9月25日 ── 1%の手術と、サンデー兆治|昭和の今日は何があった日?

昭和49年(1974年)9月25日。アメリカ・ロサンゼルスで、ひとりのピッチャーが手術台に上がりました。 ドジャースの左腕、トミー・ジョン。切れてしまった肘の靭帯を、体の別の場所の腱で作り直すという、それまで誰も受けたことのない手術でした。成功の見込みは1%。医師自身がそう伝えたといいます。 その年の私は5歳。保育園に通っていました。ちょうどこの頃、父が出勤前の早朝に、近所の広い公園でキャッチボールをしてくれるようになり、それが私と野球の出会いになりました。 キャッチボールをしたのは、高砂北公園でした。私の最初のグローブは、父がどこかでもらってきた「SSK」でした。ボールは最初こそやわらかいボールでしたが、わりとすぐに軟球に変わりました。 父は、特に何かを教えるでもなく、何も言いませんでした。ただただ投げて、取って、投げて、取って。それをもくもくと繰り返すだけです。それでも、あの朝の光景は、今でもはっきりと覚えています。 海の向こうで、ひとりの投手が選手生命を懸けて肘にメスを入れていた頃、葛飾の公園では、5歳の子どもが初めてボールを投げていた。もちろん当時の私は、そんなことを知るよしもありません。この手術の名前を知るのは、それから10年ほど先のことです。 成功率1%の賭け トミー・ジョンは、もともと速球で押すタイプではなく、沈む球で内野ゴロを打たせる頭脳派の投手でした。昭和49年のシーズンも13勝3敗と好調で、チームは地区優勝を目指していました。 ところが7月17日の試合中、得意のシンカーを投げた瞬間に、左腕がしびれるような違和感に襲われます。診断は肘の靭帯の断裂でした。当時の常識では、ピッチャーとしてはもう終わりです。 そこでチームドクターのフランク・ジョーブ博士が提案したのが、傷んだ靭帯の代わりに、体のほかの部位から正常な腱を移して肘を作り直すという方法でした。前例はひとつもありません。それでもジョンは、この手術に懸けました。 結果は、奇跡と呼ばれるものになりました。1年9か月のリハビリを経て、昭和51年(1976年)4月にマウンドへ戻ると、翌年には自身初の20勝。ヤンキースに移ってからも勝ち続け、46歳まで投げ抜きます。手術のあとだけで164勝、通算288勝。この復活劇から、肘の靭帯再建手術は、彼の名前で呼ばれるようになりました。 マサカリが帰ってきた春 日本でこの手術の名前が一気に広まったのは、昭和60年(1985年)のことです。主役はロッテ・オリオンズの村田兆治でした。 左足を高く上げ、全体重を右足にためてから、斧を振り下ろすように投げ込む「マサカリ投法」。そこから繰り出す剛速球と、伝家の宝刀フォークボール。昭和50年代の村田は、最多セーブ、最優秀防御率、最多勝と、数々のタイトルを手にした豪腕でした。 その村田の肘が悲鳴を上げたのが、昭和57年(1982年)4月です。先発した試合で、わずか1回で降板。当時の日本球界では、投手の肘にメスを入れるのはタブーのように考えられていました。村田は迷った末に海を渡り、昭和58年、あのジョーブ博士の手術を受けます。 博士の教えを守って地道なリハビリを続け、昭和59年の終盤に一軍へ復帰。そして迎えた昭和60年、村田は開幕から11連勝という劇的な復活を見せます。肘をいたわるために中6日の間隔を空け、日曜日に先発を重ねたことから、ついた呼び名が「サンデー兆治」。この年17勝5敗でカムバック賞に輝き、「トミー・ジョン手術」という言葉は、日本の野球ファンにも知れ渡っていきました。 高校1年生になったばかりの私は、この「サンデー兆治」の活躍に毎週注目していました。テレビのスポーツニュース、新聞、友だちとの会話。村田兆治の情報は、ちくいちチェックしていたものです。 とはいえ、ロッテ戦をテレビ中継で観ることはありませんでした。村田兆治が投げる姿を目にできたのは、『プロ野球ニュース』の映像だけです。それでも、巨人ファンの私にとって、村田兆治は特別な投手のひとりでした。あのマサカリ投法は、私もまねをしました。 だからこそ、「肘を手術して復活した」と聞いたとき、私は正直「本当に?」と疑いました。肘にメスを入れた投手が、またあの豪快なフォームで投げられる。そんなことが、にわかには信じられなかったのです。 その疑いは、見事に裏切られました。村田はその後も投げ続け、平成元年(1989年)には通算200勝を達成し、最優秀防御率のタイトルも手にします。翌平成2年、10勝を挙げたシーズンを最後にユニフォームを脱ぎました。ロッテ一筋で、通算215勝です。 ロッテ番の記者として村田兆治を間近で見てきた著者が、マサカリ投法の現役時代から引退後までを書いた一冊です。あの復活の裏で何が起きていたのかが読めます。 村田兆治という生き方 <マサカリ投法、永遠なれ>松山秀明/ベースボール・マガジン社(2024年12月刊)。サンデー兆治への軌跡、ロッテ番の目で見た大エース、引退スクープ、離島での野球振興まで。星5.0(7件) Amazonで見る › 全打者、三振のつもりで 私自身も、中学の野球部ではピッチャーでした。公立中学ながら練習はハードで、伝統的に強い学校です。マウンドに立つときは、本気で全打者を三振に取るつもりで投げていました。お手本にしていた投手が特にいたわけではありません。とにかく、ヒットを打たれるのが嫌だったのです。 ときどき、肘に痛みが出ることがありました。それでも当時は、「みんなどこか痛いところを持ちながらやっている」なんて思い込んでいましたから、休まずに練習を続けていました。1試合で150球くらいは投げていたのではないかと思います。 連投は当たり前でした。「昨日2試合、今日1試合」なんてこともあったくらいです。 そして、まさに「肩を冷やすな」「水を飲むな」の時代でした。とはいえ、飲まないわけにはいきません。私はトイレでこっそり水を飲んでいました。練習で何がきつかったかといえば、やっぱり水が飲めなかったことです。 昭和の野球では、痛みをこらえて投げることが、どこか美談として語られていました。エースは連投してあたりまえ。肘や肩の痛みは、根性で乗り越えるもの。私も、そんな空気のなかでマウンドに立っていたひとりです。その頃の野球少年にとって、「肘にメスを入れて復活する」という村田兆治の姿は、ひとつの時代の常識を静かに揺さぶる出来事だったのかもしれません。 令和のマウンドで あれから40年。いまやトミー・ジョン手術は、特別な出来事ではなくなりました。ダルビッシュ有や大谷翔平といったトップ選手も受け、プロ野球では毎年のように、若い投手がこの手術から復帰を目指しています。 元ピッチャーとして、これは本当に良かったと思います。肘を壊せばそれで終わりだった時代から、手術を受けてもう一度マウンドを目指せる時代へ。再起への希望が持てるようになったのですから。 高校野球にも、投手の体を守るための球数制限が導入されました。連投が当たり前で、1試合150球を投げ、水さえ隠れて飲んでいた私の頃とは、まるで別の世界です。 変わったのは、ルールだけではありません。今はYouTubeの動画などで、投げ方や体の使い方について、良い情報に触れられる時代です。子どもたちのレベルは、私の頃とは比べものにならないくらい上がったと感じます。 そして今年の8月15日、トミー・ジョン本人が83歳で亡くなったというニュースが届きました。成功率1%の手術を受けたあの日から、半世紀あまり。彼の名前は、これからも世界中のマウンドで、肘を痛めた投手たちの希望として呼ばれ続けるのでしょう。 肩と肘を痛めない投げ方を、写真と図でていねいに説明した本です。子どもや孫が野球をしているご家庭に、一冊あっていいと思います。 投球障害0へ! ゼロポジションでつくる最強の肩と肘ナツメ社(2025年7月刊)。肩甲骨と上腕骨を同じ平面に保つ「ゼロポジション」を軸に、肩・肘の故障を防ぐ投げ方とトレーニングを解説。星4.8(10件) Amazonで見る › おわりに 今でも私は、細々とではありますが、自分で野球を続けています。子どもたちの練習を見たり、キャッチボールをしたりすると、結局、自分も野球が好きなんだなと思います。 路線バスの運転席から、公園で親子がキャッチボールをしている姿を見かけることがあります。そんなときは、つい目で追ってしまいます。お父さんが少し強く投げ過ぎれば「もうちょっと優しく投げてやれよ」と思ったり、子どもが懸命にボールを追いかけている姿を見れば、「頑張れ」と心の中で声をかけたりします。 トミー・ジョン手術を乗り越えた投手たちや、村田兆治さんの「サンデー兆治」を振り返ると、野球は若いときだけのものではないのだと思います。速い球を投げられなくなっても、遠くまで走れなくなっても、ボールを握ったときの気持ちまで失う必要はない。 私もこれから年齢を重ねていく中で、走ることも、体を動かすことも、そして子どもたちと野球をすることも、できる限り続けていきたいと思っています。 ...

September 25, 2026

9月23日 ── 「こんばんは」と蔵前の蛍の光、そして生まれる前の55本|昭和の今日は何があった日?

