6月7日 ── 鉄人・衣笠祥雄、一度も休まなかった男のこと

六月の朝、まだ薄曇りの空を見上げると、私はなぜか甲子園の照明を思い出します。きょう六月七日は、昭和の野球少年だった私にとって、忘れられない大記録が生まれた日なのです。 昭和六十一年(一九八六年)六月七日。甲子園球場での阪神戦で、広島東洋カープの衣笠祥雄が、日本プロ野球史上初の「二〇〇〇試合連続出場」を達成しました。当時の衣笠は三十九歳。少年のころから「鉄人」という言葉とともに私の記憶に住みついている、あの背番号3の人です。 ただ、正直に白状すると——私はこの「二〇〇〇試合」という数字を、その当時、たいして凄いとは思っていませんでした。そのことも含めて、きょうは衣笠という人の話を書かせてください。 赤ヘルの黄金期を支えた男 衣笠が広島カープに入ったのは昭和四十年(一九六五年)。京都の平安高校では捕手として甲子園に二度出た選手でしたが、プロでは内野手に転向します。地道な練習でレギュラーをつかみ、やがて四番の山本浩二と組んで「YK砲」と呼ばれる二枚看板になりました。 昭和五十年(一九七五年)、それまで万年Bクラスと言われ続けてきた広島カープが、球団創設から二十六年目にして、ついに初めてのリーグ優勝を果たします。あの「赤ヘル旋風」の主力打者が、衣笠でした。しかも脚も速く、昭和五十一年には盗塁王のタイトルまで獲っている。ホームランも打てば、走れもする。そういう派手さも、ちゃんと持った選手だったのです。 だからこそ、その衣笠が「鉄人」という、どこか地味で武骨な異名で呼ばれ続けたことには、れっきとした理由があります。 「鉄人」を決定づけた、たった一打席 衣笠がなぜ「鉄人」と呼ばれたのか。それを語るとき、どうしても外せない一日があります。二〇〇〇試合よりも、ずっと前。昭和五十四年(一九七九年)八月一日のことです。 実はこの年、衣笠は野球人生でも指折りのスランプに苦しんでいました。打率は一時、二割を切るところまで落ち込んだ。連続フルイニング出場というもうひとつの記録が懸かっていたのに、五月にはとうとう先発を外され、その記録は途切れてしまいます。それでも代打で出場して、連続試合出場のほうは何とかつなぎ続けていた。大記録が、細い糸でかろうじて保たれていた。そんなときの出来事でした。 広島市民球場での巨人戦。マウンドにいた巨人の西本聖の投球が、衣笠の背中を直撃しました。倒れ込む衣笠。直後に両軍入り乱れての大乱闘になったというのですから、球場は相当な騒ぎだったのでしょう。病院に運ばれた衣笠は、左の肩甲骨を骨折していました。全治二週間。普通なら、長期欠場です。当然、医師は出場を止めました。このとき連続試合出場は千百二十二試合。十年近く積み上げてきた記録が、ここで途切れてもおかしくなかった。 ところが、です。 翌二日の試合、衣笠は代打で打席に立ちました。骨折した体で、バットを持って。相手は、あの怪物ルーキー・江川卓。結果は三球三振でした。けれど衣笠は、その三球すべてをフルスイングした。ヘルメットが飛ぶほどの、本気の空振りだったといいます。 衣笠が代打で姿を見せた瞬間、広島ファンだけでなく、巨人ファンも、そして巨人のベンチからまで、大きな拍手が起きたそうです。敵も味方もない。野球を見ている人間なら、誰だってあの場面には胸を打たれたはずです。 試合後、衣笠が残した言葉が、また、たまらない。 「一球目はファンのために、二球目は自分のために、三球目は西本君のためにスイングしました」 そして、こう付け足したそうです。「それにしても江川君の球は速かった」。 ぶつけた西本を責めるどころか、「西本君のために振った」と言う。痛みに耐えて立った打席の話なのに、最後はちゃんと笑える。かっこよすぎませんか。この一打席がなければ、連続試合出場記録はあの夏で終わっていたのです。 一万八千日を、休まなかった 衣笠の連続試合出場は、昭和四十五年(一九七〇年)十月十九日に始まり、昭和六十二年(一九八七年)十月二十二日まで続きました。最終的な記録は、二二一五試合。 十七年間、ただの一試合も休まなかった。 数字にすればたった四文字ですが、これがどれほど常軌を逸したことか。十七年といえば、生まれた赤ん坊が高校を卒業してしまう年月です。