昭和の今日は何があった日? ~5月23日~

五月の風が少し強くなる頃、世界のどこかで、昭和の日本を揺さぶるニュースが届くことがある。 この日付には、四年という時間を隔てて、まったく別の舞台で生まれたふたつの「快挙」が眠っている。どちらも、当時の新聞のスポーツ欄や社会面を飾り、茶の間の話題をさらった出来事だ。 世界のクロサワ、カンヌで勝つ——昭和55年(1980年)5月23日 フランスのカンヌから、日本中が沸くようなニュースが飛び込んできた。 黒澤明監督の映画「影武者」が、第33回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを受賞したのだ。日本映画がカンヌの頂点に立つのは、昭和29年(1954年)の衣笠貞之助監督「地獄門」以来、実に26年ぶりの快挙だった。 「影武者」は、戦国武将・武田信玄の影武者に仕立てられた小泥棒の物語だ。信玄の死後、その秘密を守るために「信玄」を演じ続けることを強いられた男が、やがて武田家の滅亡とともに無名のまま消えていく。主演は仲代達矢さん。もともと主演に決まっていた勝新太郎さんが撮影途中で降板するという大騒動もあり、公開前から世間の注目を集めていた。 私は当時小学生で、「カンヌ映画祭」が何なのかわかるはずもなかった。ただ「日本の映画がフランスで一番になった」というニュースが夕方のテレビで繰り返し流れ、父か母が「えらいことになったな」とつぶやいていた記憶だけがある。 それが何の意味を持つのか、大人になってから少しずつわかってきた。 当時の黒澤明は、日本の映画会社から資金を出してもらえない状況が続いていた。そこに手を差し伸べたのが、「ゴッドファーザー」のフランシス・フォード・コッポラと「スター・ウォーズ」のジョージ・ルーカスだった。世界の頂点にいたハリウッドの鬼才ふたりは、「マスター・クロサワが資金難で映画を撮れないなどあってはならない」と20世紀FOXへの出資交渉に動いた。黒澤が描いた数百枚にも及ぶ絵コンテを目にした彼らは、驚愕して言葉を失ったという。 私たちが公園で野球をしたり、駄菓子屋でアイスを舐めていたあの頃、世界はそれほどの目で、日本の一人の老監督を見つめていた。 上野公園に残る黒澤明の手形。世界が認めた「マスター・クロサワ」の足跡。(Photo: Daderot / CC0) 後年「影武者」を改めて観たとき、私はその映像美に言葉を失った。信玄の影武者として「本物」になろうと足掻きながら、最後まで「偽者」のままで死んでいく男の孤独。土煙の戦場に身一つで踏み込み、矢に射られて倒れていくラストシーン。あれだけの絵を、あの時代に一人の人間がつくり上げたという事実に、今も静かに圧倒される。 三兄弟、同時に関取へ——昭和59年(1984年)5月23日 舞台はがらりと変わって、大相撲の世界へ。 この日、一つの番付発表が相撲ファンを沸かせた。井筒部屋の三男・寺尾の十両昇進が決まり、すでに関取だった長兄・鶴嶺山、次兄・逆鉾と合わせて、史上初の三兄弟同時関取が実現したのだ。 「井筒三兄弟」——。父は、「もろ差しの名人」と呼ばれた元関脇・鶴ヶ嶺昭男。自らが師匠を務める井筒部屋に、三人の息子を全員入門させた。長男・鶴嶺山、次男・逆鉾、そして末っ子の寺尾。鹿児島の血を引く父子四人が、同じ土俵で汗を流していた。 私がちょうど千代の富士の昇進を追いかけながら相撲中継に熱中していた頃の話だ。千代の富士が横綱へと駆け上がっていったあの時代、テレビには引き締まった筋肉の「ウルフ」と並んで、細身の体で激しい突っ張りを繰り出す寺尾の姿があった。あの甘いマスクと、信じられないほど速い突っ張りのコントラストが妙に記憶に残っている。 三兄弟の母・節子さんは、当時「蔵前小町」と呼ばれるほどの美人だったという。三兄弟から深く慕われていた節子さんが亡くなったとき、すでに力士だった長男と次男に、父・鶴ヶ嶺はこう言ったそうだ。「おまえらお客さんいるんだから帰れ」と。そうして三男・寺尾の四股名は、亡き母の旧姓から一字をとって付けられた。 相撲の家族とは、こういうものなのだ、と思った。土俵の上の激しさとは裏腹に、その根っこに流れているものは、ひどく人間的なあたたかさだ。 寺尾こと現・錣山親方。細身の体から繰り出す突っ張りで長く土俵を沸かせた。(Photo: FourTildes / CC BY-SA 3.0) 昭和59年のあの番付発表の日、父親の鶴ヶ嶺はどんな顔をしていたのだろう。三人の息子が同時に「関取」として土俵に立つ——親として、師匠として、どんな言葉もきっとうまく出てこなかったのではないか、と想像する。 二つの「父と子」の話として 並べてみると、昭和55年と59年のこの日の出来事には、どこか共鳴するものがある。 カンヌでパルム・ドールを受けた黒澤明も、自分の映画を撮るために敬愛する弟子たちの力を借りた。三兄弟も、父親が切り拓いた土俵の上を、それぞれの足で歩いた。受け継ぐもの、超えようとするもの、守り続けるもの。「影武者」の問いかけと、三人の力士の姿が、同じ五月二十三日という日付の中でひそかに重なって見える。 そしてこの話を書きながら、ふと自分のことを思った。 私には妻との間に4男1女、5人の子どもがいる。歳の差はあるが、みな丈夫で元気に育ってくれた。そして5人全員が、小学生時代に同じ学童野球チームに所属した(末っ子は現在も所属中だ)。そのチームは、今から45、6年前——私自身が小学生だった頃に所属していたチームでもある。 同じグラウンド、同じユニフォーム、世代をまたいで続く縁というものが、確かにある。 いつの日か、私も含めた6人全員で同じグラウンドに立って、野球の試合をしたい。それが今の私の、ひそかな楽しみであり目標だ。そのためにも毎日のランニングと懸垂を続けている。笑われるかもしれないが、本気でそう思っている。 鶴ヶ嶺親方が三人の息子と同じ土俵に立った気持ちが、少しだけわかる気がする。 あなたには、子どもや孫と「同じ場所に立つ」夢があるだろうか? 【昭和55年(1980年)5月23日】第33回カンヌ国際映画祭にて、黒澤明監督「影武者」がパルム・ドール受賞。日本映画26年ぶりの栄冠。 【昭和59年(1984年)5月23日】大相撲・井筒部屋の三男・寺尾の十両昇進が決定。長兄・鶴嶺山、次兄・逆鉾とともに史上初の三兄弟同時関取が実現。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:パクパクと、東京のゴミと――昭和の5月22日 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ── 5月24日 ▶