9月23日は秋分の日。昼と夜の長さがほぼ同じになる日だ。 昭和の暦をめくってみると、この日にはいくつもの「東京の大舞台」の出来事が重なっている。昭和56年、プロレスのリングで起きた、たったひと言の事件。昭和59年、隅田川のほとりにあった蔵前国技館の最後の日。 そしてもうひとつ。私がまだこの世にいなかった昭和39年のこの日、王貞治が年間55本目のホームランを打っている。 今回は、私が「知らなかった数字」から話を始めてみたい。 生まれる前の55本 昭和39年(1964年)9月23日、巨人の王貞治がシーズン55本目のホームランを放った。それまでの日本記録は、昭和25年に小鶴誠が記録した51本。14年ぶりの記録更新だった。東京オリンピックの開幕を、半月あまり後に控えた秋のことである。 この「55」という数字は、その後、驚くほど長く生き続けた。平成13年にローズ、平成14年にカブレラが並びはしたものの、破られることはなかった。ようやく塗り替えられたのは平成25年、バレンティンの60本。実に49年間、日本の頂点に立ち続けた数字だった。 もちろん、昭和44年生まれの私に、この日の記憶などあるはずもない。 私が野球に興味を持ったのは、保育園の年長の頃だ。父とキャッチボールを始めたのがきっかけだった。父が出勤する前の早朝、近所の広い公園へ行き、よく相手をしてもらった。 ただ、父の口からプロ野球の話を聞いた覚えはない。王さんの55本の話も、家で聞いたことはなかった。あの頃の私にとって野球とは、プロ野球ではなく、朝の公園で父と投げ合うボールのことだった。 プロ野球を意識し始めたのは、小学校に入ってからだ。クラスの友だちと野球の話をするうちに、王さんの55本という記録も、いつの間にか知っていたのだと思う。そして昭和52年、8歳の秋。王さんがハンク・アーロンを抜く756号を打ち、日本中が沸いた。私が王さんに夢中になったのは、この頃である。 つまり、私が王さんを知ったとき、55本はもう「伝説の数字」だった。自分の目で見た756号とは違い、55本は最初から歴史の中にあった数字なのだ。 小学6年生の秋、「こんばんは」 時計を昭和56年(1981年)まで進める。私は小学6年生、12歳だった。 この年の9月23日、東京・大田区の田園コロシアムで、新日本プロレスの大会が開かれた。会場には1万3000人を超す観客が詰めかけ、テレビの全国中継も入っていた。藤波辰巳やタイガーマスクが試合に出て、アンドレ・ザ・ジャイアント対スタン・ハンセンという大一番まで組まれた、豪華な興行だった。 その日、リングに上がったのが、ラッシャー木村である。所属していた国際プロレスが解散し、新日本のリングに乗り込んできたのだ。アントニオ猪木を前に、どんな啖呵を切るのか。会場の誰もが待ち構えていた。 マイクを握った木村の第一声は、「こんばんは」だった。 会場は失笑に包まれた。これが今も語り継がれる「こんばんは事件」である。のちにビートたけしがものまねで広めた「こんばんは、ラッシャー木村です」は、たけしの創作で、実際は「こんばんは」のひと言だけだったそうだ。 当時の私は、プロレス中継をよく見ていた。タイガーマスク、アントニオ猪木、藤波辰巳。夢中になって試合を見ては技を覚え、翌週の月曜日には、教室の後ろで友だちと技の掛け合いをした。今思えば、よくケガをしなかったものだ(笑)。 ところが残念なことに、肝心の「こんばんは」の場面は覚えていない。覚えているのは、その後の猪木と木村軍団の数々の口論と試合だ。こちらは毎週、しっかりと見ていた。伝説の始まりの一言は見逃して、その続きに夢中になっていたことになる。 実はこの田園コロシアムでの乗り込みには、続きがあった。半月後の10月8日、新日本プロレスと国際プロレスの全面対抗戦が予定されていたのだ。その舞台が、蔵前国技館だった。 昭和47年の旗揚げから、昭和63年までの新日本プロレスを一冊にまとめた本です。「こんばんは事件」の頃の熱気が、当時のファンの目線で書かれています。 新日本プロレス50年物語 第1巻 昭和黄金期週刊プロレス編・流智美/ベースボール・マガジン社。新日本誕生の1972年から飛龍革命の1988年まで、昭和の新日本プロレスをたどる287ページ。星4.2(34件) Amazonで見る › 中学3年生の秋、蔵前の「蛍の光」 さらに3年進めて、昭和59年(1984年)9月23日。私は中学3年生、15歳になっていた。 この日、大相撲秋場所の千秋楽をもって、蔵前国技館が閉館した。 蔵前国技館の始まりは、戦後すぐにさかのぼる。戦前の両国国技館が占領軍に接収されたため、相撲協会は蔵前に仮設の国技館を建て、昭和25年の初場所から本場所を開いた。正式な開館は昭和29年。昭和25年から数えて35年近く、東京の本場所はずっと蔵前で行われてきた。 その最後の場所で優勝したのは、横綱でも大関でもなかった。西前頭12枚目の多賀竜。番付上位には北の湖、千代の富士、隆の里と3人の横綱が並ぶ場所で、平幕力士が賜杯を抱くという、まさかの幕切れだった。取組がすべて終わると、「蛍の光」が流れる中、力士と満員の観客がペンライトを振って別れを惜しんだという。 私は結局、蔵前国技館に一度も行く機会がなかった。相撲もプロレスも、いつもテレビの中の蔵前だった。当時いちばんのオシは、やはり千代の富士である。 中学野球を引退したあとのこの秋、私は高校受験に向けて勉強に励んでいた。それでも蔵前の閉館は、なんとなく覚えている。そして、多賀竜の優勝も記憶にある。横綱が3人もいる場所で、平幕が優勝をさらっていった。 翌年1月の初場所からは、隅田川の向こう岸、両国に完成した新しい国技館へと舞台が移った。 その両国国技館にも、私はまだ行ったことがない。ところが、そのまわりの道は、路線バスの乗務で幾度となく走っている。蔵前もテレビの中、両国も窓の外。考えてみれば、私はいつも国技館を「外から」見てきたことになる。 土地に残るもの 蔵前国技館の跡地は、いま東京都の下水道施設になっていて、「蔵前水の館」では国技館にまつわる展示も見られるそうだ。大きな建物がなくなっても、土地には、そこであったことの記憶が残っている。 そういえば同じ昭和59年、全国宅地建物取引業協会連合会が、「ふ(2)どう(10)さん(3)」の語呂合わせで、9月23日を「不動産の日」に定めている。 「土地」と聞いて、私が思い出すのは両親のことだ。子どもの頃から、両親が自分たちの土地と家を持つことに強いこだわりを持っていたのを感じていた。「子どもに家を残したい」とも言っていた。 ...

September 23, 2026

9月17日 ── 三振を「取らずに」投げた日。江夏豊が王貞治から奪った354個目|昭和の今日は何があった日?

