昭和58年8月13日──銀行が閉まった土曜日と、「半ドン」という言葉|昭和の今日は何があった日?(8月13日)

昭和58年8月13日。この日は土曜日でした。そしてこの日から、毎月第2土曜日は銀行や証券会社の窓口が閉まることになりました。東京証券取引所の株取引も休みです。日本の金融機関が「土曜日に休む」ということを、初めてやった日でした。 当時、私は中学2年生。14歳の夏です。 銀行が閉まった、最初の土曜日 いまの感覚だと、何が事件なのかわかりにくいと思います。銀行は土日休みで当たり前ではないか、と。 でも昭和58年までは違いました。銀行は土曜日も開いていました。月曜から金曜まではフルに働き、土曜日は午前中だけ営業して閉める。それが普通でした。だから第2土曜日だけでも終日休みにするというのは、当時としては相当に大きな決断だったのです。 いまなら、窓口が閉まっていてもATMがあり、振込も入出金もスマートフォンで済みます。しかし当時は、お金にまつわることの多くが「窓口へ行って人と話す」ことで動いていました。窓口が閉まるというのは、そのままお金が動かせなくなるということです。第2土曜日だけとはいえ、その日に用のあった人は前日までに済ませておかなければならない。休みが増えるというのは、当時それなりに面倒を伴う変化でもあったのだと思います。 しかもこの昭和58年8月13日は、月遅れのお盆の入りでもありました。迎え火をたいて先祖の霊を迎える日です。世の中がいちばん「休みらしい空気」になる日に、銀行のシャッターが初めて土曜日に下りた。並べてみると、偶然にしてはよくできているような気がします。 「半ドン」という言葉 土曜日の午前中だけ働くことを、当時は「半ドン」と呼びました。 この「ドン」は、休日を意味する「どんたく」が縮まったものだそうです。そしてその「どんたく」は、オランダ語で日曜日を意味する「ゾンターク」が江戸時代に日本語のなかへ取り込まれたもの、とされています。博多どんたくの「どんたく」も同じ語源だといいます。江戸時代のオランダ語が、昭和の勤め人と中学生の口から毎週出ていたわけです。言葉というのは、ずいぶん遠くから旅をしてくるものです。 中学2年の、土曜日の午後 学校も半ドンでした。土曜日は午前で授業が終わり、給食もなく、昼前に帰る。 ただし私の場合、それで一日が終わるわけではありませんでした。中学の野球部にいましたから、土曜日は一度家に帰って昼食をとり、それからまた学校へ出直して練習、という流れです。 いま思うと、この「一度帰る」というひと手間が、土曜日という日をよけいに特別なものにしていた気がします。平日ならそのまま部活に入る。日曜なら朝から丸ごと練習の日になる。土曜日だけが、家の食卓を一回はさむのです。昼にいったん家の匂いのする時間があって、そこからまた着替えて出ていく。あの往復が、土曜日の記憶にはくっついています。 世の中では、この年から銀行が第2土曜日に閉まりはじめていました。もちろん14歳の私が、そんなことを気にしていたはずはありません。 なぜ土曜日が休みになったのか きっかけは、外からの声でした。 高度成長を続けた日本に対し、欧米から「日本人は働き過ぎだ」「労働者をあれだけ働かせるのは不公正だ」という批判が強まっていました。国内からも、もっと生活にゆとりを、という声が出はじめます。そこで官公庁が主導する形で土曜日の休日化が動き出し、金融機関などの民間もそれに追随した。その第一歩が、昭和58年8月13日の第2土曜日休業でした。 つまりこの日の休みは、「働く人が勝ち取った休み」というより、「外から言われて日本が重い腰を上げた休み」だったわけです。そのあたりが、いかにも昭和という感じもします。 制度の側もあとから追いついてきます。昭和22年に制定された労働基準法は、1日8時間・1週48時間という体制を40年続けてきました。それが改められ、1週40時間労働が規定されたのは昭和63年4月施行の改正労働基準法から。ただしこれも段階的な移行と猶予期間つきでした。土曜日というのは、法律を一本変えれば消えるようなものではなく、20年近くかけてじりじりと後退していったわけです。 休みが金曜日だった父 うちの父は、飲食店に勤めていました。 飲食店ですから、土曜も日曜も、世の中が休む日ほど忙しい。父の休みは毎週金曜日でした。そして世間が半ドンから週休二日へと移っていくあいだも、父の「毎週金曜日休み」は最後まで変わりませんでした。 だからわが家の食卓に、「週休二日」という言葉が出てきた記憶がありません。土曜日が半日になろうが休みになろうが、うちの父には関係のない話だったのです。家族そろって連続して休めるのは正月の1日と2日だけ。車もなく、子どものころに泊まりの家族旅行をした覚えもありません。 世の中が休み方を変えていくニュースというのは、たいてい「勤め人の休み方」の話です。その外側に、休みが動かない仕事の人たちがずっといた。父はその一人でした。 土曜日は、少しずつ消えていった 第2土曜日から始まった土曜休業は、そこから段階を追って広がっていきます。 昭和61年8月9日、第3土曜日も休業日に加わり、いわゆる「4週6休」になりました。そして平成元年2月4日以降、金融機関はすべての土曜日が休みになります。官公庁の土曜閉庁が始まったのは平成元年1月14日で、こちらもまず第2・第4土曜日から。国家公務員の完全週休二日制は、平成4年5月1日からでした。 学校はもっと後です。全国の国公立の学校で毎月第2土曜日が休業日になったのは平成4年9月から。平成7年4月に月2回、完全な学校週5日制になったのは平成14年4月のことでした。 ここで自分の年表と重ねてみて、あらためて気づいたことがあります。 私は昭和51年4月に小学校へ入り、昭和63年3月に高校を卒業しました。その12年間、土曜日はずっと学校がありました。一度も「土曜が休みの学校生活」を経験していません。土曜休みの学校というものを、私はまったく知らない世代なのです。 平成5年、私は信用金庫に入った そして話には続きがあります。 一年の浪人を経て平成元年に大学へ入り、平成5年に卒業した私が新卒で就職した先は、信用金庫でした。金融機関です。昭和58年8月13日に、日本で最初に土曜日を休みにした業界です。 入ってみれば、土曜日は当然のように休みでした。私が中学2年で野球の練習に出直していたころに始まった第2土曜日の休業は、10年かけて全部の土曜日に広がり、私が社会に出たときにはもう「そういうものだ」という顔をしていたわけです。 ただ、職場の先輩方は違いました。ときどき「半ドン」という言葉を使いながら、昔の土曜日の話をしてくれるのです。午前中だけ窓口を開けて、昼で締めて、そのあとどうしていたか。その口ぶりには、面倒だったという顔と、少し懐かしがる顔が両方ありました。 私はその話を、休みが当たり前になった側の人間として聞いていました。変わり目を挟んで、同じ職場に両方の世代がいたということです。いま振り返ると、あれはなかなか贅沢な昔話を聞かせてもらっていたのだと思います。 曜日のない仕事につくということ いま私は路線バスの運転士をしています。 この仕事に、土日休みという概念はありません。むしろ土曜日は、平日とは別のダイヤで走る日です。平日ダイヤ、土曜ダイヤ、休日ダイヤ。バスの世界では曜日は「休むための区分」ではなく、「走り方を変えるための区分」なのです。 そして実際に走っていると、いまの土曜日の車内は、日曜や祝日とほとんど変わりません。平日とは明らかに別物です。通勤通学の流れがなく、乗ってくる人も、時間帯も、車内の空気も違う。昭和58年に第2土曜日から始まったあの動きは、40年かけて、バスの車内の景色まで完全に作り替えてしまったのだと思います。 半ドンだったころの土曜日の車内は、きっと平日寄りだったはずです。私はその土曜日を運転士としては知りません。中学生として、昼前の道を家に向かって歩いていただけです。 半ドンを知っている、最後のあたり 「半ドン」は、いまではほぼ死語です。 言葉が消えたのは、その言葉が指していたものが消えたからです。土曜日の午前中だけ働くという習慣がなくなれば、それを呼ぶ言葉もいらなくなる。昭和58年8月13日の第2土曜日休業は、その長い消滅の始まりの一日でした。 あの日から40年以上たって、土曜日は完全に休みの日になりました。それは間違いなく良いことだと思います。金曜日にしか休めなかった父の世代を思えば、なおさらです。 ただ、昼前に授業が終わって、一度家に帰って昼飯を食い、また学校へ出直していったあの土曜日を覚えている人間は、だんだん少なくなっていきます。信用金庫の先輩たちが私に「半ドン」の話をしてくれたように、こうして書き残しておくのも役目なのだろうと思っています。 「なぜ日本の会社はこうなっているのか」を、雇用・教育・福祉の歴史からたどった一冊があります。土曜日が20年かけてしか消えなかった理由も、この本を読むと腑に落ちます。新書ですが読みごたえは相当なものです。 日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学(講談社現代新書)小熊英二/講談社。日本型雇用はいつ、なぜできたのか。年功序列も新卒一括採用も長時間労働も、歴史をたどると理由がある。レビュー447件・星4.3の定番書 Amazonで見る › 半ドンの土曜日そのものを写した本はなかなかありませんが、あの頃の家と道具を写真で残した図鑑ならあります。ページをめくっていると、土曜の昼に帰った家の台所が出てきます。 ...

August 13, 2026

8月11日は「きのこの山の日」──昭和50年、里山の名前を持つお菓子が生まれた日|昭和の今日は何があった日?

