今日は7月29日。七月もいよいよ終わりに近づき、夏の暑さがいちばん濃くなる頃です。

昭和の夏を思い出すとき、まっさきに浮かぶもののひとつが、花火です。夕暮れの空がだんだんと藍色に沈んでいって、遠くのほうで「ドン」と腹に響く音がする。少し遅れて、夜空に大きな光の花が咲く。あの音と光は、下町に育った者にとって、夏そのものと分かちがたく結びついています。

昭和53年(1978年)の7月29日、その花火をめぐる大きなできごとがありました。長いあいだ途絶えていた両国の花火が、「隅田川花火大会」と名前を変えて、17年ぶりに夜空へ帰ってきたのです。

17年ぶりの、復活だった

隅田川の花火の歴史は、驚くほど古いものです。

さかのぼること江戸時代、享保18年(1733年)。前の年に大飢饉と疫病が江戸を襲い、多くの人が命を落としました。その死者を供養し、悪い病を追い払うことを願って、八代将軍・徳川吉宗が両国橋のたもとで水神祭を営み、川開きの日に花火を打ち上げた——これが、両国の川開き花火の始まりだと伝えられています。じつに300年近くも昔のことです。

歌川広重「東都名所 両国花火之図」。両国橋に群がる見物人、川面を埋める涼み舟、そして夜空の花火。江戸の夏の風物詩だった。(Photo: CC0, The Met, via Wikimedia Commons)

そもそも「川開き」とは、その年の夏、隅田川での舟遊びや納涼が許される初日のこと。江戸の人々にとっては、待ちに待った夏の幕開けの合図でした。両国橋のあたりには涼み舟がびっしりと浮かび、川岸には屋台や見世物が立ち並ぶ。その夜空を彩る花火こそが、夏の到来を告げるいちばんの主役だったのです。

やがて花火職人のあいだに、「鍵屋」と、そこから分かれた「玉屋」という二つの名門が生まれました。見物人が夜空を見上げて「たまや〜」「かぎや〜」と声をかける、あの掛け声も、このころに生まれたものです。とりわけ人気を集めたのは玉屋のほうで、見事な花火が上がると、江戸っ子たちは惜しみなく「たまや〜」と声を張り上げたといいます。こうして両国の川開きは、多少の中断をはさみながらも、江戸から東京へと、夏の一大行事として受け継がれていきました。

ところが、その伝統がぷつりと途切れます。昭和36年(1961年)を最後に、両国の花火は打ち上げられなくなってしまったのです。理由のひとつは、川べりにあふれる車と、ふくれあがる見物客をさばききれなくなった交通事情。そしてもうひとつが、隅田川そのものの汚れでした。高度経済成長のただ中、工場排水や生活排水が流れ込み、川の水はどす黒く濁って、悪臭を放つほどになっていたのです。花火を映すはずの川面は、とても「涼」を感じられる状態ではありませんでした。

こうして、両国の夏から花火が消えました。以来17年ものあいだ、隅田川の夜空は静かなままでした。その間に生まれた子どもたち——昭和44年生まれの私も、その一人です——は、両国の花火というものを一度も見ないまま育っていったのです。

再び夜空を取り戻すまでには、17年という歳月がかかりました。下水道の整備が進み、汚れきっていた川の水も少しずつ息を吹き返して、ようやく機が熟したのが昭和53年です。かつての両国橋周辺は交通量が増えすぎていたため、会場を少し上流へと移し、名前も「隅田川花火大会」と改めました。桜橋から言問橋のあいだ(第一会場)と、駒形橋から厩橋のあいだ(第二会場)、二つの会場で花火を競い合う——今に続くあの形が、このとき生まれたのです。

昭和53年7月29日。17年ぶりに、隅田川の夜空に光の花が咲いたのです。

実に250年近い歴史を持つ夏の風物詩が、長い空白を経て帰ってきた。その復活は新聞やテレビでも大きく取り上げられ、東京の下町に暮らす人々にとっては、待ちに待った知らせだったにちがいありません。

正直に言えば、私の「花火」は、隅田川ではない

ここまで書いておいて、正直に打ち明けます。

「花火」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、じつは、あの華やかな隅田川花火大会ではありません。

もちろん、小学3、4年生の頃だったでしょうか、母と妹と私の3人で浅草へ出かけた記憶はあります。でも残っているのは、夜空いっぱいに咲く大輪の花ではなく、押し寄せる人の波に揉まれながら、ただひたすら歩き続けたという記憶です(笑)。どこかに腰を下ろして、ゆっくり花火を見上げたという思い出ではないのが、少しだけ残念でもあります。

