【昭和の今日は何があった日?】7月29日──17年ぶりに、夏の夜空が帰ってきた

今日は7月29日。七月もいよいよ終わりに近づき、夏の暑さがいちばん濃くなる頃です。 昭和の夏を思い出すとき、まっさきに浮かぶもののひとつが、花火です。夕暮れの空がだんだんと藍色に沈んでいって、遠くのほうで「ドン」と腹に響く音がする。少し遅れて、夜空に大きな光の花が咲く。あの音と光は、下町に育った者にとって、夏そのものと分かちがたく結びついています。 昭和53年(1978年)の7月29日、その花火をめぐる大きなできごとがありました。長いあいだ途絶えていた両国の花火が、「隅田川花火大会」と名前を変えて、17年ぶりに夜空へ帰ってきたのです。 17年ぶりの、復活だった 隅田川の花火の歴史は、驚くほど古いものです。 さかのぼること江戸時代、享保18年(1733年)。前の年に大飢饉と疫病が江戸を襲い、多くの人が命を落としました。その死者を供養し、悪い病を追い払うことを願って、八代将軍・徳川吉宗が両国橋のたもとで水神祭を営み、川開きの日に花火を打ち上げた——これが、両国の川開き花火の始まりだと伝えられています。じつに300年近くも昔のことです。 そもそも「川開き」とは、その年の夏、隅田川での舟遊びや納涼が許される初日のこと。江戸の人々にとっては、待ちに待った夏の幕開けの合図でした。両国橋のあたりには涼み舟がびっしりと浮かび、川岸には屋台や見世物が立ち並ぶ。その夜空を彩る花火こそが、夏の到来を告げるいちばんの主役だったのです。 やがて花火職人のあいだに、「鍵屋」と、そこから分かれた「玉屋」という二つの名門が生まれました。見物人が夜空を見上げて「たまや〜」「かぎや〜」と声をかける、あの掛け声も、このころに生まれたものです。とりわけ人気を集めたのは玉屋のほうで、見事な花火が上がると、江戸っ子たちは惜しみなく「たまや〜」と声を張り上げたといいます。こうして両国の川開きは、多少の中断をはさみながらも、江戸から東京へと、夏の一大行事として受け継がれていきました。 ところが、その伝統がぷつりと途切れます。昭和36年(1961年)を最後に、両国の花火は打ち上げられなくなってしまったのです。理由のひとつは、川べりにあふれる車と、ふくれあがる見物客をさばききれなくなった交通事情。そしてもうひとつが、隅田川そのものの汚れでした。高度経済成長のただ中、工場排水や生活排水が流れ込み、川の水はどす黒く濁って、悪臭を放つほどになっていたのです。花火を映すはずの川面は、とても「涼」を感じられる状態ではありませんでした。 こうして、両国の夏から花火が消えました。以来17年ものあいだ、隅田川の夜空は静かなままでした。その間に生まれた子どもたち——昭和44年生まれの私も、その一人です——は、両国の花火というものを一度も見ないまま育っていったのです。 再び夜空を取り戻すまでには、17年という歳月がかかりました。下水道の整備が進み、汚れきっていた川の水も少しずつ息を吹き返して、ようやく機が熟したのが昭和53年です。かつての両国橋周辺は交通量が増えすぎていたため、会場を少し上流へと移し、名前も「隅田川花火大会」と改めました。桜橋から言問橋のあいだ(第一会場)と、駒形橋から厩橋のあいだ(第二会場)、二つの会場で花火を競い合う——今に続くあの形が、このとき生まれたのです。 昭和53年7月29日。17年ぶりに、隅田川の夜空に光の花が咲いたのです。 実に250年近い歴史を持つ夏の風物詩が、長い空白を経て帰ってきた。その復活は新聞やテレビでも大きく取り上げられ、東京の下町に暮らす人々にとっては、待ちに待った知らせだったにちがいありません。 正直に言えば、私の「花火」は、隅田川ではない ここまで書いておいて、正直に打ち明けます。 「花火」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、じつは、あの華やかな隅田川花火大会ではありません。 もちろん、小学3、4年生の頃だったでしょうか、母と妹と私の3人で浅草へ出かけた記憶はあります。でも残っているのは、夜空いっぱいに咲く大輪の花ではなく、押し寄せる人の波に揉まれながら、ただひたすら歩き続けたという記憶です(笑)。どこかに腰を下ろして、ゆっくり花火を見上げたという思い出ではないのが、少しだけ残念でもあります。 今にして思えば、あの日の人混みこそが、復活してまもない隅田川花火大会そのものだったのかもしれません。何十万もの人が、同じ夜空を目指して押し寄せる。その大きな渦のなかに、幼い私も、母と妹とともに確かにいたのです。花火の記憶はほとんど残っていないのに、あの熱気とざわめきだけは、今も体のどこかが覚えています。 私にとって本当の「花火大会」は、高砂の隣町・柴又で毎年開かれていた、江戸川の花火大会でした。物心ついた頃から、家族や近所の人たちと河川敷の土手まで歩いて向かうのが、夏の恒例行事だったのです。 間近で打ち上がる花火は、それまで見たことのないほど大きく、お腹の底まで響く轟音に、子どもの私は少し怖さを感じていました。それでも、夜空いっぱいに広がる光の美しさに見とれ、「夏が来た」という実感を味わっていたように思います。 あの頃は、今よりもずっとあちこちで盆踊りが開かれていました。母はにぎやかな場所が大好きな人で、夏になると毎晩のように近所の盆踊りへ出かけていました。私もその後をついて歩き、太鼓の音や提灯の灯り、屋台の賑わいに胸を躍らせたことを覚えています。あの夏の空気は、今でも忘れられません。 「花火大会をやってくる!」 そして小学生になると、夏の楽しみがもう一つ増えました。 昼間、近所の友達と駄菓子屋へ行き、バラ売りの花火を一人300円分くらい買うのです。ロケット花火やねずみ花火ではなく、手持ち花火や線香花火を思い思いに選び、夜になると「花火大会をやってくる!」と言って家を出る。子どもだけの、ささやかな夜遊びでした。 今思えば、本当にささやかな冒険です。でも、少しだけ悪いことをしているような気分が、その時間を何倍も特別なものにしてくれました。友達と囲んだ線香花火の、ぽとりと落ちる火の玉。その一瞬の明るさと、すぐに訪れる暗闇。あれもまた、まぎれもない私の「花火大会」でした。 どの夏にも、父はいなかった こうして思い返してみると、どの夏の思い出にも、父の姿がありません。 父はいつも仕事で忙しく、家族で出かけることはほとんどありませんでした。でもそれは、決して我が家だけのことではなく、近所にも同じような家庭がたくさんありました。父親たちは、みんな懸命に働いていたのです。 その代わり、私たちは地域の大人たちに見守られながら育ちました。子どもたちだけで夜道を歩き、花火をしていても、近所のおじさんやおばさんが、自然と目を配ってくれていた。そんな時代だったのです。 子どもの頃には気づきませんでしたが、大人になった今、あの温かな見守りが、どれほどありがたいものだったのかを実感します。そして今度は、自分が地域の子どもたちを見守る側の世代になったのだ、ということにも気づかされます。 夏の花火は、美しかった夜空だけではなく、人と人とのつながりまで思い出させてくれる。私にとって、そういう特別な風景なのです。 おわりに 昭和53年7月29日、隅田川に17年ぶりの花火が咲きました。街じゅうの人が、その復活を心待ちにしていたといいます。 いま、隅田川花火大会は毎年当たり前のように開かれ、両岸には100万人近い人が押し寄せます。誰もがスマートフォンを夜空にかざし、光の花を写真におさめる。いっぽうで、私の夏を彩ってくれた近所の盆踊りは、櫓を見かけることさえ少なくなりました。子どもだけで夜道を歩き、線香花火に火をつけるようなことも、今では難しい時代です。 それでも——江戸の川開きも、大きな隅田川の花火も、柴又の小さな花火も、根っこにあるものは同じなのだと思います。人が集まり、同じ夜空を見上げ、「夏が来た」と感じ合う。300年ちかく前の江戸っ子が「たまや〜」と声を張り上げた気持ちと、土手で花火に見とれていた子どもの私の気持ちは、案外、地続きなのかもしれません。花火とは、光そのものよりも、その下に集う人と人とのつながりを照らすものなのでしょう。 17年ぶりの復活を待ちわびた大人たちの気持ちが、今なら少しだけ分かる気がします。当たり前に思える夏の風物詩も、途切れてみて初めて、どれほど大切だったかに気づく。だからこそ、毎年ちゃんと花火が上がるということは、それだけで、ありがたいことなのでしょう。 あなたにとって、いちばん心に残っている夏の花火は、どんな花火でしょうか。夜空いっぱいの大輪でしょうか。それとも、誰かと囲んだ、線香花火の小さな火でしょうか。 大きな花火大会に出かけるのもいいけれど、庭先や玄関先で、孫と一緒に線香花火をぽとりと落とす——そんな夏も、また格別です。これは、職人が一本ずつ手で作る純国産の線香花火。パチパチと火花を散らし、最後にほろりと玉が落ちるまで、驚くほど長く、美しく燃えます。中国産の安価なものとは、火のもちも風情もまるで別物。あの頃の夏を、今度は見守る側として、子や孫と分かち合ってみませんか。 純国産線香花火 巧(たくみ)国内の職人が手作業で仕上げる本物の線香花火。パチパチと繊細な火花が長く続き、最後に火の玉がほろりと落ちる風情は国産ならでは。桐箱風の化粧箱入りで贈り物にも Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

