六月の朝、まだ薄曇りの空を見上げると、私はなぜか甲子園の照明を思い出します。きょう六月七日は、昭和の野球少年だった私にとって、忘れられない大記録が生まれた日なのです。
昭和六十一年(一九八六年)六月七日。甲子園球場での阪神戦で、広島東洋カープの衣笠祥雄が、日本プロ野球史上初の「二〇〇〇試合連続出場」を達成しました。当時の衣笠は三十九歳。少年のころから「鉄人」という言葉とともに私の記憶に住みついている、あの背番号3の人です。
ただ、正直に白状すると——私はこの「二〇〇〇試合」という数字を、その当時、たいして凄いとは思っていませんでした。そのことも含めて、きょうは衣笠という人の話を書かせてください。
赤ヘルの黄金期を支えた男
衣笠が広島カープに入ったのは昭和四十年(一九六五年)。京都の平安高校では捕手として甲子園に二度出た選手でしたが、プロでは内野手に転向します。地道な練習でレギュラーをつかみ、やがて四番の山本浩二と組んで「YK砲」と呼ばれる二枚看板になりました。
昭和五十年(一九七五年)、それまで万年Bクラスと言われ続けてきた広島カープが、球団創設から二十六年目にして、ついに初めてのリーグ優勝を果たします。あの「赤ヘル旋風」の主力打者が、衣笠でした。しかも脚も速く、昭和五十一年には盗塁王のタイトルまで獲っている。ホームランも打てば、走れもする。そういう派手さも、ちゃんと持った選手だったのです。
だからこそ、その衣笠が「鉄人」という、どこか地味で武骨な異名で呼ばれ続けたことには、れっきとした理由があります。

「鉄人」を決定づけた、たった一打席
衣笠がなぜ「鉄人」と呼ばれたのか。それを語るとき、どうしても外せない一日があります。二〇〇〇試合よりも、ずっと前。昭和五十四年(一九七九年)八月一日のことです。
実はこの年、衣笠は野球人生でも指折りのスランプに苦しんでいました。打率は一時、二割を切るところまで落ち込んだ。連続フルイニング出場というもうひとつの記録が懸かっていたのに、五月にはとうとう先発を外され、その記録は途切れてしまいます。それでも代打で出場して、連続試合出場のほうは何とかつなぎ続けていた。大記録が、細い糸でかろうじて保たれていた。そんなときの出来事でした。
広島市民球場での巨人戦。マウンドにいた巨人の西本聖の投球が、衣笠の背中を直撃しました。倒れ込む衣笠。直後に両軍入り乱れての大乱闘になったというのですから、球場は相当な騒ぎだったのでしょう。病院に運ばれた衣笠は、左の肩甲骨を骨折していました。全治二週間。普通なら、長期欠場です。当然、医師は出場を止めました。このとき連続試合出場は千百二十二試合。十年近く積み上げてきた記録が、ここで途切れてもおかしくなかった。
ところが、です。
翌二日の試合、衣笠は代打で打席に立ちました。骨折した体で、バットを持って。相手は、あの怪物ルーキー・江川卓。結果は三球三振でした。けれど衣笠は、その三球すべてをフルスイングした。ヘルメットが飛ぶほどの、本気の空振りだったといいます。
衣笠が代打で姿を見せた瞬間、広島ファンだけでなく、巨人ファンも、そして巨人のベンチからまで、大きな拍手が起きたそうです。敵も味方もない。野球を見ている人間なら、誰だってあの場面には胸を打たれたはずです。
試合後、衣笠が残した言葉が、また、たまらない。
「一球目はファンのために、二球目は自分のために、三球目は西本君のためにスイングしました」
そして、こう付け足したそうです。「それにしても江川君の球は速かった」。
ぶつけた西本を責めるどころか、「西本君のために振った」と言う。痛みに耐えて立った打席の話なのに、最後はちゃんと笑える。かっこよすぎませんか。この一打席がなければ、連続試合出場記録はあの夏で終わっていたのです。
一万八千日を、休まなかった
衣笠の連続試合出場は、昭和四十五年(一九七〇年)十月十九日に始まり、昭和六十二年(一九八七年)十月二十二日まで続きました。最終的な記録は、二二一五試合。
十七年間、ただの一試合も休まなかった。
数字にすればたった四文字ですが、これがどれほど常軌を逸したことか。十七年といえば、生まれた赤ん坊が高校を卒業してしまう年月です。その間ずっと、デッドボールを受けても、熱があっても、打てない日が続いても、衣笠はグラウンドに立ち続けた。冒頭で触れた骨折の翌日でさえ休まなかった人ですから、ほかは推して知るべしでしょう。
ゲーリッグを超えた日
二〇〇〇試合到達の翌年、昭和六十二年(一九八七年)の六月。ちょうど私が高校最後の年を過ごしていたころ、衣笠はさらに信じがたい場所までたどり着きます。