その間ずっと、デッドボールを受けても、熱があっても、打てない日が続いても、衣笠はグラウンドに立ち続けた。冒頭で触れた骨折の翌日でさえ休まなかった人ですから、ほかは推して知るべしでしょう。 ゲーリッグを超えた日 二〇〇〇試合到達の翌年、昭和六十二年(一九八七年)の六月。ちょうど私が高校最後の年を過ごしていたころ、衣笠はさらに信じがたい場所までたどり着きます。 大リーグの伝説の名選手ルー・ゲーリッグが持っていた、連続出場二一三〇試合という世界記録。それを、衣笠は抜いてしまったのです。万年Bクラスと言われた広島の、ひとりの内野手が、海の向こうの「不滅」と言われた記録を更新した。その年、衣笠は国民栄誉賞を受けました。背番号3は、いまもカープの永久欠番です。 高校球児だった私には、地味に見えていた さて、ここで最初の白状に戻ります。 昭和六十一年に衣笠が二〇〇〇試合に到達したとき、私は高校で野球をやっていました。来る日も来る日も白球を追いかけていた、いっぱしの球児のつもりでした。 その私の目に、「連続試合出場記録」というのは、どうにも地味に映っていたのです。 ホームランの数なら、わかる。打率なら、わかる。奪三振や勝ち星なら、誰が見たって凄い。でも「休まず出続けた試合の数」と言われても、当時の私は「ふうん、よく休まなかったね」くらいの感覚でしか受け止められなかった。派手なヒーローに憧れる十代の球児には、その地味さの奥にある凄みが、まるで見えていなかったのです。 自分が毎日グラウンドに立っていたからこそ、かえって「出続けること」を当たり前のように思っていたのかもしれません。若いというのは、そういうことなのでしょう。 いま思えば、あのころの私が憧れていたのは、一本のホームランで試合をひっくり返すような、わかりやすい英雄でした。一球、一打席で景色がガラリと変わる。その鮮やかさに、しびれていた。地道に毎日出続けるという、目立たない凄みのほうに目が向くには、私はまだ若すぎたのです。 その凄さに気づいたのは、ずっと後だった 私が衣笠の記録の本当の重さを知ったのは、それから二十年以上もたってからでした。 きっかけは、金本知憲です。広島から阪神へ移り、衣笠と同じように「鉄人」「アニキ」と呼ばれ、毎日フルイニングで出続けた、あの金本。けがをしてもグラウンドに立ち続けるその姿は、まさに衣笠の再来のようでした。誰もが「この男なら、いつか衣笠を抜くかもしれない」と思った。 ところが、その金本ですら、連続試合出場は千七百六十六試合で止まりました。 衣笠の二二一五試合には、四百試合以上も届かなかった。フル出場をひとつの誇りとして生きた、現代の鉄人。その金本が、これほど積み上げてなお、あの数字に手が届かない。そのことを知ったとき、私はようやく、背筋が寒くなるような思いで理解したのです。 ああ、衣笠のあの記録は、そういう次元の話だったのか、と。 高校球児だった私が「地味だ」と切り捨てていたものは、実は、人ひとりの選手生命をまるごと賭けても並べるかどうか、という途方もない金字塔だった。地味どころか、いちばん真似のできない記録だったのです。 派手なホームランは、調子が良ければ誰にでも飛ぶ瞬間があります。けれど「休まない」は、調子が悪い日にこそ問われる。打てない日も、痛い日も、それでも立つ。その地味の積み重ねだけが、二二一五という数字になる。 衣笠が現役を退いてから、もうすぐ四十年。あの二二一五試合は、令和のいまも破られていません。誰も、まだそこへたどり着けずにいるのです。 休まないことの、静かな凄み 考えてみれば、これはグラウンドの上だけの話ではない気がします。 派手な成果ではなく、ただ毎日、当たり前の顔をして同じ場所に立ち続ける。昭和という時代には、そういう「休まない大人」が、あちこちにいました。子どもの私は、その背中を見ても、当時は何とも思わなかった。衣笠を地味だと感じていたのと、たぶん同じことです。 凄さに気づくのは、いつだって、ずっとあとになってから。きょう六月七日、甲子園で二〇〇〇という数字が灯った日に、私はそんなことを思い返しています。 思えば、こうして昭和の一日一日を掘り起こす文章を書いていると、当時は素通りしてしまった出来事の値打ちに、いまさらながら気づかされてばかりです。