「裸足で歩く」に近づきたくて。5本指ベアフットシューズ「ZEROH」を履いて、路線バスを運転してみた

最近、ちょっと変わった靴を買った。 その名は、「ZEROH(ゼロ)」。 5本指タイプのベアフットシューズである。 靴なのだから、本来は足を守るためのもの。 ところが、このZEROHが目指しているのは、どうやらその逆方向でもあるらしい。 靴を履きながら、できるだけ「裸足」に近づける。 足の指を自由にする。 足裏を感じる。 そして、足本来の動きを取り戻していく。 そんな発想の靴だ。 私は現在、ランニングでは「自作ワラーチ」を履いている。 これまで2か月半ほどで約370km。 20km走を3回、15km走を2回、10km程度のランニングも何度も経験した。 その中で、自分でも少し不思議に感じている変化があった。 足の小指が、ちゃんと仕事をするようになってきたのだ。 これまであまり意識したことのなかった足指が、地面をつかむような感覚。 「足って、本来こうやって使うものなのかもしれない」 そんなことを考えるようになった。 そこで興味が出てきたのが、5本指のシューズだった。 ワラーチから、もう一歩 私が普段のランニングで使っているのは、市販のランニングシューズではない。 自分で作ったワラーチだ。 ワラーチの良さは、とにかく足が自由なこと。 ソールは薄く、足指を締め付けるものもない。 地面の状態が、そのまま足裏に伝わってくる。 もちろん、最初から誰にでもおすすめできるものではない。 それなりに足を慣らす必要がある。 私自身も、いきなり長距離を走ったわけではない。 少しずつ距離を伸ばしてきた。 そして今回、 「この感覚を、もう少し安全に、もう少し普通の靴に近い形で実現できないだろうか」 と思った。 そこで選んだのがZEROHだった。 ZEROHが届いた 注文していたZEROHが届いた。 箱を開けて最初に感じたのは、 「思っていた以上に普通の靴っぽい」 ということだった。 もっと裸足感丸出しの、特殊な履き物を想像していた。 ところが実物を見ると、ちゃんと一足のシューズになっている。 ただし、つま先を見ると普通の靴とは明らかに違う。 5本の指が、それぞれ独立している。 親指から小指まで、足の指の形に合わせて分かれている。 ソールもかなり薄い。 そして柔らかい。 手に持って曲げてみても、普通のランニングシューズのような「靴底の硬さ」がない。 これは、かなり期待できそうだ。 数字で見ると、こんなスペックだ。 ソール厚:約5mm 片足重量:約150g アッパー:通気性のあるメッシュ素材 価格:6,980円(税込) ソール5mmというのは、普通のランニングシューズを知っている人からすると、ほとんど「無い」に等しい厚みだと思う。 片足150gという軽さも、実際に持ってみると驚く。 そして価格。 7,000円を切っている。 ベアフットシューズというジャンルには、もっと高価なものもある。 最初の一足として試してみるには、手を出しやすい価格帯だと感じた。 サイズはLを選んだ 私の足の実寸は、 右足:約25.7cm 左足:約25.8cm 幅は左右とも約11cm。 足型は、親指が一番長く、人差し指がそれにかなり近い。 この足でZEROHのサイズを検討し、今回はLサイズを選んだ。 5本指シューズは、普通の靴以上にサイズ選びが重要だと思う。 大きすぎれば、足が靴の中で動いてしまう。 逆に小さすぎれば、せっかく5本の指が自由になるはずなのに、指が押さえつけられてしまう。 今回のLサイズが自分の足にどう合うのか。 これは実際に履いて確かめるしかない。 ...

September 16, 2026

9月8日 ── 毒霧を吹いた日本人と、中間子を予言した日本人|昭和の今日は何があった日?

九月八日には、まるで似ていない二人の日本人が並んでいます。 一人は、顔を白と赤に塗り分け、口から緑色の霧を吹いた男。もう一人は、原子核の中に誰も見たことのない粒子があると言い当て、日本人で初めてノーベル賞を受けた学者。 ザ・グレート・カブキは昭和二十三年(一九四八年)九月八日に生まれ、湯川秀樹は昭和五十六年(一九八一年)九月八日に亡くなりました。片方は誕生日、片方は命日。共通点は日付だけ。 それでも今日はこの二人を並べてみます。子どもだった私にとって「世界で通用した日本人」は、どういう顔をしていたのか。そう考えると、どうしてもこの二人が同じ線の上に乗ってくるのです。 延岡の自転車屋の三男坊 ザ・グレート・カブキ、本名を米良明久(めら・あきひさ)といいます。宮崎県延岡市に三人兄弟の末っ子として生まれました。お父さんは戦艦大和の元乗組員で、戦後は自転車店を営んでいたそうです。中学二年で愛知県知立市へ移り、学生時代は水泳の選手として活躍、柔道にも打ち込んでいました。 昭和三十九年(一九六四年)一月、日本プロレスに入門。同じ年の十月三十一日、宮城・石巻大会の山本小鉄戦でデビュー。翌年、リングネームを高千穂明久に改めます。 ここまでは、正直に言って、地味です。派手な必殺技があるわけでもない、堅実に試合を組み立てる中堅どころ。日本プロレスが崩壊すると全日本プロレスへ移り、そこでも中堅のまま、やがてアメリカへ渡ります。 昭和五十六年(一九八一年)一月、そのアメリカで、彼は「ザ・グレート・カブキ」になりました。 歌舞伎の隈取りのようなペイント。般若の面をつけた連獅子姿、鎖帷子をまとった忍者スタイル、日本刀を携えた鎧武者姿。両手のヌンチャクを唸らせ、口から霧を吹く。「東洋の神秘」という異名がつきました。 面白いのは、アメリカでの彼の「出身地」が、日本ではなくシンガポールとされていたことです。当時のアメリカには、すでに日本製の自動車も電化製品も行き渡っていた。日本はもう「神秘の国」ではなかったのです。だから、もっと遠い、もっと得体の知れない場所から来たことにする必要があった。日本人が日本人であることを隠して「東洋の神秘」を演じる。あの時代の日本と世界の距離が、そのまま写り込んでいるように思います。 そしてこのギミックが、爆発しました。 昭和五十八年二月、カブキが帰ってきた 昭和五十八年(一九八三年)二月、カブキは凱旋帰国します。全日本プロレスのリングに、カブキのまま登場。馬場や鶴田と並ぶほどの人気を得た、と記録されています。世に言う「カブキブーム」です。 180センチ、110キロ。数字だけなら、当時のプロレス界で飛び抜けて大きいわけではありません。それでも画面の中で、あの顔は明らかに異物でした。 私は全日本も見ていました。土曜日の夕方ではなかったでしょうか。新年恒例の、たくさんのレスラーがリングに上がって生き残りをかけるバトルロイヤルは、毎年の楽しみでした。 毒霧も、もちろん見ました。ただ、かっこいいと言うよりは、あの「異様」さのほうに興味を持ちました。緑色の霧が口から噴き出す。あれには驚かされたものです。 私はタイガーマスクが好きな少年でしたが、怪奇派の悪役が嫌いだったかというと、まったく逆です。タイガーマスクだけでは盛り上がりませんよね。やはり実力と人気もある悪役レスラーが存在してこそ、引き立つヒーローでしょう。カブキは、その役割そのものでした。 そして学校でどうしたか──当然、やりました(笑)。水を口に含んで、思いきり吹く。あれをやらなかった中学生が、あのころどれだけいたでしょうか。 日本を出るときは中堅だった男が、アメリカで別人になって帰ってきた。しかもその別人は、外国人が思い描く「日本」を思いきり誇張した姿をしていた。逆輸入では足りない、奇妙なねじれがそこにはあります。このスタイルは、のちのグレート・ムタに受け継がれていきました。 中学時代まで、プロレスの見方は小学生のころと変わりませんでした。全日本も新日本も、どちらも興味を持って観ていた。ただ感覚的には、周りで話題になっていたのはアントニオ猪木の新日のほうだったように思います。カブキは、その外側から現れました。 その二年前、同じ日に カブキがアメリカで生まれ変わったのが昭和五十六年一月。その同じ年の九月八日、京都で一人の学者が亡くなりました。 湯川秀樹。生まれは東京の麻布、育ちは京都でした。 昭和十年(一九三五年)、二十代の若さで、原子核の中で陽子や中性子を結びつける「中間子」という粒子の存在を、理論的に予言しました。実物は誰も見ていない。計算と理屈だけで、そこに何かがあるはずだと言い切ったのです。 十二年後の一九四七年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが、宇宙線の中からパイ中間子を発見します。紙の上で言い当てたものが、本当にあった。そして昭和二十四年(一九四九年)、湯川秀樹は日本人として初めてノーベル賞を受賞しました。 戦争に負けて四年目です。焼け跡がまだ残る国で、日本人がノーベル賞を受けた。国じゅうが沸いたと伝わっているのも、無理はないと思います。 昭和四十五年(一九七〇年)に京都大学を定年退官。その後は前立腺癌を患い、自宅で療養しながら学術活動を続けました。米ソの緊張が激しくなるなか、亡くなる年の六月には十五年ぶりに第四回科学者京都会議を実現させ、相当に悪い体で車椅子のまま出席して、核兵器の廃絶を訴えています。 その三か月後、急性肺炎から心不全を併発し、京都市左京区の自宅で亡くなります。七十四歳。 昭和五十六年九月八日。私は小学六年生でした。 そして正直に書きますが、私はこの日を覚えていません。 湯川秀樹という名前は、いつの間にか聞き覚えがあるな、という感じで頭の中にありました。学校で習ったのか、テレビで見たのか、伝記で読んだのか、はっきりしません。ノーベル賞という言葉も、詳しくは分かっていませんでした。理科や科学に興味があったかというと、これも正直、特にありませんでした。あのころの私は「あばれはっちゃく」タイプの小学六年生です。日本人初のノーベル賞学者が亡くなった日、私はたぶん、外で走り回っていました。 その湯川秀樹が、自分の子ども時代から物理学の道に入るまでを書いた回想録があります。文庫で七七〇円。難しい数式は出てきません。あの写真の人が、どんな子どもだったのか。 旅人 ある物理学者の回想(角川ソフィア文庫)湯川秀樹/KADOKAWA。日本初のノーベル賞学者が、幼少期から青年期までを自ら綴った回想録。星4.3(190件) Amazonで見る › 「世界で通用した日本人」の顔 この二人を並べたいと思ったのは、子どもの私にとって「世界で通用した日本人」という言葉が、まるで違う二つの顔をしていたからです。 湯川秀樹は、教科書と伝記の中にいる人でした。偉い。すごい。でも、遠い。中間子と言われても、何のことだかわかりません。名前と「日本人初のノーベル賞」という肩書きだけが、記号のように頭に入っている。実感は、ありませんでした。 一方、カブキはテレビの中で動いていました。アメリカで大成功して帰ってきた日本人が、目の前で霧を吹いている。何がどうすごいのか理屈はわからなくても、「向こうで通用した」ということだけは、体でわかった気がしました。 いま並べてみると、この二人は正反対のことをやっています。 湯川秀樹は、誰も見たことのないものを「ある」と言い当てた人です。日本人であることを隠す必要も、誇張する必要もない。数式の前では、国籍は関係がありません。 カブキは逆です。日本人であることを外国人の期待に合わせて思いきり作り込み、しかも出身地はシンガポールということにされた。中身ではなく、見え方で勝負した。 ...

