9月6日 ── 銀のエンゼルと、言えなかった「欲しい」|昭和の今日は何があった日?

今日は9月6日。 数字の語呂合わせでできた記念日が、この日はやたらと多い日です。「く(9)ろ(6)」で黒の日、黒豆の日、黒酢の日。「ク(9)リーム(6)」で生クリームの日。そんな中に、昭和の子どもにとって一番なじみ深い一つがあります。 「キ(9)ョロ(6)ちゃんの日」。森永製菓が制定した、チョコボールの日です。 そしてもう一つ。この9月6日は、昭和の子どもたちの頭の中に巨大ロボットを住みつかせた、あの漫画家の誕生日でもあります。 永井豪。1945年(昭和20年)9月6日生まれ。 駄菓子屋の棚と、テレビの中のロボット。まったく別の場所にあった二つが、9月6日という一日でつながっている。今日はその話をします。 選ぶのは、必ずピーナッツだった チョコボールが世に出たのは1967年(昭和42年)。私が生まれる2年前のことです。 当時、チョコレートといえば板チョコが主流で、子どもが気軽に買えるお菓子ではありませんでした。森永製菓は1964年に大人向けの高級チョコレート「ハイクラウン」を大ヒットさせており、その次に「子どもたちも楽しめるチョコレートを」という発想で生まれたのがチョコボールでした。粒状で、手が汚れない。この「手につかない」というのが、実は大きな発明だったのだと思います。 パッケージにあの鳥のキャラクターが登場したのも1967年。ちょっとドジで憎めないあの顔は、子どもたちのほうが先に受け入れてしまいました。 そして仕掛けが、エンゼルマークです。箱のくちばしの部分を開くと、内側に金か銀のエンゼルが印刷されていることがある。金なら1枚、銀なら5枚で「おもちゃのカンヅメ」がもらえる。景品の歴史は1967年2月の「まんがのカンヅメ」に始まり、1969年4月に「おもちゃのカンヅメ」として本格的にスタートしました。第1弾の缶に描かれていたのは、タツノコプロのアニメ『ドカチン』。1973年にはウルトラマンや『科学忍者隊ガッチャマン』が缶を飾るようになります。テレビっ子の視線を、お菓子メーカーがきっちり読んでいたわけです。 私にとってチョコボールは、頻繁に買えるお菓子ではありませんでした。買ってもらえるのは、母の高砂のイトーヨーカドーへの買い物についていったときです。売り場で「何か買っていいよ」と声がかかる。あの一言のための買い物同行だったと言ってもいい。 選ぶのは、必ずピーナッツでした。他の味に浮気した記憶がありません。今思えば、母のほうも「まあこれを選ぶんだろうな」と分かったうえで声をかけていたのでしょう。 エンゼルは、銀しか当たったことがありません。そして5枚集まるまでくちばしを保管できたことも、ついに一度もありませんでした。集めているつもりでいるうちに、どこかへいってしまう。あれは全国の子どもに共通の結末だったんじゃないでしょうか。 その、必ず選んでいたピーナッツです。20個入りで届きます。くちばしを開ける瞬間だけは、いまも変わりません。 森永製菓 チョコボール〈ピーナッツ〉 28g×20個1967年発売のロングセラー。箱のくちばしを開けると、金か銀のエンゼルが出ることがあります。星4.0(72件) Amazonで見る › テーブルの上の、100円玉が2枚 小学生の頃、私のお小遣いは1日100円でした。 母はパートタイマーの仕事に出ていて、学校から帰ると家には誰もいません。テーブルの上に置き手紙があって、「お帰りなさい」と書かれている。その脇に100円玉が2枚。私の分と、妹の分です。 決して少ない額ではなかったと思います。友だちと比べて劣等感を覚えたことは一度もありませんでした。その100円は、もっぱら遊びの途中の買い食いに消えていきます。駄菓子屋で使い切って帰る、その繰り返しでした。 「これは買っちゃだめ」と言われた記憶がないのは、そもそも言われるほどの金額を持っていなかったからかもしれません。100円という枠が、最初から線を引いてくれていた。 同じ9月6日に生まれた男 さて、もう一人の主役です。 永井豪さんは1945年9月6日、石川県輪島市に生まれました。7歳だった1952年から東京・豊島区で育ち、都立板橋高校を卒業。幼い頃に手塚治虫の『ロストワールド』を読んだことが、漫画家を志すきっかけだったといいます。 石ノ森章太郎のアシスタントを務めたのち、デビューは1967年。『ぼくら』(講談社)に載った『目明しポリ吉』でした。 1967年。チョコボールが世に出て、キョロちゃんが生まれたのと、同じ年です。 翌1968年には『週刊少年ジャンプ』で『ハレンチ学園』の連載が始まり、たちまち大ブームになる一方、PTAをはじめとする大人たちから猛烈な批判を浴びます。1969年4月にはダイナミックプロダクションを設立。奇しくも、おもちゃのカンヅメが始まったのと同じ月でした。 そして1972年(昭和47年)、『デビルマン』と『マジンガーZ』が漫画とテレビで同時に走り出します。 このとき永井豪さんがやったことは、いま振り返ると異様に大きい。それまでの巨大ロボットは、リモコンで外から操縦するものでした。それを「人が乗り込んで、自分の体のように動かす」ものに変えた。ロボットが道具から乗り物になり、子どもは自分がその中に座っている想像ができるようになったのです。 『マジンガーZ』を、私は途中からですが確かに見ています。1974年9月の最終回で、ぼろぼろになったマジンガーZの前にグレートマジンガーが現れる、あの回もリアルタイムで見ました。5歳のときです。続く『UFOロボ グレンダイザー』は、6歳の秋から。こちらは最初からリアルタイムでした。 『デビルマン』は、おそらく再放送だったのだと思います。意識して待っていたわけではなく、夕方にテレビをつけたらデビルマンがやっていたから見る、という温度感でした。 その『デビルマン』の原作は、いまも手に入ります。夕方に何気なく見ていたあの話が、紙の上ではどこへ向かっていたのか。読み返すと、たぶん驚きます。 デビルマン(画業50周年愛蔵版)全5巻永井豪とダイナミックプロ/小学館。1972年連載の原作を全5巻にまとめた愛蔵版。星4.7(30件) Amazonで見る › 60センチの、言えなかった「欲しい」 永井豪さんの発明は、テレビの中だけでは終わりませんでした。玩具メーカーのポピーが、そのロボットを子どもの手の中に持ってきます。1974年末に登場した超合金の第1号がマジンガーZ。ずしりと重い金属の手ざわりで、ロケットパンチが飛ぶ。 ...

September 6, 2026

8月25日 ──「うどん一玉六円」の時代に三十五円。魔法のラーメンが、高砂の戸棚に届くまで|昭和の今日は何があった日?

8月25日は、即席ラーメン記念日です。 1958年、昭和33年のこの日、日清食品が「チキンラーメン」を発売しました。世界で最初に、商売として成り立ったインスタントラーメンです。 昭和33年といえば、私が生まれる十一年前。長嶋茂雄が巨人でデビューした年で、東京タワーがまだ完成していない年です。当然、この日の記憶はありません。 けれど、私が物心ついたころ——昭和四十年代の葛飾区高砂の、我が家の台所の戸棚には、もうそれが当たり前のように積んでありました。 生まれる前に始まっていて、生まれたときにはもう「昔からあるもの」の顔をしていた。インスタントラーメンというのは、私の世代にとってそういう存在です。 うどん一玉六円の時代に、三十五円 チキンラーメンを作ったのは、日清食品の創業者・安藤百福さんです。 発売のとき、四十八歳。四十七歳のときに、理事長を務めていた信用組合の倒産で築いてきた財産をほとんど失っています。無一文からの再出発でした。 きっかけは、戦後の大阪の闇市だったといわれます。屋台のラーメンに、寒空の下で人が行列を作っている。あれをもっと手軽に食べさせられないか——そう考えて、自宅の裏庭に小屋を建て、そこにこもりました。 つまずいたのは、麺の乾かし方でした。ある日、奥さんが台所で天ぷらを揚げているのを見て、ひらめきます。油の熱で水分を飛ばせばいい。こうして「瞬間油熱乾燥法」が生まれました。麺に味をつけ、蒸して、油で揚げる。今のチキンラーメンと、中身はほとんど変わりません。 そして昭和33年8月25日。 ところが、この商品はまったく歓迎されませんでした。 理由は値段です。85グラム入りで35円。当時、うどん玉ひとつが6円、普通の乾麺で25円という時代でした。国鉄の初乗りが10円、銭湯が16円。ラーメン屋で一杯食べるのと変わらない値段の袋麺を、誰が買うのか。しかも安藤さんは、二、三か月の手形が常識だった時代に、現金決済を要求しています。 問屋の主人たちは、そろって顔をしかめたそうです。 その日、大阪の問屋がひとつだけ、納入を引き受けてくれました。日清食品はのちにこの日を「ラーメン記念日」と定め、日本即席食品工業協会も8月25日を「即席ラーメン記念日」としています。つまりこの記念日は、大ヒットした日ではなく、やっと一軒だけが置いてくれた日なのです。 けれど、実際に食べた人たちの評判が、じわじわと広がっていきました。お湯をかけて二分(当時は三分ではありませんでした)で食べられるラーメンは「魔法のラーメン」と呼ばれ、やがて注文が殺到します。あれほど渋っていた問屋が、今度は「現金前払いでもいいから」と言ってくるようになった。工場の前に、仕入れのトラックが列を作ったといいます。安藤さんは後年、工場用地の代金を一か月分の売上でまかなえた、と語っています。 「中華そば」が「ラーメン」になった このチキンラーメンが、日本語をひとつ変えました。 それまで、あの食べ物は「支那そば」あるいは「中華そば」と呼ばれるのが普通でした。「ラーメン」という言い方が全国に広まったのは、商品名にその三文字が入っていたからだといわれています。 私たちが何気なく使っている「ラーメン」という言葉は、昭和33年8月25日に大阪の問屋に納められた、あの袋から来ている。そう考えると、少し不思議な気持ちになります。 ヒットには真似が続きます。似た即席麺が次々に出て、意匠権や特許の争いが激しくなり、食糧庁の指導で昭和39年に業界団体が作られました。昭和35年には森永製菓のインスタントコーヒーが出て、「インスタント」は流行語の筆頭になります。そして昭和46年、カップヌードル。アメリカへ売り込みに行った安藤さんが、丼のない向こうで現地の人が麺を割って紙コップに入れ、フォークで食べているのを見た。そこから生まれた発想でした。 ——このあたりが、ようやく私の記憶に届く時代です。 うちの戸棚にあったのは、サッポロ一番しょうゆ味だった 正直に書きます。 即席ラーメン記念日の記事を書いておいてなんですが、我が家の戸棚にチキンラーメンが積んであった記憶は、ほとんどありません。 うちは、サッポロ一番しょうゆ味でした。 買っていたのは、高砂のイトーヨーカドーです。この連載でもう何度も出てきている、あの五階にボウリング場のあったヨーカドーです。母がまとめて買ってきて、台所の戸棚に積んでおく。それが我が家のラーメンでした。 サッポロ一番しょうゆ味の発売は、昭和41年1月。私が生まれる三年前です。作ったのは群馬・前橋のサンヨー食品で、もともとは乾麺の会社でした。 面白いのは、その会社が即席麺に乗り出したきっかけです。当時専務だった井田毅さんが、「関西でお湯をかけるだけで食べられる麺が流行っているらしい」と聞きつけた。それがチキンラーメンでした。井田さんは会社の方向を即席麺へ切り替え、全国で通用する醤油ラーメンを作ろうと各地を食べ歩いて、札幌のラーメン横丁で食べた一杯に感銘を受けます。そこから生まれたのが、サッポロ一番でした。 つまり我が家の戸棚にサッポロ一番が積んであったのも、もとをたどれば昭和33年8月25日に行き着くわけです。あの日、大阪の問屋が一軒だけ「置いてみる」と言わなければ、私が食べていた味も、たぶん存在しなかった。 ちなみにこのしょうゆ味は、長いあいだ関西より東を中心に売られていた商品だそうです。あの袋と、別添えの「特製スパイス」の小袋は、東日本の子どもの当たり前でした。 作ってくれていたのは、母でした。 そして父は、即席ラーメンを食べませんでした。 この連載で何度か書いてきたとおり、父は本当に休みのない人で、連休といえば正月の一日と二日だけ、という働き方をしていました。深夜に帰ってきて袋麺をすする父——そういう画は、私の記憶のなかにはありません。 いまも、あの袋はスーパーの棚にあります。別添えの「特製スパイス」も、あのままです。 サンヨー食品 サッポロ一番 しょうゆ味 5食パック 3個セット昭和41年1月発売。群馬・前橋のサンヨー食品が、札幌のラーメン横丁で食べた一杯から作り上げた醤油味。別添えの特製スパイス付き Amazonで見る › 小学六年生の鍋 インスタントラーメンは、多くの昭和の子どもにとって「生まれて初めて自分で作った料理」だったのではないでしょうか。 私の場合は、小学六年生でした。 鍋に水を入れて、火をつけて、沸くのを待って、袋を破って麺を落とす。そして、卵を落としました。最初から卵を入れているあたり、我ながら強気だったと思います。 思い返すと、親から「火を使うな」と言われた記憶がありません。危ないからやめなさい、とも言われなかった。台所に立って、ガスをひねって、鍋の前で三分待つ。それが小学六年生に許されていた家でした。 いまの感覚だと、少し驚かれるかもしれません。けれど当時は、たぶんどこの家もそうでした。学校から帰れば親は仕事か家事で手が離せず、子どもは自分の腹を自分で満たすのが普通だった。そのための道具として、袋麺が戸棚に積んであった。安藤さんが掲げた「手間がかからないこと」という条件は、昭和の子どもに台所を開放したのだと思います。 中学の夜と、高校の帰り道 中学に上がると、自分で作る回数が増えました。 試験勉強で夜更かしをする日です。夜中に腹が減る。母を起こすわけにもいかない。そういうとき、台所へ降りていって、自分で鍋に火をつける。 深夜のガスコンロの青い火と、鍋のなかで麺がほぐれていく音。家族が寝静まったあとの、自分ひとりの時間でした。あの夜を重ねるうちに、ラーメンは「作ってもらうもの」から「自分で確保するもの」に変わっていったのだと思います。 高校に入って野球部に入ると、今度は少し様子が変わります。 遠征試合の帰り。仲間数名で、決まって遠征先の最寄駅の近くのラーメン屋に入りました。試合に勝った日も、負けた日もです。学校での練習の帰りにも、馴染みの中華屋に寄って食べて帰ることがよくありました。 ...

