9月16日 ── 物差しに「尺」が戻ってきた日。職人と永六輔が守った目盛り|昭和の今日は何があった日?

九月十六日。昭和五十二年、一九七七年のこの日、日本の物差しに「尺」が戻ってきた。 こう書いても、若い人にはぴんと来ないかもしれない。尺の目盛りが入った物差しを作ったり売ったりすることが、それまで法律で禁じられていた、という話である。私自身、このことを知ったのはずっと大人になってからだ。 昭和五十二年の私は八歳、小学二年生。物差しといえば、ランドセルに刺さっていたあの一本だった。 ランドセルに刺さった竹の物差し 私の物差しは竹製だった。筆箱には入らないから、ランドセルの横に刺して通っていた。 友だちの中には、見事に反った物差しを持っているやつもいた。まっすぐな線を引くための道具が弓なりになっているのだから、あれで何を測っていたのだろうと今でも可笑しくなる。 不思議なのは、その竹の物差しが、私が二十歳を過ぎても家に残っていたことだ。どういうわけか、捨てなかったのである。特別に大事にしていた覚えもない。ただ、なんとなく捨てられないまま、引き出しのどこかに居続けた。 あとから知って面白いと思ったのは、学校で使っていた三十センチという長さが、昔の一尺とほとんど同じだということだ。曲尺の一尺はおよそ三十・三センチ。私たちは知らないうちに、ほぼ一尺の物差しを毎日持ち歩いていたことになる。 犬小屋を五回作った父 学校の物差しはセンチだったが、家の中には尺の世界があった。持ち込んでいたのは父である。 中川の土手のそばの家に住んでいた頃、父は日曜大工に精を出していた。まあ、人に頼むとお金がかかる、というのがいちばんの理由だったのだろう。 私の記憶にある限り、一匹の犬のために犬小屋を五回は作った。作りかえるたびに出来がどんどん良くなっていくので、犬のほうも戸惑っていたかもしれない。 学校から帰ってくると、朝にはあったはずの部屋の壁がぶち抜かれて、なくなっていたこともある。極めつけは風呂だ。父は風呂まで自分で作ってしまった。たしか三か月くらいかかったのではないかと思う。 そんな父の口からは、「尺」や「寸」という言葉がしょっちゅう出てきた。子どもの私は意味もよくわからないまま、それを家の中の言葉として聞いていた。 法律に「待った」をかけた職人たち 日本では戦後、メートル法への統一が進められ、昭和三十四年からは尺目盛りの物差しの製造も、商取引での使用も禁じられた。 困ったのは、尺で仕事をしてきた人たちである。木造の家は尺を基準に建てられているし、着物の仕立ては「鯨尺」という別の物差しで測る。鯨尺の一尺は曲尺の一尺二寸五分、およそ三十八センチ。センチに置き換えればいいという話では済まない。現場では、闇で作られた粗悪な物差しが出回って混乱したり、職人が書類送検されたりすることまで起きた。 大工さんの組合である全建総連は「日本の建物は尺が基本だ」と訴え続けた。そこに呼応したのが、タレントで作家の永六輔さんである。使いたい人、ないと困る人がいるのに法律で禁じるのは無茶だ、とラジオやテレビで繰り返し訴えた。 そして昭和五十二年九月十六日の午後。通産大臣の諮問機関である計量行政審議会が九回目の専門部会を開き、曲尺と鯨尺の物差しの製造を認めるという最終結論をまとめた。正確には「尺に相当する目盛りが付いた、メートル法の物差し」という扱いである。いかにもお役所らしい言い回しだが、要するに職人の道具箱に、十八年ぶりに堂々と尺が戻ってきたわけだ。 正直に書くと、この尺貫法の一件を、子どもの私はまったく知らなかった。永六輔さんのことはテレビで見て知っていた。「せき・こえ・のどに浅田飴」のコマーシャルの人である。あの人が「上を向いて歩こう」の作詞家だということも、実は今回調べて初めて知った。浅田飴のおじさんが、職人の物差しのために国に物申していた。八歳の私が見ていたテレビの向こうには、そういう大人の世界があったのだ。 その永六輔さんが、全国の職人たちの言葉を集めた一冊があります。「尺」を守った人たちが、どんな気持ちで道具を握っていたのか。短い言葉の中に、それがそのまま入っています。 職人(岩波新書)永六輔/岩波書店。全国の職人たちの語録と、手仕事をめぐるエッセイ。『大往生』に続く永六輔の岩波新書。星4.3(93件) Amazonで見る › いまも現場では「尺」が生きている 五十代になったいま、私は路線バスの運転士をしながら、中古の戸建てを貸す仕事もしている。 入居者が退去したあとには、壁のクロスを張り替える。そのとき職人さんと話をすると、「尺」や「間」といった言葉がごく普通に出てくる。図面にはミリで数字が書いてあっても、現場の会話は昔ながらの単位で進んでいく。木造の家はおおむね三尺、約九十一センチを一つの単位として組み立てられているから、そのほうが話が早いのだ。 職人さんの口から「尺」という言葉を聞くと、ふと父の声を思い出す。壁をぶち抜き、風呂を作っていた父も、きっと同じ言葉で家を測っていた。 もし昭和五十二年に審議会が結論を出していなければ、職人さんたちはいまも、道具箱の奥にこっそり尺の物差しを隠していたのかもしれない。 昭和五十二年の結論でいう「尺相当目盛」の曲尺は、いまも普通に買えます。表も裏も尺の目盛り。手に持つと、父が日曜日に使っていた道具の重さを思い出します。 シンワ測定 曲尺 平ぴた シルバー 1尺 表裏尺相当目盛(10620)シンワ測定。ステンレス製の曲尺(さしがね)。表裏ともに尺相当目盛。DIYや大工仕事の定番。星4.4(766件) Amazonで見る › 昭和の終わり、今度は世界が物差しをそろえた ちなみに、それからちょうど十年後の昭和六十二年、一九八七年の九月十六日。カナダのモントリオールで、オゾン層を壊すフロンガスなどを規制する国際的な取り決め、モントリオール議定書が採択された。日本を含む二十四か国が調印し、フロンの消費量を段階的に減らしていくことが決まっている。 十年前には、日本の職人が「国の物差しを押しつけるな」と声を上げた。十年後には、世界中の国が同じ物差しで決めごとをする時代になった。どちらも九月十六日の出来事というのが、なんとも面白い。 この年の私は高校三年生。七月二十三日、神宮第二球場での最後の試合に負けて、野球が終わった秋である。 議定書が採択されたこと自体は、当時の私は知らなかったと思う。ただ、その後しばらくして、フロンガスを使ったスプレー缶が店から消えていくという話や、「代替フロン」という言葉を、よく耳にするようになった記憶がある。あれが、この日の決めごとの先にあった出来事だったのだろう。 自分の中の物差し 「物差し」という言葉を考えていると、それは長さを測る道具だけではなく、人が物事を判断するときの基準そのものなのだと思う。 ...

September 16, 2026

9月15日は、必ず休みだった ― 敬老の日とシルバーシートの話|昭和の今日は何があった日?

