信用金庫で過ごした7年間は、その後の生活に相当役に立っている。金利、簿記、借入、預金。窓口と帳簿の中で身につけた知識と経験は、いま自分が行っている「投資」へとつながっていった。お金の話に尻込みすることなく、積極的に取り組める基礎になったのは、間違いなくあの7年間である。 ニューヨークのホテルで20分ほどで決まったことは、16歳の私には何ひとつ届かなかった。24歳の私にも、その余波ははっきりとは見えていなかった。けれど、その余波の中で働いた日々が、何十年もたった今の私を支えている。時代というのは、見えないところで、ちゃんと人の人生に流れ込んでくるものらしい。 プラザ合意による円高と、その後の低金利。そこから土地と株の狂乱までを、経済記者として四十年見続けた人が書いた一冊です。高校1年生の私が素通りした出来事の、その先で何が起きていたのかが分かります。 バブル―日本迷走の原点―(新潮文庫)永野健二/新潮社。プラザ合意から金融自由化、地価と株価の狂乱、そして崩壊まで。日本経済新聞の記者として現場を見続けた著者によるノンフィクション。星4.2(398件) Amazonで見る › おわりに 昭和57年の三越事件、そして昭和60年のプラザ合意。 ...

September 22, 2026

9月19日 ── 錆の下から現れた百十五文字と、昭和が終わりはじめた夜|昭和の今日は何があった日?

