九月十九日という日付には、ちょうど十年をへだてて、ふたつの出来事が並んでいる。

ひとつは、千五百年前の歴史が新しく読み直された日。 もうひとつは、自分が生きている時代そのものが、終わりへ向かって動きはじめた日。

九歳の私と、十九歳の私。どちらも、その日付の上に確かに立っていた。

そして先に白状しておくと、私はそのどちらも覚えていない。


昭和五十三年九月十九日 錆の下の百十五文字

埼玉県行田市に、埼玉(さきたま)古墳群と呼ばれる一帯がある。その中の稲荷山古墳という前方後円墳から、昭和四十三年の発掘調査で一本の鉄剣が出土した。長さは七十三センチあまり。ただし全体が分厚い錆に覆われていて、そこに文字があるとは誰も気づかなかった。

稲荷山古墳(埼玉県行田市、2016年撮影)。昭和43年、この古墳の後円部から鉄剣が出土した。(Photo: Saigen Jiro, CC0, via Wikimedia Commons)

そのまま十年が過ぎた。昭和五十三年、保存処理のために鉄剣は奈良へ送られる。錆の進行を止めるための、いわば修理の作業である。その過程でX線撮影が行われ、錆の下に金色の線が走っていることがわかった。金象嵌——鉄の表面に溝を彫り、そこに金を埋め込む技法である。

稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣(国宝、埼玉県立さきたま史跡の博物館)。表に57字、裏に58字、あわせて115字が金で刻まれている。(Photo: Saigen Jiro/パブリックドメイン, via Wikimedia Commons)

読み取られた文字は、百十五字あった。しかも、そのすべてが判読できた。古墳時代の刀剣に刻まれた銘文としては、文字数において群を抜いている。九月十九日、その解読の成功が明らかにされた。

中身がまた尋常ではなかった。ヲワケという人物が、自分の祖先をオホヒコから八代にわたって書き連ね、代々「杖刀人(じょうとうじん)の長」——大王の宮を警護する武官の長であったと記す。そして自分が「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」の統治を助けた功績を記念して、辛亥の年にこの剣を作らせた、と結んでいる。辛亥の年は西暦四七一年とみられている。

裏面の「獲加多支鹵大王」の部分。錆の中に、金の線で「ワカタケル大王」の文字が並ぶ。(Photo: 斑猫, CC0, via Wikimedia Commons)

ワカタケル大王は、雄略天皇にあたると考えられている。

そして重要なのはここからで、熊本県の江田船山古墳から出ていた銀象嵌の大刀にも、欠けた文字の並びから同じ大王の名が刻まれていたらしいことになった。九州と、関東。千キロ以上離れた二つの土地の墓に、同じ大王の名を刻んだ刀が眠っていた。

熊本県・江田船山古墳から明治6年に出土した銀象嵌銘大刀(国宝)。いまは上野の東京国立博物館に収められている。(Photo: Saigen Jiro/パブリックドメイン, via Wikimedia Commons)

五世紀後半には、すでに大王の力が九州から東国まで届いていた——古代史の姿が、この日を境に書き換わったのである。


九歳の私には、届いていなかった

昭和五十三年の秋、私は小学三年生だった。

この発見を伝えるニュースも新聞も、まったく覚えていない。「百年に一度の発見」と言われたほどの騒ぎだったのに、九歳の私の耳にはひとかけらも残らなかった。

古墳そのものは習った記憶がある。前方後円墳の形とか、仁徳天皇陵の大きさとか、その程度のことは頭に入っている。だがワカタケル大王という名前については、まるで記憶がない。習ったのに忘れたのか、そもそも教わらなかったのか、今となっては確かめようがない。正直に言って、小学校から中学校にかけての私は、歴史に特別な興味を持っていなかった。

ただ、博物館にはよく行っていた。上野の国立博物館には、小さい頃から何度も連れて行かれている。行った記憶はあるのに、そこで何を見たのかはほとんど残っていない。子どもの目には、ガラスケースの中の土器も刀もただの古い物にしか映らなかったのだろう。

上野の東京国立博物館 本館(2010年撮影)。江田船山古墳の大刀も、この博物館の収蔵品である。(Photo: Wiiii, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