衣笠の二〇〇〇試合も、まさにその一つでした。地味だと感じていたものほど、何十年もたってから、じわりと効いてくる。あのころの自分に「お前が地味だと思っているそれが、いちばん凄いんだぞ」と教えてやりたいような、そんな気分にもなります。 みなさんには、若いころは「地味だ」と思っていたのに、年を重ねてから「あれは凄いことだったんだ」と気づいた人や出来事は、ありませんか。よかったら、聞かせてください。 この連載「昭和の今日は何があった日?」は、昭和四十〜六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、ひとりの子どもだった私の目線で、その日その日に振り返っていく記録です。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? 6月6日 ― 「外で遊んではいけません」白いモヤと光化学スモッグ注意報 | 次の記事:6月8日 ── 新木場から川越へ、一本の線がつないでいた ▶

June 7, 2026

「世界の盗塁王」福本豊と、すりこぎ棒のバット──昭和の今日は何があった日?(6月3日)

6月3日。梅雨入りを目前にした、少し蒸し暑い季節だ。 カレンダーのこの一日には、子どものころの私がテレビ越しに見ていたはずの、二人のヒーローが並んでいる。ひとりは海を渡って日本人になった力士。もうひとりは、日本から「世界」へ駆け抜けた、小さな大選手だ。今日はとくに、後者の話をたっぷりさせてほしい。 まず、さらっと──ハワイの「ジェシー」が日本人になった日 1980年(昭和55年)の6月3日、大相撲の高見山が日本国籍を取得して帰化した。新しい名は「渡辺大五郎」。奥さんの姓と四股名を組み合わせた名前だった。 ハワイからやってきた、戦後初の外国出身力士。大きな体に低くしわがれた声、みんなが「ジェシー」と呼んでいた人だ。1972年の名古屋場所では、外国出身者として初めて幕内優勝も果たしている。新弟子のころ、あまりに厳しい股割りの稽古に「目から汗が出た」と漏らした逸話も忘れがたい。涙、とは言わず、汗だと言い張る。その不器用な強がりが、私は好きだった。 大相撲の立ち合い。両国国技館で行われた2010年9月場所より。高見山が活躍した昭和の土俵にも、同じような熱気があった。(Photo: Gusjer / CC BY 2.0) 国籍まで変えたのは、引退後に親方として相撲界に残るため。土俵を降りたあとも相撲とともに生きるために、生まれた国の国籍を手放したのだ。のちに東関親方として、同じハワイ出身の曙を横綱まで育て上げた。海を渡ってきた青年が、今度は次の世代を呼び寄せる。その長い橋のちょうど真ん中に、あの帰化の日はあったのだと思う。 さて──ここからが、今日の本題だ。 「世界の盗塁王」が生まれた日──昭和58年(1983年) 高見山の帰化から3年後、同じ6月3日。阪急ブレーブスの福本豊が、通算939個目の盗塁を決めて世界新記録を打ち立てた。それまでの記録は、メジャーリーグのルー・ブロックが持つ938盗塁。福本はそれをひとつ上回り、文字どおり「世界の盗塁王」になった。 その日の記録達成には、いかにも福本らしい逸話が残っている。舞台は西武球場での西武戦。一回表、ブロックに並ぶ通算938個目をあっさり決めてタイ記録に追いつくと、新記録はもう目前だった。ところが試合は終盤、点差が大きく開いてしまう。福本は「記録のためだけに走った」と思われるのを嫌い、もう走らないと心に決めていたという。それなのに、相手の内野手がしつこく牽制を入れてくる。それで負けん気に火がついて、九回、つい三塁へ飛び出してしまった──。世界記録が、半ば本人の意に反して生まれてしまったというのが、なんとも可笑しい。 プロ野球の試合のひとコマ(2005年シアトル、イチロー出場試合)。盗塁とは走者と捕手・内野手の緊張した駆け引きの果てに生まれるものだ。(Photo: Galaksiafervojo / CC BY-SA 3.0) 阪急は関西のパ・リーグの球団だから、東京の子どもだった私のテレビには、ふだんあまり映らない。