九月十九日という日付には、ちょうど十年をへだてて、ふたつの出来事が並んでいる。 ひとつは、千五百年前の歴史が新しく読み直された日。 もうひとつは、自分が生きている時代そのものが、終わりへ向かって動きはじめた日。 九歳の私と、十九歳の私。どちらも、その日付の上に確かに立っていた。 そして先に白状しておくと、私はそのどちらも覚えていない。 昭和五十三年九月十九日 錆の下の百十五文字 埼玉県行田市に、埼玉(さきたま)古墳群と呼ばれる一帯がある。その中の稲荷山古墳という前方後円墳から、昭和四十三年の発掘調査で一本の鉄剣が出土した。長さは七十三センチあまり。ただし全体が分厚い錆に覆われていて、そこに文字があるとは誰も気づかなかった。 そのまま十年が過ぎた。昭和五十三年、保存処理のために鉄剣は奈良へ送られる。錆の進行を止めるための、いわば修理の作業である。その過程でX線撮影が行われ、錆の下に金色の線が走っていることがわかった。金象嵌——鉄の表面に溝を彫り、そこに金を埋め込む技法である。 読み取られた文字は、百十五字あった。しかも、そのすべてが判読できた。古墳時代の刀剣に刻まれた銘文としては、文字数において群を抜いている。九月十九日、その解読の成功が明らかにされた。 中身がまた尋常ではなかった。ヲワケという人物が、自分の祖先をオホヒコから八代にわたって書き連ね、代々「杖刀人(じょうとうじん)の長」——大王の宮を警護する武官の長であったと記す。そして自分が「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」の統治を助けた功績を記念して、辛亥の年にこの剣を作らせた、と結んでいる。辛亥の年は西暦四七一年とみられている。 ワカタケル大王は、雄略天皇にあたると考えられている。 そして重要なのはここからで、熊本県の江田船山古墳から出ていた銀象嵌の大刀にも、欠けた文字の並びから同じ大王の名が刻まれていたらしいことになった。九州と、関東。千キロ以上離れた二つの土地の墓に、同じ大王の名を刻んだ刀が眠っていた。 五世紀後半には、すでに大王の力が九州から東国まで届いていた——古代史の姿が、この日を境に書き換わったのである。 九歳の私には、届いていなかった 昭和五十三年の秋、私は小学三年生だった。 この発見を伝えるニュースも新聞も、まったく覚えていない。「百年に一度の発見」と言われたほどの騒ぎだったのに、九歳の私の耳にはひとかけらも残らなかった。 古墳そのものは習った記憶がある。前方後円墳の形とか、仁徳天皇陵の大きさとか、その程度のことは頭に入っている。だがワカタケル大王という名前については、まるで記憶がない。習ったのに忘れたのか、そもそも教わらなかったのか、今となっては確かめようがない。正直に言って、小学校から中学校にかけての私は、歴史に特別な興味を持っていなかった。 ただ、博物館にはよく行っていた。上野の国立博物館には、小さい頃から何度も連れて行かれている。行った記憶はあるのに、そこで何を見たのかはほとんど残っていない。子どもの目には、ガラスケースの中の土器も刀もただの古い物にしか映らなかったのだろう。 面白いもので、その同じ上野へ、今は自分の子どもを連れて行く立場になった。そして子どもの頃とは比べものにならないほど強い興味を持って、展示の一つひとつを見て回っている。説明の札を最後まで読む。順路を戻ってもう一度見る。子どもの方が先に飽きて、早く行こうと袖を引っ張ってくる。 かつて自分が引っ張っていた袖を、今は引っ張られている。 錆の下に千五百年間、誰にも読まれずに眠っていた文字がある日突然読めるようになる。歴史というのは固まったものではなく、あとから書き足されたり書き直されたりするものらしい。そして人間の興味というものも、どうやら何十年か遅れて読み出せるようになるものらしい。 九歳の私が読み逃した百十五文字の話を、発掘から解読まで一冊にまとめた本があります。九十六ページの薄い本なので、子どもと博物館へ出かける前の予習にもちょうどいい大きさです。 鉄剣銘一一五文字の謎に迫る・埼玉古墳群(シリーズ「遺跡を学ぶ」16)高橋一夫/新泉社。稲荷山古墳の発掘から、X線で浮かび上がった115文字の銘文、ワカタケル大王の時代までをたどる。星4.4(10件) Amazonで見る › 昭和六十三年九月十九日 その夜のこと それから十年。 昭和六十三年九月十九日の深夜、昭和天皇の容態が急変し、大量の吐血があった。 前の年の秋に開腹手術を受けられており、この九月に入ってからは発熱が続いていた。そして十九日の夜、事態は一段深いところへ落ちた。以後、日本中が「ご容態」という言葉とともに冬を迎えることになる。 テレビは定時のニュースのたびに、血圧、脈拍、体温、そして輸血量を読み上げるようになった。数字が報じられ、そのたびに国全体が息を詰めてそれを聞く。 そして「自粛」という言葉が、日本を覆った。 秋祭りが中止になり、運動会が取りやめになった。テレビCMから明るい調子のものが消え、催しが次々と見合わせになった。皇居前には記帳のための長い列ができた。誰が命じたわけでもないのに、日本中がそろって声を落とした。 あの秋を経験した人間にとって、「自粛」は単なる二文字ではない。空気そのものの名前である。 十九歳の一日 ——と、そこまで書いておいて申し訳ないのだが、その空気を私はほとんど覚えていない。 ...

September 19, 2026

9月18日 ── 世界初のカップ麺が生まれた日。カップヌードルと、腕に残った丸い跡|昭和の今日は何があった日?