August 25, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月23日──腹いっぱい食べたい、と思っていた

今日は8月23日。夏休みも、もう終わりが見えてくる時期だ。昭和の子どもにとっては、宿題の山を前にして胃が重くなりはじめる、あの頃である。 そして今日は「湖池屋ポテトチップスの日」でもある。 昭和37年(1962年)のこの日、**「湖池屋ポテトチップス のり塩」**が発売された。日本で初めて本格的に世に出たポテトチップス。その最初の味が「うすしお」ではなく「のり塩」だったという事実を、私はずいぶん長いあいだ知らずにいた。 飲み屋で出てきた「高級珍味」 湖池屋の創業は昭和28年(1953年)。創業者は小池和夫という人だ。 社名の由来がなかなか面白い。小池氏の郷里は長野県の諏訪市。地元の諏訪湖を見ながら「会社も諏訪湖のように大きくしたい」と願い、「小池」の「小」を「湖」に置き換えて「湖池屋」とした。 創業当初に作っていたのは、豆やさくらえびを油で揚げて混ぜた「お好み揚げ」のようなおつまみ菓子である。 転機は、小池氏が仕事仲間と飲みに行った店で訪れる。そこで出されたのがポテトチップスだった。当時の日本では手作りが主流の珍しい食べ物で、飲み屋では高級珍味の扱いだったという。 一口食べた小池氏は「こんなにおいしいものが世の中にあったのか」と感動する。そして、これを多くの人に届けたいと考えた。ここが、日本のポテトチップスの出発点だ。 「せっかく日本で作るのだから」 とはいえ、作るのは簡単ではなかった。 お好み揚げも油で揚げる菓子だから、その釜を流用して開発に乗り出した。ところが、じゃがいもの品種、スライスの厚み、揚げる温度──どれをとってもノウハウがなく、品質がまるで安定しなかったという。 そのうえ、味付けをどうするかという問題があった。 本場アメリカでは塩をふりかけただけの「塩味」が主流。だが小池氏はこう考えた。 「せっかく日本でポテトチップスを作るのだから、日本人になじみのある味にしよう」 そこで目をつけたのが「のり」だった。青のりとあおさをまぶす。じゃがいもと海苔という、いま考えれば当たり前すぎる組み合わせも、当時は誰も試していない発想だった。 そうして昭和37年8月23日、「湖池屋ポテトチップス のり塩」が世に出た。世界で初めての「のり塩ポテトチップス」の誕生である。 日本のポテチは、うすしおではなく、のり塩から始まったのだ。 手で揚げていた五年間 ただし、この時点ではまだ「大量生産」ではなかった。 当時のポテトチップスは、どのメーカーも手作業で揚げていた。安定した量を作れない。だから店に並ぶ数も限られる。 「もっとたくさんの人に食べてもらいたい」──その一心で機械化を模索し、湖池屋が国産のオートフライヤーを導入して量産化に成功したのは、発売から五年後の昭和42年(1967年)のことだった。日本で初めてのポテトチップス量産化とされている。さらに原料を安定させるため、北海道で馬鈴薯の契約栽培にも踏み切った。 こうして、飲み屋の高級珍味だったポテトチップスは、少しずつ、町へ降りてきた。 私が生まれたのは昭和44年(1969年)。量産化から二年後のことになる。 山車を引いて、もらった袋 正直なところ、私は「人生で初めてポテトチップスを食べた日」を覚えていない。 気がついたら食べていた、という感覚に近い。強いて言えば、保育園の年長の頃──昭和50年(1975年)あたりだったのではないかと思う。六歳になるかならないかの頃だ。 ただ、はっきり言えることが一つある。 母が買い物のときにポテトチップスを買っていた記憶が、まったくないのだ。つまり我が家では、ポテトチップスは日常的に食卓や茶の間に出てくるものではなかった。 では、どこで食べていたのか。 盆踊りや、祭りの山車を引いたときにもらうお菓子。あれがポテトチップスだったことが、よくあった。 葛飾の夏である。綱を握って、大人に混じって山車を引く。声を出しながら町内をぐるりと回って、帰ってくると菓子の袋を渡される。その中にポテトチップスが入っている。 子どもながらに「うまいな」と思った。 いま振り返ると、この記憶の位置づけが面白い。あの頃のポテトチップスは、私にとって「買うもの」ではなく「もらうもの」だった。祭りとか、行事とか、そういう非日常のときに、大人の側から降ってくるもの。 飲み屋の高級珍味からは遠く離れた。けれど、まだ完全な日常品にもなっていない。ちょうどその途中の、微妙な位置にあった。 味が増えていく時代 私が物心ついた昭和50年代は、ちょうどポテトチップスが「珍しいもの」から「あって当たり前のもの」へ変わっていく時期にあたる。 大手のカルビーがポテトチップス市場に参入したのが昭和50年(1975年)。「うすしお味」を出したのがこの年で、翌昭和51年(1976年)に「のりしお」、昭和53年(1978年)に「コンソメパンチ」が続く。 私は昭和44年4月生まれ。小学校に上がったのが昭和51年の春だから、コンソメパンチが世に出た昭和53年は小学3年生ということになる。 つまり私の小学生時代は、まるごと「ポテトチップスの味が増えていく時代」だった。棚に行くたびに知らない味が並んでいる。あの感覚は、いまの子どもにはたぶん想像しにくい。 そして子どもたちのあいだで激しかったのが「のり塩派」と「うすしお派」の対立である。あれは子どもながらに、けっこう真剣な議論だった。 私の中では、はっきりしていた。湖池屋といったら、のり塩である。 買う場所は、近所の駄菓子屋か、高砂のイトーヨーカドー。ただし、日々のお小遣いからポテトチップスを買った記憶はない。大袋がたしか100円くらい。何グラム入っていたかまでは覚えていないが、10円20円の駄菓子を握りしめて選んでいた子どもにとって、100円という数字は明らかに別の階層にあった。 駄菓子屋の棚に置いてあるのに、駄菓子ではない。ポテトチップスとは、そういう位置の菓子だった。 ちなみに、市場の話をすると、昭和59年(1984年)の時点でカルビーが約80%、湖池屋は約9%。先に始めたほうが、後から来たほうに大きく引き離されていた。子どもの私はそんなことを知る由もなく、ただ袋の色で選んでいた。 いまでも歌えるあの歌 湖池屋といえば、あのCMソングである。 ...

August 23, 2026

8月11日は「きのこの山の日」──昭和50年、里山の名前を持つお菓子が生まれた日|昭和の今日は何があった日?

