【昭和の今日は何があった日?】7月28日──ロサンゼルスの朝、空を人が飛んだ

今日は7月28日。夏休みの、うだるように暑い盛りです。 今から40年余り前、1984年(昭和59年)のこの日、アメリカ・ロサンゼルスで第23回夏季オリンピックが開幕しました。日本とロサンゼルスの時差の関係で、開会式が日本のお茶の間に届いたのは、翌29日の朝でした。 その画面の中で、ひとりの人間が背中に噴射装置を背負い、スタジアムの空をふわりと飛んだのです。 当時、私は15歳。中学3年生でした。その夏、区大会で敗退して野球部はすでに引退し、高校入試に向けて気持ちを受験勉強に切り替えていた、そんな時期でした。 空を、人が飛んだ 日本時間で29日の朝に届いたロサンゼルス・メモリアル・コロシアムの開会式は、それまでの五輪の常識をひっくり返すものでした。 レーガン大統領の開会宣言。ジョン・ウィリアムズが書き下ろした、あの勇壮なトランペットのファンファーレ。84台ものグランドピアノが並び、ガーシュウィンの『ラプソディ・イン・ブルー』を一斉に奏でる。そして極めつけが、ジェットパックを背負って会場上空を飛ぶ「ロケットマン」でした。SF映画のような光景に、世界中が度肝を抜かれ、NHKの中継の視聴率は47.9%に達したといいます。 派手な演出の裏には、したたかな計算がありました。実はこのころ、オリンピックそのものが存亡の危機にあったのです。1976年のモントリオール大会は莫大な赤字を出し、1980年のモスクワ大会は西側諸国のボイコットで深く傷ついていた。「オリンピックは金がかかるだけのお荷物だ」――そんな空気さえ漂っていました。 その流れを変えたのが、大会組織委員長を務めた実業家、ピーター・ユベロスでした。彼はテレビの放映権を史上最高額でアメリカのABCに売り、スポンサーを「1業種1社」に絞って協賛金を吊り上げた。批判も浴びましたが、終わってみればロス五輪は2億ドルを超える黒字を叩き出したのです。今に続く「商業五輪」は、この夏に始まりました。空を飛ぶロケットマンは、オリンピックが新しい時代へ突入する号砲でもあったのです。 夏休みで、朝は少しゆっくり起きられる日もありました。時差の関係で、私はロサンゼルス五輪を、朝からテレビをつけて見ていた記憶があります。 なかでも一番印象に残ったのは、やはりロケットマンでした。本当に空を飛んでいる人を見たような気がして、「アメリカはすごいな」と純粋に驚いたのです。まるで映画の世界のようで、日本では絶対に見られない演出だと思いました。「商業五輪」という言葉もニュースで耳にはしていましたが、中学生の自分に難しい意味まではわかりません。スポンサーだ放映権だということよりも、「派手で面白い開会式だな」という印象のほうが、ずっと強かった。厳かだったそれまでの開会式とは違い、まるで大きなショーのようで、競技が始まる前から「日本は何個メダルを取れるだろう」と、家族と話しながら画面に見入っていました。 ボイコットの応酬と、四年越しの金メダル 華やかな開会式の一方で、この大会にはぽっかりと空いた「穴」がありました。ソ連や東ドイツをはじめとする東側諸国が、そろって不参加を決めていたのです。 理由は、報復でした。4年前の1980年、西側諸国はソ連のアフガニスタン侵攻に抗議してモスクワ大会をボイコットした。今度はその意趣返しとして、東側がロサンゼルスをボイコットする。スポーツが、またしても政治の道具にされたのです。ボイコットが二度続けば、傷つくのはいつも、その舞台を目指してきた選手たちでした。 このモスクワ・ボイコットのことは、7月19日の記事で書きました。あのとき、参加を信じて過酷な稽古を積み、それでも舞台を奪われた選手のひとりが、柔道の山下泰裕でした。 その山下が、4年の雌伏を経て、ようやくロサンゼルスの畳に立ちます。無差別級。公式戦で負け続けたことのない彼に、死角はないと言われていました。ところが2回戦、右のふくらはぎに肉離れを起こしてしまう。決勝の相手はエジプトの巨漢、モハメド・ラシュワン。山下は右足を引きずりながら畳に上がりました。 ここで、五輪史に残る場面が生まれます。ラシュワンは、山下の痛めた右足を、最後まで攻めなかったのです。試合開始からわずか1分5秒、山下は払い腰をすかしてラシュワンを崩し、横四方固めで一本勝ち。奪われ続けた金メダルを、ついに首にかけました。日本のお家芸の悲願が、結実した瞬間でした。フェアプレーに徹したラシュワンには、後に国際フェアプレー賞が贈られています。この決勝が行われたのは、開幕から2週間後の8月11日のことでした。この大会の柔道で、日本は山下を含む4階級で金メダルを獲得し、その底力を世界に見せつけました。 あの決勝を、私はテレビの前で固唾をのんで見ていました。右足を痛めていることはニュースで知っていたので、「本当に大丈夫なのかな」と心配しながらの応援でした。足を引きずる姿は見ていて苦しそうで、それでも最後まで諦めずに金メダルをつかんだ瞬間は、本当に感動しました。「これが日本の柔道なんだ」と、誇らしい気持ちになったのを覚えています。 4年前のモスクワでは、日本は参加すらできませんでした。それだけに、山下選手の金メダルは、あのときの悔しさを少し晴らしてくれたような気がしたのです。相手のラシュワン選手が、痛めた右足を狙わずに正々堂々と戦ったと後から知ったときのことも、忘れられません。勝つことが第一だと思っていた中学生の私は、この一戦に「勝ち負けだけではない感動があるんだな」と教わった気がします。 野球が、初めて五輪の金メダルを獲った日 そしてこの大会には、野球少年だった私の胸を最も熱くした競技があります。野球です。 ロサンゼルス五輪では、野球が初めて、国と国とが代表チームで争う「公開競技」として行われました。正式種目ではないものの、世界一を決める五輪の野球――それだけで胸が高鳴りました。しかも日本代表は、プロではなく、大学生7人と社会人12人で編成されたアマチュアの混成チームだったのです。 急ごしらえのチームには温度差もあり、まとまりを欠いたまま本番を迎えたと、後に選手たちは振り返っています。それでも日本は予選を1位で通過し、準決勝では台湾を延長戦の末に振り切り、決勝で野球の本場・開催国アメリカと対戦しました。そして4番を務めた大学生、広沢克己(後の広澤克実)の本塁打などで6対3。開催国を破って、日本は五輪野球の初代王者に輝いたのです。 この代表チームからは、大会後に16人がプロ野球の世界へ進みました。「オリンピックからプロへ」という道を、彼らが切りひらいたのです。指揮を執ったのは、のちに社会人野球の名将として知られる松永怜一監督。ばらばらになりかけた若いチームをまとめ上げ、世界一へと導いたのです。 野球は、私が一番好きなスポーツでした。ですから、日本代表の金メダルは、本当にうれしかった。ただ、ちょうど自分も中学最後の夏を区大会敗退で終え、野球部を引退したばかり。試合を見ながら、少し複雑な気持ちもありました。 「自分の野球はいったん終わったけれど、高校ではまた続けよう」。そう思っていた時期でしたから、日本代表のプレーは憧れそのものでした。受験勉強の合間にテレビを見ては、「来年は自分も高校球児なんだ」と、自然に前を向けたのを覚えています。4番を打った広沢克己選手の力強い打撃には、「大学生でもこんなにすごい選手がいるんだ」と驚いたものです。引退直後の寂しさよりも、「高校に入ったら、またやれる」という思いのほうが強かった。あの夏のロサンゼルス五輪の野球は、私にとって、新しい野球人生への背中を押してくれた大会でもあったのです。 令和の五輪から振り返ると あの夏、日本は金10・銀8・銅14のメダルを持ち帰りました。体操の具志堅幸司が個人総合で金、射撃では48歳の蒲池猛夫が日本の五輪史上最年長の金メダリストに。陸上では地元アメリカのカール・ルイスが4種目を制し、「ジェシー・オーエンスの再来」と讃えられました。もっとも、東側の強豪が不在だったぶん、日本のメダルが実力以上に増えた面は否めません。それでも、四年前の悔しさを晴らすように躍動した選手たちの姿は、多くの人の胸に刻まれました。 令和のいま、オリンピックはスマートフォンやタブレットで、時差を気にせず好きな競技をいつでも配信で追える時代になりました。それは便利で、ありがたいことです。けれど、あの朝の感覚――家族みんなでテレビの前に集まり、時差の向こうの一回きりの中継に一喜一憂した、あの熱を、私はときどき無性に懐かしく思い出します。 ユベロスが仕掛けた商業五輪の手法は、その後あらゆる巨大スポーツイベントの手本になりました。オリンピックはそこからどんどん巨大になり、光と影の両方を抱えていきます。空を飛ぶロケットマンが象徴した「きらびやかな未来」は、良くも悪くも本当にやってきたのだと、令和の五輪を見るたびに思うのです。 おわりに 1984年の夏、ロサンゼルスの空を、ひとりの人間が飛びました。噴射装置の煙をたなびかせ、まるで未来から舞い降りてきたかのように。 同じ大会で、右足を引きずりながら畳に立ち、それでも金メダルをつかんだ男がいた。アマチュアの野球チームが、本場アメリカを倒して世界一になった。きらびやかなショーと、泥くさい人間のドラマが、同じ2週間の中に同居していた――それが、私にとってのロサンゼルス五輪です。 あなたには、1984年のロサンゼルス五輪の、どんな場面が心に残っていますか。開会式のロケットマンでしょうか。山下泰裕の金メダルでしょうか。それとも、まったく別の誰かの、別の一瞬でしょうか。よろしければ、あなたの記憶も聞かせてください。 あの夏、ロケットマンの裏で静かに始まっていた「商業五輪」。その光と影を、ロス五輪を起点にたどった一冊です。ユベロスが何を変え、オリンピックがどこへ向かったのか――あの派手な開会式の「意味」を、大人になった今、あらためて確かめてみたい方におすすめです。 オリンピックと商業主義(集英社新書)小川勝。1984年ロサンゼルス大会から始まった五輪の商業化を検証。放映権とスポンサーが五輪をどう変えたのかを追ったノンフィクション Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 あわせて読みたい:アルプススタンドの千羽鶴に込められた思いを、親の目線で書きました▼ 千羽鶴に込められた思い――甲子園を目指す高校野球を「親の目線」で見て気づいたこと ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月27日】毎朝、テレビは「ロッキード」と言っていた | 次の記事:【7月29日】17年ぶりに、夏の夜空が帰ってきた ▶

July 28, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月17日──江夏豊、9者連続奪三振。私が生まれた2年後の「見ていない伝説」

