【昭和の今日は何があった日?】6月30日──布団の中の、小さな実況中継

今日は6月30日。一年のちょうど真ん中、折り返しの日です。梅雨の重たい雲の下、それでも夏がもうそこまで来ているのを、肌のどこかで感じはじめる頃です。 この日は「トランジスタの日」でもあります。1948年(昭和23年)6月30日、アメリカのベル研究所で、三人の物理学者が生み出した小さな小さな部品が、はじめて世の中に公開されました。トランジスタです。 理科の授業に出てきそうな、なんだか難しい話に聞こえるかもしれません。けれども、この豆粒のような部品こそが、やがて昭和の子どもの手のひらに、ひとつの宝物を届けてくれることになります。トランジスタラジオです。 トランジスタという、小さな魔法 トランジスタが発明されるまで、ラジオの心臓部には「真空管」という、ガラスでできた電球のような部品が使われていました。だからラジオは大きくて、重くて、電源を入れてもすぐには鳴らず、温まるのをしばらく待たなければなりませんでした。茶の間にどっしりと置かれ、家族みんなで囲むもの。ラジオは「家具」だったのです。 ところがトランジスタは、爪の先ほどの大きさで、電気も食わず、衝撃にも強い。この小さな部品が真空管に取って代わったとき、ラジオは劇的に小さくなりました。 世界で最初のトランジスタラジオは、1954年にアメリカのリージェンシー社が発売しました。世界初の栄冠こそ譲りましたが、その翌年、日本でも快挙が起こります。1955年(昭和30年)、東京通信工業——のちのソニーが、「SONY」の名を冠した日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を世に送り出したのです。 当時の東京通信工業は、社員数が三百人にも満たない、まだ無名の小さな会社でした。井深大(いぶか・まさる)と盛田昭夫(もりた・あきお)という二人の創業者が、「自分たちの手でトランジスタを作り、それでラジオをこしらえる」という、無謀とも言われた目標に、まさに社運を賭けて挑んだのです。トランジスタでラジオを作るなど不可能だ——そんな声を一つひとつはねのけ、彼らは小さな箱の中に、新しい時代を詰め込みました。 さらに1957年(昭和32年)、ソニーは当時世界最小の「TR-63」を完成させます。「ポケッタブルラジオ」というキャッチコピーで売り出されたこの一台は、サラリーマンの月給ほどもする高級品でしたが、アメリカで飛ぶように売れ、「SONY」の名を世界中に知らしめました。やがてこの会社が、ウォークマンを生み、世界を代表する電機メーカーへと駆け上がっていくのですが、その出発点に、手のひらにのる一台のラジオがあったというのは、なんだか胸が熱くなる話ではありませんか。 このとき、ラジオの意味そのものが変わりました。家族でひとつを囲む「家具」から、一人ひとりが、聴きたいときに、聴きたい場所で耳を傾ける「自分だけの道具」へ。「トランジスタグラマー」なんて流行語まで生まれたほど、トランジスタは時代の合言葉になっていきました。 私が生まれる二十年以上も前の話です。けれども、この小さな魔法が、のちに私の少年時代の夜を、こっそりと彩ってくれることになるのです。 布団の中の、小さな実況中継 トランジスタラジオと聞いて、私の胸に最初に浮かんでくるのは、やっぱり野球のことです。 私の手にトランジスタラジオがやってきたのは、小学校三年生、九歳の誕生日プレゼントとしてでした。昭和53年(1978年)のことです。子どもの頃から無類の巨人ファンだった私にとって、これほどうれしい贈り物はありませんでした。 というのも、当時のテレビのナイター中継は、試合の終盤になると放送時間が来て、ぷつりと終わってしまうことがしょっちゅうあったのです。いちばんいいところで、画面がほかの番組に変わってしまう。あの悔しさといったらありませんでした。そんなとき、毎回活躍してくれたのが、誕生日にもらったこの小さなラジオでした。 布団に入って、そっとラジオのスイッチを入れる。イヤホンを耳に押し込む。テレビとちがって、映像はありません。それでも、ラジオから聞こえてくるアナウンサーの実況だけで、私の頭の中には、その試合の光景がはっきりと、まるで映像のように映し出されていたのです。打球の伸びも、走者の足も、ぜんぶ見えている気がしました。 その証拠に、と言ってはなんですが、いまでも私は当時の巨人の打順をそらで言えます。1番センター柴田、2番サード高田、3番レフト張本、4番ファースト王、5番セカンドのシピン、6番ライト淡口、7番ショート河埜、8番キャッチャー吉田、9番ピッチャー堀内……(笑)。ほら、こうしてすらすら出てくる。布団の中で毎晩のように聞いていた名前は、半世紀近くたった今も、しっかりと私の体に染みついているのです。 そうしてラジオで知った試合の続きは、翌朝の学校での、またとない自慢の種でもありました。「ゆうべの試合、王さん打ったぞ」「堀内、最後まで投げきった」。テレビの中継が終わったあとの展開を知っているのは、布団の中でこっそりラジオを握りしめていた者だけ。教室でそれを得意げに話すのは、子どもなりの、ちょっとした誇りだったのです。あの頃の巨人は、私たち少年にとって、まぎれもないヒーローでした。 「聴く」から「する」へ そんなふうに、布団の中でラジオの野球にのめり込んでいた少年も、中学、高校と進むうちに、ラジオを手にする時間は少しずつ減っていきました。 理由は、いたって単純です。野球部の活動に、すっかり夢中になっていたからです。 考えてみれば、これはちょっと面白い変化でした。小学生の私は、ラジオの実況を聴きながら、見えないグラウンドを頭の中に思い描く「聴く側」の子どもでした。それが気づけば、自分自身がそのグラウンドに立ち、白球を追いかける「する側」になっていたのです。耳をすませて憧れていた世界に、いつのまにか、自分の足で踏み込んでいた。 イヤホンから流れてくる誰かの実況ではなく、自分のスパイクが土を蹴る音、バットが芯でボールをとらえる音。私にとっての夏の音は、そうやって少しずつ、入れ替わっていったのでした。 茅の輪をくぐって、もう半分 さて、6月30日に話を戻しましょう。 この日は、昔から各地の神社で「夏越の大祓(なごしのおおはらえ)」が行われる日でもあります。一年の前半でたまった穢れを祓い落とし、残り半年を無事に過ごせるよう願う、古くからの神事です。神社によっては、茅(ちがや)で編んだ大きな輪が境内に設えられ、人々はそれをくぐって身を清めます。「茅の輪くぐり」です。 正直に告白すると、子どもの頃の私は、こんな神事があることなど、まるで知りませんでした。6月30日が一年の折り返しだということも、半年の穢れを祓う日だということも、すっかり大人になってから知ったことばかりです。 当時の私にとっての6月30日は、ただただ「夏休みが、もうすぐそこまで来ている日」。それ以上でも、それ以下でもありませんでした。一学期の終わりが近づくこの時期の、あのそわそわとした高揚感だけは、今でもはっきりと思い出せます。 それでも、こうして大人になって暦を眺めてみると、6月30日というのは不思議な日だと思います。一年のちょうど真ん中。半分が終わって、半分が残っている。あの頃の私の心は、茅の輪のことなど露知らず、もうすっかり、ラジオから聞こえてくる夏の音のほうへ飛んでいっていたのでしょう。 おわりに あの「ポケッタブルラジオ」から数えて七十年近く。今、私たちは一人一台、手のひらにのる小さな箱を持ち歩いています。スマートフォンです。あれもまた、トランジスタという小さな部品の、はるか遠い子孫なのだと思うと、少し不思議な気持ちになります。 今では、どんな球場の試合も、手のひらの画面で映像つきで観られるようになりました。便利になったものです。けれども、あのモノラルのスピーカーから流れる実況に耳をすませ、見えないグラウンドを頭の中で必死に描いていた、あの時間。映像がないからこそ、想像することそのものが、楽しみの大きな一部だったように思うのです。アナウンサーの声色ひとつで、ホームランの大きさも、内野ゴロの惜しさも、ぜんぶ自分の頭の中でふくらませていた。あれはあれで、ぜいたくな野球の楽しみ方でした。 バスのハンドルを握る今も、私の運転席にはいつも何かの音が流れています。形は変わっても、声と一緒に時間を過ごすという習慣だけは、あの布団の中の夜から、ずっと変わっていないのかもしれません。 一年の折り返しの日。あなたにとって、あの小さなラジオから流れていたのは、どんな音でしたか。 あの頃の「手のひらの相棒」は、令和のいまも姿を変えて生き続けています。なかでも、手回しとソーラーで充電でき、いざというときスマホの充電もできる防災ラジオは、ひとつ備えておくと心強いものです。枕元のナイター中継に、そして梅雨明けから本番を迎える台風・地震への備えに。 ソニー 防災ラジオ ICF-B99(FM/AM/ワイドFM・手回し充電・ソーラー充電・スマホ充電対応)手回しと太陽光で充電でき、スマホ給電・LEDライトも。枕元にも、防災の備えにも一台 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【6月29日】生まれる前に来た四人、私が夢中になった音楽の“源流”をたどって | 次の記事:(近日公開)

June 30, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月29日──生まれる前に来た四人、私が夢中になった音楽の“源流”をたどって