July 29, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月3日──元気ハツラツ!オロナミンCと、小学5年生の夏

オロナミンCの日、その語呂合わせ 7月3日は「オロナミンCの日」なのだそうです。「オロナ(7)ミ(3)ンC」という、なんとも昭和らしい語呂合わせから、製造元の大塚製薬株式会社が制定した記念日とのこと。累計販売本数が300億本を突破したことを記念して定められたと聞けば、あの独特な甘さと炭酸の刺激が、いかに多くの日本人の記憶に染みついているかがわかります。 私が子供の頃には、すでに「あって当たり前」の飲み物でした。しかし調べてみると、オロナミンCの誕生は1965年(昭和40年)2月。私が生まれる4年前のことです。ちょうど高度経済成長のまっただ中、東京オリンピックの興奮も冷めやらぬ頃に、大正製薬の「リポビタンD」に対抗する形で世に送り出された商品だったそうです。 首都高速道路や東海道新幹線が開通し、日本中が「もっと速く、もっと元気に」と前のめりになっていた時代。そんな空気の中で「元気ハツラツ」を掲げる栄養ドリンクが生まれたのは、ある意味で必然だったのかもしれません。私が物心つく頃には、そうした高度成長の熱気はすでに一段落していましたが、オロナミンCという商品だけは、変わらぬ姿で駄菓子屋の片隅に鎮座していました。 「オロナ」+「ミンC」、名前の由来 オロナミンCという名前、実は大塚製薬の看板商品だった皮膚薬「オロナイン軟膏」の「オロナ」と、「ビタミンC」の「ミンC」を組み合わせたものだと知って、思わず膝を打ちました。子供の頃はそんなことを考えたこともなく、ただ「元気の出る飲み物」として棚に並んでいたわけですが、企業としては薬品のブランド力をうまく橋渡ししていたのですね。 発売当初、炭酸を含んでいることを理由に医薬品としては認められなかったそうです。当時の感覚では少々残念な判断にも思えますが、これが結果的に薬局以外の場所――駄菓子屋や商店、自動販売機――でも自由に売られる清涼飲料水としての普及を後押ししたというのですから、世の中は分からないものです。ライバルであった大正製薬の「リポビタンD」が医薬品として薬局を中心に売られていたのとは対照的に、オロナミンCは子供の生活圏である駄菓子屋にまで入り込んでくることができた。この違いが、私たち昭和の子供世代の記憶に、オロナミンCがより身近な存在として刻まれた理由のひとつかもしれません。 大村崑さんと、ホーロー看板の記憶 オロナミンCといえば、まず思い浮かぶのが大村崑さんの顔です。「うれしいとねぇ、めがねが落ちるんですよ!」という白黒テレビCMから始まり、やがて「元気ハツラツ!」の掛け声とともに、昭和40年代の茶の間にすっかり定着していきました。大村さんは発売当初からおよそ10年もの間CMに出演し続け、1970年の大阪万博の際には、気球に乗って「オロナミンCを飲んで万国博へ行こう!」と呼びかけるCMまで作られたというから驚きです。それだけ長く同じ顔が茶の間に映り続けたということは、それだけ多くの子供たちの記憶に、あの笑顔が刻み込まれたということでもあるのでしょう。 そういえば、家族それぞれが自分好みにオロナミンCをアレンジして飲む、という趣向のCMもあったように記憶しています。ミルクを入れて「オロナミンセーキ」にしたり、大人はウイスキーやジンを垂らしたり。中には、ほぐした卵黄を溶き入れて飲むという飲み方まであったような気がします。私自身は試したことがないのですが、本当だとしたら、今の感覚ではちょっと驚きの組み合わせです。当時の栄養ドリンクには、こうして「混ぜて自分流にする」という遊び心の文化があったのかもしれません。 そして忘れてはならないのが、街角のあちこちに掲げられていたホーロー看板です。大村崑さんの笑顔と一緒に、当時大塚製薬がスポンサーだった『黄金バット』『巨人の星』『天才バカボン』、あるいは『アタックNo.1』といった人気番組のキャラクターが隅に描かれた看板が、全国津々浦々の商店の壁に貼られていたそうです。 私の記憶でも、看板は本当にあちこちにありました。駄菓子屋やたばこ屋の軒先はもちろん、当時はまだ木製の電柱もあちこちに残っていて、そこにも貼られていたのを覚えています。学校への行き帰り、あるいは近所を自転車で走り回っているときに、ふと視界の端に大村崑さんの笑顔が飛び込んでくる。特に意識して見ていたわけではないのに、気がつけばあの独特な看板のデザインは、しっかりと記憶に焼き付いていました。 看板の中には『巨人の星』の星飛雄馬が隅に描かれたバージョンもあったそうで、後から知って「あの頃見ていたのは、もしかしたらそれだったのかもしれない」と、記憶を重ね合わせています。ただ、小学校低学年の頃はテレビCMや看板で目にするばかりで、実際に飲むことはありませんでした。