7月も半ばを過ぎると、プロ野球はオールスターの季節です。子どもの頃、この「夢の球宴」という響きに、どれだけ胸を躍らせたことでしょう。 昭和46年(1971年)7月17日。西宮球場で行われたオールスターゲーム第1戦で、阪神タイガースの江夏豊投手が、パ・リーグの強打者9人から9者連続奪三振という前人未到の記録を打ち立てました。 このとき私は2歳。当然、記憶にございません。それどころか、江夏投手が阪神のエースとして君臨した時代そのものを、私はこの目で見ていないのです。私が物心ついて野球に夢中になった頃、江夏はもう別の顔をした投手になっていました。 だから今回は、いつもと少し勝手が違います。「あの頃こうだった」と思い出を語るのではなく、野球少年だった私が後から知った伝説の正体に、記事を書きながらあらためて迫ってみたいと思うのです。 前半戦6勝9敗のエースが、なぜ伝説を作れたのか 調べてみて驚いたのは、この年の江夏が絶不調だったということです。 オールスター前の成績は6勝9敗、防御率3.12。昭和43年(1968年)にシーズン401奪三振という、今なお破られない日本記録を打ち立てた剛腕が、「何でか知らんが、今年はコントロールが悪いねん」とぼやくありさま。それでも、7月9日に発表されたファン投票では、セ・リーグ投手部門の1位。負け越しのエースを、ファンは見捨てていなかったのです。 そこにスポーツ紙の記者が挑発を仕掛けます。「ようそんな成績で出てきたな。ちょっとお客さんが喜ぶようなことをやってみな」。江夏の答えは明快でした。自分がお客さんを喜ばせるとしたら、三振しかない——。 江夏は取材に対して「9人全部、三振にとったるワ」と宣言します。ところがこの前代未聞の予告、当のスポーツ紙では冗談扱いされ、紙面の片隅にわずか一行で片付けられたそうです。無理もありません。当時はメジャーリーグでも達成されたことのない記録だったのですから。 昭和46年7月17日、西宮の夜 迎えた第1戦。マスクをかぶったのは、盟友・田淵幸一でした。この年の田淵は病気の影響でほとんど捕手として出場しておらず、シーズン中には一度も組まれていなかった「黄金バッテリー」が、この夜、球宴の舞台で復活したのです。 1回裏、先頭のロッテ・有藤通世から空振り三振。続く西鉄・基満男、阪急・長池徳二も連続で仕留めます。江夏が9人の中で最も警戒したのは、32試合連続安打を記録していた長池でした。この打席にだけ、江夏はその春に自ら編み出したばかりの「落ちる球」を1球だけ投じたと後に語っています。 2回にはロッテ・江藤慎一、近鉄・土井正博、西鉄・東田正義を三者三振。しかもこの回、江夏は打席でも阪急・米田哲也のカーブを右翼スタンドへ運び、3点本塁打まで放っているのです。投げては伝説、打ってはホームランです。 そして3回。後に江夏は、このときの球場が「不気味なほど静かだった」と振り返っています。阪急・阪本敏三が見逃し三振、岡村浩二が空振り三振で、ついに8者連続。 9人目の打者は、阪急の若き強打者・加藤秀司でした。3球目、加藤の打球がバックネット方向に高く上がります。マスクを投げ捨てて追おうとした田淵に向かって、江夏が叫びました。 「追うなっ!」 捕られてしまえば記録は「8者連続」で終わり——と語られがちな場面ですが、後年の江夏自身の弁によれば、本音は「一刻も早くこの緊迫感から逃れたかった」から、なのだそうです。伝説の裏にあった生身の述懐に、私はかえって痺れました。 次の1球。江夏はストライクゾーンのど真ん中に速球を投げ込み、加藤はフルスイングで空を切りました。9者連続奪三振、達成。西宮球場は大歓声に包まれ、江夏は両手を挙げて満面の笑みを浮かべたといいます。 ちなみにこの記念すべきウイニングボールは、現存していません。記録達成を把握していなかった田淵が、三振のコールと同時に観客席へ投げ入れてしまったからだそうです。 伝説は15でようやく止まった この夜の物語には続きがあります。江夏の後を受けた4人の投手が無安打リレーを完成させ、オールスター史上初の継投ノーヒットノーランまで達成してしまうのです。 さらに江夏自身、前年のオールスターでも5者連続奪三振を記録していたため、この時点で通算14者連続。後楽園球場での第3戦にも登板し、最初の打者から三振を奪って15連続まで記録を伸ばします。 これを止めたのが、南海の野村克也でした。バットを極端に短く持って打席に立ち、初球をたたいて二塁ゴロ。「パ・リーグで育った者として、連続だけはなんとしても止めたかった」という野村のコメントがまた、この時代のオールスターが真剣勝負だったことを物語っています。 そして昭和59年(1984年)。今度は巨人の江川卓が球宴で8者連続奪三振まで到達し、あと一人というところで大石大二郎に二塁ゴロを打たれ、大記録に届きませんでした。 この試合のことは、はっきり覚えています。私は中学3年生。最後の夏の大会は6月のうちに地区大会で敗退してしまい、野球部を引退して高校受験に向けた勉強モードに本格的に切り替えていた頃でした。それでも、この年のオールスターはリアルタイムでテレビ観戦していました。 巨人ファンの私は、江川が連続奪三振を4つ、5つ、6つと積み重ねていくたびに、テレビの前で「よし!」「しゃー!」と叫んでいました。すると、同じタイミングで、あちらこちらの家から同じような叫び声が聞こえてくるのです。当時はまだエアコンを入れず、窓を開けて扇風機、という家が多かったのですね(笑)。 そして9人目の打者・大石大二郎がセカンドゴロを打ったその瞬間。今度は「あぁ……」というため息が、方々の窓から同時に聞こえてきました。江夏の記録の偉大さを、私は町内中のため息で思い知ったのです。 「江夏の21球」——確かに観たはずの記憶 冒頭に書いたとおり、私は阪神のエース・江夏を知りません。私が野球に夢中になった昭和50年代、江夏はすでに広島や日本ハムで「優勝請負人」と呼ばれる抑えの切り札になっていました。そして、その抑え投手・江夏の頂点というべき瞬間について、私にはひとつ、鮮明な記憶が「ありました」。過去形で書く理由は、のちほど。 昭和54年(1979年)11月4日、日本シリーズ第7戦、大阪球場。広島が4対3と1点リードで迎えた9回裏。ここから始まる21球が、後に「江夏の21球」と呼ばれる伝説になります。 先頭の羽田耕一にセンター前ヒットを許すと、盗塁と捕手の悪送球で無死三塁。アーノルドに四球、さらに盗塁と平野光泰への四球で、あっという間に無死満塁です。大阪球場は大歓声。近鉄ファンは、球団初の日本一を目前と信じていたはずです。 しかし、ここからが江夏の真骨頂でした。まず代打・佐々木恭介を三振。続く石渡茂の打席で近鉄ベンチはスクイズを仕掛けますが、江夏はその気配を察知し、とっさにボールを高く外します。石渡のバットは空を切り、本塁へ突っ込んだ三塁走者は捕手・水沼四郎にタッチアウト。野球史に残る「スクイズ外し」です。そして21球目、膝元へ鋭く落ちる変化球に石渡のバットがもう一度空を切って、試合終了。広島東洋カープ、球団創設以来初の日本一が決まりました。 実は私、この最後の場面を、小学校の教室で観た——という鮮明な記憶が、長いことありました。教室に備え付けられていたテレビで、クラスのみんなと一緒に『江夏の21球』を目撃した。小学4年生。大興奮だった。個人的には近鉄を応援していたのに、終わってみたら江夏が抑えたことをめっちゃ喜んでいて、自分でもわけがわからないことになっていた——そういう記憶です。 ところが今回、記事を書くために調べてみて、驚きました。昭和54年11月4日は、日曜日なのです。学校があるはずのない日でした。 どうやら私の記憶は、別の試合か、別の日の出来事と混ざってしまっているようです。40年以上、疑いもせずに「教室で観た」と信じ込んでいたのに。記憶とは、なんとあてにならないものでしょう。それでもあの大興奮の手触りだけは、今も確かに体のどこかに残っているのです。 「勝負師」——敵なら最悪、味方なら最強 野球少年だった私にとって、江夏豊は一言でいえば「勝負師」でした。敵に回したら、これほど嫌な相手はいない。でも味方にしたら、これ以上ないほど心強い。巨人ファンの私は、ほとんどの期間、江夏を「敵」として見ていたわけですが、それでもあの背中には痺れるものがありました。 そしてもうひとつ、強く記憶に残っているのが晩年の姿です。昭和60年(1985年)、36歳の江夏は海を渡り、ミルウォーキー・ブルワーズのキャンプにマイナー契約で参加して、メジャーの舞台を目指しました。今でこそ多くの日本人投手が当たり前のようにメジャーへ挑戦していますが、当時としては前代未聞のことです。私はその挑戦を報じるニュースに、いつも注目していました。結果的にメンバー入りは叶わず、江夏はそのままユニフォームを脱ぐことになります。それでも、全盛期の江夏であれば十分に活躍できたはずだと、今なら確信を持って言えます。 見ていない伝説と、あてにならない記憶 阪神のエース・江夏を、私はついにこの目で見ることがありませんでした。抑え投手・江夏の頂点は、確かに目撃したはずなのに、その記憶は場所ごとあやふやになっていました。それでも、江夏の記録に江川が挑んだ夜の、町内中の叫び声とため息だけは、今もはっきり耳に残っています。伝説というのは、正確な記録と、あてにならない記憶と、その両方でできているのかもしれません。 半世紀以上たった今も、球宴での9者連続奪三振は破られていません。もう先発投手が3イニングを投げることすらない現代のオールスターでは、永遠に破られないのでしょう。 皆さんには、この目で見ていないのになぜか鮮明に語れる伝説や、確かに見たはずなのにつじつまの合わない記憶はありますか? この記事の後半に書いた1979年日本シリーズの9回裏を、一球ずつ、投手と打者と両ベンチの心理まで踏み込んで描き切ったのが、スポーツノンフィクションの金字塔と呼ばれるこの一篇です。「スクイズ外し」の21球が、なぜ伝説になったのか。私のあやふやな記憶を補って余りある、正確で、それでいて胸の熱くなる記録です。 江夏の21球(角川新書)山際淳司。1979年日本シリーズ第7戦9回裏を描いた不朽の名作ノンフィクション。「スローカーブを、もう一球」も収録 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月16日】私が生まれた年、人類は月へ向かった | 次の記事:【7月18日】コマネチは、ギャグじゃなかった ▶

