【昭和の今日は何があった日?】5月17日──お母さんが、外に出て働き始めた時代

今日は5月17日。 昭和60年(1985年)のこの日、男女雇用機会均等法が成立した。職場における男女の差別を禁止し、募集、採用、昇給、昇進など多くの面で男女を平等に扱うことを定めた法律だ。 法律の名前だけ聞くと、難しい話のように感じるかもしれない。でも私にとってこの法律は、あの頃の母親の背中と深くつながっている。 「男は仕事、女は家庭」という時代 昭和の日本には、当たり前とされていた空気があった。 「男は仕事、女は家庭」。 女性は学校を卒業して就職しても、結婚したら退職するのが当然という慣例が多くの職場に存在した。当時、女性は就職しても数年で辞めていくのが慣例で、男女は平等には扱われていなかった。多くの企業は男女を分けて賃金管理や労務管理をしており、女性は補助労働者として扱われていたのだ。 「寿退社」という言葉があった。結婚を機に会社を辞めることを、まるでおめでたい卒業のように呼んでいた。女性が働き続けることへの社会の目は、今とはまったく違っていた。 それでも昭和の母親たちは働いていた。家庭を守りながら、子どもを育てながら、パートとして、内職として、様々な形で家計を支えていた。 テーブルの上の100円玉と、母の仕事 少し前の記事に書いた話を、もう一度思い出している。 学校から帰ると、パートに出ていた母の姿はなかった。テーブルの上に「おかえりなさい」という手紙と100円玉が2枚。1枚は私の分、もう1枚は妹の分。 あの頃の母は、何をしていたのだろう。どんな仕事場で、どんな気持ちで働いていたのだろう。子どもだった私には、考えも及ばなかった。 でも今になって思う。昭和の母親がパートとして働くということは、今よりずっと「肩身の狭い」ことだったかもしれない。「母親なのに家を空けて」という目が、社会のどこかにあった時代だ。それでも働いたのは、家族のためだけではなく、自分自身の何かのためでもあったはずだと思う。 スチュワーデス、保母、看護婦──あの呼び名が変わった日 男女雇用機会均等法の成立は、目に見える形でも昭和の風景を変えた。 施行されると、「保母」が「保育士」に、「看護婦」が「看護師」に、「スチュワーデス」が「客室乗務員」などと呼称も変更された。 子どもの頃、テレビのCMに「スチュワーデス」という言葉が出てくると、華やかな憧れの職業として映っていた。「保母さん」という言葉も、幼稚園や保育園の優しい先生の代名詞だった。 その言葉が変わるということは、仕事に対する社会の見方そのものが変わっていくということだった。女性だけの仕事、男性だけの仕事、という区分けが少しずつ溶けていく。昭和という時代の終わりごろに、その変化は静かに始まっていた。 「均等」への道は、遠かった ただ正直に言えば、法律が成立しても、最初は採用や昇進について「禁止」ではなく「努力義務」にとどまっていた。多くの経営者が法制化に強く反対したという背景もあった。 昭和60年の法成立から、実質的な禁止規定へと強化されるまで、さらに月日が必要だった。法律が変わることと、社会が変わることには、タイムラグがある。 それでもあの法律は、確かに何かを変えた。昭和の働く母親たちが、今日という日の積み重ねの上に社会を押し広げていったことを、私はあの100円玉2枚とともに覚えている。 娘たちが生きる時代へ 今、私には子どもが5人いる。そのうちの娘たちが大人になって働く時代は、昭和の母親が生きた時代とはずいぶん違う。 今年の1月、大学受験を控えた娘の合格祈願で湯島天満宮に参拝した話を以前書いた。娘が夢を持って大学に進み、自分のキャリアを考えられる時代。それは昭和60年5月17日に成立した法律が、その後の何十年もかけて少しずつ作ってきた時代でもある。 男女雇用機会均等法という言葉を、娘に説明したことがある。「昔はそんな法律がなかったの?」と娘は少し驚いた顔をした。 その顔を見て、時代が変わったのだと実感した。 おわりに 昭和60年5月17日、一本の法律が成立した。 完璧ではなかった。すぐに世の中が変わったわけでもなかった。でもテーブルの上に100円玉を置いて子どもたちのために働いていた昭和の母親たちの背中が、この法律を少しずつ前に押し進めていったと思う。 あなたのお母さんも、あの時代に何かを背負いながら働いていたのではないだろうか。 今日、そのことを少し思い出してもらえたら嬉しい。

May 16, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月10日──母の日に、カーネーションを渡せなかった話

