9月17日 ── 三振を「取らずに」投げた日。江夏豊が王貞治から奪った354個目|昭和の今日は何があった日?
九月十七日。昭和四十三年、一九六八年のこの日、甲子園球場で一人の投手が、三振を「取らない」ために投げ続けた。 阪神タイガースの江夏豊である。プロ二年目、まだ二十歳だった。 私が生まれるのは翌年の四月だから、この試合を私は知らない。それでも、中学で野球をしてマウンドに立った人間として、この日の江夏の話は、どうにも他人事とは思えないのである。 「354個目は王さんから取る」 当時のシーズン奪三振の日本記録は、西鉄の稲尾和久が持つ353個だった。江夏はこの年、その記録にあと少しというところまで迫っていた。 そして巨人戦を前に、江夏は「新記録の354個目は王さんから取る」と公言していた。 試合の途中、江夏は王貞治から三振を奪う。本人はこれで新記録だと思い込んだ。ところがベンチに戻ると、捕手の辻恭彦から、まだタイ記録だと指摘される。数え間違えていたのである。 普通なら、次の打者から三振を取れば済む話だ。だが江夏はそうしなかった。公言したとおり王さんから取るために、王の次の打席が回ってくるまで、ほかの打者から一つも三振を取らないと決めたのだ。 打者が一巡する間、ヒットは一本打たれたが、あとはすべて凡打に打ち取った。江夏が後年いちばん困ったと振り返っているのは、打つほうが本職ではない投手の高橋一三を、二球で追い込んでしまった場面だったという。三振を取りにいくより、三振させないほうが難しかったのである。 そして再び王が打席に入り、江夏は宣言どおり354個目の三振を奪った。しかもこの試合、延長十二回に江夏自身がサヨナラ打を放って決着をつけている。この年、江夏は最終的に401個の三振を積み上げた。 避けられていた王さん、向かっていった江夏 王さんの現役時代の姿は、私もはっきりと見ている。昭和五十二年、あの756号のホームランが飛び出したのは、ちょうど私が野球に夢中になり始めた頃だった。 ただ、江夏が王さんを「狙っていた」と聞いても、正直なところ、ぴんと来ない。私の記憶の中の王さんは、投手から狙われるどころか、むしろ避けられていた打者だったからだ。 そんな打者に、真正面から向かっていった投手がいた。それだけ江夏という投手が、傑出した存在だったのだろう。 江夏が節目の三振を王から取ることにこだわったのには、先輩の存在もあったらしい。阪神のエース村山実は、記録の節目の三振を長嶋茂雄から奪うことにこだわっていた。江夏もそれにならい、王を自分の相手と決めていたという。 江夏は生涯で王から57個の三振を奪っている。一方で、王に打たれたホームランも20本ある。避けずに勝負を挑み続けたからこそ、どちらの数字も残ったのだ。 もっとも、私の中の江夏豊は、阪神の縦縞ではない。広島カープの赤いユニフォームを着て、マウンドに立っている姿から始まっている。 その江夏豊さんが、自分の野球人生を語り残した一冊が今年出ました。王貞治とのライバル関係も、シーズン最多奪三振も、本人の言葉で読めます。 江夏の遺言江夏豊・松永多佳倫/小学館(2026年5月刊)。「日本プロ野球史上最高の左腕」が、王貞治との勝負や記録の裏側、球界での衝突まで語り尽くす。星4.3(39件) Amazonで見る › 全部の打者から三振を取るつもりだった 中学の野球部で、私はピッチャーをしていた。 当時の私は、全部の打者を三振に取ろうという思いで投げていた。もちろん、そううまく三振が取れるものではない。それでも、投手とはそういうものだと思い込んでいたところがあった。 そんな私からすると、江夏がやってのけたことは、ちょっと信じがたい。三振を取るつもりで投げても取れないのに、取らないように投げて、狙いどおりに打ち取っていく。それも中学生相手ではなく、プロの打者を相手に、である。 江夏の354個目が伝説として語られるのは、記録の数字そのものより、狙ったとおりに投げきったことにあるのだと思う。 江夏豊といえば、もうひとつの伝説があります。昭和54年の日本シリーズ第7戦、九回裏の「江夏の21球」。一球一球に何を狙っていたのかを描き切った短編が、この本に入っています。 スローカーブを、もう一球(角川文庫)山際淳司/KADOKAWA。「江夏の21球」を収めたスポーツ・ノンフィクションの金字塔。一瞬の勝負を切り取った8篇。星4.2(295件) Amazonで見る › 二十年後の同じ日、ソウルで 江夏の三振からちょうど二十年後、昭和六十三年の九月十七日。ソウルオリンピックが開幕した。 野球はまだ公開競技で、出場できるのはアマチュアだけだった。日本代表には、新日鉄堺の野茂英雄、トヨタ自動車の古田敦也、駒澤大学の野村謙二郎がいた。のちに三人とも名球会に入る選手である。日本は準決勝で開催国の韓国を破ったが、決勝ではアメリカの隻腕投手ジム・アボットに完投を許し、銀メダルに終わった。 この秋、私は十九歳の浪人生だった。 浪人中ではあったが、野球も、陸上の男子100メートルも、鈴木大地のバサロキックも、すべてテレビにかじりついて見ていた。100メートルで世界記録を出したベン・ジョンソンが、ドーピングで金メダルを取り消されたのも、この大会である。 開幕から二日後の九月十九日、昭和天皇が吐血し、日本は長い自粛の空気に包まれていく。今思えば、昭和という時代の最後の秋に、あのオリンピックはあった。 ソウルでアマチュアとして投げていた野茂英雄は、翌年近鉄に入り、のちに海を渡った。そして平成八年の九月十七日、ドジャースのユニフォームを着て、ロッキーズ相手にノーヒット・ノーランを達成している。九月十七日という日付には、なぜか投手の話が重なっている。 ...