July 17, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月30日──布団の中の、小さな実況中継

今日は6月30日。一年のちょうど真ん中、折り返しの日です。梅雨の重たい雲の下、それでも夏がもうそこまで来ているのを、肌のどこかで感じはじめる頃です。 この日は「トランジスタの日」でもあります。1948年(昭和23年)6月30日、アメリカのベル研究所で、三人の物理学者が生み出した小さな小さな部品が、はじめて世の中に公開されました。トランジスタです。 理科の授業に出てきそうな、なんだか難しい話に聞こえるかもしれません。けれども、この豆粒のような部品こそが、やがて昭和の子どもの手のひらに、ひとつの宝物を届けてくれることになります。トランジスタラジオです。 トランジスタという、小さな魔法 トランジスタが発明されるまで、ラジオの心臓部には「真空管」という、ガラスでできた電球のような部品が使われていました。だからラジオは大きくて、重くて、電源を入れてもすぐには鳴らず、温まるのをしばらく待たなければなりませんでした。茶の間にどっしりと置かれ、家族みんなで囲むもの。ラジオは「家具」だったのです。 ところがトランジスタは、爪の先ほどの大きさで、電気も食わず、衝撃にも強い。この小さな部品が真空管に取って代わったとき、ラジオは劇的に小さくなりました。 世界で最初のトランジスタラジオは、1954年にアメリカのリージェンシー社が発売しました。世界初の栄冠こそ譲りましたが、その翌年、日本でも快挙が起こります。1955年(昭和30年)、東京通信工業——のちのソニーが、「SONY」の名を冠した日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を世に送り出したのです。 当時の東京通信工業は、社員数が三百人にも満たない、まだ無名の小さな会社でした。井深大(いぶか・まさる)と盛田昭夫(もりた・あきお)という二人の創業者が、「自分たちの手でトランジスタを作り、それでラジオをこしらえる」という、無謀とも言われた目標に、まさに社運を賭けて挑んだのです。トランジスタでラジオを作るなど不可能だ——そんな声を一つひとつはねのけ、彼らは小さな箱の中に、新しい時代を詰め込みました。 さらに1957年(昭和32年)、ソニーは当時世界最小の「TR-63」を完成させます。「ポケッタブルラジオ」というキャッチコピーで売り出されたこの一台は、サラリーマンの月給ほどもする高級品でしたが、アメリカで飛ぶように売れ、「SONY」の名を世界中に知らしめました。やがてこの会社が、ウォークマンを生み、世界を代表する電機メーカーへと駆け上がっていくのですが、その出発点に、手のひらにのる一台のラジオがあったというのは、なんだか胸が熱くなる話ではありませんか。 このとき、ラジオの意味そのものが変わりました。家族でひとつを囲む「家具」から、一人ひとりが、聴きたいときに、聴きたい場所で耳を傾ける「自分だけの道具」へ。「トランジスタグラマー」なんて流行語まで生まれたほど、トランジスタは時代の合言葉になっていきました。 私が生まれる二十年以上も前の話です。けれども、この小さな魔法が、のちに私の少年時代の夜を、こっそりと彩ってくれることになるのです。 布団の中の、小さな実況中継 トランジスタラジオと聞いて、私の胸に最初に浮かんでくるのは、やっぱり野球のことです。 私の手にトランジスタラジオがやってきたのは、小学校三年生、九歳の誕生日プレゼントとしてでした。昭和53年(1978年)のことです。子どもの頃から無類の巨人ファンだった私にとって、これほどうれしい贈り物はありませんでした。 というのも、当時のテレビのナイター中継は、試合の終盤になると放送時間が来て、ぷつりと終わってしまうことがしょっちゅうあったのです。いちばんいいところで、画面がほかの番組に変わってしまう。あの悔しさといったらありませんでした。そんなとき、毎回活躍してくれたのが、誕生日にもらったこの小さなラジオでした。 布団に入って、そっとラジオのスイッチを入れる。イヤホンを耳に押し込む。テレビとちがって、映像はありません。それでも、ラジオから聞こえてくるアナウンサーの実況だけで、私の頭の中には、その試合の光景がはっきりと、まるで映像のように映し出されていたのです。打球の伸びも、走者の足も、ぜんぶ見えている気がしました。 その証拠に、と言ってはなんですが、いまでも私は当時の巨人の打順をそらで言えます。1番センター柴田、2番サード高田、3番レフト張本、4番ファースト王、5番セカンドのシピン、6番ライト淡口、7番ショート河埜、8番キャッチャー吉田、9番ピッチャー堀内……(笑)。ほら、こうしてすらすら出てくる。布団の中で毎晩のように聞いていた名前は、半世紀近くたった今も、しっかりと私の体に染みついているのです。 そうしてラジオで知った試合の続きは、翌朝の学校での、またとない自慢の種でもありました。「ゆうべの試合、王さん打ったぞ」「堀内、最後まで投げきった」。テレビの中継が終わったあとの展開を知っているのは、布団の中でこっそりラジオを握りしめていた者だけ。教室でそれを得意げに話すのは、子どもなりの、ちょっとした誇りだったのです。あの頃の巨人は、私たち少年にとって、まぎれもないヒーローでした。 「聴く」から「する」へ そんなふうに、布団の中でラジオの野球にのめり込んでいた少年も、中学、高校と進むうちに、ラジオを手にする時間は少しずつ減っていきました。 理由は、いたって単純です。野球部の活動に、すっかり夢中になっていたからです。 考えてみれば、これはちょっと面白い変化でした。小学生の私は、ラジオの実況を聴きながら、見えないグラウンドを頭の中に思い描く「聴く側」の子どもでした。それが気づけば、自分自身がそのグラウンドに立ち、白球を追いかける「する側」になっていたのです。耳をすませて憧れていた世界に、いつのまにか、自分の足で踏み込んでいた。 イヤホンから流れてくる誰かの実況ではなく、自分のスパイクが土を蹴る音、バットが芯でボールをとらえる音。私にとっての夏の音は、そうやって少しずつ、入れ替わっていったのでした。 茅の輪をくぐって、もう半分 さて、6月30日に話を戻しましょう。 この日は、昔から各地の神社で「夏越の大祓(なごしのおおはらえ)」が行われる日でもあります。一年の前半でたまった穢れを祓い落とし、残り半年を無事に過ごせるよう願う、古くからの神事です。神社によっては、茅(ちがや)で編んだ大きな輪が境内に設えられ、人々はそれをくぐって身を清めます。「茅の輪くぐり」です。 正直に告白すると、子どもの頃の私は、こんな神事があることなど、まるで知りませんでした。6月30日が一年の折り返しだということも、半年の穢れを祓う日だということも、すっかり大人になってから知ったことばかりです。 当時の私にとっての6月30日は、ただただ「夏休みが、もうすぐそこまで来ている日」。それ以上でも、それ以下でもありませんでした。一学期の終わりが近づくこの時期の、あのそわそわとした高揚感だけは、今でもはっきりと思い出せます。 それでも、こうして大人になって暦を眺めてみると、6月30日というのは不思議な日だと思います。一年のちょうど真ん中。半分が終わって、半分が残っている。あの頃の私の心は、茅の輪のことなど露知らず、もうすっかり、ラジオから聞こえてくる夏の音のほうへ飛んでいっていたのでしょう。 おわりに あの「ポケッタブルラジオ」から数えて七十年近く。今、私たちは一人一台、手のひらにのる小さな箱を持ち歩いています。スマートフォンです。あれもまた、トランジスタという小さな部品の、はるか遠い子孫なのだと思うと、少し不思議な気持ちになります。 今では、どんな球場の試合も、手のひらの画面で映像つきで観られるようになりました。便利になったものです。けれども、あのモノラルのスピーカーから流れる実況に耳をすませ、見えないグラウンドを頭の中で必死に描いていた、あの時間。映像がないからこそ、想像することそのものが、楽しみの大きな一部だったように思うのです。アナウンサーの声色ひとつで、ホームランの大きさも、内野ゴロの惜しさも、ぜんぶ自分の頭の中でふくらませていた。あれはあれで、ぜいたくな野球の楽しみ方でした。 バスのハンドルを握る今も、私の運転席にはいつも何かの音が流れています。形は変わっても、声と一緒に時間を過ごすという習慣だけは、あの布団の中の夜から、ずっと変わっていないのかもしれません。 一年の折り返しの日。あなたにとって、あの小さなラジオから流れていたのは、どんな音でしたか。 あの頃の「手のひらの相棒」は、令和のいまも姿を変えて生き続けています。なかでも、手回しとソーラーで充電でき、いざというときスマホの充電もできる防災ラジオは、ひとつ備えておくと心強いものです。枕元のナイター中継に、そして梅雨明けから本番を迎える台風・地震への備えに。 ソニー 防災ラジオ ICF-B99(FM/AM/ワイドFM・手回し充電・ソーラー充電・スマホ充電対応)手回しと太陽光で充電でき、スマホ給電・LEDライトも。枕元にも、防災の備えにも一台 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【6月29日】生まれる前に来た四人、私が夢中になった音楽の“源流”をたどって | 次の記事:【7月1日】変わり続けた箱と、変わらない一本 ▶