8月11日は「きのこの山の日」だそうです。 株式会社明治が制定した記念日で、由来がなかなか凝っています。チョコレートの部分を縦に2つ並べると「8」に見える。クラッカーの部分を横に2つ並べると「11」に見える。そこに国民の祝日「山の日」が重なる。だから8月11日、というわけです。 ただし正直に申し上げておくと、この記念日が登録されたのは2016年です。昭和の8月11日にきのこの山をめぐる出来事が何かあったわけではありません。明治自身、山の日の制定に「真っ向から便乗しました」という趣旨のことを言っていたと伝わっています。潔いというか、なんというか。 それでも私がこの日を選んだのは、記念日ではなく主役のほうに用があったからです。 きのこの山が世に出たのは1975年、昭和50年。私が6歳の年です。小学校に上がる前の年に、あのお菓子は生まれていました。そしてその後の十数年で、山ができ、里ができ、そして村がひとつ、地図から消えていきます。 アポロが売れなかったから、きのこが生まれた きのこの山の始まりは、実はまったく別のお菓子の失敗でした。 1969年、明治の大阪工場でアポロの生産が始まります。あの円錐形の、上がピンクで下が茶色の小粒チョコです。ところが当初は売れ行きが振るわなかった。そこで大阪工場の担当者が考えたのが、「この円錐形の生産ラインを、何か別のものに使えないか」ということでした。思いついたのが、円錐のアポロを傘に見立てて、その底面にクッキーの軸を挿す。つまり、きのこの形にしてしまうというアイデアです。 1970年、この試作品が明治の研究所に持ち込まれます。当時のチョコレートといえば板チョコかチョコバーが当たり前で、ポッキーがようやく出始めたという時代です。そこにきのこの形をしたチョコが現れた。反応は賛否両論だったといいます。無理もない話です。 そこから5年かかりました。軸を食べやすくするためにクッキーからクラッカーに変える。焼き方を工夫する。形にかわいらしさを足す。チョコに軸を挿す工程そのものを何度も試す。何百という試作を重ねて、ようやく形になったそうです。 売れ残った生産ラインが動き始めたのは、奇しくも私が生まれた年でした。それが私の6歳の年に、あのお菓子を送り出したことになります。 「きのこの山」という、時代に逆らった名前 商品が固まった後、明治はもうひとつ大きな決断をしています。名前とパッケージです。 当時は暮らしの欧米化が進んでいて、お菓子の世界でもスタイリッシュな欧米風のネーミングとデザインが流行っていました。カタカナで、横文字で、都会的で。そのほうが売れると誰もが思っていた時代です。 ところが明治は逆に振りました。高度経済成長が一段落して安定成長に入ったこの時期、消費者はむしろ自然ののどかさを求めているのではないか、と読んだのです。そこで「郷愁や自然、人間のやさしさといったイメージを表現する親しみやすいネーミング」として選ばれたのが、「きのこの山」でした。パッケージも、当時は菓子に向かないとされていた緑をあえて基調にして、のどかな里山を描いています。 そして1975年、発売。結果は爆発的な大ヒットでした。新発売の菓子の販売記録を塗り替え、大阪工場はラインを増やしてフル稼働させても生産が追いつかない。営業からは納品を催促する電話が鳴りやまなかったそうです。 さて、ここで白状しておかなければなりません。 私が初めてきのこの山を食べたときの記憶が、まったくないのです。 発売の年に6歳ですから、最初の一箱はおそらく小学校に入ってからでしょう。しかし、それがどういう経緯で私の手元に届いたのかが、どうしても思い出せない。誰かにもらったのか、自分でねだったのか、気づいたら家にあったのか。何も出てこないのです。 大ヒット商品というのは、こういうものなのかもしれません。あまりにも当たり前にそこにあったから、「初めて」という区切りが残らない。出会った瞬間がないまま、いつのまにか私の世界の一部になっていた。 覚えているのは、その後のことです。母と買い物に行ったとき、スーパーマーケットの棚の前でおねだりして買ってもらう。あの緑の箱は、私にとってはっきりと特別なお菓子でした。日常的にいつでも食べられるものではなく、買ってもらえた日はうれしい、そういう位置づけのお菓子です。 食べ方も昔から変わっていません。一個をまるごと口に放り込んで、チョコとクラッカーを一緒に噛む。傘だけ先に舐めるとか、軸を残すとか、そういう分解をした覚えがない。あれは一緒に食べてこそのお菓子だと、体が最初から知っていた気がします。 そして今も、私はきのこの山が大好きです。 昭和54年、里ができた。でも「戦争」はまだなかった きのこの山の発売から4年後の1979年、昭和54年。姉妹品の「たけのこの里」が登場します。 きのこの山が軸にクラッカーを使っているのに対して、たけのこの里はクッキー生地。型を整えながら焼く「型焼」という手法で、あの三角の形を作っています。同じ兄弟のようでいて、食感の設計思想がまるで違うわけです。 1979年、私は10歳。小学4年生です。 私は昔からきのこ派でした。理由ははっきりしていて、食感です。たけのこの里のあの「モサッ」とした感じよりも、きのこの山の「カリッ」としたクラッカーのほうが好きだった。それだけです。そしてこの好みは、今に至るまで一度も変わっていません。 ただ、ひとつ正直に書いておきたいことがあります。 私の家では、きのこかたけのこかで兄妹が言い合いになったことは、一度もありませんでした。 今でこそ「きのこたけのこ戦争」などと呼ばれて、令和になってもネットで定期的に燃え上がっていますが、昭和のわが家にそんな戦線はありませんでした。私はきのこが好き、それだけの話です。相手を論破する必要も、陣営に属する必要もなかった。 考えてみれば、あの2つがライバルとして大々的に売り出されたのは平成に入ってからのことです。明治が「きのこ・たけのこ総選挙」で両者の対立をアピールしたのは2001年。売上が落ち込んでいたブランドを立て直すための一手でした。それが当たって、今の「戦争」につながっていきます。 つまり、私たち昭和の子どもは戦争をしていたわけではなかった。ただ好きなほうを食べていただけです。あとから戦争の名前がついた、というのが正確なところなのだろうと思います。 いまは1つの袋に両方入ったものまで売られています。争わせておいて、最後は仲良く箱に詰める。商売というのは、たいしたものです。 明治 きのこの山・たけのこの里 ビッグシェアパック 36袋(各18袋)食べきりサイズの小袋で、きのこ18・たけのこ18の同数アソート。家族で「どっち派か」を決着させるにはちょうどいい構成です Amazonで見る › そして、私が知らないうちに消えた村がある ここからが、今日いちばん書きたかった話です。 きのこの山があり、たけのこの里がある。それなら次は何か。明治が出した答えが、1987年、昭和62年に発売された「すぎのこ村」でした。 細長いビスケットに、クラッシュアーモンドを混ぜたミルクチョコレートをまとわせて、杉の木に見立てたお菓子です。パッケージにはやはりのどかな村の風景が描かれ、背景の山には小さな杉がびっしり生えている。当時の商品紹介では「きのこの山」「たけのこの里」に続くチョコスナックの傑作誕生、とまで言われていたそうです。価格は150円。CMにも、きのこ・たけのこと一緒に登場しました。 発売当初はヒットしました。しかし、その後は出荷が伸びず、1988年、昭和63年に販売終了。実質わずか1年ほどの命でした。明治の担当者は後年、終売の理由をこう説明しています。一時はヒットしたが、きのこ・たけのこに比べて出荷が減少したため、と。 山は残り、里は残り、村だけが消えた。 ──と、まるで見てきたように書いていますが、これも白状しなければなりません。 私は、すぎのこ村というお菓子を知りませんでした。 今回この記事を書くために調べていて、初めてその存在を知ったのです。1987年に発売され、1988年に消えた。この2年間、私は何をしていたか。1987年は高校3年生で、7月23日に神宮第二球場で高校野球が終わり、そこから先の進路も決めきれずにぼんやりしていた年です。翌1988年は浪人していました。大学に入ったのは、そのさらに翌年になります。 18歳と19歳。チョコスナックの新商品を追いかける年齢ではなくなっていた、ということなのでしょう。子どもの頃はあれほど棚の前で立ち止まっていたのに、いつのまにか、お菓子の棚は私の視界から外れていた。 お菓子は、消えるときに何のお別れもしてくれません。閉店の貼り紙も出なければ、最終日の行列もない。それどころか私の場合は、生まれたことにすら気づいていなかった。誕生も終売も、まるごと視界の外で起こっていたわけです。 ちなみにすぎのこ村はその後、1992年から「ラッキーミニアーモンド」と名前を変えて2008年まで売られ、2005年には一度だけ復刻もされています。名を変えて20年近く。それを生き延びたと呼ぶのか、消えたと呼ぶのかは、なんとも言えないところです。 後づけの記念日が、いちばん大事なものを指していた 最初に書いた通り、きのこの山の日は2016年にできた後づけの記念日です。それでも、結果的にいちばん大事なところを指していると思うのです。 昭和50年に明治が賭けたのは、味でも技術でもなく、「山」と「里」という言葉が持つ懐かしさでした。欧米風の名前が売れると誰もが思っていた時代に、あえて日本の里山を選んだ。そして半世紀後、その商品は国民の祝日「山の日」に便乗できるほどの存在になっていた。便乗できるということは、その名前が定着しているということです。緑の箱を選んだ判断が、50年かけて祝日と握手したわけです。 私は今、路線バスの運転士をしています。毎日同じ道を走っていると、沿線の店が変わっていくのがよく分かります。開いた店、閉じた店。気づいたら別の看板になっている場所。すぎのこ村の話を読んでいて、そういう景色のことを思い出しました。 残るものと、消えるもの。そして、消えたことにすら気づかれないもの。その差は、案外紙一重なのかもしれません。 みなさんは、きのこ派でしたか。たけのこ派でしたか。そして、すぎのこ村のことをご存じでしたか。私は今回、まったく知りませんでした。もし覚えていらっしゃる方がいたら、それはかなり貴重な記憶だと思います。 ...

August 11, 2026

道の日──ブロックの破片で書いたホームベースと、いま毎日走っている道のこと|昭和の今日は何があった日?(8月10日)