今にして思えば、あの日の人混みこそが、復活してまもない隅田川花火大会そのものだったのかもしれません。何十万もの人が、同じ夜空を目指して押し寄せる。その大きな渦のなかに、幼い私も、母と妹とともに確かにいたのです。花火の記憶はほとんど残っていないのに、あの熱気とざわめきだけは、今も体のどこかが覚えています。

私にとって本当の「花火大会」は、高砂の隣町・柴又で毎年開かれていた、江戸川の花火大会でした。物心ついた頃から、家族や近所の人たちと河川敷の土手まで歩いて向かうのが、夏の恒例行事だったのです。

間近で打ち上がる花火は、それまで見たことのないほど大きく、お腹の底まで響く轟音に、子どもの私は少し怖さを感じていました。それでも、夜空いっぱいに広がる光の美しさに見とれ、「夏が来た」という実感を味わっていたように思います。

軒を連ねる提灯、櫓を囲む人の輪。子どものころ、夏の夜はいつもこんな景色の中にあった。(Photo: CC BY 2.0, via Wikimedia Commons ※イメージ)

あの頃は、今よりもずっとあちこちで盆踊りが開かれていました。母はにぎやかな場所が大好きな人で、夏になると毎晩のように近所の盆踊りへ出かけていました。私もその後をついて歩き、太鼓の音や提灯の灯り、屋台の賑わいに胸を躍らせたことを覚えています。あの夏の空気は、今でも忘れられません。

「花火大会をやってくる!」

そして小学生になると、夏の楽しみがもう一つ増えました。

昼間、近所の友達と駄菓子屋へ行き、バラ売りの花火を一人300円分くらい買うのです。ロケット花火やねずみ花火ではなく、手持ち花火や線香花火を思い思いに選び、夜になると「花火大会をやってくる!」と言って家を出る。子どもだけの、ささやかな夜遊びでした。

手持ち花火の、はじける小さな光。子どもだけの「花火大会」は、これで十分だった。(Photo: Public domain, via Wikimedia Commons ※イメージ)

今思えば、本当にささやかな冒険です。でも、少しだけ悪いことをしているような気分が、その時間を何倍も特別なものにしてくれました。友達と囲んだ線香花火の、ぽとりと落ちる火の玉。その一瞬の明るさと、すぐに訪れる暗闇。あれもまた、まぎれもない私の「花火大会」でした。

どの夏にも、父はいなかった

こうして思い返してみると、どの夏の思い出にも、父の姿がありません。

父はいつも仕事で忙しく、家族で出かけることはほとんどありませんでした。でもそれは、決して我が家だけのことではなく、近所にも同じような家庭がたくさんありました。父親たちは、みんな懸命に働いていたのです。

その代わり、私たちは地域の大人たちに見守られながら育ちました。子どもたちだけで夜道を歩き、花火をしていても、近所のおじさんやおばさんが、自然と目を配ってくれていた。そんな時代だったのです。

子どもの頃には気づきませんでしたが、大人になった今、あの温かな見守りが、どれほどありがたいものだったのかを実感します。そして今度は、自分が地域の子どもたちを見守る側の世代になったのだ、ということにも気づかされます。

夏の花火は、美しかった夜空だけではなく、人と人とのつながりまで思い出させてくれる。私にとって、そういう特別な風景なのです。

おわりに

昭和53年7月29日、隅田川に17年ぶりの花火が咲きました。街じゅうの人が、その復活を心待ちにしていたといいます。

いま、隅田川花火大会は毎年当たり前のように開かれ、両岸には100万人近い人が押し寄せます。誰もがスマートフォンを夜空にかざし、光の花を写真におさめる。いっぽうで、私の夏を彩ってくれた近所の盆踊りは、櫓を見かけることさえ少なくなりました。子どもだけで夜道を歩き、線香花火に火をつけるようなことも、今では難しい時代です。

それでも——江戸の川開きも、大きな隅田川の花火も、柴又の小さな花火も、根っこにあるものは同じなのだと思います。人が集まり、同じ夜空を見上げ、「夏が来た」と感じ合う。300年ちかく前の江戸っ子が「たまや〜」と声を張り上げた気持ちと、土手で花火に見とれていた子どもの私の気持ちは、案外、地続きなのかもしれません。花火とは、光そのものよりも、その下に集う人と人とのつながりを照らすものなのでしょう。

17年ぶりの復活を待ちわびた大人たちの気持ちが、今なら少しだけ分かる気がします。当たり前に思える夏の風物詩も、途切れてみて初めて、どれほど大切だったかに気づく。だからこそ、毎年ちゃんと花火が上がるということは、それだけで、ありがたいことなのでしょう。

あなたにとって、いちばん心に残っている夏の花火は、どんな花火でしょうか。夜空いっぱいの大輪でしょうか。それとも、誰かと囲んだ、線香花火の小さな火でしょうか。


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【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。


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