June 30, 2026

6月18日 ── おにぎりの日に、千年の握り飯と母の手を思う

六月の半ば、梅雨の重たい空をながめながら、ふと握り飯のことを考えました。きょう六月十八日は「おにぎりの日」。なんとも素朴で、いい響きの記念日です。 由来を調べてみると、これがなかなか面白いのです。石川県の旧鹿西(ろくせい)町——いまの中能登町——の「ろく」をとって、六月。そして毎月十八日は「米食の日」。「米」という字をばらすと「十」と「八」になるから、十八日。その二つを掛け合わせて、六月十八日。語呂合わせのようでいて、ちゃんと米への敬意がこもった日付なのですね。 そしてこの記念日には、もう一つ、はるかな裏付けがあります。後でゆっくり書きますが、昭和の終わりに、この町から「日本でいちばん古いおにぎり」が出てきたのです。 梅雨どきの、お弁当の記憶 おにぎりと聞いて、私の胸にまず浮かぶのは、歴史でも記念日でもありません。母の手です。 学童野球、中学野球、高校野球と、私はずっと白球を追いかけてきました。だから母が握ってくれたおにぎりは、ごく当たり前に、いつもそこにある存在でした。 具には、ずいぶんわがままなリクエストをしたものです。鮭はもちろん定番。けれど私のいちばんのお気に入りは、なんと焼肉を入れてもらったおにぎりでした。玉子焼き、ウインナーソーセージなんてのも頼みました。母は「そんなの入れて、大丈夫なの?」と苦笑いしながら、それでも握ってくれたのです。 そうそう、白状すると——あの頃は素手でおにぎりを握るのが普通でした。いまの衛生観念からすれば、素手はちょっと考えられないかもしれませんね(笑)。だからでしょうか、母のおにぎりは平気なのに、父が握ったおにぎりは、なんとなく敬遠していました。ごめん、父さん(笑)。 あの頃、おにぎりはごちそうではありませんでした。けれど、ただの白い飯でもなかった。きちんと手のひらで握られて、塩がきいて、海苔が巻かれている。それだけで、あれは「だれかが私のために用意してくれたもの」になっていたのだと思います。冷めても食べられて、こぼさず手で持てて、しかも腹にたまる。子どもにとって、これほど頼もしい食べ物もありませんでした。 野球に明け暮れた中学・高校のころにも、おにぎりはいつもかたわらにありました。 とりわけ高校のころは、朝、お弁当とは別に、おにぎりを四個ほど用意してもらっていました。朝練のある日はとにかく腹が空くのです。昼まではとても我慢できない。それで、授業の合間にそのおにぎりを頬張っていました。いまでいう「早弁」ですね。育ちざかりに部活が重なれば、おにぎりの四個くらい、あっという間でした。 おにぎりは、千年を超えて握られてきた さて、ここからは少しだけ時間をさかのぼってみます。おにぎりという食べ物が、どれほど古くから私たちのそばにあったか。これがちょっと、気が遠くなる話なのです。 そもそも、米を握って食べるという習慣は、文字の記録にもずいぶん古くから残っています。奈良時代に各地で編まれた『風土記』には、握り飯を指すとされる「握飯(にぎりいい)」という言葉がすでに見えるのです。茶碗も箸もいらず、ただ手で握る。これほど原初的な食べ方が、千年以上ものあいだ受け継がれてきたのですね。 いまのおにぎりの直接の祖先とされるのは、平安時代の「屯食(とんじき)」という食べ物です。蒸したもち米を、大きな楕円形に握り固めたもので、一合半ほどもあったといいます。宮中や貴族の屋敷で催しがあったとき、立ち働く人々に「ご苦労さま」と配られた——そんな食べ物だったと伝えられています。千年も前から、人は米を握って、誰かに手渡していたわけです。 握り飯が、もち米からいまのうるち米に替わっていくのは、鎌倉時代の末ごろ。やがて戦国の世になると、おにぎりは武士の兵糧として欠かせないものになりました。中に梅干しを入れたのは、味のためだけでなく、傷みを防ぐ知恵でもあったのでしょう。腰にぶら下げて戦場を駆ける、携帯食としてのおにぎり。皿もいらず、手も汚さず、握ればそのまま食べられる。戦に勝つも負けるも、まずは腹が満ちていなければ始まりません。握り飯は、いわば戦国の兵士たちの命綱でもあったのです。考えてみれば、ずいぶん完成された発明です。 そして江戸時代。米が安定して採れるようになると、おにぎりはようやく庶民のものになりました。畑仕事の合間に、旅の途中に、行楽の弁当に。さらに明治に入ると、握り飯は駅にも進出します。明治十八年(一八八五年)、栃木県の宇都宮駅で売り出されたとされる日本で最初の駅弁は、梅干し入りのおにぎり二つにたくあんを添え、竹の皮で包んだだけの、実に簡素なものだったそうです。汽車に揺られながら、竹の皮を開いておにぎりを頬張る。その情景を想像すると、なんだか旅に出たくなります。 海苔を巻く、という発明 いまでこそ、おにぎりといえば黒い海苔が当たり前ですが、あれが広まったのは案外あとのことです。 四角い板状の海苔——いわゆる「浅草海苔」が江戸の市場に出回るようになったのは、元禄のころ。十七世紀の終わりです。一説には、これをきっかけに海苔を巻いたおにぎりが生まれたといわれています。もっとも、幕末に書かれた『守貞謾稿(もりさだまんこう)』という書物には海苔を巻くという記述が見当たらず、じつのところ諸説あるようです。それでも、パリッとした海苔と握りたての飯が出会ったことが、おにぎりをもう一段おいしくしたのは間違いありません。 ついでに、長年の素朴な疑問にも触れておきましょう。「おにぎり」と「おむすび」は違うのか。これも諸説ありますが、結局のところ同じものを指す、というのが今の共通の理解だそうです。形による呼び分け説、地域による違い説——いろいろ言われますが、要は呼び方の好みなのですね。三角の形が主流なのは、神さまの宿る山をかたどったから、という説まであるそうで、たかが握り飯と侮れません。そういえば「むすび」という言葉じたい、ものを生み出す力をあらわす古い言葉「産霊(むすひ)」に通じる、という話も聞いたことがあります。真偽はともかく、昔の人は握り飯に、ただの腹ごしらえ以上の何かを感じていたのかもしれません。 ちなみに、家で握るおにぎりも、海苔ひとつで驚くほど変わります。有明海産の全型海苔は、香りもパリッと感も格別。握りたての飯に巻いた瞬間の、あのいい匂いは、安いだけの海苔ではなかなか出ません。我が家も、海苔だけは少しいいものを切らさないようにしています。 マルサンのり 有明海産 焼き海苔 全型50枚おにぎりにも手巻きにも。香りとパリッと感が違う有明海産 Amazonで見る › 弥生のおにぎりと、コンビニのおにぎり ここで、冒頭の「おにぎりの日」の由来に戻ります。 昭和六十二年(一九八七年)、石川県の旧鹿西町・杉谷チャノバタケ遺跡の竪穴式住居跡から、黒い炭のかたまりが見つかりました。調べてみると、それは弥生時代中期——およそ二千年前——の、蒸して焼いた跡のある米のかたまり。「チマキ状炭化米塊」と名づけられた、日本でいちばん古いおにぎりの仲間でした。私が十八歳の年のことです。二千年前の誰かが握った米のかたまりが、令和のいまも記念日として残っている。気の遠くなるような話ですが、それだけ握り飯という営みが古くて、変わらないということなのでしょう。 そして不思議なことに、その同じ昭和という時代に、おにぎりはまったく新しい姿でも私たちの前に現れました。コンビニのおにぎりです。昭和五十年代、セブン-イレブンが店先でおにぎりを売り始めると、やがて海苔とご飯を分けておき、食べる直前にパリッと巻ける包装の工夫まで生まれました。家で握るものだったおにぎりが、二十四時間いつでも買えるものになっていく。ツナマヨネーズという、それまでの常識になかった具が登場したのも昭和五十八年(一九八三年)のことだそうです。当時の私には、海苔がしんなりしない包装の仕掛けが、ちょっとした発明のように思えたものでした。 二千年前の弥生のおにぎりと、昭和の終わりのコンビニおにぎり。同じ六月十八日が、その両方を抱えている。これも、おにぎりという食べ物のふところの深さなのだと思います。 令和の食卓で いま、おにぎりは「ONIGIRI」と書かれて、海の向こうでも人気だと聞きます。専門店には行列ができ、外国から来た人が嬉しそうに頬張っている。あの素朴な握り飯が、世界の食べ物になっていく。昭和の子どもだった私には、なんともこそばゆい光景です。 それでいて、おにぎりはいちばん大事なところで、ちっとも変わっていません。大きな地震や災害があるたびに、炊き出しのおにぎりが配られる。冷たい握り飯を両手で受け取って、ほっと息をつく。あの「だれかが私のために握ってくれた」という手のぬくもりは、千年前の屯食からまっすぐ、今日まで続いているのですね。 そして、いま握る側になったのは、ほかでもない私自身です。父親になった私も、子どもたちのためにおにぎりを握ります。とくに週末は、それぞれが自分の野球に持っていくものですから、八個、十個と握ることになる。これがなかなかの重労働で——握りながら、ふと思うのです。あの朝、四個のおにぎりを当たり前のように用意してくれた母も、こうして黙々と手を動かしていたのだなと。「そんなの入れて大丈夫なの?」とこぼしながら焼肉を詰めてくれた、あの苦笑いの意味が、いまになって少しわかる気がするのです。 ついでに白状すると、私のような不器用な父親には、おにぎり型という強い味方があります。ご飯を詰めて、ギュッと押すだけ。形も大きさもそろうし、何より手が熱くない。週末に八個も十個も握るとなれば、これがあるだけで、ずいぶん楽になります。母の時代にこれがあったら、あの苦笑いも少しは減っていたかもしれません(笑)。 おにぎりメーカー 三角 押し型(6個同時)ご飯を詰めて押すだけ。大量に握る週末の強い味方 Amazonで見る › あなたにとっての「忘れられないおにぎり」は、どんな一個でしょうか。母の手の梅干しか、遠足の日の鮭か、それとも部活の帰りに買ったコンビニの一個か。よかったら、コメントで聞かせてください。 このシリーズ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年(一九六五年)から昭和六十四年(一九八九年)までの出来事を、当時を生きた子どもの目線でひとつずつ綴っています。あなたの思い出も、ぜひ聞かせてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