8月11日は「きのこの山の日」だそうです。 株式会社明治が制定した記念日で、由来がなかなか凝っています。チョコレートの部分を縦に2つ並べると「8」に見える。クラッカーの部分を横に2つ並べると「11」に見える。そこに国民の祝日「山の日」が重なる。だから8月11日、というわけです。 ただし正直に申し上げておくと、この記念日が登録されたのは2016年です。昭和の8月11日にきのこの山をめぐる出来事が何かあったわけではありません。明治自身、山の日の制定に「真っ向から便乗しました」という趣旨のことを言っていたと伝わっています。潔いというか、なんというか。 それでも私がこの日を選んだのは、記念日ではなく主役のほうに用があったからです。 きのこの山が世に出たのは1975年、昭和50年。私が6歳の年です。小学校に上がる前の年に、あのお菓子は生まれていました。そしてその後の十数年で、山ができ、里ができ、そして村がひとつ、地図から消えていきます。 アポロが売れなかったから、きのこが生まれた きのこの山の始まりは、実はまったく別のお菓子の失敗でした。 1969年、明治の大阪工場でアポロの生産が始まります。あの円錐形の、上がピンクで下が茶色の小粒チョコです。ところが当初は売れ行きが振るわなかった。そこで大阪工場の担当者が考えたのが、「この円錐形の生産ラインを、何か別のものに使えないか」ということでした。思いついたのが、円錐のアポロを傘に見立てて、その底面にクッキーの軸を挿す。つまり、きのこの形にしてしまうというアイデアです。 1970年、この試作品が明治の研究所に持ち込まれます。当時のチョコレートといえば板チョコかチョコバーが当たり前で、ポッキーがようやく出始めたという時代です。そこにきのこの形をしたチョコが現れた。反応は賛否両論だったといいます。無理もない話です。 そこから5年かかりました。軸を食べやすくするためにクッキーからクラッカーに変える。焼き方を工夫する。形にかわいらしさを足す。チョコに軸を挿す工程そのものを何度も試す。何百という試作を重ねて、ようやく形になったそうです。 売れ残った生産ラインが動き始めたのは、奇しくも私が生まれた年でした。それが私の6歳の年に、あのお菓子を送り出したことになります。 「きのこの山」という、時代に逆らった名前 商品が固まった後、明治はもうひとつ大きな決断をしています。名前とパッケージです。 当時は暮らしの欧米化が進んでいて、お菓子の世界でもスタイリッシュな欧米風のネーミングとデザインが流行っていました。カタカナで、横文字で、都会的で。そのほうが売れると誰もが思っていた時代です。 ところが明治は逆に振りました。高度経済成長が一段落して安定成長に入ったこの時期、消費者はむしろ自然ののどかさを求めているのではないか、と読んだのです。そこで「郷愁や自然、人間のやさしさといったイメージを表現する親しみやすいネーミング」として選ばれたのが、「きのこの山」でした。パッケージも、当時は菓子に向かないとされていた緑をあえて基調にして、のどかな里山を描いています。 そして1975年、発売。結果は爆発的な大ヒットでした。新発売の菓子の販売記録を塗り替え、大阪工場はラインを増やしてフル稼働させても生産が追いつかない。営業からは納品を催促する電話が鳴りやまなかったそうです。 さて、ここで白状しておかなければなりません。 私が初めてきのこの山を食べたときの記憶が、まったくないのです。 発売の年に6歳ですから、最初の一箱はおそらく小学校に入ってからでしょう。しかし、それがどういう経緯で私の手元に届いたのかが、どうしても思い出せない。誰かにもらったのか、自分でねだったのか、気づいたら家にあったのか。何も出てこないのです。 大ヒット商品というのは、こういうものなのかもしれません。あまりにも当たり前にそこにあったから、「初めて」という区切りが残らない。出会った瞬間がないまま、いつのまにか私の世界の一部になっていた。 覚えているのは、その後のことです。母と買い物に行ったとき、スーパーマーケットの棚の前でおねだりして買ってもらう。あの緑の箱は、私にとってはっきりと特別なお菓子でした。日常的にいつでも食べられるものではなく、買ってもらえた日はうれしい、そういう位置づけのお菓子です。 食べ方も昔から変わっていません。一個をまるごと口に放り込んで、チョコとクラッカーを一緒に噛む。傘だけ先に舐めるとか、軸を残すとか、そういう分解をした覚えがない。あれは一緒に食べてこそのお菓子だと、体が最初から知っていた気がします。 そして今も、私はきのこの山が大好きです。 昭和54年、里ができた。でも「戦争」はまだなかった きのこの山の発売から4年後の1979年、昭和54年。姉妹品の「たけのこの里」が登場します。 きのこの山が軸にクラッカーを使っているのに対して、たけのこの里はクッキー生地。型を整えながら焼く「型焼」という手法で、あの三角の形を作っています。同じ兄弟のようでいて、食感の設計思想がまるで違うわけです。 1979年、私は10歳。小学4年生です。 私は昔からきのこ派でした。理由ははっきりしていて、食感です。たけのこの里のあの「モサッ」とした感じよりも、きのこの山の「カリッ」としたクラッカーのほうが好きだった。それだけです。そしてこの好みは、今に至るまで一度も変わっていません。 ただ、ひとつ正直に書いておきたいことがあります。 私の家では、きのこかたけのこかで兄妹が言い合いになったことは、一度もありませんでした。 今でこそ「きのこたけのこ戦争」などと呼ばれて、令和になってもネットで定期的に燃え上がっていますが、昭和のわが家にそんな戦線はありませんでした。私はきのこが好き、それだけの話です。相手を論破する必要も、陣営に属する必要もなかった。 考えてみれば、あの2つがライバルとして大々的に売り出されたのは平成に入ってからのことです。明治が「きのこ・たけのこ総選挙」で両者の対立をアピールしたのは2001年。売上が落ち込んでいたブランドを立て直すための一手でした。それが当たって、今の「戦争」につながっていきます。 つまり、私たち昭和の子どもは戦争をしていたわけではなかった。ただ好きなほうを食べていただけです。あとから戦争の名前がついた、というのが正確なところなのだろうと思います。 いまは1つの袋に両方入ったものまで売られています。争わせておいて、最後は仲良く箱に詰める。商売というのは、たいしたものです。 明治 きのこの山・たけのこの里 ビッグシェアパック 36袋(各18袋)食べきりサイズの小袋で、きのこ18・たけのこ18の同数アソート。家族で「どっち派か」を決着させるにはちょうどいい構成です Amazonで見る › そして、私が知らないうちに消えた村がある ここからが、今日いちばん書きたかった話です。 きのこの山があり、たけのこの里がある。それなら次は何か。明治が出した答えが、1987年、昭和62年に発売された「すぎのこ村」でした。 細長いビスケットに、クラッシュアーモンドを混ぜたミルクチョコレートをまとわせて、杉の木に見立てたお菓子です。パッケージにはやはりのどかな村の風景が描かれ、背景の山には小さな杉がびっしり生えている。当時の商品紹介では「きのこの山」「たけのこの里」に続くチョコスナックの傑作誕生、とまで言われていたそうです。価格は150円。CMにも、きのこ・たけのこと一緒に登場しました。 発売当初はヒットしました。しかし、その後は出荷が伸びず、1988年、昭和63年に販売終了。実質わずか1年ほどの命でした。明治の担当者は後年、終売の理由をこう説明しています。一時はヒットしたが、きのこ・たけのこに比べて出荷が減少したため、と。 山は残り、里は残り、村だけが消えた。 ──と、まるで見てきたように書いていますが、これも白状しなければなりません。 私は、すぎのこ村というお菓子を知りませんでした。 今回この記事を書くために調べていて、初めてその存在を知ったのです。1987年に発売され、1988年に消えた。この2年間、私は何をしていたか。1987年は高校3年生で、7月23日に神宮第二球場で高校野球が終わり、そこから先の進路も決めきれずにぼんやりしていた年です。翌1988年は浪人していました。大学に入ったのは、そのさらに翌年になります。 18歳と19歳。チョコスナックの新商品を追いかける年齢ではなくなっていた、ということなのでしょう。子どもの頃はあれほど棚の前で立ち止まっていたのに、いつのまにか、お菓子の棚は私の視界から外れていた。 お菓子は、消えるときに何のお別れもしてくれません。閉店の貼り紙も出なければ、最終日の行列もない。それどころか私の場合は、生まれたことにすら気づいていなかった。誕生も終売も、まるごと視界の外で起こっていたわけです。 ちなみにすぎのこ村はその後、1992年から「ラッキーミニアーモンド」と名前を変えて2008年まで売られ、2005年には一度だけ復刻もされています。名を変えて20年近く。それを生き延びたと呼ぶのか、消えたと呼ぶのかは、なんとも言えないところです。 後づけの記念日が、いちばん大事なものを指していた 最初に書いた通り、きのこの山の日は2016年にできた後づけの記念日です。それでも、結果的にいちばん大事なところを指していると思うのです。 昭和50年に明治が賭けたのは、味でも技術でもなく、「山」と「里」という言葉が持つ懐かしさでした。欧米風の名前が売れると誰もが思っていた時代に、あえて日本の里山を選んだ。そして半世紀後、その商品は国民の祝日「山の日」に便乗できるほどの存在になっていた。便乗できるということは、その名前が定着しているということです。緑の箱を選んだ判断が、50年かけて祝日と握手したわけです。 私は今、路線バスの運転士をしています。毎日同じ道を走っていると、沿線の店が変わっていくのがよく分かります。開いた店、閉じた店。気づいたら別の看板になっている場所。すぎのこ村の話を読んでいて、そういう景色のことを思い出しました。 残るものと、消えるもの。そして、消えたことにすら気づかれないもの。その差は、案外紙一重なのかもしれません。 みなさんは、きのこ派でしたか。たけのこ派でしたか。そして、すぎのこ村のことをご存じでしたか。私は今回、まったく知りませんでした。もし覚えていらっしゃる方がいたら、それはかなり貴重な記憶だと思います。 ...

