9月30日 ── 電線のバスが消えた道を、ピザが走ってきた|昭和の今日は何があった日?

今日は9月30日、9月の最後の日です。 この日付には、17年を隔てて、二つの出来事が重なっています。 昭和43年(1968年)の9月30日、東京の街から「トロリーバス」が姿を消しました。そして昭和60年(1985年)の9月30日、東京・恵比寿に、日本で初めての宅配ピザの店が生まれました。 消えたバスと、生まれたピザ。何の関係もなさそうな二つですが、調べていくうちに、どちらも同じものに振り回されていたことに気がつきました。混み合う東京の道です。 私が生まれる半年前、電線のバスが消えた トロリーバスというのは、見た目はバスなのに、屋根の上に2本の長い棒(ポール)を立て、道路の上に張られた電線から電気をもらって走る乗り物です。レールは要らないけれど、電線からは離れられない。路面電車とバスの、ちょうど中間のような存在でした。 東京で最初のトロリーバスが走ったのは、昭和27年(1952年)5月20日のことです。江戸川区の今井を出て、亀戸駅を通り、上野公園までの約15.5キロ。それまで今井と亀戸を結ぶ電車は荒川放水路で途切れていましたが、トロリーバスは小松川橋で川を直接渡ったので、地元の人たちにとってはずいぶん便利になったそうです。開業当時の運賃は15円でした。 その後、池袋、渋谷、品川、浅草と路線は広がっていきます。 ところが昭和32年ごろから、自動車が増え、道路の混雑が目立ちはじめます。トロリーバスの速度は落ち、利用者は昭和36年度をピークに減っていきました。都の交通事業は赤字が膨らみ、昭和42年に立てられた財政再建計画で、トロリーバスは普通のバスに置き換えられることになります。 同じ年の12月から路線は次々と廃止され、最後まで残ったのは、いちばん最初に開業した今井〜上野公園の路線でした。地元の江戸川区議会では撤去に反対する決議まで行われましたが、代わりのバスを走らせることを条件に、廃止が決まります。 江戸川区の資料によれば、最後の便は昭和43年9月29日、日曜日の夜9時45分に今井を出た上野公園行きでした。16年の歴史を閉じ、翌9月30日をもって、東京のトロリーバスはすべてなくなりました。 私が生まれたのは、それから半年あまり後の、昭和44年4月です。 ですから、私は走っているトロリーバスを見たことがありません。それでも子どもの頃、写真や本の中でその姿を見た覚えがあります。屋根から長い棒を2本伸ばした、ちょっと不思議なバス。私にとってトロリーバスは、東京の街から消えたあとに、紙の上で出会った乗り物でした。 トロリーバスや都電のように、昭和の街角から消えていった乗り物を、当時の写真と一緒にたどれる本です。写真に写った街の様子から、時代の移り変わりを読み解いていきます。 写真は語る 電車・バスが走る 昭和の街角風景講談社ビーシー編。昭和30〜50年代の街角写真から、消えた乗り物と街並みの移り変わりを読み解く。星4.7(5件) Amazonで見る › 上26系統は、いまも青戸から トロリーバスが消えたあと、その道はどうなったのか。 今井〜上野公園の路線は普通のバスに引き継がれ、平成2年に亀戸で二つに分けられました。今井側がいまの都営バス「亀26系統」(今井〜亀戸駅前)、上野側が「上26系統」(亀戸駅前〜上野公園)です。上26系統は、亀戸駅前から上野公園までの約9キロを、およそ50分かけて走っています。 そして、この上26系統を担当しているのは、都営バスの青戸支所です。青戸といえば、私の住む葛飾区。電線のバスの道は、半世紀以上たったいま、葛飾の車庫から出るバスが受け継いでいることになります。 実は私も、上26系統に乗ったことがあります。亀戸天神、東京スカイツリー、浅草、合羽橋、谷中、根津、そして不忍池。