June 18, 2026

6月17日 ── 無敵のまま畳を降りた山下泰裕と、私が初めて応援した五輪の夏

六月十七日。梅雨の合間の、どんよりと重たい空を思い出します。昭和六十年(一九八五年)のこの日、一人の柔道家が現役引退を表明しました。山下泰裕さん。全日本選手権九連覇、ロサンゼルス五輪・無差別級の金メダリスト。そして、いまもって破られていない二〇三連勝という記録を抱えたままの、静かな引退でした。 でも、その話をする前に、どうしても先に書いておきたい夏があります。前の年、昭和五十九年(一九八四年)の夏。ロサンゼルス・オリンピックです。 受験勉強のはずが、テレビの前に座っていた 私にとってロス五輪は、物心がついて初めて、テレビ画面とはいえ自分の意思でしっかり「観て」「応援した」オリンピックでした。だからでしょうか、各競技での日本人選手の活躍は、いまでも驚くほどはっきりと記憶に残っています。 当時の私は中学三年生、十五歳。夏の大会を最後に野球部はもう引退していて、本来なら高校受験に向けて、机にかじりついていなければならない時期でした。ところが、です。連日のオリンピック中継が気になって気になって、どうにも勉強が手につかない。「いまは観ている場合じゃない」と頭では分かっているのに、参考書を開いては、つい音のするほうへ、テレビの前へと吸い寄せられてしまう。外では蝉が鳴いていて、母が台所で立ち働く音がして、そのなかで私だけが、教科書ではなく遠いロサンゼルスとつながっている。受験生としては、いささか困った夏でした。 このロス五輪というのは、日本にとって少し特別な大会でもありました。その四年前、昭和五十五年のモスクワ大会には、日本は政治的な事情で参加できなかった。出場すらかなわなかった選手たちの悔し涙を、子どもながらにニュースで見ていた記憶があります。だからこそ、八年ぶりに堂々と世界の舞台に戻ってきたロス五輪は、見る側の私たちにとっても、どこか「待ちわびていた夏」だったのです。受験を控えた中学三年生の私でさえ、こうして机を離れて引きずり込まれてしまうほどに。 ぴたりと止めた着地と、あの笑顔 なかでも忘れられないのが、体操の森末慎二さんです。種目別・鉄棒の決勝。最後の最後、二回宙返りで降りてきて、その着地をぴたりと止めた瞬間。そして、ゆっくりと、かみしめるように両手を上げていったときの、あの『笑顔』。子ども心にも、「完璧というのは、こういうことを言うんだ」と思いました。 あとで知ったのですが、森末さんはこの鉄棒で十点満点をマークしていたのですね。一切の減点がない、まさにパーフェクトの演技。それをリアルタイムで観ていたのだと思うと、いまさらながら鳥肌が立ちます。森末さんはこの大会、鉄棒で金、跳馬で銀、団体で銅と、一つの大会で金銀銅すべてを持ち帰りました。けれど私の中に焼きついているのは、メダルの色よりも、あの着地と、あの笑顔のほうなのです。 森末さんといえば、自分の名前がそのまま技の名前になっている、数少ない選手の一人でもあります。「モリスエ」と呼ばれるオリジナルの大技。世界のだれもやっていなかった動きを、自分の体で切りひらいて、自分の名を冠した技として残す。子どもだった私には、その意味の大きさまでは分かっていませんでしたが、「この人は、ただ上手なだけの人ではないんだ」ということだけは、なんとなく伝わってきていました。 あの夏、五輪の舞台に野球があった そして、野球です。 ロス五輪では、野球が公開競技として行われていました。正式競技ではないけれど、この大会から各国の代表チーム同士が本気でぶつかり合う形になった。野球小僧だった私には、これがたまらなくうれしかったのを覚えています。自分が毎日ボールを追いかけているその競技が、世界の頂点を決める同じ舞台に並んでいる。それだけで、なんだか誇らしいような気持ちになったものです。 日本代表は、大学生と社会人の選手で編成されたアマチュアチームでした。プロは一人もいない。それでも勝ち上がり、決勝では開催国アメリカを六対三で破って優勝。公開競技ながら、オリンピック初代の野球王者になったのです。プロのスターではない、自分と地続きのように見えるお兄さんたちが、世界の頂点に立った。あの夏、私の中で野球とオリンピックが、初めて一本の線でつながった気がしました。 いま思えば、あの夏の私は、ただ漫然とテレビを観ていたのではなかったのかもしれません。つい数か月前まで、来る日も来る日も土埃の舞うグラウンドで白球を追いかけ、思うようにいかずに悔し涙をのみ、それでも翌朝にはまたバットを握っていた。その日々の、地続きの延長線上に、画面の向こうの選手たちがいたのです。同じように汗をかき、同じように歯を食いしばってきた人たちが、世界のいちばん高いところで、笑ったり、足を引きずったりしている。だからこそ、どうしても人ごとには思えなかった。応援というより、ほとんど自分のことのように観ていた。それが、あの夏のオリンピックだったように思います。 「勝って当たり前」を背負った人 そして、山下泰裕さんです。 いまの若い人には少し想像しにくいかもしれませんが、当時の日本の柔道には「勝って当たり前」という独特の空気がありました。とりわけ山下さんのような絶対王者には、銀でも銅でもなく、金メダルしか許されない。そういう途方もないプレッシャーが、目に見えない重しのようにのしかかっていたはずなのです。 ロス五輪の無差別級。山下さんは二回戦で、右足のふくらはぎを痛めてしまいます。肉離れでした。足を引きずりながら畳に上がっていく王者の姿に、テレビの前の私は思わず息をのみました。あの強い山下さんが、まともに歩けていない。それでも山下さんは勝ち進み、決勝もきっちり制して、金メダルをもぎ取った。 あの瞬間、私はテレビ画面に向かって、歓喜の絶叫をあげていました。誰に聞かせるでもなく、一人で、本当に大きな声で叫んだのを覚えています。「勝って当たり前」を、怪我を負ってなお本当に勝ち切ってしまう人がいる。十五歳の私には、それが人間業とは思えない、途方もないことに見えました。 ただ、その本当の凄みを思い知ったのは、ずっと後年のことでした。大人になってから、私自身がふくらはぎを肉離れしたことがあります。そのとき、いやというほど分かったのです。肉離れというのは、満足に歩くことすらできない。一歩ごとに痛みが走って、足を引きずるのがやっと。スポーツをするなど、とんでもない話です。その状態で――しかも世界じゅうが見つめる五輪の決勝の舞台で――山下さんは相手を投げ、勝ち切ったのか、と。十五歳の夏にテレビの前で叫んだあの感動が、何十年もたって、今度は自分の足の痛みを通して、まったく違う重みでよみがえってきました。あのとき私が叫んでいたものの大きさを、本当の意味で理解できたのは、皮肉にも自分が同じ場所を痛めたときだったのです。 そして一年後、無敵のまま畳を降りた その山下さんが、翌・昭和六十年六月十七日――あの夏に勉強そっちのけでテレビにかじりついた私が、どうにか高校に進んで一年生になっていた、その年の初夏に――記者会見で引退を表明します。 全日本選手権は昭和五十二年から九連覇。世界選手権でも計四度、頂点に立ちました。そしてロス五輪の金メダル。引退から逆算して、その連勝記録は二〇三。負けないまま、誰にも倒されないまま、自分の意思で静かに畳を降りていったのです。前の年には国民栄誉賞も受けていました。アマチュアのスポーツ選手としては、初めての受賞だったと記憶しています。 「勝って当たり前」という重圧を、最後の最後まで背負い、そして実際に勝ち続けた人。その人が、傷を負ってもなお負けず、絶頂のまま身を引いていく。あの夏の絶叫とは、また違う種類の余韻が、私の胸の中に残りました。強い人が、強いまま去っていく。それはどこか、潔さとさみしさが半分ずつ混じったような、不思議な感覚でした。負けて去るのではなく、勝ったまま終わる。子どもだった私には、その引き際の美しさの意味が、まだ半分も分かっていなかったのだと思います。 ロス五輪が、また帰ってくる 時は流れて、令和です。 あのとき足を引きずりながら金メダルを取った山下さんは、のちに日本オリンピック委員会(JOC)の会長を務めるまでになりました。畳の上のたった一人の王者が、やがて日本のスポーツ全体を背負う立場になっていったわけです。あの夏に絶叫していた少年からすれば、なんとも感慨深い話です。 そして、もう一つ。私が生まれて初めて本気で応援した、あのロサンゼルスという街が、二〇二八年、ふたたびオリンピックの開催地になります。じつに四十四年ぶりのロス五輪です。あの夏、テレビの前で絶叫していた十五歳の少年は、その二〇二八年には五十九歳――六十歳を目前にした年齢になっています。子どもたちも、それぞれの道を歩き始めました。それでも、「ロサンゼルス」という地名を耳にすると、私はいまでも真っ先に、森末さんのあの笑顔と、山下さんの金メダルの瞬間を思い出すのです。 二〇二八年の夏、私はまた、テレビの前で誰かを本気で応援しているでしょうか。きっと、しているのだと思います。あの夏に教わった「観て、応援する」という幸せは、四十年あまりたっても、ちっとも色あせていないのですから。 あなたが、生まれて初めて自分の意思で「観て」「応援した」オリンピックは、どの大会でしたか。テレビの前で思わず叫んでしまった、あの瞬間の記憶があれば、ぜひ聞かせてください。 このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【番外編】インベーダーゲームと孫正義 ── ブームが冷めた中古機を、太平洋の向こうで宝に変えた青年 | 次の記事:6月18日 ── おにぎりの日に、千年の握り飯と母の手を思う ▶

June 17, 2026

『坂の上の雲』と正岡子規の野球 ― 上野公園に残る明治のベースボール

白状すると、私は『坂の上の雲』のファンである。 最初はテレビだった。NHKのスペシャルドラマを観て、すっかり引き込まれ、その勢いで司馬遼太郎の原作を手に取った。読み終えて、しばらくしてまた読んだ。そしてもう一度。つまり三度、あの長い物語を読み返したことになる。秋山好古、真之の兄弟、そして正岡子規。明治という時代を、坂の上の一朶の雲を見つめて登っていった青年たちの物語は、何度読んでも飽きることがない。不思議なもので、読み返すたびに心に引っかかる場面が変わる。若い頃に通り過ぎた一行が、歳を重ねてから読むと、急に立ち上がってくることがあるのだ。長い小説を読み返す愉しみは、たぶんそこにある。 なかでも私が好きなのは、物語の序盤、まだ何者でもない真之と子規が、東京で青春を過ごす場面だ。そこに、野球が出てくる。上野の草原で、書生たちがボールを追いかける場面である。 俳人・正岡子規と野球。一見、結びつかないようでいて、実はこのふたつ、切っても切れない関係にある。今日はその話を書いてみたい。じつはこの日、私は所用で上野に来ていて、その合間の休憩時間に少し走った。せっかく現地にいるのだから、自分の足で確かめないわけにはいかない。その話は、最後に。 俳人になる前の、野球青年だった子規 正岡子規は慶応三年(一八六七年)の生まれ。日本にベースボールを伝えたのは、明治五年(一八七二年)頃、第一大学区第一番中学(のちの開成学校)で教えていたアメリカ人教師ホーレス・ウィルソンだとされている。ちなみにこのウィルソン、子規より一年あとの二〇〇三年に、やはり野球殿堂入りを果たしている。伝えた人と広めた人が、百年あまりの時を経て同じ殿堂に並んでいるのだから、出来すぎなくらい美しい話だ。 子規が大学予備門(のちの一高)の学生だった明治十九年から二十三年頃には、まだ「野球」という日本語すら一般には定着していなかった。横文字のまま「ベースボール」と呼ばれる、書生たちの新しい遊びだった。 子規はこれに夢中になった。仲間たちと連れ立って、上野公園の空き地でボールを追いかけた。守備位置は捕手。のちに病床に伏す人、という印象の強い子規が、二十歳そこそこの頃には汗まみれでマスクをかぶり、ミットを構えていたのである。 有名な逸話がある。子規の幼名は「升(のぼる)」。これにちなんで、雅号のひとつを「野球」と書いて「のぼーる」と読ませた。ただし、誤解のないように書いておくと、「野球(やきゅう)」という訳語そのものは、のちに教育者の中馬庚が考案したものとされる。子規の「野球(のぼーる)」は、あくまで自分の名前にボールを忍ばせた言葉遊びだ。それでも、雅号にまで持ち込むほど好きだった、ということがよく分かる。 言葉の人が、野球に残した言葉 子規の野球への貢献は、プレーだけにとどまらない。彼は言葉の人だった。「打者」「走者」「直球」「四球」――今では当たり前に使われている野球用語の多くを日本語に訳し、その普及に貢献したとされる。新聞「日本」の記者となってからは、ルールや面白さを伝える随筆を書き、野球を詠んだ俳句や短歌も数多く残した。 久方の アメリカ人の はじめにし ベースボールは 見れど飽かぬかも これは子規の短歌である。万葉集ばりの枕詞「久方の」のあとに、いきなり「アメリカ人」と「ベースボール」が続く。この取り合わせの大胆さに、私は笑ってしまうと同時に、しびれてしまう。古典の教養と、舶来の新しい遊びへの少年のような好奇心。子規という人の魅力が、この一首に凝縮されている気がするのだ。 その功績が認められ、没後百年にあたる二〇〇二年、子規は野球殿堂入りを果たしている。俳人が野球殿堂に名を連ねるというのは、考えてみれば不思議な光景だが、明治の野球黎明期を知る者にとっては、むしろ当然の顕彰だったのだろう。 小説の上野の場面は、ほぼ史実だった さて、『坂の上の雲』に描かれた上野での野球は、司馬遼太郎の創作ではない。 子規自身の随筆『筆まかせ』に、明治二十三年三月二十一日の午後、上野公園の博物館横の空き地で試合をしたことが記されている。このとき子規が守ったのは、やはり捕手だった。つまり、小説の中で書生たちがボールを追っていたあの草原は、子規が実際にプレーしていた場所そのものなのである。 しかも、この試合には少し切ない背景がある。子規はその前年、明治二十二年に最初の喀血をしている。「子規」という号自体、血を吐くまで鳴くと言われるホトトギスにちなんだものだ。つまり明治二十三年春のこの試合は、すでに病を抱えた体で立ったグラウンドだった。子規が思い切りボールを追えた時間は、実はもう、残り少なかったのである。 三度読んだ小説の一場面が、百三十年以上前の上野に実在した光景だった。この事実を知ったとき、私は物語と現実の距離が、すっと縮まったような気がした。 正岡子規記念球場のこと 現在、上野公園の中に野球場がある。正式名称は「上野恩賜公園野球場」。東京文化会館の裏手にあたる、両翼六十五メートルほどの小ぶりなグラウンドで、休日には草野球や少年野球でにぎわう。 この球場に、二〇〇六年(平成十八年)七月二十一日、「正岡子規記念球場」という愛称が付けられた。上野恩賜公園の開園百三十周年を記念する事業の一環で、同じ日に句碑の除幕式も行われている。碑に刻まれているのは、子規のこの句だ。 春風や まりを投げたき 草の原 春の風に吹かれて、ボールを投げたくてたまらない。若き日の子規の、体の奥から湧き上がるような野球への思いが、十七文字にそのまま閉じ込められている。 ひとつ付け加えておくと、この球場そのものが子規の時代からあったわけではない。子規たちがプレーしたのは、あくまで公園内の空き地や草原である。後年、そのゆかりを記念して、いま公園にある球場に子規の名が冠された、というのが正確なところだ。それでも、子規がボールを追った同じ上野の杜に、彼の名を持つグラウンドがあり、今も子どもたちが白球を追いかけている。これはなかなか、いい話ではないかと思う。 白球を追った者として 実は私自身、中学から高校まで野球部で白球を追いかけてきた人間である。昭和五十年代の終わりから六十年代、来る日も来る日も泥だらけでボールを追った日々を思い出すと、明治の書生たちが上野の草原ではしゃいでいた光景が、他人事とは思えなくなる。 道具も整わない、ルールの翻訳すらこれからという時代に、それでもボールを投げ、打ち、走ることが、たまらなく楽しかったのだろう。その楽しさは、百年経っても変わらない。子規は三十四年の短い生涯のうち、晩年の多くを病床で過ごした。だからこそ、思い切り体を動かせた上野での日々は、彼にとってかけがえのない時間だったはずだ。「まりを投げたき」という句に込められた切実さは、病を得てからの子規が振り返る、あの草の原の眩しさでもあったのだと思う。 令和の野球は、ずいぶん遠くまで来た。メジャーリーグで日本人選手が当たり前に活躍し、きらびやかなボールパークの映像が毎日のように流れてくる。それ自体は素晴らしいことだと思う。けれど野球の原点は、子規たちが駆け回った、あの何もない草の原にある。ボールひとつとバットが一本あれば、それだけで日が暮れるまで楽しかった――その感覚を、私は自分の少年時代の空き地や校庭の記憶として、確かに知っている。 走って、確かめてきた その日は、上野での用事の合間に少し時間が空いた。せっかく現地にいるのだから、走らない手はない。私は身軽になって、公園の中を走り出した。 まず向かったのは、国立科学博物館の前である。大きな楠が枝を広げ、その向こうにシロナガスクジラの実物大模型が横たわっている。広場には観光客や家族連れが思い思いに腰を下ろしている。舗装された明るい広場だ。けれど、ここがあの「博物館横の空き地」の一帯なのだと思うと、足元の景色が少し違って見えてくる。百三十年あまり前、この近くで子規たちがボールを追っていた。観光客のざわめきの底に、書生たちの掛け声が聞こえてくるような気がした。 球場は、東京文化会館の裏手にあった。入口の門には、堂々と「正岡子規記念球場」の看板が掲げられている。足元のマンホールの蓋にまで、同じ文字が刻まれていた。そして、ちょうどこの日は少年たちが試合の最中だった。金網の向こう、土のグラウンドと天然芝の上を、白いユニフォームが駆けていく。打球の音と、監督の声と、子どもたちの歓声。「今も子どもたちが白球を追いかけている」と先に書いたが、それはまさに、目の前の実景だった。 句碑は、球場脇の木陰にひっそりと立っていた。これがなかなか凝った造りで、黒い御影石の上に、白い円盤がはめ込まれている。近づいてよく見ると、その円盤は野球のボールなのだ。白い革に縫い目が走り、その縫い目の間を縫うように、句が刻まれている。 春風や まりを投げたき 草の原 文字だけで知っていたこの句が、ボールの意匠の中に立ち上がっているのを見て、思わず唸ってしまった。手前には台東区教育委員会による解説板があり、平成十八年七月の建立であること、子規の経歴と野球への貢献が丁寧に記されている。 目を閉じて 句碑の前を離れ、グラウンドの脇にしばらく立った。 少年たちの声を聞きながら、私は目を閉じてみた。ここで、若き日の子規と真之が野球をしている。汗まみれの書生たちが、声を上げ、ボールを追い、笑っている。まだ何者でもない青年たちが、これから登っていく坂の上の雲を、まだ知らないままに。 目を開けると、目の前では令和の少年たちが白球を追っていた。明治の書生も、昭和の野球少年だった私も、いま目の前で駆けるあの子たちも――根っこのところは、何ひとつ変わっていない。春風の中でボールを投げたい、ただそれだけの気持ちで、人は草の原に立つのだ。 三度読んだ小説の一場面が、自分の足で立つ現実の風景とひとつになった。用事の合間のほんの短い時間だったけれど、忘れがたいひとときになった。 まだ読んだことのない方は、ぜひ一度。明治という時代を、坂の上の一朶の雲を見つめて登っていく青年たちの物語です。長い旅ですが、何度でも読み返したくなります。 新装版 坂の上の雲(一)司馬遼太郎/文春文庫(新装版・全8巻)。まずは第一巻から Amazonで見る › 皆さんには、好きな小説の舞台を訪ねてみたい場所がありますか。よろしければ、コメントで教えてください。