昭和46年9月18日。この日、日清食品が「カップヌードル」を発売した。世界で初めての、カップに入った即席麺である。 私はそのとき二歳五か月だった。当然、発売のニュースなど知るはずもない。ただ、この日に生まれた食べものは、そのあと五十年以上にわたって私の人生のあちこちに顔を出すことになる。小学校の帰り道にも、部活で疲れ切った夜にも、浪人中の深夜のコンビニにも、そして今の仕事の合間にも。 九月十八日は、私にとって「気づいたときにはもうそこにあったもの」が始まった日だ。 百円のカップと、割られた袋麺 カップヌードルを生んだのは、日清食品の創業者・安藤百福である。昭和33年に「チキンラーメン」で即席麺というものを世に出した人物だ。 日清が語り継いでいる有名な逸話がある。安藤がアメリカに渡って袋麺の売り込みをしたとき、現地の担当者が袋を開けて麺を割り、紙コップに入れ、湯を注いでフォークで食べはじめた。日本のようにどんぶりと箸があるとは限らない。ならば器ごと売ってしまえばいい ― そこからカップ入りの即席麺という発想が生まれた、という話である。 しかし、実際に商品にするまでの道のりは長かった。麺をカップの中でどう支えるか。上から落とし込んでも麺は底まで沈んでしまい、湯の回りが悪くなる。日清が編み出したのは、麺を容器の中ほどで止めるという構造だった。麺の下に空間ができ、注がれた湯が上下から均等に回る。カップを逆さにして麺をかぶせる、という発想の転換だったといわれる。 容器は発泡スチロール。当時としてはまだ高級な素材で、熱い湯を注いでも手で持てて、そのまま器になる。ふたを開ければフォークが付いている。エビ、肉、卵 ― 具が最初から入っている。 価格は百円だった。当時の袋入り即席麺が三十円前後だったことを思えば、三倍以上である。「ラーメン一杯に百円も出すのか」という値段だった。 発売直後の売れ行きは、決してよくなかったという。転機になったのは同じ年の11月21日、銀座の歩行者天国での試食販売である。屋外で、湯さえあれば立ったまま食べられる。この売り方が当たり、若い客が長い列をつくった。 そして翌昭和47年2月、あの映像が茶の間に流れる。 三分間という長さ 子どもにとって、湯を注いでから三分というのは妙に長い時間だった。ふたを押さえていないと開いてしまうので、私は何かで重しをした記憶がある。時計の秒針を見ていたわけではない。ただ「そろそろかな」と思ったところで開ける。早すぎれば麺が固く、遅すぎれば伸びている。 今にして思えば、あれは子どもが自分ひとりで完結させられる、数少ない「調理」だった。火を使わない。包丁もいらない。湯さえあれば、自分の食べるものを自分で作れる。大人の手を借りずに腹を満たせるという小さな自立が、あの発泡スチロールのカップには入っていた。 大人の世界と、湯気の立つカップ 昭和47年2月、長野県の山荘に人質をとって立てこもった事件を、国じゅうがテレビで見ていた。極寒の現場で、機動隊員が湯気の立つカップを手にしている姿が映し出される。あれがカップヌードルだった。 この映像が全国に流れたことで、カップ麺は一気に知られる存在になったといわれている。売れ行きは跳ね上がった。 私が物心ついたころには、カップヌードルはもう「昔からあるもの」の顔をしていた。テレビの中の非常事態と結びついていたことなど、知る由もない。食べものというのは、そうやって世代ごとに違う記憶をまとっていくのだろう。私にとってのカップヌードルは、事件の記憶ではなく、日常の記憶である。 カップヌードルを生んだ安藤百福本人が、チキンラーメンからカップヌードルまでの道のりを書いた自伝です。事業に失敗して無一文になったあと、四十八歳でチキンラーメンを生んだ人の話なので、五十代で読むと身にしみます。 魔法のラーメン発明物語 私の履歴書(Kindle版)安藤百福/日本経済新聞出版。日経「私の履歴書」をもとにした自伝。裏庭の小屋でのチキンラーメン開発から、カップヌードル誕生まで。星4.0(99件) Amazonで見る › 深夜のレジの向こう側 昭和63年、私は浪人していた。予備校には通わず、セブン-イレブンの夜勤を週に四日入れながら、自分で受験勉強を進めていた。 コンビニの夜勤をしたことがある人なら分かると思うが、深夜の店内でいちばん存在感があるのはカップ麺の棚である。壁一面に積み上がって、客が来ない時間はただ静かにそこにある。 昭和46年に百円で売り出された「ぜいたくなラーメン」は、私が浪人をしていたころにはもう、深夜に誰でも買える当たり前の食べものになっていた。十七年で、ぜいたくは日常に変わる。 昭和51年9月18日、注射がひとつ消えた 同じ九月十八日に、もうひとつ書いておきたいことがある。 昭和51年9月18日、厚生省は全国の市町村に対し、種痘 ― 天然痘の予防接種 ― の定期接種を取りやめるよう通達した。日本では長く、法律に基づいて子どもに種痘を受けさせることになっていたが、接種による健康被害を訴える声が続き、国内で天然痘の患者が出なくなって久しかったこともあって、この日を境に「全員が受けるもの」ではなくなった。 天然痘そのものは、その後の昭和55年にWHOが根絶を宣言している。人類が根絶させた唯一の感染症である。 私の世代 ― 昭和44年生まれ ― は、種痘を受けた最後のあたりの世代にあたる。少しあとに生まれた者の腕には、もうあの跡がない。 ...