八月の道は、いちばん道らしい 八月の道は、暑い。 当たり前のことを書いてどうするのかと自分でも思うのですが、この季節の道には、ほかの月にはない存在感があります。アスファルトから立ちのぼる熱、遠くの景色がわずかに揺れて見えるあの現象、白い横断歩道が目に痛いほど光る昼下がり。冬の道は静かに横たわっているだけですが、八月の道はこちらに向かって何かを主張してきます。 そして8月10日は「道の日」です。 私はこの記念日を、大人になってから、それも仕事に就いてから知りました。子どもの頃の私にとって、道はあまりに当たり前で、記念日をつけるようなものだとは思ってもみませんでした。 昭和61年、道に「日」ができた 「道の日」を制定したのは、建設省——現在の国土交通省——の道路局です。制定は1986年、昭和61年でした。 なぜ8月10日なのか。さかのぼると大正時代に行き着きます。1920年(大正9年)のこの日、日本で最初の近代的な道路整備計画である「第一次道路改良計画」が決定したのです。前年に旧道路法が制定され、明治期の道路路線をいったん廃止して国道を定め直した。その受け皿として、本格的な整備計画が動き出したのがこの日でした。今に続く日本の道づくりのスタート地点、と説明されることがあります。 制定の趣旨には、こんな言い方が使われています。道路は国民生活に欠くことのできない基本的な社会資本なのに、あまりに身近な存在であるために、その重要性が見過ごされがちである——だから改めて関心を持ってほしい、と。 見過ごされがちである。 この一文が、私にはやけに刺さります。子どもの頃の私は、まさに道を完全に見過ごしていました。見過ごしていたどころではありません。そこを自分の縄張りだと思って、毎日転がり回っていたのです。 ちなみに8月は、まるまる一か月が「道路ふれあい月間」でもあります。もとは7月10日から8月9日までの期間だったものが、昭和44年——私が生まれた年です——に、夏休みの啓発活動をやりやすくするという理由で8月1日から31日に変更されました。 制定と同じ年には「日本の道100選」の選定も始まっています。各都道府県が推薦した道路の中から、1986年度に53本、翌1987年に51本、合わせて104本。さらに昭和63年には、制定時に作られたハンミョウのキャンペーンキャラクターに「こっちだヨウ平」という愛称がつきました。ハンミョウは人の前を飛んで先を案内するように見えるので「道教え」とも呼ばれる虫だそうで、なるほど道案内役にはうってつけです。 昭和61年、私は高校2年生でした。「道の日」ができたというニュースの記憶は、まったくありません。あの夏の私が向き合っていたのは道路行政ではなく、野球部の練習だったはずです。 私の最初の運動場は、幅四メートルの道だった 私にとって最初の「道」は、家の前の路地でした。 幅は四メートルほど。車が一台通れば人はよけなければならない、あの寸法です。そこが私たちの野球場でした。いわゆる路地野球です。 ホームベースはいつも決まっていた場所に、ブロックの破片で道路に直接書いていました。それが薄くなるたびに、何度も何度もブロックの破片をガリガリと道路にこすりつけて書き直す。今考えると、道路に落書きをしていたわけですが、当時はそれが球場整備でした。 ほかの各ベースについても、「4メートル路地球場」のいつもの位置が決まっていました。「1塁は玄関の前のこの位置ね」「今日の2塁はこれね」と言い合って、ベースに見立てたちょうどいい大きさの、捨ててあったガラクタを拾ってきて置く。誰かが図面を引いたわけでもないのに、球場の設計は毎回きっちり再現されるのです。 バットはいわゆる「プラバット」、ボールは「カラーボール」でした。 ルールは、その道の形に合わせて育ちました。道の両サイドに建つ家の壁に当たって跳ね返ってきたボールを、地面につく前にキャッチしたらアウト。屋根の上に上がったボールも、地面に落ちる前にキャッチすればアウト。——プロ野球の中継を見ながら育った子どもたちが、自分たちの球場の壁と屋根を、そのままルールブックに書き足していったわけです。 そして、試合はしょっちゅう中断しました。気が付いた人が「車!」「自転車!」と叫ぶ。そこで全員が止まって、道の端に寄る。通り過ぎたら、また何ごともなかったように再開する。 いま思えば、あれは当たり前の話です。あそこは球場ではなく、道路だったのですから。 叱られた記憶も、いろいろあります。家の敷地内に打ち込んでしまったボールを、無断で入り込んで取りに行き、その家の人に見つかって叱られたことは何度もありました。打ったボールでガラスを割ってしまったときは母親に叱られましたし、車にボールを当てて叱られたこともあります。 つまり私は、道を借りて遊んでいたのに、その自覚がまるでなかったのです。舗装のわずかな傾き、マンホールの位置、どの家の塀が跳ね返りやすいか——そういうことは自分の家の間取り以上に正確に把握していたのに、その道が誰かのつくったものだという発想だけが、すっぽり抜け落ちていました。 いまの子どもは路地で野球をしません。それでも、公園や河川敷でプラバットを振る楽しさは変わりません。孫と外に出るときに一組あると、あの頃と同じ音がします。 KAISER キッズ ベースボールセット KW-543(バット・グローブ・ボール)対象6歳以上。カラーバットと8インチグローブ、やわらかいPUボールの3点セット。公園や河川敷で、孫と一組。当たっても痛くないので気兼ねなく振れます Amazonで見る › 同じ道を、いまも歩いている 私はいまも、子どもの頃に育った町で暮らしています。だから当時通っていた道を、今も普通に使っています。 これが、ときどき妙なことを起こします。 何気なく、道路の脇に立っている木を見て、「この木に子どもの頃上ったな」と思う。当時から変わっていないものを見た瞬間に、五十数年前の記憶に一瞬で飛ぶことがあるのです。 不思議なもので、思い出そうとして思い出すのではありません。歩いていて、目に入って、勝手に飛ぶ。道そのものは舗装も直され、建物も変わっているのに、たまたま残っていた一本の木が、当時の高さの感覚まで連れて戻ってくる。 道というのは、記憶の保管場所でもあるのだと思います。日記も写真も残していないのに、あの路地の傾きは体が覚えている。それは私が偉いのではなくて、道が変わらずにそこにあってくれたからです。 いま、私は道で働いている それから五十年近くたって、私は路線バスの運転士をしています。 つまり、道が職場になりました。 仕事で毎日、決まった道を走っています。すると、「道」がいたるところで思いのほか傷んでいることに気が付きます。同じ場所を毎日通るからこそ、少しずつの変化が見える。ここの継ぎ目が広がってきたな、あの白線が薄くなってきたな、と。 そして、誰かがそれを見つけては補修をしてくれていることも知ります。ある日通ったら、傷んでいた場所がきれいになっている。誰がいつ直したのか、私は知りません。それでも、確実に誰かが見つけて、直してくれている。 普通に生活している中では、あまり気にしていなかったことでした。子どもの頃の私にいたっては、路地の舗装をやり直す工事があっても「うるさいな」くらいにしか思っていなかったはずです。 現在の私は、道を使わせていただいて仕事をさせていただいています。だから、道を守ってくださっている方々に、感謝の気持ちがわいてきます。 「道の日」の制定趣旨にあった、あまりに身近な存在であるために重要性が見過ごされがちであるという言葉に戻ります。あれは、たぶん整備する側から見た実感なのでしょう。直しても、誰も気づかない。気づかれないことが、いちばんうまくいっている状態でもある。 でも、毎日同じ道を走る仕事に就いて、私はようやく気づく側にまわりました。四十年遅れの、ずいぶん時間のかかった理解です。 ブロックの破片で書いたホームベースの上を 昭和61年8月10日に「道の日」ができたとき、17歳の私はそんな記念日の存在すら知りませんでした。あの頃の私にとって道とは、走るもの、渡るもの、そしてかつてプラバットを振った場所でした。 いまの私にとって道とは、お客さまを乗せて進む場所です。同じものを見ているはずなのに、意味がすっかり入れ替わってしまいました。 それでも、住宅街の狭い区間でハンドルを切っているとき、幅四メートルの感覚が体の奥から出てくることがあります。この幅は、私がいちばんよく知っている幅です。ブロックの破片でホームベースを書き直していた子どもの勘が、まだどこかに残っているような気がするのです。 あのホームベースは、とっくに消えています。舗装も何度か直されたでしょう。それでも、あの位置は今でも指させます。 みなさんにとって、子どもの頃の「道」はどんな場所でしたか。路地でしょうか、田んぼのあいだの農道でしょうか、それとも団地のあいだの通路でしょうか。よかったら教えてください。 路地野球のほかにも、メンコ、ベーゴマ、ゴム跳び、缶けり。あの頃、道と空き地でやっていたことを一冊にまとめた本があります。ページをめくっていると、名前を忘れていた遊びのほうから戻ってきます。 ヤマケイ文庫 こども遊び大全遠藤ケイ/山と溪谷社。メンコ、ベーゴマ、馬乗り、ちゃんばらごっこ、ゴム跳び……町内の路地や裏の空き地で繰り広げられた遊びを、道具の作り方まで含めて記録した一冊 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

August 10, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月6日──8時15分のテレビと、記憶違いの『はだしのゲン』

夏休みの朝、テレビをつけると広島が映っていた 夏休みは、朝が遅い。 学校がないぶん、起きる時間もだらしなくなります。それでも8月6日だけは、なぜか少し早く目が覚めていたような気がします。 居間に降りて、なんとなくテレビをつける。すると画面には、広島が映っていました。 ニュースのなかで流れる、平和記念式典の様子です。式典を最初からじっくり見ていた、というわけではありません。ニュース番組を通して、平和記念公園に集まった人々の姿や、黙とうする様子を見ていた——そういう記憶です。 夏休みのテレビの朝は、基本的に明るいものでした。アニメの再放送があり、夏の高校野球の予告があり、水着の映像があり。そのなかで8月6日の朝だけは、画面の色がすっと沈む。 午前8時15分。広島ではサイレンが鳴り、街全体が黙とうに入ります。 けれど、東京の下町にサイレンは鳴りません。窓の外では蝉が鳴き、京成線が普段どおりに走っていく。テレビの画面の中だけが静まりかえっていて、こちら側は何も変わらない。あの温度差を、子どもながらに妙だと感じていた気がします。 子どもだった私は、それをうまく言葉にできませんでした。ただ「今日はそういう日なんだ」と思って、黙って見ていた。それだけです。 葛飾の小学校には、夏休み中の登校日がありました。平和についての話も、たぶんあったのだと思います。ただ、正直に言うと覚えていません。8月6日という日は、私にとって「学校で教わったこと」よりも先に、「朝のテレビで見たもの」だったのです。 昭和46年8月6日──現職の総理大臣が、はじめて広島に立った その広島の式典に、日本の現職の総理大臣がはじめて出席したのは、1971年(昭和46年)8月6日のことでした。佐藤栄作首相です。 原爆が投下されたのが1945年(昭和20年)。つまり26年間、その席に総理大臣は座っていなかったことになります。 このとき私は2歳4か月。当然、記憶はありません。ただ、あとから考えると不思議な話です。あれほど大きな出来事の式典に、四半世紀のあいだ現職の総理が足を運んでいなかった。昭和40年代の後半になって、ようやく「国として、あの日の前に立つ」という形が整いはじめたということでもあります。 佐藤栄作という人は、1967年(昭和42年)に「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則を国会で表明した総理でもあります。そして1971年6月には沖縄返還協定に調印し、翌年の本土復帰へと進んでいく。その夏に、はじめて広島の慰霊碑の前に立った。3年後の1974年には、ノーベル平和賞を受けています。 その評価をここで論じるつもりはありません。ただ、私がテレビで見ていたあの朝の風景は、そう古くから続いていたものではなかった。昭和46年からあとの、まだ新しい風景だったのです。 私が生まれてから、ようやく整った形。それを私は、当たり前の夏の景色として見ていました。 「24時間テレビで観た」という、私の記憶 さて、ここからが本題です。 8月6日といえば、私にはもうひとつ、はっきりした記憶があります。 アニメ映画の『はだしのゲン』を、テレビで観たという記憶です。 細かな場面までははっきり思い出せないのですが、画面に映し出される出来事があまりにも重く、子ども心に「怖い」と感じたことは強く残っています。見ているのがつらくなり、思わず画面から目を背けてしまった場面もありました。 それでも、途中でテレビを消すことはできず、結局は最後まで観ました。怖いからこそ、この先に何が起こるのかを確かめなければならないような気持ちがあったのかもしれません。観終わったあとも、すぐに普段の夏休みの気分へ戻ることはできず、しばらく重たい感覚が残っていたように思います。 これだけのものが体に残っているのに、肝心の「いつ、どこで」だけが、あやふやなのです。 そして、その記憶にはご丁寧に注釈までついていました。「たしか、夏の恒例の『24時間テレビ』のなかで放送されていたはずだ」と。長時間のチャリティー番組の、どこかの時間帯。あの独特の、少し疲れたような夏の空気のなかで、私はゲンを観た。そう思い込んでいたのです。 調べてみたら、あの枠は手塚治虫の指定席だった 念のため、調べてみました。そうしたら、話が合わなくなったのです。 『24時間テレビ「愛は地球を救う」』が始まったのは1978年(昭和53年)。日本テレビの開局25周年記念でした。私が小学3年生の夏です。 この番組には、名物のアニメスペシャル枠がありました。第1弾が『100万年地球の旅 バンダーブック』。1978年8月27日の午前、国産初の「テレビ2時間アニメ」として放送されました。以降もほぼ毎年、この枠にはアニメが並びました。 問題は、その中身です。この枠は、ほとんど手塚治虫作品の指定席でした。例外は、竹宮惠子さん原作の『アンドロメダ・ストーリーズ』(1982年)と、最後の年になった1990年の『それいけ!アンパンマン』くらい。 つまり、『はだしのゲン』は一度も流れていないのです。 私の記憶は、成り立ちませんでした。 では、私はどこであれを観たのか アニメ映画『はだしのゲン』が公開されたのは、1983年(昭和58年)7月。私が中学2年の夏です。 制作はマッドハウス、監督は真崎守さん、音楽は羽田健太郎さん、ナレーションは『ジェットストリーム』でおなじみの城達也さん。主人公ゲンの声は、オーディションで選ばれた広島市出身の小学生でした。原作者の中沢啓治さんが、漫画では描ききれないものを映像にしたいと、私財まで投じてつくった作品です。 そしてこの映画には、大きな特徴がありました。公開にあたって、全国の市民団体や自治体、学校が協力する「1000か所 草の根上映運動」が展開されたのです。映画館ではなく、公民館や学校の体育館。そういう場所で観た人が、たいへん多い作品でした。 地方局が夏に放送した記録も残っています。たとえば富山テレビは、1985年8月6日の夕方4時から、この作品を放送しています。 ついでに言えば、原作の漫画も変わった道を歩いた作品です。1973年に『週刊少年ジャンプ』で連載が始まったあと、市民団体の雑誌、政党の理論誌、日教組の機関誌へと掲載の場を転々としています。それでいて、私たちの世代にとって『はだしのゲン』は、学校の図書室に必ず置いてある本でした。誰が買ったわけでもないのに、気がつけばそこにある。 そう考えると、私が観たのは、学校か地域の上映会だったのかもしれません。あるいは、どこかの局の夏の特別枠だったのかもしれません。 正直に書きます。もう、わかりません。 なぜ記憶は、ふたつを結びつけたのか ただ、なぜ記憶が「24時間テレビ」と結びついたのかは、なんとなく想像がつきます。 当時の子どもにとって、「夏に、テレビの前で真面目な気持ちにさせられる時間」という引き出しは、そう多くなかった。8月6日の朝のニュース。終戦記念日の特集。そして、24時間テレビ。だいたいこの三つくらいです。 同じ引き出しに入っていたものが、40年以上のあいだに、勝手にひとつに溶け合ってしまったのでしょう。あの映像の重さと、夏の長時間番組のあの空気が、記憶のなかでくっついた。「夏」「テレビ」「まじめな気持ち」という三つのタグが一致してしまえば、あとは記憶のほうが勝手に配線をつなぎます。 しかも24時間テレビのアニメ枠は、当時の子どもにとって、きわめて印象の強い時間帯でした。そこへ「夏に観た、重たいアニメ」という記憶を放り込めば、収まりのいい棚はひとつしかありません。 けれど、それだけではない気もしています。 実を言えば、私のなかでこのふたつは、もともと地続きでした。8月6日の朝にテレビニュースで広島の式典を見た記憶と、『はだしのゲン』を観たときの怖さは、自分の中でどこか結びついています。当時は戦争や原爆について十分に理解できていたわけではありません。それでも、これは昔の遠い出来事として簡単に片づけてはいけないものなのだという感覚だけは、子どもなりに受け取っていたのだと思います。 だとすれば、記憶が番組名を取り違えたことは、たいした失敗ではないのかもしれません。事実関係の配線は、たしかに間違えた。けれど、結びつけるべきものは、ちゃんと結びついていた。 そして8月6日は、「記憶を残すこと」そのものが問われる日でもあります。当事者の記憶が薄れていくなかで、私のような下町の子どもにも届くように、どうやって残すのか。 そのために作られたのが、あのアニメでした。だから中沢啓治さんは、映画館の上映だけでは足りないと考えて、体育館でも公民館でもいいから観てくれと、全国に映写機を送り出したのです。 私が「どこで観たか」を忘れてしまったことは、ある意味で、その運動が成功した証でもあるのかもしれません。場所を忘れるほど当たり前に、あの映像は子どもたちのところへ届いていた。 令和の8月6日に いまの私の家には、地上波のテレビがありません。大きなモニターで、動画や配信を観るだけです。 だから8月6日の朝、なんとなくテレビをつけたら広島が映っていた——ということは、もう起こりません。観ようと思って、自分で選ばないかぎり、あの日の映像は目の前に現れないのです。 昭和の子どもだった私は、選んでいませんでした。ただテレビをつけたら、そこに広島があった。黙とうがあった。逃げ場がなかったとも言えるし、だからこそ体に残ったとも言えます。 もう一度、あのアニメを観てみようかと思っています。今度は、いつどこで観たかを、ちゃんと覚えていられるように。 みなさんは、8月6日の朝をどんなふうに過ごしていましたか。そして『はだしのゲン』を、どこで、いくつのときに観ましたか。 あの夏に読んだ、あるいは観たきりになっている方へ。中沢啓治さんの原作漫画は、いまも文庫版で全巻そろいます。私たちの世代にとっては学校の図書室にあった本ですが、大人になってから読み返すと、子どものときには受け取れていなかったものが、いくつも見えてきます。お子さんやお孫さんの本棚に置いておく一組としても。 はだしのゲン(全7巻セット)中公文庫コミック版中沢啓治。1973年に『週刊少年ジャンプ』で連載開始。作者自身の被爆体験をもとに描かれ、世代を超えて読み継がれてきた全7巻。文庫版でそろえやすい Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...