九月十七日。昭和四十三年、一九六八年のこの日、甲子園球場で一人の投手が、三振を「取らない」ために投げ続けた。 阪神タイガースの江夏豊である。プロ二年目、まだ二十歳だった。 私が生まれるのは翌年の四月だから、この試合を私は知らない。それでも、中学で野球をしてマウンドに立った人間として、この日の江夏の話は、どうにも他人事とは思えないのである。 「354個目は王さんから取る」 当時のシーズン奪三振の日本記録は、西鉄の稲尾和久が持つ353個だった。江夏はこの年、その記録にあと少しというところまで迫っていた。 そして巨人戦を前に、江夏は「新記録の354個目は王さんから取る」と公言していた。 試合の途中、江夏は王貞治から三振を奪う。本人はこれで新記録だと思い込んだ。ところがベンチに戻ると、捕手の辻恭彦から、まだタイ記録だと指摘される。数え間違えていたのである。 普通なら、次の打者から三振を取れば済む話だ。だが江夏はそうしなかった。公言したとおり王さんから取るために、王の次の打席が回ってくるまで、ほかの打者から一つも三振を取らないと決めたのだ。 打者が一巡する間、ヒットは一本打たれたが、あとはすべて凡打に打ち取った。江夏が後年いちばん困ったと振り返っているのは、打つほうが本職ではない投手の高橋一三を、二球で追い込んでしまった場面だったという。三振を取りにいくより、三振させないほうが難しかったのである。 そして再び王が打席に入り、江夏は宣言どおり354個目の三振を奪った。しかもこの試合、延長十二回に江夏自身がサヨナラ打を放って決着をつけている。この年、江夏は最終的に401個の三振を積み上げた。 避けられていた王さん、向かっていった江夏 王さんの現役時代の姿は、私もはっきりと見ている。昭和五十二年、あの756号のホームランが飛び出したのは、ちょうど私が野球に夢中になり始めた頃だった。 ただ、江夏が王さんを「狙っていた」と聞いても、正直なところ、ぴんと来ない。私の記憶の中の王さんは、投手から狙われるどころか、むしろ避けられていた打者だったからだ。 そんな打者に、真正面から向かっていった投手がいた。それだけ江夏という投手が、傑出した存在だったのだろう。 江夏が節目の三振を王から取ることにこだわったのには、先輩の存在もあったらしい。阪神のエース村山実は、記録の節目の三振を長嶋茂雄から奪うことにこだわっていた。江夏もそれにならい、王を自分の相手と決めていたという。 江夏は生涯で王から57個の三振を奪っている。一方で、王に打たれたホームランも20本ある。避けずに勝負を挑み続けたからこそ、どちらの数字も残ったのだ。 もっとも、私の中の江夏豊は、阪神の縦縞ではない。広島カープの赤いユニフォームを着て、マウンドに立っている姿から始まっている。 その江夏豊さんが、自分の野球人生を語り残した一冊が今年出ました。王貞治とのライバル関係も、シーズン最多奪三振も、本人の言葉で読めます。 江夏の遺言江夏豊・松永多佳倫/小学館(2026年5月刊)。「日本プロ野球史上最高の左腕」が、王貞治との勝負や記録の裏側、球界での衝突まで語り尽くす。星4.3(39件) Amazonで見る › 全部の打者から三振を取るつもりだった 中学の野球部で、私はピッチャーをしていた。 当時の私は、全部の打者を三振に取ろうという思いで投げていた。もちろん、そううまく三振が取れるものではない。それでも、投手とはそういうものだと思い込んでいたところがあった。 そんな私からすると、江夏がやってのけたことは、ちょっと信じがたい。三振を取るつもりで投げても取れないのに、取らないように投げて、狙いどおりに打ち取っていく。それも中学生相手ではなく、プロの打者を相手に、である。 江夏の354個目が伝説として語られるのは、記録の数字そのものより、狙ったとおりに投げきったことにあるのだと思う。 江夏豊といえば、もうひとつの伝説があります。昭和54年の日本シリーズ第7戦、九回裏の「江夏の21球」。一球一球に何を狙っていたのかを描き切った短編が、この本に入っています。 スローカーブを、もう一球(角川文庫)山際淳司/KADOKAWA。「江夏の21球」を収めたスポーツ・ノンフィクションの金字塔。一瞬の勝負を切り取った8篇。星4.2(295件) Amazonで見る › 二十年後の同じ日、ソウルで 江夏の三振からちょうど二十年後、昭和六十三年の九月十七日。ソウルオリンピックが開幕した。 野球はまだ公開競技で、出場できるのはアマチュアだけだった。日本代表には、新日鉄堺の野茂英雄、トヨタ自動車の古田敦也、駒澤大学の野村謙二郎がいた。のちに三人とも名球会に入る選手である。日本は準決勝で開催国の韓国を破ったが、決勝ではアメリカの隻腕投手ジム・アボットに完投を許し、銀メダルに終わった。 この秋、私は十九歳の浪人生だった。 浪人中ではあったが、野球も、陸上の男子100メートルも、鈴木大地のバサロキックも、すべてテレビにかじりついて見ていた。100メートルで世界記録を出したベン・ジョンソンが、ドーピングで金メダルを取り消されたのも、この大会である。 開幕から二日後の九月十九日、昭和天皇が吐血し、日本は長い自粛の空気に包まれていく。今思えば、昭和という時代の最後の秋に、あのオリンピックはあった。 ソウルでアマチュアとして投げていた野茂英雄は、翌年近鉄に入り、のちに海を渡った。そして平成八年の九月十七日、ドジャースのユニフォームを着て、ロッキーズ相手にノーヒット・ノーランを達成している。九月十七日という日付には、なぜか投手の話が重なっている。 ...

September 17, 2026

9月14日 ── 緑のインクで、さよならを書く|昭和の今日は何があった日?

今日は9月14日。 バレンタインといえば2月14日である。ところがこの国には、もうひとつのバレンタインがあるのだという。 セプテンバーバレンタイン。 9月14日。2月14日のちょうど半年後にあたるこの日は、女性のほうから別れを切り出してもよい日、ということになっているらしい。 告白の日の半年後に、別れの日を置く。ずいぶん皮肉の効いた発想である。 正直に書いておくと、私はこの言葉を、今回はじめて知った。昭和44年に生まれて、昭和を丸ごと子どもとして過ごしてきたつもりでいたが、こういう抜け落ちがある。当時、学校で話されていたのだろうか。私のまわりでは一度も聞かなかった。 発祥は、深夜ラジオだった セプテンバーバレンタインの由来として広く語られているのが、TBSラジオで1967年(昭和42年)から1982年(昭和57年)まで放送されていた深夜番組『パック・イン・ミュージック』である。 愛川欽也さんや林美雄アナウンサーらがパーソナリティを務め、1970年代の若者から絶大な支持を集めた番組だった。12月25日のクリスマスに対して8月25日を「サマークリスマス」と呼ぶ習慣も、この番組から生まれたとされる。半年ずらして遊ぶのが、この番組の癖だったのかもしれない。 ただし、面白いのはここからだ。番組内でセプテンバーバレンタインについていつ、どんな文脈で言及されたのかは、はっきりしていないのである。発祥と言われているのに、その瞬間の記録がない。誰かが放送で言ったことが、聴いていた人たちの口を通って広まり、気がついたら「そういう日」として定着していた。 出所不明のまま残ってしまった習慣、というのが、いかにも深夜放送らしい。テレビと違って、ラジオは記録に残らないものだった。録音しなければ消えてしまう。それでも聴いていた人の中には、確かに残った。 関連して、シンガーソングライターの佐々木幸男さんが**1978年(昭和53年)**に『セプテンバー・バレンタイン』というシングルを発表している。別れをうたった曲である。記念日が先か歌が先か、それすらもよく分からないというのが、この日の正体だ。 「サマークリスマス」を生んだ林美雄さんと、『パック・イン・ミュージック』の時代を丸ごと描いたノンフィクションがあります。深夜のラジオが、なぜあれほど若者の居場所になっていたのか。聴いていなかった私にも、その空気が伝わってきました。 1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代(集英社文庫)柳澤健/集英社。TBSラジオの深夜放送と、そこに集まった若者たちの記録。「サマークリスマス」の誕生まで。星4.5(99件) Amazonで見る › 紫、白、緑 セプテンバーバレンタインには、細かい作法があるとされている。 別れたい女性は、紫色のものを身につけ、白いマニキュアを塗り、緑色のインクで書いた別れの手紙を、相手に直接手渡す。 いま読むと、ずいぶん芝居がかっている。けれど、ここに昭和が詰まっているとも思う。 まず、手紙であること。そして、直接手渡すこと。 昭和の別れは、逃げられなかった。電話をするか、手紙を書くか、会って言うか。そのどれもが、相手の顔なり声なりを引き受けることを意味していた。既読をつけずに放置する、という選択肢がない時代である。 手紙といえば、小学校から高校まで、何回かは女子から手紙をもらったことがある。下駄箱に入っていた、という経験もある。中身がどうだったかはさておき、思い返すと、手紙というのはなんかいいものだ。誰かが自分のために字を書いて、それを人に見つからないように運んだ、という事実だけが残る。 緑のインクで別れの手紙を書いた人が、実際にどれだけいたのかは分からない。たぶん、ほとんどいなかっただろう。それでも「そういう作法がある」という話だけがラジオを通じて全国の若者に共有されていた。そこが、この記念日のいちばん面白いところだと思う。 深夜ラジオとの、微妙な距離 では私自身が深夜ラジオの人間だったかというと、これがそうでもない。 クラスの友達が聴いていて、じゃあ自分も、と試しに聴いてみた。その程度である。番組名は、たぶん『オールナイトニッポン』だったと思う。そこからのめり込んだ記憶はない。かといって、まったく聴かなかったわけでもない。そういう微妙な距離感のまま、深夜放送の時代を通り過ぎた。 ちなみに恋愛の話のほうは、日常的にしていた。野球部だからそういう話をしない、ということはまったくなかった。誰が誰を気にしているという話は、いつでも教室にあった。もっとも、私個人の恋が実ったことは一度もなかったのだが。 深夜の放送と本当に長く付き合ったのは、むしろ大人になりかけの頃だ。浪人中、予備校には通わず、セブン-イレブンの夜勤を週4日やりながら自分で受験勉強をしていた。あの店内には有線放送が流れていた。お客さんが途切れたとき、本来店に流すべき曲とはまったく違うジャンルにチャンネルを変えて、ひとりで楽しんでいた。 いま思えば、あれが私なりの深夜放送だったのかもしれない。誰も聴いていない時間に、自分の好きな音だけが流れている。深夜ラジオを布団の中で聴いていた同級生たちと、やっていたことはそう変わらない。 布団の中で、こっそりイヤホンを耳に入れる。あの聴き方は、いまのポケットラジオでもそのままできます。単3電池で動いて、イヤホンも付いています。停電のときの備えにもなります。 パナソニック FM/AM 2バンドラジオ RF-P155(イヤホン付き・単3電池式)Panasonic。手のひらサイズのポケットラジオ。モノラルイヤホン・ハンドストラップ付き。星4.1(50件) Amazonで見る › 同じ日、広島市民球場では さて、9月14日にはもうひとつ、私の心に引っかかる出来事がある。 1968年(昭和43年)9月14日。広島市民球場、対大洋ホエールズ戦。 広島の外木場義郎投手が、完全試合を達成した。プロ野球史上10人目。一人の走者も出さず、27人を27人のまま帰した試合である。 しかも、この試合の外木場は尋常ではなかった。16奪三振。当時のセ・リーグタイ記録であり、2022年にロッテの佐々木朗希投手が19奪三振を記録するまで、完全試合における最多奪三振記録として残り続けた数字だ。9回は3人とも三振で締めている。 外木場という投手には、もうひとつ有名な逸話がある。1965年(昭和40年)、プロ初勝利をいきなりノーヒットノーランで飾った。そのとき将来性を危ぶむようなことを言った記者に対して、「なんなら、もう一回やりましょうか」と言い放ったという。そして3年後、その言葉どおりに2度目を——それも完全試合という形で——やってのけた。生涯3度のノーヒットノーラン、うち1度が完全試合。この記録を持つ投手は、いまだに外木場義郎ただ一人である。 正直に書くと、私は名前を知っていただけだった。カープの昔の投手、完全試合をやった人。それ以上のことは、今回調べるまで知らなかった。こんなにすごい投手だったのかというのが、まずの感想である。 ...