September 18, 2026

菓子が、こわいものになった日 ― 昭和59年9月12日、森永製菓に脅迫状が届いた|昭和の今日は何があった日?

大阪に届いた、一通の封筒 昭和59年、1984年9月12日の朝。大阪にあった森永製菓の関西販売本部に、一通の脅迫状が届いた。 差出人は「かい人21面相」。文面はこうだった。グリコと同じ目にあいたくなければ、1億円を出せ。要求に応じなければ、製品に青酸ソーダを入れて店頭に置く。 そして封筒には、実際に青酸入りの菓子が同封されていた。 この年の3月、江崎グリコの社長が兵庫県西宮市の自宅から連れ去られた。犯人は身代金10億円と金塊100キロを要求し、社長は三日後に自力で脱出した。4月には本社が放火され、5月には新聞各社に「グリコの せい品に せいさんソーダ いれた」という挑戦状が届いた。それが報じられた途端、全国の店頭からグリコの商品が消えた。工場も止まった。 その矛先が、9月12日、森永に向いた。 菓子メーカーが狙われている。しかも、菓子そのものが凶器として使われる。子どもが最も近づきやすい場所に、毒が置かれるかもしれない。そういう事件だった。 中学三年生の秋だった 私はそのとき、中学三年生だった。 昭和44年4月生まれだから、15歳。受験という言葉が、そろそろ現実の重さを持ちはじめる頃だ。 事件のことは、テレビのニュースやワイドショー番組で知った。 「かい人21面相」という名前を初めて聞いたとき、私が感じたのは恐怖ではなかった。おふざけなのか、と思った。犯人が自分で名乗る名前としては、あまりにも軽い。江戸川乱歩の少年探偵団に出てくる怪盗をもじった、遊びのような響きだった。 そして正直に言えば、どこか他人事だった。 昭和59年という年を並べてみると、妙な取り合わせになる。この年の11月には新しい紙幣が発行され、一万円札の顔が福沢諭吉になった。テレビではコアラやエリマキトカゲが騒がれていた。その同じ年の裏側で、菓子メーカーが次々に脅されていたのだ。 事件が起きているのは関西で、私が住んでいるのは東京の東の端だ。テレビの中で起きていることとして眺めていた。あとから考えれば、それは幸運なことだったのかもしれない。 いま振り返ると、この事件は昭和の犯罪史の中でも特異な形をしている。犯人は一度も人前に姿を現さなかった。身代金の受け渡し現場にも現れなかった。そのかわり、新聞社やテレビ局に百四十通を超える手紙を送りつけ、警察を挑発し、世間を観客にした。のちに「劇場型犯罪」と呼ばれるようになる手口の、はしりだった。 観客席に座らされていたのは、私たちだ。菓子を買う側の、ごく普通の人間たちだった。 棚から消えた記憶は、ない 正直に書いておきたいことがある。 私には、葛飾の店から森永の菓子が消えたという記憶がない。 森永の商品で、当時これをよく食べていた、と言えるものも特にない。翌年には高校生になって、買い物の場所は主にコンビニエンスストアに変わっていった。そのどちらの時期を思い返しても、売り場から森永製品が減ったとか、姿が見えなくなったとか、そういう光景は残っていないのだ。 企業にとっては数十億円という単位の損害だったという。だが数字は、あとから知ったことだ。当時の私が見ていたのは、テレビの画面の中の大阪であって、自分が立っている売り場ではなかった。 記憶がないということ自体が、ひとつの事実だと思う。関西で起きた事件が、東京の中学生の日常の棚までは届いていなかった。少なくとも、私の目には映っていなかった。 その距離が縮まるのは、翌月のことだ。 「どくいり きけん たべたら しぬで」 10月7日から13日にかけて、大阪、京都、兵庫、愛知のスーパーやコンビニで、不審な森永製品が次々に見つかった。四府県で13個。そこには紙が貼られていた。 どくいり きけん たべたら しぬで かい人21面相 ひらがなで書かれていた。子どもでも読める字だった。そして実際に、中には青酸ソーダが入っていた。 10月8日には百貨店にも脅迫状が届く。森永製品を置くな、という要求だった。そこには「わしらに さからいおったから 森永つぶしたる」と書かれていた。 私はテレビでこの文言を見たのだと思う。関西弁で、ひらがなで、まるで子どもに話しかけるような書き方で、人が死ぬかもしれないことが書いてある。その落差が気味悪い。 そして、本当に毒が入っていたという報道が流れたとき、空気が変わった。 それまで他人事だったものが、私たちの周りでも話題になった。日々の会話の中に、この事件が入り込んできていた。学校で、家で、誰かが口にする。名前が軽いことも、関西の事件であることも、もう関係がなくなっていた。 「おふざけなの?」と思っていた名前が、人を殺しかねない名前になった。私にとってこの事件が本当に始まったのは、9月12日ではなく、その一ヶ月後だったのだと思う。 誰も捕まらないまま終わった この事件は、終わらないまま終わった。 翌昭和60年の夏、犯人グループはマスコミ宛の文書で事件の終息を告げ、それきり沈黙した。一年半近く続いた騒ぎは、解決ではなく、相手が勝手にやめるという形で終わった。捕まえて終わらせたのではない。終わったと言われたから、終わったのだ。 ...