August 6, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月5日──「はんぶんこ」は、しなかった。パピコが生まれた昭和49年と、溶ける前に飲み干した夏

8月5日は「パピコの日」 8月5日と書いて、「パピ(8)コ(5)」と読む。 グリコが定めた「パピコの日」です。語呂合わせだけではありません。パピコ1本の形が数字の「8」に似ていること、2本をパキッと分けたときの姿が漢数字の「八」に見えること。そして何より、2本1組のパピコを二人で「はんぶんこ(5)」してほしい——という願いが、この日付には込められています。 大切な人と分け合う日。 そういう趣旨だそうです。とても良い記念日だと思います。思うのですが、私はこの記念日の趣旨を、子どもの頃に一度も実践したことがありません。 一度もです。それどころか、実践する気すらなかった。今日はその話を書きます。 「2本で1つ」は、分け合うために生まれた パピコが世に出たのは、1974年(昭和49年)のことでした。私は5歳。まだ小学校にも上がっていません。 当時発売されたのは「パピコ<乳酸ミルク>」。いまの<ホワイトサワー>の原型にあたる白いアイスです。子どもが好きな乳酸飲料を氷菓にできないか、という発想から生まれたもので、パッケージは縦型。水玉模様と女の子の絵が描かれた、いかにも昭和らしい爽やかな意匠でした。 面白いのは、あの「2本で1つ」という形が、最初から狙って作られたわけではなかったということです。 グリコには当時、「グリコWソーダアイス」という2つに分けられるバーアイスがありました。仲の良い友達同士で分け合う、いわばコミュニケーションの道具として買われることを想定した商品です。パピコも企画当初は1本で検討していたそうですが、どうにも「らしさ」が出ない。そこでWソーダにならって2本1組にしてみたところ、急に楽しさが加わり、支持を得て発売にこぎつけた——そういう経緯だったといいます。 つまりパピコのあの形は、はじめから「誰かと分け合うこと」を前提に設計されているのです。50年以上たった今も、その形はほとんど変わっていません。 幼児向けのはずが、買っていたのは中学生だった 片手で持って、手軽に吸える。その形状から、パピコは当初、幼児向けの商品として売り出されました。 ところが蓋を開けてみると、意外にも中学生がたくさん買っていることが分かった。そこでグリコは1977年(昭和52年)、姉妹品として<チョココーヒー>を発売します。コーヒーにチョコレートを加えた、当時ほかにない味。これが大ヒットしました。 1977年、私は小学2年生です。 そして「中学生がやたらとパピコを買っている」と言われていた時期に中学生になったのが、まさに私の世代でした。企業が想定した客層と、実際に手を伸ばした子どもたちが、少しずれていた。そのズレがあったからこそチョココーヒーが生まれたわけで、なんだか他人事とは思えない話です。 私が食べていたのも、コーヒー系でした。 商店の冷凍ケースと、家の冷凍庫 私にとって、パピコは「商店の冷凍ケースで買うもの」でした。 家に買い置きがあったことはありません。うちの冷凍庫に常備されていたのは、自宅で凍らせる、俗に言うチュウチュウアイスのほうです。安い。とにかく安い。夏のあいだ、母はあれをまとめて買ってきては凍らせていました。 だから我が家では、アイスに二種類ありました。 いつでも冷凍庫にある、ケ(日常)のアイス。そして商店まで出かけていって、冷凍ケースの重い蓋を開けて選ぶ、ハレのアイス。パピコは、間違いなく後者です。同じ「氷菓」であっても、家の冷凍庫から取り出すものと、お金を出して買うものとでは、口に入れたときの意味がまるで違いました。 家のアイスは、いつでもある。だから、ありがたくない。買ったアイスは、そこにしかない。だから急いで食べる。 いま考えると、あの二種類の使い分けは、そのまま昭和の家計の話でもあったのだと思います。たくさん買って安く凍らせておくものと、たまに一つだけ買うもの。子どもだった私はそんなことを考えもせず、ただ「今日はいいほうが食べられる」と喜んでいただけでしたが。 パッケージが横を向いた年 パピコの歴史をたどっていて、ひとつ手が止まった年があります。 1987年(昭和62年)。この年、パピコのパッケージは縦型から横型に変わりました。1970年代から80年代にかけてコンビニが急成長し、コンビニの店頭に並ぶことを想定した変更だったといいます。同時に、発売以来ずっと描かれていた女の子の絵柄がなくなり、「papico」のロゴが大きく表示されるようになりました。 1987年。私は高校3年生です。 つまり私が最後の夏の大会に向けてグラウンドにいたころ、パピコは商店の冷凍ケースから、コンビニの棚のほうを向きはじめていた。あの女の子の絵は、私が高校を出るのとほとんど同じころに、静かに消えていたことになります。 もちろん当時の私は、そんなことにはまるで気づいていません。気づくはずもない。子どもの世界が終わっていくのと歩調を合わせるように、駄菓子屋や商店の冷凍ケースを前提にしていた商品が、次の時代の売り場に合わせて姿を変えていた——それを知ったのは、57歳になった今日でした。 「はんぶんこ」は、しなかった さて、記念日の趣旨に戻ります。 私はパピコを、誰かとはんぶんこした記憶がありません。妹とも、友達とも。買ったら2本とも自分のものでした。 そうなると、あの形は「楽しさ」ではなく「試練」に変わります。 2本あるということは、1本目を吸っているあいだ、2本目はずっと手の中で温まり続けているということです。溶けてしまう前に食べきらなければならない。だからパピコを食べるときは、スピードが大切でした。 とくに問題になるのが、2本目の吸い口です。溶けてやわらかくなってしまうと、これが実に切り取りづらい。しっかり凍っているうちならスパッといくものが、ぐにゃりとして言うことを聞かなくなる。分け合う相手がいれば、2本は同時に開封されて、それぞれの手の中で最短時間のうちに消えていったはずです。一人で持ってしまうと、2本目は必ず「待たされる」。 分け合うために生まれた形が、分け合わない子どもの手の中では、制限時間つきの競技になっていたわけです。 噛みちぎり派 もうひとつ、告白しておくことがあります。 私は「噛みちぎり派」でした。 いまのパピコには、先端に引っ張るためのリングがついています。「リング式イージーオープン」という正式名称まであるそうですが、あれが登場したのは2004年のこと。発売当初のパピコに、リングはありませんでした。 つまり昭和のパピコは、自力で開けるしかなかったのです。手でちぎるか、噛みちぎるか。私は迷わず後者でした。歯で先端をくわえて、ぐいっとやる。行儀が良いとは言えませんが、あれが一番速い。溶ける前に食べきらなければならない子どもにとって、開封は一秒でも短いほうが良かったのです。 ついでに言えば、当時のパピコは今よりずっと硬いものでした。パピコが「なめらか食感」になったのは1998年(平成10年)のリニューアルからで、それ以前は押し出すのにも力が要りました。噛みちぎった先から、硬い氷の塊をぐいぐい押し上げる。あの手ごたえこそが、私の記憶にあるパピコです。 いまのパピコを食べると、正直なところ「やわらかいな」と思います。おいしいのです。おいしいのですが、あの、下から親指で押し上げてもなかなか出てこない、じれったいような硬さが、どこにも残っていない。 硬かったから急いだのか、急いでいたから硬く感じたのか。いまとなっては、もう確かめようがありません。 令和の8月5日に 「パピコの日」が正式に制定されたのは、2019年のことでした。昭和どころか、平成もほとんど終わったころの話です。 パピコの累計販売個数は、40億個を超えているといいます。ただしこの集計は1982年からのものだそうです。1982年——私が中学に上がった年です。 ということは、私が小学生のころに商店の冷凍ケースの前でかがみ込み、噛みちぎって飲み干したパピコは、あの40億個には入っていないことになります。数えられていない。誰の記録にも残っていない。 けれど、私は覚えています。統計に入っていないアイスの味を、50年近くたっても覚えている。記念日というのは、たぶんそういうもののためにあるのだと思います。 そして今日という日は、「大切な人と分け合う日」ということになっている。 半世紀近く遅れて、私はようやくこの記念日の趣旨を実践できる立場にいます。今日あたり2本買ってきて、1本を誰かに渡してみるのも悪くありません。もっとも、渡した瞬間に「そっちのほうが多い」と言われる可能性は、大いにあるのですが。 みなさんは、パピコを「はんぶんこ」する側でしたか。それとも、私と同じく2本とも自分で抱え込む側でしたか。 記念日なので、久しぶりに買ってきました。私にとってのパピコは、やはり<チョココーヒー>です。昭和52年に「中学生がよく買っている」という発見から生まれた味が、半世紀近くたった今も定番として棚に並んでいる——それだけで、なんだか嬉しくなります。冷凍庫に何本かストックしておけば、この夏はいつでも「はんぶんこ」ができます。 江崎グリコ パピコ チョココーヒー 160ml×6袋1977年(昭和52年)発売のロングセラー。コーヒーにチョコを合わせた、あの味。2本1組だから、誰かと分け合うのも、ひとりで2本抱えるのも自由です Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【8月4日】同い年の黄門さまとは、夕方に出会った | 次の記事:【8月6日】8時15分のテレビと、記憶違いの『はだしのゲン』 ▶ ...