September 14, 2026

九月十三日が三度あった ― ちばあきお、スーパーマリオ、南海ホークス|昭和の今日は何があった日?

9月13日という日付を、昭和40年から64年までの範囲で洗っていたら、妙なことに気づいた。 三つの出来事が、私の15歳、16歳、19歳に、きれいに並んで刺さっていたのだ。中学3年、高校1年、そして浪人。要するに、子どもが子どもでなくなっていく数年間である。 しかも三つとも、どこかで「終わり」の匂いがする。今日はこの三つを、順番に並べてみたい。 昭和59年9月13日 ― 墨谷二中を描いた人 昭和59年、1984年9月13日。漫画家のちばあきおが亡くなった。41歳だった。晩年は病を抱えていたと伝えられ、最期は自らの手によるものだった。そのことについては、これ以上は書かない。 代表作は『キャプテン』と『プレイボール』。説明はいらないだろう。墨谷二中という、どこにでもありそうな公立中学の野球部の話だ。谷口、丸井、イガラシ、近藤と、四代のキャプテンが順に主人公になっていく。その高校編が『プレイボール』である。二作合わせて昭和51年度の小学館漫画賞を受けている。兄は『あしたのジョー』のちばてつやだ。 あの漫画の変わっているところは、天才がひとりも出てこないことだった。 谷口タカオは、うまくない。名門・青葉学院から転校してきたという経歴だけで「すごいやつが来た」と勘違いされ、その誤解に押しつぶされそうになりながら、誰も見ていないところで走り込む。血を吐くような特訓の場面があるわけでもない。ただ、黙って練習している。そういう漫画だった。 絶筆になった『チャンプ』は連載の途中で止まり、最終回はチーフアシスタントが下絵をもとに仕上げて掲載された。 私はそのとき中学3年。墨谷二中の彼らと、ちょうど同じ学年だった。 野球部で、ピッチャーとショートをやっていた。公立中学だが、練習はかなりハードで、伝統的にわりと強い学校だったと思う。上下関係ははっきりしていて、先輩からの理不尽な行為も受けた。先生も日常的にケツバットやビンタをしていた。いまなら完全にアウトだが、そういう時代だった。 『キャプテン』は中学1年から単行本で真剣に読んでいた。テレビアニメも見た。そして、思いっきり重ねていた。 葛飾には修徳という強豪の私立中学がある。私の中では、自分の学校が墨谷二中で、修徳が青葉学院だった。あの漫画の構図が、そのまま自分の住んでいる区の地図の上に乗っていたわけである。公立が私立に挑む話として読んでいたのだから、当然といえば当然だ。 だから訃報も知っていた。覚えているのは、悲しさよりも先に「本当に?」という気持ちが来たことだ。谷口たちを描いている人が、この世からいなくなるという実感が、15歳の頭では追いつかなかったのだと思う。 中学1年の私が真剣に読んでいた、あの一巻目です。青葉学院から来た谷口が、誤解のまま墨谷二中の野球部に入るところから始まります。いま読み返しても、派手な場面はほとんどありません。だから読み返せるのだと思います。 キャプテン 1(集英社文庫 コミック版)ちばあきお/集英社。墨谷二中野球部、四代のキャプテンの物語。昭和51年度 小学館漫画賞。文庫版全15巻。星4.4(320件) Amazonで見る › 昭和60年9月13日 ― ブームの外にいた高校1年生 その一年後、昭和60年、1985年9月13日。任天堂がファミリーコンピュータ用ソフト『スーパーマリオブラザーズ』を発売した。 国内だけで約681万本。ファミコンソフトの売上記録は、いまだにこれが1位だという。世界では4000万本を超えた。 それまでの家庭用ゲームは、一画面の中で完結するものが多かった。この作品は違った。右へ、右へと画面が流れていく。ジャンプして敵を踏み、ブロックを叩き、土管にもぐる。操作は十字キーと二つのボタンだけ。誰でもすぐ動かせるのに、どこまでも先がある。 ファミコン本体が店頭から消え、入荷の噂が立てば行列ができた。攻略本はその年のベストセラーになった。 私は16歳、高校1年だった。 そして、何の記憶もない。 家にファミコンはなかった。野球に夢中で、そもそもファミコンに興味がわかなかったのである。日本中の子どもが土管にもぐっていたその秋、私はグラウンドにいた。ブームというのは、外にいる人間からは案外よく見えないものだ。 いま思えば、あれは子どもの遊び方が変わる分かれ目だったのだろう。中川の土手や線路沿いを走り回って日が暮れるまで遊ぶ、という時代が終わりかけていた。ただ、その分かれ目を私は知らずに通り過ぎた。理由は単純で、ボールを追いかけるほうが面白かったからだ。 昭和63年9月13日 ― ホークスが大阪を出ていく さらに三年後、昭和63年、1988年9月13日。ダイエーの中内㓛社長が、南海からホークスを買収する意向を明らかにした。 この年、南海ホークスは球団創設50周年を迎えていた。4月23日、「おれの目の黒いうちはホークスは売らん」と公言していた川勝傳オーナーが亡くなる。それから半年も経たないうちに、身売りが表に出た。本拠地は大阪球場から福岡へ移ることになる。 結果として、この昭和63年が南海ホークスとしての最後のシーズンになった。皮肉なことに、この年の南海には見るべきものがあった。門田博光が40歳で44本塁打、125打点。本塁打王と打点王の二冠に加えてMVPまで獲っている。チームは5位に終わったが、あの打球の音だけは最後まで鳴っていた。 南海としての本拠地最終戦、杉浦忠監督は「長嶋君ではありませんがホークスは不滅です。ありがとうございました、行ってまいります」とあいさつした。門田はその後、九州行きを拒んでオリックスへ移籍している。 この同じ秋、10月には阪急ブレーブスもオリエントリースへ売却された。パ・リーグの老舗が二つ、ひと月のあいだに看板を下ろしたことになる。 私は19歳。浪人中だった。 予備校には通っていない。セブン-イレブンの夜勤を週に4日入れながら、自分で受験勉強を進めていた。情報源はテレビと、店で売っているスポーツ新聞である。深夜のレジで、売り物の一面をちらりと見る。そういう形でこのニュースを知った。 ...

September 13, 2026

8月30日 ── 世界の王が「800」に届いた日|昭和の今日は何があった日?