今日は母の日だ。 5月の第2日曜日。店先にカーネーションが並び、テレビのCMが「お母さんへの感謝を」と呼びかける、毎年やってくるこの日。 今年の母の日は、少し違う気持ちで迎えている。 母が入院しているからだ。 今年88歳になる母は、今、病院のベッドの上にいる。容態は楽観できない。だからこそ今日という日が、いつもより少しだけ重く、そしてあたたかく感じられる。 一人の少女の「ありがとう」から始まった 母の日の始まりは、20世紀初頭のアメリカだ。 1905年5月9日、アメリカのフィラデルフィアに住むアンナ・ジャービスという女性の母が亡くなった。母は生前、南北戦争で傷ついた兵士たちの看護に人生を捧げた人だった。アンナはその母をしのんで教会に白いカーネーションを飾り、「生きているうちに母に感謝を伝える日を作るべきだ」と訴え続けた。 その想いがアメリカ中に広がり、1914年、ウィルソン大統領が5月の第2日曜日を「母の日」として国民の祝日に定めた。 日本には大正時代にキリスト教を通じて伝わり、昭和12年(1937年)に森永製菓が「森永母の日大会」を大々的に開催したことで全国に広まった。そして戦後の昭和24年(1949年)ごろから、5月の第2日曜日が定着した。 一人の少女が亡き母に手向けた白いカーネーションが、海を越えて昭和の子どもたちの手にも届いた。 昭和の子どもと、カーネーション問題 昭和の母の日に、子どもたちを悩ませたことがあった。 カーネーションをどうやって渡すか問題だ。 学校ではこの時期、図工の時間に赤いカーネーションを折り紙や画用紙で作ることが多かった。または近所の花屋で本物を買う。問題はその先だ。 「はい、これ」と無造作に渡せれば苦労はない。でも昭和の子どもにとって、母親に面と向かって「いつもありがとう」と言うのは、気恥ずかしくてたまらないことだった。 テーブルの上にそっと置いておく。気づかれないうちに花瓶に差しておく。そういう作戦を取った子どもは多かったはずだ。母親はそれをわかっていて、わざと気づかないふりをして後で「あら、かわいい」と言ってくれる。その距離感が、昭和の親子の間にはあった。 思えば、照れくさくて言えないことを花が代わりに言ってくれる──それがカーネーションという花の役割だったのかもしれない。 テーブルの上の100円玉と、母の背中 昨日の記事で、こんな話を書いた。 学校から帰ると、パートに出ていた母の姿はない。テーブルの上に「おかえりなさい」という手紙と100円玉が2枚。1枚は私の分、もう1枚は妹の分。 あの頃、母がどんな思いでその100円玉を置いていたか、子どもの私には考えも及ばなかった。ただ嬉しくて、握りしめて飛び出していた。 でも母の日になると、ふと気になった。お母さんは今日も仕事に行くのだろうか。疲れていないだろうか。毎日毎日、子どもたちのために働いて、帰ってきてご飯を作って、洗濯をして。それが当たり前の風景すぎて、当たり前すぎることに気づかなかった。 カーネーションを買いに行ったのは、母の日の朝だった。近所の花屋で赤いカーネーションを1本選んだ。帰ってきた母に、うまく渡せたかどうか、正直あまり覚えていない。たぶん「はい」と差し出して、母が「ありがとう」と言って、それで終わりだったと思う。 でも母は、そのカーネーションをちゃんと花瓶に差して、しばらく飾っていた。 88歳の母へ あれから何十年が経った。 母は妹の最初の出産を機に、妹夫婦と同居するようになった。3人の孫に囲まれた暮らしの中で、妹の子どもたちだけでなく、私の子どもたちも合わせて8人の孫を可愛がってくれた。 昭和の時代に私たち兄妹を育て、平成を生き、令和になっても孫たちの笑顔の中心にいた。そんな母が今年、88歳になる。 今、母は入院している。病室のベッドの上で、今日の母の日を迎えている。容態は、楽観できるものではない。 それでも──いや、だからこそ、今日ははっきりと言いたい。 私たち兄妹を育ててくれて、8人の孫を可愛がってくれて、本当にありがとう。 私はあなたの子どもで、本当に良かった。 照れくさくて昭和の子どもの頃には言えなかった言葉を、57歳になった今、この場所に書いておく。 おわりに 母の日に母親が健在であれば赤いカーネーションを贈る、という習慣がある。アンナ・ジャービスが白いカーネーションから始めた母の日が、日本では赤と白という形に引き継がれた。 今日、赤いカーネーションを贈れる人は、ぜひ贈ってほしい。 照れくさくてもいい。うまく言葉にならなくてもいい。昭和の子どもたちがそうだったように、花がきっと代わりに言ってくれる。 あなたのお母さんの、あの頃の背中を、今日だけ少し思い出してもらえたら嬉しい。

May 9, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月5日──屋根より高い鯉のぼりと、銭湯帰りのコーヒー牛乳