June 13, 2026

6月7日 ── 鉄人・衣笠祥雄、一度も休まなかった男のこと

六月の朝、まだ薄曇りの空を見上げると、私はなぜか甲子園の照明を思い出します。きょう六月七日は、昭和の野球少年だった私にとって、忘れられない大記録が生まれた日なのです。 昭和六十一年(一九八六年)六月七日。甲子園球場での阪神戦で、広島東洋カープの衣笠祥雄が、日本プロ野球史上初の「二〇〇〇試合連続出場」を達成しました。当時の衣笠は三十九歳。少年のころから「鉄人」という言葉とともに私の記憶に住みついている、あの背番号3の人です。 ただ、正直に白状すると——私はこの「二〇〇〇試合」という数字を、その当時、たいして凄いとは思っていませんでした。そのことも含めて、きょうは衣笠という人の話を書かせてください。 赤ヘルの黄金期を支えた男 衣笠が広島カープに入ったのは昭和四十年(一九六五年)。京都の平安高校では捕手として甲子園に二度出た選手でしたが、プロでは内野手に転向します。地道な練習でレギュラーをつかみ、やがて四番の山本浩二と組んで「YK砲」と呼ばれる二枚看板になりました。 昭和五十年(一九七五年)、それまで万年Bクラスと言われ続けてきた広島カープが、球団創設から二十六年目にして、ついに初めてのリーグ優勝を果たします。あの「赤ヘル旋風」の主力打者が、衣笠でした。しかも脚も速く、昭和五十一年には盗塁王のタイトルまで獲っている。ホームランも打てば、走れもする。そういう派手さも、ちゃんと持った選手だったのです。 だからこそ、その衣笠が「鉄人」という、どこか地味で武骨な異名で呼ばれ続けたことには、れっきとした理由があります。 「鉄人」を決定づけた、たった一打席 衣笠がなぜ「鉄人」と呼ばれたのか。それを語るとき、どうしても外せない一日があります。二〇〇〇試合よりも、ずっと前。昭和五十四年(一九七九年)八月一日のことです。 実はこの年、衣笠は野球人生でも指折りのスランプに苦しんでいました。打率は一時、二割を切るところまで落ち込んだ。連続フルイニング出場というもうひとつの記録が懸かっていたのに、五月にはとうとう先発を外され、その記録は途切れてしまいます。それでも代打で出場して、連続試合出場のほうは何とかつなぎ続けていた。大記録が、細い糸でかろうじて保たれていた。そんなときの出来事でした。 広島市民球場での巨人戦。マウンドにいた巨人の西本聖の投球が、衣笠の背中を直撃しました。倒れ込む衣笠。直後に両軍入り乱れての大乱闘になったというのですから、球場は相当な騒ぎだったのでしょう。病院に運ばれた衣笠は、左の肩甲骨を骨折していました。全治二週間。普通なら、長期欠場です。当然、医師は出場を止めました。このとき連続試合出場は千百二十二試合。十年近く積み上げてきた記録が、ここで途切れてもおかしくなかった。 ところが、です。 翌二日の試合、衣笠は代打で打席に立ちました。骨折した体で、バットを持って。相手は、あの怪物ルーキー・江川卓。結果は三球三振でした。けれど衣笠は、その三球すべてをフルスイングした。ヘルメットが飛ぶほどの、本気の空振りだったといいます。 衣笠が代打で姿を見せた瞬間、広島ファンだけでなく、巨人ファンも、そして巨人のベンチからまで、大きな拍手が起きたそうです。敵も味方もない。野球を見ている人間なら、誰だってあの場面には胸を打たれたはずです。 試合後、衣笠が残した言葉が、また、たまらない。 「一球目はファンのために、二球目は自分のために、三球目は西本君のためにスイングしました」 そして、こう付け足したそうです。「それにしても江川君の球は速かった」。 ぶつけた西本を責めるどころか、「西本君のために振った」と言う。痛みに耐えて立った打席の話なのに、最後はちゃんと笑える。かっこよすぎませんか。この一打席がなければ、連続試合出場記録はあの夏で終わっていたのです。 一万八千日を、休まなかった 衣笠の連続試合出場は、昭和四十五年(一九七〇年)十月十九日に始まり、昭和六十二年(一九八七年)十月二十二日まで続きました。最終的な記録は、二二一五試合。 十七年間、ただの一試合も休まなかった。 数字にすればたった四文字ですが、これがどれほど常軌を逸したことか。十七年といえば、生まれた赤ん坊が高校を卒業してしまう年月です。その間ずっと、デッドボールを受けても、熱があっても、打てない日が続いても、衣笠はグラウンドに立ち続けた。冒頭で触れた骨折の翌日でさえ休まなかった人ですから、ほかは推して知るべしでしょう。 ゲーリッグを超えた日 二〇〇〇試合到達の翌年、昭和六十二年(一九八七年)の六月。ちょうど私が高校最後の年を過ごしていたころ、衣笠はさらに信じがたい場所までたどり着きます。 大リーグの伝説の名選手ルー・ゲーリッグが持っていた、連続出場二一三〇試合という世界記録。それを、衣笠は抜いてしまったのです。万年Bクラスと言われた広島の、ひとりの内野手が、海の向こうの「不滅」と言われた記録を更新した。その年、衣笠は国民栄誉賞を受けました。背番号3は、いまもカープの永久欠番です。 高校球児だった私には、地味に見えていた さて、ここで最初の白状に戻ります。 昭和六十一年に衣笠が二〇〇〇試合に到達したとき、私は高校で野球をやっていました。来る日も来る日も白球を追いかけていた、いっぱしの球児のつもりでした。 その私の目に、「連続試合出場記録」というのは、どうにも地味に映っていたのです。 ホームランの数なら、わかる。打率なら、わかる。奪三振や勝ち星なら、誰が見たって凄い。でも「休まず出続けた試合の数」と言われても、当時の私は「ふうん、よく休まなかったね」くらいの感覚でしか受け止められなかった。派手なヒーローに憧れる十代の球児には、その地味さの奥にある凄みが、まるで見えていなかったのです。 自分が毎日グラウンドに立っていたからこそ、かえって「出続けること」を当たり前のように思っていたのかもしれません。若いというのは、そういうことなのでしょう。 いま思えば、あのころの私が憧れていたのは、一本のホームランで試合をひっくり返すような、わかりやすい英雄でした。一球、一打席で景色がガラリと変わる。その鮮やかさに、しびれていた。地道に毎日出続けるという、目立たない凄みのほうに目が向くには、私はまだ若すぎたのです。 その凄さに気づいたのは、ずっと後だった 私が衣笠の記録の本当の重さを知ったのは、それから二十年以上もたってからでした。 きっかけは、金本知憲です。広島から阪神へ移り、衣笠と同じように「鉄人」「アニキ」と呼ばれ、毎日フルイニングで出続けた、あの金本。けがをしてもグラウンドに立ち続けるその姿は、まさに衣笠の再来のようでした。誰もが「この男なら、いつか衣笠を抜くかもしれない」と思った。 ところが、その金本ですら、連続試合出場は千七百六十六試合で止まりました。 衣笠の二二一五試合には、四百試合以上も届かなかった。フル出場をひとつの誇りとして生きた、現代の鉄人。その金本が、これほど積み上げてなお、あの数字に手が届かない。そのことを知ったとき、私はようやく、背筋が寒くなるような思いで理解したのです。 ああ、衣笠のあの記録は、そういう次元の話だったのか、と。 高校球児だった私が「地味だ」と切り捨てていたものは、実は、人ひとりの選手生命をまるごと賭けても並べるかどうか、という途方もない金字塔だった。地味どころか、いちばん真似のできない記録だったのです。 派手なホームランは、調子が良ければ誰にでも飛ぶ瞬間があります。けれど「休まない」は、調子が悪い日にこそ問われる。打てない日も、痛い日も、それでも立つ。その地味の積み重ねだけが、二二一五という数字になる。 衣笠が現役を退いてから、もうすぐ四十年。あの二二一五試合は、令和のいまも破られていません。誰も、まだそこへたどり着けずにいるのです。 休まないことの、静かな凄み 考えてみれば、これはグラウンドの上だけの話ではない気がします。 派手な成果ではなく、ただ毎日、当たり前の顔をして同じ場所に立ち続ける。昭和という時代には、そういう「休まない大人」が、あちこちにいました。子どもの私は、その背中を見ても、当時は何とも思わなかった。衣笠を地味だと感じていたのと、たぶん同じことです。 凄さに気づくのは、いつだって、ずっとあとになってから。きょう六月七日、甲子園で二〇〇〇という数字が灯った日に、私はそんなことを思い返しています。 思えば、こうして昭和の一日一日を掘り起こす文章を書いていると、当時は素通りしてしまった出来事の値打ちに、いまさらながら気づかされてばかりです。衣笠の二〇〇〇試合も、まさにその一つでした。地味だと感じていたものほど、何十年もたってから、じわりと効いてくる。あのころの自分に「お前が地味だと思っているそれが、いちばん凄いんだぞ」と教えてやりたいような、そんな気分にもなります。 みなさんには、若いころは「地味だ」と思っていたのに、年を重ねてから「あれは凄いことだったんだ」と気づいた人や出来事は、ありませんか。よかったら、聞かせてください。 この連載「昭和の今日は何があった日?」は、昭和四十〜六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、ひとりの子どもだった私の目線で、その日その日に振り返っていく記録です。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? 6月6日 ― 「外で遊んではいけません」白いモヤと光化学スモッグ注意報 | 次の記事:6月8日 ── 新木場から川越へ、一本の線がつないでいた ▶

