7月15日は、不思議な日です。
昭和の少年文化を代表する「二つの王様」が、14年の歳月を隔てて、同じこの日に生まれているのです。
ひとつは昭和58年(1983年)7月15日に任天堂が発売した家庭用ゲーム機、ファミリーコンピュータ。いわゆるファミコンです。もうひとつは昭和44年(1969年)7月15日に創刊された、秋田書店の「少年チャンピオン」。
そして告白しますと、昭和44年生まれの私は、この二つに対してずいぶん対照的な付き合い方をしていました。ファミコンは、買わなかった。チャンピオンは、毎週読んでいた。
今日はその話をさせてください。
任天堂ファミリーコンピュータ(HVC-001)。昭和58年7月15日発売、14,800円。(Photo: Rama / CC BY-SA 2.0 FR)
昭和58年7月15日、14,800円の革命
昭和58年7月15日、任天堂がファミリーコンピュータを発売しました。価格は14,800円。当時のゲーム機としては驚くほど戦略的な価格設定で、これが後に「テレビゲームといえばファミコン」という時代を作り上げていくことになります。
面白いのは、実は同じ日にセガ・エンタープライゼスもゲーム機「SG-1000」と、ベーシックを搭載したパソコン「SC-3000」を発売していたことです。つまり昭和58年7月15日は、日本の家庭用ゲーム機戦争の火蓋が切られた日でもあったわけです。
同じ昭和58年7月15日に発売された、セガのSG-1000。家庭用ゲーム機戦争は、この日いっせいに始まった。(Photo: Evan-Amos / Public domain)
ただし、当時この日を「歴史的な日」だと認識していた人は、ほとんどいなかったはずです。発売当初のファミコンは、あくまで数あるゲーム機のひとつでした。それが決定的な存在になるのは、昭和60年の「スーパーマリオブラザーズ」、そして昭和61年の「ドラゴンクエスト」という怪物ソフトの登場を待ってからのことです。
あの日が「あの日」になるまでには、少し時間が必要だったのです。
買わなかった少年の言い分
昭和58年7月、私は中学2年生でした。14歳。世間的に見れば、ファミコン第一世代のど真ん中です。
でも私は、ファミコンを買いませんでした。それどころか、ファミコンというものが発売されたということすら、気にしていませんでした。
当時の私の興味は、やはり野球だったのです。「何が欲しいか?」と問われれば、真っ先に思い浮かぶのはグローブとか、カッコいいジャージでした。放課後の時間は、画面の中のボールではなく、本物のボールのためにありました。日が暮れるまでグラウンドにいて、家に帰れば飯を食って寝るだけ。テレビの前に座ってコントローラーを握る時間は、私の生活のどこにもなかったのです。
だから、日本中の少年たちの歴史を変えたと言われるあの日も、私にとってはただの夏の一日でした。翌日に迫った練習のことだけを考えて眠った、中学2年の7月15日。歴史というのは、案外そういうふうに通り過ぎていくものなのかもしれません。
一年半遅れの衝撃
そんな私がファミコンの存在に初めて気付いたのは、発売から一年半あまりも経ってからのことでした。
中学3年生。最後の夏の大会が終わり、高校受験の合格発表も済み、中学校生活も残りひと月足らずとなったころです。野球部の友達ではなく、クラスメイトの家に遊びに行ったときに、私は「ファミコン」というものの存在を初めて知り、目にして、手に取りました。
その時の衝撃は、すごかったですね。
小学生の頃にゲームセンターでプレーしていたようなクオリティーのゲームが、家庭用のテレビで出来ちゃうわけですからね。あの日やらせてもらったのは、たしかマッピーとロードランナーだったと思います。
ちなみに、私が初めてファミコンに触れたこの時点では、まだ「スーパーマリオブラザーズ」すら世に出ていません。あれだけの衝撃を受けたのに、実はあの熱狂の序章にしか立ち会っていなかったわけです。
まぁ、それでも欲しくはならずじまいでした。
受験も終わり、時間ならいくらでもあったはずの時期です。それでも「買いたい」とはならなかったのですから、我ながら筋金入りの野球少年だったのだと思います。その後も、友達の家に行ったときにやらせてもらう程度の付き合いのまま、私のファミコン歴は終わりました。
何しろ私には、生まれた時からの相棒とも言うべき、もうひとつの「7月15日生まれ」がいたのですから。
私と同い年の雑誌
さて、もうひとつの7月15日です。