September 12, 2026

9月1日 ── 防災頭巾をかぶって、机の下にもぐった日|昭和の今日は何があった日?

夏休みが終わった翌朝のことを、私はいまだに体が覚えている。 久しぶりのランドセル。少し重くなった気がする体。校庭に集まった同級生の、日焼けした顔。そして、二学期の始業式が終わったあとに必ずやってきた、あの時間。 「訓練、訓練。ただいま大きな地震が発生しました」 9月1日は、二学期の始まりの日であると同時に、防災の日だった。 防災の日は、なぜ9月1日なのか 防災の日が定められたのは、昭和35年(1960年)の閣議了解による。私が生まれる9年前のことだ。 日付の由来は二つある。一つは、大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が発生したこと。もう一つは、この時期が暦の上で二百十日にあたり、台風の襲来しやすい厄日とされてきたこと。地震と風水害、日本を襲う二つの災いが、この一日に重ねられている。 つまり防災の日は、何かが「始まった」記念日ではない。忘れないための日として作られた日だ。 子どもの頃の私は、そんな由来など何も知らなかった。ただ、9月1日には訓練があるものだと思っていた。理由を考えたことすらなかった。 防災頭巾と、「お・か・し」 私の記憶にある避難訓練は、いつも同じ手順だった。 防災頭巾をかぶって机の下にもぐる。その後は校庭に整列して、集団下校という流れだった。 合言葉は「お・か・し」。おさない、かけない、しゃべらない。三つだけ。今の学校では「おかしも」「おかしもち」と、後ろに「もどらない」「ちかづかない」が足されているらしいが、私たちの頃は三つで足りていた。 椅子の背にくくりつけてあった防災頭巾は、ふだんは座布団を兼ねていた。あれをかぶって机の下にもぐると、視界が急に狭くなる。木の床の匂いと、あちこちで押し殺した笑い声。訓練というより、少しだけ非日常の遊びに近かった。 そもそも防災頭巾という道具は、戦時中の防空頭巾の流れをくむものだといわれる。関東大震災と空襲、その両方を経験した街の学校に、布一枚の備えが座布団の顔をして残り続けた。私たちはその由来を知らないまま、毎日それに座っていたことになる。 校庭に整列したあとは、そのまま集団下校だった。地区ごとに並び、上級生が先頭に立って歩く。訓練の日だけは、いつもの帰り道が少しだけ儀式めいて見えた。もっとも、角を曲がって班が解散してしまえば、あとはいつもと同じ寄り道である。 いま売られているものも、形はほとんど変わっていない。アルミ加工で、耳穴が開いていて、たたむと座布団になる。あの銀色を店で見かけると、木の床の匂いまで戻ってきます。 大明企画 セーフティクッションES アルミタイプ(日本防炎協会認定品)小学校低学年から大人まで。耐熱耐火のアルミ加工、防災無線が聞き取れる耳穴付き、暗闇で光る反射テープ付き。たためば座布団に。星4.4(675件) Amazonで見る › 昭和53年、世の中が「地震」を意識しはじめた ただ、私の子ども時代の避難訓練は、単なる年中行事ではなかったのかもしれない。 昭和51年(1976年)の秋、いわゆる東海地震説が唱えられた。駿河湾を震源とする巨大地震が、いつ起きてもおかしくない――そういう指摘だった。政府は観測体制の強化に動きはじめる。 