九月のカレンダーをめくったとき、十五日のところに赤い数字が並んでいる。あの光景を当たり前だと思っていた時期が、私には確かにあった。 いまの敬老の日は九月の第三月曜日だ。年によって十五日だったり、二十日だったりする。ハッピーマンデーというやつで、平成十五年から動くようになった。だから若い人にとって「九月十五日は敬老の日」という感覚はもう無いだろう。 けれど昭和に子ども時代を過ごした人間にとって、九月十五日は動かない日だった。そして今日は、その動かない日が生まれた日であり、さらにその日に合わせて、日本の電車にある座席が初めて設けられた日でもある。 「としよりの日」から「敬老の日」へ 敬老の日のはじまりは、意外なほど小さな場所にある。 昭和二十二年、兵庫県多可郡野間谷村という村で、村長が「としよりの日」という行事を始めた。お年寄りを大切にし、その知恵を借りて村づくりをしよう、という趣旨だったという。これが昭和二十五年に兵庫県全体に広がり、昭和二十六年からは全国で行われるようになった。 ただ「としより」という呼び方はどうにも響きがよくない、という声が出た。それで昭和三十八年から「老人の日」と改められる。そして昭和四十一年、つまり一九六六年の九月十五日から、これが国民の祝日「敬老の日」になった。 一つの村の行事が、二十年かけて日本中の休日になったわけである。 この昭和四十一年の祝日法改正では、敬老の日と同時に「体育の日」と「建国記念の日」も加わっている。高度経済成長のまっただ中で、働く方ばかりを見ていた国が、休む日を三つ増やした年である。 私が生まれたのは昭和四十四年の四月だから、物心ついたときには、九月十五日はもう動かない祝日になっていた。 正直に書くと、小学校に上がってからは「敬老の日」という意識はあまりなかったように思う。休み、ラッキー、くらいの感じである。九月は二学期が始まってすぐの、いちばん気持ちが切り替わらない月だ。その中盤にぽつんと置かれた一日の休みは、それだけでありがたかった。 ただ、保育園のときは違った。おじいちゃん、おばあちゃんの顔を描いて壁に貼るようなことをしていて、敬老の日というものをちゃんと意識させてくれていた。小学校で抜け落ちたぶん、保育園の先生たちの仕事はきちんとしていたことになる。 九月十五日に、親に一冊贈るならこの本です。九十歳を過ぎた作家が、世の中の「めでたい」に真正面から文句をつけている。読むと、年を取ることが少しだけ怖くなくなります。 増補版 九十歳。何がめでたい(小学館文庫)佐藤愛子/小学館。90歳を超えた作家の痛快エッセイ。ミリオンセラーの増補文庫版。星4.2(668件) Amazonで見る › 敬老の日に生まれた「シルバーシート」 そして昭和四十八年、一九七三年の九月十五日。 この日、国鉄の中央線快速と特別快速の電車に、高齢者のための優先的な座席が初めて設けられた。あわせて伊豆箱根鉄道の駿豆線と大雄山線にも導入されている。日本の鉄道における優先席の出発点である。 わざわざこの日を選んだのは、もちろん敬老の日だったからだ。祝日にぶつけて新しい試みを始める。いかにも昭和の役所らしい段取りである。 名前は「シルバーシート」といった。 この名前の由来が、私は昔から好きだ。高齢者を敬ってシルバーと名づけた——のではない。単に、そのとき新幹線用の座席生地が余っていて、それがシルバーグレーだったから、その布を張った。だから「シルバーシート」。それだけの話なのである。 つまり順序が逆で、「シルバー=高齢者」という日本語の使い方は、この座席の名前から広がっていった。シルバー人材センターも、シルバー割引も、もとをたどれば余り布の色にたどり着く。役所や鉄道会社の都合から生まれた言葉が、五十年かけて日常語になった。昭和というのは、そういうことが平気で起きる時代だった。 シルバーシートはその後、国鉄にならって私鉄にも広がっていく。そして平成九年、対象が高齢者だけでなく、けが人や妊婦、乳幼児連れ、体調の悪い人にも広がるのに合わせて、名称は「優先席」に改められた。 私はといえば、子どもながらに、あそこは「座ってはいけない場所」だと認識していた。誰かにそう教わったのか、空気で覚えたのかは思い出せない。ただ、はっきりと線が引かれている場所だという感覚は最初からあった。 そして五十七歳になった今でも、それは変わっていない。空いていても、反射的に「座ってはいけない場所」だと思ってしまう。もはや、私自身がそろそろ座る側に回ってもおかしくない年齢だというのに、である。 シルバーシートが生まれた中央線をはじめ、東京の鉄道がどう延び、どうつながってきたのかを、古い地図で追っていく一冊です。自分が毎日乗っていた線路の、生まれた順番がわかります。 地図で解明! 東京の鉄道発達史今尾恵介/JTBパブリッシング。明治から現代まで、新旧の地形図で東京の鉄道網の成り立ちをたどる。星4.5(31件) Amazonで見る › 譲れない、という正直な話 ついでにもう一つ白状しておく。 私は、席を譲るという行為が何となく照れくさくて、どうにもやりにくいと思っている人間だ。だから、そういう場面が来ないように、基本的には最初から座席に座らない。 情けない話だが、同じ人はそれなりにいるはずだ。譲れないのは親切心がないからではない。声をかけるタイミングがわからない。相手を「お年寄り」と決めつけていいのか迷う。断られたらどうしよう、と思う。そうやってもたついているうちに、駅に着いてしまう。 昭和四十八年に国鉄がやったのは、その面倒を先回りして片づけてしまうことだった。「この席は最初からそういう席です」と決めてしまえば、座る前に話がついている。日本人らしい解決の仕方だと思う。 いま、運転席から見えるもの 私はいま、路線バスの運転士をしている。ハンドルを握っていると、優先席というものを、昔とは少し違った目で見るようになった。 優先席は、単に「ここは高齢者が座る場所ですよ」という表示ではない。身体の不自由な方、妊娠している方、けがをしている方、小さな子どもを連れた方など、立っていることが大変な人に、少しでも安心して乗ってもらうための場所だ。 ...

September 15, 2026

9月14日 ── 緑のインクで、さよならを書く|昭和の今日は何があった日?