オロナミンCはどこか「大人の飲み物」のような感じがしましたし、瓶もコーラよりひと回り小さかったので、駄菓子屋で選ぶ時にはつい大きいほうのコーラに手が伸びてしまう。子供心にも、量で選んでいたのかもしれません。今思えば、あの小さな瓶には大人の世界への憧れのようなものが詰まっていたのかもしれませんが、当時の私にはただ「ちょっと背伸びした飲み物」に見えていただけでした。 「小さな巨人」と、我が家の応援歌 私にとって特に感慨深いのは、1976年(昭和51年)からおよそ四半世紀にわたって、オロナミンCが読売ジャイアンツとタイアップしていたという事実です。CMの最後には「オロナミンCは小さな巨人です!」というフレーズが使われ、昭和58年頃までは大村崑さんが、それ以降は中畑清選手をはじめとする巨人軍の選手たちがこの台詞を口にしていたといいます。「Cパワーが、Gパワーになる」というキャッチコピーも使われていたそうで、ビタミンCの力が読売ジャイアンツ(G)の力になる、というダジャレのような発想も、なんとも昭和らしい大らかさを感じます。 私が物心つく頃には、すでにジャイアンツファンとしてラジオにかじりついていた身です(先日この欄でも書きましたが、夜のナイター中継を追いかける少年でした)。テレビでもラジオでも、巨人戦の合間に流れてくるオロナミンCのCMは、応援と一体になった風景の一部でした。看板やCMで繰り返し目にしていたあの飲み物が、まさか自分にとって「特別な一本」になるとは、当時は思ってもみませんでした。 小学5年生の夏、初めての一本 初めてオロナミンCを飲んだのは、小学5年生の夏休みのことでした。パートに出ていた母が、職場で6本入りパックをいただいてきたのです。長らく看板とCMの中だけの存在だったオロナミンCが、ついに我が家の食卓に並んだ瞬間、何とも言えぬ喜びがこみ上げてきました。それまで幾度となく看板やテレビの向こうに見ていた、あの小さな瓶が、今まさに自分の手の中にある――そう思うと、栓を抜く前から胸が高鳴っていたのを覚えています。「これがジャイアンツの選手たちが飲んでたやつかー」――そう思いながら王冠の栓を抜いて口に運んだ、あの瞬間は今でも鮮明に覚えています。 味は想像していたよりもずっと不思議なものでした。すっぱくて、シュワシュワしていて、どこか薬っぽい感じもする。そして何より驚いたのは、飲んだ後のオシッコが真っ黄色になっていたことです(笑)。ビタミンB2の色だと知ったのはずっと後のことで、当時は「これはとんでもない飲み物なんだ」と、変な意味で衝撃を受けたのを覚えています。 後になって知ったのですが、これは私だけの体験ではなく、当時オロナミンCやリポビタンDといったビタミン飲料を飲んだ子供たちの多くが同じように驚いていたのだそうです。今なら「ああ、ビタミンB2ね」と笑って済ませられますが、あの頃は誰も教えてくれない、ちょっとした発見でした。テレビの向こうの大村崑さんも巨人軍の選手たちも、まさか子供たちがこんなところで盛り上がっているとは思ってもいなかったでしょう。 今も変わらぬ「元気ハツラツ」 あれから半世紀近くが経ち、オロナミンCは今も店頭に並び続けています。CMキャラクターは時代とともに移り変わり、令和の今では仮面ライダーとタイアップするなど、姿を変えながらも生き続けている。あの木製の電柱も、駄菓子屋の軒先も、今の街並みからはほとんど姿を消してしまいましたが、瓶のデザインや「元気ハツラツ」という言葉だけは、驚くほど当時のまま残っています。 私も令和の今、たまにオロナミンCを手に取ることがありますが、そのたびに、あの小学5年生の夏休みの記憶がよみがえってきます。母が職場からもらってきた6本入りパック、初めて栓を抜いた時の高鳴り、そして誰にも教わらなかった「発見」の驚き。変わらないのは、あの甘酸っぱい味と炭酸の刺激、そして子供の頃の胸の高鳴りなのかもしれません。 皆さんは、オロナミンCにまつわる思い出はありますか。あの看板を、あのCMを、あの味を、今も覚えていらっしゃいますか。 暑さが本番を迎えるこの季節。あの「元気ハツラツ」を、久しぶりに一本いかがでしょう。半世紀変わらないあの味は、飲んだ瞬間、あなたを子どもの頃のあの夏へ連れ戻してくれるはずです。箱で冷やしておけば、夏バテ気味の毎日の、ささやかな相棒になります。 大塚製薬 オロナミンC ドリンク 120ml×50本1965年から変わらない「元気ハツラツ」。冷蔵庫にストックしておきたい、夏の定番の一本 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月2日】手作りの翼が、琵琶湖に落ちていった夏 | 次の記事:【7月4日】テレビが眠らなくなった日、NHK衛星放送・世界初の24時間放送 ▶

