今日は7月28日。夏休みの、うだるように暑い盛りです。
今から40年余り前、1984年(昭和59年)のこの日、アメリカ・ロサンゼルスで第23回夏季オリンピックが開幕しました。日本とロサンゼルスの時差の関係で、開会式が日本のお茶の間に届いたのは、翌29日の朝でした。
その画面の中で、ひとりの人間が背中に噴射装置を背負い、スタジアムの空をふわりと飛んだのです。
当時、私は15歳。中学3年生でした。その夏、区大会で敗退して野球部はすでに引退し、高校入試に向けて気持ちを受験勉強に切り替えていた、そんな時期でした。

空を、人が飛んだ
日本時間で29日の朝に届いたロサンゼルス・メモリアル・コロシアムの開会式は、それまでの五輪の常識をひっくり返すものでした。
レーガン大統領の開会宣言。ジョン・ウィリアムズが書き下ろした、あの勇壮なトランペットのファンファーレ。84台ものグランドピアノが並び、ガーシュウィンの『ラプソディ・イン・ブルー』を一斉に奏でる。そして極めつけが、ジェットパックを背負って会場上空を飛ぶ「ロケットマン」でした。SF映画のような光景に、世界中が度肝を抜かれ、NHKの中継の視聴率は47.9%に達したといいます。
派手な演出の裏には、したたかな計算がありました。実はこのころ、オリンピックそのものが存亡の危機にあったのです。1976年のモントリオール大会は莫大な赤字を出し、1980年のモスクワ大会は西側諸国のボイコットで深く傷ついていた。「オリンピックは金がかかるだけのお荷物だ」――そんな空気さえ漂っていました。
その流れを変えたのが、大会組織委員長を務めた実業家、ピーター・ユベロスでした。彼はテレビの放映権を史上最高額でアメリカのABCに売り、スポンサーを「1業種1社」に絞って協賛金を吊り上げた。批判も浴びましたが、終わってみればロス五輪は2億ドルを超える黒字を叩き出したのです。今に続く「商業五輪」は、この夏に始まりました。空を飛ぶロケットマンは、オリンピックが新しい時代へ突入する号砲でもあったのです。
夏休みで、朝は少しゆっくり起きられる日もありました。時差の関係で、私はロサンゼルス五輪を、朝からテレビをつけて見ていた記憶があります。
なかでも一番印象に残ったのは、やはりロケットマンでした。本当に空を飛んでいる人を見たような気がして、「アメリカはすごいな」と純粋に驚いたのです。まるで映画の世界のようで、日本では絶対に見られない演出だと思いました。「商業五輪」という言葉もニュースで耳にはしていましたが、中学生の自分に難しい意味まではわかりません。スポンサーだ放映権だということよりも、「派手で面白い開会式だな」という印象のほうが、ずっと強かった。厳かだったそれまでの開会式とは違い、まるで大きなショーのようで、競技が始まる前から「日本は何個メダルを取れるだろう」と、家族と話しながら画面に見入っていました。
ボイコットの応酬と、四年越しの金メダル
華やかな開会式の一方で、この大会にはぽっかりと空いた「穴」がありました。ソ連や東ドイツをはじめとする東側諸国が、そろって不参加を決めていたのです。
理由は、報復でした。4年前の1980年、西側諸国はソ連のアフガニスタン侵攻に抗議してモスクワ大会をボイコットした。今度はその意趣返しとして、東側がロサンゼルスをボイコットする。スポーツが、またしても政治の道具にされたのです。ボイコットが二度続けば、傷つくのはいつも、その舞台を目指してきた選手たちでした。
このモスクワ・ボイコットのことは、7月19日の記事で書きました。あのとき、参加を信じて過酷な稽古を積み、それでも舞台を奪われた選手のひとりが、柔道の山下泰裕でした。
その山下が、4年の雌伏を経て、ようやくロサンゼルスの畳に立ちます。無差別級。公式戦で負け続けたことのない彼に、死角はないと言われていました。ところが2回戦、右のふくらはぎに肉離れを起こしてしまう。決勝の相手はエジプトの巨漢、モハメド・ラシュワン。山下は右足を引きずりながら畳に上がりました。
ここで、五輪史に残る場面が生まれます。ラシュワンは、山下の痛めた右足を、最後まで攻めなかったのです。試合開始からわずか1分5秒、山下は払い腰をすかしてラシュワンを崩し、横四方固めで一本勝ち。奪われ続けた金メダルを、ついに首にかけました。日本のお家芸の悲願が、結実した瞬間でした。フェアプレーに徹したラシュワンには、後に国際フェアプレー賞が贈られています。この決勝が行われたのは、開幕から2週間後の8月11日のことでした。この大会の柔道で、日本は山下を含む4階級で金メダルを獲得し、その底力を世界に見せつけました。
あの決勝を、私はテレビの前で固唾をのんで見ていました。右足を痛めていることはニュースで知っていたので、「本当に大丈夫なのかな」と心配しながらの応援でした。足を引きずる姿は見ていて苦しそうで、それでも最後まで諦めずに金メダルをつかんだ瞬間は、本当に感動しました。「これが日本の柔道なんだ」と、誇らしい気持ちになったのを覚えています。
4年前のモスクワでは、日本は参加すらできませんでした。それだけに、山下選手の金メダルは、あのときの悔しさを少し晴らしてくれたような気がしたのです。相手のラシュワン選手が、痛めた右足を狙わずに正々堂々と戦ったと後から知ったときのことも、忘れられません。勝つことが第一だと思っていた中学生の私は、この一戦に「勝ち負けだけではない感動があるんだな」と教わった気がします。
野球が、初めて五輪の金メダルを獲った日
そしてこの大会には、野球少年だった私の胸を最も熱くした競技があります。野球です。
ロサンゼルス五輪では、野球が初めて、国と国とが代表チームで争う「公開競技」として行われました。正式種目ではないものの、世界一を決める五輪の野球――それだけで胸が高鳴りました。しかも日本代表は、プロではなく、大学生7人と社会人12人で編成されたアマチュアの混成チームだったのです。