今日は9月14日。 バレンタインといえば2月14日である。ところがこの国には、もうひとつのバレンタインがあるのだという。 セプテンバーバレンタイン。 9月14日。2月14日のちょうど半年後にあたるこの日は、女性のほうから別れを切り出してもよい日、ということになっているらしい。 告白の日の半年後に、別れの日を置く。ずいぶん皮肉の効いた発想である。 正直に書いておくと、私はこの言葉を、今回はじめて知った。昭和44年に生まれて、昭和を丸ごと子どもとして過ごしてきたつもりでいたが、こういう抜け落ちがある。当時、学校で話されていたのだろうか。私のまわりでは一度も聞かなかった。 発祥は、深夜ラジオだった セプテンバーバレンタインの由来として広く語られているのが、TBSラジオで1967年(昭和42年)から1982年(昭和57年)まで放送されていた深夜番組『パック・イン・ミュージック』である。 愛川欽也さんや林美雄アナウンサーらがパーソナリティを務め、1970年代の若者から絶大な支持を集めた番組だった。12月25日のクリスマスに対して8月25日を「サマークリスマス」と呼ぶ習慣も、この番組から生まれたとされる。半年ずらして遊ぶのが、この番組の癖だったのかもしれない。 ただし、面白いのはここからだ。番組内でセプテンバーバレンタインについていつ、どんな文脈で言及されたのかは、はっきりしていないのである。発祥と言われているのに、その瞬間の記録がない。誰かが放送で言ったことが、聴いていた人たちの口を通って広まり、気がついたら「そういう日」として定着していた。 出所不明のまま残ってしまった習慣、というのが、いかにも深夜放送らしい。テレビと違って、ラジオは記録に残らないものだった。録音しなければ消えてしまう。それでも聴いていた人の中には、確かに残った。 関連して、シンガーソングライターの佐々木幸男さんが**1978年(昭和53年)**に『セプテンバー・バレンタイン』というシングルを発表している。別れをうたった曲である。記念日が先か歌が先か、それすらもよく分からないというのが、この日の正体だ。 「サマークリスマス」を生んだ林美雄さんと、『パック・イン・ミュージック』の時代を丸ごと描いたノンフィクションがあります。深夜のラジオが、なぜあれほど若者の居場所になっていたのか。聴いていなかった私にも、その空気が伝わってきました。 1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代(集英社文庫)柳澤健/集英社。TBSラジオの深夜放送と、そこに集まった若者たちの記録。「サマークリスマス」の誕生まで。星4.5(99件) Amazonで見る › 紫、白、緑 セプテンバーバレンタインには、細かい作法があるとされている。 別れたい女性は、紫色のものを身につけ、白いマニキュアを塗り、緑色のインクで書いた別れの手紙を、相手に直接手渡す。 いま読むと、ずいぶん芝居がかっている。けれど、ここに昭和が詰まっているとも思う。 まず、手紙であること。そして、直接手渡すこと。 昭和の別れは、逃げられなかった。電話をするか、手紙を書くか、会って言うか。そのどれもが、相手の顔なり声なりを引き受けることを意味していた。既読をつけずに放置する、という選択肢がない時代である。 手紙といえば、小学校から高校まで、何回かは女子から手紙をもらったことがある。下駄箱に入っていた、という経験もある。中身がどうだったかはさておき、思い返すと、手紙というのはなんかいいものだ。誰かが自分のために字を書いて、それを人に見つからないように運んだ、という事実だけが残る。 緑のインクで別れの手紙を書いた人が、実際にどれだけいたのかは分からない。たぶん、ほとんどいなかっただろう。それでも「そういう作法がある」という話だけがラジオを通じて全国の若者に共有されていた。そこが、この記念日のいちばん面白いところだと思う。 深夜ラジオとの、微妙な距離 では私自身が深夜ラジオの人間だったかというと、これがそうでもない。 クラスの友達が聴いていて、じゃあ自分も、と試しに聴いてみた。その程度である。番組名は、たぶん『オールナイトニッポン』だったと思う。そこからのめり込んだ記憶はない。かといって、まったく聴かなかったわけでもない。そういう微妙な距離感のまま、深夜放送の時代を通り過ぎた。 ちなみに恋愛の話のほうは、日常的にしていた。野球部だからそういう話をしない、ということはまったくなかった。誰が誰を気にしているという話は、いつでも教室にあった。もっとも、私個人の恋が実ったことは一度もなかったのだが。 深夜の放送と本当に長く付き合ったのは、むしろ大人になりかけの頃だ。浪人中、予備校には通わず、セブン-イレブンの夜勤を週4日やりながら自分で受験勉強をしていた。あの店内には有線放送が流れていた。お客さんが途切れたとき、本来店に流すべき曲とはまったく違うジャンルにチャンネルを変えて、ひとりで楽しんでいた。 いま思えば、あれが私なりの深夜放送だったのかもしれない。誰も聴いていない時間に、自分の好きな音だけが流れている。深夜ラジオを布団の中で聴いていた同級生たちと、やっていたことはそう変わらない。 布団の中で、こっそりイヤホンを耳に入れる。あの聴き方は、いまのポケットラジオでもそのままできます。単3電池で動いて、イヤホンも付いています。停電のときの備えにもなります。 パナソニック FM/AM 2バンドラジオ RF-P155(イヤホン付き・単3電池式)Panasonic。手のひらサイズのポケットラジオ。モノラルイヤホン・ハンドストラップ付き。星4.1(50件) Amazonで見る › 同じ日、広島市民球場では さて、9月14日にはもうひとつ、私の心に引っかかる出来事がある。 1968年(昭和43年)9月14日。広島市民球場、対大洋ホエールズ戦。 広島の外木場義郎投手が、完全試合を達成した。プロ野球史上10人目。一人の走者も出さず、27人を27人のまま帰した試合である。 しかも、この試合の外木場は尋常ではなかった。16奪三振。当時のセ・リーグタイ記録であり、2022年にロッテの佐々木朗希投手が19奪三振を記録するまで、完全試合における最多奪三振記録として残り続けた数字だ。9回は3人とも三振で締めている。 外木場という投手には、もうひとつ有名な逸話がある。1965年(昭和40年)、プロ初勝利をいきなりノーヒットノーランで飾った。そのとき将来性を危ぶむようなことを言った記者に対して、「なんなら、もう一回やりましょうか」と言い放ったという。そして3年後、その言葉どおりに2度目を——それも完全試合という形で——やってのけた。生涯3度のノーヒットノーラン、うち1度が完全試合。この記録を持つ投手は、いまだに外木場義郎ただ一人である。 正直に書くと、私は名前を知っていただけだった。カープの昔の投手、完全試合をやった人。それ以上のことは、今回調べるまで知らなかった。こんなにすごい投手だったのかというのが、まずの感想である。 ...

September 14, 2026

九月十三日が三度あった ― ちばあきお、スーパーマリオ、南海ホークス|昭和の今日は何があった日?

9月13日という日付を、昭和40年から64年までの範囲で洗っていたら、妙なことに気づいた。 三つの出来事が、私の15歳、16歳、19歳に、きれいに並んで刺さっていたのだ。中学3年、高校1年、そして浪人。要するに、子どもが子どもでなくなっていく数年間である。 しかも三つとも、どこかで「終わり」の匂いがする。今日はこの三つを、順番に並べてみたい。 昭和59年9月13日 ― 墨谷二中を描いた人 昭和59年、1984年9月13日。漫画家のちばあきおが亡くなった。41歳だった。晩年は病を抱えていたと伝えられ、最期は自らの手によるものだった。そのことについては、これ以上は書かない。 代表作は『キャプテン』と『プレイボール』。説明はいらないだろう。墨谷二中という、どこにでもありそうな公立中学の野球部の話だ。谷口、丸井、イガラシ、近藤と、四代のキャプテンが順に主人公になっていく。その高校編が『プレイボール』である。二作合わせて昭和51年度の小学館漫画賞を受けている。兄は『あしたのジョー』のちばてつやだ。 あの漫画の変わっているところは、天才がひとりも出てこないことだった。 谷口タカオは、うまくない。名門・青葉学院から転校してきたという経歴だけで「すごいやつが来た」と勘違いされ、その誤解に押しつぶされそうになりながら、誰も見ていないところで走り込む。血を吐くような特訓の場面があるわけでもない。ただ、黙って練習している。そういう漫画だった。 絶筆になった『チャンプ』は連載の途中で止まり、最終回はチーフアシスタントが下絵をもとに仕上げて掲載された。 私はそのとき中学3年。墨谷二中の彼らと、ちょうど同じ学年だった。 野球部で、ピッチャーとショートをやっていた。公立中学だが、練習はかなりハードで、伝統的にわりと強い学校だったと思う。上下関係ははっきりしていて、先輩からの理不尽な行為も受けた。先生も日常的にケツバットやビンタをしていた。いまなら完全にアウトだが、そういう時代だった。 『キャプテン』は中学1年から単行本で真剣に読んでいた。テレビアニメも見た。そして、思いっきり重ねていた。 葛飾には修徳という強豪の私立中学がある。私の中では、自分の学校が墨谷二中で、修徳が青葉学院だった。あの漫画の構図が、そのまま自分の住んでいる区の地図の上に乗っていたわけである。公立が私立に挑む話として読んでいたのだから、当然といえば当然だ。 だから訃報も知っていた。覚えているのは、悲しさよりも先に「本当に?」という気持ちが来たことだ。谷口たちを描いている人が、この世からいなくなるという実感が、15歳の頭では追いつかなかったのだと思う。 中学1年の私が真剣に読んでいた、あの一巻目です。青葉学院から来た谷口が、誤解のまま墨谷二中の野球部に入るところから始まります。いま読み返しても、派手な場面はほとんどありません。だから読み返せるのだと思います。 キャプテン 1(集英社文庫 コミック版)ちばあきお/集英社。墨谷二中野球部、四代のキャプテンの物語。昭和51年度 小学館漫画賞。文庫版全15巻。星4.4(320件) Amazonで見る › 昭和60年9月13日 ― ブームの外にいた高校1年生 その一年後、昭和60年、1985年9月13日。任天堂がファミリーコンピュータ用ソフト『スーパーマリオブラザーズ』を発売した。 国内だけで約681万本。ファミコンソフトの売上記録は、いまだにこれが1位だという。世界では4000万本を超えた。 それまでの家庭用ゲームは、一画面の中で完結するものが多かった。この作品は違った。右へ、右へと画面が流れていく。ジャンプして敵を踏み、ブロックを叩き、土管にもぐる。操作は十字キーと二つのボタンだけ。誰でもすぐ動かせるのに、どこまでも先がある。 ファミコン本体が店頭から消え、入荷の噂が立てば行列ができた。攻略本はその年のベストセラーになった。 私は16歳、高校1年だった。 そして、何の記憶もない。 家にファミコンはなかった。野球に夢中で、そもそもファミコンに興味がわかなかったのである。日本中の子どもが土管にもぐっていたその秋、私はグラウンドにいた。ブームというのは、外にいる人間からは案外よく見えないものだ。 いま思えば、あれは子どもの遊び方が変わる分かれ目だったのだろう。中川の土手や線路沿いを走り回って日が暮れるまで遊ぶ、という時代が終わりかけていた。ただ、その分かれ目を私は知らずに通り過ぎた。理由は単純で、ボールを追いかけるほうが面白かったからだ。 昭和63年9月13日 ― ホークスが大阪を出ていく さらに三年後、昭和63年、1988年9月13日。ダイエーの中内㓛社長が、南海からホークスを買収する意向を明らかにした。 この年、南海ホークスは球団創設50周年を迎えていた。4月23日、「おれの目の黒いうちはホークスは売らん」と公言していた川勝傳オーナーが亡くなる。それから半年も経たないうちに、身売りが表に出た。本拠地は大阪球場から福岡へ移ることになる。 結果として、この昭和63年が南海ホークスとしての最後のシーズンになった。皮肉なことに、この年の南海には見るべきものがあった。門田博光が40歳で44本塁打、125打点。本塁打王と打点王の二冠に加えてMVPまで獲っている。チームは5位に終わったが、あの打球の音だけは最後まで鳴っていた。 南海としての本拠地最終戦、杉浦忠監督は「長嶋君ではありませんがホークスは不滅です。ありがとうございました、行ってまいります」とあいさつした。門田はその後、九州行きを拒んでオリックスへ移籍している。 この同じ秋、10月には阪急ブレーブスもオリエントリースへ売却された。パ・リーグの老舗が二つ、ひと月のあいだに看板を下ろしたことになる。 私は19歳。浪人中だった。 予備校には通っていない。セブン-イレブンの夜勤を週に4日入れながら、自分で受験勉強を進めていた。情報源はテレビと、店で売っているスポーツ新聞である。深夜のレジで、売り物の一面をちらりと見る。そういう形でこのニュースを知った。 ...

