9月13日という日付を、昭和40年から64年までの範囲で洗っていたら、妙なことに気づいた。
三つの出来事が、私の15歳、16歳、19歳に、きれいに並んで刺さっていたのだ。中学3年、高校1年、そして浪人。要するに、子どもが子どもでなくなっていく数年間である。
しかも三つとも、どこかで「終わり」の匂いがする。今日はこの三つを、順番に並べてみたい。
昭和59年9月13日 ― 墨谷二中を描いた人
昭和59年、1984年9月13日。漫画家のちばあきおが亡くなった。41歳だった。晩年は病を抱えていたと伝えられ、最期は自らの手によるものだった。そのことについては、これ以上は書かない。
代表作は『キャプテン』と『プレイボール』。説明はいらないだろう。墨谷二中という、どこにでもありそうな公立中学の野球部の話だ。谷口、丸井、イガラシ、近藤と、四代のキャプテンが順に主人公になっていく。その高校編が『プレイボール』である。二作合わせて昭和51年度の小学館漫画賞を受けている。兄は『あしたのジョー』のちばてつやだ。
あの漫画の変わっているところは、天才がひとりも出てこないことだった。
谷口タカオは、うまくない。名門・青葉学院から転校してきたという経歴だけで「すごいやつが来た」と勘違いされ、その誤解に押しつぶされそうになりながら、誰も見ていないところで走り込む。血を吐くような特訓の場面があるわけでもない。ただ、黙って練習している。そういう漫画だった。

絶筆になった『チャンプ』は連載の途中で止まり、最終回はチーフアシスタントが下絵をもとに仕上げて掲載された。
私はそのとき中学3年。墨谷二中の彼らと、ちょうど同じ学年だった。
野球部で、ピッチャーとショートをやっていた。公立中学だが、練習はかなりハードで、伝統的にわりと強い学校だったと思う。上下関係ははっきりしていて、先輩からの理不尽な行為も受けた。先生も日常的にケツバットやビンタをしていた。いまなら完全にアウトだが、そういう時代だった。
『キャプテン』は中学1年から単行本で真剣に読んでいた。テレビアニメも見た。そして、思いっきり重ねていた。
葛飾には修徳という強豪の私立中学がある。私の中では、自分の学校が墨谷二中で、修徳が青葉学院だった。あの漫画の構図が、そのまま自分の住んでいる区の地図の上に乗っていたわけである。公立が私立に挑む話として読んでいたのだから、当然といえば当然だ。
だから訃報も知っていた。覚えているのは、悲しさよりも先に「本当に?」という気持ちが来たことだ。谷口たちを描いている人が、この世からいなくなるという実感が、15歳の頭では追いつかなかったのだと思う。
中学1年の私が真剣に読んでいた、あの一巻目です。青葉学院から来た谷口が、誤解のまま墨谷二中の野球部に入るところから始まります。いま読み返しても、派手な場面はほとんどありません。だから読み返せるのだと思います。
昭和60年9月13日 ― ブームの外にいた高校1年生
その一年後、昭和60年、1985年9月13日。任天堂がファミリーコンピュータ用ソフト『スーパーマリオブラザーズ』を発売した。
国内だけで約681万本。ファミコンソフトの売上記録は、いまだにこれが1位だという。世界では4000万本を超えた。

それまでの家庭用ゲームは、一画面の中で完結するものが多かった。この作品は違った。右へ、右へと画面が流れていく。ジャンプして敵を踏み、ブロックを叩き、土管にもぐる。操作は十字キーと二つのボタンだけ。誰でもすぐ動かせるのに、どこまでも先がある。
ファミコン本体が店頭から消え、入荷の噂が立てば行列ができた。攻略本はその年のベストセラーになった。
私は16歳、高校1年だった。
そして、何の記憶もない。
家にファミコンはなかった。野球に夢中で、そもそもファミコンに興味がわかなかったのである。日本中の子どもが土管にもぐっていたその秋、私はグラウンドにいた。ブームというのは、外にいる人間からは案外よく見えないものだ。
いま思えば、あれは子どもの遊び方が変わる分かれ目だったのだろう。中川の土手や線路沿いを走り回って日が暮れるまで遊ぶ、という時代が終わりかけていた。ただ、その分かれ目を私は知らずに通り過ぎた。理由は単純で、ボールを追いかけるほうが面白かったからだ。
昭和63年9月13日 ― ホークスが大阪を出ていく
さらに三年後、昭和63年、1988年9月13日。ダイエーの中内㓛社長が、南海からホークスを買収する意向を明らかにした。
この年、南海ホークスは球団創設50周年を迎えていた。4月23日、「おれの目の黒いうちはホークスは売らん」と公言していた川勝傳オーナーが亡くなる。それから半年も経たないうちに、身売りが表に出た。本拠地は大阪球場から福岡へ移ることになる。

