六月十七日。梅雨の合間の、どんよりと重たい空を思い出します。昭和六十年(一九八五年)のこの日、一人の柔道家が現役引退を表明しました。山下泰裕さん。全日本選手権九連覇、ロサンゼルス五輪・無差別級の金メダリスト。そして、いまもって破られていない二〇三連勝という記録を抱えたままの、静かな引退でした。
でも、その話をする前に、どうしても先に書いておきたい夏があります。前の年、昭和五十九年(一九八四年)の夏。ロサンゼルス・オリンピックです。
受験勉強のはずが、テレビの前に座っていた
私にとってロス五輪は、物心がついて初めて、テレビ画面とはいえ自分の意思でしっかり「観て」「応援した」オリンピックでした。だからでしょうか、各競技での日本人選手の活躍は、いまでも驚くほどはっきりと記憶に残っています。
当時の私は中学三年生、十五歳。夏の大会を最後に野球部はもう引退していて、本来なら高校受験に向けて、机にかじりついていなければならない時期でした。ところが、です。連日のオリンピック中継が気になって気になって、どうにも勉強が手につかない。「いまは観ている場合じゃない」と頭では分かっているのに、参考書を開いては、つい音のするほうへ、テレビの前へと吸い寄せられてしまう。外では蝉が鳴いていて、母が台所で立ち働く音がして、そのなかで私だけが、教科書ではなく遠いロサンゼルスとつながっている。受験生としては、いささか困った夏でした。

このロス五輪というのは、日本にとって少し特別な大会でもありました。その四年前、昭和五十五年のモスクワ大会には、日本は政治的な事情で参加できなかった。出場すらかなわなかった選手たちの悔し涙を、子どもながらにニュースで見ていた記憶があります。だからこそ、八年ぶりに堂々と世界の舞台に戻ってきたロス五輪は、見る側の私たちにとっても、どこか「待ちわびていた夏」だったのです。受験を控えた中学三年生の私でさえ、こうして机を離れて引きずり込まれてしまうほどに。
ぴたりと止めた着地と、あの笑顔
なかでも忘れられないのが、体操の森末慎二さんです。種目別・鉄棒の決勝。最後の最後、二回宙返りで降りてきて、その着地をぴたりと止めた瞬間。そして、ゆっくりと、かみしめるように両手を上げていったときの、あの『笑顔』。子ども心にも、「完璧というのは、こういうことを言うんだ」と思いました。
あとで知ったのですが、森末さんはこの鉄棒で十点満点をマークしていたのですね。一切の減点がない、まさにパーフェクトの演技。それをリアルタイムで観ていたのだと思うと、いまさらながら鳥肌が立ちます。森末さんはこの大会、鉄棒で金、跳馬で銀、団体で銅と、一つの大会で金銀銅すべてを持ち帰りました。けれど私の中に焼きついているのは、メダルの色よりも、あの着地と、あの笑顔のほうなのです。
森末さんといえば、自分の名前がそのまま技の名前になっている、数少ない選手の一人でもあります。「モリスエ」と呼ばれるオリジナルの大技。世界のだれもやっていなかった動きを、自分の体で切りひらいて、自分の名を冠した技として残す。子どもだった私には、その意味の大きさまでは分かっていませんでしたが、「この人は、ただ上手なだけの人ではないんだ」ということだけは、なんとなく伝わってきていました。
あの夏、五輪の舞台に野球があった
そして、野球です。
ロス五輪では、野球が公開競技として行われていました。正式競技ではないけれど、この大会から各国の代表チーム同士が本気でぶつかり合う形になった。野球小僧だった私には、これがたまらなくうれしかったのを覚えています。自分が毎日ボールを追いかけているその競技が、世界の頂点を決める同じ舞台に並んでいる。それだけで、なんだか誇らしいような気持ちになったものです。
日本代表は、大学生と社会人の選手で編成されたアマチュアチームでした。プロは一人もいない。それでも勝ち上がり、決勝では開催国アメリカを六対三で破って優勝。公開競技ながら、オリンピック初代の野球王者になったのです。プロのスターではない、自分と地続きのように見えるお兄さんたちが、世界の頂点に立った。あの夏、私の中で野球とオリンピックが、初めて一本の線でつながった気がしました。
いま思えば、あの夏の私は、ただ漫然とテレビを観ていたのではなかったのかもしれません。つい数か月前まで、来る日も来る日も土埃の舞うグラウンドで白球を追いかけ、思うようにいかずに悔し涙をのみ、それでも翌朝にはまたバットを握っていた。その日々の、地続きの延長線上に、画面の向こうの選手たちがいたのです。同じように汗をかき、同じように歯を食いしばってきた人たちが、世界のいちばん高いところで、笑ったり、足を引きずったりしている。だからこそ、どうしても人ごとには思えなかった。応援というより、ほとんど自分のことのように観ていた。それが、あの夏のオリンピックだったように思います。
「勝って当たり前」を背負った人
そして、山下泰裕さんです。
いまの若い人には少し想像しにくいかもしれませんが、当時の日本の柔道には「勝って当たり前」という独特の空気がありました。とりわけ山下さんのような絶対王者には、銀でも銅でもなく、金メダルしか許されない。そういう途方もないプレッシャーが、目に見えない重しのようにのしかかっていたはずなのです。