September 13, 2026

菓子が、こわいものになった日 ― 昭和59年9月12日、森永製菓に脅迫状が届いた|昭和の今日は何があった日?

大阪に届いた、一通の封筒 昭和59年、1984年9月12日の朝。大阪にあった森永製菓の関西販売本部に、一通の脅迫状が届いた。 差出人は「かい人21面相」。文面はこうだった。グリコと同じ目にあいたくなければ、1億円を出せ。要求に応じなければ、製品に青酸ソーダを入れて店頭に置く。 そして封筒には、実際に青酸入りの菓子が同封されていた。 この年の3月、江崎グリコの社長が兵庫県西宮市の自宅から連れ去られた。犯人は身代金10億円と金塊100キロを要求し、社長は三日後に自力で脱出した。4月には本社が放火され、5月には新聞各社に「グリコの せい品に せいさんソーダ いれた」という挑戦状が届いた。それが報じられた途端、全国の店頭からグリコの商品が消えた。工場も止まった。 その矛先が、9月12日、森永に向いた。 菓子メーカーが狙われている。しかも、菓子そのものが凶器として使われる。子どもが最も近づきやすい場所に、毒が置かれるかもしれない。そういう事件だった。 中学三年生の秋だった 私はそのとき、中学三年生だった。 昭和44年4月生まれだから、15歳。受験という言葉が、そろそろ現実の重さを持ちはじめる頃だ。 事件のことは、テレビのニュースやワイドショー番組で知った。 「かい人21面相」という名前を初めて聞いたとき、私が感じたのは恐怖ではなかった。おふざけなのか、と思った。犯人が自分で名乗る名前としては、あまりにも軽い。江戸川乱歩の少年探偵団に出てくる怪盗をもじった、遊びのような響きだった。 そして正直に言えば、どこか他人事だった。 昭和59年という年を並べてみると、妙な取り合わせになる。この年の11月には新しい紙幣が発行され、一万円札の顔が福沢諭吉になった。テレビではコアラやエリマキトカゲが騒がれていた。その同じ年の裏側で、菓子メーカーが次々に脅されていたのだ。 事件が起きているのは関西で、私が住んでいるのは東京の東の端だ。テレビの中で起きていることとして眺めていた。あとから考えれば、それは幸運なことだったのかもしれない。 いま振り返ると、この事件は昭和の犯罪史の中でも特異な形をしている。犯人は一度も人前に姿を現さなかった。身代金の受け渡し現場にも現れなかった。そのかわり、新聞社やテレビ局に百四十通を超える手紙を送りつけ、警察を挑発し、世間を観客にした。のちに「劇場型犯罪」と呼ばれるようになる手口の、はしりだった。 観客席に座らされていたのは、私たちだ。菓子を買う側の、ごく普通の人間たちだった。 棚から消えた記憶は、ない 正直に書いておきたいことがある。 私には、葛飾の店から森永の菓子が消えたという記憶がない。 森永の商品で、当時これをよく食べていた、と言えるものも特にない。翌年には高校生になって、買い物の場所は主にコンビニエンスストアに変わっていった。そのどちらの時期を思い返しても、売り場から森永製品が減ったとか、姿が見えなくなったとか、そういう光景は残っていないのだ。 企業にとっては数十億円という単位の損害だったという。だが数字は、あとから知ったことだ。当時の私が見ていたのは、テレビの画面の中の大阪であって、自分が立っている売り場ではなかった。 記憶がないということ自体が、ひとつの事実だと思う。関西で起きた事件が、東京の中学生の日常の棚までは届いていなかった。少なくとも、私の目には映っていなかった。 その距離が縮まるのは、翌月のことだ。 「どくいり きけん たべたら しぬで」 10月7日から13日にかけて、大阪、京都、兵庫、愛知のスーパーやコンビニで、不審な森永製品が次々に見つかった。四府県で13個。そこには紙が貼られていた。 どくいり きけん たべたら しぬで かい人21面相 ひらがなで書かれていた。子どもでも読める字だった。そして実際に、中には青酸ソーダが入っていた。 10月8日には百貨店にも脅迫状が届く。森永製品を置くな、という要求だった。そこには「わしらに さからいおったから 森永つぶしたる」と書かれていた。 私はテレビでこの文言を見たのだと思う。関西弁で、ひらがなで、まるで子どもに話しかけるような書き方で、人が死ぬかもしれないことが書いてある。その落差が気味悪い。 そして、本当に毒が入っていたという報道が流れたとき、空気が変わった。 それまで他人事だったものが、私たちの周りでも話題になった。日々の会話の中に、この事件が入り込んできていた。学校で、家で、誰かが口にする。名前が軽いことも、関西の事件であることも、もう関係がなくなっていた。 「おふざけなの?」と思っていた名前が、人を殺しかねない名前になった。私にとってこの事件が本当に始まったのは、9月12日ではなく、その一ヶ月後だったのだと思う。 誰も捕まらないまま終わった この事件は、終わらないまま終わった。 翌昭和60年の夏、犯人グループはマスコミ宛の文書で事件の終息を告げ、それきり沈黙した。一年半近く続いた騒ぎは、解決ではなく、相手が勝手にやめるという形で終わった。捕まえて終わらせたのではない。終わったと言われたから、終わったのだ。 ...

September 12, 2026

十円玉を握って、走った──9月11日、公衆電話の日|昭和の今日は何があった日?