昭和53年(1978年)8月30日。水曜日でした。 夏休みは、あと2日。9歳、小学3年生の夏の終わりです。 その日の昼間、私が何をしていたかといえば、たぶんプールに行ったか、路地で野球をしていたか、セミを追いかけていたか。宿題のことも気にはなっていたはずですが、それ以上に「今日、何して遊ぶ?」で頭がいっぱいの毎日でした。 そして、その日の夜。私はテレビの前にいました。 後楽園球場で、ひとつの数字が動いた夜です。 800。 1回、大川浩から 相手は横浜大洋ホエールズでした。この年、大洋は川崎から横浜に本拠地を移し、チーム名も「横浜大洋ホエールズ」に変わったばかりでした。 1回。マウンドにいたのは大川浩投手。王貞治がその球を捉え、打球は後楽園のスタンドへ飛び込みました。通算800号ホームラン。 試合が始まってすぐの、あっけないような一発でした。もっとも、王貞治のホームランというのは、たいていそういうものだったのかもしれません。物語のクライマックスのように打つのではなく、ごく普通の顔をして、当たり前のように打つ。そういう打者でした。 このとき王は38歳。プロ20年目のシーズンです。 テレビの前にいた9歳 私は、その瞬間をリアルタイムで見ていました。 9歳の私が「800号」という数字の持つ本当のすごさを理解していたかというと、正直、そんなことはありません。それでも「王さんが800本打った」ということが、とてつもない記録なのだということは、子どもなりに分かっていたと思います。 当時の私にとって、王さんはテレビの中にいる特別な存在でした。巨人の4番で、ホームランを打つのが当たり前のような人。「王さんなら打つでしょ」という感覚も、どこかにはあったのかもしれません。 ただ、この800号だけは、それまでの「ホームランをたくさん打つ王さん」とは少し違って見えました。800本。子どもにも分かりやすい、大きくて、きれいな数字です。「すごいことをやったんだな」という印象が、いまも強く残っています。 新聞やニュースで後から知ったのではなく、テレビでその瞬間を見ていた。振り返ってみると、これはずいぶん貴重な記憶です。 「800」という数字が持っていた重さ いま「800本」と聞いても、実感がわきにくいかもしれません。何しろその後、王自身が868本まで積み上げてしまったからです。800はあくまで通過点で、記録としては868のほうが有名になりました。 けれど、あの当時の800には、独特の手ざわりがありました。 前の年、昭和52年(1977年)9月3日に、王はハンク・アーロンの記録を抜く通算756号を放っています。世界新記録でした。その2日後の9月5日には、第1回の国民栄誉賞を受けています。この賞は、王を表彰するために新しく作られたようなものでした。 つまり、王貞治はすでに「世界一」だったのです。ゴールテープはもう切っていた。それなのに、そこから1年足らずで、さらに44本を積み増して800に届いた。 昭和の子どもにとって、王貞治は「記録を作る人」ではありませんでした。「記録が、あの人の後ろからついてくる人」でした。誰も走っていない道を、ひとりで先へ先へと進んでいく。800という切りのいい数字は、そのことをあらためて教えてくれる数字だったのだと思います。 その道を、本人の言葉でたどれる一冊があります。早実の投手だったころから、打者への転向、一本足打法、そして世界記録まで。当時テレビの前にいた側からすると、答え合わせのような本です。 もっと遠くへ(私の履歴書)王貞治/日本経済新聞出版。早稲田実業のエースだった少年時代から、巨人V9、一本足打法、ハンク・アーロン超えまでを本人が語った自伝。星4.4 Amazonで見る › 中継が終わってからが、私の時間だった 当時のナイター中継は、9時前に終わってしまうこともありました。試合はまだ続いているのに、画面が切り替わってしまう。あれが子どもには耐えられませんでした。 だから、中継が終わると布団に入り、イヤホンを耳に突っ込んで、ラジオで続きを聴くのです。家族に聞こえないように、小さな音で。親に叱られた記憶は、不思議とありません。 布団の中で目を閉じて、アナウンサーの声だけを頼りに試合を追う。テレビで見た場面を思い出しながら、「今、どうなっているんだろう」「巨人は勝っているかな」と想像していました。私にとって後楽園球場は、映像であると同時に、あの「音」でもあったのです。 そして、あの年の巨人の打順は、いまでも口をついて出てきます。 1番・センター柴田勲。2番・セカンド土井正三。3番・レフト張本勲。4番・ファースト王貞治。5番・ライト柳田真宏。6番・サード高田繁。7番・ショート河埜。8番・キャッチャー吉田孝司。9番・ピッチャー堀内恒夫。 こうして並べてみると、本当にすごい面々です。柴田選手から始まって、張本選手、王選手と続く打線には、子ども心にも迫力がありました。私がいちばん好きだったのは、やはり王さん。それから、柴田選手の俊足と、堀内投手のピッチングにも憧れていました。 そして長嶋茂雄さんは、このときすでに監督でした。私は長嶋さんの現役時代を詳しく知りません。「昔の巨人の大スターで、今は監督をしている人」という印象でした。その一方で、王さんはまだグラウンドに立ち、4番を打っていた。 長嶋さんが巨人の歴史を象徴する人だとすれば、王さんは、その歴史をいまもグラウンドで続けている人。9歳の私の中で、ONはそういう二人でした。 翌日の路地は、全員が一本足になる 王貞治の一本足打法は、昭和の子どもにとって「真似するもの」でした。 家の前の、幅4メートルほどの路地。プラスチックのバットとビニールボール。細かいローカルルールで成り立っていた、あの野球です。あそこで右足を高く上げてみた子どもは、日本中に何百万人といたはずです。もちろん、上げたところで当たりません。ぐらぐらして、空振りして、笑われて終わりです。 それでも、やりました。特に、王さんが前の晩にホームランを打った翌日は、絶対にやりました。誰に言われるでもなく、その日の路地はみんな一本足になるのです。 だとすれば、800号の翌日、8月31日の路地の光景も、想像がつきます。夏休み最後の日、宿題を積み残した小学生たちが、全員そろって右足を上げていた。当たらなくても、いいのです。あの形をとった瞬間だけ、自分が王貞治になれたのですから。 そして、優勝はヤクルトのものになった ここから先は、巨人ファンにはあまり楽しくない話です。 昭和53年の巨人は、長嶋監督の4年目。8月が終わった時点で首位に立っていました。2位ヤクルトとは1.5ゲーム差。8月下旬には一時4.5ゲーム差をつけ、優勝マジックの点灯目前まで迫っていたのです。 王が800号を打ったのは、まさにその、いちばん高いところにいた時期でした。 ところがそこから、チームは坂を転げ落ちるように失速します。3試合連続サヨナラ勝ちで勢いづくヤクルトとは対照的に、巨人は下位相手に取りこぼしを重ねた。10月4日、優勝を逃すことが決まりました。日本一になったのは、広岡達朗監督のヤクルト。球団創立以来、初めての優勝でした。 あの驚きは、いまも覚えています。万年弱小と言われていたヤクルトが、広岡監督のもとで優勝してしまった。子どもの世界の常識が、ひっくり返ったような出来事でした。 そして王さんは、この2年後、昭和55年(1980年)11月4日に現役を引退します。通算868本。 「まだ早い。もっと見ていたい」 それが、当時の正直な気持ちでした。800号を打ったあの夜からたった2年で、テレビの中の4番打者がいなくなってしまう。子どもだった私には、うまく飲み込めませんでした。 800号は、坂の頂上で打たれた一本だったのです。 800という数字を、いま数え直す 大人になって、この数字を別の角度から見るようになりました。 いま、私の子どもが野球をやっています。その姿を見ているからこそ、800号という数字が、当時以上にとんでもないものに感じられるのです。 子どもが一本ホームランを打つだけで、親は大騒ぎです。練習をして、試合に出て、何十打席、何百打席と積み重ねて、その中でようやく一本が出る。それを800本。 ...

August 30, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月19日──20番乗り場と、祭壇のサインボール