August 11, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月5日──「はんぶんこ」は、しなかった。パピコが生まれた昭和49年と、溶ける前に飲み干した夏

8月5日は「パピコの日」 8月5日と書いて、「パピ(8)コ(5)」と読む。 グリコが定めた「パピコの日」です。語呂合わせだけではありません。パピコ1本の形が数字の「8」に似ていること、2本をパキッと分けたときの姿が漢数字の「八」に見えること。そして何より、2本1組のパピコを二人で「はんぶんこ(5)」してほしい——という願いが、この日付には込められています。 大切な人と分け合う日。 そういう趣旨だそうです。とても良い記念日だと思います。思うのですが、私はこの記念日の趣旨を、子どもの頃に一度も実践したことがありません。 一度もです。それどころか、実践する気すらなかった。今日はその話を書きます。 「2本で1つ」は、分け合うために生まれた パピコが世に出たのは、1974年(昭和49年)のことでした。私は5歳。まだ小学校にも上がっていません。 当時発売されたのは「パピコ<乳酸ミルク>」。いまの<ホワイトサワー>の原型にあたる白いアイスです。子どもが好きな乳酸飲料を氷菓にできないか、という発想から生まれたもので、パッケージは縦型。水玉模様と女の子の絵が描かれた、いかにも昭和らしい爽やかな意匠でした。 面白いのは、あの「2本で1つ」という形が、最初から狙って作られたわけではなかったということです。 グリコには当時、「グリコWソーダアイス」という2つに分けられるバーアイスがありました。仲の良い友達同士で分け合う、いわばコミュニケーションの道具として買われることを想定した商品です。パピコも企画当初は1本で検討していたそうですが、どうにも「らしさ」が出ない。そこでWソーダにならって2本1組にしてみたところ、急に楽しさが加わり、支持を得て発売にこぎつけた——そういう経緯だったといいます。 つまりパピコのあの形は、はじめから「誰かと分け合うこと」を前提に設計されているのです。50年以上たった今も、その形はほとんど変わっていません。 幼児向けのはずが、買っていたのは中学生だった 片手で持って、手軽に吸える。その形状から、パピコは当初、幼児向けの商品として売り出されました。 ところが蓋を開けてみると、意外にも中学生がたくさん買っていることが分かった。そこでグリコは1977年(昭和52年)、姉妹品として<チョココーヒー>を発売します。コーヒーにチョコレートを加えた、当時ほかにない味。これが大ヒットしました。 1977年、私は小学2年生です。 そして「中学生がやたらとパピコを買っている」と言われていた時期に中学生になったのが、まさに私の世代でした。企業が想定した客層と、実際に手を伸ばした子どもたちが、少しずれていた。そのズレがあったからこそチョココーヒーが生まれたわけで、なんだか他人事とは思えない話です。 私が食べていたのも、コーヒー系でした。 商店の冷凍ケースと、家の冷凍庫 私にとって、パピコは「商店の冷凍ケースで買うもの」でした。 家に買い置きがあったことはありません。うちの冷凍庫に常備されていたのは、自宅で凍らせる、俗に言うチュウチュウアイスのほうです。安い。とにかく安い。夏のあいだ、母はあれをまとめて買ってきては凍らせていました。 だから我が家では、アイスに二種類ありました。 いつでも冷凍庫にある、ケ(日常)のアイス。そして商店まで出かけていって、冷凍ケースの重い蓋を開けて選ぶ、ハレのアイス。パピコは、間違いなく後者です。同じ「氷菓」であっても、家の冷凍庫から取り出すものと、お金を出して買うものとでは、口に入れたときの意味がまるで違いました。 家のアイスは、いつでもある。だから、ありがたくない。買ったアイスは、そこにしかない。だから急いで食べる。 いま考えると、あの二種類の使い分けは、そのまま昭和の家計の話でもあったのだと思います。たくさん買って安く凍らせておくものと、たまに一つだけ買うもの。子どもだった私はそんなことを考えもせず、ただ「今日はいいほうが食べられる」と喜んでいただけでしたが。 パッケージが横を向いた年 パピコの歴史をたどっていて、ひとつ手が止まった年があります。 1987年(昭和62年)。この年、パピコのパッケージは縦型から横型に変わりました。1970年代から80年代にかけてコンビニが急成長し、コンビニの店頭に並ぶことを想定した変更だったといいます。同時に、発売以来ずっと描かれていた女の子の絵柄がなくなり、「papico」のロゴが大きく表示されるようになりました。 1987年。私は高校3年生です。 つまり私が最後の夏の大会に向けてグラウンドにいたころ、パピコは商店の冷凍ケースから、コンビニの棚のほうを向きはじめていた。あの女の子の絵は、私が高校を出るのとほとんど同じころに、静かに消えていたことになります。 もちろん当時の私は、そんなことにはまるで気づいていません。気づくはずもない。子どもの世界が終わっていくのと歩調を合わせるように、駄菓子屋や商店の冷凍ケースを前提にしていた商品が、次の時代の売り場に合わせて姿を変えていた——それを知ったのは、57歳になった今日でした。 「はんぶんこ」は、しなかった さて、記念日の趣旨に戻ります。 私はパピコを、誰かとはんぶんこした記憶がありません。妹とも、友達とも。買ったら2本とも自分のものでした。 そうなると、あの形は「楽しさ」ではなく「試練」に変わります。 2本あるということは、1本目を吸っているあいだ、2本目はずっと手の中で温まり続けているということです。溶けてしまう前に食べきらなければならない。だからパピコを食べるときは、スピードが大切でした。 とくに問題になるのが、2本目の吸い口です。溶けてやわらかくなってしまうと、これが実に切り取りづらい。しっかり凍っているうちならスパッといくものが、ぐにゃりとして言うことを聞かなくなる。分け合う相手がいれば、2本は同時に開封されて、それぞれの手の中で最短時間のうちに消えていったはずです。一人で持ってしまうと、2本目は必ず「待たされる」。 分け合うために生まれた形が、分け合わない子どもの手の中では、制限時間つきの競技になっていたわけです。 噛みちぎり派 もうひとつ、告白しておくことがあります。 私は「噛みちぎり派」でした。 いまのパピコには、先端に引っ張るためのリングがついています。「リング式イージーオープン」という正式名称まであるそうですが、あれが登場したのは2004年のこと。発売当初のパピコに、リングはありませんでした。 つまり昭和のパピコは、自力で開けるしかなかったのです。手でちぎるか、噛みちぎるか。私は迷わず後者でした。歯で先端をくわえて、ぐいっとやる。行儀が良いとは言えませんが、あれが一番速い。溶ける前に食べきらなければならない子どもにとって、開封は一秒でも短いほうが良かったのです。 ついでに言えば、当時のパピコは今よりずっと硬いものでした。パピコが「なめらか食感」になったのは1998年(平成10年)のリニューアルからで、それ以前は押し出すのにも力が要りました。噛みちぎった先から、硬い氷の塊をぐいぐい押し上げる。あの手ごたえこそが、私の記憶にあるパピコです。 いまのパピコを食べると、正直なところ「やわらかいな」と思います。おいしいのです。おいしいのですが、あの、下から親指で押し上げてもなかなか出てこない、じれったいような硬さが、どこにも残っていない。 硬かったから急いだのか、急いでいたから硬く感じたのか。いまとなっては、もう確かめようがありません。 令和の8月5日に 「パピコの日」が正式に制定されたのは、2019年のことでした。昭和どころか、平成もほとんど終わったころの話です。 パピコの累計販売個数は、40億個を超えているといいます。ただしこの集計は1982年からのものだそうです。1982年——私が中学に上がった年です。 ということは、私が小学生のころに商店の冷凍ケースの前でかがみ込み、噛みちぎって飲み干したパピコは、あの40億個には入っていないことになります。数えられていない。誰の記録にも残っていない。 けれど、私は覚えています。統計に入っていないアイスの味を、50年近くたっても覚えている。記念日というのは、たぶんそういうもののためにあるのだと思います。 そして今日という日は、「大切な人と分け合う日」ということになっている。 半世紀近く遅れて、私はようやくこの記念日の趣旨を実践できる立場にいます。今日あたり2本買ってきて、1本を誰かに渡してみるのも悪くありません。もっとも、渡した瞬間に「そっちのほうが多い」と言われる可能性は、大いにあるのですが。 みなさんは、パピコを「はんぶんこ」する側でしたか。それとも、私と同じく2本とも自分で抱え込む側でしたか。 記念日なので、久しぶりに買ってきました。私にとってのパピコは、やはり<チョココーヒー>です。昭和52年に「中学生がよく買っている」という発見から生まれた味が、半世紀近くたった今も定番として棚に並んでいる——それだけで、なんだか嬉しくなります。冷凍庫に何本かストックしておけば、この夏はいつでも「はんぶんこ」ができます。 江崎グリコ パピコ チョココーヒー 160ml×6袋1977年(昭和52年)発売のロングセラー。コーヒーにチョコを合わせた、あの味。2本1組だから、誰かと分け合うのも、ひとりで2本抱えるのも自由です Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

August 5, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月29日──17年ぶりに、夏の夜空が帰ってきた