それでも「世界新記録」という言葉だけは、ニュースでも学校でも、何度も耳に飛び込んできた。あの「世界」という二文字が、昭和の子どもにはとんでもなくまぶしかったのだ。あのころ、王貞治のホームランも「世界一」、福本の盗塁も「世界一」。アメリカという、はるか遠くの本場の記録を日本人が抜いていく──それは私たち少年にとって、ヒーローが怪獣を倒すのと同じくらい胸のすく出来事だった。 でも、私にとっての福本豊は、成績の数字よりも、もっと不思議で、もっと忘れがたい三つの「伝説」とともにある。 その一・足に一億円の保険 私たち昭和の野球少年のあいだでは、「福本の足には一億円の保険がかかっている」という話が、かなり有名だった。 調べてみると、これは1972年(昭和47年)のこと。シーズン盗塁記録の更新へ快走していた福本の「足」に、阪急が一億円の保険をかけたという。当時の球界では破格の金額で、大きな話題になった。もっとも、本人が一億円を受け取るという単純な話ではなく、球団側のリスク対策と話題づくりの意味合いも強かったらしい。 考えてみれば、1972年といえば私はまだ3歳。リアルタイムで知っていたはずもない。それでも、少し大きくなった私の耳に、この「一億円の足」の伝説はしっかり届いていた。人間の足に一億円──子どもにとって、それは盗塁の数字よりもずっと具体的で、ずっと夢のある話だった。校庭で足の速い子に「お前の足、一億円な」とからかうのが、しばらく流行ったりもした。 その二・サラブレッドと競走した男 もっとすごい話がある。福本は、馬と走ったのだ。 1983年(昭和58年)、西宮球場で行われたイベントで、阪急の選手たちがサラブレッドと短距離走で競走した。面白いのは、福本さん自身が後年、「最初は断った」と語っていること。ところがバンプ・ウィルスが出場を承諾したものだから、球団社長に頼まれ、結局は出場することになったそうだ。当時すでに35歳、盗塁王の大ベテランと、サラブレッドを競走させてしまうという発想自体が、いかにも昭和のプロ野球イベントらしい。 実はこのイベント、中学生だった私はかなりワクワクしながら見ていた記憶がある。……ところが情けないことに、競走の距離も、福本が勝ったのか負けたのかも、まったく覚えていないのだ。あんなに胸を躍らせたのに。覚えているのは「世界の盗塁王が、本物の馬と走るらしい」という、あの開始前の高揚感だけ。今となっては、それで十分な気もしている。 その三・すりこぎ棒のようなバット そして、これがいちばん意外な話かもしれない。 いまのファンは「盗塁王といえば、軽いバットでコンパクトに当てる選手」と思い込みがちだ。ところが福本は、まるで逆だった。本人の証言によれば、初期は940グラム台、その後はなんと1060〜1080グラムという超重量級のバットを使っていた。太くて、まるで「すりこぎ棒」のような形。周囲はその姿から「つちのこバット」とも呼んだ。 バットを力いっぱい振り切るバッター。福本豊の「すりこぎ棒」バットも、この振り切る姿勢が原点だった。(Photo: Danny Meyer, U.S. Air Force / パブリックドメイン) 持ち方も独特で、グリップエンドを数センチ余らせて、短く持って振った。だから、あの重いバットでも自在に操れたのだ。体が小さく非力だった福本は、その重さを逆に味方につけ、速い球にも力負けしなくなったのだという。決して大きくない体で通算208本塁打を放った秘密は、このあたりにありそうだ。 そもそも福本は、入団当初まったく期待されていなかった。小柄で非力な体つきを見て、周囲は「こんな選手を獲って可哀想や」とまで陰口を叩いたという。その彼に、名将・西本幸雄監督は「振り切れ」と教えた。非力な男が長打力を身につけるための逆転の発想だ。重いバットを短く持つあの独特の打ち方は、監督の教えと本人の工夫が出会ったところに生まれた答えだったのだろう。 足だけの人ではなかった。頭と工夫の人だった。 立ちションもできんようになる 最後にもうひとつ。世界記録のあと、福本は国民栄誉賞の打診を受けながら、「そんな偉い賞をもらったら、立ちションもできんようになる」と言って断ってしまった。 世界一になった人が、まじめな顔でそんなことを言う。