今日は7月19日。昭和55年(1980年)のこの日、モスクワで第22回オリンピック競技大会が開幕しました。
社会主義国では初めての開催となった、歴史に残る大会です。ただし、日本人にとってこの大会が「歴史に残る」理由は、まったく別のところにあります。
日本は、この大会に参加しませんでした。
当時、私は小学5年生。「日本はモスクワオリンピックに出ない」ということ自体は、子どもながらに知っていました。ただ、なぜ出ないのか、その裏で何が起きていたのか。詳しいことを理解したのは、ずっと後になってからです。今回この記事を書くにあたって改めて調べてみると、知らなかったことばかりでした。

「モスクワは近い!」はずだった
まず驚いたのは、開幕前年の日本の盛り上がりぶりです。
昭和54年(1979年)、オリンピック協賛企業のテレビCMには「頑張れニッポン! モスクワは近い!」というフレーズが躍り、プレイベントも各地で大々的に行われていました。放送はテレビ朝日が独占放送権を獲得。局を挙げての一大プロジェクトでした。
そして、大会マスコットのこぐまのミーシャ。ソ連の絵本作家がデザインしたこの愛らしいクマは、日本でも大人気となり、なんとテレビアニメにまでなっています。『こぐまのミーシャ』、日本アニメーションと朝日放送の共同製作で、昭和54年10月から昭和55年4月まで、テレビ朝日系列で全26話が放送されました。
つまり日本は、国を挙げて「モスクワに行く気満々」だったのです。
放送時期は、私が小学4年生の秋から5年生に上がる春にかけて。年齢的にはドンピシャの世代です。
ところが正直に告白すると、このアニメのことは全く覚えていません。毎週楽しみにしていた番組はいくつもあったはずなのに、ミーシャの記憶だけがすっぽりと抜けている。日本中があれほど盛り上がっていたはずのモスクワへの道は、少なくとも高砂の小学生の頭の上を、静かに素通りしていたようです。
昭和55年5月24日、挙手の採決
ところが、昭和54年12月。ソ連が突如、アフガニスタンに軍事侵攻します。
これに抗議したアメリカのカーター大統領が、翌昭和55年1月、モスクワ五輪のボイコットを表明。西側諸国に同調を呼びかけました。日本政府もこれに追随する方針を固めていきます。
ただし、オリンピックに参加するかどうかを決める権限は、本来、政府ではなくJOC(日本オリンピック委員会)にあります。JOCの一部の委員は最後まで参加の道を模索し、選手たちもJOC本部に足を運んで出場を訴えました。柔道の山下泰裕選手、レスリングの高田裕司選手が涙ながらに参加を訴える姿は、今も映像に残っています。
しかし、当時のJOCは日本体育協会の一部門にすぎず、その体協は予算の半分を国からの補助金に頼っていました。財政的に、政府の方針に抗える構造ではなかったのです。
昭和55年5月24日、JOC臨時総会。採決は挙手で行われ、29対13で不参加が決定しました。会場には伊東正義官房長官の姿もあり、参加に手を挙げた競技団体には予算を分配しない、という圧力までかけられていたといいます。
さらに切ないのは、その後の6月11日、JOCが「モスクワ五輪日本選手団」の名簿を承認していることです。行かないことが決まった大会の、行くはずだった選手たちの名簿。「幻の選手団」と呼ばれるこの名簿には、山下選手も、マラソンの瀬古利彦選手も名を連ねていました。金メダル確実と言われた選手たちが、4年間積み上げてきたものを発揮する場所を、一度も走ることなく失ったのです。
小学5年生の夏、テレビの中に日本はいなかった
さて、では当の小学5年生は、この夏をどう過ごしていたのか。
正直に言えば、モスクワオリンピックそのものの映像を見た記憶は、全くありません。テレビ朝日は独占放送権を持っていたのですから、何かしらの中継や録画放送はあったはずです。しかし11歳の私の記憶には、開会式も、競技の様子も、何ひとつ残っていません。

その代わり、鮮明に覚えている映像があります。