私が生まれる、三年前の水曜日 今日は六月二十九日。振り返ってみると、この日は私にとって少し不思議な意味を持つ日でした。というのも、1966年(昭和41年)の今日、ビートルズが初めて日本の地を踏んだ日だからです。 正直に申し上げます。私はこの出来事を、自分の記憶として語ることができません。私が生まれたのは1969年の四月。ビートルズ来日は、それより三年近くも前のできごとです。つまり、その朝、日本中が沸き返っていたとき、私はまだこの世にいませんでした。 ですから今日は、いつもとは少し趣向を変えてみようと思います。「子どもの頃の記憶」ではなく、「この記事を書きながら、私自身がビートルズという存在を一から知っていく」という形で進めてみたいのです。そしてその先で、私が子ども時代に夢中になった歌い手たちと、この四人組とが、どこかでつながっているのではないか──そんな予感を、確かめてみたいと思います。 あの五日間に、日本で起きたこと 調べはじめて、まず驚いたのは、その騒ぎの途方もない大きさでした。 ドイツでの公演を終えたビートルズを乗せた飛行機が、台風の影響で予定より遅れて羽田空港に降り立ったのは、1966年6月29日の午前三時三十九分。深夜にもかかわらず、四人は日本航空のハッピをはおってタラップを降りたといいます。その日の午後には、宿泊先の東京ヒルトンホテルで記者会見。そして6月30日から7月2日までの三日間、日本武道館で計五回、一回あたり十一曲・約三十五分のコンサートが開かれ、のべ五万人を動員しました。 あとで知って意外だったのは、この1966年が、ビートルズ自身にとっても大きな曲がり角の年だったということです。彼らはこの来日の直前に名盤『リボルバー』を録り終えており、しかもこの世界ツアーが、結果的に彼らの最後のツアーになりました。観客の悲鳴で自分たちの演奏も聞こえない巡業に疲れ、「アイドル」から「アーティスト」へと脱皮していく、ちょうどその境目だったのです。日本でも分刻みのスケジュールに縛られ、日中はホテルに缶詰めだったといいます。武道館で歌われたのは、「イエスタデイ」「ペイパーバック・ライター」「デイ・トリッパー」といった曲々。その曲名を並べて眺めているだけで、あの夜の熱気が少しだけ立ちのぼってくる気がします。 ただ、すんなり実現したわけではなかったようです。武道館はもともと武道のための「神聖な殿堂」とされ、「そんな場所で不良の音楽をやらせるとは何事か」という右翼団体の反対や、「観に行ってはならない」と通達を出した学校まであったといいます。三日間のコンサートには、機動隊員を含めのべ五千五百人もの警官が配されたそうです。今の私たちの感覚では、ちょっと想像がつきません。 そしてもう一つ、私の胸に残ったのが、テレビのことでした。7月1日昼の公演を日本テレビが録画し、その日の夜に放送したところ、視聴率はなんと56.5パーセント。これは特別番組として、今なお破られていない歴代最高記録だといいます。さらに調べると、私が小学生だった1978年にも、この武道館公演はテレビで特別に再放送されていました。つまり私の子ども時代には、ビートルズはもう「歴史」であり「伝説」だったのです。 武道館という、「最初の扉」 ここで「武道館」という名前が出てきて、私は思わずハッとしました。 実はつい三日前、私はこの連載で、1976年の猪木とアリの一戦を取り上げたばかりでした。あの異種格闘技戦の舞台もまた、日本武道館だったのです。 つまり武道館は、ビートルズがロックの「聖地」に変え、その十年後には格闘技の「聖地」にもなった場所でした。後の時代に数えきれないミュージシャンが「いつかはあのステージに」と夢見る、あの大きな箱の、いちばん最初の扉を開けたのが、この四人だった──そう知ると、三日前に書いた猪木の汗と、今日のビートルズの歓声とが、同じ床の上でつながっているような気がしてきます。 そもそも武道館は、1964年の東京オリンピックの柔道会場として建てられた、当時はまだ真新しい建物でした。武道のために生まれたその場所が、わずか二年後に世界一のロックバンドを迎え入れ、やがて音楽の殿堂へと姿を変えていく。一つの建物がたどる運命というのも、ずいぶん数奇なものだなと思います。 おもしろいことに、肝心のコンサートそのものは、必ずしも絶賛ばかりではなかったようです。当時のビートルズはツアー暮らしに疲れ切っていた頃で、十一曲の歌い回しは散漫で、肩透かしを食らった熱心なファンも少なくなかった、という記録が残っています。完璧ではなかったのに、伝説になった。これもまた、猪木とアリのあの一戦とそっくりだなと、私は少しおかしくなりました。 あの客席に、若き日の“ジュリー”がいた さて、ここからが、私が本当に知りたかったことです。 ビートルズの来日は、日本の若者たちに途方もない衝撃を与えました。髪を伸ばし、仲間と楽器を持ち寄ってバンドを組む若者が次々に現れ、やがて「グループ・サウンズ(GS)」という空前のブームが、日本中を覆っていきます。長髪に、おそろいの衣装。今の私たちが思い浮かべる「昭和のバンド像」の原型は、この頃にできあがったのですね。 そのGSの頂点に立ったのが、ザ・タイガースでした。ザ・スパイダース、ジャッキー吉川とブルー・コメッツとともに「GS御三家」と呼ばれ、人気を競い合い、テレビにも映画にも引っ張りだこになります。そして、そのザ・タイガースのボーカルこそ、のちに私が子どもの頃にテレビで見ていた沢田研二さん──ジュリーだったのです。 調べていて、思わず声が出たのはここでした。1966年のビートルズ武道館公演の客席に、まだデビュー前の沢田さんがいた、というのです。前身バンドのファンから「絶対に観た方がいい」とチケットを渡されて足を運び、そして彼は、こう漏らしたと伝えられています。「こんなものにはなれないと思った」と。 私がブラウン管の中の堂々たる「スター」として眺めていたジュリーが、その出発点では、生身のビートルズを見上げて打ちのめされていた。私が生まれる前の武道館の客席と、私の子ども時代のお茶の間とが、一本の線でつながった瞬間でした。 「騒がしいバンド」から、「路地裏の少年」へ そしてもう一人、どうしても確かめたい人がいました。桑田佳祐さんです。 少し前にこの連載で、私はサザンオールスターズのことを書きました。1978年、「ザ・ベストテン」の「今週のスポットライト」で初めて彼らを見たとき、私は「何だ、この騒がしいバンドは!?」と面食らった──そんな思い出です。 その桑田さんが、筋金入りのビートルズ好きだということを、私は今回あらためて知りました。ご本人が「外国の文化にもろに影響を受けている」と語りつつ、「日本語の“ワビ”“サビ”の感覚を出していきたい」とも言う。憧れと、そこから日本語の歌へと向き直っていく姿勢。サザンのあの不思議な日本語の響きの奥には、確かにビートルズがいたのです。しかも桑田さんは2015年の武道館公演で、「武道館は、私が小五のとき、ビートルズが来日してライブをやった場所です」と語り、敬意を込めてビートルズの「HELP!」を歌い上げたといいます。私が生まれる前に来た四人を、桑田さんは十歳の少年として見上げていたのですね。 そして──ここからが、私自身のいちばん個人的な話になります。 数えきれない歌い手の中で、私が心の底から惚れ込んだのは、浜田省吾さんでした。出会いは、大学に入って間もない頃です。知り合ったばかりの友達の車に乗せてもらったとき、カーステレオから流れてきた一曲に、私は思わず「なんだこれ、めちゃくちゃいい!!」と身を乗り出していました。「これ、誰?」と尋ねて教えてもらったその曲は──たしか「路地裏の少年」だったと思います(笑)。浜田さんの、ソロデビュー曲でした。 あとになって、この出会い方そのものに、私はちょっと震えました。というのも、浜田さんもまた、少年の頃に友人の部屋でラジオから流れてきたビートルズに「一瞬で恋に落ちた」人だったからです。スピーカーから不意に飛び込んできた音に、頭を殴られたように夢中になる──その同じ瞬間を、私は二十年近くもあとに、友達の車の助手席で味わっていたわけです。「なんだこれ!?」という、あの胸の高鳴り。ジュリーから、桑田さんを経て、それは確かに私のところまで受け継がれていたのかもしれません。 その浜田さんもまた、武道館を「聖なる場所」と呼びます。理由を問われて、「心に残っている武道館のイメージは、ビートルズの初来日。1966年、俺は中学二年生で、十四歳だった」と語っているのです。そして彼がいちばん好きなアルバムに挙げるのは、よりによって、あの四人が来日直前に録り終えたばかりの『Revolver』だといいます。 結局のところ、私はビートルズをリアルタイムでは知りません。けれど今日、書きながら、はっきりと気づきました。私はずっと、彼らの“こだま”を聴いて育っていたのだと。テレビの中のジュリーを通して、子どもの私を驚かせたサザンを通して、そして何より、大人になった私が自分で見つけて惚れ込んだ浜田省吾さんを通して。生まれる前に鳴ったはずのあの音は、長い回り道をしながら、確かに私のところまで届いていたのです。 みなさんにとって、「自分が生まれる前のはずなのに、なぜか懐かしい曲」はありますか。 私がこの記事で何度も書いた、あの武道館の五回のステージ。その三十日と七月一日の演奏は、実は録音が残り、いまも『ライブ・アット・ブドウカン 1966』として聴くことができます。悲鳴に半ばかき消されながら、それでも確かに鳴っていた“最初の音”。記事を読んで「あの夜の音を、実際に聴いてみたい」と思った方に。 ライブ・アット・ブドウカン 1966(ザ・ビートルズ)1966年6月30日・7月1日、まさにこの記事の武道館公演を収めた実況録音盤 Amazonで見る › 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和四十〜六十四年(1965〜1989年)のできごとを、当時子どもだった私の目線で振り返る連載です。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【6月28日】世界が石油に揺れた日、十歳の私はドラえもんに夢中だった | 次の記事:【6月30日】布団の中の、小さな実況中継 ▶

June 29, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月28日──世界が石油に揺れた日、十歳の私はドラえもんに夢中だった