今日は7月29日。七月もいよいよ終わりに近づき、夏の暑さがいちばん濃くなる頃です。 昭和の夏を思い出すとき、まっさきに浮かぶもののひとつが、花火です。夕暮れの空がだんだんと藍色に沈んでいって、遠くのほうで「ドン」と腹に響く音がする。少し遅れて、夜空に大きな光の花が咲く。あの音と光は、下町に育った者にとって、夏そのものと分かちがたく結びついています。 昭和53年(1978年)の7月29日、その花火をめぐる大きなできごとがありました。長いあいだ途絶えていた両国の花火が、「隅田川花火大会」と名前を変えて、17年ぶりに夜空へ帰ってきたのです。 17年ぶりの、復活だった 隅田川の花火の歴史は、驚くほど古いものです。 さかのぼること江戸時代、享保18年(1733年)。前の年に大飢饉と疫病が江戸を襲い、多くの人が命を落としました。その死者を供養し、悪い病を追い払うことを願って、八代将軍・徳川吉宗が両国橋のたもとで水神祭を営み、川開きの日に花火を打ち上げた——これが、両国の川開き花火の始まりだと伝えられています。じつに300年近くも昔のことです。 そもそも「川開き」とは、その年の夏、隅田川での舟遊びや納涼が許される初日のこと。江戸の人々にとっては、待ちに待った夏の幕開けの合図でした。両国橋のあたりには涼み舟がびっしりと浮かび、川岸には屋台や見世物が立ち並ぶ。その夜空を彩る花火こそが、夏の到来を告げるいちばんの主役だったのです。 やがて花火職人のあいだに、「鍵屋」と、そこから分かれた「玉屋」という二つの名門が生まれました。見物人が夜空を見上げて「たまや〜」「かぎや〜」と声をかける、あの掛け声も、このころに生まれたものです。とりわけ人気を集めたのは玉屋のほうで、見事な花火が上がると、江戸っ子たちは惜しみなく「たまや〜」と声を張り上げたといいます。こうして両国の川開きは、多少の中断をはさみながらも、江戸から東京へと、夏の一大行事として受け継がれていきました。 ところが、その伝統がぷつりと途切れます。昭和36年(1961年)を最後に、両国の花火は打ち上げられなくなってしまったのです。理由のひとつは、川べりにあふれる車と、ふくれあがる見物客をさばききれなくなった交通事情。そしてもうひとつが、隅田川そのものの汚れでした。高度経済成長のただ中、工場排水や生活排水が流れ込み、川の水はどす黒く濁って、悪臭を放つほどになっていたのです。花火を映すはずの川面は、とても「涼」を感じられる状態ではありませんでした。 こうして、両国の夏から花火が消えました。以来17年ものあいだ、隅田川の夜空は静かなままでした。その間に生まれた子どもたち——昭和44年生まれの私も、その一人です——は、両国の花火というものを一度も見ないまま育っていったのです。 再び夜空を取り戻すまでには、17年という歳月がかかりました。下水道の整備が進み、汚れきっていた川の水も少しずつ息を吹き返して、ようやく機が熟したのが昭和53年です。かつての両国橋周辺は交通量が増えすぎていたため、会場を少し上流へと移し、名前も「隅田川花火大会」と改めました。桜橋から言問橋のあいだ(第一会場)と、駒形橋から厩橋のあいだ(第二会場)、二つの会場で花火を競い合う——今に続くあの形が、このとき生まれたのです。 昭和53年7月29日。17年ぶりに、隅田川の夜空に光の花が咲いたのです。 実に250年近い歴史を持つ夏の風物詩が、長い空白を経て帰ってきた。その復活は新聞やテレビでも大きく取り上げられ、東京の下町に暮らす人々にとっては、待ちに待った知らせだったにちがいありません。 正直に言えば、私の「花火」は、隅田川ではない ここまで書いておいて、正直に打ち明けます。 「花火」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、じつは、あの華やかな隅田川花火大会ではありません。 もちろん、小学3、4年生の頃だったでしょうか、母と妹と私の3人で浅草へ出かけた記憶はあります。でも残っているのは、夜空いっぱいに咲く大輪の花ではなく、押し寄せる人の波に揉まれながら、ただひたすら歩き続けたという記憶です(笑)。どこかに腰を下ろして、ゆっくり花火を見上げたという思い出ではないのが、少しだけ残念でもあります。 今にして思えば、あの日の人混みこそが、復活してまもない隅田川花火大会そのものだったのかもしれません。何十万もの人が、同じ夜空を目指して押し寄せる。その大きな渦のなかに、幼い私も、母と妹とともに確かにいたのです。花火の記憶はほとんど残っていないのに、あの熱気とざわめきだけは、今も体のどこかが覚えています。 私にとって本当の「花火大会」は、高砂の隣町・柴又で毎年開かれていた、江戸川の花火大会でした。物心ついた頃から、家族や近所の人たちと河川敷の土手まで歩いて向かうのが、夏の恒例行事だったのです。 間近で打ち上がる花火は、それまで見たことのないほど大きく、お腹の底まで響く轟音に、子どもの私は少し怖さを感じていました。それでも、夜空いっぱいに広がる光の美しさに見とれ、「夏が来た」という実感を味わっていたように思います。 あの頃は、今よりもずっとあちこちで盆踊りが開かれていました。母はにぎやかな場所が大好きな人で、夏になると毎晩のように近所の盆踊りへ出かけていました。私もその後をついて歩き、太鼓の音や提灯の灯り、屋台の賑わいに胸を躍らせたことを覚えています。あの夏の空気は、今でも忘れられません。 「花火大会をやってくる!」 そして小学生になると、夏の楽しみがもう一つ増えました。 昼間、近所の友達と駄菓子屋へ行き、バラ売りの花火を一人300円分くらい買うのです。ロケット花火やねずみ花火ではなく、手持ち花火や線香花火を思い思いに選び、夜になると「花火大会をやってくる!」と言って家を出る。子どもだけの、ささやかな夜遊びでした。 今思えば、本当にささやかな冒険です。でも、少しだけ悪いことをしているような気分が、その時間を何倍も特別なものにしてくれました。友達と囲んだ線香花火の、ぽとりと落ちる火の玉。その一瞬の明るさと、すぐに訪れる暗闇。あれもまた、まぎれもない私の「花火大会」でした。 どの夏にも、父はいなかった こうして思い返してみると、どの夏の思い出にも、父の姿がありません。 父はいつも仕事で忙しく、家族で出かけることはほとんどありませんでした。でもそれは、決して我が家だけのことではなく、近所にも同じような家庭がたくさんありました。父親たちは、みんな懸命に働いていたのです。 その代わり、私たちは地域の大人たちに見守られながら育ちました。子どもたちだけで夜道を歩き、花火をしていても、近所のおじさんやおばさんが、自然と目を配ってくれていた。そんな時代だったのです。 子どもの頃には気づきませんでしたが、大人になった今、あの温かな見守りが、どれほどありがたいものだったのかを実感します。そして今度は、自分が地域の子どもたちを見守る側の世代になったのだ、ということにも気づかされます。 夏の花火は、美しかった夜空だけではなく、人と人とのつながりまで思い出させてくれる。私にとって、そういう特別な風景なのです。 おわりに 昭和53年7月29日、隅田川に17年ぶりの花火が咲きました。街じゅうの人が、その復活を心待ちにしていたといいます。 いま、隅田川花火大会は毎年当たり前のように開かれ、両岸には100万人近い人が押し寄せます。誰もがスマートフォンを夜空にかざし、光の花を写真におさめる。いっぽうで、私の夏を彩ってくれた近所の盆踊りは、櫓を見かけることさえ少なくなりました。子どもだけで夜道を歩き、線香花火に火をつけるようなことも、今では難しい時代です。 それでも——江戸の川開きも、大きな隅田川の花火も、柴又の小さな花火も、根っこにあるものは同じなのだと思います。人が集まり、同じ夜空を見上げ、「夏が来た」と感じ合う。300年ちかく前の江戸っ子が「たまや〜」と声を張り上げた気持ちと、土手で花火に見とれていた子どもの私の気持ちは、案外、地続きなのかもしれません。花火とは、光そのものよりも、その下に集う人と人とのつながりを照らすものなのでしょう。 17年ぶりの復活を待ちわびた大人たちの気持ちが、今なら少しだけ分かる気がします。当たり前に思える夏の風物詩も、途切れてみて初めて、どれほど大切だったかに気づく。だからこそ、毎年ちゃんと花火が上がるということは、それだけで、ありがたいことなのでしょう。 あなたにとって、いちばん心に残っている夏の花火は、どんな花火でしょうか。夜空いっぱいの大輪でしょうか。それとも、誰かと囲んだ、線香花火の小さな火でしょうか。 大きな花火大会に出かけるのもいいけれど、庭先や玄関先で、孫と一緒に線香花火をぽとりと落とす——そんな夏も、また格別です。これは、職人が一本ずつ手で作る純国産の線香花火。パチパチと火花を散らし、最後にほろりと玉が落ちるまで、驚くほど長く、美しく燃えます。中国産の安価なものとは、火のもちも風情もまるで別物。あの頃の夏を、今度は見守る側として、子や孫と分かち合ってみませんか。 純国産線香花火 巧(たくみ)国内の職人が手作業で仕上げる本物の線香花火。パチパチと繊細な火花が長く続き、最後に火の玉がほろりと落ちる風情は国産ならでは。桐箱風の化粧箱入りで贈り物にも Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

July 29, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月3日──元気ハツラツ!オロナミンCと、小学5年生の夏