July 3, 2026

6月16日 ── 上級生の背中越しに、私はインベーダーを見ていた

六月十六日。梅雨のただ中、長靴と傘がランドセルの相棒になる季節です。カレンダーの記念日欄を見ると、きょうは「和菓子の日」。そしてもうひとつ、私たちの世代にとっては見逃せない記念日が、そっと並んでいます——「スペースインベーダーの日」です。 昭和五十三年(一九七八年)の六月十六日、当時のタイトー本社ビルで、一台のテレビゲームの新作発表会が開かれました。その名は『スペースインベーダー』。開発したのは西角友宏さんという技術者です。画面の上から迫りくる宇宙人を、自分の操るビーム砲で迎え撃つ——いまでは当たり前の「自分で撃ち返せる」という双方向のおもしろさを、世に知らしめた一台でした。同年七月ごろから全国へ出荷されると、それはもう、文字どおり日本中を侵略していきます。 きょうは、その「侵略」を、いちばん下っ端の小学生として迎え撃った——いや、迎え撃てずに、ただ眺めていた私の話です。 イトーヨーカドーの、踊り場の一台 記憶を掘り起こしてみます。私とインベーダーの最初の出会いは、よく語られる喫茶店のテーブル型の筐体ではありませんでした。 イトーヨーカドーの、一階と二階をつなぐ階段。その中間にある踊り場に、立ったままプレーするタイプの大きな筐体が、ぽつんと一台、置かれていたのです。ブラウン管を上から覗き込む、背の高い箱型のやつです。喫茶店のテーブルに埋め込まれた、あの寝そべったような筐体を知ったのは、ずっとあとのことでした。 当時の私は小学三年生。正直に白状すると、一ゲームいくら、というあの金額は、三年生の小遣いではそうそう出せるものではありませんでした。けれど、興味のほうはバリバリにあったのです。だから私はどうしたか。プレーしている上級生のすぐ後ろに陣取って、画面を食い入るように見ていました。自分の百円玉ではない、誰かの一機が右へ左へ動くのを、まるで自分が動かしているような顔をして、ただ見ていたのです。 あの、ズン、ズン、ズン、ズン……と地鳴りのように響く、インベーダーが一歩ずつ近づいてくる音。敵の数が減るほどにテンポが速くなって、こちらの鼓動まで一緒に速くなっていく、あの独特の音。五列に並んだ五十五匹の宇宙人と、ときおり画面の上をすーっと横切る赤い円盤(あれを撃ち落とすと点が高いのだと、上級生が教えてくれました)。踊り場の薄明かりの中でぼうっと光るその画面を、私はいったい何度、よそのお兄さんの肩越しに見上げたことでしょう。 いま思えば、おかしな話です。そもそもイトーヨーカドーというのは、当時の私たちにとって、子どもだけで出入りしてはいけないことになっている場所でした。それなのに、私はちゃっかり行っちゃっているわけです。そして、後ろから覗かせてもらっていた上級生たち——彼らだって、しょせんは小学生です。それが何回も、何回も百円玉を投入していく。あの軍資金は、いったいどこから出ていたのか。当時は「すごいなあ」と思って見ていましたが、いざ自分が親の立場になって考えてみると、よくもまあ、と苦笑いするしかありません。 百円玉が、日本から消えた夏 私が踊り場で指をくわえて見ていたころ、世の中では、とんでもないことが起きていました。 それまでのテレビゲームといえば、画面の壁をボールで崩していく『ブロック崩し』のようなものが主流でした。ところがインベーダーは、向こうから攻めてくる。こちらが撃つ。撃ち返される。やられる——。腕を上げれば上げるほど長く生き延びられて、もっとやりたくなる。この「上達していく手応え」と「迎え撃つ緊張感」こそが、それまでのゲームにはなかった魔力でした。喫茶店でコーヒー一杯の値段で何十分も粘る大人が続出し、社会問題のように語られたほどです。 『スペースインベーダー』の人気は、喫茶店にテーブル型の筐体を持ち込ませ、やがてゲーム機ばかりを並べた「ゲーム喫茶」や、店員すらいない二十四時間営業の「インベーダーハウス」まで生み出していきます。コーヒーを飲む店だったはずの喫茶店が、いつのまにかテーブルという卓上が光る箱に置き換わっている。そんな光景が、日本中に広がっていきました。「インベーダー」は、その年の流行語になりました。なかでも語り草になっているのが、百円玉の話です。あまりに多くの百円玉がゲーム機の中に吸い込まれていったため、世間で百円硬貨が足りなくなり、日本銀行がふだんの三倍ほどの量を世に送り出した——そんな記事が新聞に載るほどだったといいます。 そんな熱狂のなかで、高得点を狙うつわものたちが編み出したのが、攻略法の元祖とも呼ばれる「名古屋撃ち」でした。インベーダーが最下段の一歩手前まで攻め込んでくると、なぜか敵の弾が自分のビーム砲をすり抜けて当たらない——もとはゲームの不具合(バグ)だったその仕様を逆手に取り、ぎりぎりまで引きつけて撃ちまくる、という技です。名前の由来は「名古屋で広まったから」とも、「あと一段で〝終わり〟、それと〝尾張(名古屋)〟をかけた」とも言われますが、本当のところは、いまもって誰も知らないのだそうです。 三十円、十円。ようやく私の番が来た さて、踊り場で見ているだけだった私にも、ちゃんと順番が回ってくる日が来ます。 