今の子どもに「公衆電話でかけてみて」と言ったら、たぶん固まる。受話器を上げるのが先か、お金を入れるのが先か。それ以前に、受話器という言葉が通じるかどうか。 私たちの世代には、考えるまでもない動作だった。受話器を上げて、十円玉を落として、番号を押す。あの一連の流れを、体のほうが覚えている。 9月11日は「公衆電話の日」。今日は、街角からだんだん姿を消していった、あの箱の話をしたい。 明治三十三年、上野と新橋に置かれた「自働電話」 1900年(明治33年)9月11日、東京の上野駅と新橋駅の構内に、日本で初めての街頭公衆電話が設置された。上野駅は駅長室の前、新橋駅は中等待合室の前。それまで公衆電話は電信局や電話局の建物の中にしかなかったから、この日は「電話が街へ出た日」ということになる。 当時の呼び名は「自働電話」。アメリカの街頭電話に掲げられていた「オートマティック・テレホン」をそのまま直訳したものだといわれている。ところが名前に反して、中身はまったく自動ではなかった。受話器を上げると交換手が出る。つないでほしい相手を口で伝える。そのうえで硬貨を入れる。ダイヤルもボタンも、そもそも付いていない。 面白いのは料金の確認方法だ。5銭と10銭で投入口が二つあって、硬貨が落ちていく途中で音が鳴る仕掛けになっていた。5銭はゴングで「チーン」、10銭はらせん状の鐘で「ボーン」。交換手はその音を電話越しに聞いて、いくら入ったかを判断していたという。耳でお金を数えていたわけだ。しかもこの方式、戦後までおよそ五十年にわたって使われ続けた。 料金は市内一通話五分で15銭。当時の米一升とだいたい同じ値段だったというから、気軽にかけられるものではない。翌10月には、京橋のたもとに六角錐の形をした最初の屋外用電話ボックスが立つ。「公衆電話」という名前に変わるのは1925年(大正14年)、交換手を介さない自動式が入ってからのことだ。 赤、青、黄、そして緑 私が子どもだった昭和40年代から50年代、公衆電話は色で覚えるものだった。 いちばん身近だったのは赤電話だ。昭和26年に委託公衆電話という仕組みが始まり、28年から赤に統一された。店先にちょこんと置かれている、あの丸っこいやつ。その形と色から「赤ダルマ」と呼ばれていたそうだ。高砂でも、たばこ屋の店先には赤電話があったと思う。 ボックス用には青電話があった。昭和47年には100円玉が使える黄電話が登場する。それまでは通話の途中で十円玉を追加で放り込まなければならなかったから、百円が使えるというのは当時としてかなりの進歩だった。 同じ昭和47年には、喫茶店や食堂の帳場に置かれる大型のピンク電話も出てくる。昭和50年にはプッシュ式。十年ほどのあいだに、公衆電話はずいぶんカラフルになっていった。 そして駅前だ。高砂の駅前には電話ボックスがあって、中にあったのは緑色の電話だった。駅前だけではない。街のあらゆる場所にボックスが立っていて、あるのが当たり前の景色だった。 ここで記録と突き合わせておくと、ボックス用として最初に置かれたのは青電話で、緑色が主流になるのは昭和57年のカード式公衆電話が出てからのことになる。つまり、私が子どもの頃に「あそこにボックスがある」と覚えた風景と、自分で扉を開けて中に入るようになった高校時代とのあいだに、電話機のほうも一度入れ替わっていたわけだ。 景色は変わっていないつもりでいて、中身は静かに更新されている。街というのは、だいたいそういうふうにできている。 駅前のボックスに、列ができていた 私が公衆電話を本格的に使うようになったのは、高校生になってからだ。 駅前の電話ボックスに列ができている様子は、はっきり記憶に残っている。一人が入ると、外で二人、三人が待っている。中の人の様子はガラス越しに丸見えで、長引くと自然に視線が刺さる。今思えばあれは、通話のマナーを街ぜんぶで見張っているような光景だった。 ポケットに十円玉が何枚あるか、話しながら頭のどこかで数えている。表示が減っていく。あと一枚しかない。用件を先に言え、と自分に言い聞かせる。そして一番言いたいことを言い残したまま、ぷつりと切れる。 忘れられないのは、友達数名で、気になっている女子の家に順々に電話をかけたことだ。家の電話だから、出るのが本人とはかぎらない。お母さんが出たらどうする。名乗るのか、名乗らないのか。受話器を握る手が汗ばんで、次の一人に代わる。あのハラハラドキドキは、電話が一軒に一台しかなかった時代にしか成立しないものだったと思う。 相手の家族を経由しないと、好きな子の声にたどり着けない。今の子どもたちには、たぶん一生わからない緊張だ。 カードが、通話を持ち歩かせた 昭和57年(1982年)12月23日、東京・銀座の数寄屋橋公園に、日本で初めて磁気式のテレホンカードが使えるカード式公衆電話が設置された。翌昭和58年にはカードの自動販売機が登場し、昭和60年には電電公社が民営化されてNTTが発足する。 テレホンカードは500円から5000円まで四種類。十円単位で引き落とされるから硬貨のような無駄が出ないし、何より、一枚持っていれば十円玉を探さなくてよくなった。今にして思えば、あれは「通話を個人が持ち歩く」という発想の、いちばん最初の形だったのかもしれない。 高校生になってからは、私も常にテレホンカードを持つようになった。買うだけでなく、いろいろな場面でいただくことも多かった。企業が販促に使い、アイドルや風景の写真が刷られ、集める人が現れる。電話をかけるための道具が、かけずに取っておくものになっていった。 ひとつ、今でも引っかかっている光景がある。上野で、イラン人と思われる人たちがテレホンカードを盛んに売っていた。私は買ったことがないが、あれはいったい何だったのか。 調べてみると、あれは昭和ではなく平成に入ってからの風景で、出回っていたのは「変造テレホンカード」と呼ばれるものだったらしい。使い終わったカードの磁気データを書き換えて度数を戻し、額面より安い値段で売る。NTT側の被害は相当な額にのぼり、後の電話機がカード対策を厚くしていく直接の理由になった。 便利なものが広まると、その裏側を突く商売も必ず生まれる。テレホンカードの十数年は、そのことを一枚の薄いカードで見せてくれた気もする。 その公衆電話が、手のひらサイズの模型になっている。緑の機械も、ピンクのダイヤル式も。あの形をもう一度近くで見ると、思い出すことが山ほどあります。 NTT東日本 NTT西日本 公衆電話ガチャコレクション 番外編 全6種セットタカラトミーアーツ(再販)。ダイヤル式ピンク電話を含む全6種のフルコンプセット。手のひらサイズの精巧なミニチュア。星4.0 Amazonで見る › 「なくなってから気づく」もの 公衆電話は今、ずいぶん減った。携帯電話が一人一台になった以上、それは当たり前のことだ。 ...

September 11, 2026

色は先に来て、水はあとから来た──9月10日、カラーテレビと下水道の日|昭和の今日は何があった日?