May 22, 2026

パクパクと、東京のゴミと――昭和の5月22日

5月22日。私にとってこの日付は、黄色い丸い生き物と、東京じゅうに積み上がったゴミの山という、まったく違う二つの光景が重なる日だ。 「パクパク」が迷路を走り出した日 昭和55年(1980年)5月22日、渋谷のゲームセンターに一台の筐体が置かれた。 黄色い丸がパクパクとエサを食べながら迷路を走り、赤・ピンク・青・オレンジの4匹のモンスターから逃げる。ゲームの名前は『パックマン』。ナムコが送り出したそのゲームが、のちに世界を席巻することになるとは、だれも思っていなかっただろう。 Photo by inunami / CC BY 2.0 当時、ゲームセンターはスペースインベーダーの衝撃がまだ冷めやらない頃だった。エイリアンを撃つ、戦車を撃つ。アーケードというのは「撃つ」場所だった。ところが、パックマンには敵を攻撃する要素がない。ひたすら「食べて逃げる」だけだ。 開発者の岩谷徹氏は「アーケードは暴力的なゲームであふれていた。エイリアンをやっつけるような内容のものばかりだった」と振り返る。だからこそ、違うものを作りたかった。食べることをテーマにした、やわらかいゲームを。パックマンという名前も、物を食べる時の「パクパク」という日本語の擬態語から生まれた。 私がパックマンをはじめて目にしたのは、あの安い倉庫みたいなゲームセンターだったと思う。30円か50円のコインを握りしめて薄暗い店内に入ると、ブラウン管の光の中でそのまるっこい黄色い顔が笑っていた。レバーを4方向に倒しながら迷路を走る感覚は、それまでのシューティングゲームとはまるで違っていた。「逃げる」という体験が、あんなに面白いとは知らなかった。 敵には、それぞれ「性格」があった ゲームに夢中になりながら、私たちは気づかないうちにある不思議を感じていたはずだ。「なんか敵が生きてるみたいだな」と。 実は4匹のモンスターには、それぞれ個性が設計されていた。 赤の「アカベイ」はパックマンをしつこく追いかけてくる。ピンクの「ピンキー」は追いかけるのではなく、パックマンの進行方向の先へ先回りする。水色の「アオスケ」は気まぐれな動きをして、どこへ来るか読みにくい。オレンジの「グズタ」はパックマンに近づきすぎると急にふらふらと離れていく。 これは「個性のある敵キャラクター」という発想の、世界でも最初期の試みだった。今でいえばAIのような概念が、1980年という時代にすでに迷路の中に息づいていた。「追う」「先回り」「気まぐれ」「迷う」という4つの行動パターンが絡み合うことで、迷路の中の戦況は毎回違う顔を見せた。それが「なんか生きてる感じ」の正体だったのだ。 今から46年前のゲームが、現代のAI技術にも通じる考え方を持っていたとは、当時の子どもだった私には想像もできなかった。 パックマンには迷路を攻略するパターンがあり、友達の間で「このルートで行けば5面まで死なない」という攻略法が口伝えに広まった。放課後のゲームセンターで真剣に迷路を走る子どもたちの後ろに人だかりができる。そんな光景が各地であったはずだ。 1980年から7年間で総販売台数は約29万台を超え、「最も成功した業務用ゲーム機」としてギネス・ワールド・レコーズにも認定された。あの黄色い丸が初めて走り出したのが、昭和55年の今日だったとは、当時は知るよしもなかった。 東京が「ゴミ戦争」を戦っていた日 もうひとつ、この5月22日には忘れられない出来事がある。 昭和48年(1973年)5月22日、東京・江東区が杉並区のゴミ搬入を実力で阻止した日だ。 