柔道の山下選手が、涙を流しながら無念さを訴えていたテレビニュースです。あの大きな山下選手が、テレビの中で泣いている。日本の不参加をめぐるニュースの中で、あの姿だけは、今もはっきりと目に焼き付いています。
選手たちが参加を訴えるのは、当然のことだと私は思います。本当に、残念なことでした。
山下選手も、マラソンの瀬古選手も、オリンピックとは関係なく、その存在は当然知っていました。それ以前から、様々な試合でその強さを目にしていましたから。あの二人が本番の畳の上に、コースの上に立っていたら――そう想像すると、やはりこの「不参加」は、返す返すも残念なできごとでした。
ミーシャの涙
大会は、日本のいないまま16日間の日程を終えました。
8月3日の閉会式。スタジアムのバックスタンドに、人文字で巨大なミーシャが描かれます。そしてその目から、一筋の涙がこぼれ落ちました。場内にはお別れの歌が流れ、ミーシャの人形が風船とともに夜空へ打ち上げられ、森へ帰っていく――そんな演出で、大会は幕を閉じました。
「西側諸国のボイコットを悲しんで涙を流した」と語られることもあるようですが、これは俗説で、あくまで閉会の別れを表現した演出だったそうです。それでも、あの涙の人文字は、ボイコットに揺れた大会の記憶と分かちがたく結びついて、多くの人の心に残ることになりました。
日本の選手たちに次のチャンスが巡ってくるのは、4年後の昭和59年、ロサンゼルス。山下選手はそこで悲願の金メダルを獲得します。しかし、モスクワを最後の勝負の場と定めていた選手の中には、そのまま第一線を退いた人も少なくありませんでした。
あれから半世紀近く。スポーツと政治の関係は、少しずつ形を変えてきました。
モスクワでは60を超える国と地域が大会そのものをボイコットし、4年後のロサンゼルスでは、今度はソ連など東側諸国が報復的に不参加。国が「行かない」と決めれば、選手個人の意思とは関係なく出場の道が閉ざされる――そういう時代だったのです。
現在も、政治がスポーツ大会に影を落とすこと自体はなくなっていません。ただ、国ぐるみの全面ボイコットは減りました。代わりに、特定の国の選手を国旗も国歌もなしの「中立選手」として参加させたり、政府関係者だけが式典を欠席する「外交的ボイコット」にとどめたり。ロシアやベラルーシの選手をめぐる近年の対応は、その代表例でしょう。政治への抗議は行いつつ、選手個人への影響はできるだけ小さくする。もちろん今も議論は続いていますが、世界は回り道をしながら、あの日の山下選手の涙に応える方向へ、少しずつ進んでいるのだと信じたいところです。
おわりに
調べれば調べるほど、昭和55年のあの夏、大人の世界では実に大きなことが動いていたのだと知りました。当時の私は、その大半を知らないまま、いつもどおりの夏休みを過ごしていたのだと思います。
セミの声と、ラジオ体操と、真っ黒に日焼けした野球少年の夏。それでも、山下選手の涙のニュースだけは、11歳の記憶にしっかりと刻まれていました。子どもの目にも「これはただごとではない」と映るだけのものが、あの映像にはあったのでしょう。
みなさんは、モスクワオリンピックの記憶、ありますか? 「モスクワは近い!」のCMを覚えている方、幻の選手団に胸を痛めた方、ミーシャのぬいぐるみを持っていた方。よろしければ、コメントで教えてください。
この記事で書いた「幻の選手団」のその後を、選手たち本人への取材で描き切ったノンフィクションがこの一冊です。挙手の採決の裏側、涙の記者会見、そして28年後——あの夏に行き場を失った選手たちが、それぞれの人生をどう歩んだのか。山下選手の涙の意味を知りたい方に、深くおすすめします。
【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。
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