オロナミンCの日、その語呂合わせ 7月3日は「オロナミンCの日」なのだそうです。「オロナ(7)ミ(3)ンC」という、なんとも昭和らしい語呂合わせから、製造元の大塚製薬株式会社が制定した記念日とのこと。累計販売本数が300億本を突破したことを記念して定められたと聞けば、あの独特な甘さと炭酸の刺激が、いかに多くの日本人の記憶に染みついているかがわかります。 私が子供の頃には、すでに「あって当たり前」の飲み物でした。しかし調べてみると、オロナミンCの誕生は1965年(昭和40年)2月。私が生まれる4年前のことです。ちょうど高度経済成長のまっただ中、東京オリンピックの興奮も冷めやらぬ頃に、大正製薬の「リポビタンD」に対抗する形で世に送り出された商品だったそうです。 首都高速道路や東海道新幹線が開通し、日本中が「もっと速く、もっと元気に」と前のめりになっていた時代。そんな空気の中で「元気ハツラツ」を掲げる栄養ドリンクが生まれたのは、ある意味で必然だったのかもしれません。私が物心つく頃には、そうした高度成長の熱気はすでに一段落していましたが、オロナミンCという商品だけは、変わらぬ姿で駄菓子屋の片隅に鎮座していました。 「オロナ」+「ミンC」、名前の由来 オロナミンCという名前、実は大塚製薬の看板商品だった皮膚薬「オロナイン軟膏」の「オロナ」と、「ビタミンC」の「ミンC」を組み合わせたものだと知って、思わず膝を打ちました。子供の頃はそんなことを考えたこともなく、ただ「元気の出る飲み物」として棚に並んでいたわけですが、企業としては薬品のブランド力をうまく橋渡ししていたのですね。 発売当初、炭酸を含んでいることを理由に医薬品としては認められなかったそうです。当時の感覚では少々残念な判断にも思えますが、これが結果的に薬局以外の場所――駄菓子屋や商店、自動販売機――でも自由に売られる清涼飲料水としての普及を後押ししたというのですから、世の中は分からないものです。ライバルであった大正製薬の「リポビタンD」が医薬品として薬局を中心に売られていたのとは対照的に、オロナミンCは子供の生活圏である駄菓子屋にまで入り込んでくることができた。この違いが、私たち昭和の子供世代の記憶に、オロナミンCがより身近な存在として刻まれた理由のひとつかもしれません。 大村崑さんと、ホーロー看板の記憶 オロナミンCといえば、まず思い浮かぶのが大村崑さんの顔です。「うれしいとねぇ、めがねが落ちるんですよ!」という白黒テレビCMから始まり、やがて「元気ハツラツ!」の掛け声とともに、昭和40年代の茶の間にすっかり定着していきました。大村さんは発売当初からおよそ10年もの間CMに出演し続け、1970年の大阪万博の際には、気球に乗って「オロナミンCを飲んで万国博へ行こう!」と呼びかけるCMまで作られたというから驚きです。それだけ長く同じ顔が茶の間に映り続けたということは、それだけ多くの子供たちの記憶に、あの笑顔が刻み込まれたということでもあるのでしょう。 そういえば、家族それぞれが自分好みにオロナミンCをアレンジして飲む、という趣向のCMもあったように記憶しています。ミルクを入れて「オロナミンセーキ」にしたり、大人はウイスキーやジンを垂らしたり。中には、ほぐした卵黄を溶き入れて飲むという飲み方まであったような気がします。私自身は試したことがないのですが、本当だとしたら、今の感覚ではちょっと驚きの組み合わせです。当時の栄養ドリンクには、こうして「混ぜて自分流にする」という遊び心の文化があったのかもしれません。 そして忘れてはならないのが、街角のあちこちに掲げられていたホーロー看板です。大村崑さんの笑顔と一緒に、当時大塚製薬がスポンサーだった『黄金バット』『巨人の星』『天才バカボン』、あるいは『アタックNo.1』といった人気番組のキャラクターが隅に描かれた看板が、全国津々浦々の商店の壁に貼られていたそうです。 私の記憶でも、看板は本当にあちこちにありました。駄菓子屋やたばこ屋の軒先はもちろん、当時はまだ木製の電柱もあちこちに残っていて、そこにも貼られていたのを覚えています。学校への行き帰り、あるいは近所を自転車で走り回っているときに、ふと視界の端に大村崑さんの笑顔が飛び込んでくる。特に意識して見ていたわけではないのに、気がつけばあの独特な看板のデザインは、しっかりと記憶に焼き付いていました。 看板の中には『巨人の星』の星飛雄馬が隅に描かれたバージョンもあったそうで、後から知って「あの頃見ていたのは、もしかしたらそれだったのかもしれない」と、記憶を重ね合わせています。ただ、小学校低学年の頃はテレビCMや看板で目にするばかりで、実際に飲むことはありませんでした。オロナミンCはどこか「大人の飲み物」のような感じがしましたし、瓶もコーラよりひと回り小さかったので、駄菓子屋で選ぶ時にはつい大きいほうのコーラに手が伸びてしまう。子供心にも、量で選んでいたのかもしれません。今思えば、あの小さな瓶には大人の世界への憧れのようなものが詰まっていたのかもしれませんが、当時の私にはただ「ちょっと背伸びした飲み物」に見えていただけでした。 「小さな巨人」と、我が家の応援歌 私にとって特に感慨深いのは、1976年(昭和51年)からおよそ四半世紀にわたって、オロナミンCが読売ジャイアンツとタイアップしていたという事実です。CMの最後には「オロナミンCは小さな巨人です!」というフレーズが使われ、昭和58年頃までは大村崑さんが、それ以降は中畑清選手をはじめとする巨人軍の選手たちがこの台詞を口にしていたといいます。「Cパワーが、Gパワーになる」というキャッチコピーも使われていたそうで、ビタミンCの力が読売ジャイアンツ(G)の力になる、というダジャレのような発想も、なんとも昭和らしい大らかさを感じます。 私が物心つく頃には、すでにジャイアンツファンとしてラジオにかじりついていた身です(先日この欄でも書きましたが、夜のナイター中継を追いかける少年でした)。テレビでもラジオでも、巨人戦の合間に流れてくるオロナミンCのCMは、応援と一体になった風景の一部でした。看板やCMで繰り返し目にしていたあの飲み物が、まさか自分にとって「特別な一本」になるとは、当時は思ってもみませんでした。 小学5年生の夏、初めての一本 初めてオロナミンCを飲んだのは、小学5年生の夏休みのことでした。パートに出ていた母が、職場で6本入りパックをいただいてきたのです。長らく看板とCMの中だけの存在だったオロナミンCが、ついに我が家の食卓に並んだ瞬間、何とも言えぬ喜びがこみ上げてきました。それまで幾度となく看板やテレビの向こうに見ていた、あの小さな瓶が、今まさに自分の手の中にある――そう思うと、栓を抜く前から胸が高鳴っていたのを覚えています。「これがジャイアンツの選手たちが飲んでたやつかー」――そう思いながら王冠の栓を抜いて口に運んだ、あの瞬間は今でも鮮明に覚えています。 味は想像していたよりもずっと不思議なものでした。すっぱくて、シュワシュワしていて、どこか薬っぽい感じもする。そして何より驚いたのは、飲んだ後のオシッコが真っ黄色になっていたことです(笑)。ビタミンB2の色だと知ったのはずっと後のことで、当時は「これはとんでもない飲み物なんだ」と、変な意味で衝撃を受けたのを覚えています。 後になって知ったのですが、これは私だけの体験ではなく、当時オロナミンCやリポビタンDといったビタミン飲料を飲んだ子供たちの多くが同じように驚いていたのだそうです。今なら「ああ、ビタミンB2ね」と笑って済ませられますが、あの頃は誰も教えてくれない、ちょっとした発見でした。テレビの向こうの大村崑さんも巨人軍の選手たちも、まさか子供たちがこんなところで盛り上がっているとは思ってもいなかったでしょう。 今も変わらぬ「元気ハツラツ」 あれから半世紀近くが経ち、オロナミンCは今も店頭に並び続けています。CMキャラクターは時代とともに移り変わり、令和の今では仮面ライダーとタイアップするなど、姿を変えながらも生き続けている。あの木製の電柱も、駄菓子屋の軒先も、今の街並みからはほとんど姿を消してしまいましたが、瓶のデザインや「元気ハツラツ」という言葉だけは、驚くほど当時のまま残っています。 私も令和の今、たまにオロナミンCを手に取ることがありますが、そのたびに、あの小学5年生の夏休みの記憶がよみがえってきます。母が職場からもらってきた6本入りパック、初めて栓を抜いた時の高鳴り、そして誰にも教わらなかった「発見」の驚き。変わらないのは、あの甘酸っぱい味と炭酸の刺激、そして子供の頃の胸の高鳴りなのかもしれません。 皆さんは、オロナミンCにまつわる思い出はありますか。あの看板を、あのCMを、あの味を、今も覚えていらっしゃいますか。 暑さが本番を迎えるこの季節。あの「元気ハツラツ」を、久しぶりに一本いかがでしょう。半世紀変わらないあの味は、飲んだ瞬間、あなたを子どもの頃のあの夏へ連れ戻してくれるはずです。箱で冷やしておけば、夏バテ気味の毎日の、ささやかな相棒になります。 大塚製薬 オロナミンC ドリンク 120ml×50本1965年から変わらない「元気ハツラツ」。冷蔵庫にストックしておきたい、夏の定番の一本 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月2日】手作りの翼が、琵琶湖に落ちていった夏 | 次の記事:【7月4日】テレビが眠らなくなった日、NHK衛星放送・世界初の24時間放送 ▶

July 3, 2026

6月16日 ── 上級生の背中越しに、私はインベーダーを見ていた

六月十六日。梅雨のただ中、長靴と傘がランドセルの相棒になる季節です。カレンダーの記念日欄を見ると、きょうは「和菓子の日」。そしてもうひとつ、私たちの世代にとっては見逃せない記念日が、そっと並んでいます——「スペースインベーダーの日」です。 昭和五十三年(一九七八年)の六月十六日、当時のタイトー本社ビルで、一台のテレビゲームの新作発表会が開かれました。その名は『スペースインベーダー』。開発したのは西角友宏さんという技術者です。画面の上から迫りくる宇宙人を、自分の操るビーム砲で迎え撃つ——いまでは当たり前の「自分で撃ち返せる」という双方向のおもしろさを、世に知らしめた一台でした。同年七月ごろから全国へ出荷されると、それはもう、文字どおり日本中を侵略していきます。 きょうは、その「侵略」を、いちばん下っ端の小学生として迎え撃った——いや、迎え撃てずに、ただ眺めていた私の話です。 イトーヨーカドーの、踊り場の一台 記憶を掘り起こしてみます。私とインベーダーの最初の出会いは、よく語られる喫茶店のテーブル型の筐体ではありませんでした。 イトーヨーカドーの、一階と二階をつなぐ階段。その中間にある踊り場に、立ったままプレーするタイプの大きな筐体が、ぽつんと一台、置かれていたのです。ブラウン管を上から覗き込む、背の高い箱型のやつです。喫茶店のテーブルに埋め込まれた、あの寝そべったような筐体を知ったのは、ずっとあとのことでした。 当時の私は小学三年生。正直に白状すると、一ゲームいくら、というあの金額は、三年生の小遣いではそうそう出せるものではありませんでした。けれど、興味のほうはバリバリにあったのです。だから私はどうしたか。プレーしている上級生のすぐ後ろに陣取って、画面を食い入るように見ていました。自分の百円玉ではない、誰かの一機が右へ左へ動くのを、まるで自分が動かしているような顔をして、ただ見ていたのです。 あの、ズン、ズン、ズン、ズン……と地鳴りのように響く、インベーダーが一歩ずつ近づいてくる音。敵の数が減るほどにテンポが速くなって、こちらの鼓動まで一緒に速くなっていく、あの独特の音。五列に並んだ五十五匹の宇宙人と、ときおり画面の上をすーっと横切る赤い円盤(あれを撃ち落とすと点が高いのだと、上級生が教えてくれました)。踊り場の薄明かりの中でぼうっと光るその画面を、私はいったい何度、よそのお兄さんの肩越しに見上げたことでしょう。 いま思えば、おかしな話です。そもそもイトーヨーカドーというのは、当時の私たちにとって、子どもだけで出入りしてはいけないことになっている場所でした。それなのに、私はちゃっかり行っちゃっているわけです。そして、後ろから覗かせてもらっていた上級生たち——彼らだって、しょせんは小学生です。それが何回も、何回も百円玉を投入していく。あの軍資金は、いったいどこから出ていたのか。当時は「すごいなあ」と思って見ていましたが、いざ自分が親の立場になって考えてみると、よくもまあ、と苦笑いするしかありません。 百円玉が、日本から消えた夏 私が踊り場で指をくわえて見ていたころ、世の中では、とんでもないことが起きていました。 それまでのテレビゲームといえば、画面の壁をボールで崩していく『ブロック崩し』のようなものが主流でした。ところがインベーダーは、向こうから攻めてくる。こちらが撃つ。撃ち返される。やられる——。腕を上げれば上げるほど長く生き延びられて、もっとやりたくなる。この「上達していく手応え」と「迎え撃つ緊張感」こそが、それまでのゲームにはなかった魔力でした。喫茶店でコーヒー一杯の値段で何十分も粘る大人が続出し、社会問題のように語られたほどです。 『スペースインベーダー』の人気は、喫茶店にテーブル型の筐体を持ち込ませ、やがてゲーム機ばかりを並べた「ゲーム喫茶」や、店員すらいない二十四時間営業の「インベーダーハウス」まで生み出していきます。コーヒーを飲む店だったはずの喫茶店が、いつのまにかテーブルという卓上が光る箱に置き換わっている。そんな光景が、日本中に広がっていきました。「インベーダー」は、その年の流行語になりました。なかでも語り草になっているのが、百円玉の話です。あまりに多くの百円玉がゲーム機の中に吸い込まれていったため、世間で百円硬貨が足りなくなり、日本銀行がふだんの三倍ほどの量を世に送り出した——そんな記事が新聞に載るほどだったといいます。 そんな熱狂のなかで、高得点を狙うつわものたちが編み出したのが、攻略法の元祖とも呼ばれる「名古屋撃ち」でした。インベーダーが最下段の一歩手前まで攻め込んでくると、なぜか敵の弾が自分のビーム砲をすり抜けて当たらない——もとはゲームの不具合(バグ)だったその仕様を逆手に取り、ぎりぎりまで引きつけて撃ちまくる、という技です。名前の由来は「名古屋で広まったから」とも、「あと一段で〝終わり〟、それと〝尾張(名古屋)〟をかけた」とも言われますが、本当のところは、いまもって誰も知らないのだそうです。 三十円、十円。ようやく私の番が来た さて、踊り場で見ているだけだった私にも、ちゃんと順番が回ってくる日が来ます。 世の中に次々と新しいゲームが登場すると、インベーダーは少しずつ「古いゲーム」になっていきました。すると、あれほど強気だったプレー代が、一気に下がりはじめるのです。五十円、三十円、そしてついには十円なんていう値札まで現れました。そうした型落ちの筐体を、倉庫のような建物に所狭しと並べた——いわゆる倉庫型のゲームセンターが、あちこちにできました。薄暗くて、どこか秘密基地めいていて、子どもにはほんの少しだけ背伸びが必要な場所。それでも十円玉一枚で遊べるとなれば、私たちにとっては立派な天国でした。 そこで、ようやく私にも、遊ぶことができるようになったのです。十円玉を握りしめて。あの踊り場の上級生たちが百円玉を惜しげもなく入れていた、その同じゲームを、私は数年遅れの十円で、心ゆくまで撃ちました。 もちろん、後ろから見て覚えた攻略法も、ここぞとばかりに使いました。敵が最下段の一歩手前まで降りてきたところを、端から順に狙い撃つ「名古屋撃ち」。そしてもうひとつ、群れの真ん中の列を一気に撃ち抜く技——私たちの界隈では、これを「新宿撃ち」と呼んでいました。ところがあとで知ったのですが、同じこの技、地域によっては「京都撃ち」とも「中央突破」とも呼ばれていたそうです。携帯電話もインターネットもない時代、攻略法は友だちから友だちへと口づてに伝わり、その途中で、町ごとに勝手な名前がついていったのです。同じ撃ち方なのに、隣の町では別の名前で呼ばれている。いま思えば、それもまた、ずいぶんのんびりとした、いい時代の話です。 背伸びして眺めていた憧れに、自分の指で、やっと追いついた瞬間でした。数年越しの片想いが、十円玉一枚でようやく実った——そんな気分だったように思います。 令和の子どもは、「見ているだけの時間」を知らない 時代は変わりました。 いまの子どもたちは、ゲームをするのに、お金を握りしめて家を出る必要がありません。スマートフォンの中に、家庭用ゲーム機の中に、無数のゲームが入っていて、その多くは、始めるだけならお金もかからない。上級生の背中越しに覗き込む必要も、十円玉が貯まるのを待つ必要も、ないのです。 それは間違いなく、豊かで、いい時代です。私だって、もし子どもの頃にそんな環境があったら、諸手を挙げて喜んだことでしょう。けれど、と私はつい思ってしまうのです。あの、一ゲームが出せなくて、ただ見ていた時間。誰かのプレーを食い入るように見つめて、技を盗んで、いつか自分も、と焦がれていたあの時間。あれはあれで、悪くないものだったな、と。 欲しいものがすぐ手に入らない。だから、よその上級生の背中越しに憧れ、十円玉が貯まるのをじりじりと待つ。手が届かないからこそ、あの踊り場の小さな画面の光は、あんなにもまぶしく見えたのかもしれません。いまの子どもたちには、あの「待っているあいだの時間」だけは、もう手に入らない宝物なのかもしれない——そんなことを、つい考えてしまうのです。 現に、わが家でもゲームに夢中になっている子どもを見て、私はつい「ゲームばっかりやって……」と、口では文句を言ってしまいます。ところが内心はどうかというと、「わかるわかる」と全力でうなずいている自分がいる。それどころか、母親が渋い顔で様子をうかがっているのに気づくと、心の中でこっそり「おい、ママの目があるんだから、もっと上手くやれ」と、すっかり子どもの肩を持っている始末です。叱る側に回ったはずなのに、気持ちのほうは、あの踊り場で背伸びをしていた頃から一歩も動いていない。我ながら、おかしくなってしまいます(笑)。 考えてみれば、子どもだけで入ってはいけないイトーヨーカドーに、ちゃっかり忍び込んでいたのも私でした。親の目を盗んで何かに夢中になる——それはどうやら、いつの時代も変わらない、子どもの特権のようです。 そういえば、あの「名古屋撃ち」を含む歴代のスペースインベーダーは、いまではNintendo Switchで、いつでも好きなだけ遊べます。十円玉も、上級生の背中も、もう要りません。あの頃の自分に教えてやったら、目を丸くするでしょうね。 スペースインベーダー インヴィンシブルコレクション - Switchタイトー/1978年のオリジナルから歴代作品まで収録 Amazonで見る › あなたが初めてインベーダーに出会ったのは、どこの台でしたか。喫茶店のテーブルでしたか、駄菓子屋の店先でしたか、それとも私のように、デパートの踊り場あたりでしたか。一ゲーム、いくらでしたか。よかったら、あなたの「最初の一台」の思い出も、聞かせてください。 この「昭和の今日は何があった日?」シリーズでは、昭和四十年から六十四年までの出来事を、当時子どもだった私の目線で綴っています。同じ時代を生きた方の「あの頃」の思い出やコメントも、ぜひお待ちしています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月15日 ── 高校球児だった私の知らないところで、ジブリが産声を上げていた | 次の記事:【番外編】インベーダーゲームと孫正義 ── ブームが冷めた中古機を、太平洋の向こうで宝に変えた青年 ▶