昭和44年(1969年)7月15日、秋田書店が「少年チャンピオン」を創刊しました。創刊号の表紙を飾ったのは、キックボクサーの沢村忠。真空飛び膝蹴りで一世を風靡した、あの「キックの鬼」です。漫画雑誌の創刊号の顔がキックボクサーだったというあたりに、昭和44年という時代の空気を感じます。創刊当初は隔週刊で、翌昭和45年6月から週刊化されて「週刊少年チャンピオン」となります。
昭和44年生まれ。つまりこの雑誌、私と同い年なのです。
私がこの世に生まれて3ヶ月ほど経った頃、書店の棚に創刊号が並んだことになります。もちろん当時の私は知る由もありませんが、同じ年に生まれた雑誌と少年が、やがて毎週顔を合わせる仲になるのですから、縁というのは面白いものです。
チャンピオンの快進撃は、昭和47年に始まります。この年、水島新司先生の『ドカベン』の連載が始まり、翌昭和48年には手塚治虫先生の『ブラック・ジャック』がスタート。昭和50年代に入ると『がきデカ』『マカロニほうれん荘』『750ライダー』などが誌面に並び、昭和52年1月には週刊誌として史上初の発行部数200万部を突破。一時は絶対王者だった少年ジャンプを抜いて、少年誌の頂点に立ったこともあるのです。ちなみに『ブラック・ジャック』は、当時スランプにあったと言われる手塚治虫先生を復活させた作品としても知られています。私と同い年の雑誌が、あの漫画の神様を救っていたのだと思うと、なんだか誇らしい気持ちになります。
ドカベンと野球少年
私にとってのチャンピオンは、何をおいても『ドカベン』でした。
『ドカベン』がありましたから、必ず読んでいました。『ブラック・ジャック』も『750ライダー』も読みました。そして大人になってからは『グラップラー刃牙』シリーズを読んでいました。気がつけば、同い年のこの雑誌とは、少年時代から大人になるまで、ずいぶん長い付き合いになっていたわけです。
『ドカベン』の思い出は、と問われても、正直困ってしまいます。私にとっては、その存在すべてが「野球の参考書」だったからです。ですから、すみずみまで記憶しています。
その『ドカベン』の本誌連載は昭和56年にいったん完結しますが、昭和58年——奇しくもファミコン発売と同じ年——から、続編『大甲子園』が始まります。水島新司先生の野球漫画作品の主人公たちが大集合した、あの『大甲子園』です。当然、見逃すわけがありません。
『大甲子園』の連載期間は、私が白球を追いかけた中学2年から高校3年までと、ぴったり重なっている
連載は昭和58年から昭和62年まで。私が甲子園を目指して白球を追いかけていた、まさに中学2年から高校3年までの日々と、ぴったり重なっているのです。同世代の少年たちがファミコンに熱中していたあの数年間、私は毎週、明訓高校の戦いを追いかけていました。
最後はどうなるんだろうとか、明訓は負けてしまうのかとか、ワクワクとちょっぴりの心配とで、複雑な気持ちになりましたね。なんせ、それぞれの漫画では応援していた主人公たちとの対戦なんですからね。
二つの7月15日のあいだで
こうして振り返ってみると、昭和58年7月15日という日は、私にとって象徴的な分かれ道だったのかもしれません。
同世代の少年たちの多くは、あの日に生まれたファミコンに夢中になっていきました。私はといえば、14年前の同じ日に生まれた雑誌のほうと付き合い続けた。画面の中で野球をするより、紙の上の山田太郎に胸を熱くして、そして本物のグラウンドで白球を追いかけるほうを選んだのです。
どちらが正しいという話ではありません。ファミコンに熱中した友人たちの目の輝きも、よく覚えています。ただ、あの頃の私には、ゲーム機に払う14,800円より大切なものが、すでに手の中にあったということなのだと思います。
週刊誌一冊と、使い込んだグローブ。中学2年の私の宝物は、それで十分でした。
そして、ひとつ付け加えておきたいことがあります。私の長男も次男も、『ドカベン』と『大甲子園』が愛読書となっていました。私と同じ年に生まれたあの雑誌が生んだ物語は、時代を超えて、息子たちの本棚にもちゃんと居場所を作っていたのです。父から子へ。これもまた、7月15日が私にくれた縁のひとつなのだと思います。
あなたは、ファミコン派でしたか? それとも……。あの夏、あなたの手の中にあったものを、よかったら聞かせてください。
『ドカベン』も『大甲子園』も、今は新品でそろえやすい形で残っています。山田太郎との出会い直しには文庫版の第1巻を。明訓の最後の夏をもう一度見届けたい方には『大甲子園』を。私と同い年のあの雑誌が生んだ物語は、令和の本棚でもちゃんと生きています。
【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。
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