結果として、この昭和63年が南海ホークスとしての最後のシーズンになった。皮肉なことに、この年の南海には見るべきものがあった。門田博光が40歳で44本塁打、125打点。本塁打王と打点王の二冠に加えてMVPまで獲っている。チームは5位に終わったが、あの打球の音だけは最後まで鳴っていた。
南海としての本拠地最終戦、杉浦忠監督は「長嶋君ではありませんがホークスは不滅です。ありがとうございました、行ってまいります」とあいさつした。門田はその後、九州行きを拒んでオリックスへ移籍している。
この同じ秋、10月には阪急ブレーブスもオリエントリースへ売却された。パ・リーグの老舗が二つ、ひと月のあいだに看板を下ろしたことになる。

私は19歳。浪人中だった。
予備校には通っていない。セブン-イレブンの夜勤を週に4日入れながら、自分で受験勉強を進めていた。情報源はテレビと、店で売っているスポーツ新聞である。深夜のレジで、売り物の一面をちらりと見る。そういう形でこのニュースを知った。
正直に書くと、身近な出来事としては見ていなかった。南海というチームは、私にとって完全に遠い存在だった。巨人を見て育った東京の人間にとって、大阪を本拠地にするパ・リーグの球団は、同じプロ野球というより、別の国のリーグに近い。野村克也という人も、南海時代のプレーは見ていない。かろうじて西武の選手だった頃の記憶が少しあるだけだ。
ただ、門田博光だけは、はっきり覚えている。
夜の『プロ野球ニュース』の「今日のホームラン」。あの軽快な音楽が流れて、次々にホームランの映像が切り替わっていく中に、門田の豪快な一発がたびたび出てきた。40歳のずんぐりした体が振り抜いて、打球が高く上がっていく。名前も背番号も、そのコーナーで覚えたようなものだ。
遠い球団のはずなのに、一人だけ顔がある。テレビというのは、そういう妙な近さを作る。
もっとも、当時の私とプロ野球の距離は、本音を言えば「それどころではなかった」。夜勤明けの頭で参考書を開く生活の中で、球団が一つ消えることの重さまでは、まだ考えが及ばなかった。
三つの9月13日
昭和59年、墨谷二中を描いた人がいなくなった。
昭和60年、子どもの遊びの形が変わった。
昭和63年、大阪の球団が大阪から消えた。

並べて書いていて気づいたのだが、この三つには共通点がある。どれも当時の私は「これは大きな出来事だ」とは思っていなかった、ということだ。訃報には驚いたが、それだけだった。マリオには興味がなかった。南海の身売りは遠い場所の話だった。
大事なものは、たいてい終わってからそう見える。終わっている最中は、ただの日常の続きにしか見えない。15歳も16歳も19歳も、目の前の練習と受験のことだけを見ていた。
いま、私には子どもが5人いる。
子どもたちはゲームをする。私はしないので、ゲームを介した付き合いはほとんどない。あの昭和60年の秋に土管にもぐらなかった人間は、結局その後も一度ももぐらなかったわけである。
そのかわり、野球には全員が関わっている。5人とも学童野球をやっていて、自宅での個人練習には私も積極的に付き合う。壁当て、素振り、キャッチボール。グラウンドではなく、家の前の、誰も見ていない時間のほうだ。
谷口タカオがやっていたのも、それだった。
うまい子の話ではない。天才の話でもない。誰も見ていないところで、黙って続けるかどうかという話。あの漫画が中学1年の私に教えたことを、40年近く経って、自分の子どもに向かって繰り返している。描いた人はもういないのに、話のほうは、まだ終わっていない。
家の前の、誰も見ていない時間の練習に。折りたたんで片づけられるバッティングネットです。軟式にも硬式にも使えます。
みなさんにとって、9月13日は何かの日でしたか。『キャプテン』の何巻が好きだったか、マリオの何面で詰まったか、あるいは消えてしまった球団のこと。よかったら聞かせてください。
【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。
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