急ごしらえのチームには温度差もあり、まとまりを欠いたまま本番を迎えたと、後に選手たちは振り返っています。それでも日本は予選を1位で通過し、準決勝では台湾を延長戦の末に振り切り、決勝で野球の本場・開催国アメリカと対戦しました。そして4番を務めた大学生、広沢克己(後の広澤克実)の本塁打などで6対3。開催国を破って、日本は五輪野球の初代王者に輝いたのです。
この代表チームからは、大会後に16人がプロ野球の世界へ進みました。「オリンピックからプロへ」という道を、彼らが切りひらいたのです。指揮を執ったのは、のちに社会人野球の名将として知られる松永怜一監督。ばらばらになりかけた若いチームをまとめ上げ、世界一へと導いたのです。
野球は、私が一番好きなスポーツでした。ですから、日本代表の金メダルは、本当にうれしかった。ただ、ちょうど自分も中学最後の夏を区大会敗退で終え、野球部を引退したばかり。試合を見ながら、少し複雑な気持ちもありました。
「自分の野球はいったん終わったけれど、高校ではまた続けよう」。そう思っていた時期でしたから、日本代表のプレーは憧れそのものでした。受験勉強の合間にテレビを見ては、「来年は自分も高校球児なんだ」と、自然に前を向けたのを覚えています。4番を打った広沢克己選手の力強い打撃には、「大学生でもこんなにすごい選手がいるんだ」と驚いたものです。引退直後の寂しさよりも、「高校に入ったら、またやれる」という思いのほうが強かった。あの夏のロサンゼルス五輪の野球は、私にとって、新しい野球人生への背中を押してくれた大会でもあったのです。
令和の五輪から振り返ると
あの夏、日本は金10・銀8・銅14のメダルを持ち帰りました。体操の具志堅幸司が個人総合で金、射撃では48歳の蒲池猛夫が日本の五輪史上最年長の金メダリストに。陸上では地元アメリカのカール・ルイスが4種目を制し、「ジェシー・オーエンスの再来」と讃えられました。もっとも、東側の強豪が不在だったぶん、日本のメダルが実力以上に増えた面は否めません。それでも、四年前の悔しさを晴らすように躍動した選手たちの姿は、多くの人の胸に刻まれました。

令和のいま、オリンピックはスマートフォンやタブレットで、時差を気にせず好きな競技をいつでも配信で追える時代になりました。それは便利で、ありがたいことです。けれど、あの朝の感覚――家族みんなでテレビの前に集まり、時差の向こうの一回きりの中継に一喜一憂した、あの熱を、私はときどき無性に懐かしく思い出します。
ユベロスが仕掛けた商業五輪の手法は、その後あらゆる巨大スポーツイベントの手本になりました。オリンピックはそこからどんどん巨大になり、光と影の両方を抱えていきます。空を飛ぶロケットマンが象徴した「きらびやかな未来」は、良くも悪くも本当にやってきたのだと、令和の五輪を見るたびに思うのです。
おわりに
1984年の夏、ロサンゼルスの空を、ひとりの人間が飛びました。噴射装置の煙をたなびかせ、まるで未来から舞い降りてきたかのように。
同じ大会で、右足を引きずりながら畳に立ち、それでも金メダルをつかんだ男がいた。アマチュアの野球チームが、本場アメリカを倒して世界一になった。きらびやかなショーと、泥くさい人間のドラマが、同じ2週間の中に同居していた――それが、私にとってのロサンゼルス五輪です。
あなたには、1984年のロサンゼルス五輪の、どんな場面が心に残っていますか。開会式のロケットマンでしょうか。山下泰裕の金メダルでしょうか。それとも、まったく別の誰かの、別の一瞬でしょうか。よろしければ、あなたの記憶も聞かせてください。
あの夏、ロケットマンの裏で静かに始まっていた「商業五輪」。その光と影を、ロス五輪を起点にたどった一冊です。ユベロスが何を変え、オリンピックがどこへ向かったのか――あの派手な開会式の「意味」を、大人になった今、あらためて確かめてみたい方におすすめです。
【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。
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