下町の名所を次々と通り抜けていく、観光としても非常に楽しめる路線です。かつてトロリーバスが電線の下を走った道を、いまは普通のバスが、観光客も乗せて走っています。 子どもの頃の私にとって、バスといえば京成バスでした。高砂の駅のそばから母と一緒に乗って、水戸街道沿いの小児科に通ったバスです。都営バスには、あまりなじみがありませんでした。その私がいま、路線バスの運転士として東京の道を走っています。 運転士の立場から考えると、電線から離れられないバスというのは、なかなか大変だったろうと思います。 普通のバスなら、路上駐車の車があれば、進路を変えてよけることができます。けれどトロリーバスには、それができません。目の前に車が止まっていても、電線の下から外れるわけにはいかない。当時の運転手さんは、きっとイライラしたのではないでしょうか。 車が増えれば増えるほど、身動きが取れなくなっていく。トロリーバスを消したのは、ある意味で、東京の道の混雑そのものだったのかもしれません。 昭和60年、恵比寿に届いた「30分」 トロリーバスが消えて17年後の、昭和60年9月30日、月曜日。東京・恵比寿に「ドミノ・ピザ 恵比寿店」がオープンしました。日本で初めて、「宅配ピザ」というサービスが始まった日です。 ドミノ・ピザは、昭和35年(1960年)にアメリカのミシガン州で生まれた会社です。創業者のトーマス・モナハンさんは、小さなピザ店を買い取り、車を持たない学生たちにピザを届けることを思いつきました。「30分を超えたら無料」という仕組みも評判になり、アメリカで大きく広がっていきます。 そのドミノ・ピザが日本にやってきて、まずぶつかったのが、東京の道でした。道幅が狭く、渋滞も多い。そこで、「ドミノジャイロ」と呼ばれる宅配専用の三輪バイクが生まれます。車では間に合わない東京の道を、小回りの利くバイクで縫うように走る。日本の宅配ピザは、東京の道に合わせるところから始まったのです。 翌年の昭和61年には、日本オリジナルのメニュー「ツナ・スペシャル」も生まれました。アメリカの食べものが、少しずつ日本の味になっていきます。 混み合う道に負けて、電線のバスは消えていきました。その同じ東京の道に合わせて、ピザを運ぶバイクが走りはじめた。9月30日という日付は、そんなふうにつながっているように思えます。 デニーズのピザと、ABABの食べ放題 昭和60年の秋、私は16歳、高校1年生でした。 では、私がピザと出会ったのはいつだったのか。はっきりとは覚えていませんが、たぶん中学生の頃、亀有警察署の向かいにあったデニーズで食べたのが最初だったと思います。宅配ピザが日本に生まれるより前に、私のピザはファミリーレストランのテーブルの上にありました。 高校生になると、ピザはすっかり身近な食べものになっていました。よく覚えているのは、上野のABABにあったピザの食べ放題です。友だちと連れ立って行き、お腹がいっぱいになるまで食べました。 上野は、子どもの頃にデパートといえば松坂屋で、屋上の遊園地や食堂に連れて行ってもらった街です。それが高校生になると、友だちと自分たちで出かけて、ピザを食べ放題で平らげる街になりました。考えてみれば、上野公園はトロリーバスの終点でもあります。電線のバスが最後まで目指していた街で、私はピザを頬張っていたことになります。野球部で毎日体を動かしていた高校生の食欲ですから、店にとってはありがたくない客だったかもしれません(笑)。 中学生の頃は家族と、高校生になると友だちと。ピザを食べる相手も、場所も、少しずつ変わっていきました。 ...

September 30, 2026

9月27日 ── 「発車オーライ」と、ワンマンの運転席|昭和の今日は何があった日?