大リーグの伝説の名選手ルー・ゲーリッグが持っていた、連続出場二一三〇試合という世界記録。それを、衣笠は抜いてしまったのです。万年Bクラスと言われた広島の、ひとりの内野手が、海の向こうの「不滅」と言われた記録を更新した。その年、衣笠は国民栄誉賞を受けました。背番号3は、いまもカープの永久欠番です。

高校球児だった私には、地味に見えていた
さて、ここで最初の白状に戻ります。
昭和六十一年に衣笠が二〇〇〇試合に到達したとき、私は高校で野球をやっていました。来る日も来る日も白球を追いかけていた、いっぱしの球児のつもりでした。
その私の目に、「連続試合出場記録」というのは、どうにも地味に映っていたのです。
ホームランの数なら、わかる。打率なら、わかる。奪三振や勝ち星なら、誰が見たって凄い。でも「休まず出続けた試合の数」と言われても、当時の私は「ふうん、よく休まなかったね」くらいの感覚でしか受け止められなかった。派手なヒーローに憧れる十代の球児には、その地味さの奥にある凄みが、まるで見えていなかったのです。
自分が毎日グラウンドに立っていたからこそ、かえって「出続けること」を当たり前のように思っていたのかもしれません。若いというのは、そういうことなのでしょう。
いま思えば、あのころの私が憧れていたのは、一本のホームランで試合をひっくり返すような、わかりやすい英雄でした。一球、一打席で景色がガラリと変わる。その鮮やかさに、しびれていた。地道に毎日出続けるという、目立たない凄みのほうに目が向くには、私はまだ若すぎたのです。
その凄さに気づいたのは、ずっと後だった
私が衣笠の記録の本当の重さを知ったのは、それから二十年以上もたってからでした。
きっかけは、金本知憲です。広島から阪神へ移り、衣笠と同じように「鉄人」「アニキ」と呼ばれ、毎日フルイニングで出続けた、あの金本。けがをしてもグラウンドに立ち続けるその姿は、まさに衣笠の再来のようでした。誰もが「この男なら、いつか衣笠を抜くかもしれない」と思った。
ところが、その金本ですら、連続試合出場は千七百六十六試合で止まりました。
衣笠の二二一五試合には、四百試合以上も届かなかった。フル出場をひとつの誇りとして生きた、現代の鉄人。その金本が、これほど積み上げてなお、あの数字に手が届かない。そのことを知ったとき、私はようやく、背筋が寒くなるような思いで理解したのです。
ああ、衣笠のあの記録は、そういう次元の話だったのか、と。
高校球児だった私が「地味だ」と切り捨てていたものは、実は、人ひとりの選手生命をまるごと賭けても並べるかどうか、という途方もない金字塔だった。地味どころか、いちばん真似のできない記録だったのです。
派手なホームランは、調子が良ければ誰にでも飛ぶ瞬間があります。けれど「休まない」は、調子が悪い日にこそ問われる。打てない日も、痛い日も、それでも立つ。その地味の積み重ねだけが、二二一五という数字になる。
衣笠が現役を退いてから、もうすぐ四十年。あの二二一五試合は、令和のいまも破られていません。誰も、まだそこへたどり着けずにいるのです。
休まないことの、静かな凄み
考えてみれば、これはグラウンドの上だけの話ではない気がします。
派手な成果ではなく、ただ毎日、当たり前の顔をして同じ場所に立ち続ける。昭和という時代には、そういう「休まない大人」が、あちこちにいました。子どもの私は、その背中を見ても、当時は何とも思わなかった。衣笠を地味だと感じていたのと、たぶん同じことです。
凄さに気づくのは、いつだって、ずっとあとになってから。きょう六月七日、甲子園で二〇〇〇という数字が灯った日に、私はそんなことを思い返しています。
思えば、こうして昭和の一日一日を掘り起こす文章を書いていると、当時は素通りしてしまった出来事の値打ちに、いまさらながら気づかされてばかりです。衣笠の二〇〇〇試合も、まさにその一つでした。地味だと感じていたものほど、何十年もたってから、じわりと効いてくる。あのころの自分に「お前が地味だと思っているそれが、いちばん凄いんだぞ」と教えてやりたいような、そんな気分にもなります。
みなさんには、若いころは「地味だ」と思っていたのに、年を重ねてから「あれは凄いことだったんだ」と気づいた人や出来事は、ありませんか。よかったら、聞かせてください。
この連載「昭和の今日は何があった日?」は、昭和四十〜六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、ひとりの子どもだった私の目線で、その日その日に振り返っていく記録です。
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