書くかどうか、少し迷った日 このシリーズは、駄菓子やテレビ番組や野球の話が多い。子どもの目線でながめた昭和を、なるべく軽やかに書きたいと思ってやってきました。 でも8月19日を調べていて、どうしても素通りできない出来事に行き当たりました。しかもそれは、いまの私の仕事そのものに関わる出来事で、そして、私が四十六年ものあいだ忘れられずにいた出来事でもありました。 1980年(昭和55年)8月19日、火曜日。夜9時過ぎの、新宿駅西口バスターミナル。 20番乗り場 その日、京王帝都電鉄(現在の京王電鉄。バス事業はのちに分社化されました)が運行する中野車庫行きの路線バスが、20番乗り場で発車を待っていました。車内には30人ほどのお客さんが乗っていたといいます。 そこに、一人の男が後部ドアからガソリンの入ったバケツと火のついた新聞紙を投げ入れました。 火は一瞬で燃え広がり、6人が亡くなり、14人が重軽傷を負いました。 犯人は当時38歳。駅前の階段で酒を飲んでいたところを誰かに注意され、腹を立てて犯行に及んだと供述しています。それだけです。乗っていた人たちは、誰一人その男と関わりがなかった。ただ、家に帰るためにバスに乗っていただけでした。 私は事件の詳しい様子をここに書きません。調べているあいだ、何度も画面を閉じました。ただ一つだけ、どうしても書いておきたいことがあります。 亡くなった方の中に、後楽園球場で行われた巨人対ヤクルト戦を観戦した帰りの父子がいました。お父さんは40歳、息子さんは8歳でした。 祭壇に置かれたサインボール 私は、この事件を覚えています。 ナイター観戦帰りの父子が巻き込まれたというニュース報道は、11歳の私にとっても衝撃的でした。そして、その少年は大の巨人ファンで、とりわけ王貞治選手が好きだったと報じられていました。 事件を聞いた後楽園スタヂアムと巨人軍は、父子の告別式に花を贈りました。そして王貞治さんが、球団関係者を通じて祭壇にサインボールを届けたことが報道されました。 はっきり覚えているのは、たぶんそのせいです。野球のニュースと事件のニュースが、あの夏、一本につながってしまった。 書きながら気づいたことがあります。1980年は、王貞治の現役最後の年でした。その年の11月、王さんは868号を残してユニフォームを脱いでいます。あの少年が最後に球場で見たのは、引退を目前にした王貞治だったということになります。 8歳の帰り道 一昨日、私はこのシリーズで「プロ野球ナイター記念日」の記事を書きました。布団の中でトランジスタラジオに耳を当てて巨人戦を聴いていた、小学生の私の話です。後楽園のナイターは、当時の私にとって手の届かない場所でした。行きたくてたまらなかった。 その記事を書いた二日後に、この事件に行き当たったわけです。 1980年の夏、私は11歳、小学5年生。あの少年は8歳、小学3年生でした。三つしか違わない。 お父さんに連れられて後楽園に行けたあの子は、私からすればうらやましくてたまらない子どもだったはずです。ナイターの帰り道、まだ興奮が残る頭で、眠い目をこすりながらバスに揺られていた。それは私が心の底から欲しかった時間そのものでした。 その帰り道が、途中で断ち切られた。 法律に「バス」は書かれていなかった この事件では、思わぬところで法律の穴が見つかりました。 刑法108条には、人がいる建造物や汽車、電車、船に火をつけた場合の重い罪が定められています。ところが、その条文に「バス」という言葉はなかった。バスは電車に準ずるものとして108条を適用すべきだという意見も出ましたが、判例がなく学説も分かれていたため、結局は110条の建造物等以外放火罪で起訴されることになりました。 もう一つ。亡くなった方の中に、勤め先からの帰りに子どもの運動靴を買うため、たまたま新宿に立ち寄った母子家庭のお母さんがいました。通常の帰宅経路から外れた場所での被害は労災と認められないのが当時の通例でしたが、この件では当時の労働大臣の発言もあって労災が認定されています。 そして京王帝都電鉄は、自社に落ち度のある事件ではなかったにもかかわらず、全社員に献血を呼びかけ、被害者の医療費を一時立て替えるなどの対応を全社を挙げて行いました。 一つの事件が、法律の言葉づかいと、働く人の補償と、事業者の姿勢を、いっぺんに問い直させたわけです。 8月19日は「バイクの日」でもある 少し空気を変えます。 8月19日は「バ(8)イ(1)ク(9)」の語呂合わせで「バイクの日」でもあります。制定は1989年、昭和64年=平成元年の夏でした。厳密には昭和の出来事ではありませんが、その背景にあったのは、まぎれもなく昭和の空気です。 私が中学生・高校生だったころ、夜になると爆音を鳴らして集団で走る「暴走族」がまだ存在していました。中学の先生は、生徒がそういうものに興味を示さないようにと、日ごろから「バイクにはさわるな!」と叫んでいました。触るな、です。乗るな、ですらない。 そして1982年(昭和57年)、全国高等学校PTA連合会が仙台大会で「三ない運動」を決議します。「免許を取らせない」「乗せない」「買わせない」。地域によっては「車に乗せてもらわない」を足した「四ない運動」、さらに「親は子どもの要求に負けない」まで加わったところもありました。 私が高校生だったのは1985年から1987年。まさに三ない運動の真っただ中で、私の高校の校則にもそれに近い内容が入っていました。ただ、都立高校だったこともあってか、そこまで厳格に守らせるわけではなく、登下校にバイクを使うこと以外にはかなり寛容だったのです。 ノーヘルで走っていた一年 正直に書きます。私は高校入学後まもなく原付免許を取り、原付バイクを買って、学校関係以外では乗り回していました。 当時はまだ、原付にヘルメット着用の義務がありませんでした。原付を含むすべてのバイク・すべての道路でヘルメット着用が義務化されたのは1986年(昭和61年)7月です。私が高校に入ったのが1985年の春ですから、ちょうど一年ちょっとのあいだ、私は法律上ノーヘルで走れたことになります。 いま思えば、ぞっとします。あのころの自分の頭は、風を切って気持ちよかった、としか記憶していません。 そして同時に思うのは、禁止することと教えることは別だ、ということです。危ないから遠ざける。触るな、と叫ぶ。それは大人にとっていちばん楽な方法でした。実際、私のように隠れて乗る高校生はいなくならなかったわけです。 三ない運動は2010年代に全国的な運動としては役目を終え、いまは「乗せて教える」方向へ舵を切った自治体もあります。半世紀近くかかりましたが、そちらのほうが筋が通っている気がします。 いまは自転車も、ヘルメットが努力義務になりました。あのころノーヘルで走っていた人間が言うのもなんですが、頭は一つしかありません。自転車用なら、帽子に近い形で違和感の少ないものも出ています。 OGK KABUTO 自転車ヘルメット キャンバスアーバン(M/L 57-59cm・JCF推奨)オージーケーカブト。自転車ヘルメットの定番メーカーで、見た目はキャップに近いアーバンタイプ。レビュー2,300件超・星4.3 Amazonで見る › 20番乗り場は、いまもある 事件の現場となった新宿駅西口バスターミナルの20番乗り場は、いまも中野方面へ向かうバスが使っています。 ...

August 19, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月17日──布団の中で聴いた、9回裏

今日は8月17日。夏の夜が、いちばん濃くなる頃だ。 昭和の子どもにとって、夏の夜といえば、まだ寝たくない時間だった。窓を開け放てば、扇風機の風、遠くの花火の音、そしてどこかの家から漏れてくるナイター中継の実況の声。それが、夏の夜の空気だった。 きょう8月17日は、その「ナイター」が日本のプロ野球に初めて灯った日、プロ野球ナイター記念日である。昭和23年(1948年)のこの日、日本の野球は初めて「夜」を手に入れた。 そしてそれから30年後の夏、小学3年生だった私は、その「夜の野球」を、布団の中で、イヤホン越しに聴いていた。 日本の野球が、夜を手に入れた日 昭和23年8月17日、横浜の球場で、日本プロ野球史上初のナイトゲームが行われた。カードは、東京巨人軍対中日ドラゴンズ。 会場は、当時「横浜ゲーリック球場」と呼ばれていた球場だ。終戦から3年、この球場は進駐軍に接収され、大リーグの名選手にちなんで「ルー・ゲーリック・スタジアム」と改称されていた。そして他の球場に先駆けて照明設備が設けられていた。とはいえ、それは駐留部隊の兵士が余暇に野球を楽しむためのもので、決して明るいものではなかったという。 出場した選手のうち、ナイトゲームを経験したことがあるのは、巨人の2人の選手と、2人の審判だけ。昭和11年の渡米時に体験しただけで、あとの全員が初めての夜間試合だった。 連盟は慎重だった。この日の横浜の日の入りは午後7時29分。薄暮の、いちばん白球が見えにくい時間帯を避けるため、空が完全に真っ暗になる午後8時8分まで、あえて試合開始を遅らせている。夜の野球に、誰もがまだ手探りだった。 球場には2万人の観衆が詰めかけた。入りきれないファンのために、グラウンド内にまで特設シートが作られたというから、その熱気が伝わってくる。 だが、案の定というべきか、暗さは試合に影を落とした。1回裏、巨人の青田昇は、速球が見えにくかったのか、顔面に死球を受けて退場。8回裏には、川上哲治の当たりを照明の暗さで審判がとっさに見極められず、判定をめぐって試合が10分間も中断したという。 試合は3対2で中日が競り勝った。 もう一つ、忘れがたい逸話がある。試合の前日、海の向こうでベーブ・ルースが亡くなっていた。そのため日本初のナイターは、球場全体でルースに黙祷を捧げるところから始まっている。「ナイター」という和製英語が定着するのは、実はこの2年後のことだったというが──ともあれ、日本の夜の野球は、こうして薄暗い照明の下から始まった。 夜の野球は、いつも途中で終わった それから30年。昭和53年(1978年)の夏、私は小学3年生になっていた。 このころには、テレビをつければ、どこかのチャンネルで必ずプロ野球中継をやっていた。もちろん、葛飾の野球少年だった私が観るのは、読売ジャイアンツ一択である。 ところが、子どもにとって、テレビのナイター中継には一つの大きな「壁」があった。 放送が、試合の途中で終わってしまうのだ。 当時のテレビ中継は、だいたい午後9時前後にきっちり終わる。試合がまだ7回だろうが8回だろうが、放送時間が来れば画面はぷつりと切り替わり、次の番組が始まってしまう。競った展開のまま「この続きは……」と放り出される、あの無情さ。夜の野球は、子どもにとって、いつも最後まで見せてもらえないものだった。 その悔しさを埋めてくれたのが、トランジスタラジオだった。 3年生のとき、誕生日のプレゼントに、手のひらに収まる小さなトランジスタラジオをもらった。テレビ中継が切れても、ラジオならまだ試合をやっている。それに気づいてからの私は、夜になると布団に入り、ラジオを枕元に置いて、イヤホンを片耳に差し込み、ジャイアンツ戦の続きを聴くようになった。 真っ暗な部屋で、布団にくるまって、耳の奥だけに、実況の声とスタンドのざわめきが響いている。家族と観るのとはまた違う、自分ひとりだけの野球中継。あの時間が、たまらなく好きだった。 そのまま、試合の途中で眠ってしまった夜も、何度もあった。それでも困ることはなかった。朝、目が覚めれば、新聞のスポーツ欄で結果を知ることができたからだ。ゆうべ聴きながら寝落ちしたあの試合がどうなったのか、朝刊で確かめるのも、一日の楽しみだった。 しかも、あの昭和53年の夏の巨人は、ただの巨人ではなかった。この年、ジャイアンツは首位を走っていた。8月下旬には2位ヤクルトに4ゲーム半もの差をつけ、優勝目前まで迫っていたのだ。(結局この年は終盤に失速し、球団初優勝を遂げたヤクルトに優勝をさらわれるのだが──それはまだ、夏の私の知らない秋の話だ。) 首位を走るジャイアンツを毎晩、布団の中で追いかける。あの夏の熱を、私は今でも覚えている。だからだろうか、あのころの打順は、今でもすらすら口をついて出てくる。 1番・センター 柴田 2番・セカンド 土井 3番・レフト 張本 4番・ファースト 王 5番・ライト 柳田 6番・サード 高田 7番・ショート 河埜 8番・キャッチャー 吉田 9番・ピッチャー 堀内 我ながら、よく覚えているものだと思う。学校の勉強はとっくに忘れてしまったのに、この9人の名前と守備位置だけは、40年以上たった今も順番どおりに出てくる。布団の中でイヤホン越しに何度も聴いた名前は、頭ではなく、体のどこかに刻まれているのだろう。 いまも、手のひらに収まるラジオは売られている。ワイドFM対応で、イヤホン付き。単4電池2本でイヤホン使用なら150時間以上もつというから、あのころより性能はずっと上だ。枕元に置くのはもちろん、災害のときにも役に立つ。 オーム電機 AudioComm AM/FMポケットラジオ RAD-P212S-S(イヤホン付属)幅55×高さ92mmの手のひらサイズ。ワイドFM対応、イヤホン付属、単4電池2本でイヤホン使用時AM約155時間。防災用の備えとしても Amazonで見る › 球場のナイターは、もっと遠かった テレビとラジオでこれだけ夢中になっていたのだから、当然、本物の球場でナイターを観たくてたまらなかった。 だが、後楽園球場のナイターへは、小学生の私にも、中学生の私にも、行くことはできなかった。 ...