今日は6月28日。梅雨の晴れ間に、夏の重たい空気が少しずつ混じりはじめる頃です。 カレンダーの上では何でもない一日に見えますが、この6月28日という日付は、戦後の日本が「世界の中の自分」をどう見つめてきたかを、不思議なほど映し出しています。 1979年(昭和54年)のこの日、東京で初めての先進国首脳会議――「東京サミット」が開かれました。そしてそのちょうど十年前、1969年(昭和44年)の同じ6月28日。私が生まれた年の新宿で、夜ごと若者たちが歌い、ついに機動隊と衝突した日でもありました。 赤坂に世界の宰相が集った日。新宿に名もなき若者が集った日。同じ日付の十年違いに、昭和という時代の二つの顔が見えてきます。 赤坂に集った、七人の宰相 1979年6月28日から二日間、東京・赤坂の迎賓館に、世界の主要国の首脳が集まりました。第五回先進国首脳会議、通称「東京サミット」。サミットが日本で開かれるのは、これが初めてでした。 そもそもサミットとは、先進国の首脳が一堂に会し、世界経済や国際政治の難題を膝詰めで話し合う場です。第一回は1975年、フランスのランブイエに集まったのが始まりでした。敗戦からわずか三十数年、その「先進国クラブ」の主催国に日本がなったということは、この国が名実ともに世界経済の一角を担う大国へと駆け上がった証でもありました。焼け野原から立ち上がった国が、世界の宰相をもてなす側に回る――東京サミットは、戦後日本の一つの到達点だったのです。 議長を務めたのは、日本の大平正芳首相。「アーウー宰相」とも呼ばれた、あの独特の語り口の人です。そのテーブルには、アメリカのカーター大統領、フランスのジスカール・デスタン大統領、西ドイツのシュミット首相、イタリアのアンドレオッティ首相、カナダのクラーク首相、そしてイギリスのサッチャー首相が顔をそろえました。 議題の中心は、石油でした。前年に起きたイラン革命の余波で原油の供給が激減し、世界は「第二次石油危機」のただ中にあったのです。各国は日本に石油輸入の数値目標を示すよう迫り、大平首相は「数値を出せば内閣がつぶれる」との危機感から抵抗を重ねたと、後の外交文書には残っています。最後には押し切られる形で、日本は目標値を受け入れました。 二度目の石油危機は、六年前の第一次石油危機ほどの大混乱こそ招きませんでしたが、それでも「省エネルギー」という言葉が日常に浸透し、節電や節約が盛んに呼びかけられた時代でした。 会議の前には、物騒な事件もありました。開催前の6月8日未明、迎賓館の正門めがけて無人の小型トラックが突っ込み、街路樹に衝突して炎上したのです。過激派による犯行声明が出され、東京は厳戒態勢に包まれました。 そんな大ニュースの渦中、小学四年生の私は何を見ていたのか――。 正直に申し上げます。このサミットのことを、私は今もってまるで覚えていないのです。少し前に流行った国会答弁の言葉を借りるなら、「記憶にございません」。世界の宰相が赤坂に集まろうと、大平首相が石油に頭を悩ませていようと、十歳の私の関心は、まったく別のところにありました。 「記憶にございません」──十歳の私の1979年 では、小学四年生だった私の1979年は、いったい何でできていたのか。サミットの記憶は空っぽなのに、こちらは驚くほど鮮明によみがえってきます。 まず、この年に『ドラえもん』のテレビアニメが始まりました。「どこでもドア」さえあれば、行きたい場所へひとっ跳び。「もしもボックス」があれば、どんな世界だって作り出せる。あの未来の道具たちに、私はどれほど憧れたことでしょう。 木曜の夜は、家族そろって『ザ・ベストテン』の前に陣取るのが我が家の決まりでした。1979年は本当に名曲ぞろいで、「魅せられて」「関白宣言」「ガンダーラ」「銀河鉄道999」「YOUNG MAN」「夢追い酒」……毎週のランキング発表に、家族で一喜一憂したものです。土曜の夜には『8時だョ!全員集合』、ほかにも『クイズダービー』や『欽ちゃんのどこまでやるの!』。茶の間は、いつも笑い声で満ちていました。 マンガといえば、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』『ドカベン』『がきデカ』、そしてこの年に連載が始まった『キン肉マン』。少し前から続くインベーダーゲームの熱もまだ冷めず、ポケットにはスーパーカー消しゴム、店先にはガチャガチャ、友達はラジコンやBB弾の鉄砲に夢中でした。 サミットも石油危機も、まるで別世界の話。十歳の私の世界は、テレビとマンガと駄菓子屋とで、ぴかぴかに輝いていたのです。 サッチャーから高市へ──四十七年越しの縦糸 ふたたび、赤坂のテーブルに目を戻します。あの東京サミットのテーブルにいたサッチャー首相は、実はこのとき、首相になってまだ二か月足らずでした。1979年5月に就任したばかりの、イギリス史上初の女性首相。その初めての大きな国際舞台が、この東京だったのです。女性が一国の宰相を務めること自体がまだ世界的にも珍しかった時代、男性ばかりが居並ぶ首脳の中で、サッチャーの姿はひときわ目を引いたことでしょう。 それから四十七年。2026年6月、フランス東部の保養地エビアンで開かれたG7サミットに、日本の高市早苗首相が出席しました。2025年10月に就任した、日本で初めての女性総理大臣。彼女にとっても、これが初めてのG7でした。 不思議な縁を感じたのは、高市首相がサミットに先立って訪れた英国で、サッチャー元首相がかつて使っていた執務室を訪ねていたことです。報道によれば、高市首相はその仕事ぶりに思いを馳せ、自らも強い意志をもって必要な変革を成し遂げる、と語ったといいます。 1979年の東京で世界デビューを飾った女性宰相サッチャー。2026年のエビアンで、その背中に思いを重ねた日本初の女性宰相。同じ六月のサミットという舞台で、四十七年の時を越えて二人の女性指導者が結ばれている――そう思うと、少し胸が熱くなります。 そして、もう一つ繰り返されていたものがあります。石油です。1979年がイラン革命による石油危機なら、2026年はホルムズ海峡をめぐる中東情勢の緊迫。エネルギーの安定供給が、またもサミットの主要議題になりました。資源を持たないこの国は、半世紀近くたっても、同じ不安の前に立たされ続けているのです。 十年前の同じ日──昭和44年、私が生まれた年の新宿 ここで時計を、東京サミットのちょうど十年前に戻します。 1969年(昭和44年)。私が四月に、この世に生まれた年です。 当時の日本は、高度経済成長のただ中にありながら、足元では学生運動が燃え盛っていました。この年の1月には、東大の安田講堂に立てこもった学生たちが機動隊によって排除され(東大安田講堂事件)、全国の大学が紛争に揺れ、翌1970年の日米安保条約改定を見すえて、街には不穏な熱気が満ちていました。 その熱気が歌になって噴き出した場所が、新宿駅の西口でした。 1969年の春ごろから、毎週土曜の夕方になると、西口の地下広場に若者たちが集まり、ギターを手に反戦歌を歌うようになります。「ベトナムに平和を!」を掲げるベ平連の青年たちが中心でした。岡林信康の「友よ」、高田渡の「自衛隊に入ろう」をもじった「機動隊に入ろう」――歌は人を呼び、議論を呼び、最大で約七千人が地下広場を埋めたといいます。人々はそこを「反戦広場」と呼びました。 彼らが訴えたのは、ベトナム戦争への反対でした。アメリカの戦争に、日本も加担しているのではないか――そんな問いが、若者たちの口から歌になって響いたのです。決まった指導者がいるわけでも、整然とした組織があるわけでもありません。仕事帰りの勤め人や通りすがりの学生までが足を止め、見知らぬ者同士が肩を並べて声を合わせる。地下広場は、誰もが主役になれる不思議な熱気に包まれていました。 しかし、膨れあがった集会を当局は見過ごしませんでした。そして6月28日の夜、ついに機動隊と若者が衝突します。地下に催涙弾が撃ち込まれ、六十名以上が逮捕され、通りがかりの女性まで巻き添えで負傷する騒ぎとなりました。 翌日、警察は地下広場に道路交通法を適用し、案内表示はひと晩のうちに「西口広場」から「西口通路」へと書き換えられました。「広場」であれば人は立ち止まり、歌い、語り合える。けれど「通路」では、立ち止まることすら許されない。名前を変えるだけで、空間の意味が一変したのです。歌声は、七月を最後に姿を消しました。 このとき、私は生後二か月あまりの赤ん坊でした。当然、何ひとつ覚えてなどいません。けれど、私が産声をあげたその年、私の生まれた東京の街で、これほどの熱と衝突があったのだと思うと、妙に感慨深いものがあります。 思えば昭和44年という年は、高度経済成長の繁栄と、それに異を唱える若者たちの叫びとが、激しくぶつかり合った年でした。豊かさへ向かって突き進む大人たちと、その足元で「本当にこのままでいいのか」と問いを突きつける若者たち。私は、そんな時代の只中に生まれ落ちたことになります。 おわりに 世界を変えようと新宿の路上で歌った若者たちの熱は、わずか十年のうちに鎮められ、「広場」は「通路」へと姿を変えました。その同じ十年で、日本は世界の首脳を迎える経済大国へと駆け上がります。私はちょうどその十年を、赤ん坊から十歳の少年へと育ちながら生きていたわけですが、当の本人ときたら、『ドラえもん』と『ザ・ベストテン』に夢中の毎日でした。 東京サミットの議長を務めた大平正芳首相は、その約一年後、1980年(昭和55年)6月12日、首相在任のまま急逝します。日本で初めてのサミットをやり遂げた人が、一年も経たぬうちにこの世を去ったのです。 1969年、私が生まれた年の新宿では、若者が「世界を変えたい」と歌い、1979年、十歳の私の頭の中は「どこでもドア」でいっぱいで、その傍らで世界の宰相たちが石油に頭を悩ませていました。そして2026年、日本初の女性首相が、フランスでまた同じ石油の心配をしている。 6月28日という一日を手がかりにたどってみると、世界の中の日本の姿が、半世紀分つながって見えてきます。あなたが生まれた年、あなたの街では、どんなことが起きていたでしょうか。少し調べてみると、思いがけない時代の顔に出会えるかもしれません。 あの夏、新宿の地下広場で本当は何が起きていたのか。当時その場に立っていた一人の女性が、半世紀の時を経て、写真と言葉で「広場」の記憶をたどった一冊があります。歴史の教科書には数行で終わってしまう出来事の、その熱と息づかいにふれてみたい方に。 1969 新宿西口地下広場大木晴子・鈴木一誌/新宿書房。あの「反戦広場」に立っていた当事者が綴る、写真と記憶の記録 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

June 28, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月27日──「○○さんちの工事、止まったんだってよ」──昭和の町と「日照権」

今日は6月27日。梅雨の晴れ間に、久しぶりのお日さまが差すと、なんだかほっとする季節です。 「日当たりのいい家」「南向きの部屋」。私たちは、あたりまえのようにそう口にします。ところが、その「日当たり」が、法律で守られるべき大切なものなのだと裁判所がはじめてはっきり認めたのは、じつは、それほど昔のことではありません。 昭和47年(1972年)6月27日。最高裁判所が、「日照(にっしょう)」と「通風(つうふう)」は法律で守られるに値する生活の利益だ、という判断をくだしました。これが、6月27日が「日照権の日」と呼ばれるようになったきっかけです。 法律の話、と聞くと身がまえてしまいますが、その底にあるのは、子どもの頃に空き地で遊んでいた私たちがいちばんよく知っている、ごく素朴な気持ちでした。きょうは、その「陽だまり」をめぐる昭和の話を、私の育った町の風景とともに、少し書いてみたいと思います。 「日なた」が、裁判になった ことのおこりは、東京・世田谷の、ある住宅街でした。 南隣の家が、二階部分を増築しました。ところが、その増築のせいで、北側にあったお宅には、日中の陽がほとんど差さなくなってしまったのです。風の通りも悪くなりました。しかも、その増築は建築基準法に違反したもので、東京都知事から「工事をやめなさい」「違反した部分を取りこわしなさい」という命令まで出ていたのに、それを無視して建ててしまったものでした。 陽の当たらなくなった家の人は、とうとう引っ越しを余儀なくされます。そうして、争いは裁判になりました。 最高裁判所は、こう述べました。日照や通風は、快適で健康な生活に欠かせない「生活上の利益」である、と。お日さまの光や、家を抜けていく風は、ただの気分の問題ではなく、人が健やかに暮らすために守られるべきものなのだ、とはっきり言いきったのです。 もちろん、「少しでも陰ったら、すぐにいけない」という話ではありません。世の中、おたがいさまで、ある程度は我慢しあって暮らしている。けれど、その「我慢の限度」を超えてしまったときには、相手に責任を問える――。そういう考え方が、このときに定まりました。 判決がくだったのは、昭和47年。私はまだ三歳で、もちろん、この裁判のことなど知るよしもありません。 それにしても、と思うのです。お日さまが当たるかどうかなど、それまでは、わざわざ裁判で争うようなことではなかったはずです。陽は、空から、ただで、みんなに降りそそぐもの。誰のものでもないからこそ、誰のものでもあった。その当たり前が、当たり前でいられなくなってきた。だからこそ、こんな裁判が必要になったのでしょう。なぜこの時代に、こんな争いがわざわざ起きたのか。それを考えると、あの頃の町の景色が、すうっとよみがえってくるのです。 空き地が、どんどん消えていった 私が生まれ育ったのは、葛飾区の高砂です。京成電車の線路際で、来る日も来る日も電車を眺めて育ちました。 昭和40年代から50年代にかけての日本は、とにかく「建てる」時代でした。高度経済成長のまっただなか。人が都市にどっと集まり、住む家が足りず、土地が足りず、建物は空に向かってぐんぐん伸びていきます。木造の平屋がならんでいた町に、鉄筋の団地やマンションが、にょきにょきと姿をあらわしていきました。 子どもにとって、それは「権利」だの「法律」だのという、難しい話ではありませんでした。もっと単純で、もっと切実な変化でした。 きのうまで草野球をしていた空き地に、ある日、ぐるりと囲いができる。気がつけば基礎が打たれ、足場が組まれ、シートがかけられ、見上げるほどの建物が建っていく。遊び場がひとつ、またひとつと消えていく。そして、当たり前のように広がっていた空が、少しずつ、少しずつ狭くなっていく――。 昭和50年代、私が小学生だった頃は、近所にもまだ、空き地が点々と残っていました。なかには、硬いボールを使って野球ができるほど広い場所も、何ヶ所かはあったのです。私たちにとっては、またとないグラウンドでした。 それが、一つ、また一つと消えていきました。ある場所は建売住宅に、ある場所はマンションに。気がつけば、きのうまでボールを追いかけていたその土地に、知らない誰かの新しい暮らしが建っている。そんなふうにして、私たちの野球場は、静かに数を減らしていったのです。 そして、そんな時代でしたから、大人たちの会話のなかにも、ときどき、こんな話がまじるようになりました。 「○○さんのところ、二階の増築工事が止まっちゃったんだってよ」 「なんか、誰かにさされたみたいだよ」 「○○さんの建て替え、ストップさせられたらしい」 子どもだった私には、その意味の半分もわかっていませんでした。けれど、いまになって思うのです。これはまさに、あの世田谷の裁判で争われたのと、そっくり同じ出来事だったのだ、と。二階の増築。工事の差し止め。判決の舞台になったのと同じことが、私のすぐ近所でも、現実に起きていたのです。 当時の町の工務店だって、「日照権」のことも、守らなければいけない決まりも、本当はちゃんとわかっていたはずです。それでも、お客さんからの頼みだし、これくらいならバレやしないだろう――。そんな空気も、どこかにあったのかもしれません(笑)。 ただ、それを頭から責める気には、なれないのです。あの判決をきっかけに、ようやく法律の整備が進みはじめた、ちょうどその過渡期。新しいルールが、まだ世の中のすみずみまでは行きわたっていなかった。あの時代だからこそ生まれた、すきま風のようなトラブルだったのだろうと思います。 そういえば、ああいう「工事が止まった」「さされた」という話、いまではめっきり、耳にしなくなりました。 みんなの夢は、「土地付きの一戸建て」だった 正直に言うと、子どもだった私には、団地やマンションへの特別なあこがれは、ありませんでした。 むしろ、あの頃の大人たちが胸に抱いていた夢は、もっとはっきりとした、別のかたちをしていたように思います。自分の土地を持ち、そこに一戸建ての我が家を構える――いわゆる「マイホーム」です。私の親も、まさにそうでした。家を「持つ」というのは、土地ごと自分のものにすることであり、それが一国一城のあるじになる、ということだったのです。分譲マンションを買う、という選択肢は、まだあまり一般的ではありませんでした。 そう考えると、少しだけ、切ない気持ちにもなります。私が硬球を追いかけていた、あの空き地に建っていった建売住宅は、見方を変えれば、どこかの家族の「マイホームの夢」が、ひとつかなった姿でもあったのですから。私の遊び場が消えていくことと、よその誰かの夢がかなうことは、じつは同じひとつのできごとの、表と裏だったのです。 そうやって、限られた土地に、それぞれの「我が家」が、肩を寄せ合うようにして建っていきました。みんなが自分の城を求めれば、当然、隣の家との間で「日当たり」はぶつかります。日照権をめぐる争いというのは、思えば、誰もがマイホームを夢見た、その熱気の裏側で生まれてきたものだったのかもしれません。 「お日さま」を分けあう、ものさし 世田谷の判決のあと、日本のあちこちで、同じような「日照権」をめぐる争いが起きるようになりました。あとから建った高い建物のせいで、もとからあった家に陽が差さなくなる。そういうトラブルが、都市のいたるところで噴き出していたのです。 そこで、国も動きます。昭和51年(1976年)には建築基準法が改正され、「日影規制(にちえいきせい)」というものが設けられました。建物が、周りの家にどれだけの時間、影を落としてよいか。それを地域ごとに線引きする決まりです。いわば、限りあるお日さまを、ご近所みんなで分けあうための「ものさし」でした。 思えば、「日照権」という言葉が新聞やテレビをにぎわせたあの頃は、ひたすら前へ前へと進んできた日本が、ふと立ち止まって「このままでいいんだろうか」と考えはじめた時代でもありました。工場の煙、川の汚れ――「公害」という言葉が世の中に広まったのも、ちょうど同じ頃のことです。豊かになるのは、うれしい。背の高いビルも、新しい団地も、まぶしい。けれど、その豊かさが、誰かの陽だまりや、子どもの遊び場や、きれいな空気を、知らないうちに奪ってはいないか。そんな問い直しが、日本のあちこちで芽を出しはじめていた時代だったのだと思います。 いまの住宅街を歩いてみると、家と家のあいだに、それなりの空が残されています。冬の昼間でも、路地のどこかには、ちゃんと陽だまりができている。それは、あの時代に「陽の当たる暮らし」を守ろうとした人たちの、争いと、工夫と、知恵の積み重ねの上にあるのだ――。そう思うと、足もとに落ちている何でもない日なたが、少しだけ、ありがたく見えてくるのです。 令和の空を見上げて 時は流れ、令和になりました。 街を見渡せば、昭和の頃には考えられなかったような高さの、タワーマンションが立ちならんでいます。日照をめぐる話は、いまも消えてはいません。新しいビルが一棟建つたびに、その足もとの町では、同じような相談やもめごとが、いまも静かに続いているようです。 私はいま、路線バスの運転席から、毎日この町の空を眺めています。長年、同じ道を走っていても、年々、沿道のビルの背が高くなり、フロントガラスの先に見える空が、また少し狭くなったな、と感じることがあります。 それでも、信号待ちでふと窓の外に目をやると、住宅街の小さな庭先で、洗濯物が陽を浴びてゆれている。その何気ない光景を見るたびに、ああ、この陽だまりは、ちゃんと守られてきたものなんだな、と思うのです。 昭和47年6月27日。あの日、最高裁が「お日さまの光は、守るに値する」と認めたこと。難しい法律の判決に見えて、その底にあったのは、空き地で日が暮れるまで遊んでいた私たちがいちばんよく知っている、あの感覚――「陽の当たる場所は、気持ちがいい」という、ただそれだけの、あたりまえの願いだったのかもしれません。 あなたの育った町にも、いつのまにか消えてしまった空き地や、知らないうちに狭くなっていった空は、ありませんでしたか。 同じ場所に立って、昭和の町と令和の町を重ねてみる――そんな一冊があります。写真家・善本喜一郎さんが、1984年に撮ったまさにその場所に、何十年もたって同じアングルで立ち、いまの東京を撮り直した写真集です。消えた空き地、高くなったビル、狭くなった空。ページをめくるたびに、この記事に書いたような「町の移り変わり」が、目の前にくっきりと立ちあらわれます。 東京タイムスリップ1984⇔2021善本喜一郎/河出書房新社。同じ場所・同じアングルで撮り比べた、昭和と令和の東京。シリーズ累計のヒット作 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ...