June 7, 2026

「世界の盗塁王」福本豊と、すりこぎ棒のバット──昭和の今日は何があった日?(6月3日)

6月3日。梅雨入りを目前にした、少し蒸し暑い季節だ。 カレンダーのこの一日には、子どものころの私がテレビ越しに見ていたはずの、二人のヒーローが並んでいる。ひとりは海を渡って日本人になった力士。もうひとりは、日本から「世界」へ駆け抜けた、小さな大選手だ。今日はとくに、後者の話をたっぷりさせてほしい。 まず、さらっと──ハワイの「ジェシー」が日本人になった日 1980年(昭和55年)の6月3日、大相撲の高見山が日本国籍を取得して帰化した。新しい名は「渡辺大五郎」。奥さんの姓と四股名を組み合わせた名前だった。 ハワイからやってきた、戦後初の外国出身力士。大きな体に低くしわがれた声、みんなが「ジェシー」と呼んでいた人だ。1972年の名古屋場所では、外国出身者として初めて幕内優勝も果たしている。新弟子のころ、あまりに厳しい股割りの稽古に「目から汗が出た」と漏らした逸話も忘れがたい。涙、とは言わず、汗だと言い張る。その不器用な強がりが、私は好きだった。 大相撲の立ち合い。両国国技館で行われた2010年9月場所より。高見山が活躍した昭和の土俵にも、同じような熱気があった。(Photo: Gusjer / CC BY 2.0) 国籍まで変えたのは、引退後に親方として相撲界に残るため。土俵を降りたあとも相撲とともに生きるために、生まれた国の国籍を手放したのだ。のちに東関親方として、同じハワイ出身の曙を横綱まで育て上げた。海を渡ってきた青年が、今度は次の世代を呼び寄せる。その長い橋のちょうど真ん中に、あの帰化の日はあったのだと思う。 さて──ここからが、今日の本題だ。 「世界の盗塁王」が生まれた日──昭和58年(1983年) 高見山の帰化から3年後、同じ6月3日。阪急ブレーブスの福本豊が、通算939個目の盗塁を決めて世界新記録を打ち立てた。それまでの記録は、メジャーリーグのルー・ブロックが持つ938盗塁。福本はそれをひとつ上回り、文字どおり「世界の盗塁王」になった。 その日の記録達成には、いかにも福本らしい逸話が残っている。舞台は西武球場での西武戦。一回表、ブロックに並ぶ通算938個目をあっさり決めてタイ記録に追いつくと、新記録はもう目前だった。ところが試合は終盤、点差が大きく開いてしまう。福本は「記録のためだけに走った」と思われるのを嫌い、もう走らないと心に決めていたという。それなのに、相手の内野手がしつこく牽制を入れてくる。それで負けん気に火がついて、九回、つい三塁へ飛び出してしまった──。世界記録が、半ば本人の意に反して生まれてしまったというのが、なんとも可笑しい。 プロ野球の試合のひとコマ(2005年シアトル、イチロー出場試合)。盗塁とは走者と捕手・内野手の緊張した駆け引きの果てに生まれるものだ。(Photo: Galaksiafervojo / CC BY-SA 3.0) 阪急は関西のパ・リーグの球団だから、東京の子どもだった私のテレビには、ふだんあまり映らない。それでも「世界新記録」という言葉だけは、ニュースでも学校でも、何度も耳に飛び込んできた。あの「世界」という二文字が、昭和の子どもにはとんでもなくまぶしかったのだ。あのころ、王貞治のホームランも「世界一」、福本の盗塁も「世界一」。アメリカという、はるか遠くの本場の記録を日本人が抜いていく──それは私たち少年にとって、ヒーローが怪獣を倒すのと同じくらい胸のすく出来事だった。 でも、私にとっての福本豊は、成績の数字よりも、もっと不思議で、もっと忘れがたい三つの「伝説」とともにある。 その一・足に一億円の保険 私たち昭和の野球少年のあいだでは、「福本の足には一億円の保険がかかっている」という話が、かなり有名だった。 調べてみると、これは1972年(昭和47年)のこと。シーズン盗塁記録の更新へ快走していた福本の「足」に、阪急が一億円の保険をかけたという。当時の球界では破格の金額で、大きな話題になった。もっとも、本人が一億円を受け取るという単純な話ではなく、球団側のリスク対策と話題づくりの意味合いも強かったらしい。 考えてみれば、1972年といえば私はまだ3歳。リアルタイムで知っていたはずもない。それでも、少し大きくなった私の耳に、この「一億円の足」の伝説はしっかり届いていた。人間の足に一億円──子どもにとって、それは盗塁の数字よりもずっと具体的で、ずっと夢のある話だった。校庭で足の速い子に「お前の足、一億円な」とからかうのが、しばらく流行ったりもした。 その二・サラブレッドと競走した男 もっとすごい話がある。福本は、馬と走ったのだ。 1983年(昭和58年)、西宮球場で行われたイベントで、阪急の選手たちがサラブレッドと短距離走で競走した。面白いのは、福本さん自身が後年、「最初は断った」と語っていること。ところがバンプ・ウィルスが出場を承諾したものだから、球団社長に頼まれ、結局は出場することになったそうだ。当時すでに35歳、盗塁王の大ベテランと、サラブレッドを競走させてしまうという発想自体が、いかにも昭和のプロ野球イベントらしい。 実はこのイベント、中学生だった私はかなりワクワクしながら見ていた記憶がある。……ところが情けないことに、競走の距離も、福本が勝ったのか負けたのかも、まったく覚えていないのだ。あんなに胸を躍らせたのに。覚えているのは「世界の盗塁王が、本物の馬と走るらしい」という、あの開始前の高揚感だけ。今となっては、それで十分な気もしている。 その三・すりこぎ棒のようなバット そして、これがいちばん意外な話かもしれない。 いまのファンは「盗塁王といえば、軽いバットでコンパクトに当てる選手」と思い込みがちだ。ところが福本は、まるで逆だった。本人の証言によれば、初期は940グラム台、その後はなんと1060〜1080グラムという超重量級のバットを使っていた。太くて、まるで「すりこぎ棒」のような形。周囲はその姿から「つちのこバット」とも呼んだ。 バットを力いっぱい振り切るバッター。福本豊の「すりこぎ棒」バットも、この振り切る姿勢が原点だった。(Photo: Danny Meyer, U.S. Air Force / パブリックドメイン) 持ち方も独特で、グリップエンドを数センチ余らせて、短く持って振った。だから、あの重いバットでも自在に操れたのだ。体が小さく非力だった福本は、その重さを逆に味方につけ、速い球にも力負けしなくなったのだという。決して大きくない体で通算208本塁打を放った秘密は、このあたりにありそうだ。 そもそも福本は、入団当初まったく期待されていなかった。小柄で非力な体つきを見て、周囲は「こんな選手を獲って可哀想や」とまで陰口を叩いたという。その彼に、名将・西本幸雄監督は「振り切れ」と教えた。非力な男が長打力を身につけるための逆転の発想だ。重いバットを短く持つあの独特の打ち方は、監督の教えと本人の工夫が出会ったところに生まれた答えだったのだろう。 足だけの人ではなかった。頭と工夫の人だった。 立ちションもできんようになる 最後にもうひとつ。世界記録のあと、福本は国民栄誉賞の打診を受けながら、「そんな偉い賞をもらったら、立ちションもできんようになる」と言って断ってしまった。 世界一になった人が、まじめな顔でそんなことを言う。足に一億円、馬と競走、すりこぎ棒のバット──どのエピソードにも、肩の力が抜けた可笑しみと、人を食ったような愛嬌がある。私が福本豊をいつまでも好きなのは、たぶんその飄々とした感じのせいだ。 思えば6月3日は、不思議な日だ。ハワイ生まれの大男が線を越えて日本人になり、大阪生まれの小男が線の向こうの世界記録を越えていった。向きはまるで逆なのに、どちらも「日本」と「世界」のあいだにある一本の線を、自分の体ひとつでまたいでみせた。 記録は、いつか抜かれる。実際、939という世界記録も、のちにメジャーのリッキー・ヘンダーソンが1406まで大きく塗り替えた。それでも、ブラウン管の前で「世界一だ」とワクワクした昭和の少年の胸の高鳴りは、誰にも抜かれない。 あなたの記憶の中の福本豊は、足の速さですか。それとも、すりこぎ棒のバットですか。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ── 6月2日、月にそっと手を伸ばした日 | 次の記事:6月4日は「むし歯予防デー」── 歯医者さんと駄菓子のあいだで ▶