そして昭和53年(1978年)。1月14日に伊豆大島近海地震が起き、6月12日には宮城県沖地震が発生した。マグニチュード7.4、仙台を中心に死者28人。このうち18人が、ブロック塀や門柱の下敷きになって亡くなっている。東京でも震度4を記録した。その三日後の6月15日、大規模地震対策特別措置法――いわゆる大震法が制定される。地震の直前予知を前提にした法律は、国内でこれ一つしかない。 昭和53年、私は小学3年生だった。 学校でも家でも、地震の話はたぶんされていたと思う。ただ正直に言うと、小学生当時の私は、自分ごととしては受け止めていなかった。どこか遠い話だった。 けれど、ブロック塀については注意された。これははっきり覚えている。 なにしろ本当にあちこちにブロック塀が立ち並んでいて、私を含む子どもたちは日常的にそのブロック塀の上に上がって、そこを歩いていたのだから。塀の上は近道であり、平均台であり、ちょっとした冒険だった。大人が真顔で「あれは危ない」と言いはじめたとき、私は危険よりも、遊び場を一つ取り上げられたような気分のほうを強く覚えている。 仙台で18人が亡くなった、その事実と私の通学路が地続きだったことに気づくのは、ずいぶん後になってからだ。 葛飾の子どもにとっての災害は、水だった もっとも、葛飾で育った私にとって、災害という言葉が最初に結びついたのは地震ではなかったかもしれない。 葛飾区は東京の東部低地にあり、区の大部分がいわゆるゼロメートル地帯だ。荒川と江戸川に挟まれ、中川が区の真ん中を流れている。台風が近づくたび、大人たちの顔つきが変わる土地だった。 台風に備えて、まず雨戸を閉める。現在のように軽く閉められるものじゃなかった。戸袋にしまってあって、そこから木製の戸に青色のとたん板が張られた雨戸2枚を引っ張りだすのだが、小学校低学年の頃の私では力が足りなかったんじゃないかと思う。父か母が閉める音を、家の中で聞いていた気がする。 我が家は私が保育園の年中か年長の時に、高砂駅の近くから、同じ高砂の中川の土手近くへと引っ越していた。だから台風などの大雨のあとには、友達と中川の土手へ行き、増水した川を見に行った。 やっちゃダメなやつである。 いつもは穏やかな中川が、茶色く濁って速く流れている。あの光景を見に行くことが、子どもにとってどれほど危ない行為かなど、当時の私は考えもしなかった。ブロック塀の上を歩いていたのと、まったく同じ神経である。 家の押し入れには、銀色のナップサックがあった。非常持ち出し袋だ。中を覗いたことはなかったし、実際に使われることもなかった。良かったと思う。 二百十日という言葉が防災の日の由来になっているのも、思えばこの土地の感覚に近い。地面が揺れることより、水が上がってくることのほうが、ここでは身近だった。 あの銀色のナップサックにあたるものを、いまは自分で用意する番になりました。中身を一から揃えるのは骨が折れるので、まずひとつ、封を切らずに置いておく。それだけでもずいぶん違うと思います。 防災グッズ 32点セット(防災士監修・1人用リュック)保存食、保存水、簡易トイレ、高輝度の懐中電灯、マスク、スリッパなど32点。全品が長期保管に対応。星4.8 Amazonで見る › 平成23年3月11日、私はバスの運転席にいた 遠い話だったものが、自分ごとになる日がいつか来る。子どもの私はそれを知らなかった。 ...