September 8, 2026

8月30日 ── 世界の王が「800」に届いた日|昭和の今日は何があった日?

昭和53年(1978年)8月30日。水曜日でした。 夏休みは、あと2日。9歳、小学3年生の夏の終わりです。 その日の昼間、私が何をしていたかといえば、たぶんプールに行ったか、路地で野球をしていたか、セミを追いかけていたか。宿題のことも気にはなっていたはずですが、それ以上に「今日、何して遊ぶ?」で頭がいっぱいの毎日でした。 そして、その日の夜。私はテレビの前にいました。 後楽園球場で、ひとつの数字が動いた夜です。 800。 1回、大川浩から 相手は横浜大洋ホエールズでした。この年、大洋は川崎から横浜に本拠地を移し、チーム名も「横浜大洋ホエールズ」に変わったばかりでした。 1回。マウンドにいたのは大川浩投手。王貞治がその球を捉え、打球は後楽園のスタンドへ飛び込みました。通算800号ホームラン。 試合が始まってすぐの、あっけないような一発でした。もっとも、王貞治のホームランというのは、たいていそういうものだったのかもしれません。物語のクライマックスのように打つのではなく、ごく普通の顔をして、当たり前のように打つ。そういう打者でした。 このとき王は38歳。プロ20年目のシーズンです。 テレビの前にいた9歳 私は、その瞬間をリアルタイムで見ていました。 9歳の私が「800号」という数字の持つ本当のすごさを理解していたかというと、正直、そんなことはありません。それでも「王さんが800本打った」ということが、とてつもない記録なのだということは、子どもなりに分かっていたと思います。 当時の私にとって、王さんはテレビの中にいる特別な存在でした。巨人の4番で、ホームランを打つのが当たり前のような人。「王さんなら打つでしょ」という感覚も、どこかにはあったのかもしれません。 ただ、この800号だけは、それまでの「ホームランをたくさん打つ王さん」とは少し違って見えました。800本。子どもにも分かりやすい、大きくて、きれいな数字です。「すごいことをやったんだな」という印象が、いまも強く残っています。 新聞やニュースで後から知ったのではなく、テレビでその瞬間を見ていた。振り返ってみると、これはずいぶん貴重な記憶です。 「800」という数字が持っていた重さ いま「800本」と聞いても、実感がわきにくいかもしれません。何しろその後、王自身が868本まで積み上げてしまったからです。800はあくまで通過点で、記録としては868のほうが有名になりました。 けれど、あの当時の800には、独特の手ざわりがありました。 前の年、昭和52年(1977年)9月3日に、王はハンク・アーロンの記録を抜く通算756号を放っています。世界新記録でした。その2日後の9月5日には、第1回の国民栄誉賞を受けています。この賞は、王を表彰するために新しく作られたようなものでした。 つまり、王貞治はすでに「世界一」だったのです。ゴールテープはもう切っていた。それなのに、そこから1年足らずで、さらに44本を積み増して800に届いた。 昭和の子どもにとって、王貞治は「記録を作る人」ではありませんでした。「記録が、あの人の後ろからついてくる人」でした。誰も走っていない道を、ひとりで先へ先へと進んでいく。800という切りのいい数字は、そのことをあらためて教えてくれる数字だったのだと思います。 その道を、本人の言葉でたどれる一冊があります。早実の投手だったころから、打者への転向、一本足打法、そして世界記録まで。当時テレビの前にいた側からすると、答え合わせのような本です。 もっと遠くへ(私の履歴書)王貞治/日本経済新聞出版。早稲田実業のエースだった少年時代から、巨人V9、一本足打法、ハンク・アーロン超えまでを本人が語った自伝。星4.4 Amazonで見る › 中継が終わってからが、私の時間だった 当時のナイター中継は、9時前に終わってしまうこともありました。試合はまだ続いているのに、画面が切り替わってしまう。あれが子どもには耐えられませんでした。 だから、中継が終わると布団に入り、イヤホンを耳に突っ込んで、ラジオで続きを聴くのです。家族に聞こえないように、小さな音で。親に叱られた記憶は、不思議とありません。 布団の中で目を閉じて、アナウンサーの声だけを頼りに試合を追う。テレビで見た場面を思い出しながら、「今、どうなっているんだろう」「巨人は勝っているかな」と想像していました。私にとって後楽園球場は、映像であると同時に、あの「音」でもあったのです。 そして、あの年の巨人の打順は、いまでも口をついて出てきます。 1番・センター柴田勲。2番・セカンド土井正三。3番・レフト張本勲。4番・ファースト王貞治。5番・ライト柳田真宏。6番・サード高田繁。7番・ショート河埜。8番・キャッチャー吉田孝司。9番・ピッチャー堀内恒夫。 こうして並べてみると、本当にすごい面々です。柴田選手から始まって、張本選手、王選手と続く打線には、子ども心にも迫力がありました。私がいちばん好きだったのは、やはり王さん。それから、柴田選手の俊足と、堀内投手のピッチングにも憧れていました。 そして長嶋茂雄さんは、このときすでに監督でした。私は長嶋さんの現役時代を詳しく知りません。「昔の巨人の大スターで、今は監督をしている人」という印象でした。その一方で、王さんはまだグラウンドに立ち、4番を打っていた。 長嶋さんが巨人の歴史を象徴する人だとすれば、王さんは、その歴史をいまもグラウンドで続けている人。9歳の私の中で、ONはそういう二人でした。 翌日の路地は、全員が一本足になる 王貞治の一本足打法は、昭和の子どもにとって「真似するもの」でした。 家の前の、幅4メートルほどの路地。プラスチックのバットとビニールボール。細かいローカルルールで成り立っていた、あの野球です。あそこで右足を高く上げてみた子どもは、日本中に何百万人といたはずです。もちろん、上げたところで当たりません。ぐらぐらして、空振りして、笑われて終わりです。 それでも、やりました。特に、王さんが前の晩にホームランを打った翌日は、絶対にやりました。誰に言われるでもなく、その日の路地はみんな一本足になるのです。 だとすれば、800号の翌日、8月31日の路地の光景も、想像がつきます。夏休み最後の日、宿題を積み残した小学生たちが、全員そろって右足を上げていた。当たらなくても、いいのです。あの形をとった瞬間だけ、自分が王貞治になれたのですから。 そして、優勝はヤクルトのものになった ここから先は、巨人ファンにはあまり楽しくない話です。 昭和53年の巨人は、長嶋監督の4年目。8月が終わった時点で首位に立っていました。2位ヤクルトとは1.5ゲーム差。8月下旬には一時4.5ゲーム差をつけ、優勝マジックの点灯目前まで迫っていたのです。 王が800号を打ったのは、まさにその、いちばん高いところにいた時期でした。 ところがそこから、チームは坂を転げ落ちるように失速します。3試合連続サヨナラ勝ちで勢いづくヤクルトとは対照的に、巨人は下位相手に取りこぼしを重ねた。10月4日、優勝を逃すことが決まりました。日本一になったのは、広岡達朗監督のヤクルト。球団創立以来、初めての優勝でした。 あの驚きは、いまも覚えています。万年弱小と言われていたヤクルトが、広岡監督のもとで優勝してしまった。子どもの世界の常識が、ひっくり返ったような出来事でした。 そして王さんは、この2年後、昭和55年(1980年)11月4日に現役を引退します。通算868本。 「まだ早い。もっと見ていたい」 それが、当時の正直な気持ちでした。800号を打ったあの夜からたった2年で、テレビの中の4番打者がいなくなってしまう。子どもだった私には、うまく飲み込めませんでした。 800号は、坂の頂上で打たれた一本だったのです。 800という数字を、いま数え直す 大人になって、この数字を別の角度から見るようになりました。 いま、私の子どもが野球をやっています。その姿を見ているからこそ、800号という数字が、当時以上にとんでもないものに感じられるのです。 子どもが一本ホームランを打つだけで、親は大騒ぎです。練習をして、試合に出て、何十打席、何百打席と積み重ねて、その中でようやく一本が出る。それを800本。 ...