June 27, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月26日──「猪木なら勝ってくれる」と信じていた、七歳の夜

今日は六月二十六日。梅雨の晴れ間に、夏の気配がじわりと混じりはじめるころです。 昭和の家庭の夜といえば、茶の間のブラウン管テレビでした。チャンネル権は家族の誰かが握り、子どもはその後ろで寝転がって画面を見上げる。そんな数えきれない夜のなかに、日本中が、いや世界中が、固唾をのんで見つめた一戦がありました。 昭和五十一年(一九七六年)六月二十六日。東京・日本武道館で、「格闘技世界一決定戦」と銘打たれた一戦が行われました。プロレスラー・アントニオ猪木と、ボクシング世界ヘビー級チャンピオン・モハメド・アリ。畑のまったく違う格闘技の頂点に立つ二人が、同じリングの上で向かい合ったのです。 アリの「挑発」から始まった、世紀の一戦 ことの発端は、その前年にさかのぼります。 昭和五十年(一九七五年)、「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と謳われた世界の英雄モハメド・アリが、こう言い放ちました。「東洋人で、俺と闘う勇気のある者はいないか」。世界中のメディアに向けられた、いかにもアリらしいビッグマウスでした。 多くの人がリップサービスと聞き流すなかで、その言葉を本気で受け止めた男がいました。アントニオ猪木です。猪木は自らアメリカへ飛び、粘り強く交渉を重ね、ついにこの「夢の対決」を現実のものにしてしまいます。当時、猪木は三十三歳、アリは三十四歳。アリは紛れもない世界のスーパースターで、いっぽうの猪木は、まだアメリカではほとんど無名のレスラーでした。 試合に先立つ六月十八日、東京で行われた記者会見も語り草になっています。アリは猪木に「松葉杖」をプレゼントするという挑発的なパフォーマンスを見せ、会場をどよめかせました。猪木も通訳を介して冷静に切り返し、二人は上半身裸になってファイティングポーズで威嚇し合いました。世界の注目は、否が応にも高まっていきます。 この一戦は、新日本プロレスが企画した「格闘技世界一決定戦」シリーズの第二戦にあたります。同じ年の二月、猪木は柔道のミュンヘン五輪金メダリスト、ウィレム・ルスカと闘い、プロレスの強さを世に示したばかりでした。その勢いのまま、相手は現役のボクシング世界王者。世界三十四カ国に同時中継され、視聴者数は推定十五億人とも言われる、文字どおり前代未聞のスポーツイベントとなったのです。 茶の間も、世界も──中継がつないだお祭り騒ぎ この一戦がすごかったのは、リングの中だけではありません。世界中の人々が、まったく同じ瞬間を見ようとしていたことです。 当時、衛星生中継は今ほど身近ではありませんでした。そこでこの試合は、各地の映画館に有料で中継を流す「クローズドサーキット」という方式で、世界へ届けられました。その数、全米だけで百七十か所。カナダやイギリスなど、海を越えた劇場のスクリーンにも、猪木とアリの姿が映し出されたのです。一人二十ドルの入場料を払ってでも、人々はこの一戦をその目で見届けようとしました。 もちろん、日本中も大騒ぎでした。試合の三日前、六月二十三日の夜には、テレビで前夜祭の生中継まで組まれ、当時の人気タレントたちが顔をそろえて、期待をあおりにあおりました。リングを直接見られない茶の間の子どもにも、「なにか、とんでもないことが起きるらしい」という空気だけは、ひしひしと伝わっていたはずです。大人も子どもも、世界中が、たった一つのリングに視線を集めていた――それが、あの六月二十六日でした。 蹴りも寝技も封じられて──十五ラウンドの真実 子どもだった私が「なんで立って戦わないんだろう」と首をかしげた、あの寝転がる闘魂。じつはあの戦法には、切実な理由がありました。 アリ陣営は、当初この試合をショー的なエキシビションだと考えていたふしがありました。しかし、猪木の本気の公開練習を目の当たりにして警戒を強め、試合直前になってルールが大きく書き換えられます。パンチもキックも、そして寝技も――プロレスの得意技の多くが、封じられてしまったのです。 がんじがらめのルールのなかで、猪木が選んだのは、リングに寝転がったまま、アリの脚を執拗に蹴り続けるという戦法でした。のちに「アリキック」「スライディングキック」と呼ばれるあの蹴りです。立つアリと、寝た猪木。片方が立ち、片方が寝たままにらみ合うこの異様な攻防は、後年、総合格闘技の世界で「猪木アリ状態」と呼ばれる定番の形になりました。 立てば強烈なパンチが待っている。かといって寝たままでは攻めきれない。アリは「立て」「臆病者」と挑発しますが、猪木は乗りません。観客もセコンドもいらだち、会場には重い空気が流れます。それでも回が進むにつれ、猪木のローキックは確実にアリの左脚へ突き刺さっていきました。 勝負は十五ラウンドをフルに闘い抜き、三者三様の判定の末、引き分け。派手なKOシーンを期待していたマスコミは、この地味な展開に困惑し、翌日には「世紀の凡戦」「世紀の茶番」という酷評の言葉が紙面に躍りました。 しかし――蹴られ続けたアリの左脚は、赤く腫れ上がっていました。試合後、アリは左脚の血栓症で入院することになります。あの「蝶のように舞う」軽快なフットワークを、彼はこの一戦を境に失っていったとも言われています。茶番どころか、それは紛れもない真剣勝負でした。 「猪木なら勝ってくれる」と信じていた、七歳の私 ここからは、当時小学一年生だった、私自身の記憶です。 あの頃、世の中には「人類最強は誰だ?」という空気が、たしかにありました。試合の一週間前くらいになると、テレビのワイドショーやニュースは、毎日のようにこの話題で持ちきりです。「世界チャンピオンのアリ来日!」「猪木は本当に勝てるのか?」――あくまで私の主観ですが、そんな見出しばかりが、頭に残っています。 学校でも同じでした。休み時間になると、「猪木が勝つ!」「いや、アリは世界チャンピオンだから無理だ」と、子どもたちの予想がぶつかり合います。今でいうなら、ワールドカップの日本代表戦と、大谷翔平のワールドシリーズと、オリンピックの決勝。あれが全部いっぺんに来たくらいの注目度だったと言っても、大げさではありません。 今のように録画も配信もない時代です。見逃したら、それで終わり。だから誰もが、リアルタイムでテレビにかじりつきました。私も、そのうちの一人です。 テレビで見るアリは、外国からやってきた本物のヒーローでした。「アリって、世界一強い人なんだ」。子ども心にそう思いながら、それでも私は信じていました。日本には、猪木がいる。「猪木なら、勝ってくれる!」と。友達とも、「猪木がバックドロップするんだ!」「コブラツイストでギブアップさせるんだ!」なんて、得意技の話で盛り上がっていた気がします。 試合の日は、夕方からもうソワソワしていました。「早く始まらないかな」。家族みんなで、テレビの前に集まります。 ところが、試合が始まると――「あれ?」。 猪木が、寝転がっているのです。立たない。ひたすら、蹴るばかり。子どもにルールなど分かりません。「なんで立って戦わないんだろう?」。正直、途中から少し退屈にもなりました。それでも、「最後にはきっと、猪木が必殺技を出すはずだ」と、最後まで信じて画面を見つめていたのです。 けれど、十五ラウンド終了。引き分け。 テレビが終わっても、胸に残ったのは「結局、どっちが強かったんだろう」という、もやもやした気持ちだけでした。 それでも――翌日の学校は、朝から晩までこの話題で持ちきりです。「昨日、見た?」「猪木のキック、すごかったな!」「でも、アリも本当に強かったよな!」。あのモヤモヤすら、友達と分かち合えば、立派なお祭りの続きでした。 「凡戦」と笑われた一戦が、「伝説」になるまで おもしろいのは、この試合の評価が、時とともにまったく逆転していったことです。 当時は嘲笑された一戦が、年月を経るにつれて「実はあれは本物の真剣勝負だったのだ」と再評価されていきました。派手な技の応酬を勝手に想像していたマスコミが、想像と違う展開に取り上げ方を見失った――そんな見方もされるようになります。一ラウンド開始直後に猪木がスライディングキックを放った瞬間、「ああ、こういう闘い方があったか!」と武道館の観客がどよめいた、という証言も残っています。 この一戦で、猪木の名は一気に世界へ知れ渡りました。直後にはパキスタンやドイツへ遠征し、新日本プロレスはヨーロッパ各国でテレビ放送されるまでになります。「アリと闘った男」という肩書きが、猪木を別のステージへと押し上げたのです。 その代償も小さくはありませんでした。猪木はこの興行で十億円近いとも言われる多額の借金を背負い、その返済のために、人気のあった異種格闘技路線を走り続けることになります。皮肉にも、その苦肉の選択が、のちの数々の名勝負を生んでいきました。 そして、闘い合った二人のあいだには、不思議な友情が芽生えていきます。アリは、自身の伝記映画で使われた曲「アリ・ボンバイエ」を猪木に贈りました。この曲こそ、のちに猪木の入場テーマ「イノキ・ボンバイエ(炎のファイター)」となる、あの旋律です。リングの上で本気でぶつかり合った者同士にしかわからない何かが、国境を越えて通い合ったのでしょう。 あの「凡戦」と笑われた十五ラウンドは、いまでは映像できちんと見ることができます。先入観なしに見返すと、子どものころには分からなかった、猪木の執念とアリの戦慄が、はっきりと伝わってきます。 格闘技世界一 モハメッド・アリ vs アントニオ猪木 [DVD]昭和51年6月26日、日本武道館。あの15ラウンドを、いま自分の目で確かめてみる Amazonで見る › おわりに──「世界格闘技の日」になった、あの夜 異なる競技の頂点同士が真剣に闘う。今でこそ、総合格闘技(MMA)という言葉とともに、私たちはそれを当たり前のように受け止めています。「猪木アリ状態」という専門用語が今も使われていることが、あの一戦がどれほど時代を先取りしていたかを物語っています。 平成二十八年(二〇一六年)、あの試合からちょうど四十年を機に、六月二十六日は「世界格闘技の日」と制定されました。そしてその制定が報じられた矢先、まるで運命のように、モハメド・アリはこの世を去りました。同年六月三日、享年七十四。さらに令和四年(二〇二二年)には、アントニオ猪木も七十九歳でその生涯を閉じています。リングの上で向かい合った二人は、もう二人ともいません。 ...