September 1, 2026

8月31日 ── 「や・さ・い」の日に、夏休みは終わった|昭和の今日は何があった日?

今日は8月31日。8月の最終日です。 そして昭和の子どもにとっては、一年でいちばん落ち着かない一日でした。 いまは夏休みの終わりが8月の下旬だったり、地域によってはもっと早かったりしますが、私が子どものころ、東京の公立小中学校の夏休みは8月31日までと決まっていました。つまり今日という日は、四十日ほど続いた自由の、最後の一日だったわけです。 朝から気持ちが妙にざわつく。遊びに行っても、どこか身が入らない。夕方になると、その落ち着かなさがはっきりした形をとってやってくる。 ——宿題である。 正直に告白しますと、小学生時代の私は、最終日まで宿題をたっぷりと残しちゃっているタイプでした。しかも困ったことに、途中から開き直る。「やーらない」。追い込みすらしないのですから、手のつけようがありません。 当然その後、新学期が始まると肩身の狭い思いをすることになります。提出できない。先生に呼ばれる。まわりはちゃんと出している。あの居心地の悪さは、いまでもうっすら覚えています。 そして翌年の8月31日、私はまた同じことをやっているのです。毎年その繰り返しでした。 「や・さ・い」の日が生まれた日 さて、この8月31日という日付には、昭和の終盤にひとつの記念日が誕生しています。 1983年(昭和58年)、「野菜の日」が制定されました。「や(8)さ(3)い(1)」の語呂合わせです。制定したのは全国青果物商業協同組合連合会をはじめとする、野菜にかかわる9団体。もっと野菜のことを知ってほしい、もっと野菜を食べてほしい——そういう願いが込められた記念日でした。 1983年8月31日は水曜日。私は14歳、中学2年生でした。 正直に申し上げて、当時の私がこの記念日の誕生を知っていたとは思えません。中学2年の男子が「今日から野菜の日だってさ」と話題にする姿は、どう想像しても浮かんできません。 ただ、この記念日が昭和58年に生まれたという事実そのものが、時代を映していると思うのです。 わざわざ「野菜を食べよう」と旗を立てなければならなくなった。裏を返せば、そう言わなければならないほど、日本人の食卓が変わりつつあった、ということでしょう。 カゴとざるの、八百屋さん 昭和58年がどんな年だったか、少し並べてみます。 4月に東京ディズニーランドが開園しました。同じ4月、NHKの朝の連続テレビ小説『おしん』が始まっています。そして7月には、任天堂がファミリーコンピュータを発売しました。 外食産業が広がり、家庭にビデオデッキが入りはじめ、子どもの遊びが屋外から屋内へ移りはじめた時代です。「野菜の日」は、ちょうどそんな時代の入り口で生まれました。 そして、八百屋さんという商売が、まだ街の主役だった最後のころでもあります。 当時は駅前に限らず、商店街が街のあちこちに点在していました。もちろん私も、母に頼まれて近所の八百屋へ買い物に行きました。 いま思い出しても笑ってしまうのが、あの会計です。店の天井から、カゴだったか、ざるだったか、とにかくそういうものが吊り下げられていて、お店の人はそこにお金を入れ、お釣りもそこから出す。実にざっくりしたものでした。 レジ? ないない(笑)。 野菜が、値札とバーコードではなく、店の人の手と声で売られていた時代です。「今日はこれが安いよ」と言われれば、母の頼んだものと違っていても買って帰ることがありました。あれもまた、野菜との付き合い方のひとつだったのだと思います。 給食と、母の躾 野菜と昭和の子ども、といえば、やはり給食の話になります。 昭和の給食には、いまでは考えられない光景がありました。食べ終わるまで席を立たせてもらえない。掃除の時間になっても、ひとりぽつんと食器を前にしている子がいる。そして残されるものは、たいてい野菜でした。 ただ、私自身にはその記憶があまりありません。苦手な野菜が、特になかったのです。 理由ははっきりしています。母から、食べ物の好き嫌いについては結構厳しく躾けられていました。出されたものは食べる。それだけのことですが、家でそう育てられていれば、学校の給食でつまずくこともありません。 昭和13年に新潟で生まれた母にとって、食べ物を残すという発想そのものがなかったのだろうと思います。 