August 30, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月22日──氷の三千キロと、スイカのタネ

正直に書きます。私はこの日のことを、まったく知りませんでした。 八月二十二日に何があったのか調べていて、ひとつの名前に行き当たりました。植村直己。名前は知っています。知らない日本人のほうが少ないでしょう。でも、その人が昭和53年の八月二十二日に何を成し遂げたのか——私はこの記事を書くまで、知らなかったのです。 昭和53年8月22日、グリーンランド南端 その日、植村直己はグリーンランドの南端、ヌナタックと呼ばれる岩峰にたどり着きました。 出発は同じ年の五月十二日。グリーンランド最北端の、モーリス・ジェサップ岬。そこから犬ぞりで、この巨大な島を北から南へ、まっすぐ縦に走り抜ける。七月十二日には内陸氷床の最高地点、標高3240メートルを越えました。走った距離は3000キロ近く。三か月あまりの旅でした。 しかもこれは、後半戦にすぎません。 その年の一月三十日、彼は日本を発っています。二月にカナダ最北の島へ入り、三月五日、コロンビア岬から犬ぞり「オーロラ号」で出発。17頭のハスキー犬を率いて、乱氷の海を800キロ。四月二十九日、北極点に到達しました。犬ぞりによる単独での北極点到達は、世界で初めてのことでした。37歳。 北極点に立ち、そこから飛行機でグリーンランド北端へ運ばれ、休むことなくそのまま南へ走り出す。八月二十二日は、一月末に日本を出てから半年以上におよんだ、その長い旅の終着点だったのです。 「一口千円」で送り出された人 調べていて、いちばん胸に残ったのはここでした。 この冒険は、資金が足りませんでした。スポンサー三社だけでは賄いきれず、全国的に「一口千円募金」が呼びかけられたのだそうです。千円。当時の千円です。国家の事業でもなければ、大企業の宣伝でもない。ひとりの男が氷の上を走るために、日本中から千円札が集められた。 北極点をめぐっては、もうひとつの物語もありました。植村が到達する前日、四月二十八日に、日本大学の遠征隊5人が犬ぞりで日本人初の北極点到達を果たしていたのです。同じ時期に、同じ手段で。世間は「どちらが先に着くか」と沸いたといいます。 昭和53年の日本には、それだけの熱があった。北極が、氷が、犬ぞりが、新聞やテレビの真ん中にあったのです。 そして九月一日、旅を終えて帰国した彼は、記者会見でこう言ったそうです。「女房より犬がかわいい」。半年間、十七頭とだけ暮らして帰ってきた人の言葉です。 氷の上で、彼は何をしていたか 「犬ぞりで走った」と一行で書いてしまうと、なんだかスイスイ滑っていったように聞こえます。実際はまるで逆でした。 北極点をめざす前半戦、出発してすぐに待っていたのは乱氷帯です。氷が押し合ってできた大小の塊が、視界の果てまでひしめいている。そりが通れる道などありません。鉄棒で氷を叩き割り、ルートをこじ開けながら進む。二日たっても三日たっても、出発点の岬がすぐ後ろに見えている。そんな日が続いたといいます。 白熊にテントを襲われたこともありました。引き裂かれたテントの中で、ただ息を殺してじっとしていた。動かなかったことが幸いして、熊はドッグフードのほうへ興味を移していったそうです。 一方、後半のグリーンランド縦断では、そりに帆を張りました。風を受けて走れる日は、心にも余裕が生まれる。そして彼は、その余裕でこんなことをしています。 名古屋大学の研究所から依頼されて、雪や水や空気のサンプルを採集していたのです。停滞して動けない日には、のんびりと採集をしている——そんな記述が日誌に残っています。さらに六分儀で自分の位置を確認していたとき、グリーンランド北部のある山の位置が、地図と20キロずれていることに気づきました。のちに人工衛星による調査で、彼の指摘のほうが正しかったことが証明されています。 たった一人で氷の上を走りながら、地図の間違いを見つけて帰ってきた。そういう人だったのです。 その日、私はスイカのタネを飛ばしていた さて、ここからが本題です。 昭和53年8月22日。私は9歳、小学3年生でした。夏休みの終盤。あと十日ほどで二学期がはじまる、あの独特の焦りが漂いはじめる時期です。 その日私はたぶん、朝9時頃から友だちと区民プールへ行って、2時間くらい泳いでいました。帰宅してお昼ご飯を食べたあと、また友だちと再合流して、路地野球です。 途中で、誰かのお母さんがスイカを切ってお盆にのせて持ってきてくれる。なぜか縁台がどこの家にもあって、それを道路に出して腰を掛け、みんなでスイカにかぶりつき、タネをピュッ、ピュッと口から吹き飛ばしては笑い合っていた。そんな時代でした。 昭和53年といえば、私が巨人の打順をそらで言えるようになった年でもあります。柴田、土井、張本、王、柳田、高田、河埜、吉田、堀内。四十八年経った今でも口をついて出てきます。路地でバットを振っていた9歳の頭の中を占めていたのは、要するにそういうものでした。北極も氷床も、入り込む隙間などありません。 ——これが、昭和53年8月22日の私です。 同じ日、地球の北の果てで、ひとりの日本人が三千キロを走りきって旅を終えていた。氷点下の世界を半年かけて渡りきった男が、南端の岩にたどり着いていた。 こちらは葛飾の路地で、スイカのタネを飛ばしていました。 どちらが上でも下でもありません。ただ、同じ一日というものの中に、そんなに違うものが同時に入っているのだということに、四十八年経ってから気がついたわけです。 いつの間にか、知っていた名前 では、植村直己という名前を私はいつ知ったのか。 これがまた、はっきりしないのです。 たぶん中学生以降だったと思います。教科書や本で読んだ記憶はありませんから、おそらくテレビでしょう。子どもの頃の私には活字を読む習慣がありませんでしたから、教科書に載っていたとしても、素通りしていた可能性は大いにあります。 いつの間にか知っていた——というのが、いちばん正直な実感です。 昭和59年(1984年)の二月、彼が北米最高峰マッキンリーの冬期単独登頂に世界で初めて成功し、その下山中に消息を絶ったこと。二月十二日、43歳の誕生日に頂上に立ち、翌十三日を最後に消えたこと。没後に国民栄誉賞が贈られたこと。 これも、当時どうだったかの記憶がないのです。私は14歳、中学2年生。テレビも新聞も家にあったはずなのに、そのニュースを見た瞬間というものが、私の中に残っていません。その後にいつの間にか知ったんだと思います。 つまり私にとっての植村直己は、入口のない知識なのです。いつ入ってきたのかわからないまま、気づいたら中にあった。そういう名前が、誰にでもいくつかあるのではないでしょうか。 わからない、ということ こういう記事を書いていると、最後にうまいことを言いたくなります。 たとえば私は路線バスの運転手ですから、「毎日決まった道を走る自分と、道のないところを走った植村さんと」——などと並べてみたくなる。書けなくはありません。 でも、正直に言います。私にはわからないのです。 植村さんの立場に立って考えることなど、とてもできません。氷点下四十度の中で、たった一人で、犬十七頭だけを頼りに半年間を過ごす。その日々に何を思っていたのか、想像しようとしても手が届かない。そのくらい、常人とはかけ離れていた方なのではないでしょうか。 だから並べません。並べるのは、たぶん失礼です。 私にできるのは、知らなかったことを知った、と書くことだけです。九歳の私は知らなかった。十四歳の私も、たぶんぼんやりとしか知らなかった。五十七歳になって、ようやく八月二十二日という日付にたどり着いた。 それでいいのだと思います。人生のほとんどの日は、誰かの最良の一日と重なっていて、私たちはそれを知らないまま通り過ぎていく。でも、あとから知ることはできる。今日という日に、あとから意味を足すことはできる。これは、そんなに悪くないことのような気がします。 ...