August 5, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月3日──トラと基板とひまわりと。少年に届かなかった三つのニュース

三つ並んで、三つとも空白だった 8月3日という日付を調べていて、少し困ったことになりました。 昭和の出来事が、きれいに三つ出てきたのです。昭和51年のTK-80発売、昭和54年の神野寺トラ脱走事件、昭和59年のひまわり3号打ち上げ。しかも自分の年齢を当てはめてみると、順に小学1年生、小学4年生、中学3年生。少年時代がちょうど三段に切り取られている。 これはいい記事が書けそうだ、と思いました。 思ったのですが、正直に申し上げます。私は、この三つをどれ一つとして覚えていません。 「あの夏か」という手応えが、まったく立ち上がってこない。三つ並んで、三つとも空白でした。 ただ、書きながら気づいたことがあります。同じ「覚えていない」でも、覚えていない理由がそれぞれ違うのです。早すぎて届かなかったもの。近いのに届かなかったもの。近すぎて、届いていることにさえ気づかなかったもの。 その三つの距離の話を、今日は書いてみます。 昭和54年、隣の県でトラが逃げた まずは真ん中の、いちばん派手な話から。 昭和54年8月2日の夜、千葉県君津市の鹿野山にある神野寺という寺で、飼われていたベンガルトラ3頭が檻から逃げ出しました。関東最古とも伝えられる古刹の境内に、当時は観光用の動物園が併設されていて、十二支にちなんだ動物たちが飼われていたのだそうです。 3頭のうち1頭はすぐに戻ってきましたが、生後1年ほどのオスとメスの2頭が行方不明になりました。体長はおよそ1.5メートル、体重は100キロ前後。まだ子どもとはいえ、山に放たれたトラです。 寺からの通報を受けた千葉県警が現地対策本部を設置したのが、翌3日の未明でした。警察官、消防団、猟友会。総勢およそ500人が山に入り、周辺の住民には外出禁止令が出されます。夏休みの真っ最中で、寺の周辺には観光客や合宿中の学生も滞在していました。近くのマザー牧場で予定されていた野外コンサートも中止になっています。 メスは4日の朝に射殺されました。ここで話が複雑になります。全国から「射殺するな」「かわいそうだ」という抗議が殺到し、寺の住職までが射殺という判断を疑問視する発言をした。これに猟友会が激怒して、捜索は一時中断してしまいます。 残るオスは、そこから山中を逃げ続けました。決着がついたのは28日。近隣の民家の飼い犬がトラに襲われて死んでいるのが見つかり、その日のうちに射殺されて、27日間の騒動はようやく終わりました。 日本中がひと夏、山に潜む1頭のトラを追いかけていたわけです。連日ニュースになったはずですし、テレビの前で息を呑んだ子どもも大勢いたはずです。 なのに、私にはその記憶がない。 なぜだろうと考えて、地図を見て、腑に落ちました。君津は、たしかに隣の県です。距離でいえば東京の西のはずれより近いくらいかもしれません。でも当時のわが家に車はなく、父は休みらしい休みがない人で、家族で泊まりがけの旅行に出た記憶も一度もない。房総というのは、私にとって「行ったことのない土地」でした。 行ったことのない土地は、地図の上でどれだけ近くても、遠いのです。10歳の私にとって、鹿野山は月の裏側と大差なかったのだと思います。 昭和51年、8万8500円の基板 次は、いちばん古い話。 昭和51年8月3日、日本電気――今のNECが、TK-80という製品を発売しました。「Training Kit」の頭文字を取った名前のとおり、これは完成品ではありません。ビニール袋に入った部品と、組み立て説明書と、回路図。買った人が自分でハンダごてを握って、一枚の基板の上に組み上げる。そういう代物でした。 価格は8万8500円。中途半端な数字に見えますが、これには理由があって、当時の企業で係長や課長が自分の判断で決裁できる金額の上限が10万円だったからだ、と伝えられています。技術者が上司に相談せずに買える値段。それが8万8500円でした。 そもそも売る側も、これが売れるとは思っていませんでした。マイクロプロセッサという新しい部品を売り込もうにも、客先を回って説明しても理解してもらえない。ならば技術者に触って覚えてもらおう、という販売促進のための教材だったのです。月に200台も出れば上出来、という見込みでした。 ふたを開けたら、月に2000台売れました。 しかも買ったのは想定していた企業の技術者だけではなく、学生や、経営者や、ただの物好きたちでした。秋葉原のラジオ会館に開設されたサポート窓口には人が集まり、そこからパソコンという文化が立ち上がっていく。日本のマイコンブームは、この一枚の基板から始まったといわれています。 このとき、私は7歳。小学1年生の夏休みです。 覚えていないのは当然だ、と胸を張って言えます。だってこれは、大人ですら誰も知らなかった出来事なのですから。売っている本人たちが月200台と踏んでいたものが、どうして下町の小学1年生に届くでしょうか。 ニュースが子どもに届かなかったのではなく、ニュースそのものがまだ存在していなかった。トラの話とは、まるで種類の違う「遠さ」です。 昭和59年、天気予報の裏側が打ち上がった 三つめ。昭和59年8月3日、種子島宇宙センターからN-IIロケット6号機が飛び立ちました。積んでいたのは静止気象衛星「ひまわり3号」です。 ここで少しおかしな話があります。この打ち上げ、本来の予定より2日遅れました。理由は、台風7号の接近です。 台風を見張るために飛ばす衛星が、台風に足止めされていた。昭和の夏らしいというか、なんとも人間くさい話だと思います。 ひまわり3号は、この年の秋から本格的な運用に入りました。地球の雲の画像を1日に何度も送ってきて、それがそのまま夕方のテレビの天気予報に流れる。私たちが「明日は雨か」と口にするとき、その根拠は宇宙から届いていたわけです。 このとき、私は15歳。中学3年生でした。 そして三つのなかで、この打ち上げを覚えていないことが、いちばん自分でも意外でした。トラや基板と違って、ひまわりの成果は毎日目に入っていたはずだからです。テレビをつければ、白い渦がぐるぐると回っている。あの映像を見ていない日のほうが少なかったでしょう。 ひまわりの初号機が上がったのは昭和52年です。私が小学2年生のときですから、物心ついてからこちら、雲の写真が映る天気予報しか知らずに育ったことになります。3号はその三代目。世代交代が起きていたことにも、当然ながらまるで気づいていませんでした。 つまり私は、恩恵だけを受け取って、その出どころに一度も関心を向けなかったということになります。近すぎて、意識の対象にすらならなかった。空気を覚えていないのと同じことです。 遠すぎて届かないものと、近すぎて見えないもの。人間が取りこぼすものには、どうやら両側があるらしいと、この歳になって思います。 同じ日付、同じ会社 ここまで書いてきて、ひとつ気づいたことがあります。 TK-80をつくったのは日本電気です。そしてひまわり3号を開発・製造したのも、日本電気でした。 8年の隔たりを挟んで、同じ8月3日に、同じ会社が、一方では8万8500円の裸の基板を、一方では宇宙に浮かべる気象衛星を世に出している。片方は日本のパソコン文化の出発点になり、片方は毎日の天気予報を支えた。 昭和という時代の底力みたいなものが、この符合には少しだけ透けて見える気がします。 そして今、私はその基板の子孫にあたる機械でこの文章を書き、朝はその衛星の子孫が撮った雲を見て一日の見通しを立てている。覚えていなかった二つの出来事が、いつのまにか私の生活そのものになっていた。 ...

August 3, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月2日──道路が笑顔で埋まった日。銀座の80万人と、高砂の路地球場