9月10日には、まったく毛色の違う二つの記念日が重なっています。 ひとつは「カラーテレビ放送記念日」。もうひとつは「下水道の日」。 片方は華やかで、もう片方は地味です。片方は茶の間の真ん中にあり、もう片方は地面の下にあります。子どもの頃の私が覚えているのは、当然のように前者だけでした。 ところがこの二つを並べてみると、昭和の家がどう変わっていったのかが、驚くほどはっきり見えてきます。 昭和35年9月10日、茶の間に色がついた 1960年(昭和35年)9月10日、NHK、日本テレビ、ラジオ東京テレビ(現在のTBS)、読売テレビ、朝日放送の5局が、東京と大阪でカラーテレビの本放送を始めました。アメリカ、キューバに次いで世界で3番目のことです。 ただ、この日を境にみんなの家が一斉に色づいたわけではありません。 当時のカラー受像機は21型で50万円ほど。白黒テレビの10倍近い値段でした。しかもカラー番組は、一日に一時間あるかないかという時期が続きます。 数字を見ると、その遅さがよくわかります。カラーテレビの世帯普及率は、統計に現れる最初の年である1966年(昭和41年)でわずか0.3%。そこから急な坂を登り始め、1971年に42.3%、1972年に61.1%、そして1975年(昭和50年)に90.3%。放送開始から15年かかって、ようやく十軒に九軒までたどり着いたことになります。 私が生まれたのは昭和44年。この坂のちょうど途中に生まれ落ちたことになります。 そして実際、私には白黒テレビを見た記憶があります。 『仮面ライダー』の2号。『ウルトラマンA』。『ウルトラマンタロウ』。このあたりは、白黒で観ていた記憶があるのです。 ここで少しややこしいのは、これらの番組はどれもカラーで放送されていたということです。色がなかったのは番組のほうではなく、我が家の受像機のほうでした。テレビ局はとっくに色を送っていたのに、それを受け取る箱がまだ白黒だったのです。 我が家に色がやって来たのは、高砂駅のそばから中川の土手のそばへ引っ越した後のことだったと思います。観音扉のついたテレビ台に載った、18型のカラーテレビ。チャンネルはもちろん、ガチャガチャと回す式でした。 タロウとゴレンジャーのあいだ 面白いのは、テレビが色を手に入れたことで、番組のつくり方まで変わっていったことです。 1966年(昭和41年)の『ウルトラマン』では、胸のカラータイマーが点滅して残り時間を知らせます。白黒テレビで見ている人にもわかるよう、明滅という「動き」で伝える工夫でした。まだ多くの家が白黒だった時代の設計です。 ところが1975年(昭和50年)、『秘密戦隊ゴレンジャー』が始まります。赤、青、黄、桃、緑。もう色そのものが登場人物の名前になっている。白黒テレビでは成立しない番組です。 そして私は、ゴレンジャーははっきりとカラーで観ていました。 自分の記憶を並べ直すと、我が家のテレビが色を手に入れた時期が、かなり狭く絞り込めます。 『ウルトラマンタロウ』が終わったのが昭和49年(1974年)の春。『秘密戦隊ゴレンジャー』が始まったのが昭和50年(1975年)の春。前者は白黒で、後者はカラーで観ている。つまり我が家に18型が来たのは、そのあいだの一年ということになります。 全国の普及率が90%を超えたのが、まさに昭和50年です。我が家は、坂を登りきる集団の、少し後ろのほうを歩いていたことになります。 その『秘密戦隊ゴレンジャー』だけを一冊にまとめたムックがあります。五人の設定も、放送リストも、当時の写真も。あの春に何が始まったのかが、まるごと入っています。 スーパー戦隊 Official Mook 20世紀 1975 秘密戦隊ゴレンジャー(Kindle版)講談社シリーズMOOK。昭和50年春に始まった第1作を一冊で総覧。キャラクター設定から全話リストまで。星4.5(54件) Amazonで見る › もうひとつの9月10日 さて、同じ9月10日は「下水道の日」でもあります。 始まりは1961年(昭和36年)。当時の建設省と厚生省、そして今の日本下水道協会の前身が協議して、「全国下水道促進デー」として定めました。2001年(平成13年)に、より親しみやすい名前へと改称されて今に至ります。 制定の理由は切実でした。当時の日本の下水道普及率は、わずか6%。諸外国に比べて著しく遅れており、全国に訴えかける必要があったのです。 なぜ9月10日なのか。この日がちょうど、立春から数えて220日目の「二百二十日」にあたるからです。昔から大きな台風が来る日とされてきました。下水道の大事な仕事のひとつは、汚水を流すことではなく雨水を流すこと。街を水浸しにしないことです。台風の日に下水道を思い出してほしい、というわけです。 葛飾は、ずっとあとだった ここからが、私にとっての本題です。 葛飾区の下水道整備がどう進んだのか、区史に記録が残っています。 葛飾区の下水道事業が動き出したのは、昭和48年(1973年)6月のことです。小菅処理場の一部が動き始め、小菅・堀切地区で下水道管の設置工事に着手しました。この年度の区の普及率は、1%です。 同じ年度、東京都区部全体の普及率は58%でした。 つまり葛飾は、都心が半分以上終わっている時点で、ようやくスタートラインに立ったのです。昭和59年(1984年)度にやっと50%を超え、100%にほぼ達したのは平成7年(1995年)度。事業開始から23年目のことでした。 昭和48年に私は4歳。昭和59年には15歳、中学三年生です。私が高砂で子ども時代を過ごしたあいだ、葛飾のほとんどの土地には、まだ下水道が通っていなかったことになります。 ...

September 10, 2026

9月9日 ── 最後の四・八キロがつながった日、私は完全に凍りついていた|昭和の今日は何があった日?

九月九日。昭和六十二年(一九八七年)のこの日、日本の地図の上で、一本の線がようやくつながりました。 埼玉県の川口ジャンクションと浦和インターチェンジのあいだ、わずか四・八キロ。この短い区間の開通で、東北自動車道は全線開通しました。同じ日、首都高速川口線も開通して、首都高と東北道がひと続きになります。 結果、青森インターチェンジから熊本の八代インターチェンジまで、約二千キロが高速道路一本でつながりました。北の端から南の端まで、一度も一般道に降りずに走り切れる。日本列島に、初めて縦の背骨が通った日でした。 曜日でいえば、水曜日。その日、私は十八歳の高校三年生でした。 十五年かかった、一本の道 東北道が最初に開通したのは、昭和四十七年(一九七二年)十一月十三日。岩槻インターから宇都宮インターまでの九十二・五キロです。私はまだ三歳、葛飾の高砂で、線路のそばの家に暮らしていました。 そこから東北道は、少しずつ北へ伸びていきました。矢板、白河、郡山、白石、仙台、一関、盛岡。年に一区間、二区間というペースで、東北の背骨が一節ずつつながっていきます。そして昭和五十四年(一九七九年)九月、私が小学四年生の秋に、ついに青森インターまで到達しました。 はるか北の青森までは、昭和五十年代のうちにもう届いていたのです。 ところが、です。東京にいちばん近いところが、最後まで残りました。浦和から川口までの四・八キロ。開通は、青森到達から八年も後のことでした。 事業費は三百五十億円。一キロあたり七十億円を超えます。人家の密集した都市部に高速道路を通すのは、山を貫くのとはまるで違う難しさがあったのでしょう。いちばん短い区間が、いちばん最後まで残った。地図の上のほんの数ミリを埋めるために、十五年が必要だったわけです。 「葛飾川口線」という名前 同じ日に開通した首都高速川口線のほうにも、葛飾に住む者として見逃せない話があります。 首都高川口線は、足立区の江北ジャンクションから、埼玉県川口市の川口ジャンクションまでを結ぶ路線です。地図をなぞればわかるとおり、葛飾区は通っていません。 ところが、この道路の道路法上の正式な路線名は、「東京都道・埼玉県道242号 高速葛飾川口線」。葛飾、なのです。 なぜかというと、この路線名の指定区間には、川口線そのものに加えて、中央環状線の小菅ジャンクションから江北ジャンクションまでが含まれているからです。小菅は、葛飾区。つまり法律の上では、この道は葛飾から始まって川口に至る道、ということになっている。 青森から八代までをつないだ最後のピース。その出発点に、こっそり「葛飾」の名前が入っていた。地元の名が、日本列島の背骨の付け根に刻まれていたわけです。 十八歳の秋、私は完全に凍りついていた その歴史的な水曜日、私は何をしていたか。正直に書きます。完全にフリーズ状態でした。 七月二十三日、神宮第二球場での試合を最後に、私の高校野球は終わりました。二対三。あれほど毎日を埋め尽くしていたものが、ある日ぱたりとなくなった。そのあとに残ったのが、九月の私でした。 進路について、やりたいこと、やれること、やらねばならないこと。そのすべてを棚上げしてきた当然の結果です。棚上げ、と書きましたが、正確に言えば違います。考えたくなかったから、逃避していた。それが正しい。 だから、この日のニュースについては、まったく覚えがありません。青森から八代までが一本になった、と新聞もテレビも伝えていたはずですが、十八歳の私には何ひとつ届いていませんでした。 日本の道が縦につながったその日、私はどこへも進めずに止まっていた。並べて書いてみると、ずいぶん皮肉な取り合わせです。 車のない家に育って、二十歳で運転席に座った そもそも子どものころ、うちには車がありませんでした。だから「高速道路」が、生活の中にまったくなかったのです。 高速道路は、テレビの中や地図の上にあるものでした。走ったこともなければ、乗せてもらったこともない。 私が自分で高速道路を運転するようになったのは、一年浪人して大学に入り、運転免許を取って、ローンで車を買ってからです。 当時は、車がなければ彼女もできないような時代の雰囲気がありました。思い込みだったのかもしれませんが、少なくとも私はそう感じていました。 そして、自分の車を持てたときは、本当に嬉しかった。ただ運転しているだけでも、喜びがこみ上げてきました。どこへ行くというわけでもなく、ハンドルを握っているだけで楽しい。あの感覚は、たぶん一生に一度しか味わえないものです。 その道を、私は当たり前のように走っていた 大学時代、私はスキーによく出かけました。宮城県の蔵王、岩手県の安比高原。東北道を使って、いろいろなところへ行きました。 ──ここで、話がつながります。 葛飾から東北のスキー場へ向かうということは、首都高から川口ジャンクションへ入り、東北道に乗るということです。つまり私は、あの四・八キロを通っていたのです。 十五年かかったあの最後の区間。三百五十億円かけて埋められた地図の空白。それを私は、開通からたった二年後に、何も知らないまま、当たり前の顔をして通過していた。「せっかくつながった道だ」などとは、これっぽっちも思っていません。スキー場のことしか頭になかったはずです。 道というのは、そういうものなのでしょう。できあがってしまえば、最初からそこにあった顔をする。誰が苦労してつないだかなど、走っている人間はいちいち考えません。 荷物を運ぶ側から見えた道 大学を出て信用金庫に入り、その後、佐川急便へ移りました。新木場のデポです。 意外に思われるかもしれませんが、佐川急便時代に仕事で東北道を走ったことはありません。担当エリアを回って荷物を集め、届けるのが私の仕事でした。 けれど──と、いまになって思うのです。 私が集荷した荷物は、高速道路のおかげで全国各地へと迅速に届けられていました。反対に、全国各地から、私の担当エリアのお客さまあての荷物が到着していました。当たり前のように毎日を過ごしていましたが、それってとんでもないことですよね。 葛飾で受け取った小さな段ボールが、翌日には青森にある。青森で出された荷物が、翌日には私の手元にある。それを支えていたのが、昭和六十二年九月九日に一本になった、あの背骨でした。 いま私は路線バスの運転士ですから、仕事で高速道路を使うことはありません。けれど、無関係でもないのです。 高速道路が通行止めになると、本来そこを走るはずだった車が下の道へ流れてきて、思わぬ渋滞が発生します。地上の道と高架の道は、そうやってつながっています。 その高速道路そのものを、まるごと一冊で扱った新書があります。なぜサービスエリアはあの間隔なのか、料金はどう決まっているのか。毎日ハンドルを握る人ほど、たぶん面白く読めます。 ...