June 26, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月25日──「何だ、この騒がしいバンドは!?」

今日は六月二十五日。梅雨空がつづき、夏のにおいが少しずつ近づいてくる頃です。 昭和の子どもにとって、木曜日の夜には特別な意味がありました。夜九時、テレビの前に座る。『ザ・ベストテン』が始まる。その週のヒット曲が一位から十位まで、順番に流れていく。司会は久米宏さんと黒柳徹子さん。ランキングに入った歌手は、たとえ地方にいようと、駅のホームにいようと、その場から中継でつないで歌わされる——そんな大胆な番組でした。ときに視聴率は四割を超え、日本中の家族が、同じ時間に同じ歌を聴いていた時代です。歌のうまい歌手、きれいな歌手、かっこいい歌手。お茶の間は、その時間だけ小さな音楽ホールになりました。 昭和五十三年(一九七八年)の六月二十五日。一枚のシングルレコードが世に出ました。 サザンオールスターズ「勝手にシンドバッド」。 のちに「国民的バンド」と呼ばれることになる彼らの、これがデビューでした。でも、当時小学三年生だった私にとって、サザンとの出会いは「感動」でも「あこがれ」でもありませんでした。最初の感想は、こうです。 「何だ、この騒がしいバンドは!?」 木曜九時、「今週のスポットライト」の衝撃 『ザ・ベストテン』には、「今週のスポットライト」という名物コーナーがありました。まだベストテン入りはしていないけれど、もうすぐランクインしそうな注目の曲を、新人歌手などに歌わせる枠です。これから世に出ようとする歌手にとって、晴れの舞台でした。 その夏、画面が突然、どこかのライブハウスからの中継に切り替わりました。映し出されたのは、大勢の若者がひしめく熱気の中で、今まさに演奏している新人バンド。それがサザンオールスターズでした。いつもは華やかなスタジオから流れてくるはずの音楽番組に、汗と熱気でむんむんした地下のライブハウスが、そのまま映し出される。その時点で、もう何かがふつうではありませんでした。 正直に言います。歌詞が、まったく入ってこないのです。早口で、英語みたいで、何を歌っているのかさっぱりわからない。「勝手にシンドバッド」という曲名すら、聞き取れたかどうかあやしいくらいでした。子ども心に浮かんだのは、ただひと言、「何だ、この騒がしいバンドは!?」でした。 それでも——「ラララ~♪」のところだけは、なぜか耳に残りました。あのフレーズが流れたときのインパクトは、それまでテレビで見ていたピンク・レディーや沢田研二とは、また違うものでした。きれいでもなく、かっこいいでもなく、ただ、まったく新しい何か。意味はわからないのに、体のどこかがざわつく。そういう種類の「新しさ」だったのです。 (あとから知ったのですが、このスポットライト登場は、実はデビューから二か月ほど経った八月三十一日のことでした。新宿のライブハウス「ロフト」からの生中継だったそうです。六月二十五日のデビューを、私たち子どもがテレビで「目撃」したのは、夏の終わりだったというわけです。) ピンク・レディーの夏に、現れた異物 昭和五十三年の夏といえば、何といってもピンク・レディーでした。「UFO」「サウスポー」と、社会現象のようなヒットを次々に飛ばし、ピンク・レディーの振り付けは、子どもたちみんなのものでした。沢田研二さん——ジュリーも、かっこよさの頂点にいました。喫茶店ではインベーダーゲームが流行りはじめ、街にはピコピコという電子音が鳴り出した、そんな夏です。 テレビの中の「スター」とは、ああいうきらびやかな人たちのことだ。子どもの私は、そう思い込んでいました。 そこへ、短パン姿で、上半身裸で、何を言っているのかわからない歌を早口でまくしたてる男たちが現れたのです。きれいでもなければ、決めの振り付けもない。スターのお手本からは、まるで外れている。だから私は、「何だ、この騒がしいバンドは!?」と思ったわけです。今になって思えば、その「外れている感じ」「異物感」こそが、サザンの正体だったのですが。 「勝手にシンドバッド」という、ふざけた名前 あとから知ったことですが、サザンと『ザ・ベストテン』は、同じ昭和五十三年生まれの「同期」でした。番組が始まったのが一月十九日、サザンのデビューが六月二十五日。新しい時代の音楽と、それを映す新しい番組が、同じ年に並んで走り出していたのです。 そして、あの「ふざけた感じ」には、ちゃんと理由がありました。 「勝手にシンドバッド」という曲名。これは前の年に大ヒットした、沢田研二さんの「勝手にしやがれ」と、ピンク・レディーの「渚のシンドバッド」を、くっつけたような名前なのです。当時の大人も子どもも、「なんだそのタイトルは」「コミックバンドか?」と思いました。私がピンク・レディーや沢田研二と比べて「違う」と感じたのは、ある意味あたりまえだったのかもしれません。彼らはその二つの大ヒット曲を、わざとごちゃ混ぜにしたような名前で登場してきたのですから。 桑田佳祐さんの、あの早口で巻き舌の歌い方も、当時は賛否両論でした。日本語をわざと英語っぽく崩して、転がすように歌う。だから歌詞が聞き取れない。——のちに別の歌番組では、あまりに歌詞が聞き取れないため、画面に歌詞のテロップを出したと言われています。今ではどんな歌番組でも当たり前になった「歌詞テロップ」は、このあたりが始まりだったとも言われているのです。つまり、「歌詞が入ってこない」と思っていたのは、私だけではありませんでした。日本中が、そう思っていたのです。 今でこそ信じられませんが、昭和五十年代の半ばごろまで、日本では「日本語はロックに乗らない」と、本気で考えられていた時代がありました。英語ならまだしも、日本語であの強いビートに歌詞を乗せるのは無理だ、と。ところが桑田さんは、日本語を英語のように崩し、まくしたてることで、その「常識」をあっさり壊してしまいました。私が「何を歌っているのかわからない」と感じたあの歌い方こそ、実は日本の歌の歴史を変えてしまった発明だったのです。もちろん、子どもの私にそんなことが分かるはずもありません。ただ、「騒がしいな」と思っていただけでした。 「目立ちたがり屋の芸人です」 スポットライトに登場したサザンは、見た目からして強烈でした。メンバーはジョギング用の短パン姿。桑田さんにいたっては上半身裸。司会の黒柳徹子さんが「アーティストになりたいの?」とたずねると、桑田さんはこう答えたといいます。 「いいえ、目立ちたがり屋の芸人で~す!」 (のちに桑田さん自身が「あれは台本だった」と明かしていますが、その照れ隠しのような感じまで含めて、いかにもサザンらしいエピソードだと思います。) ちなみに、あの中継で大盛り上がりに見えた観客は、実は桑田さんたちが知り合いをかき集めた、いわば「サクラ」だったと、のちに本人が打ち明けています。今ではすっかり伝説になっているあの熱狂も、そんな手づくりの舞台裏から始まっていたのです。背伸びと勢いだけで世間にぶつかっていく——そのなりふりかまわなさが、かえって時代の空気を変えてしまったのですから、おもしろいものです。 この「事件」のような登場で、サザンの名前は一気に広まりました。九月二十一日には『ザ・ベストテン』に九位で初ランクイン。最高四位、オリコンでは三位まで上がり、新人とは思えない好スタートを切ります。「何だ、この騒がしいバンドは」とぽかんとしていた私の知らないうちに、彼らはどんどん駆け上がっていったのです。 そして翌昭和五十四年、「いとしのエリー」が世に出ます。あの早口でふざけたバンドが、こんなにせつなく、こんなにまっすぐなバラードを歌うのか——世間の見る目は、ここで一変しました。コミックバンドだ、キワモノだと言っていた人たちが、一斉に黙り込んだのです。「一発屋」どころではない。サザンは、本物でした。その年の暮れには、さっそくNHK紅白歌合戦に初出場。あの「騒がしいバンド」は、わずか一年あまりで、日本を代表する歌い手の仲間入りを果たしていました。 それでも、虜になるのに時間はかからなかった あれだけ「何だこれは」と思っておきながら、私がサザンの虜になるのに、そう時間はかかりませんでした。気がつけば友だちと、あの「いま何時?」「そうね、だいたいね」の掛け合いを、意味もなく日常会話にはさんでは、ふざけ合っていたのです。あんなに「騒がしい」と感じていた曲の言葉が、いつのまにか自分たちの口ぐせになっていました。子どもというのは、現金なものです。 そこからのサザンは、ご存じのとおりです。昭和から平成へ、出る曲、出る曲が、そのまま時代の景色になっていきました。「チャコの海岸物語」「ミス・ブランニュー・デイ」「希望の轍」「エロティカ・セブン」「愛の言霊」——私は、全部聴きました。 そしてとくに心に残っているのが、平成十二年(二〇〇〇年)の「TSUNAMI」です。サザン自身の最大のヒットとなり、その年のレコード大賞にも輝いたこの曲は、本当に良かった。あの「騒がしいバンド」が、こんなに深く、こんなに大きな歌を届けるようになるとは——木曜の夜、テレビの前で首をかしげていたあの小学生には、想像もできないことでした。 「勝手にシンドバッド」から「いとしのエリー」まで、あの夏に始まった物語のはじまりは、一枚のベスト盤でまとめて聴くことができます。アルバムの一曲目は、もちろん、あの「騒がしい」デビュー曲です。 サザンオールスターズ ベストアルバム「海のYeah!!」一曲目は「勝手にシンドバッド」。デビューから20年の代表曲を網羅した決定盤(2枚組) Amazonで見る › おわりに──「違和感」は、新しさのサイン 令和のいま、サザンオールスターズは押しも押されもせぬ国民的バンドです。夏が来るたび、どこかで桑田さんの声が流れている。「勝手にシンドバッド」は、もう「騒がしい新人の曲」ではなく、日本の夏の定番のひとつになりました。あの夏、テレビの前で首をかしげていた小学生は、まさかこのバンドの歌を、その後何十年も聴き続けることになるとは、思ってもいませんでした。 振り返ってみると、あの夜の私の「何だ、この騒がしいバンドは!?」という違和感こそ、新しい時代の入り口だったのだと思います。子どもの耳が「変だ」「わからない」と感じるものの中にこそ、本物の新しさが隠れている。きれいに整ったものよりも、意味のわからない「ラララ~♪」のほうが、何十年も残っていく。音楽というのは、本当に不思議なものです。 今でも、ときどきテレビでお姿を拝見し、歌声を聴くことがあります。あの頃と比べても、声はまったく色褪せていない。それどころか、とても素敵に年を重ねてこられたなあ、と画面の前でしみじみ思うのです。木曜の夜に「何だこれは」と思った相手と、こうして何十年も同じ時間を生きてきた。そう考えると、ちょっと誇らしいような、くすぐったいような気持ちになります。 皆さんが初めてサザンオールスターズを知ったのは、どの曲、どの場面でしたか。そして——最初は「何だこれは」と思ったのに、いつのまにか大好きになっていた歌は、ありませんか。 このシリーズ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線で振り返っています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