June 16, 2026

6月10日 ── 時を計る日に、手作りの時計と夜の高速バスを思う

梅雨の入り口、六月十日は「時の記念日」です。 由来は、ずいぶんと古い。『日本書紀』によれば、六七一年のこの日(新暦に換算して六月十日)、天智天皇が漏刻(ろうこく)という水時計を新しい台に据え、鐘や鼓で人々に初めて時を知らせた——とあります。それにちなんで、大正九年(一九二〇年)、東京天文台と生活改善同盟会が「時間を大切にしよう」と呼びかけて定めたのが、この記念日のはじまりだそうです。 千三百年以上も昔の人が、水の落ちる音で時を計っていた。そう思うと、なんだか不思議な気持ちになります。 そして「時の記念日」と聞くと、私がまっさきに思い出すのは、保育園で作った、あの手作りの時計のことなのです。 空き箱で作った、私だけの時計 私が保育園に通っていたのは、昭和四十七年から五十年ごろ。歳でいえば、三歳から六歳のあいだです。その保育園では毎年、この六月十日の「時の記念日」にちなんで、子どもたちがそれぞれに「時計」を作る工作をしました。 材料は、空き箱や色画用紙。お菓子の箱だったか、何かの包み紙だったか、家から持ち寄ったような気もします。丸く切った画用紙に数字を書き込んで、短い針と長い針をつけて、思い思いの時計をこしらえる。みんなが作るから、出来あがる時計は一つとして同じものがない。針の角度も、数字の並びも、それぞれにいいかげんで、それぞれに誇らしかった。 いま思えば、まだ時計の読み方さえおぼつかない年ごろです。長い針と短い針が何を指しているのか、本当のところはわかっていなかったでしょう。それでも保育園は、この日に「時間って大切なものなんだよ」と、工作という形でそっと教えてくれていたのですね。あの先生たちの心づかいに、五十年も経ってからようやく気づくのですから、私もずいぶんとのんびりしたものです。 そういえば、当時の我が家には、本物の時計がありました。柱にかけられた、縦長で、振り子が左右にゆっくりと揺れるタイプの時計です。文字盤の下で振り子がチクタクと時を刻み、毎正時になると、ボーン♪ ボーン♪……と、低い音で時を打ちました。三時には三回、十時には十回。鳴る数をかぞえれば、まだ文字盤のうまく読めない子どもにも、今が何時なのかが、ちゃんと伝わってきたのです。 思えば、天智天皇が鐘や鼓を打ち鳴らして時を知らせたのと、あの柱時計がボーンと鳴って時刻を告げていたのは、案外、同じことだったのかもしれません。水時計から、保育園児の空き箱の時計、そして柱の振り子時計まで。時を計り、時を告げようとする気持ちだけは、千三百年、ちっとも変わっていないのですね。 黄色い箱の中の、ゆっくりした時間 六月十日は、もうひとつの記念日でもあります。「ミルクキャラメルの日」。 森永製菓がこの日を選んだのには理由があります。一九一三年(大正二年)六月十日、それまでただ「キャラメル」と記して売っていたお菓子に、“ミルク"の二文字を冠して「ミルクキャラメル」として売り出した。創業者の森永太一郎が、西洋菓子になじみのなかった時代に「日本の人々に栄養価の高いおいしいお菓子を」と願って世に出した、森永の原点ともいえる一粒です。発売当初はバラ売りで一粒五厘。翌年には、二十粒入り十銭の、あの携帯用の箱が登場しました。 私が覚えているのは、もちろん大正の話ではありません。あの黄色い箱です。「滋養豊富・風味絶佳」という、子どもにはむずかしい字が並んでいて、けれど中身は文句なしに甘かった。 ただ、正直に打ち明けると、私はいつもミルクキャラメル一筋だったわけではありません。お店の前では、たいてい迷っていました。森永のミルクキャラメルにするか、それとも、グリコのおまけ付きキャラメルにするか。おまけのおもちゃが欲しい日もあれば、ただ甘いものを口にしたい日もある。子どもなりに、毎回それなりの葛藤があったのです。 ところが、不思議なことがひとつ。小学校の遠足の前は、おやつが「三百円以内」と決められていて、その限られた予算で何を買うかは、子どもにとって一大事でした。あれこれ手に取っては戻し、さんざん迷う。——のに、遠足のときだけは、どういうわけか毎回ミルクキャラメルを選んでいたのです。普段はあれだけおまけに心を揺らしていたはずの私が、遠足の朝には、なぜか黄色い箱に手が伸びる。理由は、自分でもよくわかりません(笑)。 今になって思えば、こういうことだったのかもしれません。ミルクキャラメルは、噛まずに舌の上でゆっくり溶かしていけば、一粒で長くもつ。バスに揺られ、野山を歩き、お弁当を広げ……長い長い遠足の一日に、少しずつ取り出して味わうには、ちょうどよかったのでしょう。おまけは手に入れた瞬間に終わってしまうけれど、キャラメルの甘さは、一日かけてゆっくり続いてくれる。あれもまた、時間を味わうお菓子だったのです。 あの黄色い箱は、今もそのままの姿で売られています。久しぶりに一粒、舌の上で溶かしてみると、遠足の朝の気持ちが、ふっとよみがえるかもしれません。 森永 ミルクキャラメル 大箱 149g×5箱あの懐かしい黄色い箱/森永製菓 Amazonで見る › 夜のうちに、時間を飛び越える ── ドリーム号 そして、きょうのもう一本。昭和四十四年(一九六九年)六月十日、東名ハイウェイバスの開業と同時に、夜行高速バス「ドリーム号」が走り出しました。高速道路を走り抜ける、日本で初めての夜行バスです。東京と大阪を、夜のあいだに結んでしまう。当時としては、ずいぶんと夢のある乗り物だったはずです。 この夜行バスが走り出す少し前、昭和四十四年五月に、東名高速道路が全線開通したばかりでした。それまで東京と名古屋・関西を結ぶ大動脈といえば、その五年前に開業した東海道新幹線。ドリーム号は、いわばその新幹線を夜のあいだに補う足として登場したのです。運行開始当初は、東京〜大阪が二往復、東京から名古屋を経て京都へ向かう便が一往復。眠っているうちに目的地へ届けてくれるこのバスは、開業からしばらくのあいだ、日本でいちばん長い距離を走る路線バスでもありました。 少しあとの、昭和五十年ごろの時刻表が残っています。それを見ると、東京から名古屋までのおよそ三百五十キロを、速い便でも五時間半あまりかけて走っていました。運賃はその区間で千九百円ほど、夜行に乗るにはさらに三百円の指定料金が必要だったといいます。今の感覚からすれば、ずいぶんのんびりとした道のりです。それでも、ひと晩を乗り物の中で過ごして遠い街へ向かうという体験そのものが、あのころはまだ、真新しいものだったのでしょう。 昭和四十四年という年は、私にとって少しだけ特別です。私が生まれたのが、この年の四月。つまり私がこの世に出てきて、わずか二ヶ月後に、ドリーム号は東京の夜を初めて出発していたことになります。自分が生まれた年に走り始めたものと聞くと、勝手に親近感がわいてくるのです。 その「同い年」のバスに、私が実際に乗ったのは、ずっとあとのことでした。平成二十二年(二〇一〇年)。長男が小学六年生だった年です。その春と夏、私は息子を連れて、甲子園へ高校野球を観に行きました。その足に選んだのが、夜行のドリーム号だったのです。 東京駅の八重洲南口を、夜の十時ごろ出発する。大阪に着くのは、翌朝の七時ごろ。夜行バスの乗り場には、行き先の違うバスが何台も連なって停まっていて、それぞれの行灯のような行き先表示が、夜の中にぽつぽつと浮かんでいました。これからどこかへ運ばれていく人たちの気配。そのなかに、息子と私もいる。「さあ、息子との旅が始まるぞ」という高揚感で、胸がいっぱいになったのを、今でもよく覚えています。いい思い出です。 考えてみれば、不思議なものです。私が生まれた二ヶ月後に走り出したバスに、四十年あまりが過ぎて、今度は私が自分の息子と並んで揺られている。夜のうちに距離を飛び越える乗り物が、いつのまにか、親子の時間まで運んでくれていた。 令和の今、時間は手のひらの中に いま、時刻を知るのに苦労する人は、もういません。スマートフォンの画面には、いつでも秒まで表示されている。時間は、手のひらの中に常にあります。空き箱で時計を作らなくても、針の読み方を覚えなくても、数字はいつでもそこにある。 それでも、ミルクキャラメルは今も、あの黄色い箱のまま店に並んでいます。夜行バスは全国を縦横に走り、行き先も種類も、私が子どものころには想像もつかなかったほど増えました。時を計る道具は変わっても、一粒を急がず溶かす時間や、夜のうちに遠くへ運ばれていく時間は、きっと今も変わらずそこにある。 わが子が小学生だったあの夜、八重洲のバス乗り場で胸を高鳴らせたのも、もう十数年前のこと。時間というのは、計るそばから、こうして思い出に変わっていくものなのですね。 みなさんにとって、「時間をかけて味わったもの」は、何でしょうか。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。 あわせて読みたい:アルプススタンドの千羽鶴に込められた思いを、親の目線で書きました▼ 千羽鶴に込められた思い――甲子園を目指す高校野球を「親の目線」で見て気づいたこと ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月9日 ── ロックの日に、木曜九時のザ・ベストテンを思い出す | 次の記事:6月11日 ── 入梅。ビニール傘と、列島改造の槌音と ▶