9月27日は「女性ドライバーの日」です。 大正6年(1917年)のこの日、ひとりの女性が自動車の運転免許試験に合格しました。日本の女性として、初めてのことでした。 私はいま、路線バスの運転士をしています。毎日ハンドルを握る仕事をしている身として、この記念日を知ったとき、自分が乗ってきたバスのことを振り返ってみたくなりました。子どもの頃に乗っていたバスのこと。そして、私が生まれる少し前まで、バスには運転手のほかに、もうひとり乗っている人がいたということを。 大正6年、23歳のハンドル その女性の名前は、渡辺はまさん。栃木県の出身で、当時23歳でした。 渡辺さんはこの年の1月に栃木から上京し、自動車学校に入りました。4月に卒業すると、自動車商会で運転手見習いとして働きながら、試験に備えたといいます。その腕前は、試験官たちが驚くほどだったそうです。 大正6年といえば、自動車そのものがまだ珍しかった時代です。車を持っていたのはごく一部の人たちで、運転は男性の仕事と考えられていました。その中で、ひとりの女性が自分の力でハンドルを握る資格を手にしたのです。 白い襟、赤い襟のバスガール 女性とバスの関わりは、運転席より先に、車掌の仕事から始まりました。 大正9年(1920年)、東京市街自動車という会社の乗合バスに、日本で初めて女性の車掌が登場します。走ったのは新宿と築地を結ぶ路線でした。採用されたのは19歳から30歳までの女性たちで、当時としては高い給料も話題になったそうです。白い襟の制服から、「白襟嬢」と呼ばれました。 大正13年(1924年)には、東京市営のバスにも女性車掌が乗るようになります。こちらは制服の襟が赤かったことから、「赤襟嬢」と呼ばれました。 「バスガール」と呼ばれたこの仕事は、やがて女性のあこがれの職業になっていきます。昭和32年には「東京のバスガール」という歌も生まれ、広く親しまれました。もっともこの歌のモデルは、路線バスの車掌さんではなく、観光バスのガイドさんだったそうです。それだけ「バスに乗って働く女性」が、あこがれの姿として見られていたということでしょう。 車掌さんの仕事は、たくさんありました。乗ってきたお客さんに行き先を聞いて切符を売り、ドアを開け閉めし、停留所を案内し、安全を確かめて、運転手に「発車オーライ」と声をかける。運転手はハンドルに集中し、車内のことは車掌さんが引き受ける。バスは、二人で走らせるものだったのです。 「東京のバスガール」を歌った初代コロムビア・ローズの全曲集です。「発車オーライ」の声が、歌の中にそのまま残っています。 初代コロムビア・ローズ全曲集 東京のバスガール日本コロムビア。昭和32年のヒット曲「東京のバスガール」をはじめ、初代コロムビア・ローズの代表曲を収めたCD。星4.1(9件) Amazonで見る › 車掌さんが消えていった頃 その車掌さんが、少しずつバスから姿を消していきます。 東京の都営バスでワンマンカー、つまり運転手ひとりで走るバスの運行が始まったのは、昭和40年(1965年)2月のことでした。車掌の人件費が経営の重荷になっていたこと、そして車掌のなり手が足りなくなっていたことが背景にあります。昭和43年からは、ワンマンで走ることを前提にした車両も入ってきました。それでも、そうした車両に車掌さんが乗ることもあったそうです。切り替えは一度にではなく、路線ごとに少しずつ進んでいきました。 そして、都営バスの全系統でワンマン化が完了したのは、昭和53年度のことです。ただ、女性の車掌さんの姿は、その後もしばらく、ところどころで見られたといいます。 私が生まれたのは昭和44年4月。昭和53年度といえば、私が小学3年生の頃です。つまり私の子ども時代は、ちょうどバスから車掌さんが消えていく時代と重なっていたことになります。 けれど、私には車掌さんの記憶がありません。私の記憶の中のバスは、もうワンマンでした。 小児科へ向かう京成バス 私が子どもの頃に乗った路線バスといえば、京成バスです。都営バスにはあまりなじみがなく、私にとってバスといえば京成バスでした。昭和55年から2年間だけ、都営バスが黄色く塗られた時期があったそうですが、その姿も私の記憶にはありません。 いちばん鮮明に覚えているのは、風邪をひいて小児科へ行くときに乗ったバスです。ふだんの遊びの記憶よりも、なぜかその場面のほうが、いまでもはっきりと思い出せます。 