今日は8月31日。8月の最終日です。
そして昭和の子どもにとっては、一年でいちばん落ち着かない一日でした。
いまは夏休みの終わりが8月の下旬だったり、地域によってはもっと早かったりしますが、私が子どものころ、東京の公立小中学校の夏休みは8月31日までと決まっていました。つまり今日という日は、四十日ほど続いた自由の、最後の一日だったわけです。
朝から気持ちが妙にざわつく。遊びに行っても、どこか身が入らない。夕方になると、その落ち着かなさがはっきりした形をとってやってくる。
——宿題である。
正直に告白しますと、小学生時代の私は、最終日まで宿題をたっぷりと残しちゃっているタイプでした。しかも困ったことに、途中から開き直る。「やーらない」。追い込みすらしないのですから、手のつけようがありません。
当然その後、新学期が始まると肩身の狭い思いをすることになります。提出できない。先生に呼ばれる。まわりはちゃんと出している。あの居心地の悪さは、いまでもうっすら覚えています。
そして翌年の8月31日、私はまた同じことをやっているのです。毎年その繰り返しでした。
「や・さ・い」の日が生まれた日
さて、この8月31日という日付には、昭和の終盤にひとつの記念日が誕生しています。
1983年(昭和58年)、「野菜の日」が制定されました。「や(8)さ(3)い(1)」の語呂合わせです。制定したのは全国青果物商業協同組合連合会をはじめとする、野菜にかかわる9団体。もっと野菜のことを知ってほしい、もっと野菜を食べてほしい——そういう願いが込められた記念日でした。
1983年8月31日は水曜日。私は14歳、中学2年生でした。
正直に申し上げて、当時の私がこの記念日の誕生を知っていたとは思えません。中学2年の男子が「今日から野菜の日だってさ」と話題にする姿は、どう想像しても浮かんできません。
ただ、この記念日が昭和58年に生まれたという事実そのものが、時代を映していると思うのです。
わざわざ「野菜を食べよう」と旗を立てなければならなくなった。裏を返せば、そう言わなければならないほど、日本人の食卓が変わりつつあった、ということでしょう。
カゴとざるの、八百屋さん
昭和58年がどんな年だったか、少し並べてみます。
4月に東京ディズニーランドが開園しました。同じ4月、NHKの朝の連続テレビ小説『おしん』が始まっています。そして7月には、任天堂がファミリーコンピュータを発売しました。

外食産業が広がり、家庭にビデオデッキが入りはじめ、子どもの遊びが屋外から屋内へ移りはじめた時代です。「野菜の日」は、ちょうどそんな時代の入り口で生まれました。
そして、八百屋さんという商売が、まだ街の主役だった最後のころでもあります。
当時は駅前に限らず、商店街が街のあちこちに点在していました。もちろん私も、母に頼まれて近所の八百屋へ買い物に行きました。

いま思い出しても笑ってしまうのが、あの会計です。店の天井から、カゴだったか、ざるだったか、とにかくそういうものが吊り下げられていて、お店の人はそこにお金を入れ、お釣りもそこから出す。実にざっくりしたものでした。
レジ? ないない(笑)。
野菜が、値札とバーコードではなく、店の人の手と声で売られていた時代です。「今日はこれが安いよ」と言われれば、母の頼んだものと違っていても買って帰ることがありました。あれもまた、野菜との付き合い方のひとつだったのだと思います。
給食と、母の躾
野菜と昭和の子ども、といえば、やはり給食の話になります。
昭和の給食には、いまでは考えられない光景がありました。食べ終わるまで席を立たせてもらえない。掃除の時間になっても、ひとりぽつんと食器を前にしている子がいる。そして残されるものは、たいてい野菜でした。