September 9, 2026

9月8日 ── 毒霧を吹いた日本人と、中間子を予言した日本人|昭和の今日は何があった日?

九月八日には、まるで似ていない二人の日本人が並んでいます。 一人は、顔を白と赤に塗り分け、口から緑色の霧を吹いた男。もう一人は、原子核の中に誰も見たことのない粒子があると言い当て、日本人で初めてノーベル賞を受けた学者。 ザ・グレート・カブキは昭和二十三年(一九四八年)九月八日に生まれ、湯川秀樹は昭和五十六年(一九八一年)九月八日に亡くなりました。片方は誕生日、片方は命日。共通点は日付だけ。 それでも今日はこの二人を並べてみます。子どもだった私にとって「世界で通用した日本人」は、どういう顔をしていたのか。そう考えると、どうしてもこの二人が同じ線の上に乗ってくるのです。 延岡の自転車屋の三男坊 ザ・グレート・カブキ、本名を米良明久(めら・あきひさ)といいます。宮崎県延岡市に三人兄弟の末っ子として生まれました。お父さんは戦艦大和の元乗組員で、戦後は自転車店を営んでいたそうです。中学二年で愛知県知立市へ移り、学生時代は水泳の選手として活躍、柔道にも打ち込んでいました。 昭和三十九年(一九六四年)一月、日本プロレスに入門。同じ年の十月三十一日、宮城・石巻大会の山本小鉄戦でデビュー。翌年、リングネームを高千穂明久に改めます。 ここまでは、正直に言って、地味です。派手な必殺技があるわけでもない、堅実に試合を組み立てる中堅どころ。日本プロレスが崩壊すると全日本プロレスへ移り、そこでも中堅のまま、やがてアメリカへ渡ります。 昭和五十六年(一九八一年)一月、そのアメリカで、彼は「ザ・グレート・カブキ」になりました。 歌舞伎の隈取りのようなペイント。般若の面をつけた連獅子姿、鎖帷子をまとった忍者スタイル、日本刀を携えた鎧武者姿。両手のヌンチャクを唸らせ、口から霧を吹く。「東洋の神秘」という異名がつきました。 面白いのは、アメリカでの彼の「出身地」が、日本ではなくシンガポールとされていたことです。当時のアメリカには、すでに日本製の自動車も電化製品も行き渡っていた。日本はもう「神秘の国」ではなかったのです。だから、もっと遠い、もっと得体の知れない場所から来たことにする必要があった。日本人が日本人であることを隠して「東洋の神秘」を演じる。あの時代の日本と世界の距離が、そのまま写り込んでいるように思います。 そしてこのギミックが、爆発しました。 昭和五十八年二月、カブキが帰ってきた 昭和五十八年(一九八三年)二月、カブキは凱旋帰国します。全日本プロレスのリングに、カブキのまま登場。馬場や鶴田と並ぶほどの人気を得た、と記録されています。世に言う「カブキブーム」です。 180センチ、110キロ。数字だけなら、当時のプロレス界で飛び抜けて大きいわけではありません。それでも画面の中で、あの顔は明らかに異物でした。 私は全日本も見ていました。土曜日の夕方ではなかったでしょうか。新年恒例の、たくさんのレスラーがリングに上がって生き残りをかけるバトルロイヤルは、毎年の楽しみでした。 毒霧も、もちろん見ました。ただ、かっこいいと言うよりは、あの「異様」さのほうに興味を持ちました。緑色の霧が口から噴き出す。あれには驚かされたものです。 私はタイガーマスクが好きな少年でしたが、怪奇派の悪役が嫌いだったかというと、まったく逆です。タイガーマスクだけでは盛り上がりませんよね。やはり実力と人気もある悪役レスラーが存在してこそ、引き立つヒーローでしょう。カブキは、その役割そのものでした。 そして学校でどうしたか──当然、やりました(笑)。水を口に含んで、思いきり吹く。あれをやらなかった中学生が、あのころどれだけいたでしょうか。 日本を出るときは中堅だった男が、アメリカで別人になって帰ってきた。しかもその別人は、外国人が思い描く「日本」を思いきり誇張した姿をしていた。逆輸入では足りない、奇妙なねじれがそこにはあります。このスタイルは、のちのグレート・ムタに受け継がれていきました。 中学時代まで、プロレスの見方は小学生のころと変わりませんでした。全日本も新日本も、どちらも興味を持って観ていた。ただ感覚的には、周りで話題になっていたのはアントニオ猪木の新日のほうだったように思います。カブキは、その外側から現れました。 その二年前、同じ日に カブキがアメリカで生まれ変わったのが昭和五十六年一月。その同じ年の九月八日、京都で一人の学者が亡くなりました。 湯川秀樹。生まれは東京の麻布、育ちは京都でした。 昭和十年(一九三五年)、二十代の若さで、原子核の中で陽子や中性子を結びつける「中間子」という粒子の存在を、理論的に予言しました。実物は誰も見ていない。計算と理屈だけで、そこに何かがあるはずだと言い切ったのです。 十二年後の一九四七年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが、宇宙線の中からパイ中間子を発見します。紙の上で言い当てたものが、本当にあった。そして昭和二十四年(一九四九年)、湯川秀樹は日本人として初めてノーベル賞を受賞しました。 戦争に負けて四年目です。焼け跡がまだ残る国で、日本人がノーベル賞を受けた。国じゅうが沸いたと伝わっているのも、無理はないと思います。 昭和四十五年(一九七〇年)に京都大学を定年退官。その後は前立腺癌を患い、自宅で療養しながら学術活動を続けました。米ソの緊張が激しくなるなか、亡くなる年の六月には十五年ぶりに第四回科学者京都会議を実現させ、相当に悪い体で車椅子のまま出席して、核兵器の廃絶を訴えています。 その三か月後、急性肺炎から心不全を併発し、京都市左京区の自宅で亡くなります。七十四歳。 昭和五十六年九月八日。私は小学六年生でした。 そして正直に書きますが、私はこの日を覚えていません。 湯川秀樹という名前は、いつの間にか聞き覚えがあるな、という感じで頭の中にありました。学校で習ったのか、テレビで見たのか、伝記で読んだのか、はっきりしません。ノーベル賞という言葉も、詳しくは分かっていませんでした。理科や科学に興味があったかというと、これも正直、特にありませんでした。あのころの私は「あばれはっちゃく」タイプの小学六年生です。日本人初のノーベル賞学者が亡くなった日、私はたぶん、外で走り回っていました。 その湯川秀樹が、自分の子ども時代から物理学の道に入るまでを書いた回想録があります。文庫で七七〇円。難しい数式は出てきません。あの写真の人が、どんな子どもだったのか。 旅人 ある物理学者の回想(角川ソフィア文庫)湯川秀樹/KADOKAWA。日本初のノーベル賞学者が、幼少期から青年期までを自ら綴った回想録。星4.3(190件) Amazonで見る › 「世界で通用した日本人」の顔 この二人を並べたいと思ったのは、子どもの私にとって「世界で通用した日本人」という言葉が、まるで違う二つの顔をしていたからです。 湯川秀樹は、教科書と伝記の中にいる人でした。偉い。すごい。でも、遠い。中間子と言われても、何のことだかわかりません。名前と「日本人初のノーベル賞」という肩書きだけが、記号のように頭に入っている。実感は、ありませんでした。 一方、カブキはテレビの中で動いていました。アメリカで大成功して帰ってきた日本人が、目の前で霧を吹いている。何がどうすごいのか理屈はわからなくても、「向こうで通用した」ということだけは、体でわかった気がしました。 いま並べてみると、この二人は正反対のことをやっています。 湯川秀樹は、誰も見たことのないものを「ある」と言い当てた人です。日本人であることを隠す必要も、誇張する必要もない。数式の前では、国籍は関係がありません。 カブキは逆です。日本人であることを外国人の期待に合わせて思いきり作り込み、しかも出身地はシンガポールということにされた。中身ではなく、見え方で勝負した。 ...