足に一億円、馬と競走、すりこぎ棒のバット──どのエピソードにも、肩の力が抜けた可笑しみと、人を食ったような愛嬌がある。私が福本豊をいつまでも好きなのは、たぶんその飄々とした感じのせいだ。 思えば6月3日は、不思議な日だ。ハワイ生まれの大男が線を越えて日本人になり、大阪生まれの小男が線の向こうの世界記録を越えていった。向きはまるで逆なのに、どちらも「日本」と「世界」のあいだにある一本の線を、自分の体ひとつでまたいでみせた。 記録は、いつか抜かれる。実際、939という世界記録も、のちにメジャーのリッキー・ヘンダーソンが1406まで大きく塗り替えた。それでも、ブラウン管の前で「世界一だ」とワクワクした昭和の少年の胸の高鳴りは、誰にも抜かれない。 あなたの記憶の中の福本豊は、足の速さですか。それとも、すりこぎ棒のバットですか。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ── 6月2日、月にそっと手を伸ばした日 | 次の記事:6月4日は「むし歯予防デー」── 歯医者さんと駄菓子のあいだで ▶

June 2, 2026

昭和の今日は何があった日? ~5月28日~

5月28日、昭和に刻まれた三つの記憶 5月も終わりに近づいた28日。この日付には、昭和という時代の厚みを感じさせる出来事がいくつも重なっている。 縄文の巨人、山の奥で目を覚ます――昭和41年(1966年) まず昭和41年のこの日から始めたい。 屋久島の標高1,300メートル、高塚山の南斜面で、一人の役場職員が巨木に辿り着いた。旧上屋久町の観光課に勤める岩川貞次さん、42歳。古老から「山の奥に化け物みたいな杉がある」と聞かされ、その伝承を確かめるために深い森をかき分けてきたのだった。 そこに立っていたのは、胸の高さで周囲16メートルを超える、人類の記憶をはるかに遡るような杉の木だった。岩川さんはその姿に圧倒され、自分の名前「岩」の字を取って「大岩杉」と名付けた。 後に「縄文杉」と呼ばれるようになるこの木の推定樹齢は、7,200年とも2,170年とも言われる。どちらにせよ、弥生時代どころか縄文の昔から、その島で風雨をやり過ごしてきたことになる。 屋久島の縄文杉。胸高周囲16.4メートル、推定樹齢2000〜7200年。昭和41年5月28日に現代人が初めて「発見」した。(Photo: Chris 73 / CC BY-SA 3.0) 私が生まれたのは昭和40年代。縄文杉が「発見」されたのはその直前だった。発見後しばらくは世間にもほとんど知られることなく、登山ブームで一般に広まるのはずっと先のことだ。私が子どもだった頃、縄文杉という言葉を耳にした記憶はほとんどない。だが今思えば、私が公園で草野球をしたり、近所の駄菓子屋でアイスを買ったりしていたあの頃も、屋久島の奥深くでは縄文杉がただ静かにそこに立っていたのだ。 人間の営みとはまったく別の時間軸で生きている木がある。そう知るだけで、昭和という時代も、自分の子どもの頃も、ずいぶんと小さく、そしてかけがえのないものに見えてくる。 ヘルメットが宙を舞った日――昭和55年(1980年)5月28日 昭和55年のこの日、川崎球場は異様な熱気に包まれていた。 ロッテ・オリオンズの張本勲が、プロ野球史上初となる通算3000本安打の大台に、あと2本まで迫っていたのだ。 この年、張本は40歳。かつて首位打者を7度も獲得した「安打製造機」も、いまや選手生活の最終盤にいた。巨人を離れ、ロッテに移籍したのはただ一つの目的のため――3000本安打を達成すること。 阪急ブレーブス戦の第1打席で1本を積み重ね2998本。第2、第3打席は凡退。迎えた6回裏、第4打席。マウンドには、速球で名を馳せた山口高志が立っていた。張本はマウンドを見つめながら読んでいた。「記録がかかった場面で、山口もかわすピッチングはしないだろう。初球は甘く来る」。 初球だった。真ん中高めへの速球。張本のバットがうなりを上げた。打った瞬間に分かる、文句なしの当たりだった。打球はライトスタンドの照明塔を直撃して大きく弾んだ。3000本安打、それもホームランでの達成だった。 張本はヘルメットを力いっぱい宙に投げ上げ、自身も飛び上がった。