August 22, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月21日──300点が出た夜、私は1歳だった

8月21日は「パーフェクトの日」だそうです。 パーフェクト。完璧。何のことかと思ったら、ボウリングでした。1ゲーム、12回続けてストライクを出して300点。1本も残さない。1投も外さない。あのピンが全部倒れる小気味いい音を、12回続けて鳴らしきるということです。 昭和45年8月21日。東京・府中のスターレーンで、その300点が出ました。投げたのは中山律子さん。女子プロボウラーとして史上初の、公認パーフェクトゲームでした。 そして私は、その日、1歳4か月でした。 府中スターレーンの、あの一投 昭和44年、日本に女子プロボウラーが誕生します。第1期生は13人。プロテストの合格順がそのままライセンス番号になり、1番が須田開代子さん、2番が中山律子さん、3番が石井利枝さん。この顔ぶれが、のちに「花のトリオ」と呼ばれることになります。 そして翌昭和45年8月21日、府中スターレーンで開かれた女子プロ8月月例会。海野房枝さんとの優勝決定戦の場で、中山さんの手から放たれたボールが、12回続けてピンを薙ぎ倒しました。 この日が決定的だったのには、理由があります。テレビカメラが回っていたのです。当時のNETテレビ(現在のテレビ朝日)が『レディズ・チャレンジボウル』という番組を収録していて、その録画放送が夕食の時間帯だった。つまり、日本中の茶の間がいちばん賑わっている時間に、あの300点が流れたわけです。 ちなみに中山さんは、その最後の一投を見ていなかったそうです。怖くて目をつむってしまった。10本のピンが弾けたことは、場内の歓声で分かった。振り向いて客席に両手を突き上げ、その後のことはよく覚えていない——後年、そう語っています。完璧を達成した本人が、その瞬間だけを見ていない。何とも人間くさい話です。 さらに言えば、この日の中山さんは、会場へ向かうタクシーが交通事故に巻き込まれています。幸いけがはなく、予定通り月例会に出場した。その日に300点を出したわけです。 達成の報は、一夜にして列島を駆け巡りました。翌年にはシャンプーのCMに起用され、「さわやか律子さん」というフレーズが流行語になります。「300点への道 さわやか律子さん」というドキュメンタリーのレコードまで作られました。今の感覚だと、ちょっと想像がつきません。 3697軒という数字 数字で見ると、この熱狂の異常さがよく分かります。 昭和35年、日本全国にボウリング場はたった3か所しかありませんでした。それが昭和47年には、3697軒。12年で1000倍以上です。ちなみに近年の数字は、全国で700軒前後。ピーク時の5分の1以下です。 当時の熱狂ぶりを伝える話も、いま聞くと嘘のようです。ボウリング場は順番待ちが2時間当たり前。テレビのゴールデンタイムには各局にボウリング番組が並び、当時無敵だった巨人戦と視聴率を争ったといいます。巨人戦と、です。 その中心にいたのが、中山さんと須田さんでした。動物的なカンの持ち主と評された中山さんは長嶋茂雄、完璧主義者の須田さんは王貞治——当時はそう例えられ、その構図が新聞の挿絵にまでなったそうです。巨人ファンの私からすると、この比喩だけで当時の空気がだいたい想像できてしまいます。ONに例えられるということは、つまり、国民全員が知っている二人だったということですから。 そして、その熱がいちばん高かったころ、私は寝返りを打っていたか、つかまり立ちをしていたか、そのくらいの月齢でした。当然ながら——記憶にございません。 高砂、立石、青戸、金町 ただ、「記憶にない」で終わらないのが、この話の面白いところです。 ブームはオイルショックのころから急速にしぼんでいきました。私が物心つく昭和50年前後には、「一大ブーム」はもう過去のものです。けれど、ブームが去っても建物は残ります。私が知っているボウリング場は、熱狂そのものではなく、その燃えかすのほうでした。 そしてその燃えかすは、私の街にもありました。高砂のイトーヨーカドー。あの5階が、ボウリング場だったのです。買い物に行くたびに、あそこにある。分かってはいるけれど、小さかった私は、5階でプレーした記憶がありません。 高砂だけではありません。立石にも、青戸にも、金町にもありました。それぞれの街に、それぞれの「燃えかす」があった。屋上に立つ、あの巨大なピンの看板。白と赤の、あの奇妙に大きな物体が、空を突いていた光景を、私ははっきり覚えています。 昭和45年の熱狂を、私は知りません。けれど、その熱狂が街に残していった形だけは、毎日のように見上げて育ったわけです。 中学3年、ジュークボックスの夜 初めてボウリングをしたのは、中学3年生のときでした。 中学の友達同士で、大人の付き添いなしで行きました。これが大きい。あのころ、子どもだけで入っていい場所と、そうでない場所の線引きは、今よりずっとはっきりしていました。ボウリング場は、明らかに後者に近い。ちょっと悪いことをしているような、それでいて、大人の世界にほんの少し足を踏み入れたような——あの興奮を、今でも覚えています。 決定的だったのは、ジュークボックスでした。 置いてあるのは見えている。けれど、それが何なのか分からない。まごついている私に、友達の一人が実際に金を入れて、教えてくれました。コインを入れる。曲を選ぶ。すると機械の中でレコードが自動的に選ばれて、スピーカーから曲が流れる。 アメリカ映画に出てくるやつだ、と思いました。 考えてみれば、あのころ私にとって音楽とは、木曜9時の『ザ・ベストテン』であり、カセットに録るものでした。テレビが流してくれるものを、こちらは待つ。それが当たり前だった。ところがジュークボックスは、金を入れれば、自分の聴きたい曲がその場で鳴る。順番待ちも、司会の進行もない。あの箱は、音楽の主導権がこちらに移る装置だったわけです。 あのとき、たしかに私は「大人の世界」の入口を覗いたのだと思います。ボウリングそのものより、あの箱のほうが、はるかに強く記憶に残っています。 年に一度でも投げに行くなら、手首のサポーターがひとつあると違います。私のようにふだん投げない人間ほど、後半に手首が負けてくるので。 ABS スーパーリスト(ボウリング用リストサポーター)アメリカンボウリングサービスの定番。手首の角度が決まるので、終盤にフォームが崩れにくくなります。3サイズ展開 Amazonで見る › テレビの中の、背中の文字 中山律子さんについては、正直、記憶が曖昧です。 シャンプーのCMを見たような気がしているのですが、私が生まれた翌々年の放送ですから、リアルタイムのはずがありません。どこかで見た再放送か、あるいは後年の映像を、記憶が勝手に「見た」ことにしているのだと思います。 ただ、はっきり覚えていることが一つあります。中山さんが出ていたボウリング番組を、テレビで見たのです。昭和の終わりごろ、ゴールデンタイムにボウリング番組がある——それ自体、今では信じられない話ですが、たしかにありました。 そして、なぜかその記憶の中に、背中の文字が残っています。「エバラ食品」。ボウリングシャツの背中に、その文字があった気がするのです。 正直に書きますが、この記憶の裏付けは取れませんでした。所属先だったのか、大会のスポンサーだったのか、あるいは私の記憶違いなのか。分かりません。それでも、あの背中の文字だけが妙に鮮明に残っているのが、記憶というものの不思議なところです。 青戸に残った、一本のピン あの頃、高砂、立石、青戸、金町の空を突いていた巨大ピン。いま、かろうじて残っているのは青戸だけになりました。 高砂のヨーカドーの5階も、もうボウリング場ではありません。当時のブームの面影は、かけらも残っていない——そう書きたくなるところですが、実はそうでもないのです。 私の子どもたちは、小学生のうちにボウリングを経験しています。そして「とても面白い」と言う。毎年12月、学童野球チームでボウリング大会が開かれるのです。監督、コーチ、保護者、選手たち、みんなで行って、ワイワイと投げる。ガーターを出して笑い、ストライクが出れば大騒ぎになる。 3697軒の時代は、たしかに終わりました。けれど、あのレーンの上で人が笑う光景そのものは、形を変えて、まだちゃんと続いています。 いまの子どもは、両手で投げます。私たちの世代には見慣れないフォームですが、体の小さいうちから重い球を扱えるので理にかなっているのだそうです。子どもや孫と行くなら、一冊持っておくと会話が変わります。 ボウリング はじめてみよう、両手投げ塩山一美/ベースボール・マガジン社。いまの主流になった両手投げを、基礎から写真で解説。子どもや初心者が最初に読む一冊として Amazonで見る › おわりに 昭和45年8月21日の夜。テレビの前で、日本中の大人たちが息を呑んでいたはずです。12投目のボールがレーンを転がっていく、あの数秒間を。 ...