車道の真ん中を、堂々と歩く 道路の真ん中を歩く。あれは何度やっても、少しだけ悪いことをしているような、妙にわくわくする感覚があります。いつもは白い線の内側にいなければいけない場所に、堂々と立っている。あの高揚は、大人になっても変わりません。 その感覚が東京で初めて公式に許されたのが、1970年(昭和45年)8月2日でした。銀座、新宿、池袋、浅草。この4か所で、東京都内初の歩行者天国が実施されたのです。このとき私は1歳4か月。当然ながら記憶はありませんが、今回調べていて、なぜ道路を人間に返さなければならなかったのかを知り、少し息を呑みました。 「道路が笑顔で埋まった」 その日の人出は、4か所あわせておよそ80万人。 翌8月3日の東京新聞は、朝刊の1面トップでこの日を伝えました。見出しは「道路が笑顔で埋まった」。当時の写真を見ると、銀座通りは本当に人・人・人で埋め尽くされています。日傘、半袖のワイシャツ、子どもの手を引く母親。そのすべてが、いつもは車が占領しているはずのアスファルトの上に立っている。 言い出したのは、当時の東京都知事・美濃部亮吉さんでした。「車から人間へ」。この一言に、あの時代の東京が抱えていたものが全部詰まっています。 なぜ、道路を人間に返す必要があったのか 1970年は、日本の交通事故死者数が過去最悪を記録した年でした。その数、1万6,765人。1年で、です。あまりの多さに、当時これは「交通戦争」と呼ばれました。日清戦争の戦死者数を上回る勢いで人が死んでいく、という意味です。しかもそのうち15歳以下の子どもが12.5パーセント。8人に1人が子どもでした。 そしてもうひとつ、歩行者天国のわずか2週間前の出来事があります。 1970年7月18日、東京都杉並区の東京立正高校で、体育の授業を受けていた生徒43人が次々と目やのどの痛みを訴え、病院に運ばれました。日本で初めて確認された、光化学スモッグの被害です。この日、同じ症状を訴えた人は都内だけで5,208人。原因は、自動車や工場から出る排気ガスが強い紫外線を浴びて化学反応を起こしたことでした。 体育の授業中に、高校生が空気で倒れる。そんな夏の直後に、東京は道路から車を追い出したのです。歩行者天国というのんびりした響きの裏に、これだけ切実な事情がありました。 道路は、もともと遊び場だった もっとも、道路を人に開放する試みはこれが最初ではありません。1958年(昭和33年)には神田の東紺屋町で、日曜と祝日に道路を柵で仕切って子どもたちの遊び場として提供する「遊戯道路」が設けられ、後に都内へ広がっていきました。 「遊戯道路」という言葉が、私はとても好きです。道路は遊ぶところだ、と大人が認めていた。子どもが道路で遊ぶのは当たり前で、だから車のほうに遠慮してもらう。そういう順番だったのです。 そして、その順番が生きていた場所を、私はよく知っています。 高砂の「路地球場」 高砂で過ごした子ども時代を思い返すと、いちばん印象に残っているのは、やはり「路地野球」です。私たちにとって道路は、単なる通り道ではなく、毎日のように集まる遊び場であり、野球場そのものでした。 もちろん幹線道路ではありません。遊んでいたのは幅4メートルほどの細い路地で、車が頻繁に通るような場所ではなく、近所の人が行き来する程度の静かな道でした。そこに数人、多い日には十数人もの子どもたちが集まり、二つのチームに分かれて試合をしていました。使うのは柔らかいビニール製のボールとプラスチックのバット。みんな思い思いに好きなプロ野球チームの帽子をかぶり、本物のプロ野球選手になったような気分でプレーしていたものです。 グラウンドづくりも子どもたちの仕事でした。どこから拾ってきたのか、ブロック塀の破片で道路にホームベースや塁の位置を書き、毎日試合をしていたので、その路地にはいつもベースの跡が残っていました。誰に教わるでもなく、みんなで自然に「球場」を作り上げていたのです。 路地で野球をする以上、本物の球場のようにはいきません。道の両側には民家が並び、打球は塀や壁に当たって思わぬ方向へ跳ね返ります。だからこそ独自のルールが次々と生まれました。塀に当たって跳ね返ったボールをノーバウンドで捕ればアウト。前方の家の庭まで打ち込めばホームラン。路地の形そのものが、球場のフェンスやスタンドの役割を果たしていたような感覚でした。 さらに面白かったのは、路地ごとにルールが違っていたことです。近所のあちこちに「路地球場」があり、別の町内の友達に誘われて遊びに行くと、その場所ならではのルールがある。まるで違う球場へ遠征するような気分になったものです。 中でも忘れられないのが、「かみなりおやじ」と呼ばれていた家です。その家にボールを打ち込むと、もしご主人に気づかれたら大目玉。だからその家に打ち込んだ瞬間、「即チェンジ!」という特別ルールがありました。ホームランでもアウトでもなく、とにかく攻守交代です。子どもたちは笑いながらも、その家だけは本気で避けようとしていました。今思えば、近所の大人たちとの距離が近かった時代ならではの、微笑ましいルールだったように思います。 もちろん道路ですから、人や車が通れば試合は一時中断です。「車!」「人来た!」と誰かが声を上げると、みんな一斉にプレーを止め、通り過ぎるのを待ってから何事もなかったように再開しました。当時は今ほど交通量も多くなく、子どもたちも自然と周囲に気を配りながら遊んでいました。 今では道路で野球をする光景を見ることはほとんどありません。しかし昭和のあの頃、私たちにとって路地は最高の野球場であり、毎日が公式戦のような真剣勝負の舞台でした。道幅わずか数メートルの小さな「球場」に、子どもたちの工夫と笑い声、そして野球への夢がぎっしり詰まっていたのです。 銀座は憧れの都会、上野は普段着の都会 歩行者天国そのものの記憶も、ひとつあります。 子どもの頃、歩行者天国といえば、何度か銀座へ連れて行ってもらった記憶があります。父は仕事で休日も家を空けることが多かったので、一緒に出かけるのは母と妹、そして私の三人でした。 当時の銀座は、私にとってまさに「特別な都会」でした。テレビや雑誌で見るような華やかな街で、大人がおしゃれをして歩く場所。実際に歩行者天国を歩いてみても、どこか自分が場違いなところへ来てしまったような感覚がありました。人の多さや洗練された街並みに圧倒され、わくわくする反面、なぜか落ち着かず、少し疲れてしまったことを覚えています。 そして帰り道、上野に立ち寄ると、不思議なくらい気持ちがほっとしました。「やっぱり上野くらいがちょうどいいな」「ここが自分にとって落ち着く都会なんだ」と感じた、その時の感覚は今でも印象に残っています。 私にとって本当に身近だった歩行者天国は、銀座ではなく上野中央通りでした。高砂から京成線一本、乗り換えもなく行けて、家族で買い物や食事に出かけるにはちょうどいい距離です。百貨店やアメ横があり、公園や動物園、美術館もある。見るものがたくさんあって、それでいて下町らしい親しみやすさも残っている。背伸びをしなくても楽しめる街だったのです。 銀座が「憧れの都会」だとすれば、上野は「普段着の都会」。そんな違いを、子どもながらに感じていたように思います。だからこそ上野では、歩行者天国を歩いていても緊張することはなく、人混みの中にいてもどこか安心感がありました。 高砂で育った私にとって、銀座は「東京を代表する特別な街」、上野は「自分たち下町の延長線上にある、一番身近な都会」でした。 実は、一本の道だった ところが今回、調べていて驚いたことがあります。 1973年(昭和48年)6月10日、上野から銀座まで5.5キロにわたる、当時「世界一長い」と言われた歩行者天国が実現していたのです。上野広小路にこれだけの人出があったのは、関東大震災のとき、昭和5年の海と空の博覧会に次いで三度目のことだったといいます。 つまり、私が場違いだと感じた銀座と、ほっとした上野は、同じ中央通りの南の端と北の端だったわけです。車を締め出されたアスファルトは、ずっと一本につながっていた。あの居心地の悪さと安心感の差は、道が違ったからではなく、同じ道のどちら側に立っているかの違いだったと思うと、少し可笑しくなります。 80万人と、十数人 こうして並べてみると、面白いことに気づきます。 銀座には80万人が車道にあふれ、高砂の路地には十数人が集まってブロック塀の破片でベースを描いていた。片方は都知事が号令をかけた一大イベントで、もう片方は誰の許可も得ていない勝手な占領です。けれど、やっていることは同じでした。アスファルトの上に、車ではなく人が立つ。銀座の80万人は日曜の数時間だけそれをやり、私たちは毎日やっていたわけです。 「車!」の一声でみんなが道の端に寄る。あれは、道路を借りている側の作法でした。歩行者天国が標識と警察官の力で実現していたものを、路地の子どもたちは声と目配りだけで成立させていたのかもしれません。 令和のいま 銀座の歩行者天国は、いまも続いています。土曜・日曜と祝日、中央通りから車が消えて、人が真ん中を歩く。あの日から56年、あの光景はまだ生きています。一方、5.5キロの「世界一長い歩行者天国」のほうは、神田のあたりで途切れ、上野までつながることはなくなりました。 交通事故の死者数は、2021年には2,636人まで減りました。1970年の1万6,765人の、およそ6分の1です。ガードレール、歩道橋、横断歩道。あの年に必死で整備が始まったものが、半世紀かけてこれだけの差を生みました。 その代わりに、路地から子どもの声が消えました。安全と引き換えに何かを手放した、と言うつもりはありません。1万6,765人という数字を知ってしまうと、あの時代がよかったとは、とても言えないからです。ただ、ブロック塀の破片で描いたベースの跡が、雨で消えるまで路地に残っていたこと。あれだけは覚えておきたいと思っています。 みなさんは、子どものころ道路で何をして遊んでいましたか。あるいは、歩行者天国の思い出はありますか。よかったら教えてください。 いまの子どもは、さすがに路地では野球ができません。でも公園や庭先でなら、あの頃と同じことができます。柔らかいカラーバットとボール、それにグローブがひとそろいになったセットです。当たっても痛くない素材なので、小さなお子さんやお孫さんの「はじめての野球」にちょうどいい。ブロック塀のかわりに、おじいちゃんがピッチャーをやってあげてください。 野球3種セット(カラーバット/やわらかボール/子供用グローブ)当たっても痛くないやわらか素材の入門セット。バット・ボール・グローブが揃うので、公園や庭先ですぐに遊べる。孫との初めてのキャッチボールにも Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

August 2, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月30日──沖縄の車が右から左へ、一夜で入れ替わった日

今日は7月30日。夏の日差しが、いよいよ本気になってくる頃です。 正直に告白します。私はこの日にあった出来事を、まったく覚えていません。 1978年(昭和53年)のこの日、私は小学3年生。9歳です。9歳といえば、記憶にしっかり残っていておかしくない年齢です。運動会のこと、夏休みのこと、あの頃見ていたテレビ番組のことなら、いくらでも思い出せます。それなのに、この日のことだけは、頭の中が真っ白なのです。 でもそれは、私が忘れっぽいからではなかったのかもしれません。調べていくうちに、そう思うようになりました。この日、東京から遠く離れた沖縄で、世界にも例のない大事業が行われていたのです。 覚えていない、という不思議 1978年7月30日、午前6時。沖縄県じゅうの車が、一夜にして右側通行から左側通行へと切り替わりました。 実施された日付にちなんで「730(ナナサンマル)」と呼ばれるこの出来事は、いま振り返れば、日本の交通史に残る大事件です。それなのに、当時9歳だった私の記憶には、かけらも残っていません。 なぜだろう、と考えてみました。 私が育ったのは、東京・葛飾の高砂。京成高砂駅のすぐそばの、下町でした。我が家に車はありませんでした。父は週に6日働いていて、家族で遠くへ出かけることもほとんどない暮らしです。「車が右から左になる」というニュースは、車を運転しない子どもにとって、あまりにも遠い世界の話だったのだと思います。 そもそも「沖縄」という場所自体が、当時の私にはずいぶん遠かった。飛行機に乗ったこともなければ、家族旅行の記憶もない少年にとって、沖縄は地図の上の、南のほうにある名前でしかありませんでした。 実際、この記事を書くにあたって記憶をたどってみても、「沖縄」にまつわる思い出は、私の中から何ひとつ出てきませんでした。よほど縁がなかったのでしょう。あの夏、私は確かにどこかで9歳の毎日を過ごしていたはずなのに、沖縄で起きていた歴史的な一夜とは、まるで別の世界に生きていたようです。 だから、この記事は少し特別です。いつもは自分の記憶をたどって書いていますが、今日は違います。私自身が、この出来事を今あらためて知りながら、みなさんと一緒に驚いていく——そんな記事になります。 一夜で、島がひっくり返った そもそも、なぜ沖縄だけが右側通行だったのでしょうか。 沖縄は戦後の27年近く、アメリカの統治下にありました。車はアメリカと同じ右側通行。日本に復帰したのは1972年(昭和47年)5月15日ですが、そのあとも右側通行は続きました。一つの国では通行方法を一つに統一する——そう定めた国際条約があるにもかかわらず、道路も、標識も、人々の運転の習慣も、一気にひっくり返すことなど簡単にはできません。結局、日本に戻ってからも約6年間、沖縄は「日本なのに車は右」という状態が続いたのです。 その積年の宿題を、たった一晩で片づけたのが「730」でした。 7月29日の午後10時。緊急車両をのぞくすべての車の通行が禁止され、県内一斉にサイレンが鳴り響きました。それを合図に、変更作業が始まります。翌30日の午前6時まで、わずか8時間の勝負でした。 動員された作業員は約800人、車両は約300台。かかった費用は約19億円。標識を付け替え、信号を切り替え、道路に描かれた白線を引き直し、ガードレールの向きまで直していく。気の遠くなるような作業を、真夜中の8時間に詰め込んだのです。 この短時間を可能にしたのが、世界で初めて採用された「カバーアンドテープ方式」でした。あらかじめ左側通行用の標識や信号を設置しておき、それをカバーで覆って隠しておく。当日はそのカバーを外すだけ。道路の白線も、左側通行用のものを先に描いてから黒いテープで覆っておき、当日バーナーでテープを焼き剥がす。考案した久高弘さんの名を取って「久高方式」とも呼ばれています。 さらにこの数日前には台風8号が沖縄に接近していて、信号機や大型標識のカバーが先に吹き飛ばされてしまうという一幕もありました。まさに、天気とも時間とも戦った一夜だったのです。 もっとも、夜が明けてからが本当の勝負でした。長年しみついた右側通行の癖は、ある朝を境にそう簡単には抜けません。切り替え直後は各地で接触事故が相次ぎ、那覇などの市街地では、しばらく交通マヒが続いたといいます。頭ではわかっていても、体が覚えているものはすぐには変えられない。島じゅうの人が、その戸惑いを一緒にくぐり抜けたのです。 沖縄の言葉で、アメリカ統治の時代を「アメリカ世(ゆー)」、日本復帰後を「大和世(やまとゆー)」と言うそうです。「730」は、目に見える形での復帰の総仕上げでした。人々にとっては、単なる交通ルールの変更ではなかったのです。 そのとき、バスはどうなったのか ここからが、私がいちばん驚いた話です。 車が右側通行から左側通行に変わると、いちばん困るのは、実はバスなのです。 考えてみてください。右側通行の国のバスは、乗り降りするドアが車体の右側についています。運転席は左。ところが左側通行になると、お客さんは道路の左側の歩道から乗り降りするので、ドアは左になければいけない。運転席も右に移さなければならない。つまり、それまで走っていたバスは、一台残らず使えなくなってしまうのです。 当時、沖縄島にあった左ハンドル・右ドアのバスは、およそ1,200台。「729車(ナナニイキュウしゃ)」と呼ばれるこれらの車両を、たった一晩で右ハンドル・左ドアに置き換えなければなりませんでした。 全部を改造している時間はありません。そこで、右ハンドルの新車を900台あまり一気に投入し、さらに160台あまりを改造して間に合わせました。このとき導入されたバスを、いまでも「730車(ナナサンマルしゃ)」と呼びます。あまりに大量だったので、メーカーも各社で分担が決められました。琉球バスは日産ディーゼルと日野、那覇交通はいすゞ、東陽バスは日野、沖縄バスは三菱ふそう、というように。 作業当日の段取りも、聞けば聞くほど鮮やかです。 新しい730車は、事前に旧米軍基地の跡地に集結させておく。7月29日、それまでのバス(729車)が最後の運行を終えると同時に、運賃箱や両替用の小銭を抜き取って、そのまま基地跡地に格納。入れ替わりに、パトカーの先導で730車が各営業所へと回送されていきます。車庫では、路線別・ダイヤ別にバスがきれいに並べられ、両替金が積み込まれていく——。 一晩のあいだに、島じゅうのバスが、そっくり別の車両に入れ替わったのです。 私は今、路線バスの運転士として毎日ハンドルを握っています。だから、この話は他人事とは思えません。 バスというのは、一台走らせるだけでも、始業点検をして、運賃箱を確認し、忘れ物がないかを見て、ダイヤどおりに出庫させるまでに、たくさんの人の手がかかっています。営業所では何十台ものバスが、それぞれ決められた順番で動いています。 それなのに、沖縄では、そのすべてを一晩で入れ替えたというのです。車両だけではありません。運賃箱も、小銭も、行先表示も、担当する路線も、翌朝には何事もなかったかのように走り始めなければならない。現場を知る者としては、「本当にそんなことができたのか」と思ってしまうほどの大仕事です。 もし自分がその現場にいたら、一睡もできなかったでしょう。どこか一つでも段取りを間違えれば、翌朝の路線はたちまち混乱してしまいます。それをほとんど混乱なくやり遂げた先人たちの準備力とチームワークには、ただ驚くばかりです。私にとって730は、交通ルールが変わった日というだけではなく、日本のバス業界が成し遂げた、まさに奇跡の一夜だったのだと感じています。 令和に残った、二台のバス あれから、47年が経ちました。 大量に投入された730車も、時とともに古くなり、新しいバスに置き換えられて、一台また一台と姿を消していきました。そして今、当時の姿のまま沖縄に残っている730バスは、沖縄バスと東陽バスが持つ、たった2台だけになりました。記念すべき日には、この2台が右側通行時代を再現して走ることもあるそうです。 私たちが当たり前だと思っている「車は左」という光景。それは、日本のどこでも最初から当たり前だったわけではありませんでした。少なくとも沖縄では、47年前のあの一夜に、800人の手と19億円と、900台を超える新しいバスによって、人の手で作られたものだったのです。 私が毎日握っているハンドル。何百回と曲がってきた左側の車線。乗り降りするお客さんが、当たり前のように左のドアから乗ってくること。そのすべてが、誰かの膨大な準備と苦労の上に成り立っている。そう思うと、いつもの見慣れた景色が、少し違って見えてきます。 おわりに 7月30日。私にとっては、記憶が真っ白な一日でした。 でも、覚えていないということは、知らなくていいということではありませんでした。9歳の私には遠すぎた沖縄の一夜を、50年近く経って、バスのハンドルを握る立場になってから、ようやく知ることができた。そう思うと、この「記憶にない一日」も、私にとって意味のある一日になった気がします。 みなさんは、「730」を覚えていますか。沖縄で暮らしていた方なら、あの日の混乱や興奮を、はっきりと覚えているかもしれません。私のように本土にいた方は、そもそもニュースになっていたかどうかも、記憶にないのではないでしょうか。同じ夏の同じ一日でも、立っている場所によって、こんなにも見え方が違う。それもまた、昭和という時代の面白さなのだと思います。 730を成し遂げた沖縄のバスは、今も個性豊かに島を走っています。現存する730車をはじめ、路線バスで巡る沖縄の魅力を一冊にまとめたガイドブックがこちら。バス好きにはもちろん、「レンタカー以外の沖縄旅」を考えている方にもおすすめです。いつか私も、あの2台の730車に会いに行きたいと思っています。 沖縄の路線バス おでかけガイドブック[第4版]室井昌也・谷田貝哲。路線バスで巡る沖縄の観光ガイド決定版。バス会社各社の紹介から名所へのアクセスまで、バス旅の魅力が詰まった一冊 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