ここからは、記憶が定かではないと前置きしたうえで書きます。 そのバスには、網棚があった気がします。床は黒っぽい木の床で、その床からは油のような、オイルのようなにおいがしていました。そして、すでに運転手さんひとりで走るワンマンのバスだったと思います。 バスに乗ると、私はいちばん前の席に座って、運転席をのぞいていました。のぞきたかったのは、運転手さんの手元だけではありません。フロントガラスの向こうに広がる、運転手さんと同じ景色を見たかったのです。いま私は、毎日その景色の中を走っています。 とはいえ、バスの運転手になりたいと思っていたわけではなかったと思います。ただ、「どうやったらバスの運転手になれるのだろう」と不思議に思った記憶はあります。 大正6年の渡辺はまさんは、自分で自動車学校の門をたたき、運転手見習いをしながら試験に挑みました。子どもの私が不思議に思った「どうやったらなれるのか」の答えも、きっとそういう一歩一歩の積み重ねの中にあったのでしょう。 車掌さんがいた頃から今の路線網まで、東京の路線バスの歩みを一冊にまとめた新書です。なつかしい車両の写真も載っています。 東京の路線バスのすべて加藤佳一/マイナビ出版(新書)。東京と首都圏の路線バスの始まりから成長期、現在までの歴史を、車両や系統の写真とともにたどる。星4.2(4件) Amazonで見る › 2.9%のハンドル 渡辺はまさんが免許を取ってから、100年以上がたちました。 いまでは、女性がハンドルを握るのは特別なことではありません。それでも、バスの運転席となると話は少し違います。令和6年の国の統計では、バスの運転手のうち男性が10万人を超えるのに対して、女性は約3,000人。割合にすると、2.9%ほどにとどまっています。100人の運転士がいれば、女性は3人ほどという計算です。 かつてバスの車内を支えていたのは、女性の車掌さんたちでした。その車掌さんがいなくなった後のバスの運転席は、長いあいだ、ほとんど男性だけの職場だったのです。 私の今の職場には、これまでずっと、2〜3人の女性運転士が在籍しています。私たち男性運転士とまったく同じ仕事を、毎日ともにこなしています。 私の目から見て、女性運転士のみなさんは総じて「かなり優秀」だという印象があります。何度か、お客さんの立場で乗ってみたことがあります。運転操作はていねいで、接客の対応も、男性と比べると柔らかな感じがしました。お客さんからも好感を持たれやすいのではないかと感じています。 いま、業界では女性の運転士を増やそうという動きが広がっています。女性のバス運転士の団体は、その割合をいずれ1割にまで高めたいとしています。 ワンマンの運転席から いま私が運転しているバスに、車掌さんはいません。 ...

September 27, 2026

9月24日 ── 緑色のきっぷが生まれた日|昭和の今日は何があった日?

駅で「みどりの窓口」の看板を見かけると、なぜだか少しほっとします。 券売機でもスマホでも買えない、ちょっと込み入ったきっぷ。乗り継ぎのややこしい旅程。そういうときに頼れる、人のいる窓口。その「みどりの窓口」が生まれたのが、昭和40年(1965年)の今日、9月24日です。 私が生まれる、4年前のことでした。 正直に書くと、私自身はこの窓口とほとんど縁がないまま大人になりました。それでも今日は、この緑色の看板の話をしてみたいと思います。 電話と台帳の時代 みどりの窓口ができる前、特急や寝台の指定券はどうやって売られていたのか。 答えは「台帳」と「電話」です。列車ごとに座席の台帳があり、それを持つ駅や乗車券センターへ、窓口の駅員さんが電話で空席を問い合わせる。空いていれば押さえてもらい、きっぷを書いて渡す。1枚の指定券を出すのに1〜2時間かかることもあり、同じ座席を二重に売ってしまうことさえあったそうです。 これを変えたのが、コンピュータでした。国鉄は昭和35年から「マルス(MARS)」と呼ばれる座席予約システムを試験的に動かし始め、昭和40年9月24日、それを本格的に使う指定券の売り場を、全国の主要152駅と日本交通公社の83か所の営業所に一斉に開設します。これが「みどりの窓口」です。10月1日のダイヤ改正で走り出す列車から、発売が始まりました。 開設を前にした昭和40年の夏には、新聞の新潟版で、県内3駅へのみどりの窓口設置が報じられています。両親のふるさとでも、同じ年に緑色のきっぷが売られ始めていたわけです。 