August 21, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月16日──二死から、二度。延長18回の夜、私は花火をしていた

今日は8月16日。京都の五山送り火が灯り、お盆が静かに終わっていく日です。子どものころの私にとっては、「夏休みが折り返しどころか、下り坂に入った」と気づかされる、少し落ち着かない日でもありました。そして甲子園は、ちょうど大会が佳境に入るころです。 1979年(昭和54年)8月16日、木曜日。夏休みの真ん中のこの日、甲子園球場で一つの試合が始まりました。第61回全国高等学校野球選手権大会の3回戦、和歌山代表・箕島高校と、石川代表・星稜高校。第4試合、プレーボールは午後4時6分でした。 その試合が終わったのは、日がとっぷり暮れたあとのことです。 当時、私は10歳。小学4年生でした。 そして正直に告白すると、私はこの試合をリアルタイムでは見ていません。 その夜、私は花火をしていた 小学4年生の夏、私の野球はプロ野球でした。高校野球というものに、まだそこまでの興味を持っていなかったのだと思います。家でのテレビといえば、当然のように巨人戦のナイター中継。それが私にとっての「野球を見る」ということでした。 そして、テレビの前にいない夜のほうが多かったかもしれません。 あのころの夏休み、私は昼間のうちに友達と花火を買い込んで、夜7時ごろに集合していました。名づけて「花火大会」です。ひと夏に何回やるんだと突っ込まれるレベルで、何度も何度も開催していました(笑)。要するに、花火を口実にした夜遊びです。暗くなってから外に出られるというだけで、あのころは特別なことでした。 午後4時6分に始まった箕島と星稜の試合が、まさにその時間帯まで続いていたことを、私は当時まったく知りませんでした。日本中がテレビにかじりついていたその夜、葛飾の小学4年生は、線香花火の火玉が落ちるのを友達と見つめていたわけです。 春の王者と、北陸のエース 箕島は、この年の春の選抜で優勝しています。夏も勝てば、公立高校としては史上初の春夏連覇。エース石井毅と捕手・嶋田宗彦のバッテリーを擁する、文句なしの優勝候補でした。 対する星稜には、エース堅田外司昭がいました。北陸の高校がまだ全国で無名に近かった時代に、この一戦で全国に名を知らしめてしまう力を、彼らは持っていました。 試合は投手戦になります。4回に両校が1点ずつを取り合ったあとは、スコアボードにゼロが並ぶ。9回を終えて1対1。延長に入り、甲子園の照明のスイッチが入れられました。青空が薄暮になり、やがて星ひとつ見えない夜空に変わっていく。ナイターになった甲子園で、ここから信じがたいことが起こります。 12回裏、二死無走者から 延長12回表、星稜が勝ち越します。打球は二塁への何でもないゴロでしたが、堅守を誇る箕島の二塁手がこれをトンネルしてしまう。 その裏、箕島の攻撃はあっさり二死。走者もいません。あと一人。 箕島の尾藤公監督が敗戦を覚悟したとき、次の打者である一番・嶋田宗彦が、監督の前に立ちはだかってこう言いました。ホームランを狙ってきます、と。我に返った尾藤監督は「よし、狙え」と嶋田の尻を叩いた。 そして嶋田は、本当に打ちました。左翼ラッキーゾーンへの、同点本塁打です。宣言して打つ。漫画でもやりすぎだと言われそうな場面が、この日、甲子園で本当に起きました。 14回の隠し球、16回のつまずき まだ終わりません。 14回裏、箕島はサヨナラのチャンスを作ります。走者の森川康弘が三盗を決めた――ところが、そこで待っていたのは星稜の三塁手による隠し球でした。アウト。12回表の攻撃でスクイズを失敗していた選手が、守備で借りを返した格好です。 そして16回表、星稜が三たび勝ち越します。 16回裏、箕島はまたも二死無走者。打席には、14回に隠し球でアウトになったあの森川。彼が打ち上げた一塁側のファウルフライは、完全に打ち取られた打球でした。星稜の一塁手・加藤が追う。誰もが試合終了を覚悟した、そのとき。 加藤が、つまずいて転倒しました。 原因は、この年から甲子園のファウルグラウンドに敷かれたばかりの人工芝だったといわれています。ボールは落ち、森川は命拾いをした。その直後、森川は左中間へ同点本塁打を放ちます。彼にとって、練習試合を含めても生まれて初めての本塁打でした。 二死無走者から同点本塁打。それが、一試合のうちに二度。 18回裏、3時間50分 18回表、星稜は満塁のチャンスを作りますが、無得点。当時の規定では延長は18回まで。この時点で、星稜の勝ちは消えました。 そして18回裏、箕島がサヨナラ勝ち。4対3。 試合時間3時間50分。観衆は3万4千余。石井毅は18回を257球で投げ抜き、16三振を奪いました。堅田外司昭は17回1/3を208球。甲子園で延長18回まで戦った試合は他にもありますが、18回で決着がついたのは、この試合だけです。ほかはすべて引き分け再試合になっています。 作詞家の阿久悠はこの一戦に感銘を受けて「最高試合」という詩をスポーツ紙に投稿し、作家の山際淳司は「八月のカクテル光線」という短篇を書き上げています。箕島はこのあと大会を制し、公立高校として初めての春夏連覇を達成しました。 日本中が、3チャンネルに回した夜 この試合を調べていて、いちばん「あっ」と声が出たのは、テレビの話でした。 この試合は第4試合です。NHKは総合テレビで中継していましたが、午後6時になると総合はニュースに切り替わらなければならない。そこでNHKは、午後6時から試合終了までを教育テレビに引き継ぐリレー中継を行いました。 つまりあの夜、日本中の茶の間で、テレビのチャンネルが1から3へ回されたわけです。 そして教育テレビの、その時間帯の視聴率は29.4パーセント(関東・ビデオリサーチ)。この数字は、いまもNHK教育テレビの歴代最高記録です。 我が家のテレビが、そのとき3チャンネルに回されたことは、おそらくなかったと思います。私はといえば外で花火に火をつけていたか、家にいたとしても、追いかけていたのは巨人のナイターだったはずですから。 日本中が息を呑んでいた3時間50分と、私の夏休みの夕方は、ぴったり重なっていて、まったく交わっていなかった。同じ夜に、まったく別のものを見ていたわけです。 何度も見た、あの映像 では、私がこの試合を知らないままだったかというと、そうではありません。 何番組だったかまでは特定できませんが、私はこの試合の映像を、後年に何度もテレビの画面で見ています。甲子園の大会期間中、試合と試合の間に流れる名勝負の特集。そういう場面で、あのカクテル光線に照らされた球場と、二死からの本塁打が、繰り返し流れてくるのです。 そのたびに、私は素直に思いました。すごい試合だなぁ、と。 リアルタイムで見た人は「そのとき何をしていたか」を語り、あとから知った私は「何度も見せられて、そのつど驚いた」と語る。同じ一試合が、こんなに違う形で残るのです。 昭和54年の夏、山際淳司はこの試合を「八月のカクテル光線」という短篇に書きました。ホームランを打ったことのない少年が、16回に打った一球の話です。同じ本には、江夏豊の21球を描いた表題作も入っています。私にとっては、あの映像で見た場面が文章になっている、という読み方になりました。 スローカーブを、もう一球(角川文庫)山際淳司/KADOKAWA。この日の箕島-星稜を描いた「八月のカクテル光線」と、江夏の21球を描いた表題作を含む8篇。スポーツノンフィクションのロングセラー Amazonで見る › 「8・16」という日付 この日付には、もう一つ因縁があります。 13年後の1992年8月16日。同じ甲子園で、明徳義塾が星稜の松井秀喜を5打席連続で敬遠しました。星稜が、8月16日に二度、球史に名を刻んだことになります。 さらに驚くのは、この延長18回の試合に星稜の控え選手としてベンチ入りしていた高桑充裕という選手が、のちに地元の中学校で教員兼野球部監督となり、後輩にあたる少年を鍛え上げたことです。その少年が、松井秀喜でした。負けた側のベンチにいた高校生が、13年後の同じ日に敬遠され続ける少年を育てていた。日付というものが、少し不気味に思えてきます。 箕島の尾藤監督は2011年に亡くなりました。葬儀では、星稜の山下智茂前監督が男泣きしながら弔辞を読んだと伝えられています。 この試合は、もう起こらない。それでいい 令和の高校野球では、この試合は物理的に起こりえません。 2018年にタイブレークが導入され、2023年からは延長10回、無死一・二塁から始まることになりました。一人の投手が1日に投げられるのは15イニングまで。2020年からは、1週間の投球数を500球以内とする球数制限もあります。18回を257球で投げ抜くという戦い方は、もう制度が許しません。 こうしたルールには賛否があります。あくまで私個人の意見ですが、私は今のルールを支持する立場です。 たしかに、過去のあの手の凄まじい試合は、もう生まれないでしょう。けれど、ルールが変わったあとには、そのルールの中でまた別の『伝説』がきっと生まれるはずだと、私は信じています。一試合を複数の投手でつないでいくことで、一人ひとりの投手が心理的にも体力的にも持てる全力を発揮できる、ということだってあるかもしれませんしね。 そして何より、将来のある選手たちの「からだ」を守る。この意味は、非常に大きいと考えています。石井投手の257球を語り継ぐことと、いまの球児に同じものを求めることは、まったく別のことですから。 おわりに 宣言してから打った男と、生まれて初めて打った男。隠し球。人工芝のつまずき。作り話にしたら「都合が良すぎる」と没にされそうな出来事が、1979年8月16日の甲子園には、全部そろっていました。 実を言うと私、昨日、その甲子園から帰ってきたばかりです。 令和8年の夏の大会を、社会人の息子、大学1年の娘、中学1年の息子、小学3年の息子と、子ども4人を連れて観てきました。 もう一人、高校2年の息子だけは同行していません。来年の甲子園出場を目指して、この夏も練習と試合に明け暮れているからです。あの球場のスタンドに座りながら、私はどうしても、来年ここに立てるかもしれないもう一人の子のことを考えていました。 ...