世の中に次々と新しいゲームが登場すると、インベーダーは少しずつ「古いゲーム」になっていきました。すると、あれほど強気だったプレー代が、一気に下がりはじめるのです。五十円、三十円、そしてついには十円なんていう値札まで現れました。そうした型落ちの筐体を、倉庫のような建物に所狭しと並べた——いわゆる倉庫型のゲームセンターが、あちこちにできました。薄暗くて、どこか秘密基地めいていて、子どもにはほんの少しだけ背伸びが必要な場所。それでも十円玉一枚で遊べるとなれば、私たちにとっては立派な天国でした。 そこで、ようやく私にも、遊ぶことができるようになったのです。十円玉を握りしめて。あの踊り場の上級生たちが百円玉を惜しげもなく入れていた、その同じゲームを、私は数年遅れの十円で、心ゆくまで撃ちました。 もちろん、後ろから見て覚えた攻略法も、ここぞとばかりに使いました。敵が最下段の一歩手前まで降りてきたところを、端から順に狙い撃つ「名古屋撃ち」。そしてもうひとつ、群れの真ん中の列を一気に撃ち抜く技——私たちの界隈では、これを「新宿撃ち」と呼んでいました。ところがあとで知ったのですが、同じこの技、地域によっては「京都撃ち」とも「中央突破」とも呼ばれていたそうです。携帯電話もインターネットもない時代、攻略法は友だちから友だちへと口づてに伝わり、その途中で、町ごとに勝手な名前がついていったのです。同じ撃ち方なのに、隣の町では別の名前で呼ばれている。いま思えば、それもまた、ずいぶんのんびりとした、いい時代の話です。 背伸びして眺めていた憧れに、自分の指で、やっと追いついた瞬間でした。数年越しの片想いが、十円玉一枚でようやく実った——そんな気分だったように思います。 令和の子どもは、「見ているだけの時間」を知らない 時代は変わりました。 いまの子どもたちは、ゲームをするのに、お金を握りしめて家を出る必要がありません。スマートフォンの中に、家庭用ゲーム機の中に、無数のゲームが入っていて、その多くは、始めるだけならお金もかからない。上級生の背中越しに覗き込む必要も、十円玉が貯まるのを待つ必要も、ないのです。 それは間違いなく、豊かで、いい時代です。私だって、もし子どもの頃にそんな環境があったら、諸手を挙げて喜んだことでしょう。けれど、と私はつい思ってしまうのです。あの、一ゲームが出せなくて、ただ見ていた時間。誰かのプレーを食い入るように見つめて、技を盗んで、いつか自分も、と焦がれていたあの時間。あれはあれで、悪くないものだったな、と。 欲しいものがすぐ手に入らない。だから、よその上級生の背中越しに憧れ、十円玉が貯まるのをじりじりと待つ。手が届かないからこそ、あの踊り場の小さな画面の光は、あんなにもまぶしく見えたのかもしれません。いまの子どもたちには、あの「待っているあいだの時間」だけは、もう手に入らない宝物なのかもしれない——そんなことを、つい考えてしまうのです。 現に、わが家でもゲームに夢中になっている子どもを見て、私はつい「ゲームばっかりやって……」と、口では文句を言ってしまいます。ところが内心はどうかというと、「わかるわかる」と全力でうなずいている自分がいる。それどころか、母親が渋い顔で様子をうかがっているのに気づくと、心の中でこっそり「おい、ママの目があるんだから、もっと上手くやれ」と、すっかり子どもの肩を持っている始末です。叱る側に回ったはずなのに、気持ちのほうは、あの踊り場で背伸びをしていた頃から一歩も動いていない。我ながら、おかしくなってしまいます(笑)。 考えてみれば、子どもだけで入ってはいけないイトーヨーカドーに、ちゃっかり忍び込んでいたのも私でした。親の目を盗んで何かに夢中になる——それはどうやら、いつの時代も変わらない、子どもの特権のようです。 そういえば、あの「名古屋撃ち」を含む歴代のスペースインベーダーは、いまではNintendo Switchで、いつでも好きなだけ遊べます。十円玉も、上級生の背中も、もう要りません。あの頃の自分に教えてやったら、目を丸くするでしょうね。 スペースインベーダー インヴィンシブルコレクション - Switchタイトー/1978年のオリジナルから歴代作品まで収録 Amazonで見る › あなたが初めてインベーダーに出会ったのは、どこの台でしたか。喫茶店のテーブルでしたか、駄菓子屋の店先でしたか、それとも私のように、デパートの踊り場あたりでしたか。一ゲーム、いくらでしたか。よかったら、あなたの「最初の一台」の思い出も、聞かせてください。 この「昭和の今日は何があった日?」シリーズでは、昭和四十年から六十四年までの出来事を、当時子どもだった私の目線で綴っています。同じ時代を生きた方の「あの頃」の思い出やコメントも、ぜひお待ちしています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月15日 ── 高校球児だった私の知らないところで、ジブリが産声を上げていた | 次の記事:【番外編】インベーダーゲームと孫正義 ── ブームが冷めた中古機を、太平洋の向こうで宝に変えた青年 ▶