June 25, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月24日──父と観た「空飛ぶ円盤」、家で描き続けた円盤の絵

六月二十四日は「UFOの日」。昭和二十二年(1947年)にアメリカで「空飛ぶ円盤」が目撃された日にちなみます。父に連れられて通った東映まんがまつり、映画館を出たあとしばらく描き続けたUFOの絵、そして昭和六十年にゲームセンターへやってきた「UFOキャッチャー」。空のかなたにあこがれた、昭和の子どもの記憶の話です。 今日は六月二十四日。梅雨の真っただ中で、どんよりとした雲が空をおおう日が続きます。窓の外を見上げても、見えるのは灰色の雲ばかり。けれど昭和の子どもにとって、その雲の向こうにはいつも、もう一つの世界が広がっていました。 六月二十四日は「UFOの日」、別名「空飛ぶ円盤記念日」です。なんとも昭和の子ども心をくすぐる、わくわくする記念日ではありませんか。今日はこの日にちなんで、私たちの世代が夢中になった「空飛ぶ円盤」と、それにまつわる思い出を振り返ってみたいと思います。 「空飛ぶ円盤」が生まれた日 そもそも、なぜ六月二十四日が「UFOの日」なのでしょうか。 話は昭和二十二年(1947年)にさかのぼります。この日、アメリカの実業家ケネス・アーノルドさんが自家用機を操縦して飛んでいたところ、ワシントン州のレーニア山付近の上空で、ものすごい速さで飛ぶ九つの奇妙な物体を目撃しました。物体は鎖のように一直線につながり、平たい形をしていて、ジェットエンジンのような音もしなかったといいます。 アーノルドさんが、その飛び方を「水面を切って跳ねる円盤のようだった」と語ったことから、「空飛ぶ円盤(フライング・ソーサー)」という言葉が生まれました。これが近代UFO史の幕開けとなった、有名な「アーノルド事件」です。以来、世界中で「円盤を見た」という証言が相次ぎ、日本でも「空飛ぶ円盤」という言葉が、新聞や雑誌をにぎわせるようになっていきました。世界はこの記念すべき日を「UFOの日」と名付けたのです。 つまり六月二十四日は、人類が「空の向こうに、私たち以外の何かがいるのかもしれない」と、本気で空想しはじめた日なのです。 父と通った、東映まんがまつり UFOと聞いて、私の胸にまっさきによみがえってくるのは、暗い映画館の中の記憶です。 保育園の年長から小学校の低学年にかけての頃、夏休みや冬休みになると、「東映まんが祭り」という、アニメや特撮の映画を何本かまとめて上映するプログラムが映画館にかかりました。一本の入場料で、人気のキャラクターが何本も観られる。子どもにとっては、まさに夢のような時間でした。 そのたびに、父が私を映画館へ連れて行ってくれたのです。 東映まんが祭りには、入場のときに必ずもらえる紙の帽子がありました。あれをかぶるのが、子ども心にうれしくてうれしくて。映画が終わって外に出ても脱がず、帰り道、家に着くまでずっとかぶっていたものです。 ただ、紙の帽子よりも、さらに強烈に記憶に残っているものがあります。それは——映画館の入口の、左右の壁に貼られたポスターでした。 片側は、たいていお目あての『東映まんが祭り』のポスター。ところが決まって、もう片方の壁には、普段その映画館で上映しているものなのでしょうか、なんとも悩ましいポーズでこちらを見つめる、裸のお姉さんが映ったポスターの数々が貼られていたのです。 「見たいけど、見ちゃいけないよね。でも、ちょっと見たい」 入場の列に並びながら、毎回そのポスターを横目に、胸をドキドキさせていたものでした(笑)。まんが祭りへのわくわくと、見てはいけないものへのこっそりした好奇心。あの入口の数分間は、幼い私にとって、ある意味で本編の映画に負けないくらい、忘れがたいひとときだったのかもしれません。 さて、その東映まんが祭りには「UFO」ものが、けっこうあったのです。 巨大なロボットが空飛ぶ円盤と一体になって、宇宙からの敵と戦う。スクリーンいっぱいに広がる宇宙と、銀色に光る円盤。子どもだった私は、もう夢中になって見入っていました。 そして、ここが自分でも不思議なのですが——映画を観たあと、家に帰ってからしばらくの間、私はずっとUFOの絵を描いていたのです。何枚も何枚も、飽きずに描いていた記憶があります。それだけ、あの映画館で観た「空飛ぶ円盤」が、幼い私の心に強く焼きついていたのでしょう。 「UFOロボ」が飛んでいた時代 ところで、なぜあの頃の映画やテレビには、あれほどUFOものが多かったのでしょうか。 実はこれには、はっきりとした理由があります。昭和五十年代の初め、日本中に空前の「空飛ぶ円盤(UFO)ブーム」が巻き起こっていたのです。 その象徴ともいえるのが、昭和五十年(1975年)に登場したテレビアニメ『UFOロボ グレンダイザー』でした。実はこの作品、もともとは別の企画が立ち消えになったところへ、「当時のUFOブームに乗ろう」という思惑から生まれたものだったといいます。だからこそ「UFOロボ」という名前がつき、敵もはじめて本格的に「宇宙人」が据えられました。その前身となった映画『宇宙円盤大戦争』が東映まんが祭りで公開されたのも、まさに昭和五十年の夏のことです。 私が父と映画館でUFOものに夢中になっていたのは、ちょうどこの時期と、ぴったり重なっています。あの頃、銀色の円盤は、日本中の子どものノートの上を飛び回っていたのです。 ブームを支えたのは、映画やアニメだけではありませんでした。テレビでは、日本テレビの「木曜スペシャル」で、矢追純一さんが手がけたUFO特番が大人気を博していました。あの独特の効果音とともに映し出される、ぼんやりとした円盤の写真と、世界中の不思議な事件の数々。半分は嘘かもしれないと薄々感じながらも、画面に釘づけになってしまう。あの引き込まれる感覚を、同世代の方ならきっと覚えているはずです。昭和五十二年(1977年)の暮れには、ピンク・レディーが「UFO」を歌い、両手を空へ広げるあの振り付けを、誰もが真似していました。 ゴールデン☆ベスト ピンク・レディー(「UFO」収録・全シングル集)あの「UFO」も「サウスポー」も。両手を空へ広げた、昭和の歌がここに Amazonで見る › 学校へ行けば、誰それがUFOを見たという噂が、まことしやかに飛び交いました。夏の夜、夕涼みをしながら空をよぎる光を見つけては、「あれ、UFOじゃないか」と本気で胸を高鳴らせたものです。今思えば他愛のないことばかりですが、空の向こうに何かがいると信じられた、あの感覚こそ、昭和の子どもにとっての何よりのごちそうだったのかもしれません。 空の向こうへのあこがれが、テレビからも映画からも歌からも、洪水のようにあふれ出していた時代。それが、私たちの子ども時代だったのです。 ゲームセンターに着陸した「UFO」 時は流れ、昭和六十年(1985年)。「UFO」の名を持つ、もう一つの忘れがたいものが登場します。 セガが発売した、クレーンゲームの「UFOキャッチャー」です。 それまでのクレーンゲームといえば、上からのぞき込んでお菓子をすくうような、小さな機械が主流でした。ところがこの新しい機械は、二本の爪のアームを操作して、ガラスケースの中に並んだ景品をつかみ取る。そのアームの動きが空飛ぶ円盤のように見えたことから、「UFOキャッチャー」と名づけられたといいます。やがてこの名前は、クレーンゲームそのものの代名詞になっていきました。 この昭和六十年、私はもう高校生になっていました。映画館でUFOの絵を描いていたあの小さな子どもが、いつのまにかゲームセンターに出入りする年頃になっていたわけです。 正直に打ち明けると、あれほど「UFO」に夢中だった私も、この「UFOキャッチャー」そのものには、これといって強い思い出があるわけではありません。同じ「UFO」の名を持ちながら、幼い頃に映画館で円盤に胸をときめかせていたあの熱とは、もう少し冷めた距離で眺めていたように思います。それでも、子ども時代から青春時代まで、形を変えて「UFO」という三文字が私のそばにあり続けたのだと思うと、なんだか不思議な縁を感じます。 ちなみに、この「UFOキャッチャー」が誕生から三十五年を迎えたのを記念して、後の世になって、六月二十四日の「UFOの日」が「UFOキャッチャーの日」にも定められました。空飛ぶ円盤の記念日が、ゲームセンターの記念日にもなった。これもまた、なんとも昭和生まれにはくすぐったい話です。 おわりに 令和のいま、「空の向こう」は、ずいぶん身近なものになりました。 スマートフォンを開けば、宇宙ステーションから見た地球の映像も、遠い惑星の写真も、いつでも手のひらの中で眺めることができます。民間のロケットが次々と打ち上げられ、UFOは「UAP(未確認航空現象)」などと呼ばれて、各国の政府が大真面目に調査する時代にもなりました。あの頃あれほど謎めいていた「空飛ぶ円盤」も、すっかり日常の話題の一つです。 それでも——です。 ...