August 16, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月7日──同じ日付を、三度くぐった夏

今日は8月7日。暦の上では立秋を迎える頃で、8と7を「ハ・ナ・ビ」と読む語呂から「おもちゃ花火の日」でもあります。夏のいちばん濃いところに刺さっている、そんな日付です。 この日付を、私は昭和のあいだに何度もくぐってきました。ただ、くぐるたびに私の立っている場所は違っていました。 小学2年の夏。中学2年の夏。高校1年の夏。 同じ8月7日に、世の中では別々の大きな出来事が起きていました。そして私は、そのどれとも関係のないところで、その日を過ごしていたのです。 昭和52年8月7日──私は、区営プールにいた 昭和52年(1977年)8月6日の未明から、北海道の有珠山で有感地震が続発しはじめました。午前3時頃には、山のふもとで人がはっきり感じるほどの揺れになっていたといいます。 そして翌7日の午前9時12分。有珠山の山頂火口原から、真っ白な噴煙が突き上がりました。噴煙はおよそ1時間後には高さ12,000メートルに達したと記録されています。 昭和新山が生まれてから、32年ぶりの噴火でした。噴火は8月14日の未明まで断続的に続き、火山灰は北海道の広い範囲に降り積もりました。前日からの地震で住民が避難していたため、この日の噴火そのものによる人的被害は出ていません。 そのころ、私は8歳。小学2年生の夏休みでした。 あの夏、私はほぼ毎日、午前中を区営プールで過ごしていました。友達と連れ立って出かけていって、水から上がっては入り、また上がる。夏休みの午前中というのは、そういう時間の使い方をするものだと思っていました。 午前9時12分。日本の北の端で山が噴き上がったその時刻、私はたぶん、プールへ向かう途中か、着いたばかりだったはずです。塩素のにおいと、コンクリートの熱と、水面の照り返し。葛飾の8歳にとって、その日の世界はそれで全部でした。 北海道の空が灰色になっていることを、私は知りません。 そもそも当時の私にとって、北海道は地図の上にしかない場所でした。父は仕事の休みがほとんどなく、家族で泊まりがけの旅行に出たことは一度もありません。車もありませんでした。テレビの中の噴煙は、月のクレーターの映像と同じくらい遠いところの出来事です。 有珠山という山は、20数年から50年ほどの間隔で噴火を繰り返し、しかも噴火の前には必ず前兆の地震が起きる。そのため地元では「ウソをつかない山」と呼ばれています。前の活動は昭和18年から20年にかけてで、このとき麦畑が盛り上がって昭和新山が生まれました。32年たって、山はまた約束どおりに動いたわけです。 記録を読んでいて印象に残ったのは、7日の噴火のとき、洞爺湖を訪れていた多くの観光客が立ちのぼる噴煙に見とれ、それを背にして写真を撮っていたという一節でした。恐怖よりも先に、まず見とれてしまう。人間というのは、そういうものなのかもしれません。 昭和58年8月7日──私は、11時30分に家を出た それから6年後。昭和58年(1983年)8月7日、フィンランドのヘルシンキで、第1回世界陸上競技選手権大会が開幕しました。 オリンピックとは別に、陸上競技だけの世界一決定戦を開く。その第1回です。153の国と地域から1,355人が集まり、41種目が争われました。アメリカのカール・ルイスが100メートル、走幅跳、リレーで三つの金メダルを持っていき、男子4×100メートルリレーと女子400メートルでは世界新記録が生まれています。 日本からは監督以下22名(男子16名、女子6名)が派遣されました。結果は、入賞者ゼロ。8位以内に一人も入れなかった。当時の日本陸上と世界の距離は、それくらい離れていました。 ちなみに、この大会をテレビ中継したのはテレビ朝日系列でした。『世界陸上』といえば日本テレビ、そしてTBSという印象が強いのですが、第1回だけは別の局だったのです。 そのころ、私は14歳。中学2年生です。 この夏、3年生の先輩たちが引退して、新チームが始まったばかりでした。野球部の練習はほぼ毎日。11時30分に家を出て、練習が終わって帰り着くと19時頃になっている。そういう夏でした。 家を出るのが11時30分というのは、今から思えば妙な時間です。午前中がまるまる残っていて、それでいて何もできない。ヘルシンキと日本には6時間の時差がありますから、開幕日の競技が動いていたのは日本の夕方から夜にかけて。私が土のグラウンドにいた時間と、その中継が流れていた時間は、きれいにすれ違っています。 それに、8月上旬の日本でスポーツといえば、やはり甲子園でした。世の中の目は高校野球のほうを向いていて、その脇でフィンランドの競技場に世界中の選手が集まっていることなど、中学2年の野球部員の耳には届いていません。 世界最高峰の陸上大会が始まったその日、私は葛飾で、白球を追いかけていました。 昭和60年8月7日──私は、スタンドにいた さらに2年後。昭和60年(1985年)8月7日、宇宙開発事業団(現在のJAXA)が、日本人として初めての宇宙飛行士3人を発表しました。 北海道大学工学部助教授の毛利衛さん、慶応大学医学部助手で心臓外科医の内藤千秋さん(結婚後の姓は向井)、NASAの研究員だった土井隆雄さん。500人を超える応募者から選ばれた3人は、いずれも30代でした。 スペースシャトルに乗って宇宙で実験をする。当時の予定では、飛行は昭和63年の初め頃とされていました。 募集がかかったのは昭和58年12月。ちょうど、第1回の世界陸上が終わって4か月ほどあとのことです。応募は500人を超え、そこから一年半以上をかけて絞り込まれた結果が、この日の発表でした。 そのころ、私は16歳。高校1年生です。 その夏の東東京大会を、私はスタンドから応援していました。1年生ですから、当然といえば当然です。そして3年生が引退して新チームが始まった、その矢先。私は右足の甲を骨折しました。 新チームの秋の大会に出ることは、絶望的になりました。 野球は、走れないと何もできません。素振りはできても、守れないし、走れない。あの夏、私は松葉杖をついていました。両手がふさがっているというのは、思っていた以上に不便なものです。グラブも持てない。ボールも拾えない。 始まったばかりのチームに自分の場所がない。しかも、走れない。悔しい夏でした。あの年の夏の記憶は、その悔しさとセットになっています。 ただ、後から知ったことがあります。 選ばれた3人も、そこからずいぶん長く待たされました。昭和61年1月にチャレンジャー号の事故が起き、スペースシャトルの打ち上げそのものが止まってしまったのです。毛利さんが実際にエンデバーで宇宙へ上がったのは、平成4年(1992年)9月。選ばれた日から、7年が過ぎていました。 向井さんが飛んだのは平成6年、土井さんは平成9年。土井さんはこのとき、日本人として初めて宇宙船の外に出ています。三人とも、選ばれた日から10年前後を待っていることになります。 選ばれた人も待つ。選ばれなかった人も待つ。待っている時間の長さだけで言えば、案外そう変わらないのかもしれません。もっとも16歳の私は、そんなことは考えもしませんでしたが。 あの夏、松葉杖の私にはできないことばかりでした。それでも走れる人にとっては、8月7日はいまでも花火の日です。「ハ・ナ・ビ」の語呂に合わせて、庭先やベランダで小さく火をつける。派手な打ち上げ花火より、こちらのほうがよほど昭和の夏の記憶に近いように思います。 花火屋がおススメする手持ち花火400本セット(線香花火入り・キャンドル付)安全検査合格品。取り出しやすく、線香花火まで入って400本。子どもや孫と一緒に、庭先やキャンプで。最後の一本は、やっぱり線香花火で締めたい Amazonで見る › おわりに 有珠山は、平成12年(2000年)にも噴火しました。このときも前兆の地震をもとにした事前の避難が間に合い、人的被害はありませんでした。ウソをつかない山は、平成になっても約束を守ったわけです。 ...