そして時代のほうも、少しずつ変わっていきました。「食べ終わるまで残される」という指導は、私が小学生でいるあいだに、だんだんなくなっていったように記憶しています。 強引に食べさせる時代が終わっていく。その少し先に、「野菜の日」のような記念日が生まれる。無理やり食べさせるのではなく、知ってもらって、食べたいと思ってもらう。そういう時代の変わり目が、この記念日の背景にはあったのかもしれません。 あの「食べ終わるまで席を立てない」時間が何だったのかを、正面から書いた本があります。楽しかった人にも、苦痛だった人にも、それぞれの給食があったのだと分かります。 給食の歴史(岩波新書)藤原辰史/岩波書店。子どもの味覚への権力行使という側面と、命をつなぎ新しい教育を模索する側面。貧困・災害・運動・教育・世界の五つの視角から給食をたどった一冊。星4.3(115件) Amazonで見る › 中学2年の、静かな8月31日 ところで、中学2年の私の8月31日は、小学生のころとはまるで違っていたはずです。 中学生になると、高校進学のことを真剣に考えるようになりました。それで、学習への取り組み姿勢がすっかり変わったのです。普段から予習と復習をし、宿題も余裕を持って終わらせている。 あの「やーらない」と開き直っていた小学生が、です。変わればかわるものです。 ですから昭和58年8月31日の私は、たぶん、宿題に追われていません。夏休み最終日を、静かな気持ちで迎えていたはずです。四十日の自由が終わることへの寂しさはあっても、机の上に未提出の山があるという、あの胃の重さはない。 そして翌9月1日は木曜日。始業式です。 もちろん、夏休みが終わってしまう寂しさはありました。けれど、クラスの友達と会えるワクワク感もありましたから、どっちと問われれば「楽しみ」のほうが勝っていた。日焼けした顔で校門をくぐって、真っ黒になった友達と久しぶりに顔を合わせる。あの朝は、そんなに悪いものではなかったのです。 8月31日が、見守る日になった 社会人になると、8月31日はただの日付になります——と、書きかけて、やめました。そんなことはなかったからです。 子どもたちが小さいころ、8月31日になると、宿題の追い込みをしている姿がありました。「もっと早くやっておけばいいのに」と思いながら見ていましたが、考えてみれば自分も子どものころは似たようなものだったのです。というより、追い込みすらしていなかったのですから、私のほうがよほど質が悪い(笑)。 親になってから、8月31日が「宿題をやる日」から「子どもを見守る日」に変わった。これは、ちょっと面白いところだと思います。 いまは路線バスの運転士をしていますので、仕事をしていても、この日には独特の季節感があります。夏休みのあいだは、お子さんの姿や家族連れのお客様が増えて、「夏休みだな」と感じることがある。それが9月に入ると、学校へ向かう子どもたちが一気に増えて、街の空気がガラッと変わります。バスを運転していると、そういう季節の変化をかなり身近に感じます。 自分は8月31日を卒業したのに、8月31日はずっと、誰かの上に降り続けている。 57歳の「野菜の日」 そして自分自身のことです。 57歳になったいま、8月31日だから何か特別なことをするというより、「これからも元気に動ける身体を維持したい」ということを強く意識するようになりました。 野菜も、若いころは「食べたほうがいいんだろうな」くらいの感覚でしたが、いまはかなり意識して食べています。筋トレやランニングも続けていますし、これから先も仕事をしながら、野球を楽しんだり、子どもたちと一緒に動いたりしたい。そのためにも、食事は単なる楽しみだけではなく、身体を維持するための大事なものだと思うようになりました。 母に叱られて食べていた野菜を、いまは自分の意志で選んで食べている。昭和58年に「野菜の日」を作った人たちが願ったのは、たぶんこういうことだったのでしょう。四十三年かかって、私はようやくその願いに追いついたことになります。 とはいえ、毎日きっちり350グラムは、正直しんどい。足りない分をどう埋めるかという話で、うちの冷蔵庫にはこれが常備してあります。砂糖も食塩も入っていない、野菜100パーセントのやつです。 ...

August 31, 2026