June 24, 2026

6月23日 ── 北へ向かう夢の超特急は、なぜか「大宮始発」だった

六月二三日。梅雨の晴れ間に、少しだけ夏の匂いが混じりはじめる頃です。 カレンダーをめくると、この日にはいろいろな記念日が並んでいます。けれど私がきょう書きたいのは、四十年以上前のある朝、北へ向かって走り出した一本の列車の話です。 昭和五十七年(一九八二年)六月二三日。東北新幹線が、大宮〜盛岡間で開業しました。 そのとき私は中学一年生。高砂の電車に囲まれて育った私にとって、新幹線というのは、いつもの京成電車とはまったく別の、ちょっと手の届かない「夢の乗り物」でした。 毎日のように京成電車を眺め、すぐ近くの高砂検車区には、ずらりと電車が並んでいる。電車という乗り物なら、誰よりも身近に感じていたはずの私です。それでも、図鑑やテレビのニュースの中を走る新幹線だけは、なぜか同じ「電車」だとは思えませんでした。同じレールの上を走るのに、住んでいる世界が違う。そんなふうに感じていたのです。実をいうとこの頃の私は、まだ一度も新幹線に乗ったことがありませんでした。 夢の超特急は、なぜか「大宮始発」だった 東北新幹線の計画そのものは、ずいぶん前から進んでいました。東京〜盛岡を結ぶこの路線は、昭和四十六年(一九七一年)に着工され、十年以上の歳月をかけて、ようやく完成にこぎつけます。 ところが、いざ開業というとき、ひとつの大きな「ねじれ」がありました。 始発駅が、東京でも上野でもなく、埼玉の大宮だったのです。 東海道新幹線が当たり前のように東京駅から走り出したのに比べると、これはずいぶん変則的な船出でした。理由は、上野〜大宮の沿線にあります。この区間はすでに住宅が密集していて、新幹線の騒音をめぐる反対運動が起きていました。そのため都心への乗り入れはいったん見送られ、「とりあえず大宮から」というかたちで走り始めることになったのです。 東京〜盛岡が、それまでの在来線特急で六時間二三分。それが新幹線の開業で、三時間五八分にまで縮まりました。四割近い時間短縮です。けれど、その恩恵にあずかるには、まず大宮まで行かなければならない。そこに、もうひとりの主役が登場します。 「新幹線リレー号」という名脇役 大宮始発という事情を埋めるために用意されたのが、上野〜大宮を結ぶ専用列車、その名も「新幹線リレー号」でした。 新しく造られたばかりの185系という車両が、上野と大宮のあいだをノンストップ、わずか二十五分ほどで走りました。新幹線の特急券を持っている人だけが乗れる、文字どおりの「連絡列車」です。乗り換えで迷わないように、ホームには「リレーガール」と呼ばれる案内係の女性たちが立っていたといいます。 開業の日、大宮駅のホームでは朝七時一五分に「やまびこ一一号」の出発式が行われ、一日じゅう鉄道ファンでにぎわったそうです。白地に緑のラインをまとった200系が、最高時速210キロで北へ走り出しました。 もっとも、走り出した当初の本数は、ずいぶん控えめなものでした。速達タイプの「やまびこ」が一日に四往復、各駅停車の「あおば」が六往復ほど。これだけ大きな路線にしては、まるでローカル線のようなダイヤです。それでも、夏の帰省シーズンには大宮駅が人であふれかえったといいますから、みんながどれほどこの一本を待ちわびていたかが伝わってきます。 この「リレー号」は、三年後の昭和六十年(一九八五年)に新幹線が上野まで延びると、その役目を終えて姿を消しました。たった三年足らずの命でしたが、開業したばかりの夢の超特急を都心とつないでいたのは、この名脇役だったのです。 そして、この「上野まで延びた」という出来事が、私の家のすぐそばにも、小さな波紋を広げることになります。 私が初めて乗った新幹線は、修学旅行だった 私が通っていた中学校では、三年生の修学旅行で東海道新幹線に乗り、京都・奈良へ行くのが決まりでした。 私にとって、生まれて初めての新幹線は、このときの東海道新幹線です。当時は「生まれて初めて乗る新幹線は修学旅行のとき」という子も少なくありませんでした。家族旅行で気軽に乗るようなものではなく、新幹線は子どもにとって、人生の特別な日にだけ顔を出す乗り物だったのです。 みんなでホームに並んで、あの長い銀色の車体がすうっと滑り込んできたときの高揚。窓の外をものすごい速さで景色が流れていく、あの初めての感覚。修学旅行そのものの思い出と、初めての新幹線の興奮とが、私の中ではひとつに溶け合っています。 だからでしょうか。「初めての新幹線が修学旅行だった」という人は、新幹線そのものの記憶と、あの旅の記憶とを、生涯ひとそろいで持っているように思うのです。どの新幹線で、どこへ向かったか。それは、その人がどんな時代に子どもだったかを、そっと映す鏡でもあります。 妹の代から、行き先が「東北」になった ところが、です。 昭和六十年に東北新幹線が上野まで延びたことで、思いがけないことが起きました。一つ年下の妹の修学旅行先が、なんと東北になったのです。 どこを回ったのか、詳しいことは私も聞きそびれてしまいました。ただ、妹がお土産に「赤べこ」──赤い牛の形をした張り子の人形──を買って帰ってきたのを、はっきり覚えています。赤べこといえば、福島・会津の郷土玩具。きっと会津地方を訪れたのでしょうね。 もともと上野駅は、東北や北国へ向かう人々の「玄関口」でした。集団就職の若者たちも、帰省の家族連れも、北を目指す列車はみな上野から出ていった。その上野に新幹線が乗り入れたことで、下町の中学生にとっても、東北がぐっと手の届く行き先になったのです。その証拠のように、私の中学校では、その後しばらく「京都・奈良」と「東北」の修学旅行を、一年交代で実施するようになりました。 いつまで続いたのかは分かりません。けれど、私の世代までは「初めての新幹線=東海道新幹線」だったのが、妹の代からは「初めての新幹線=東北新幹線」という子どもたちが、どんどん増えていったわけです。 一本の新幹線が都心に少し近づいた。ただそれだけのことで、子どもたちが人生で最初に降り立つ「遠い町」が、京都から会津へと変わっていく。あらためて考えると、これはなかなか、すごいことだと思うのです。 修学旅行の行き先というのは、その時代に「子どもに見せておきたい日本」がどこだったか、という選択でもあります。長いあいだ、それは京都や奈良の古い都でした。そこに東北という新しい選択肢が加わったのは、新幹線が北を一気に近づけてくれたから。線路が一本延びるたびに、子どもたちが見る日本の地図も、少しずつ書き換えられていったのだと思います。 バスのハンドルを握る私が思うこと 私は今、路線バスの運転士をしています。 毎日、決まった道を走りながら、人を乗せて、目的地と目的地をつないでいます。華やかさはありません。けれど、誰かの「行きたい場所」と「今いる場所」のあいだを、確実につなぐ仕事です。 だからでしょうか。あの「新幹線リレー号」の話を知ると、妙に胸が熱くなるのです。 主役の超特急ではなく、その手前で、都心と大宮をつないでいた185系。脚光を浴びるのは新幹線のほうでも、リレー号がなければ、あの三年間、人は北へ向かえませんでした。つなぐ、という仕事に、上も下もありません。そんなことを、ハンドルを握りながら、時々思います。 それでも、北はぐっと近くなった 妹たちを東北へ運んだ上野延伸から六年後、平成三年(一九九一年)には、東北新幹線はついに東京駅まで乗り入れます。 ...

June 23, 2026

6月22日 ── 両さんの亀有は、私の育った葛飾のすぐ隣だった

六月二十二日。梅雨空の下、紫陽花が雨を含んで重たそうに揺れています。一年でいちばん日が長いころ。けれど私がこの日に思い出すのは、季節の風景よりも、自分の育った町の名前です。 昭和五十一年(一九七六年)のこの日、一冊の少年漫画雑誌に、ある読み切り漫画が載りました。タイトルは『こちら葛飾区亀有公園前派出所』。──そう、私の生まれ育った葛飾区が、まるごと題名になった漫画です。 もっとも、この読み切りが世に出たとき、私はまだ七歳。小学一年生になったばかりで、正直に言えば、この漫画をリアルタイムで読んではいませんでした。私と両さんが本当に出会うのは、もう少しあと――私が『週刊少年ジャンプ』を、毎週夢中でめくるようになってからの話です。 葛飾の派出所から、世界一の漫画が始まった 昭和五十一年六月二十二日に発売された『週刊少年ジャンプ』二十九号。そこに、「山止たつひこ」という名前の新人が描いた読み切り漫画が掲載されました。その年の四月期、月例の「ヤングジャンプ賞」に入選した一作です。これが、のちに四十年も続く国民的漫画『こち亀』の、世に出た最初の一歩でした。 作者は、当時二十三歳の秋本治さん。実は、ペンネームの「山止たつひこ」は、当時『がきデカ』で大人気だった漫画家・山上たつひこさんの名前をもじったものでした。「長い題名と、ちょっと変わった名前にすれば、審査員の目に留まるだろう」。そんな新人らしい工夫だったといいます(のちに山上さんご本人から「紛らわしい」と苦情が来て、連載百回目を区切りに本名へと改めることになります)。 そして秋本さんご自身が、東京都葛飾区の亀有で生まれ育った人でした。だからこの漫画の舞台は、絵空事ではありません。主人公の破天荒な巡査・両津勘吉――通称「両さん」が駆け回る亀有公園前の派出所は、作者が実際に過ごした下町そのものだったのです。読み切りの段階で、すでに両さんの相棒・中川圭一も顔を出していました。 読み切りの評判は上々で、同じ年の九月二十一日発売の四十二号から、いよいよ本格的な連載が始まります。当初は劇画に近いリアルな絵柄で、拳銃をぶっ放す両さんと中川の暴走ぶりが描かれ、いま読むと驚くほど過激です。けれど、その荒っぽさの底にいつも下町の人情があったことが、この漫画が長く愛された理由なのだと思います。秋本さんは「短期で終わるとばかり思っていた」とのちに語っていますが、両さんは誰の予想もはるかに超えて走り続けることになります。 その「世に出た最初の一歩」は、いまも一巻として手に取ることができます。リアルな絵柄の、過激で若々しい両さん。四十年の長い旅の出発点を、ぜひ一度のぞいてみてください。 こちら葛飾区亀有公園前派出所 1(ジャンプコミックス)秋本治/集英社。すべてはこの一巻から始まった Amazonで見る › 私がジャンプを開いたのは、黄金時代だった 私が『週刊少年ジャンプ』を毎週読むようになったのは、昭和五十六年から六十年(一九八一〜一九八五年)ごろ。中学から高校へと向かう、いちばん多感な時期でした。そしてそれは、ジャンプがまさに「黄金時代」へと駆け上がっていく時期と、そっくり重なっていたのです。 思い出してみてください。表紙は『キン肉マン』か『北斗の拳』、巻頭カラーは『キャプテン翼』、ギャグのページには『Dr.スランプ』や『奇面組』、そして『キャッツ♥アイ』。そんな号が、ちっとも珍しくなかった。「ウォーズマン対ラーメンマン」も、「翼くんの全国大会」も、「アラレちゃんブーム」も、ケンシロウの「お前はもう死んでいる」も、ぜんぶリアルタイムで浴びるように読んでいました。いま思えば、なんと贅沢な少年時代だったでしょう。 正直に白状すると、私のジャンプの楽しみ方には、はっきりとした主役がいました。熱血バトルの『キン肉マン』、ハードな格闘の『北斗の拳』、スポーツものの『キャプテン翼』、そして笑いの『Dr.スランプ』。この四本が、私の「メイン」でした。 では『こち亀』はどうだったか。──正直なところ、私にとってこち亀は、一番のお目当てではありませんでした。けれど、こう言えます。「こち亀は、毎週必ず読む」。派手な主役たちの陰で、両さんのページだけは、どんなに忙しい号でも、必ず開いていたのです。爆発もしない、必殺技も出ない。ただ下町の派出所で、両さんがいつものように騒いでいる。その「いつもどおり」が、なぜか妙に落ち着くのでした。 そしてあの長いタイトルを目にするたび、心のどこかで思っていました。「これ、うちの葛飾の話なんだよな」と。 寅さんと両さんと、葛飾という町 ここで少し、私自身の地元の話をさせてください。 葛飾区には、もう一人、全国に知られた看板役者がいます。映画『男はつらいよ』の車寅次郎――「寅さん」です。寅さんの故郷・柴又は、私の暮らした京成高砂のすぐ隣。金町線でひと駅、帝釈天の参道はもう目と鼻の先でした。 実は秋本さんも、あの長いタイトルをつけた理由を、こんなふうに語っています。「『男はつらいよ』のおかげで、葛飾区は全国に知られていた。亀有は知らなくても、葛飾区はみんな知っているだろうと思った」と。つまり『こち亀』のあの長い題名は、先輩格の寅さんへの目配せでもあったわけです。 柴又の寅さん、亀有の両さん。下町の人情と、破天荒な可笑しさ。葛飾という小さな区が、二人もの国民的キャラクターを生んだ町だということを、私はいまでも少し誇らしく思っています。事実、平成二十四年(二〇一二年)、秋本さんは葛飾区の名誉区民となりました。そして同じ日に並んで表彰されたのが、ほかでもない『男はつらいよ』の山田洋次監督。寅さんと両さんが、肩を並べて顕彰されたのです。 四十年、一度も休まなかった 『こち亀』のすごさは、その「続いた長さ」にもあります。 昭和五十一年に始まった連載は、平成二十八年(二〇一六年)まで、実に四十年間。その間、『週刊少年ジャンプ』で一度も休載しませんでした。毎週毎週、両さんは派出所で騒ぎを起こし続けたのです。最終回は平成二十八年九月十七日発売号。単行本は、ちょうど二百巻できれいに完結しました。 この二百巻という数字は、「もっとも発行巻数が多い単一漫画シリーズ」として、ギネス世界記録に認定されました(令和のいまは『ゴルゴ13』に記録を譲りましたが、その後の二〇二一年に、新たに二百一巻が刊行されています)。累計の発行部数は、一億五千万部を超えるといいます。 漫画だけではありません。連載開始のわずか翌年、昭和五十二年には早くも実写映画になり、平成八年(一九九六年)から平成十六年(二〇〇四年)まではフジテレビでテレビアニメが放送されました。日曜の朝、ラサール石井さんの声で「両さん」が動き回るのを覚えている方も多いでしょう。葛飾の派出所から始まった物語は、紙の上を飛び出して、お茶の間にもしっかり住み着いていたのです。 ここで、ふと思うのです。少年時代の私が夢中になった「メイン」――キン肉マンも、北斗の拳も、キャプテン翼も、Dr.スランプも、それぞれの名場面を残して、いつしか連載を終えていきました。ところが、私が「サブ」だと思って、けれど毎週必ず読んでいた両さんだけは、平成の終わりまで走り続けた。いちばん派手だった主役たちより、いちばん「いつもどおり」だった脇役のほうが、ずっと長く生き残ったのです。あのころ、私はそんな未来を、まったく想像していませんでした。 私が小学一年生だった年に始まった漫画が、私が四十七歳になるまで、ずっと同じ雑誌で続いていた。あらためて考えると、これはとんでもないことです。両さんは、昭和と平成を、まるごと走り抜けていったのでした。 令和のいま、亀有の駅前で いま、亀有の駅前に立つと、あちこちに両さんの銅像が立っています。元気よく右手を挙げた両さん、ベンチに腰かけた両さん……全国からファンが訪ねてくる、すっかり「聖地」になりました。漫画の中の派出所が、現実の町の誇りになったのです。 その銅像を見るたびに、私は不思議な気持ちになります。 子どものころ、毎週少年ジャンプを開けば、当たり前のようにそこにいた両さん。テレビをつければ、アニメでも活躍していました。その両さんが、いま自分の目の前に、銅像となって立っている。もちろん漫画の主人公なのですが、亀有ではまるで、本当にこの町で暮らしていた人のような存在です。 私は葛飾という町に縁があります。だからこそ、全国の人が「亀有」と聞いて真っ先に思い浮かべるのが『こち亀』であり、両さんであることが、少し誇らしいのです。 考えてみれば、漫画やドラマの舞台になる町は数多くあります。けれど、何十年も連載が続き、世代を超えて親しまれ、その主人公の銅像が町のシンボルになっている例は、そう多くありません。 両さんの銅像の前に立つと、昭和のころの記憶もよみがえります。商店街のにぎわい。駄菓子屋。自転車で走り回る子どもたち。ジャンプを買って、夢中で読んだ放課後。そんな時代の空気が、両さんの後ろに見えるような気がするのです。 地元が漫画やドラマで取り上げられるというのは、ただ有名になるということではないのだと思います。その作品を通じて、その町で暮らした人々の思い出や風景が、多くの人の記憶の中に残るということ。 亀有と聞けば、両さんを思い出す人がいる。柴又と聞けば、寅さんを思い出す人がいる。それは葛飾という町が、日本中の人々の心の中に生き続けている、ということでもあります。 両さんの銅像を見上げながら、私はそんなことを考えます。少年時代に読んだ漫画の主人公が、いまも変わらず地元の駅前で笑っている。それは何とも言えない懐かしさと、少しの誇らしさを感じさせてくれる風景なのです。 おわりに あなたの町にも、漫画やドラマ、歌の舞台になった場所はありますか。そして、その作品と初めて出会ったときのことを、覚えているでしょうか。 両さんのように、何十年も変わらずそこにいてくれる「町の顔」は、私たちの記憶のいちばん柔らかいところに、そっと住み着いているのかもしれません。 ※この「昭和の今日は何があった日?」シリーズは、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、その時代に子ども時代を過ごした私の目線でつづっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月21日 ── 京成・都営・京急がつながった日、私はまだ生まれていなかった | 次の記事:6月23日 ── 北へ向かう夢の超特急は、なぜか「大宮始発」だった ▶