August 7, 2026

甲子園の千羽鶴、どう作る?──高校野球の「文字鶴」の作り方・書く言葉・渡し方【保護者会の実体験】

夏の甲子園、アルプススタンドに大きな千羽鶴が揺れているのを見たことがあると思います。地方大会でも、ベンチの脇や応援席に必ずと言っていいほど飾られています。 あれは誰が、いつ、どうやって作っているのか。 我が家は高校野球部の保護者として、毎年この千羽鶴を折っています。この記事では、実際に手を動かしている立場から、必要なもの・作り方・書く言葉・渡し方まで、具体的にまとめます。これから作る保護者の方、部活のマネージャーさん、お孫さんの応援を考えている方の参考になれば幸いです。 先に結論:作り方の全体像 高校野球で使われる千羽鶴は、多くの場合ふつうの千羽鶴ではなく「文字鶴(もじづる)」です。折り紙の白い面に文字を一字ずつ書いてから折るので、完成した鶴の羽や背中に文字が浮かびます。 違いは「折る前に一字書く」、ただそれだけ。折り方そのものは、子どものころに覚えた鶴とまったく同じです。 必要なもの・枚数の目安 項目 目安 補足 折り紙 1,000枚以上(1,050〜1,100枚あると安心) 失敗ぶんを見て多めに。7.5cm角が扱いやすい 油性ペン 細字 数本 文字を書く用。鉛筆で下書きすると失敗が減る 糸 木綿糸・たこ糸など 1本あたり100羽×10本が定番 針 手縫い針・毛糸針 糸を通すとき使う ビーズ or ストロー 各糸に少量 一番下の鶴が抜け落ちないよう留める リボン・輪 1つ 10本の糸をまとめて吊るす部分 折り紙のサイズは7.5cm角が定番です。15cm角だと大きくなりすぎて、1,000羽が扱いきれません。千羽鶴用として売られている7.5cm角・1,000枚入りを買うのがいちばん手っ取り早いです(色が20色ほど入っていて、仕上がりも華やかになります)。 手順①:折り紙に文字を書く ここが文字鶴のいちばん大事な工程です。 折り紙の白い面(裏)に、鉛筆で薄く一字下書きしてから、油性ペンでなぞります。いきなりペンで書くと、書き損じがそのまま無駄になってしまうからです。 コツは筆圧を軽くすること。強く書くと表側に色が響いてしまいます。また、書く位置は紙の中央でかまいません。折り上がったときに、ちょうど羽や背中のあたりに文字が出てきます。 よく書かれる言葉 我が家や周りの学校でよく使われているのは、こうした言葉です。 勝利を願う言葉:必勝/勝/挑/打/攻/守 姿勢をあらわす言葉:全力/団結/絆/不屈/努力/継続/笑顔 祈りの言葉:無事/健康/感謝/夢/希望 学校によっては、選手ひとりひとりの名前や背番号を書き込むところもあります。3年生の名前を全員分入れて、その子の家族が折る——というやり方をしている保護者会もあると聞きました。 我が家では「必勝」「全力」に加えて、怪我なく無事に戦い抜いてほしいという願いを込めた言葉を多めに入れています。親としては、勝ち負けよりまずそこなのです。 手順②:鶴を折る 折り方は、みなさんがご存じの折り鶴とまったく同じです。文字を書いた白い面が内側になるように折り始めてください。そうすると、完成したとき色のついた表面が外に出て、文字は羽の部分に見えるかたちになります。 1,000羽は、何人で何日かかる? 現実的な数字をお伝えします。 慣れた人で1羽あたり1〜2分。つまり1人で1,000羽折ると、単純計算で20〜30時間かかります。1人では現実的ではありません。 だからこそ、保護者会で分担するのが基本です。 保護者20家庭で分ければ、1家庭あたり50羽 1家庭が1日10羽折れば、5日で完了 我が家は毎年、こどもの日あたりから夫婦2人で少しずつ折り始めます。テレビを見ながら、晩ごはんのあとに数羽ずつ。一気にやろうとすると必ず心が折れるので、「1日10羽」くらいのペースを決めてしまうのがコツです。 手順③:糸に通してまとめる 1,000羽そろったら、糸に通します。 1本の糸に100羽 × 10本 = 1,000羽が最も一般的な形です。 糸を1.5〜2mほどに切る(吊るす場所に合わせて調整) 糸の先端にビーズかストローの切れ端を結び、ストッパーにする 針を鶴の下から刺し、背中の穴へ抜く——を100回くり返す 上端に輪を作る 10本そろったら、輪をまとめてリボンで束ねる 注意点として、鶴を糸に詰めすぎると全体が短くなり、逆にすかすかだと間延びします。100羽で1.2〜1.5mくらいに収まるよう、適度に間隔をあけると見栄えがよくなります。 色をランダムに通すか、グラデーションにするか、学校名を色で表現するか——ここは各校の腕の見せどころです。 手順④:いつ、誰に渡す? タイミングは学校によって違いますが、多くは大会が始まる前、壮行会や最後の練習日に渡します。 ...

August 5, 2026

厚底シューズ歴7年の私が「ワラーチ」で走ったら、ニヤけが止まらなくなった話

はじめに ― 職場の同僚に「変な履物」を勧められた きっかけは、職場のランニング仲間からの一言でした。 「これ、走れるサンダルなんですよ」 彼はすでにワラーチのユーザーで、実物を持ってきて見せてくれました。薄いゴム板にヒモを通しただけの、いわばゴムのわらじ。正直、最初の感想は「……これで走るんですか?」でした。 そのうえで、こんな提案をもらいます。 「私、もう一足欲しいと思っていまして。自作キットが2足分で3,000円で買えるんですが、割り勘で購入して1足ずつ使いませんか?」 実物を目の前にして説明を聞いているうちに、めっちゃ興味がわいてしまいました。ひとり1,500円。失敗しても痛くない金額です。二つ返事で了承し、購入をお願いしました。 半信半疑のまま自作キットが手元に来て、実際に作って走ってみたわけですが――結論から言うと、しばらく忘れていた「走ることそのものの楽しさ」を思い出しました。 近年の私はすっかり厚底シューズに慣れきっていて、脚を「守られている」状態が当たり前になっていました。そこへワラーチです。一歩ごとに、足裏からズンズンと地面の情報が体に響いてくる。この感覚がとにかく心地よくて、走りながら口元がゆるんでしまう。はたから見れば完全に「ニヤけた変な人」です(笑)。 この記事では、そんなワラーチについて、 そもそもワラーチとは何なのか(発祥地・歴史) 履いて走ることで期待できるメリット 一方で、必ず知っておくべきデメリット・注意点 自作キットの実際 を、初心者なりの実体験を交えてまとめます。 はじめにお断り この記事は、ワラーチ歴わずか2回・計10kmの人間が書いたファーストインプレッションです。ベテランの方から見れば「そこはまだ何もわかってない」という部分だらけだと思います。だからこそ、始めたばかりの人間が何を感じ、何をやらかしたかを、できるだけ正直に残しておきたくて書いています。 親指と人差し指の間を通したヒモが甲でクロスし、足首まわりをぐるりと囲む。靴に慣れた目で見ると、あまりに情報量が少なくて逆に驚きます。 ワラーチとは ― 「走る民族」の履物 ワラーチ(huarache/ワラチェ、ハラッチとも表記)は、メキシコ北西部の先住民族・ララムリ(別名タラウマラ族) が古くから履いてきたサンダルを原型とする履物です。 構造は驚くほどシンプルで、 ソール:足型に切り出した1枚のゴム板(伝統的には廃タイヤ) ストラップ:ソールに開けた穴に通した革ヒモ(現代では主にパラコード) これだけ。クッションもアーチサポートもヒールカウンターもありません。「足裏を石やトゲから守る最低限の板」に、脱げないためのヒモが付いているだけの道具です。 ララムリはメキシコ・チワワ州の峡谷地帯(バランカ・デル・コブレ/通称「銅峡谷」)に暮らし、このサンダルで起伏の激しい山道を100km単位で走ることから「走る民族」と呼ばれてきました。 語源には諸説あり ― 「わらじ」説は本当か? 「huarache」という語は、メキシコ先住民の言語プレペチャ語で「サンダル」を意味する語(kwarachi など)に由来する、というのが一般的な説明です。 一方、日本では 「語源は日本語の"わらじ"だ」という説 がネット上でよく紹介されています。江戸時代に太平洋を渡った日本人が伝えた、という話ですが、これは学術的に裏づけられたものではなく、音の似た偶然から生まれた俗説と考えるのが妥当でしょう。 ただ、形も発想も本当によく似ているのは事実です。薄い板を足裏に当て、ヒモで結ぶ。地球の反対側で同じ答えにたどり着いたと考えると、それはそれでロマンがあります。 後で出てくるゴムシートの写真を眺めていると、素材こそ違え、発想は本当にわらじそのものだなと思えてきます。 ワラーチが世界に広まった理由 ― 『BORN TO RUN』 ワラーチが一部のマニアの道具から世界的なムーブメントになった決定打が、2009年に刊行されたクリストファー・マクドゥーガルのノンフィクション 『BORN TO RUN 走るために生まれた』 です。 「なぜ高機能シューズが進化し続けているのに、ランナーの故障は減らないのか?」という問いを軸に、ララムリの走りと文化を追ったこの本は世界的なベストセラーとなり、ベアフット(裸足)ランニング/ミニマルシューズの一大ブームを巻き起こしました。 この流れの中で、 ビブラム ファイブフィンガーズに代表されるミニマルシューズの登場 自作ワラーチのDIY文化の広がり ワラーチ限定のリレーマラソンなど、国内イベントの開催 といった動きが生まれ、日本にも定着していきます。 面白いのは、その後ランニング界が 真逆の方向=厚底カーボン へ大きく振れたこと。今、私たちは「極厚」と「極薄」という両極端の選択肢を、両方手にしているわけです。(そして私は、まんまと両方履いています) 厚底 vs ワラーチ ― 同じVibramなのに、真逆 私の普段の相棒は HOKA SPEEDGOAT 6。当たり前ですが、両者はまったくの別物でした。 ...