July 30, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月29日──17年ぶりに、夏の夜空が帰ってきた

今日は7月29日。七月もいよいよ終わりに近づき、夏の暑さがいちばん濃くなる頃です。 昭和の夏を思い出すとき、まっさきに浮かぶもののひとつが、花火です。夕暮れの空がだんだんと藍色に沈んでいって、遠くのほうで「ドン」と腹に響く音がする。少し遅れて、夜空に大きな光の花が咲く。あの音と光は、下町に育った者にとって、夏そのものと分かちがたく結びついています。 昭和53年(1978年)の7月29日、その花火をめぐる大きなできごとがありました。長いあいだ途絶えていた両国の花火が、「隅田川花火大会」と名前を変えて、17年ぶりに夜空へ帰ってきたのです。 17年ぶりの、復活だった 隅田川の花火の歴史は、驚くほど古いものです。 さかのぼること江戸時代、享保18年(1733年)。前の年に大飢饉と疫病が江戸を襲い、多くの人が命を落としました。その死者を供養し、悪い病を追い払うことを願って、八代将軍・徳川吉宗が両国橋のたもとで水神祭を営み、川開きの日に花火を打ち上げた——これが、両国の川開き花火の始まりだと伝えられています。じつに300年近くも昔のことです。 そもそも「川開き」とは、その年の夏、隅田川での舟遊びや納涼が許される初日のこと。江戸の人々にとっては、待ちに待った夏の幕開けの合図でした。両国橋のあたりには涼み舟がびっしりと浮かび、川岸には屋台や見世物が立ち並ぶ。その夜空を彩る花火こそが、夏の到来を告げるいちばんの主役だったのです。 やがて花火職人のあいだに、「鍵屋」と、そこから分かれた「玉屋」という二つの名門が生まれました。見物人が夜空を見上げて「たまや〜」「かぎや〜」と声をかける、あの掛け声も、このころに生まれたものです。とりわけ人気を集めたのは玉屋のほうで、見事な花火が上がると、江戸っ子たちは惜しみなく「たまや〜」と声を張り上げたといいます。こうして両国の川開きは、多少の中断をはさみながらも、江戸から東京へと、夏の一大行事として受け継がれていきました。 ところが、その伝統がぷつりと途切れます。昭和36年(1961年)を最後に、両国の花火は打ち上げられなくなってしまったのです。理由のひとつは、川べりにあふれる車と、ふくれあがる見物客をさばききれなくなった交通事情。そしてもうひとつが、隅田川そのものの汚れでした。高度経済成長のただ中、工場排水や生活排水が流れ込み、川の水はどす黒く濁って、悪臭を放つほどになっていたのです。花火を映すはずの川面は、とても「涼」を感じられる状態ではありませんでした。 こうして、両国の夏から花火が消えました。以来17年ものあいだ、隅田川の夜空は静かなままでした。その間に生まれた子どもたち——昭和44年生まれの私も、その一人です——は、両国の花火というものを一度も見ないまま育っていったのです。 再び夜空を取り戻すまでには、17年という歳月がかかりました。下水道の整備が進み、汚れきっていた川の水も少しずつ息を吹き返して、ようやく機が熟したのが昭和53年です。かつての両国橋周辺は交通量が増えすぎていたため、会場を少し上流へと移し、名前も「隅田川花火大会」と改めました。桜橋から言問橋のあいだ(第一会場)と、駒形橋から厩橋のあいだ(第二会場)、二つの会場で花火を競い合う——今に続くあの形が、このとき生まれたのです。 昭和53年7月29日。17年ぶりに、隅田川の夜空に光の花が咲いたのです。 実に250年近い歴史を持つ夏の風物詩が、長い空白を経て帰ってきた。その復活は新聞やテレビでも大きく取り上げられ、東京の下町に暮らす人々にとっては、待ちに待った知らせだったにちがいありません。 正直に言えば、私の「花火」は、隅田川ではない ここまで書いておいて、正直に打ち明けます。 「花火」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、じつは、あの華やかな隅田川花火大会ではありません。 もちろん、小学3、4年生の頃だったでしょうか、母と妹と私の3人で浅草へ出かけた記憶はあります。でも残っているのは、夜空いっぱいに咲く大輪の花ではなく、押し寄せる人の波に揉まれながら、ただひたすら歩き続けたという記憶です(笑)。どこかに腰を下ろして、ゆっくり花火を見上げたという思い出ではないのが、少しだけ残念でもあります。 今にして思えば、あの日の人混みこそが、復活してまもない隅田川花火大会そのものだったのかもしれません。何十万もの人が、同じ夜空を目指して押し寄せる。その大きな渦のなかに、幼い私も、母と妹とともに確かにいたのです。花火の記憶はほとんど残っていないのに、あの熱気とざわめきだけは、今も体のどこかが覚えています。 私にとって本当の「花火大会」は、高砂の隣町・柴又で毎年開かれていた、江戸川の花火大会でした。物心ついた頃から、家族や近所の人たちと河川敷の土手まで歩いて向かうのが、夏の恒例行事だったのです。 間近で打ち上がる花火は、それまで見たことのないほど大きく、お腹の底まで響く轟音に、子どもの私は少し怖さを感じていました。それでも、夜空いっぱいに広がる光の美しさに見とれ、「夏が来た」という実感を味わっていたように思います。 あの頃は、今よりもずっとあちこちで盆踊りが開かれていました。母はにぎやかな場所が大好きな人で、夏になると毎晩のように近所の盆踊りへ出かけていました。私もその後をついて歩き、太鼓の音や提灯の灯り、屋台の賑わいに胸を躍らせたことを覚えています。あの夏の空気は、今でも忘れられません。 「花火大会をやってくる!」 そして小学生になると、夏の楽しみがもう一つ増えました。 昼間、近所の友達と駄菓子屋へ行き、バラ売りの花火を一人300円分くらい買うのです。ロケット花火やねずみ花火ではなく、手持ち花火や線香花火を思い思いに選び、夜になると「花火大会をやってくる!」と言って家を出る。子どもだけの、ささやかな夜遊びでした。 今思えば、本当にささやかな冒険です。でも、少しだけ悪いことをしているような気分が、その時間を何倍も特別なものにしてくれました。友達と囲んだ線香花火の、ぽとりと落ちる火の玉。その一瞬の明るさと、すぐに訪れる暗闇。あれもまた、まぎれもない私の「花火大会」でした。 どの夏にも、父はいなかった こうして思い返してみると、どの夏の思い出にも、父の姿がありません。 父はいつも仕事で忙しく、家族で出かけることはほとんどありませんでした。でもそれは、決して我が家だけのことではなく、近所にも同じような家庭がたくさんありました。父親たちは、みんな懸命に働いていたのです。 その代わり、私たちは地域の大人たちに見守られながら育ちました。子どもたちだけで夜道を歩き、花火をしていても、近所のおじさんやおばさんが、自然と目を配ってくれていた。そんな時代だったのです。 子どもの頃には気づきませんでしたが、大人になった今、あの温かな見守りが、どれほどありがたいものだったのかを実感します。そして今度は、自分が地域の子どもたちを見守る側の世代になったのだ、ということにも気づかされます。 夏の花火は、美しかった夜空だけではなく、人と人とのつながりまで思い出させてくれる。私にとって、そういう特別な風景なのです。 おわりに 昭和53年7月29日、隅田川に17年ぶりの花火が咲きました。街じゅうの人が、その復活を心待ちにしていたといいます。 いま、隅田川花火大会は毎年当たり前のように開かれ、両岸には100万人近い人が押し寄せます。誰もがスマートフォンを夜空にかざし、光の花を写真におさめる。いっぽうで、私の夏を彩ってくれた近所の盆踊りは、櫓を見かけることさえ少なくなりました。子どもだけで夜道を歩き、線香花火に火をつけるようなことも、今では難しい時代です。 それでも——江戸の川開きも、大きな隅田川の花火も、柴又の小さな花火も、根っこにあるものは同じなのだと思います。人が集まり、同じ夜空を見上げ、「夏が来た」と感じ合う。300年ちかく前の江戸っ子が「たまや〜」と声を張り上げた気持ちと、土手で花火に見とれていた子どもの私の気持ちは、案外、地続きなのかもしれません。花火とは、光そのものよりも、その下に集う人と人とのつながりを照らすものなのでしょう。 17年ぶりの復活を待ちわびた大人たちの気持ちが、今なら少しだけ分かる気がします。当たり前に思える夏の風物詩も、途切れてみて初めて、どれほど大切だったかに気づく。だからこそ、毎年ちゃんと花火が上がるということは、それだけで、ありがたいことなのでしょう。 あなたにとって、いちばん心に残っている夏の花火は、どんな花火でしょうか。夜空いっぱいの大輪でしょうか。それとも、誰かと囲んだ、線香花火の小さな火でしょうか。 大きな花火大会に出かけるのもいいけれど、庭先や玄関先で、孫と一緒に線香花火をぽとりと落とす——そんな夏も、また格別です。これは、職人が一本ずつ手で作る純国産の線香花火。パチパチと火花を散らし、最後にほろりと玉が落ちるまで、驚くほど長く、美しく燃えます。中国産の安価なものとは、火のもちも風情もまるで別物。あの頃の夏を、今度は見守る側として、子や孫と分かち合ってみませんか。 純国産線香花火 巧(たくみ)国内の職人が手作業で仕上げる本物の線香花火。パチパチと繊細な火花が長く続き、最後に火の玉がほろりと落ちる風情は国産ならでは。桐箱風の化粧箱入りで贈り物にも Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