「東京ゴミ戦争」という言葉は、正直なところ、私の記憶にない。当たり前といえば当たり前で、昭和48年の私はまだ4歳だった。怒鳴り合うニュース映像もわかるはずがない。それでも、この出来事を調べていたとき、ふと頭に浮かんだ光景があった。 葛飾区・水元のあの温水プールだ。 社会科見学と、ゴミを燃やす熱 小学4年生、昭和54年ごろのことだ。葛飾区の小学生は「社会科見学」で水元の葛飾清掃工場を訪れた。職員の方に焼却炉の仕組みを教えてもらい、ゴミを燃やした時に出る熱が蒸気となって、隣接する施設のプールを温めていると聞いた。「ゴミの熱でプールが温かくなる」という話は、10歳の子どもにも妙に印象深く残った。 見学のあと、友達とそのプールでばちゃばちゃと泳いだ。余熱利用の仕組みは頭に入っていたけれど、それがどんな歴史の流れの上にあるのかまでは、もちろんわかっていなかった。 「自分のゴミは自分で処理せよ」 ゴミ戦争のあらましはこうだ。江戸時代から現代まで、東京のゴミを受け入れてきた土地が江東区だった。昭和40年代の大量消費社会でゴミが激増すると、江東区の「夢の島」はハエやネズミが大量発生する悪臭の島と化した。東京都は各区に清掃工場を建設して「自区内処理」を推進しようとしたが、杉並区では住民の反対で建設計画が何度も頓挫した。 杉並区で5月21日に反対派による流会が起きたため、江東区では翌5月22日、杉並区のゴミ搬入を実力阻止した。東京都清掃労働組合も連帯してボイコットし、杉並区内のゴミ収集は止まった。 自分たちのゴミを処理する施設を「うちには要らない」と拒み続けた結果、区内にゴミの山が積み上がる。この対立は全国ニュースとなり、「自分のゴミは自分の区で処理する」という原則が東京じゅうで問い直された。 東京・江東区の夢の島。かつてゴミで埋め立てられた島は、現在は公園として整備されている。/国土交通省 国土地理院「国土画像情報(カラー空中写真)」 あの夏のプールと歴史の線 その問い直しの流れが、東京各区の清掃工場整備を加速させた。葛飾区も例外ではなかった。工場が整備されれば、その焼却熱を地域に還元しようという発想が生まれる。余熱は蒸気となり、隣接する施設のプールを温める。 私が友達と泳いだあの水元のプールは、その歴史的な流れの終着点のひとつだったのだ。 「東京ゴミ戦争」→「自区内処理の推進」→「各区の清掃工場整備」→「余熱利用施設(温水プール)の設置」 社会科見学でその仕組みを教わっていたのに、どうしてその工場ができたのか、なぜ余熱利用という発想が生まれたのか、その背景まで考えたことは一度もなかった。4歳の私には届かなかったニュースが、10歳の私をプールで泳がせていたとは。 昭和55年5月22日、黄色い丸が東京の繁華街に生まれた日。 昭和48年5月22日、東京じゅうのゴミの置き場をめぐって大人たちが怒鳴り合った日。 子どもには見えなかったことが、50年近く経ってようやくつながる。歴史の線は、いつもあとから引かれるものらしい。 あなたの子ども時代に「あれはそういうことだったのか」と気づいた出来事は、何かあるだろうか。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40年〜64年のできごとを、ひとつひとつ掘り起こしていく連載です。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ―― 5月21日、スカイライナーが走り出した朝 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月23日~ ▶

May 21, 2026