名前の由来も、なかなか味わい深いものです。当時、駅にあらかじめ刷って置いてあるきっぷは赤や青の地紋が主流でした。ところがマルスの端末から打ち出される指定券は、淡い緑色だった。その緑色のきっぷを売る窓口だから、「みどりの窓口」。 コンピュータという最新の機械に、色の名前をつけて呼んだ。その素朴さが、いかにも昭和らしいなと思います。 昭和五十年代、まだ国鉄だった全線をきっぷ一枚ずつ乗りつぶしていった人の記録です。時刻表の読み方そのものが旅になっていた頃の空気が、そのまま残っています。 時刻表2万キロ(河出文庫・Kindle版)宮脇俊三/河出書房新社。サラリーマンをしながら国鉄全線約2万キロの完乗を目指した紀行。日本ノンフィクション賞受賞作。星4.3 Amazonで見る › 京成の子と、金町駅 私が育ったのは、京成高砂駅のすぐそば、線路沿いの家でした。小さい頃は、線路をまたぐ歩道橋の上から、飽きもせずに電車を眺めていたものです。 ただ、私にとっての「いつもの電車」は、あくまで京成でした。いちばん身近な国鉄の駅は金町駅。とはいえ、日常的に使う駅ではありません。 子どもの私にとって、国鉄は「特別なお出掛けのときに乗る電車」でした。京成が毎日の足なら、国鉄はよそ行きの服を着て乗るもの。そんな感覚です。 だから、みどりの窓口とはまったく縁がありませんでした。緑の看板の前に並んだ記憶も、窓口の奥の機械を覗き込んだ記憶もない。指定席をとって遠くへ行く、ということ自体が、我が家の暮らしのなかにほとんどなかったのだと思います。 15歳の春、ひとりで新潟へ そんな私にも、一度だけ、国鉄で遠くへ出かけた忘れられない旅があります。 私の両親は、ふたりとも新潟の出身です。母・時子は昭和13年、新潟の農家に生まれました。母は農作業が嫌で嫌で仕方なかったそうで、「早く東京へ出たかった」とよく言っていました。そうして東京へ出てきた両親のもとに生まれたのが、私です。 子どもの頃、両親のふるさとへ行ったのは、中学までの間に2、3回くらい。そのなかでいちばんよく覚えているのが、中学を卒業して高校に入学するまでの春休み、昭和60年(1985年)の春に、ひとりで新潟へ行ったときのことです。 15歳の、はじめてのひとり旅でした。 ところが、肝心のきっぷのことを、ほとんど覚えていないのです。なんとか自分で買ったのでしょうが、どこで、どうやって買ったのか。窓口に並んだ記憶はありません。乗ったのはたぶん特急だったと思うのですが、それも「だったのかな」という程度です。 覚えているのは、横川の釜めしを買って食べたこと。……いや、正確には「食べた、ような気がする」です。益子焼の土釜に入った、あの「峠の釜めし」。碓氷峠のふもと、信越本線の横川駅の名物駅弁です。 記憶のほうが正しいとすれば、私が乗ったのは上野から高崎、横川を越えて、長野を経由して新潟へ向かう信越本線の列車だったことになります。15歳の私にとって、行き先までの細かい道筋はたいした問題ではなかったのでしょう。残っているのは、きっぷではなく、駅弁の記憶でした。 横川という駅には、釜めしが名物になるだけの理由がありました。すぐ先に待っているのは、急勾配で知られる碓氷峠です。当時、横川から軽井沢へ向かう列車には、すべて専用の電気機関車EF63形が補機として連結され、峠の上まで後ろから押し上げていました。その連結作業のために、列車は横川駅でしばらく停まる。その停車時間に、乗客たちはホームへ降りて釜めしを買い求めたのです。「峠の釜めし」の発売は昭和33年。私が生まれるより前から、この駅の風景の一部でした。 その横川〜軽井沢間の線路も、平成9年(1997年)10月、長野新幹線(現在の北陸新幹線)の開業とともに廃止されました。15歳の私が通ったかもしれない峠越えの道は、もう列車では通れません。緑色のきっぷと同じように、あの春の旅路そのものが、昭和の側に置いてきた風景になりました。 その「峠の釜めし」は、いまは荻野屋から直接取り寄せることもできます。横川の駅で買うのがいちばんですが、そこまで行けないときに。 荻野屋 峠の釜めし(冷蔵便)株式会社荻野屋の直販。秘伝のだしで炊いた飯に9種類の具をのせた、昭和33年発売の駅弁。この商品は軽いパルプモールド容器入りで、冷蔵便のため送料が別にかかります。星4.3 Amazonで見る › 同じ春、窓口の向こうで あとから調べてみて、少し驚いたことがあります。 ...