July 29, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月27日──毎朝、テレビは「ロッキード」と言っていた

夏の朝、ニュースはいつも同じ事件を伝えていた 1976年、昭和51年の夏。私は7歳、小学1年生になったばかりでした。 我が家の朝は、いつも決まった風景でした。母は台所で朝食の支度をしていて、父と私と妹の三人は、正座の姿勢で箸を動かす。そのかたわらで、テレビはNHKのニュースを流している——それが、あの頃の我が家の朝でした。 正座した子どもの耳に、大人の世界の言葉が、意味もわからないまま流れ込んできます。「為替相場は、1ドル297円」。「丸紅ルートが……」。父も母も、それらについて何か話すわけではありません。ニュースはただ、朝の食卓の空気の一部として、そこに流れているだけでした。 そんな数々の言葉のなかで、なぜか私の耳に、くっきりと残ったものがあります。「ロッキード事件」。カタカナのその名前を、当時の私は、毎朝のように聞いていました。アナウンサーが繰り返し、繰り返し、その言葉を口にしていたのです。 7歳の子どもに、事件の中身などわかるはずもありません。それでも、ひとつだけ、はっきりとわかっていたことがあります。これは、政治家がお金をもらって悪いことをした事件なのだ、ということです。 「政治家が、お金で」——それだけはわかった 不思議なもので、あの言葉の“中身”を、私はその後もずっと、ちゃんとは知らないまま大人になりました。 ロッキードとは何なのか。誰が、誰から、いくらもらったのか。なぜあれほど大きな騒ぎになったのか。断片的な言葉——「田中角栄」「5億円」「記憶にございません」——は覚えているのに、それらがどうつながるのかは、ぼんやりしたままだったのです。 だから今日は、あの夏の朝に毎日聞いていた言葉の中身を、大人になった自分の目で、ひとつずつ確かめてみようと思います。 事件の正体は、一機の旅客機だった ロッキード事件とは、アメリカの航空機メーカー・ロッキード社が、自社の飛行機を各国に売り込むため、政財界の要人に賄賂をばらまいた、国際的な汚職事件です。日本にわたった工作資金は、総額30億円を超えたといわれます。 そもそもロッキード社は、戦闘機など軍用機を得意とするメーカーでした。ところが旅客機の分野では、ボーイングなどの強豪に押されて苦戦を強いられていた。なんとしても自社機を売りたい——その焦りが、世界各国での大がかりな贈賄工作につながっていったのです。賄賂を受け取ったとされる要人の名は、オランダやイタリアなど、日本以外の国々でも取り沙汰されました。まさに世界を揺るがすスキャンダルであり、日本はその最大の“市場”のひとつだったのです。 事の発端は、日本ではなくアメリカでした。1976年2月、アメリカ議会の委員会が開いた公聴会で、ロッキード社の副会長が「日本の政界に金を渡した」と証言したのです。海の向こうでのたった一言が、やがて日本列島を揺るがすことになりました。 当時の首相・三木武夫は、この疑惑の徹底究明を国民に約束します。東京地検特捜部は、警視庁や国税庁とも手を組んだ異例の合同捜査に乗り出しました。同じ自民党の、しかも最大の実力者であるはずの田中角栄に、身内の政権の側から捜査のメスが入っていく——そんな張り詰めた空気のなかで、事件は動いていったのです。 日本での舞台になったのは、全日空——ANAの旅客機選びでした。当時、全日空は新しい大型旅客機の選定を進めており、最終的にロッキード社製の「トライスター」の導入を決めます。この機種選びこそが、のちに“便宜”として問題視されることになりました。その選定の裏で、ロッキード社は商社の丸紅を窓口に、さらに「政商」と呼ばれた小佐野賢治や、右翼の大物・児玉誉士夫といった人物を通じて、日本の中枢へと金を流していきました。その金の流れの先に名前が挙がったのが——時の前首相、田中角栄だったのです。 ここで問われたのが、「受託収賄」という罪でした。政治家がその立場を使って特定の企業に有利なように取り計らい、その見返りに金を受け取る——それがこの罪の中身です。全日空が、どの会社の旅客機を選ぶのか。ただそれだけのことに、これほどの金額と、これほどの権力が動いていた。子どもだった私が「政治家がお金で悪いことをした」と受け取っていたのは、つきつめれば、こういうことだったのです。 「今太閤」の逮捕 田中角栄という政治家を、少し紹介しておきます。 新潟の農村に生まれ、学歴は高等小学校まで。それでも一代でのし上がり、54歳の若さで総理大臣にのぼりつめた人物です。「日本列島改造論」を掲げて全国に道路や鉄道を通し、庶民の出であることから「今太閤」と呼ばれました。まさに立志伝中の宰相です。1972年に首相となって日中国交正常化を成し遂げますが、金脈問題への批判を受け、1974年に退陣していました。 その田中が、ロッキード社から丸紅を通じて5億円を受け取り、全日空にトライスター導入の便宜を図った——という容疑で、1976年7月27日、東京地検特捜部に逮捕されます。罪状は受託収賄と、外国為替管理法違反。総理大臣を務めた大物政治家が、しかも現職の国会議員のまま逮捕される。それは日本じゅうを震え上がらせる、衝撃的なできごとでした。東京・目白の田中邸の前にはカメラマンが群がり、その様子はテレビで生中継されました。逮捕を受けて田中は自民党を離党しますが、それでも日本じゅうが、連日この事件にくぎづけになりました。私が毎朝聞いていた「ロッキード事件」とは、まさにこの一連の騒動のことだったのです。 「記憶にございません」と「ピーナッツ」 この事件は、いくつもの流行語を残しました。 ひとつは「記憶にございません」。逮捕に先立つ2月の証人喚問で、事件の鍵を握るとされた小佐野賢治が、質問のたびにこの言葉を繰り返したのです。嘘をつけば偽証罪に問われる。かといって本当のことは言いたくない。その狭間で編み出された絶妙な逃げ口上は、たちまちその年の流行語になりました。そして半世紀近くたった今も、追い詰められた政治家が国会でしばしば口にする——おなじみの言葉として、生き続けています。 もっとも、事件のいちばんの核心にいたとされた児玉誉士夫は、証人喚問が決まったとたんに「病気」を理由に、公の場に姿を見せませんでした。テレビ中継された喚問の場を国民が固唾をのんで見守るなか、肝心の口ほど、重く閉ざされていたのです。 もうひとつは「ピーナッツ」。賄賂の領収書に、金額を隠すための隠語として書かれていた言葉で、「1ピーナッツ」が100万円を意味しました。抗議のデモ隊が、関係者の事務所にピーナッツの粒を投げつけた、という逸話まで残っています。 裁判は、答えの出ないまま終わった 驚くべきことに、田中角栄は逮捕されても失脚しませんでした。その年の12月の総選挙では、地元・新潟でトップ当選を果たします。逮捕されたばかりの政治家に、有権者が誰よりも多くの票を入れたのです。雪深い新潟の人々にとって、田中は、自分たちの郷里に道路や鉄道を引いてくれた恩人でした。中央の政界で何を言われようと、暮らしをよくしてくれた「おらが先生」を、地元は見捨てなかったのです。田中はその後も「闇将軍」と呼ばれ、政界に絶大な影響力を持ち続けました。 裁判は、長い長い年月に及びました。その途中の1981年には、田中の秘書だった榎本敏夫の元妻が、法廷で検察側の証人に立ち、5億円の授受を裏づける証言を行っています。身内からの決定的なひと言に世間はどよめき、彼女が会見で口にした「ハチの一刺し」という言葉もまた、この事件が生んだ流行語のひとつになりました。そして1983年、一審の東京地裁は、田中に懲役4年・追徴金5億円の有罪判決を言い渡します。しかし田中はただちに控訴。争いが最高裁まで続くなか、1993年、田中は判決の確定を見ないまま、75歳でこの世を去りました。「総理大臣の犯罪」は、はっきりと白黒がつくことのないまま、歴史の中に沈んでいったのです。 半世紀後、あの言葉はまだ国会にある こうして事件の全体像を追いかけてみて、私は少し不思議な気持ちになりました。 あの夏の朝、7歳の私がテレビの前で聞いていた言葉。その中身は、これほどまでに込み入っていて、これほどまでに大きなものだったのか、と。そして、子どもの私が「政治家がお金で悪いことをした」と受け取っていたことは、乱暴なようでいて、案外、事件の芯を突いていたのかもしれません。 そういえば、あの食卓で耳にしていた「丸紅ルート」も、「為替」も——実はこの事件のまん中にあった言葉でした。丸紅は、5億円を田中のもとへ運んだ商社の名前。そして「外国為替管理法違反」は、田中にかけられた罪状そのものです。事件の核心にある言葉を、7歳の私は、意味も知らないまま毎朝口にできるほど聞いていたことになります。正座して箸を動かしていたあの食卓は、思っていたよりずっと、時代のまん中につながっていたのでした。 令和の今も、政治とお金をめぐるニュースは、形を変えて流れ続けています。政治資金や裏金をめぐる問題が報じられ、「記憶にございません」という言葉が国会で聞こえてくるたび、私はあの夏の朝を思い出すのです。半世紀たっても、人は同じ言葉で、同じように逃げる。あのカタカナの事件名を、幼い私が意味もわからず覚えてしまったのは、それが来る日も来る日も、朝のニュースを埋め尽くしていたからでした。そして今も、テレビは少しだけ姿を変えて、同じような事件を伝え続けているのかもしれません。 みなさんにとって「ロッキード」という言葉は、どんな記憶と結びついているでしょうか。リアルタイムで固唾をのんで見守った方も、私のように言葉の響きだけを覚えている方も、よかったらその頃のことを聞かせてください。 「政治家がお金で」という子どもの直感の、その先にある本当の複雑さ。ロッキード事件を一冊で骨太に味わうなら、経済小説の名手・真山仁が事件の深層に迫ったこの一作がおすすめです。田中角栄はなぜ裁かれ、なぜ今なお語られるのか。あの朝のニュースの“中身”が、大人の読み物として立ち上がってきます。 ロッキード(文春文庫)真山仁。『ハゲタカ』の著者が、半世紀の時を経てロッキード事件の深層に挑んだ渾身のノンフィクション Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月26日】僕はいつも別の場所にいた | 次の記事:【7月28日】ロサンゼルスの朝、空を人が飛んだ ▶ ...

July 27, 2026