August 17, 2026

意味も分からないまま、私も頭を下げた──8月15日、甲子園の正午のサイレン|昭和の今日は何があった日?

夏の甲子園には、年に一度だけ、不思議な瞬間があります。 試合の途中で、突然プレーが止まる。場内アナウンスが流れ、サイレンが鳴り、選手も審判も、スタンドの何万人もが、いっせいに帽子を取って頭を下げる。実況の声も消える。あの騒々しい球場から、音がなくなるのです。 8月15日、正午。 正直に言うと、私は毎日欠かさず大会中継を見ているような子どもではありませんでした。ですから、あの一分間に立ち会ったのも、たまたまです。8月15日の昼、たまたまテレビをつけていて、たまたま試合が映っていた。そういう出会い方でした。 たいてい、一人で見ていました。 そして、サイレンが鳴って画面の中の時間が止まったとき、小学生の私も、テレビの前で一緒に頭を下げたのです。 誰かに言われたわけではありません。何のために下げているのかも、たぶん分かっていませんでした。それでも、頭は下がった。 サイレンが鳴りはじめたのは、昭和38年から 甲子園のあの黙祷は、いつから始まったのか。 調べてみると、1963年(昭和38年)の第45回大会からでした。8月15日は終戦の日にあたるため、正午前にプレーを中断し、正午ちょうどに選手・審判員・観客の全員で一分間の黙祷を捧げる。サイレンも鳴らす。以来、大会日程がこの日にかかる年は、ずっと続けられてきました。 なぜ昭和38年からなのか。理由があります。同じ1963年、東京でも8月15日に政府主催の追悼式が行われるようになったからです。 全国戦没者追悼式そのものは、それ以前にもありました。第1回は1952年(昭和27年)5月2日、新宿御苑。日付も場所も、まだ定まっていません。それが1963年に日比谷公会堂で8月15日に開かれ、翌1964年(昭和39年)は靖国神社、そして1965年(昭和40年)から東京・九段の日本武道館へ。以来この式典は、一度も途切れることなく毎年8月15日に続いています。 正午の時報を合図に、武道館では参列者全員が起立して一分間の黙祷を捧げる。ちょうど同じ時刻、兵庫県西宮市の甲子園球場では、球児たちが帽子を脱いで頭を下げている。 つまり、この連載が扱う昭和40年から64年という時代は、「8月15日の正午に、日本中がいっせいに黙る」という習慣が固まり、あたりまえになっていった時期とぴたりと重なります。1969年(昭和44年)生まれの私にとって、それは物心ついたときにはすでに完成していた、動かしがたい夏の風景でした。 だから私は、何も教わらないまま、頭を下げることだけを覚えたのだと思います。 なぜ、よりによって野球なのか 「その日は日本中で黙祷するのだから、球場だけが特別なわけではないだろう」と思われるかもしれません。 ただ、甲子園と8月15日の縁は、実はかなり深いのです。 戦争が激しくなるなかで、夏の全国大会は1941年(昭和16年)を最後に中止されました。当時は中等学校野球。グラウンドに立っていたはずの若者たちは、次々と戦地へ送られていきました。 その大会が復活したのが、終戦からちょうど一年後——1946年(昭和21年)8月15日です。しかも会場は甲子園ではありませんでした。甲子園球場はGHQに接収されていたため、代わりに西宮球場で開かれています。 物資は何もない時代です。ボールは破れたら縫って使い、折れたバットにはテープを巻いて再利用する。ユニフォームは戦前のものを真似て選手が自分で縫った。全国から集まった代表校はそれぞれ米などの食料を持参して大会に臨み、勝ち進むと滞在が延びて食料が尽きる、と心配したという話まで残っています。 甲子園の正午の黙祷が昭和38年に始まったとき、関係者のなかには、この1946年の夏を身をもって知っている人が大勢いたはずです。あのサイレンは、単に国の行事に合わせただけのものではなかったのだろうと思います。 合宿の真ん中にあった、8月15日 さて、私自身の8月15日です。 高校に入ってからの三度の夏、この日は毎年、決まって野球部の合宿の最中でした。しかも合宿地は長野県です。世間がお盆で帰省したり墓参りをしたりしているその時期に、私たちは葛飾を離れ、信州でボールを追っていたわけです。 1985年(昭和60年)、1年生。この夏の私は足を骨折していて、合宿はほぼ見学でした。 1986年(昭和61年)、2年生。先輩が引退し、新チームの一員として迎えた夏です。 1987年(昭和62年)、3年生。7月の東東京大会で敗れてすでに引退した身で、OBとして合宿の手伝いに入っていました。 三年とも、8月15日の正午は合宿の中にありました。 ところが——黙祷をした記憶が、まったくないのです。 サイレンが鳴った覚えもなければ、監督が集合をかけた覚えもない。テレビの前の小学生だった私は頭を下げていたのに、実際にユニフォームを着てグラウンドに立っていた高校生の私には、その記憶がない。 不思議なものだと思います。甲子園では、まさにその同じ時刻に、球児たちが帽子を取って頭を下げていたはずなのです。あの中に入りたくてボールを追っていた私は、その一分間に加わることのないまま、長野の山あいのグラウンドで汗をかいていた。 近づくほど、遠くなった もうひとつ、正直に書いておきたいことがあります。 甲子園は、私にとってずっと憧れの目標でした。テレビの向こうにある、いつかたどり着きたい場所。 ところが、2年生になって新チームが動きだし、「一年後には自分たちの番だ」となったとき——甲子園は、むしろ遠い存在に感じられるようになったのです。 近づいたはずなのに、遠くなった。 いま振り返ってみて思うのは、自分のいる場所に対する現実感がそうさせたのだろう、ということです。憧れているうちは、距離は測らなくていい。けれど自分が挑戦者の側に立った瞬間、その距離が実寸で見えてしまう。東東京の球場からあの銀傘までが、何段跳びなのかが分かってしまう。 夢が目標に変わると、そこには初めて「届くか、届かないか」という物差しが当てられます。物差しを当てた瞬間に、夢は少しだけ痩せる。 たぶん、これは野球に限った話ではないのだと思います。 正午に、走っている いま、私は路線バスのハンドルを握っています。 この仕事をするようになって気づいたことがあります。8月15日の正午に、私はしばしば、動いているのです。 ダイヤは終戦の日だからといって止まりません。正午に交差点で信号待ちをしていることもあれば、乗客を乗せて次の停留所へ向かっている最中のこともある。目を閉じて頭を下げるわけには、当然いきません。ハンドルを握っている人間に、黙祷はできないのです。 工場のラインも、病院も、鉄道も、きっと同じでしょう。日本中がいっせいに黙るといっても、実際には誰かが動き続けている。動き続けている人がいるからこそ、ほかの誰かが安心して一分間、目を閉じていられる。 そう考えると、甲子園が試合を止めるというのは、なかなかすごいことです。何万人もが集まった真夏の球場で、興行を、勝負を、一分だけ完全に止めてしまう。あれを昭和38年から毎年きっちり続けているというのは、決して簡単なことではないはずです。 21番ゲートの前を、私は何度も通っていた この記事を書くために調べていて、初めて知ったことがあります。 1981年(昭和56年)4月、当時の後楽園球場の脇に「鎮魂の碑」という碑が建立されていました。太平洋戦争などで戦死したプロ野球選手の名を刻んだ碑です。中心になって動いたのは、セントラル・リーグ会長だった鈴木龍二さん。戦前の職業野球の時代からこの世界にいて、選手たちを戦地へ送り出し、戦死の報せを受け取ってきた人でした。八十代半ばになってなお、戦死した選手をそのままにはしておけない、という思いが消えなかったといいます。 ...