ベンチが総出で駆け寄り、花火が15発打ち上げられ、黄金のくす玉が割れた。スタンドからは色とりどりのテープが舞い降りた。 そしてスタンドには、故郷・広島から母が来ていた。野球には詳しくない母だったが、3000本まで残り10本となったとき、白い丸を10個書いて1本ずつ塗りつぶしていたという。試合後、張本は母の手を取り、グラウンドへ連れ出した。 川崎球場のライトスタンド(1989年撮影)。昭和55年5月28日、この球場で張本勲が3000本安打をホームランで達成した。(Photo: Yasuoyamada / CC BY-SA 3.0) 私はあのとき小学5年生。野球が好きで、公園でよく素振りをしていた。王貞治の一本足打法を真似ることもあったが、巨人時代の張本勲の打撃フォームもよく真似ていた。あの独特の構え、広角に弾き返すしなやかなスイング。子どもが公園でコピーしたくなる、そういう「形」を持っている打者だった。 だから張本がロッテに移籍したと聞いたとき、正直「なぜ?」という気持ちがあった。巨人のユニフォームが似合いすぎていたからだ。移籍の理由が3000本安打への執念だったと知ったのは、もう少し後のことだ。そして迎えたこの5月28日、40歳の張本が現役でスタンドにホームランを叩き込んだ。いま思えば、40歳でプロの球場に立ち続けていること自体が、すでに常人の域を超えた話だった。 3085本という通算安打数は、いまも日本プロ野球の最多記録として破られていない。 教授とボウイとたけしが同じ画面にいた――昭和58年(1983年)5月28日 昭和58年、同じ5月28日に、まったく別の衝撃が日本の映画館を揺るがしていた。 大島渚監督の映画『戦場のメリークリスマス』の公開初日だった。 出演者の顔ぶれを見ると、当時の中学・高校生たちがどれほど興奮したか想像できる。デヴィッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけし。世界的ロックスター、YMOの「教授」、漫才の天才。三人とも役者が本業ではない。 私は昭和58年に14歳、中学2年生だった。YMOの音楽はラジオから流れてきていたし、ビートたけしは「THE MANZAI」や「オレたちひょうきん族」で笑いの頂点にいた時期だ。「その二人が、デヴィッド・ボウイと同じ戦争映画に出る」という情報が流れた時の、あの不思議な感覚は今も覚えている。 舞台は第二次世界大戦中のジャワ島、日本軍の捕虜収容所。坂本龍一が日本軍将校ヨノイ大尉を演じ、ボウイが捕虜の英国将校セリアズを演じた。ビートたけしは、独特の存在感で下士官ハラを演じた。 坂本龍一が手がけた映画音楽は、映像と同時代の語り草となった。「Merry Christmas Mr. Lawrence」のあのメロディは、映画を観ていない人の耳にも届いた。 坂本龍一。『戦場のメリークリスマス』で俳優・作曲家として世界に名を刻み、2023年に71歳で逝去した。(Photo: Ryota Nakanishi / CC BY-SA 3.0) 大島渚監督はかつてこう言った。「ボウイやタケシやサカモトが私を選んでくれたおかげで完成した。そのことは日本のみならず世界の驚異だった」と。 5月28日という日付に、あの映画の初日が重なっていたとは、長い間知らなかった。昭和58年の私はまだ、そこまで映画情報を丁寧に追いかけていなかった。だが今こうして振り返ると、あの夏の前、初夏の空気の中であの映画が産声を上げたことが、妙に腑に落ちる気がする。 昭和の5月28日、三つの層 縄文杉の発見、張本の3000本安打、戦場のメリークリスマスの公開。 一つは人間の時間を超えた木の話。一つは人間が血と汗で刻んだ数字の話。もう一つは、時代のアイコンたちが一つのスクリーンに集った話。 昭和という時代は、こんなふうに何層にも重なっている。あなたの5月28日の記憶には、どんなものがありますか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月27日~ドラゴンクエストの日、伝説はこうして始まった | 次の記事:5月29日——昭和が生んだ声と、千年の都を走った地下鉄 ▶

May 27, 2026