June 22, 2026

6月21日 ── 京成・都営・京急がつながった日、私はまだ生まれていなかった

六月も後半に入ると、空がぐずついて、空気がねっとりと重たくなってきます。一年でいちばん昼が長い、夏至のころ。傘を片手に駅へ向かう人の足取りも、どこか急いて見える季節です。 私が育ったのは、葛飾区の高砂という町です。最寄りは京成高砂駅。ここは、ただの駅ではありません。京成本線と押上線、それに金町線が分かれていく結節点で、すぐそばには電車をしまっておく大きな車庫——高砂検車区があります。線路が何本も並び、色とりどりの電車が、出たり入ったりする。子どもにとっては、これ以上ない景色でした。 そう、私の町は「電車の街」でした。 踏切の音で、時間を計っていた 六歳ごろまで、私は高砂駅のすぐそば、線路沿いの家で暮らしていました。だから、電車の走る音だけでなく、駅に流れるアナウンスや、笛の音まで聞こえてきました。電車は、それくらい身近な存在だったのです。一歩家を出れば、すぐ目の前を電車が走っている——そんな環境でした。 特に私が好んで電車を見ていたのは、駅の踏切のそばはもちろんですが、家のそばにあった、線路をまたぐ歩道橋からでした。そこからの開けた眺めと、絶え間なく行き交う電車を見ていると、飽きることはありませんでした。 いま思えば、保育園児が、柵があったとはいえ、たった一人で線路沿いをふらふらと出歩いている。なんとものんびりとした、呑気な時代だったのですね。 あの歩道橋の上で、私が飽きもせず見上げていた電車たちが、どこから来て、どこへ向かっていたのか。当時の私は、もちろん何ひとつ知りませんでした。 昭和四十三年六月二十一日 ── 三つの会社が、一本につながった日 さて、今日は六月二十一日です。 昭和四十三年——西暦でいえば一九六八年のこの日、東京の地下で、ひとつの「輪」が完成しました。 都営地下鉄一号線、いまの都営浅草線の、大門と泉岳寺のあいだが、新しく開業しました。同じ日に、京浜急行の品川と泉岳寺のあいだも開業して、京急と都営地下鉄が線路でつながり、相互直通運転——おたがいの電車が、相手の線路へ乗り入れる運転が始まったのです。 これが、どれほど大きなことだったか。 押上から先は、京成電鉄が千葉方面へと延びています。そして泉岳寺から先は、開業したばかりの京急が、神奈川の三浦半島の方へと延びていく。つまりこの日、千葉から東京の都心を貫いて神奈川まで、三つの会社の線路が一本につながりました。乗り換えなしで、県をまたいで走れる長距離の直通運転が、現実のものになった瞬間でした。 じつは、京成電鉄と都営一号線の直通そのものは、もっと前から、少しずつ始まっていました。昭和三十五年の十二月、押上と浅草橋のあいだが開業したときに、京成の電車はもう、都営の地下へ乗り入れはじめていたのです。そこから線路は一駅、また一駅と南へ延び、昭和三十九年の十月に、大門まで届きました。 この工事には、いかにも昭和らしい逸話があります。地下鉄の建設が始まったのは昭和三十三年。ところが昭和三十九年の東京オリンピックに向けた工事を優先するため、途中でいったん中断されたのです。世界に向けて東京の姿を整えることが、何より先だった時代でした。オリンピックが終わってから工事は再び動き出し、最後に残った泉岳寺までの区間と、京急との接続にたどり着きます。品川と泉岳寺をつなぐ、わずか一・二キロ。それが五年がかりの難工事だったというのですから、ひとつなぎのために、どれほどの汗が流されたか知れません。ちょうどこの年は、京急が創立七十周年を迎える、節目の年でもありました。 ちなみに、三つの会社の電車が、おたがいの線路を走り通せるのは、レールの幅——軌間がそろっているからです。京成も、都営浅草線も、京急も、新幹線と同じ広い軌間で造られている。だからこそ、会社の枠を越えて、一本の電車が走っていけるのです。 電車の乗り入れそのものは、開業の六日前、六月十五日から始まっていたそうです。この六日間は試運転の期間で、大門と品川のあいだを、お客を乗せない電車が、静かに行き来していました。そして六月二十一日、いよいよ本番を迎えます。なお、都営の地下鉄が西馬込まで全線そろうのは、この年の十一月のこと。ですから六月二十一日は、「全線開通の日」というよりも、「三つの会社の電車が、はじめて一本に手をつないだ日」と呼ぶのが、ふさわしいように思います。 おもしろいのは、この直通の道が、いまでこそ成田空港への大切なルートになっているのに、つながった昭和四十三年の時点では、その成田空港が、まだ影も形もなかった、ということです。空港が開港するのは、これより十年もあとの昭和五十三年。つまりこの線路は、行き先となる空港が生まれるよりも先に、ちゃんと用意されていたことになります。道が先にあって、人やものが、あとからその上を流れはじめる。鉄道というのは、そういう気の長い、先回りの仕事なのだと、あらためて思わされます。 私が生まれる前の年に、道はもうつながっていた ここで、ひとつ、正直に書いておかなければならないことがあります。 私は、この日のことを覚えていません。覚えているはずがありません。私が生まれたのは、その翌年——昭和四十四年の四月だからです。三つの会社の線路が一本につながったとき、私はまだ、この世にいませんでした。 不思議な気持ちになります。 あの歩道橋の上で、私が飽きもせず電車を見上げていたとき、その電車たちが走っていく道は、私が生まれる前の年に、もう出来上がっていたのです。子どもの私は、そんなことは、何ひとつ知りませんでした。電車はただ、空気や水のように、当たり前にそこにありました。当たり前すぎて、それが誰かの五年がかりの難工事の上に成り立っているなんて、想像もしませんでした。 私はいま、路線バスの運転士として、人を乗せて街を走っています。乗り物で人を運ぶというのは、地味ですが、誰かの一日を、誰かの人生を、たしかに前へ動かしている仕事です。バスのハンドルを握りながら、ときどき思います。子どものころ眺めていたあの電車たちも、こうして毎日、誰かの暮らしを運んでいるのだなと。 当たり前にそこにある道は、誰かが汗をかいて、つないでくれた道です。それに気づくのに、私はずいぶん長い時間がかかりました。 令和のいま、その道は二つの空港をつないでいる あの日つながった三社の直通は、いまもしっかりと生きています。それどころか、昭和の人が見たら驚くような姿になりました。 いまでは、この直通ルートは、羽田空港と成田空港という、二つの空の玄関口を結ぶ大動脈になっています。神奈川の三崎口から、京成線を経由して成田空港の方まで直通する電車の距離は、なんと百四十一・六キロにもなるそうです。東京から静岡のあたりまで、乗り換えなしで一本。昭和四十三年に泉岳寺で手をつないだ三つの会社の線路は、半世紀をかけて、ここまで遠くへ伸びていきました。 高砂の車庫をのぞくと、いまでも、赤い京急の電車が、京成の車庫に、当たり前のような顔をして停まっていることがあります。会社のちがう電車が、同じ屋根の下で肩を並べている。あの六月二十一日につながった輪が、半世紀以上たったいまも、こうして目の前で静かに回り続けているのだと思うと、なんだか胸が温かくなります。 思えば、あの歩道橋の上の私は、来る日も来る日も、その「輪」が回っているところを眺めていたのです。京成の電車にまじって、よその会社の電車が走っていく。子どもの私には、それがどれほど大きな出来事の続きなのか、わかるはずもありませんでした。ただ、いろんな色の電車が来るのが、うれしかった。本当に、それだけでした。でも、その「うれしい」を毎日くれていたのは、たしかに、あの日つながった三つの会社の線路だったのです。 高砂の駅には、いまも私の子どもたちが乗り降りしています。私が見上げていたのと同じ車庫の電車を、子らもまた、当たり前の景色として見ているのでしょう。その電車が走る道が、いつ、どんなふうにつながったのか——たぶん、知らないままに。 あの日、踏切で見上げたスカイライナーは、いまでは手のひらの上でも走らせられます。子や孫と、畳の上に線路をつないで、あの銀色の車体を走らせる。私が歩道橋から眺めていた景色を、こんどは小さな手といっしょに、もう一度たどってみるのも、いいものです。 プラレール S-54 京成スカイライナー AE形タカラトミー/あの踏切で見た銀色の車体。子・孫と畳の上で走らせる一台 Amazonで見る › それで、いいのだと思います。当たり前にそこにあることこそが、つないでくれた人たちへの、いちばんの恩返しなのかもしれませんから。 あなたの町には、「当たり前にそこにあるけれど、じつは誰かが汗をかいてつないでくれた道」はありますか。電車でも、橋でも、坂の上の階段でも。今日はひとつ、思い出してみませんか。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一篇です。昭和四十年から六十四年までの「今日」を、高砂で育った一人の子どもの目線で、少しずつ書き残しています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月20日 ── テレビの「向こう側」だったNHKホールに、息子と立った日 | 次の記事:6月22日 ── 両さんの亀有は、私の育った葛飾のすぐ隣だった ▶

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