June 16, 2026

6月10日 ── 時を計る日に、手作りの時計と夜の高速バスを思う

梅雨の入り口、六月十日は「時の記念日」です。 由来は、ずいぶんと古い。『日本書紀』によれば、六七一年のこの日(新暦に換算して六月十日)、天智天皇が漏刻(ろうこく)という水時計を新しい台に据え、鐘や鼓で人々に初めて時を知らせた——とあります。それにちなんで、大正九年(一九二〇年)、東京天文台と生活改善同盟会が「時間を大切にしよう」と呼びかけて定めたのが、この記念日のはじまりだそうです。 千三百年以上も昔の人が、水の落ちる音で時を計っていた。そう思うと、なんだか不思議な気持ちになります。 そして「時の記念日」と聞くと、私がまっさきに思い出すのは、保育園で作った、あの手作りの時計のことなのです。 空き箱で作った、私だけの時計 私が保育園に通っていたのは、昭和四十七年から五十年ごろ。歳でいえば、三歳から六歳のあいだです。その保育園では毎年、この六月十日の「時の記念日」にちなんで、子どもたちがそれぞれに「時計」を作る工作をしました。 材料は、空き箱や色画用紙。お菓子の箱だったか、何かの包み紙だったか、家から持ち寄ったような気もします。丸く切った画用紙に数字を書き込んで、短い針と長い針をつけて、思い思いの時計をこしらえる。みんなが作るから、出来あがる時計は一つとして同じものがない。針の角度も、数字の並びも、それぞれにいいかげんで、それぞれに誇らしかった。 いま思えば、まだ時計の読み方さえおぼつかない年ごろです。長い針と短い針が何を指しているのか、本当のところはわかっていなかったでしょう。それでも保育園は、この日に「時間って大切なものなんだよ」と、工作という形でそっと教えてくれていたのですね。あの先生たちの心づかいに、五十年も経ってからようやく気づくのですから、私もずいぶんとのんびりしたものです。 そういえば、当時の我が家には、本物の時計がありました。柱にかけられた、縦長で、振り子が左右にゆっくりと揺れるタイプの時計です。文字盤の下で振り子がチクタクと時を刻み、毎正時になると、ボーン♪ ボーン♪……と、低い音で時を打ちました。三時には三回、十時には十回。鳴る数をかぞえれば、まだ文字盤のうまく読めない子どもにも、今が何時なのかが、ちゃんと伝わってきたのです。 思えば、天智天皇が鐘や鼓を打ち鳴らして時を知らせたのと、あの柱時計がボーンと鳴って時刻を告げていたのは、案外、同じことだったのかもしれません。水時計から、保育園児の空き箱の時計、そして柱の振り子時計まで。時を計り、時を告げようとする気持ちだけは、千三百年、ちっとも変わっていないのですね。 黄色い箱の中の、ゆっくりした時間 六月十日は、もうひとつの記念日でもあります。「ミルクキャラメルの日」。 森永製菓がこの日を選んだのには理由があります。一九一三年(大正二年)六月十日、それまでただ「キャラメル」と記して売っていたお菓子に、“ミルク"の二文字を冠して「ミルクキャラメル」として売り出した。創業者の森永太一郎が、西洋菓子になじみのなかった時代に「日本の人々に栄養価の高いおいしいお菓子を」と願って世に出した、森永の原点ともいえる一粒です。発売当初はバラ売りで一粒五厘。翌年には、二十粒入り十銭の、あの携帯用の箱が登場しました。 私が覚えているのは、もちろん大正の話ではありません。あの黄色い箱です。「滋養豊富・風味絶佳」という、子どもにはむずかしい字が並んでいて、けれど中身は文句なしに甘かった。 ただ、正直に打ち明けると、私はいつもミルクキャラメル一筋だったわけではありません。お店の前では、たいてい迷っていました。森永のミルクキャラメルにするか、それとも、グリコのおまけ付きキャラメルにするか。おまけのおもちゃが欲しい日もあれば、ただ甘いものを口にしたい日もある。子どもなりに、毎回それなりの葛藤があったのです。 ところが、不思議なことがひとつ。小学校の遠足の前は、おやつが「三百円以内」と決められていて、その限られた予算で何を買うかは、子どもにとって一大事でした。あれこれ手に取っては戻し、さんざん迷う。——のに、遠足のときだけは、どういうわけか毎回ミルクキャラメルを選んでいたのです。普段はあれだけおまけに心を揺らしていたはずの私が、遠足の朝には、なぜか黄色い箱に手が伸びる。理由は、自分でもよくわかりません(笑)。 今になって思えば、こういうことだったのかもしれません。ミルクキャラメルは、噛まずに舌の上でゆっくり溶かしていけば、一粒で長くもつ。バスに揺られ、野山を歩き、お弁当を広げ……長い長い遠足の一日に、少しずつ取り出して味わうには、ちょうどよかったのでしょう。おまけは手に入れた瞬間に終わってしまうけれど、キャラメルの甘さは、一日かけてゆっくり続いてくれる。あれもまた、時間を味わうお菓子だったのです。 あの黄色い箱は、今もそのままの姿で売られています。久しぶりに一粒、舌の上で溶かしてみると、遠足の朝の気持ちが、ふっとよみがえるかもしれません。 森永 ミルクキャラメル 大箱 149g×5箱あの懐かしい黄色い箱/森永製菓 Amazonで見る › 夜のうちに、時間を飛び越える ── ドリーム号 そして、きょうのもう一本。昭和四十四年(一九六九年)六月十日、東名ハイウェイバスの開業と同時に、夜行高速バス「ドリーム号」が走り出しました。高速道路を走り抜ける、日本で初めての夜行バスです。東京と大阪を、夜のあいだに結んでしまう。当時としては、ずいぶんと夢のある乗り物だったはずです。 この夜行バスが走り出す少し前、昭和四十四年五月に、東名高速道路が全線開通したばかりでした。それまで東京と名古屋・関西を結ぶ大動脈といえば、その五年前に開業した東海道新幹線。ドリーム号は、いわばその新幹線を夜のあいだに補う足として登場したのです。運行開始当初は、東京〜大阪が二往復、東京から名古屋を経て京都へ向かう便が一往復。眠っているうちに目的地へ届けてくれるこのバスは、開業からしばらくのあいだ、日本でいちばん長い距離を走る路線バスでもありました。 少しあとの、昭和五十年ごろの時刻表が残っています。それを見ると、東京から名古屋までのおよそ三百五十キロを、速い便でも五時間半あまりかけて走っていました。運賃はその区間で千九百円ほど、夜行に乗るにはさらに三百円の指定料金が必要だったといいます。今の感覚からすれば、ずいぶんのんびりとした道のりです。それでも、ひと晩を乗り物の中で過ごして遠い街へ向かうという体験そのものが、あのころはまだ、真新しいものだったのでしょう。 昭和四十四年という年は、私にとって少しだけ特別です。私が生まれたのが、この年の四月。つまり私がこの世に出てきて、わずか二ヶ月後に、ドリーム号は東京の夜を初めて出発していたことになります。自分が生まれた年に走り始めたものと聞くと、勝手に親近感がわいてくるのです。 その「同い年」のバスに、私が実際に乗ったのは、ずっとあとのことでした。平成二十二年(二〇一〇年)。長男が小学六年生だった年です。その春と夏、私は息子を連れて、甲子園へ高校野球を観に行きました。その足に選んだのが、夜行のドリーム号だったのです。 東京駅の八重洲南口を、夜の十時ごろ出発する。大阪に着くのは、翌朝の七時ごろ。夜行バスの乗り場には、行き先の違うバスが何台も連なって停まっていて、それぞれの行灯のような行き先表示が、夜の中にぽつぽつと浮かんでいました。これからどこかへ運ばれていく人たちの気配。そのなかに、息子と私もいる。「さあ、息子との旅が始まるぞ」という高揚感で、胸がいっぱいになったのを、今でもよく覚えています。いい思い出です。 考えてみれば、不思議なものです。私が生まれた二ヶ月後に走り出したバスに、四十年あまりが過ぎて、今度は私が自分の息子と並んで揺られている。夜のうちに距離を飛び越える乗り物が、いつのまにか、親子の時間まで運んでくれていた。 令和の今、時間は手のひらの中に いま、時刻を知るのに苦労する人は、もういません。スマートフォンの画面には、いつでも秒まで表示されている。時間は、手のひらの中に常にあります。空き箱で時計を作らなくても、針の読み方を覚えなくても、数字はいつでもそこにある。 それでも、ミルクキャラメルは今も、あの黄色い箱のまま店に並んでいます。夜行バスは全国を縦横に走り、行き先も種類も、私が子どものころには想像もつかなかったほど増えました。時を計る道具は変わっても、一粒を急がず溶かす時間や、夜のうちに遠くへ運ばれていく時間は、きっと今も変わらずそこにある。 わが子が小学生だったあの夜、八重洲のバス乗り場で胸を高鳴らせたのも、もう十数年前のこと。時間というのは、計るそばから、こうして思い出に変わっていくものなのですね。 みなさんにとって、「時間をかけて味わったもの」は、何でしょうか。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。 あわせて読みたい:アルプススタンドの千羽鶴に込められた思いを、親の目線で書きました▼ 千羽鶴に込められた思い――甲子園を目指す高校野球を「親の目線」で見て気づいたこと ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月9日 ── ロックの日に、木曜九時のザ・ベストテンを思い出す | 次の記事:6月11日 ── 入梅。ビニール傘と、列島改造の槌音と ▶