面白いもので、その同じ上野へ、今は自分の子どもを連れて行く立場になった。そして子どもの頃とは比べものにならないほど強い興味を持って、展示の一つひとつを見て回っている。説明の札を最後まで読む。順路を戻ってもう一度見る。子どもの方が先に飽きて、早く行こうと袖を引っ張ってくる。

かつて自分が引っ張っていた袖を、今は引っ張られている。

錆の下に千五百年間、誰にも読まれずに眠っていた文字がある日突然読めるようになる。歴史というのは固まったものではなく、あとから書き足されたり書き直されたりするものらしい。そして人間の興味というものも、どうやら何十年か遅れて読み出せるようになるものらしい。


九歳の私が読み逃した百十五文字の話を、発掘から解読まで一冊にまとめた本があります。九十六ページの薄い本なので、子どもと博物館へ出かける前の予習にもちょうどいい大きさです。

鉄剣銘一一五文字の謎に迫る・埼玉古墳群(シリーズ「遺跡を学ぶ」16)
高橋一夫/新泉社。稲荷山古墳の発掘から、X線で浮かび上がった115文字の銘文、ワカタケル大王の時代までをたどる。星4.4(10件)
Amazonで見る ›

昭和六十三年九月十九日 その夜のこと

それから十年。

昭和六十三年九月十九日の深夜、昭和天皇の容態が急変し、大量の吐血があった。

前の年の秋に開腹手術を受けられており、この九月に入ってからは発熱が続いていた。そして十九日の夜、事態は一段深いところへ落ちた。以後、日本中が「ご容態」という言葉とともに冬を迎えることになる。

テレビは定時のニュースのたびに、血圧、脈拍、体温、そして輸血量を読み上げるようになった。数字が報じられ、そのたびに国全体が息を詰めてそれを聞く。

そして「自粛」という言葉が、日本を覆った。

秋祭りが中止になり、運動会が取りやめになった。テレビCMから明るい調子のものが消え、催しが次々と見合わせになった。皇居前には記帳のための長い列ができた。誰が命じたわけでもないのに、日本中がそろって声を落とした。

あの秋を経験した人間にとって、「自粛」は単なる二文字ではない。空気そのものの名前である。


十九歳の一日

——と、そこまで書いておいて申し訳ないのだが、その空気を私はほとんど覚えていない。

昭和六十三年、私は十九歳。浪人中だった。予備校には通わず、セブン-イレブンの夜勤を週四日こなしながら、自分で受験勉強を進めていた。

夜十時に勤務が始まる。深夜二時から三時までの一時間が休憩。朝七時に勤務終了。帰宅して仮眠をとり、昼の一時頃から図書館へ行って、夜の七時頃までそこにいる。それが私の一日だった。

この繰り返しの中に、私の昭和六十三年の秋はすっぽり収まっている。

深夜のコンビニというのは、本来ならあの「自粛」の空気がいちばん生々しく出る場所だったはずである。店内の音楽、客の様子、飛び込んでくる速報、朝方に搬入される新聞。いくらでも記憶の手がかりがありそうなものだ。

ところが、何も残っていない。

特に何も感じなかった、というのが正直なところだ。受験のことで頭がいっぱいだった、という方が実感に近い。日本中が声を落としていた秋に、私は夜勤と仮眠と図書館を回しながら、自分の一年のことだけを考えていた。

九歳のときと同じである。歴史が動いている日に、私はそれを知らずに自分の生活を送っていた。

十年をへだてた二つの九月十九日と、そのときの私。

いま思えば、それはそれで正しかったのかもしれない。十九歳の私にとっては、あの一年をどう終えるかが世界のすべてだった。国が息を詰めていようがいまいが、自分の受験は自分でやるしかない。


「平成」の二文字

年が明けて、昭和六十四年一月七日。

この日のことで私の記憶に残っているのは、ただひとつ、「平成」と書かれたものを掲げたテレビ映像である。あれは繰り返し何度も流れた。掲げていたのは小渕恵三官房長官——のちに総理大臣になる人だが、あのときはまだ官房長官だった。

昭和64年1月7日、新元号「平成」を発表する小渕恵三官房長官。(人事院ホームページより/政府標準利用規約2.0(CC BY 4.0互換), via Wikimedia Commons)