今日は5月5日、こどもの日だ。 ゴールデンウィーク最後の祝日。子どもにとっては「もうすぐ学校が始まる」という一抹の切なさと、それでも「今日はまだ特別な日だ」という気持ちが混在する、不思議な一日だった。 昭和の5月5日には、今では見かけなくなったある光景があった。 空を泳ぐ、大きな鯉のぼりだ。 空が、鯉で埋まっていた 昭和40年代から50年代にかけて、こどもの日が近づくと、日本中の住宅街の空に鯉のぼりが上がった。 大きな真鯉(黒)、その下に緋鯉(赤)、そして小さな子鯉(青)。一家に男の子がいれば、屋根の上に竿を立て、高々と鯉のぼりを掲げるのが当たり前だった。風が吹くたびに鯉のぼりがはためいて、丸く開いた口から風を飲み込んでいく。あの姿は、昭和の5月の空の定番だった。 「♪屋根より高い鯉のぼり」という歌の通り、本当に屋根より高いところに掲げた家が多かった。父親が梯子をかけて竿を立てる姿を、子どもは下から見上げていた。 鯉のぼりの由来は江戸時代に遡る。中国の伝説に「滝を登り切った鯉は竜になれる」というものがあり、それにちなんで「この子も鯉のように、どんな困難も乗り越えて育ってほしい」という親の願いが込められた。でも子どもだった私には、そんな由来はどうでもよかった。あの大きな黒い鯉が空に泳いでいるのを見るだけで、なんとなく特別な気分になれた。それだけで十分だった。 兜と、柏餅と、そして銭湯へ 昭和のこどもの日には、家の中にも決まった景色があった。 床の間や棚の上には兜飾りや五月人形が鎮座していた。黒塗りの台の上に飾られた金色の兜は、子どもの目には圧倒的な存在感があった。触ってはいけないと言われながら、こっそり手を伸ばした記憶がある。 食べ物といえば柏餅。柏の葉で包まれた白いお餅の中に、あんこが入っている。柏の葉は「新しい芽が出るまで古い葉が落ちない」という特徴があり、「子孫繁栄」の縁起を担ぐとされていた。昭和の子どもには縁起よりも、あの独特の葉の香りとモチモチした食感の方が大切だったけれど。 そして夜になると、父か母に手を引かれて、銭湯へ向かった。 あの頃、まだ家にお風呂がない家庭は珍しくなかった。昭和40年代の日本では、内風呂の普及率はまだ6割にも満たなかったという。近所の銭湯が、毎日の生活に当たり前のように溶け込んでいた時代だ。 こどもの日の銭湯には、菖蒲湯が用意されていた。大きな湯船に、細長い菖蒲の葉が何本も浮かんでいる。独特の青くさい香りが、湯気と混じって浴室に漂っていた。菖蒲の強い香りが邪気を払うと言われていたし、「菖蒲(しょうぶ)」が「尚武」「勝負」と同じ読みであることから、男の子の健やかな成長を願う意味もあった。 銭湯のおじさんかおばさんが、湯船に菖蒲をどっさりと入れてくれていた。あの光景は、こどもの日だけの、特別な銭湯の顔だった。 湯上りの、コーヒー牛乳 銭湯から上がった後の記憶が、今も鮮やかに残っている。 体を拭いて着替えて、番台の横の冷蔵ケースの前に立つ。そこに並んでいた瓶入りの飲み物の中から、母が「今日はこどもの日だから」と言って、コーヒー牛乳を買ってくれた。 瓶のふたを開けると、甘い香りがふわっと立ちのぼる。冷たくて、甘くて、ほんのりビターで。あの味は、コーヒー牛乳というよりも「ご褒美」そのものだった。普段はなかなか買ってもらえなかったから、特別感がひとしおだった。 当時の銭湯の定番飲み物といえば、白い牛乳、フルーツ牛乳、そしてコーヒー牛乳の三種類が並んでいた。腰に手を当ててグビグビと飲む、あのスタイルも含めて、銭湯帰りの儀式のようなものだった。 コーヒー牛乳1本、ちょっぴり嬉しかった。そのくらいの小さな幸せが、昭和のこどもの日には確かにあった。 鯉のぼりが空から消えていった それから時代が変わった。 昭和50年代後半になると、住宅街の空を泳ぐ大きな鯉のぼりが、少しずつ減っていった。都市部でマンションや集合住宅が増え、大きな竿を立てられる家が少なくなった。内風呂が普及し、銭湯が一軒また一軒と姿を消していった。瓶入りのコーヒー牛乳も、紙パックやペットボトルに取って代わられた。 鯉のぼりが似合っていたのは、あの時代の暮らしの形そのものだったのかもしれない。庭付きの一軒家、縁側、床の間。毎日歩いて通う近所の銭湯。そういう暮らしが当たり前だったからこそ、鯉のぼりもコーヒー牛乳も、あれほど輝いて見えた。 町の空が変わり、家の形が変わり、暮らしが変わる中で、昭和のこどもの日の風景は、少しずつ遠ざかっていった。 おわりに 5月5日、こどもの日。 空には大きな鯉のぼり。夜には銭湯の菖蒲湯。そして湯上りに、冷たい瓶のコーヒー牛乳。 あれだけのことが、あんなにも嬉しかった。 昭和を生きた私たちにとって、こどもの日はそういう日だったのだと思う。あなたの記憶の中の5月5日には、どんな味や香りが残っているだろうか。

May 4, 2026