June 10, 2026

6月4日は「むし歯予防デー」── 歯医者さんと駄菓子のあいだで

六月に入って、空気がだんだん重たくなってきました。もうすぐ梅雨ですね。じめじめした季節の入り口に、私がいつも思い出す「数字あそび」があります。 六月四日。「6(む)4(し)」。 そう、きょうは「むし歯予防デー」です。子どものころ、これを学校で教わったときに「うまいこと言うなあ」と妙に感心したのを、いまでもよく覚えています。数字を語呂に変えてしまう、あの感覚。考えてみれば、昭和の子どもは、こういう語呂合わせをやたらと覚えるのが得意でしたよね。 「むし歯予防デー」は、戦争よりも前から 調べてみると、この語呂合わせはずいぶん古い。日本歯科医師会が「6(む)4(し)」にちなんで六月四日を「むし歯予防デー」と定めたのは、なんと昭和三年(一九二八年)のことだそうです。私の生まれるよりも、ずっとずっと前。父や母が生まれるよりも前の話です。 おもしろいのは、戦争のさなかにも、この日が大事にされていたということ。戦時下の東京・後楽園スタジアムで「歯みがき大会」が開かれ、球場がぎっしり埋まるほどの人が集まったという記録が残っています。食べるものも満足にない時代に、それでも「歯を大切に」と人が集まった。そう聞くと、歯というのは、贅沢とは関係のない、生きることそのものに直結した話なのだなと、あらためて思います。 戦後にも、この日はちゃんと受け継がれました。昭和三十年(一九五五年)からは六月四日から十日までを「歯の衛生週間」として、全国の学校で歯の検診が行われるようになります。いまは名前を変えて「歯と口の健康週間」と呼ばれていますが、起点が六月四日であることは、ずっと変わっていません。 体育館に並んだ、あの一日 小学校のころ、六月になると必ず「歯科検診」がありました。みなさんも覚えていませんか。 体育館だったか、保健室の前の廊下だったか。クラスごとにずらりと並んで、順番を待つ。前に進むにつれて、消毒薬のにおいがだんだん濃くなってくる。白衣の歯医者さんが、小さな鏡と細い金具を持って待ちかまえている。口を「あーん」と開けると、先生は私の口の中をのぞきこみながら、横にいる先生に向かって、暗号のような言葉を読み上げていきます。 「上の六番、シー。下の……」 あの「シー」が、つまり「C」、むし歯のことだと知ったのは、もう少し大きくなってからでした。子どもの私は、その記号が何を意味するのか分からないまま、ただ「あ、いま何か悪いことを言われた気がする」と、漠然とした不安だけを抱えて列を出ていったものです。 古代の枝(咬み棒)から現代の歯ブラシへ。人類は何千年もかけて「歯を磨く道具」を進化させてきた。昭和の子どもたちが使っていたのも、この流れの中のひとつだ。(Photo: Stewart Shearer / CC BY-SA 2.0) 歯みがき指導の日もありました。赤い「染め出し液」を歯に塗られて、鏡を見ると、磨き残したところが真っ赤に染まっている。「ほら、こんなに磨けていませんよ」と言われて、自分の歯がこんなに汚れていたのかと、子どもながらにちょっとショックを受ける。あの毒々しい赤色だけは、四十年以上たったいまでも、はっきり目に浮かびます。 それでも、甘いものはやめられなかった なぜ私たちの世代は、あんなにむし歯が多かったのか。理由は、はっきりしています。甘いものが、大好きだったからです。 学校から帰れば、駄菓子屋へ一目散。手のなかの小銭を握りしめて、ガラスケースの前で何を買おうか延々と悩む。ラムネ、あめ玉、よく伸びるガム、紙の上に乗った小さな練りもの、糸を引くようなあの飴……。一つひとつが安いものだから、少ないお小遣いでも、口の中をずっと甘いもので満たしていられた。むし歯にならないほうが、むしろ不思議なくらいです。 色とりどりの駄菓子が並ぶ駄菓子屋。花火や玩具まで売っている。少ない小銭を握りしめて、何を買おうか真剣に悩んだ記憶は、昭和の子ども全員が共有している。(Photo: urawa / CC BY 2.0) 母が仕事に出るとき、テーブルに百円玉を置いていってくれることがありました。短いメモを添えて。あの百円玉の、ずっしりとした手ざわり。あれをどう使うか、子どもなりに真剣に考えたものです。たいていは、甘いものに化けていましたけれどね。 夜になって、母に「歯、磨いたの?」と聞かれる。「うん」と答えながら、本当は磨いていない日もありました。あのころの私に、いまの私が言ってやりたい。「ちゃんと磨いておけよ」と。大人になってから歯医者さんに通うはめになって、はじめて分かることって、ありますよね。 令和の子どもは、むし歯が激減している ここで、ちょっと驚く数字を一つ。 文部科学省が調べている「十二歳の子ども一人あたりの平均むし歯本数」というものがあります。昭和六十二年(一九八七年)には、なんと一人あたり四・九本もありました。十二歳で、すでに約五本。これがまさに、駄菓子に夢中だった私たちの世代の現実です。 ところが、いまはどうでしょう。この数字は年々ぐんぐん減り続けて、令和に入ってからは〇・七本前後にまで下がっています。五本から一本以下へ。これは本当にすごい変化です。 フッ素入りの歯みがき粉が当たり前になったこと、学校や家庭での歯みがき指導が行き届いたこと、おやつとの付き合い方が変わったこと。あの「むし歯予防デー」が、昭和三年から地道に訴え続けてきたことが、令和になってようやく、はっきりと数字になって表れている。そう考えると、なんだか感慨深いものがあります。 親になってみて、思うこと 私の住む東京・葛飾区では、子どもが高校を卒業する三月末まで、保険診療の窓口負担がありません。ゼロ円です。しかも、親の所得による制限もない。こうした行政の支えのおかげで、家庭の経済事情に左右されることなく、子どもたちは安心して歯科医療を受けられます。 むし歯がこれだけ減った背景には、フッ素や歯みがき指導だけでなく、「どの子も等しく治療を受けられる仕組み」が広がったことも、きっと大きな要因の一つなのでしょう。 「八〇二〇(ハチマルニイマル)」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。八十歳になっても自分の歯を二十本残そう、という運動です。子どものころは歯のありがたみなんて、これっぽっちも考えなかった私も、この歳になると、しみじみそう思うようになりました。きょうあたり、久しぶりに歯医者さんの予約でも入れようかな、なんて思いながら、これを書いています。 きょう六月四日。みなさんは、子どものころの「歯」にまつわる記憶、何か残っていますか。 あの赤い染め出し液。歯医者さんのキイーンという音と、独特のにおい。むし歯の紙を親に渡したときの気まずさ。あるいは、駄菓子屋で握りしめた小銭の感触。 よかったら、あなたの昭和の「歯の記憶」を、聞かせてください。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:「世界の盗塁王」福本豊と、すりこぎ棒のバット──昭和の今日は何があった日?(6月3日) | 次の記事:「トキ」という、少し寂しい言葉 ― 6月5日・環境の日に ▶