ロス五輪の無差別級。山下さんは二回戦で、右足のふくらはぎを痛めてしまいます。肉離れでした。足を引きずりながら畳に上がっていく王者の姿に、テレビの前の私は思わず息をのみました。あの強い山下さんが、まともに歩けていない。それでも山下さんは勝ち進み、決勝もきっちり制して、金メダルをもぎ取った。
あの瞬間、私はテレビ画面に向かって、歓喜の絶叫をあげていました。誰に聞かせるでもなく、一人で、本当に大きな声で叫んだのを覚えています。「勝って当たり前」を、怪我を負ってなお本当に勝ち切ってしまう人がいる。十五歳の私には、それが人間業とは思えない、途方もないことに見えました。
ただ、その本当の凄みを思い知ったのは、ずっと後年のことでした。大人になってから、私自身がふくらはぎを肉離れしたことがあります。そのとき、いやというほど分かったのです。肉離れというのは、満足に歩くことすらできない。一歩ごとに痛みが走って、足を引きずるのがやっと。スポーツをするなど、とんでもない話です。その状態で――しかも世界じゅうが見つめる五輪の決勝の舞台で――山下さんは相手を投げ、勝ち切ったのか、と。十五歳の夏にテレビの前で叫んだあの感動が、何十年もたって、今度は自分の足の痛みを通して、まったく違う重みでよみがえってきました。あのとき私が叫んでいたものの大きさを、本当の意味で理解できたのは、皮肉にも自分が同じ場所を痛めたときだったのです。
そして一年後、無敵のまま畳を降りた
その山下さんが、翌・昭和六十年六月十七日――あの夏に勉強そっちのけでテレビにかじりついた私が、どうにか高校に進んで一年生になっていた、その年の初夏に――記者会見で引退を表明します。
全日本選手権は昭和五十二年から九連覇。世界選手権でも計四度、頂点に立ちました。そしてロス五輪の金メダル。引退から逆算して、その連勝記録は二〇三。負けないまま、誰にも倒されないまま、自分の意思で静かに畳を降りていったのです。前の年には国民栄誉賞も受けていました。アマチュアのスポーツ選手としては、初めての受賞だったと記憶しています。
「勝って当たり前」という重圧を、最後の最後まで背負い、そして実際に勝ち続けた人。その人が、傷を負ってもなお負けず、絶頂のまま身を引いていく。あの夏の絶叫とは、また違う種類の余韻が、私の胸の中に残りました。強い人が、強いまま去っていく。それはどこか、潔さとさみしさが半分ずつ混じったような、不思議な感覚でした。負けて去るのではなく、勝ったまま終わる。子どもだった私には、その引き際の美しさの意味が、まだ半分も分かっていなかったのだと思います。
ロス五輪が、また帰ってくる
時は流れて、令和です。
あのとき足を引きずりながら金メダルを取った山下さんは、のちに日本オリンピック委員会(JOC)の会長を務めるまでになりました。畳の上のたった一人の王者が、やがて日本のスポーツ全体を背負う立場になっていったわけです。あの夏に絶叫していた少年からすれば、なんとも感慨深い話です。

そして、もう一つ。私が生まれて初めて本気で応援した、あのロサンゼルスという街が、二〇二八年、ふたたびオリンピックの開催地になります。じつに四十四年ぶりのロス五輪です。あの夏、テレビの前で絶叫していた十五歳の少年は、その二〇二八年には五十九歳――六十歳を目前にした年齢になっています。子どもたちも、それぞれの道を歩き始めました。それでも、「ロサンゼルス」という地名を耳にすると、私はいまでも真っ先に、森末さんのあの笑顔と、山下さんの金メダルの瞬間を思い出すのです。
二〇二八年の夏、私はまた、テレビの前で誰かを本気で応援しているでしょうか。きっと、しているのだと思います。あの夏に教わった「観て、応援する」という幸せは、四十年あまりたっても、ちっとも色あせていないのですから。
あなたが、生まれて初めて自分の意思で「観て」「応援した」オリンピックは、どの大会でしたか。テレビの前で思わず叫んでしまった、あの瞬間の記憶があれば、ぜひ聞かせてください。
このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。
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