September 24, 2026

9月21日 ── 私の町の名前が、少年ジャンプの表紙に載った日|昭和の今日は何があった日?

今日は9月21日。 昭和51年(1976年)のこの日、『週刊少年ジャンプ』42号が発売された。その号から連載が始まったのが、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』である。 葛飾区。私が生まれ育ち、今も住んでいる区の名前だ。 自分の町の名前が、少年漫画のタイトルにそのまま入っている。しかも40年続く。こんな経験をした区民は、そう多くないはずである。 なぜ、あんなに長いタイトルなのか 作者の秋本治は、葛飾区亀有の生まれである。のちに葛飾区の名誉区民にもなった、正真正銘の地元の人だ。 『こち亀』はいきなり連載で始まったわけではない。昭和51年6月発売の『週刊少年ジャンプ』29号に、月例ヤングジャンプ賞の入選作として読み切りが載ったのが最初だった。その反響が1か月以上続いたことから連載会議にかけられ、42号からの連載が決まる。 このとき使われていたペンネームが「山止たつひこ」。当時『がきデカ』で人気だった山上たつひこをもじったものである。のちに本人からクレームが来て、連載100回を区切りに本名の「秋本治」に変わった。なかなか大胆な新人である。 そして、あの長いタイトル。 秋本治は、映画監督の山田洋次との対談でこう語っている。『男はつらいよ』のおかげで葛飾区は全国的に知られていた。だから亀有を知らない人でも、葛飾区ならみんな知っているだろうと思った、と。 つまり『こち亀』というタイトルは、寅さんの肩に乗って生まれている。 柴又の帝釈天は、高砂のすぐ隣である。渥美清の寅さんが全国に広めた「葛飾」という地名を借りて、今度は両津勘吉が亀有を全国区にしていった。昭和という時代に、この小さな区は二度も日本中に名前を売ったことになる。 私にとっては、『サーキットの狼』のついでだった ただし、当時7歳・小学1年生だった私が、この歴史的な42号をありがたがって読んでいたかというと、まったくそんなことはない。 正直に書くと、いつから『こち亀』を読み始めたのか、はっきりとは覚えていない。当時の私にとってのお目当ては別にあった。『サーキットの狼』である。 池沢さとしの『サーキットの狼』は、昭和50年1月に『週刊少年ジャンプ』で連載が始まり、スーパーカーブームの火付け役になった漫画だ。ロータス・ヨーロッパ、ランボルギーニ・カウンタック、フェラーリ512BB。小学生がそらで車の名前を言えるようになったのは、あの漫画のせいである。スーパーカー消しゴムを筆箱に溜め込んだ世代だ。 つまり、私はまず『サーキットの狼』を読み、そのついでに『こち亀』も読む。そういうサブ的な存在だったと思う。 いま思えば、ずいぶん贅沢な誌面である。同じ一冊の中に、スーパーカーが走る漫画と、自分の住む区の名前が付いた漫画が並んで載っていた。後者が40年続く大記録になるとは、当時の誰も——たぶん編集部も——思っていなかっただろう。 その『サーキットの狼』の第1巻です。読み返すと、四十年前に筆箱の中で転がっていた消しゴムの車が、そのまま走り出してきます。 サーキットの狼 愛蔵版1 ウワサの男の巻(Kindle版)池沢さとし/ゴマブックス。スーパーカーブームの火付け役になったレーシング漫画。ロータス・ヨーロッパを駆る風吹裕矢の物語の第1巻。星4.2(10件) Amazonで見る › 野球用品を買いに行く町 葛飾区に住んでいる人間からすると、亀有と高砂は「同じ区」ではあるが、日常的に行き来する町ではない。 高砂は京成線、亀有はJR常磐線。路線が違うと、子どもの生活圏はきれいに分かれる。それでも自転車に乗るようになった頃には、亀有はそれほど遠い場所ではなくなった。 もっとも、漫画に出てくる亀有公園や派出所が本当に実在するのかどうか、気になって確かめに行く——というほどの存在感ではなかった。私が亀有駅の近くまで行っていたのは、野球用品を買うためである。グラブやバットやスパイクを買いに行く町。それが子どもの頃の私にとっての亀有だった。 