ただ、私自身にはその記憶があまりありません。苦手な野菜が、特になかったのです。
理由ははっきりしています。母から、食べ物の好き嫌いについては結構厳しく躾けられていました。出されたものは食べる。それだけのことですが、家でそう育てられていれば、学校の給食でつまずくこともありません。
昭和13年に新潟で生まれた母にとって、食べ物を残すという発想そのものがなかったのだろうと思います。
そして時代のほうも、少しずつ変わっていきました。「食べ終わるまで残される」という指導は、私が小学生でいるあいだに、だんだんなくなっていったように記憶しています。
強引に食べさせる時代が終わっていく。その少し先に、「野菜の日」のような記念日が生まれる。無理やり食べさせるのではなく、知ってもらって、食べたいと思ってもらう。そういう時代の変わり目が、この記念日の背景にはあったのかもしれません。
あの「食べ終わるまで席を立てない」時間が何だったのかを、正面から書いた本があります。楽しかった人にも、苦痛だった人にも、それぞれの給食があったのだと分かります。
中学2年の、静かな8月31日
ところで、中学2年の私の8月31日は、小学生のころとはまるで違っていたはずです。
中学生になると、高校進学のことを真剣に考えるようになりました。それで、学習への取り組み姿勢がすっかり変わったのです。普段から予習と復習をし、宿題も余裕を持って終わらせている。
あの「やーらない」と開き直っていた小学生が、です。変わればかわるものです。
ですから昭和58年8月31日の私は、たぶん、宿題に追われていません。夏休み最終日を、静かな気持ちで迎えていたはずです。四十日の自由が終わることへの寂しさはあっても、机の上に未提出の山があるという、あの胃の重さはない。
そして翌9月1日は木曜日。始業式です。
もちろん、夏休みが終わってしまう寂しさはありました。けれど、クラスの友達と会えるワクワク感もありましたから、どっちと問われれば「楽しみ」のほうが勝っていた。日焼けした顔で校門をくぐって、真っ黒になった友達と久しぶりに顔を合わせる。あの朝は、そんなに悪いものではなかったのです。
8月31日が、見守る日になった
社会人になると、8月31日はただの日付になります——と、書きかけて、やめました。そんなことはなかったからです。
子どもたちが小さいころ、8月31日になると、宿題の追い込みをしている姿がありました。「もっと早くやっておけばいいのに」と思いながら見ていましたが、考えてみれば自分も子どものころは似たようなものだったのです。というより、追い込みすらしていなかったのですから、私のほうがよほど質が悪い(笑)。
親になってから、8月31日が「宿題をやる日」から「子どもを見守る日」に変わった。これは、ちょっと面白いところだと思います。
いまは路線バスの運転士をしていますので、仕事をしていても、この日には独特の季節感があります。夏休みのあいだは、お子さんの姿や家族連れのお客様が増えて、「夏休みだな」と感じることがある。それが9月に入ると、学校へ向かう子どもたちが一気に増えて、街の空気がガラッと変わります。バスを運転していると、そういう季節の変化をかなり身近に感じます。
自分は8月31日を卒業したのに、8月31日はずっと、誰かの上に降り続けている。
57歳の「野菜の日」
そして自分自身のことです。
57歳になったいま、8月31日だから何か特別なことをするというより、「これからも元気に動ける身体を維持したい」ということを強く意識するようになりました。
野菜も、若いころは「食べたほうがいいんだろうな」くらいの感覚でしたが、いまはかなり意識して食べています。筋トレやランニングも続けていますし、これから先も仕事をしながら、野球を楽しんだり、子どもたちと一緒に動いたりしたい。そのためにも、食事は単なる楽しみだけではなく、身体を維持するための大事なものだと思うようになりました。

母に叱られて食べていた野菜を、いまは自分の意志で選んで食べている。昭和58年に「野菜の日」を作った人たちが願ったのは、たぶんこういうことだったのでしょう。四十三年かかって、私はようやくその願いに追いついたことになります。
とはいえ、毎日きっちり350グラムは、正直しんどい。足りない分をどう埋めるかという話で、うちの冷蔵庫にはこれが常備してあります。砂糖も食塩も入っていない、野菜100パーセントのやつです。
おわりに
8月31日に「野菜の日」を置いた人たちは、たぶん夏休み最終日だということは意識していなかったと思います。純粋に「や・さ・い」の語呂合わせだったのでしょう。
でも私は、この偶然が少し気に入っています。
四十日の自由が終わる日に、いちばん地味で、いちばん体にいいものの日が重なっている。子どものころにいちばん残したかったものの日が、子ども時代のひと区切りと同じ日付になっている。
そう考えると、8月31日というのは、私にとって「夏が終わる日」というだけではなく、子どもたちの成長や、自分自身の年齢を改めて感じる日なのかもしれません。
子どものころは「明日から学校か……」と少し憂鬱になる日でした。いまは「また新しい季節が始まるな」という感じです。同じ8月31日でも、立場が変わると、見える景色もずいぶん変わりますね。
みなさんの8月31日は、どんな一日でしたか。宿題は計画派でしたか、それとも私のような「やーらない」派でしたか。よろしければ、聞かせてください。
そして今日は、野菜をひとつ多めに食べようと思います。
【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。
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