June 10, 2026

6月4日は「むし歯予防デー」── 歯医者さんと駄菓子のあいだで

六月に入って、空気がだんだん重たくなってきました。もうすぐ梅雨ですね。じめじめした季節の入り口に、私がいつも思い出す「数字あそび」があります。 六月四日。「6(む)4(し)」。 そう、きょうは「むし歯予防デー」です。子どものころ、これを学校で教わったときに「うまいこと言うなあ」と妙に感心したのを、いまでもよく覚えています。数字を語呂に変えてしまう、あの感覚。考えてみれば、昭和の子どもは、こういう語呂合わせをやたらと覚えるのが得意でしたよね。 「むし歯予防デー」は、戦争よりも前から 調べてみると、この語呂合わせはずいぶん古い。日本歯科医師会が「6(む)4(し)」にちなんで六月四日を「むし歯予防デー」と定めたのは、なんと昭和三年(一九二八年)のことだそうです。私の生まれるよりも、ずっとずっと前。父や母が生まれるよりも前の話です。 おもしろいのは、戦争のさなかにも、この日が大事にされていたということ。戦時下の東京・後楽園スタジアムで「歯みがき大会」が開かれ、球場がぎっしり埋まるほどの人が集まったという記録が残っています。食べるものも満足にない時代に、それでも「歯を大切に」と人が集まった。そう聞くと、歯というのは、贅沢とは関係のない、生きることそのものに直結した話なのだなと、あらためて思います。 戦後にも、この日はちゃんと受け継がれました。昭和三十年(一九五五年)からは六月四日から十日までを「歯の衛生週間」として、全国の学校で歯の検診が行われるようになります。いまは名前を変えて「歯と口の健康週間」と呼ばれていますが、起点が六月四日であることは、ずっと変わっていません。 体育館に並んだ、あの一日 小学校のころ、六月になると必ず「歯科検診」がありました。みなさんも覚えていませんか。 体育館だったか、保健室の前の廊下だったか。クラスごとにずらりと並んで、順番を待つ。前に進むにつれて、消毒薬のにおいがだんだん濃くなってくる。白衣の歯医者さんが、小さな鏡と細い金具を持って待ちかまえている。口を「あーん」と開けると、先生は私の口の中をのぞきこみながら、横にいる先生に向かって、暗号のような言葉を読み上げていきます。 「上の六番、シー。下の……」 あの「シー」が、つまり「C」、むし歯のことだと知ったのは、もう少し大きくなってからでした。子どもの私は、その記号が何を意味するのか分からないまま、ただ「あ、いま何か悪いことを言われた気がする」と、漠然とした不安だけを抱えて列を出ていったものです。 古代の枝(咬み棒)から現代の歯ブラシへ。人類は何千年もかけて「歯を磨く道具」を進化させてきた。昭和の子どもたちが使っていたのも、この流れの中のひとつだ。(Photo: Stewart Shearer / CC BY-SA 2.0) 歯みがき指導の日もありました。赤い「染め出し液」を歯に塗られて、鏡を見ると、磨き残したところが真っ赤に染まっている。「ほら、こんなに磨けていませんよ」と言われて、自分の歯がこんなに汚れていたのかと、子どもながらにちょっとショックを受ける。あの毒々しい赤色だけは、四十年以上たったいまでも、はっきり目に浮かびます。 それでも、甘いものはやめられなかった なぜ私たちの世代は、あんなにむし歯が多かったのか。理由は、はっきりしています。甘いものが、大好きだったからです。 学校から帰れば、駄菓子屋へ一目散。手のなかの小銭を握りしめて、ガラスケースの前で何を買おうか延々と悩む。ラムネ、あめ玉、よく伸びるガム、紙の上に乗った小さな練りもの、糸を引くようなあの飴……。一つひとつが安いものだから、少ないお小遣いでも、口の中をずっと甘いもので満たしていられた。むし歯にならないほうが、むしろ不思議なくらいです。 色とりどりの駄菓子が並ぶ駄菓子屋。花火や玩具まで売っている。少ない小銭を握りしめて、何を買おうか真剣に悩んだ記憶は、昭和の子ども全員が共有している。(Photo: urawa / CC BY 2.0) 母が仕事に出るとき、テーブルに百円玉を置いていってくれることがありました。短いメモを添えて。あの百円玉の、ずっしりとした手ざわり。あれをどう使うか、子どもなりに真剣に考えたものです。たいていは、甘いものに化けていましたけれどね。 夜になって、母に「歯、磨いたの?」と聞かれる。「うん」と答えながら、本当は磨いていない日もありました。あのころの私に、いまの私が言ってやりたい。「ちゃんと磨いておけよ」と。大人になってから歯医者さんに通うはめになって、はじめて分かることって、ありますよね。 令和の子どもは、むし歯が激減している ここで、ちょっと驚く数字を一つ。 文部科学省が調べている「十二歳の子ども一人あたりの平均むし歯本数」というものがあります。昭和六十二年(一九八七年)には、なんと一人あたり四・九本もありました。十二歳で、すでに約五本。これがまさに、駄菓子に夢中だった私たちの世代の現実です。 ところが、いまはどうでしょう。この数字は年々ぐんぐん減り続けて、令和に入ってからは〇・七本前後にまで下がっています。五本から一本以下へ。これは本当にすごい変化です。 フッ素入りの歯みがき粉が当たり前になったこと、学校や家庭での歯みがき指導が行き届いたこと、おやつとの付き合い方が変わったこと。あの「むし歯予防デー」が、昭和三年から地道に訴え続けてきたことが、令和になってようやく、はっきりと数字になって表れている。そう考えると、なんだか感慨深いものがあります。 親になってみて、思うこと 私の住む東京・葛飾区では、子どもが高校を卒業する三月末まで、保険診療の窓口負担がありません。ゼロ円です。しかも、親の所得による制限もない。こうした行政の支えのおかげで、家庭の経済事情に左右されることなく、子どもたちは安心して歯科医療を受けられます。 むし歯がこれだけ減った背景には、フッ素や歯みがき指導だけでなく、「どの子も等しく治療を受けられる仕組み」が広がったことも、きっと大きな要因の一つなのでしょう。 「八〇二〇(ハチマルニイマル)」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。八十歳になっても自分の歯を二十本残そう、という運動です。子どものころは歯のありがたみなんて、これっぽっちも考えなかった私も、この歳になると、しみじみそう思うようになりました。きょうあたり、久しぶりに歯医者さんの予約でも入れようかな、なんて思いながら、これを書いています。 きょう六月四日。みなさんは、子どものころの「歯」にまつわる記憶、何か残っていますか。 あの赤い染め出し液。歯医者さんのキイーンという音と、独特のにおい。むし歯の紙を親に渡したときの気まずさ。あるいは、駄菓子屋で握りしめた小銭の感触。 よかったら、あなたの昭和の「歯の記憶」を、聞かせてください。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:「世界の盗塁王」福本豊と、すりこぎ棒のバット──昭和の今日は何があった日?(6月3日) | 次の記事:「トキ」という、少し寂しい言葉 ― 6月5日・環境の日に ▶

June 4, 2026