June 3, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月9日──100円玉2枚と、母からの手紙

今日は5月9日、アイスクリームの日だ。 明治2年(1869年)のこの日、横浜・馬車道通りの「氷水屋」が日本で初めてアイスクリームを製造・販売した。当時の名称は「あいすくりん」。その値段、1人前2分。現代の価値に換算すると、およそ8000円。 8000円のアイスクリームだ。 幕末から明治の日本人がそれを口にしたとき、いったいどんな顔をしたのだろうか。冷たくて、甘くて、これまで食べたことのない何かが口の中に広がる。 その「8000円のあいすくりん」が、昭和の子どもたちの手の中に収まる10円や20円のアイスになるまでに、100年の歴史があった。 でも今日書きたいのは、その歴史よりも、もっと小さな話だ。 あの頃の、放課後のことを書きたい。 テーブルの上の、100円玉2枚 小学生の頃、1日のお小遣いは50円から100円だった。 学校から帰ると、母親の姿はなかった。パートの仕事に出ていたから、家の中はいつも静かだった。玄関を開けると、シンとした空気と、どこか懐かしいにおいがした。 ランドセルを下ろして台所に行くと、テーブルの上に必ずそれがあった。 簡単な手紙と、100円玉が2枚。 「おかえりなさい」という母の文字。1枚は私の分、もう1枚は妹の分。 それだけのことだ。長い言葉は何もない。でもあの100円玉2枚が、「今日も仕事に行ってくるけど、ちゃんとあなたたちのことを思っているよ」という母の気持ちそのものだったと、今になってわかる。 当時の私はそんなことを考えもしなかった。ただ100円玉を握りしめると、体の中に火がついたように外に飛び出したくなった。 プラバットとカラーボールを持って 玄関の横に置いてあったプラスチックのバットとカラーボールを手に取る。 昭和の子どもの定番の遊び道具だ。本物の木製バットは高くて危ないから、軽くて柔らかいプラスチック製のバットとゴム製のカラーボールがセットで売っていた。あの取り合わせは昭和の放課後の象徴だったと思う。 学校のそばの公園まで走った。走りながら、すでに頭の中では試合が始まっていた。 公園に着くと、友達がもう来ていた。ランドセルがベンチの上に無造作に積まれている。「遅いぞ」と誰かが言う。「今来たばっかりだろ」と誰かが言い返す。そういう会話が毎日繰り返された。 王さんの一本足と、淡口選手の「おしりプリッ」 バットを持つと、誰もがあのポーズを真似た。 王貞治の、一本足打法だ。 左足を高く上げて、ぐっとタイミングを合わせてバットを振り下ろす。「世界の王」と呼ばれたあの打撃フォームは、昭和の子どもたちにとってあこがれそのものだった。誰もがやってみる。でもバランスを崩してよろけて、笑いが起きる。それがまた楽しかった。 もう一人、必ず誰かが真似したのが淡口憲治選手だった。 読売ジャイアンツの外野手として活躍した淡口選手の打席での構えは、独特だった。バットを構えるとき、腰をひねるようにして「おしりをプリッ」と出すあの仕草が、子どもの目にはたまらなくおかしく見えた。真似すると必ず笑いが起きる。誰かがやるたびに「プリッ!」「プリッ!」と声が上がり、公園が笑い声に包まれた。 毎日やった。毎日笑った。同じことを何度繰り返しても、飽きることがなかった。 駄菓子屋のホームランバー ひとしきり野球で遊ぶと、公園のそばの駄菓子屋に吸い込まれるように入っていった。 昭和の公園の近くには、たいてい駄菓子屋があった。小さな店で、ガラスケースの中にカラフルな駄菓子が並んでいる。奥のおばちゃんは、子どもが来ても急かさない。じっくり選んでいいよ、という空気があった。 冷凍ケースの前に立つと、白い霧が漏れてくる。中を覗き込む。 ホームランバーを選ぶ。 昭和35年(1960年)に協同乳業が発売したこのアイスには、棒に「当たり」の焼き印が押してあった。「当たり」が出れば、お店でもう1本もらえる。みんな食べ終わった棒をそっとめくって、息をのんで確認する。「当たりだ!」という声が上がると、その場が一瞬盛り上がる。「ずるい」と誰かが言い、「運だろ」と誰かが言い返す。 100円あれば、ホームランバーを買っても十分おつりが来た。残りのお金で何を買うか、それもまた大事な選択だった。 毎日同じことの繰り返しが、なぜあんなに楽しかったのか 学校から帰る。100円玉を握りしめる。バットとボールを持って公園へ走る。王さんの真似をする。淡口選手の「プリッ」で笑う。駄菓子屋でホームランバーを食べる。 毎日毎日、同じことの繰り返しだった。 でも、本当に楽しかった。 なぜあんなに楽しかったのか、大人になってから何度か考えたことがある。たぶんそれは、毎日が「同じようで違った」からだと思う。今日の王さんの真似は昨日より上手くいった。今日は当たりが出た。今日は淡口選手の真似で一番笑いが取れた。そういう小さな違いが、繰り返しの中に宝のように散らばっていた。 そして何より、あの場所にはいつも誰かがいた。 おわりに 明治2年に8000円だったあいすくりんは、昭和にはコイン1枚で買える食べ物になっていた。 テーブルの上の100円玉2枚。プラバットとカラーボール。王さんの一本足打法と、淡口選手の「プリッ」。駄菓子屋のホームランバーの当たりくじ。 あの放課後は、何も特別なことなどなかった。母親の手紙に深い意味を見出すこともなく、ただ100円玉を握って走り出していただけだ。 でも今、それがどれほど豊かな時間だったかが、ようやくわかる。 あなたの放課後には、何があっただろうか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月8日──あの土曜日の夜が、一番好きだった | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月10日──母の日に、カーネーションを渡せなかった話 ▶

May 8, 2026