June 2, 2026

昭和の今日は何があった日? ~5月28日~

5月28日、昭和に刻まれた三つの記憶 5月も終わりに近づいた28日。この日付には、昭和という時代の厚みを感じさせる出来事がいくつも重なっている。 縄文の巨人、山の奥で目を覚ます――昭和41年(1966年) まず昭和41年のこの日から始めたい。 屋久島の標高1,300メートル、高塚山の南斜面で、一人の役場職員が巨木に辿り着いた。旧上屋久町の観光課に勤める岩川貞次さん、42歳。古老から「山の奥に化け物みたいな杉がある」と聞かされ、その伝承を確かめるために深い森をかき分けてきたのだった。 そこに立っていたのは、胸の高さで周囲16メートルを超える、人類の記憶をはるかに遡るような杉の木だった。岩川さんはその姿に圧倒され、自分の名前「岩」の字を取って「大岩杉」と名付けた。 後に「縄文杉」と呼ばれるようになるこの木の推定樹齢は、7,200年とも2,170年とも言われる。どちらにせよ、弥生時代どころか縄文の昔から、その島で風雨をやり過ごしてきたことになる。 屋久島の縄文杉。胸高周囲16.4メートル、推定樹齢2000〜7200年。昭和41年5月28日に現代人が初めて「発見」した。(Photo: Chris 73 / CC BY-SA 3.0) 私が生まれたのは昭和40年代。縄文杉が「発見」されたのはその直前だった。発見後しばらくは世間にもほとんど知られることなく、登山ブームで一般に広まるのはずっと先のことだ。私が子どもだった頃、縄文杉という言葉を耳にした記憶はほとんどない。だが今思えば、私が公園で草野球をしたり、近所の駄菓子屋でアイスを買ったりしていたあの頃も、屋久島の奥深くでは縄文杉がただ静かにそこに立っていたのだ。 人間の営みとはまったく別の時間軸で生きている木がある。そう知るだけで、昭和という時代も、自分の子どもの頃も、ずいぶんと小さく、そしてかけがえのないものに見えてくる。 ヘルメットが宙を舞った日――昭和55年(1980年)5月28日 昭和55年のこの日、川崎球場は異様な熱気に包まれていた。 ロッテ・オリオンズの張本勲が、プロ野球史上初となる通算3000本安打の大台に、あと2本まで迫っていたのだ。 この年、張本は40歳。かつて首位打者を7度も獲得した「安打製造機」も、いまや選手生活の最終盤にいた。巨人を離れ、ロッテに移籍したのはただ一つの目的のため――3000本安打を達成すること。 阪急ブレーブス戦の第1打席で1本を積み重ね2998本。第2、第3打席は凡退。迎えた6回裏、第4打席。マウンドには、速球で名を馳せた山口高志が立っていた。張本はマウンドを見つめながら読んでいた。「記録がかかった場面で、山口もかわすピッチングはしないだろう。初球は甘く来る」。 初球だった。真ん中高めへの速球。張本のバットがうなりを上げた。打った瞬間に分かる、文句なしの当たりだった。打球はライトスタンドの照明塔を直撃して大きく弾んだ。3000本安打、それもホームランでの達成だった。 張本はヘルメットを力いっぱい宙に投げ上げ、自身も飛び上がった。ベンチが総出で駆け寄り、花火が15発打ち上げられ、黄金のくす玉が割れた。スタンドからは色とりどりのテープが舞い降りた。 そしてスタンドには、故郷・広島から母が来ていた。野球には詳しくない母だったが、3000本まで残り10本となったとき、白い丸を10個書いて1本ずつ塗りつぶしていたという。試合後、張本は母の手を取り、グラウンドへ連れ出した。 川崎球場のライトスタンド(1989年撮影)。昭和55年5月28日、この球場で張本勲が3000本安打をホームランで達成した。(Photo: Yasuoyamada / CC BY-SA 3.0) 私はあのとき小学5年生。野球が好きで、公園でよく素振りをしていた。王貞治の一本足打法を真似ることもあったが、巨人時代の張本勲の打撃フォームもよく真似ていた。あの独特の構え、広角に弾き返すしなやかなスイング。子どもが公園でコピーしたくなる、そういう「形」を持っている打者だった。 だから張本がロッテに移籍したと聞いたとき、正直「なぜ?」という気持ちがあった。巨人のユニフォームが似合いすぎていたからだ。移籍の理由が3000本安打への執念だったと知ったのは、もう少し後のことだ。そして迎えたこの5月28日、40歳の張本が現役でスタンドにホームランを叩き込んだ。いま思えば、40歳でプロの球場に立ち続けていること自体が、すでに常人の域を超えた話だった。 3085本という通算安打数は、いまも日本プロ野球の最多記録として破られていない。 教授とボウイとたけしが同じ画面にいた――昭和58年(1983年)5月28日 昭和58年、同じ5月28日に、まったく別の衝撃が日本の映画館を揺るがしていた。 大島渚監督の映画『戦場のメリークリスマス』の公開初日だった。 出演者の顔ぶれを見ると、当時の中学・高校生たちがどれほど興奮したか想像できる。デヴィッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけし。世界的ロックスター、YMOの「教授」、漫才の天才。三人とも役者が本業ではない。 私は昭和58年に14歳、中学2年生だった。YMOの音楽はラジオから流れてきていたし、ビートたけしは「THE MANZAI」や「オレたちひょうきん族」で笑いの頂点にいた時期だ。「その二人が、デヴィッド・ボウイと同じ戦争映画に出る」という情報が流れた時の、あの不思議な感覚は今も覚えている。 舞台は第二次世界大戦中のジャワ島、日本軍の捕虜収容所。坂本龍一が日本軍将校ヨノイ大尉を演じ、ボウイが捕虜の英国将校セリアズを演じた。ビートたけしは、独特の存在感で下士官ハラを演じた。 坂本龍一が手がけた映画音楽は、映像と同時代の語り草となった。「Merry Christmas Mr. Lawrence」のあのメロディは、映画を観ていない人の耳にも届いた。 坂本龍一。『戦場のメリークリスマス』で俳優・作曲家として世界に名を刻み、2023年に71歳で逝去した。(Photo: Ryota Nakanishi / CC BY-SA 3.0) 大島渚監督はかつてこう言った。「ボウイやタケシやサカモトが私を選んでくれたおかげで完成した。そのことは日本のみならず世界の驚異だった」と。 5月28日という日付に、あの映画の初日が重なっていたとは、長い間知らなかった。昭和58年の私はまだ、そこまで映画情報を丁寧に追いかけていなかった。だが今こうして振り返ると、あの夏の前、初夏の空気の中であの映画が産声を上げたことが、妙に腑に落ちる気がする。 昭和の5月28日、三つの層 縄文杉の発見、張本の3000本安打、戦場のメリークリスマスの公開。 一つは人間の時間を超えた木の話。一つは人間が血と汗で刻んだ数字の話。もう一つは、時代のアイコンたちが一つのスクリーンに集った話。 昭和という時代は、こんなふうに何層にも重なっている。あなたの5月28日の記憶には、どんなものがありますか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月27日~ドラゴンクエストの日、伝説はこうして始まった | 次の記事:5月29日——昭和が生んだ声と、千年の都を走った地下鉄 ▶

May 27, 2026

青カップのグローブ ― 昭和の空き地と、母のパート代と

高校2年の息子にキャッチャーミットの修理を頼まれた。紐が切れたのだという。その紐を手にしながら、ふと遠い記憶の蓋が開いた。 昭和の子供の放課後は、今とはまるで違う世界だった。 ランドセルを家に放り込んで外に出ると、近所の空き地には学年もクラスも関係なく子供たちが集まっていた。誰かが仕切るわけでもなく、気がつけばチームに分かれて野球が始まっている。そういう時代だった。 野球のルールを教えてくれたのも、プレーを褒めてくれたのも、みんな上級生だった。今でいう「地域の子育て」が、あの空き地では自然に成立していた。 ある日、先輩のひとりが使っているグローブが目に入った。 一目見た瞬間に、全身が反応した。あれが欲しい。 青地に白糸。カップ型に刺繍されたマーク。後から知ることになるが、それが「美津濃(ミズノ)青カップ」だった。軟式用が青、硬式用が赤。昭和の野球少年なら誰もが憧れた、あのグローブだ。 まず向かったのは、イトーヨーカドーに入っていたスポーツ店だった。しかし置いていない。 今のように大型スポーツ専門店があちこちにある時代ではなかった。どこに行けば買えるのか、小学4年生の自分には見当もつかなかった。 そこへ転機が訪れた。同じグローブをすでに買ってもらったクラスメイトが現れたのだ。うらやましさで胸がいっぱいになりながら、とにかく聞き出した。メーカーはどこか。どこで売っているのか。 教えてもらった店は、自転車で20分ほどのところにあった。ドキドキしながら扉を開けると、店内にはミズノのグローブがずらりと並んでいた。あの青カップもあった。手に取った瞬間のことは、今でもはっきり覚えている。 メーカー 美津濃(ミズノ) マーク 青カップ(軟式用) ウェブ タータンウェブ 種別・価格 オールラウンド用・7,800円 帰宅して母に話した。「あのグローブが欲しい」と。 当然、即答はなかった。しかし母はこう言ってくれた。「パートのお給料日まで待っていてね。」 7,800円。昭和の専業主婦がパートで稼ぐ金額の重さが、大人になった今にはわかる。それを出してくれるということが、どれだけのことだったか。 それからの毎日が、我ながら笑える。 放課後になると例の店へ自転車を走らせ、グローブを手に取っては棚の奥深くに押し込んで帰る。他の誰かに買われてしまわないように。それを給料日当日の夕方まで、毎日続けた。 そしてついに、その日が来た。 母のパート先の前で、仕事が終わるのを待ち構えた。そのまま二人で自転車を走らせ、店へ向かった。 店主のおじさんは僕の顔を見るなり、すぐに覚えていてくれた。毎日確認に来ていたのだから当たり前といえば当たり前だが、おじさんも一緒になって喜んでくれた。昭和の商店街には、そういう温かさがあった。 美津濃。青カップ。タータンウェブ。オールラウンド用。7,800円。 あの日グローブを手にしたときの感触は、半世紀近く経った今も手のひらに残っている。 あの頃から今まで、いくつものグローブと出会ってきた。どれも、それぞれに大切な記憶として胸の奥にしまってある。 先日、高校2年の息子にキャッチャーミットの修理を頼まれた。その紐を手にしながら、ふとあの空き地のことを思い出した。上級生たちのこと、クラスメイトのこと、そして母のパートのお給料日のことを。 今、グローブを通じて息子と関わっていること。それが、また新しい宝物になっていく気がする。

May 11, 2026