August 3, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月28日──ロサンゼルスの朝、空を人が飛んだ

今日は7月28日。夏休みの、うだるように暑い盛りです。 今から40年余り前、1984年(昭和59年)のこの日、アメリカ・ロサンゼルスで第23回夏季オリンピックが開幕しました。日本とロサンゼルスの時差の関係で、開会式が日本のお茶の間に届いたのは、翌29日の朝でした。 その画面の中で、ひとりの人間が背中に噴射装置を背負い、スタジアムの空をふわりと飛んだのです。 当時、私は15歳。中学3年生でした。その夏、区大会で敗退して野球部はすでに引退し、高校入試に向けて気持ちを受験勉強に切り替えていた、そんな時期でした。 空を、人が飛んだ 日本時間で29日の朝に届いたロサンゼルス・メモリアル・コロシアムの開会式は、それまでの五輪の常識をひっくり返すものでした。 レーガン大統領の開会宣言。ジョン・ウィリアムズが書き下ろした、あの勇壮なトランペットのファンファーレ。84台ものグランドピアノが並び、ガーシュウィンの『ラプソディ・イン・ブルー』を一斉に奏でる。そして極めつけが、ジェットパックを背負って会場上空を飛ぶ「ロケットマン」でした。SF映画のような光景に、世界中が度肝を抜かれ、NHKの中継の視聴率は47.9%に達したといいます。 派手な演出の裏には、したたかな計算がありました。実はこのころ、オリンピックそのものが存亡の危機にあったのです。1976年のモントリオール大会は莫大な赤字を出し、1980年のモスクワ大会は西側諸国のボイコットで深く傷ついていた。「オリンピックは金がかかるだけのお荷物だ」――そんな空気さえ漂っていました。 その流れを変えたのが、大会組織委員長を務めた実業家、ピーター・ユベロスでした。彼はテレビの放映権を史上最高額でアメリカのABCに売り、スポンサーを「1業種1社」に絞って協賛金を吊り上げた。批判も浴びましたが、終わってみればロス五輪は2億ドルを超える黒字を叩き出したのです。今に続く「商業五輪」は、この夏に始まりました。空を飛ぶロケットマンは、オリンピックが新しい時代へ突入する号砲でもあったのです。 夏休みで、朝は少しゆっくり起きられる日もありました。時差の関係で、私はロサンゼルス五輪を、朝からテレビをつけて見ていた記憶があります。 なかでも一番印象に残ったのは、やはりロケットマンでした。本当に空を飛んでいる人を見たような気がして、「アメリカはすごいな」と純粋に驚いたのです。まるで映画の世界のようで、日本では絶対に見られない演出だと思いました。「商業五輪」という言葉もニュースで耳にはしていましたが、中学生の自分に難しい意味まではわかりません。スポンサーだ放映権だということよりも、「派手で面白い開会式だな」という印象のほうが、ずっと強かった。厳かだったそれまでの開会式とは違い、まるで大きなショーのようで、競技が始まる前から「日本は何個メダルを取れるだろう」と、家族と話しながら画面に見入っていました。 ボイコットの応酬と、四年越しの金メダル 華やかな開会式の一方で、この大会にはぽっかりと空いた「穴」がありました。ソ連や東ドイツをはじめとする東側諸国が、そろって不参加を決めていたのです。 理由は、報復でした。4年前の1980年、西側諸国はソ連のアフガニスタン侵攻に抗議してモスクワ大会をボイコットした。今度はその意趣返しとして、東側がロサンゼルスをボイコットする。スポーツが、またしても政治の道具にされたのです。ボイコットが二度続けば、傷つくのはいつも、その舞台を目指してきた選手たちでした。 このモスクワ・ボイコットのことは、7月19日の記事で書きました。あのとき、参加を信じて過酷な稽古を積み、それでも舞台を奪われた選手のひとりが、柔道の山下泰裕でした。 その山下が、4年の雌伏を経て、ようやくロサンゼルスの畳に立ちます。無差別級。公式戦で負け続けたことのない彼に、死角はないと言われていました。ところが2回戦、右のふくらはぎに肉離れを起こしてしまう。決勝の相手はエジプトの巨漢、モハメド・ラシュワン。山下は右足を引きずりながら畳に上がりました。 ここで、五輪史に残る場面が生まれます。ラシュワンは、山下の痛めた右足を、最後まで攻めなかったのです。試合開始からわずか1分5秒、山下は払い腰をすかしてラシュワンを崩し、横四方固めで一本勝ち。奪われ続けた金メダルを、ついに首にかけました。日本のお家芸の悲願が、結実した瞬間でした。フェアプレーに徹したラシュワンには、後に国際フェアプレー賞が贈られています。この決勝が行われたのは、開幕から2週間後の8月11日のことでした。この大会の柔道で、日本は山下を含む4階級で金メダルを獲得し、その底力を世界に見せつけました。 あの決勝を、私はテレビの前で固唾をのんで見ていました。右足を痛めていることはニュースで知っていたので、「本当に大丈夫なのかな」と心配しながらの応援でした。足を引きずる姿は見ていて苦しそうで、それでも最後まで諦めずに金メダルをつかんだ瞬間は、本当に感動しました。「これが日本の柔道なんだ」と、誇らしい気持ちになったのを覚えています。 4年前のモスクワでは、日本は参加すらできませんでした。それだけに、山下選手の金メダルは、あのときの悔しさを少し晴らしてくれたような気がしたのです。相手のラシュワン選手が、痛めた右足を狙わずに正々堂々と戦ったと後から知ったときのことも、忘れられません。勝つことが第一だと思っていた中学生の私は、この一戦に「勝ち負けだけではない感動があるんだな」と教わった気がします。 野球が、初めて五輪の金メダルを獲った日 そしてこの大会には、野球少年だった私の胸を最も熱くした競技があります。野球です。 ロサンゼルス五輪では、野球が初めて、国と国とが代表チームで争う「公開競技」として行われました。正式種目ではないものの、世界一を決める五輪の野球――それだけで胸が高鳴りました。しかも日本代表は、プロではなく、大学生7人と社会人12人で編成されたアマチュアの混成チームだったのです。 急ごしらえのチームには温度差もあり、まとまりを欠いたまま本番を迎えたと、後に選手たちは振り返っています。それでも日本は予選を1位で通過し、準決勝では台湾を延長戦の末に振り切り、決勝で野球の本場・開催国アメリカと対戦しました。そして4番を務めた大学生、広沢克己(後の広澤克実)の本塁打などで6対3。開催国を破って、日本は五輪野球の初代王者に輝いたのです。 この代表チームからは、大会後に16人がプロ野球の世界へ進みました。「オリンピックからプロへ」という道を、彼らが切りひらいたのです。指揮を執ったのは、のちに社会人野球の名将として知られる松永怜一監督。ばらばらになりかけた若いチームをまとめ上げ、世界一へと導いたのです。 野球は、私が一番好きなスポーツでした。ですから、日本代表の金メダルは、本当にうれしかった。ただ、ちょうど自分も中学最後の夏を区大会敗退で終え、野球部を引退したばかり。試合を見ながら、少し複雑な気持ちもありました。 「自分の野球はいったん終わったけれど、高校ではまた続けよう」。そう思っていた時期でしたから、日本代表のプレーは憧れそのものでした。受験勉強の合間にテレビを見ては、「来年は自分も高校球児なんだ」と、自然に前を向けたのを覚えています。4番を打った広沢克己選手の力強い打撃には、「大学生でもこんなにすごい選手がいるんだ」と驚いたものです。引退直後の寂しさよりも、「高校に入ったら、またやれる」という思いのほうが強かった。あの夏のロサンゼルス五輪の野球は、私にとって、新しい野球人生への背中を押してくれた大会でもあったのです。 令和の五輪から振り返ると あの夏、日本は金10・銀8・銅14のメダルを持ち帰りました。体操の具志堅幸司が個人総合で金、射撃では48歳の蒲池猛夫が日本の五輪史上最年長の金メダリストに。陸上では地元アメリカのカール・ルイスが4種目を制し、「ジェシー・オーエンスの再来」と讃えられました。もっとも、東側の強豪が不在だったぶん、日本のメダルが実力以上に増えた面は否めません。それでも、四年前の悔しさを晴らすように躍動した選手たちの姿は、多くの人の胸に刻まれました。 令和のいま、オリンピックはスマートフォンやタブレットで、時差を気にせず好きな競技をいつでも配信で追える時代になりました。それは便利で、ありがたいことです。けれど、あの朝の感覚――家族みんなでテレビの前に集まり、時差の向こうの一回きりの中継に一喜一憂した、あの熱を、私はときどき無性に懐かしく思い出します。 ユベロスが仕掛けた商業五輪の手法は、その後あらゆる巨大スポーツイベントの手本になりました。オリンピックはそこからどんどん巨大になり、光と影の両方を抱えていきます。空を飛ぶロケットマンが象徴した「きらびやかな未来」は、良くも悪くも本当にやってきたのだと、令和の五輪を見るたびに思うのです。 おわりに 1984年の夏、ロサンゼルスの空を、ひとりの人間が飛びました。噴射装置の煙をたなびかせ、まるで未来から舞い降りてきたかのように。 同じ大会で、右足を引きずりながら畳に立ち、それでも金メダルをつかんだ男がいた。アマチュアの野球チームが、本場アメリカを倒して世界一になった。きらびやかなショーと、泥くさい人間のドラマが、同じ2週間の中に同居していた――それが、私にとってのロサンゼルス五輪です。 あなたには、1984年のロサンゼルス五輪の、どんな場面が心に残っていますか。開会式のロケットマンでしょうか。山下泰裕の金メダルでしょうか。それとも、まったく別の誰かの、別の一瞬でしょうか。よろしければ、あなたの記憶も聞かせてください。 あの夏、ロケットマンの裏で静かに始まっていた「商業五輪」。その光と影を、ロス五輪を起点にたどった一冊です。ユベロスが何を変え、オリンピックがどこへ向かったのか――あの派手な開会式の「意味」を、大人になった今、あらためて確かめてみたい方におすすめです。 オリンピックと商業主義(集英社新書)小川勝。1984年ロサンゼルス大会から始まった五輪の商業化を検証。放映権とスポンサーが五輪をどう変えたのかを追ったノンフィクション Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 あわせて読みたい:アルプススタンドの千羽鶴に込められた思いを、親の目線で書きました▼ 千羽鶴に込められた思い――甲子園を目指す高校野球を「親の目線」で見て気づいたこと ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月27日】毎朝、テレビは「ロッキード」と言っていた | 次の記事:【7月29日】17年ぶりに、夏の夜空が帰ってきた ▶ ...

July 28, 2026