August 15, 2026

同じ8月9日、二年続けて──近藤真一と、私の抜け殻の夏|昭和の今日は何があった日?(8月9日)

「や(8)きゅう(9)」の日 8月9日は「野球の日」だそうです。「や(8)きゅう(9)」の語呂合わせと、ちょうど全国高校野球選手権大会の期間中で野球への関心がいちばん高まる季節だから、という理由でスポーツ用品メーカーの直営店が制定したものです。制定は平成6年ですから、昭和の子どもだった私にとっては、後から知った新しい呼び名にすぎません。 それでも、この語呂合わせを考えた人は、よく八月という月を分かっていたと思います。昭和の八月は、朝から晩まで野球が鳴っている月でした。昼はテレビで甲子園、夜はナイター。窓を開け放した家々から、同じ実況が重なって聞こえてくる。そういう夏でした。 そして私にとって、8月9日は本当に野球の日です。記念日とはまったく関係のないところで、二年続けて、同じ日付に、同じ一人の投手のことを記憶しています。 一年目は、鮮明に。二年目は、まったくの空白として。 1986年8月9日、甲子園のマウンド 最初の8月9日は、1986年(昭和61)です。私は高校2年生でした。 その日、甲子園のマウンドに立っていたのが、享栄高校(愛知)の左腕・近藤真一投手です。3年生。春の選抜では「剛腕」と騒がれながら初戦で新湊(富山)に0対1で敗れていて、雪辱を誓って夏の第68回大会に乗り込んできていました。 1回戦の相手は唐津西(佐賀)。結果は8対0、近藤投手が被安打1、15奪三振の完封です。 私は当時、自分も高校野球の真っただ中にいました。3年生が引退して新チームが動き出したばかりの夏で、毎日、練習に明け暮れていた時期です。汗と土のまま帰ってきて、飯を食って、テレビをつければ甲子園をやっている。同じ高校生が、同じ白球で戦っているのを見る。あの頃の八月は、そういう組み立てでした。 だから近藤投手の姿は、単なる甲子園のスターというより「同じ高校生なのに、ここまで違うのか」と驚かされる存在でした。細かな場面まで鮮明に覚えているわけではありません。それでも、三振を次々と奪っていく左腕の速球と、打者に向かって堂々と投げ込む姿は強く印象に残りました。テレビの前で見ながら、球の速さだけでなく、甲子園の大舞台でもまったく臆する様子がないことに圧倒された記憶があります。 2回戦では優勝候補の一角と言われていた東海大甲府を2対1で破り、3回戦で高知商に敗れました。相手の先発は、後にヤクルトへ進む岡林洋一投手。投手戦の末の惜敗でした。ただ、その時点ですでに「この投手はプロへ行くのだろう」と感じさせる、特別な存在でした。 そのころの私にとって、近藤投手は手の届かない別世界の選手でもありました。同じ高校野球をしていても、こちらは毎日の練習と目の前の試合に精いっぱいです。一方、甲子園のマウンドには、全国から注目され、プロへの道を切り開こうとしている同世代の投手が立っている。憧れよりも先に、その才能の差を思い知らされた——というのが、正直なところだったかもしれません。 それから一年、私の野球は終わった 1987年(昭和62)7月23日。神宮第二球場、東東京大会の四回戦。2対3。一点差で負けて、私の高校野球は終わりました。小学校の路地野球から中学、高校とずっと続けてきたものが、あの日、あの球場で終わったのです。 そのあとの日々は、正直に言えば、何もする気になれませんでした。先の進路も全く決まっていませんでしたから、まさに「抜け殻状態」です。 八月に入ればテレビでは甲子園が始まって、去年の自分と同じ場所に、今年は別の高校生たちが立っている。それを扇風機の前で眺めている。何をするでもなく、何を決めるでもなく、ただ日が過ぎていく。あの座り心地の悪さは、今でも思い出せます。 不思議なもので、負けた直後というのは、案外そこまで堪えないものです。効いてくるのはもっと後で、何でもない時間にふっと来る。今日は練習がない、明日も練習がない、来週も練習がない——十年近く体に染み込んでいた予定が、丸ごと消える。その空白の大きさに気づくまでに、少し時間がかかりました。 前の年の八月は、練習でくたくたになって帰ってきて、それでもテレビの甲子園を見ていました。この年の八月は、くたくたになる用事が何もない。同じ扇風機の前に座っているのに、体の芯の残り方がまるで違うのです。 1987年8月9日、ナゴヤ球場 その抜け殻の十七日目が、8月9日でした。 ナゴヤ球場、中日対巨人19回戦。中日の先発は、前年の同じ日に甲子園で唐津西を1安打に抑えたあの左腕、近藤真一投手です。前日に一軍へ初めて加わったばかりで、投手コーチから「行けるか」と言われ、驚きよりも先に「行きます」と答えたといいます。セ・リーグに予告先発のなかった当時、巨人の王貞治監督は試合前に「近藤はないんじゃないの」と語っていたそうです。 当時の巨人は2位の広島に7ゲーム差をつけて独走中。1番松本、篠塚、原、クロマティ、中畑という黄金打線でした。巨人ファンだった私からすれば、この年の打線は見ていて気持ちのいいものだったはずです。 その打線が、一本もヒットを打てませんでした。 中日は1回に3点を先制。近藤投手はこれを背に無安打投球を続け、6対0になった5回終了時、先輩から「狙ってみろ」と言われて「いっちょう狙うか」とその気になったといいます。9回、巨人の鴻野淳基が三塁にゴロを転がし、スタンドから悲鳴が上がりましたが、この年ロッテから移籍してきたばかりの落合博満が懸命にさばいて間一髪アウト。最後は篠塚利夫が近藤投手のカーブを見送ってゲームセットでした。 9回を投げて無安打無失点、四球2、失策1、奪三振13。プロ初登板・初先発でのノーヒットノーランは日本のプロ野球史上初で、アメリカのメジャーリーグにも例がありませんでした。18歳11か月。試合後、彼は「大変なことをやってしまった」と言い、「記録よりも自分の投球ができたことがうれしい」と続けたそうです。 そして約四十年経った今も、二人目は現れていません。 その夏、私は自分の野球を終えました。同じ夏に、同い年に近い左腕がプロのマウンドで歴史をつくった。80年代のプロ野球というのは、そういう出来事が毎年どこかで起きていた時代でもあります。 懐かしの80年代プロ野球 増補改訂版(TJMOOK)宝島社。江川・掛布・原・落合……テレビをつければ野球があった時代のスターと名場面をまとめた一冊。ちょうど本記事の1986〜87年あたりが、まるごと入っています Amazonで見る › 私には、この夜の記憶がない ここまで書いておいて申し訳ないのですが、私はこの試合を見た記憶がありません。 テレビで見たのか、ラジオで聞いたのか、翌朝のスポーツ紙で知ったのか。何ひとつ思い出せないのです。前年の8月9日、甲子園の同じ投手のことはあれだけ覚えているのに。 でも、たぶん、そういうことなのだと思います。あの夏の私は抜け殻でした。野球が終わって、進路も決まっていなくて、テレビをつけても何も入ってこない。おそらくこの年でいちばん大きな野球のニュースが、私の中を素通りしていったのです。 記憶というのは、そのとき何が起きたかではなく、そのとき自分がどういう状態だったかで残り方が決まるのだと思います。1986年の私には、受け止める側の準備がありました。毎日ボールを握っていて、甲子園の投手が投げる一球一球が、自分の握っている球と地続きだった。だから残った。1987年の私には、その手がありませんでした。同じ投手が、同じ日付に、もっとすごいことをやってのけたのに、私の側に受け皿がなかったのです。 失った記憶を惜しむ気持ちは、正直あります。ただ、あの夏に何も残らなかったこと自体が、あの夏がどういう夏だったかを一番よく語っている気もするのです。 同じ日付の、別々の場所 1986年8月9日、彼は甲子園にいて、私は高校2年生としてテレビの前にいました。 1987年8月9日、彼はナゴヤ球場のマウンドにいて、私は——どこで何をしていたのかも覚えていません。 私はグラウンドを去り、近藤投手はプロのマウンドに立った。同じ一年という時間の中で、それぞれの野球はまったく違う場所へ進んでいました。だからこそ1987年8月9日の快挙は、ただの大記録としてではなく、自分の高校野球が終わった夏と重なって、今も心に残っています。前年の甲子園で見たあの左腕が、本当に別世界へ駆け上がっていった夜でした。 ちなみにこの試合は、結果として「昭和最後のノーヒットノーラン」になりました。この一年半後に昭和は終わります。あの夜、球場にいた人もテレビの前にいた人も、まさか自分が昭和最後の一本を見ているとは思っていません。誰も知らないまま、時代の最後のページがめくられていたわけです。 今、8月9日にプロ野球のナイターがあっても、地上波で中継されることはほとんどありません。あの頃は、夜になればテレビをつければ野球がありました。それが当たり前すぎて、当たり前だと思っていなかった。近藤投手のノーヒットノーランがあれだけ多くの人の記憶に残っているのも、たまたま全国の茶の間にその中継が流れていたからです。私はそれを取りこぼしましたが、取りこぼせるだけの豊かさが、あの頃の八月にはありました。 みなさんは、1987年8月9日の中日対巨人を覚えていますか。あるいは、何かが終わった直後の、記憶がすっぽり抜け落ちている時期を過ごしたことはありますか。よかったら教えてください。 近藤投手のように、一球で球場の空気を変えてしまう投手が、どの球団にも一人はいました。あの時代の「エース」がどんな数字を残し、何を考えて投げていたのかをまとめた一冊もあります。名前を追っているだけで、あの頃のテレビの音が戻ってきます。 昭和プロ野球の豪腕投手(TJMOOK)宝島社。各球団の絶対的エースを、勝率・防御率などのデータと知られざるエピソードで特集。2009年刊『プロ野球「絶対エース」の豪腕伝説』の再編集版 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...

August 9, 2026