September 8, 2026

9月7日 ── どんぶりを持って、道に出た|昭和の今日は何があった日?

今日は9月7日。 この日には、二つの記念日が重なっています。ひとつは「明星チャルメラ」が発売された日。もうひとつは「CMソングの日」。 一見、何のつながりもない二つです。片方はインスタントラーメンで、片方はラジオの広告の話。並べる理由なんてなさそうに見えます。 でも、私はこの二つを並べてみて、あ、と思いました。どちらも音の話なんです。 チャルメラという商品名は、屋台のラーメン屋が吹いていたあの楽器の名前です。テレビから流れてきたCMソングも、耳から入ってきて勝手に居座った音でした。 昭和の子供は、商品を音で覚えていた。そんな気がしてきたのです。 1966年9月7日、チャルメラが発売された 「明星チャルメラ」の発売日は、1966年(昭和41年)9月7日。今日でちょうど発売60周年になります。還暦です。 明星食品には、この4年前に大きな発明がありました。1962年に開発したスープ別添方式です。それまでの即席麺は麺そのものに味を付けて油で揚げていたため、どれを食べても似たような味にしかならない。ところがスープを粉末にして小袋に分けたことで、味の種類が一気に作れるようになった。この方式は各社に模倣されて即席麺の標準型になり、焼そばや和風麺まで生まれます。今スーパーの棚に袋麺が何十種類も並んでいるのは、もとをたどればここに行き着くわけです。 その技術の上に立って作られたのがチャルメラでした。開発はラーメン屋の食べ歩きから始まったといいます。目指したのは「街のラーメンの味」「飽きない味」。ホタテのエキスをスープに加え、仕上げ用に別添の「木の実のスパイス」を付けた。「木の実」と「好み」をかけた名前だそうです。現在は「秘伝のスパイス」と名前を変えていますが、中身は発売当初からほとんど変わっていないとのこと。 そして、あの袋です。夜の町角、明かりの灯る屋台、庇付きの帽子をかぶってチャルメラを高く吹き鳴らすおじさん。あの絵は200点以上の候補から選ばれたもので、描いたのはイラストレーターの木村修二さん。おじさんも、猫も、屋台も、夜景も、すべて同じ人の手によるものでした。 商品名を音から取り、パッケージにその音を吹いている人を描く。考えてみると、ずいぶん大胆なことをしています。袋の中から音は出ないのに、見た人の頭の中では鳴っている。 わが家の袋麺は、サッポロ一番だった 正直に言うと、わが家の定番はチャルメラではありませんでした。 サッポロ一番のしょうゆ味。これが基本です。母が作ってくれて、必ず卵を落としてくれました。あの、白身が半分固まりかけたところをスープごとすする感じ。袋麺の味というより、あれはもう母の作るラーメンの味として記憶に残っています。 ただ、チャルメラもちゃんと食べています。ときどき、しばらくチャルメラが続く時期があった。子供心には理由がわかりませんでしたが、たぶん安売りしていたんでしょうね。母がスーパーで、いつもの棚を見て、こっちが安いからと手を伸ばした。それだけの話だったはずです。 その「それだけの話」が、六十年続いた商品の売り上げの一つになっている。当たり前ですが、ロングセラーというのは、そういう小さな判断の積み重ねでできているのだと思います。 どんぶりを持って、道に出た そして、屋台のほうのチャルメラです。 これははっきり覚えています。昭和五十年ごろ、わが家の前の道を、夜になると屋台が通っていました。チャルメラを鳴らしながら、ゆっくりと引いて歩いてくる。 どんぶりを持って買いに出た記憶があります。家の器を持って、外に出て、道の上でラーメンを受け取る。今の感覚だと、なかなかすごいことをやっています。店に行くのでもなく、出前を待つのでもなく、店のほうが家の前まで来る。 思えばあの頃、うちの前の道はいろいろな商売が通っていく道でした。豆腐屋のラッパ。竿竹屋。石焼き芋屋。チリ紙交換。みんな、それぞれの音を持っていました。 そして私は、石焼き芋屋の後ろをくっついて歩いて、一緒に「いーしやーきいもーおいもー」と叫んでいたことがあります(笑)。今考えると、商売の邪魔以外の何物でもない。よく怒られなかったものです。 引き売りというのは、音で自分の存在を知らせる商売です。看板も出せない、チラシも配れない。だから音を出す。豆腐屋はラッパ、ラーメン屋はチャルメラ、焼き芋屋は自分の声。 ちなみに、こうして売り歩く商売はずいぶん昔からあります。下の絵は室町時代の『七十一番職人歌合』に描かれた豆腐売り(右)と素麺売り(左)。五百年前から、人は物を担いで町を歩いていました。 そのぜんぶが、いつのまにか街から消えました。 9月7日はCMソングの日 もうひとつの記念日にいきます。 1951年(昭和26年)9月1日、日本で民間ラジオ放送が始まりました。この日開局したのは、名古屋の中部日本放送と大阪の新日本放送の二局。それまでNHKだけだった電波に、初めて広告が乗ることになったわけです。 この機会を逃さなかったのが、小西六写真工業——のちのコニカ、現在のコニカミノルタでした。民放の第一声で新番組を始めたいと考え、30分の番組枠を買い、曲づくりを人気の作詞・作曲家、三木鶏郎に委嘱します。 三木が考えたのは、「NHKではできないものは何か」ということでした。そこで出てきた答えがコマーシャルソング。こうして生まれたのが「ボクはアマチュアカメラマン」です。歌ったのは灰田勝彦。 この曲がすごいのは、社名も商品名もいっさい出てこないことです。「さくらフイルム」のCMでありながら、歌の中にその名前が出てこない。代わりに歌われているのは、ピンボケだの露出過度だのブレだのという、アマチュアカメラマンの失敗談ばかり。CMだと気づかれにくく、だからこそ多くの人に抵抗なく受け入れられて、大流行したといいます。 ちなみに、この曲の初オンエアは開局日の9月1日でした。それでも9月7日が記念日になっているのは、この曲が9月7日から始まった三木の担当番組『冗談ウエスタン』のために作られ、その番組で毎週流されていたからだそうです。 三木鶏郎はこの後、誰もが口ずさめるCMソングを次々と世に送り出していきます。「明るいナショナル」も「キリンレモンのうた」も、この人の仕事でした。 「明るいナショナル」——ここまで読んで、頭の中で勝手に鳴り出した方がいるのではないでしょうか。私はそうでした。 その三木鶏郎という人については、まるごと一冊の評伝が出ていました。日本最初のCMソングから、政治家を怒らせた諷刺コントまで。この記事を書きながら、いちばん読みたくなった本です。 冗談音楽の怪人・三木鶏郎 ラジオとCMソングの戦後史(新潮選書)泉麻人/新潮社。戦後最大のラジオスターにして、日本最初のCMソングの作り手。永六輔や野坂昭如を輩出した傑物トリロー、初の評伝。星4.1 Amazonで見る › 三丁目の電柱 私がいまだに全部歌えるCMソングがあります。 ...

September 7, 2026