不思議なもので、九月十九日の深夜のことは何も覚えていないのに、あの額を掲げる映像だけは頭に焼きついている。元号が変わるという出来事が、私にとっては新しい二文字が画面に現れた瞬間として記憶されたわけである。

昭和は、こうして終わった。


あの秋、日本中が息を詰めて容態を見守った人は、どんな生涯を送ったのか。十九歳の私が何も感じずに通り過ぎた「昭和の終わり」を、あらためて読み直すための一冊です。

昭和天皇(岩波新書)
原武史/岩波書店。大正、戦争、そして戦後。昭和という時代を生きた天皇の生涯を、新書一冊でたどる。星4.0(45件)
Amazonで見る ›

それでも、書き残しておきたい

私の五人の子どもたちにとって、昭和はもう完全に「歴史」である。

私にとっては、ついこの間まで自分が生きていた時代なのに、子どもたちからすれば教科書の中の出来事になっている。そのことを考えると、少し不思議な気持ちになる。

昭和の終わり、私はまだ二十歳前後だった。街の雰囲気も、テレビも、電話も、車も、今とはずいぶん違っていた。携帯電話もインターネットもなく、誰かに連絡を取るだけでも、今よりずっと時間がかかった。それでも、その時代にはその時代の「普通」があって、私たちはそれを普通だと思って暮らしていた。

そんな話を、子どもたちにすることがある。「昔はこうだったんだぞ」と教えるというより、「お父さんが子どもの頃は、こんな時代だったんだ」と、自分の記憶を少しずつ渡しているような感覚だ。

たぶん、子どもたちにとっては、私の話の全部が面白いわけではないだろう(笑)。でも、いつか自分たちが親になったとき、「そういえば、親父がそんなこと言ってたな」と思い出してくれれば、それで十分だと思っている。

今、私は路線バスのハンドルを握っている。

毎日、同じような道を走っているようで、実際には毎日少しずつ違う景色を見ている。昔からある商店がなくなり、新しい建物が建ち、道路が変わり、子どもだった人が大人になり、そして高齢になった人をバスに乗せる。街そのものが、少しずつ記憶を積み重ねながら変わっていく。

だからこそ、自分の記憶も残しておきたいと思うようになった。

昭和の出来事を調べて文章を書いていると、「ああ、これ覚えている」と思うことがある。そして、その記憶の中に、当時の自分が何を感じていたのかが一緒に蘇ってくる。

ニュースとして残っている出来事と、自分の記憶は、必ずしも同じではない。だから私は、出来事そのものだけではなく、「そのとき自分はどうだったのか」を書いておきたい。それは歴史を語るというより、自分が生きてきた証を残しておくことなのかもしれない。

子どもたちが大きくなったとき、私の記憶を全部読んでくれなくても構わない。ただ、何十年か先にふと何かを思い出して、「そういえば、親父はこんな時代を生きてきたんだな」と思ってくれたら、それで十分である。

昭和は、私にとって「歴史」ではない。自分が笑ったり、悩んだり、野球をしたり、恋をしたり、働いたり、家族を持ったりしてきた、確かに自分が生きてきた時間だ。そして今は、その続きを令和の街でバスを走らせながら生きている。

昔の記憶を書き残すことは、過去を懐かしむだけではなく、「自分はこれまで、こんなふうに生きてきたんだ」と確認することでもあるのだと思う。

いつかこの文章を子どもたちが読む日が来たら、そのときに少しでも、私が見てきた景色を一緒に見てもらえたら嬉しい。

そして、私自身もまだまだこれからだ。昭和を生きた人間として、令和を走るバスの運転士として。これから先の景色も、できるだけ自分の目で見て、感じて、そして残していきたいと思っている。


ヲワケという人物は、八代前の先祖の名前まで剣に刻ませた。自分がどこから来た人間なのかを、金の文字で残しておきたかったのだろう。千五百年後に読まれるとは思っていなかっただろうが、結果として読まれた。

そして読まれるまでのあいだ、その文字は錆の下で静かに待っていた。

あなたの九月十九日にも、まだ錆の下に眠っている記憶があるかもしれません。


【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。

日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧


▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事)

◀ 前の記事:【9月18日】世界初のカップ麺が生まれた日 | 次の記事:(近日公開)