ちなみに、いまバスの運転士として亀有方面を走ることはない。ただ、路線バス運転士に転職したばかりの頃には亀有駅始発の路線があり、ときどきその担当に入ることがあった。かつて野球用品を買いに自転車で通った駅前に、何十年かあとにハンドルを握って立ち寄っていたわけである。 「寅さんの柴又」と「こち亀の亀有」 自分の住む町が全国的に有名になっていくことについては、誇らしく感じていた。 子どもの頃、学校でも親戚の集まりでも、『こち亀』や寅さんの話は当然のように出た。そして今に至るまで、私が自分の住んでいる場所を人に説明するとき、必ずと言っていいほど使う言い回しがある。 「寅さんの柴又の近く」「こち亀の亀有の近く」 高砂と言って通じる相手は、正直なところそう多くない。けれど柴又と亀有なら、たいていの人に伝わる。寅さんと両さんは、半世紀近くにわたって、私の自己紹介を手伝い続けてくれている。いまも現役で、である。 40年、一度も休まなかった 『こち亀』の記録を並べると、少し現実離れしている。 昭和51年42号から平成28年(2016年)42号まで、ちょうど40年。連載回数1960回。その間、一度の休載もない。単行本は全200巻に達した。始まったのも42号、終わったのも42号である。 40年というのは、私が7歳から47歳になるまでの時間だ。小学1年生だった子どもが、就職して、転職して、子どもを育てるまでのあいだ、両さんはずっと亀有公園前の派出所にいたことになる。しかも両さんは年をとらない。こちらだけが勝手に年をとって、追い越していった。 連載終了のとき、私にはもう漫画を読む習慣はなくなっていた。それでも「こち亀終了」を知らせるニュースは、どこからともなく耳に入ってきた。やはり、ちょっとさびしい気持ちになったのを覚えている。 亀有駅の北口と南口には、両さんの銅像が立っている。区内には『こち亀』のマンホールも埋まっている。銅像もマンホールも、私は見に行った。漫画のキャラクターが、実在の町の風景の一部になってしまった珍しい例だと思う。 連載第1巻です。絵柄はいまの『こち亀』とだいぶ違って、劇画に近い両さんが出てきます。この記事を書いている時点では、9月30日まで無料で読めるようになっていました。 こちら葛飾区亀有公園前派出所 1(ジャンプコミックスDIGITAL)秋本治/集英社。昭和51年に始まった連載の第1巻。全200巻の一冊目。星4.1(720件) Amazonで見る › 同じ9月21日、ホンダが世界の頂点に立った ここからは話が変わる。時代も場所も、まったく別の9月21日である。 昭和61年(1986年)のこの日、ポルトガルGPの舞台エストリル・サーキットで、ホンダエンジンを積んだウィリアムズがF1のコンストラクターズ・チャンピオンを決めた。日本の自動車メーカーがF1のタイトルを獲ったのは、これが初めてのことである。 この年のウィリアムズ・ホンダは、ネルソン・ピケとナイジェル・マンセルという二人の速いドライバーを擁し、16戦9勝という成績を残した。ただしチーム内で勝ち星を食い合った結果、ドライバーズタイトルのほうはマクラーレンのアラン・プロストにさらわれている。速さはあったのに王座はひとつだけ、という少し皮肉な年だった。ここからホンダは1991年まで6年連続でチャンピオンエンジンとなり、やがてマクラーレン・ホンダとアイルトン・セナの時代へつながっていく。 さて、ここで話が最初に戻る。 『サーキットの狼』の主人公・風吹裕矢は、街の走り屋から始まって、やがてサーキットへ、そして最後はF1へ向かっていく。小学生の私が夢中で追いかけていたのは、そういう物語だったはずである。 ところが、である。 昭和61年当時の私は、F1などのモータースポーツにまったく興味を持っていなかった。セナやプロストの名前を知ったのは、日本にF1ブームがやって来てから。1年の浪人を経て大学に入ったあとのことである。ホンダが世界の頂点に立ったその日、高校2年生の私は、秋の野球部の練習の中にいた。 子どもの頃に好きだったものが、そのまま大人の関心につながるとは限らない。むしろ、ほとんどの場合つながらない。ジャンプで並んで載っていた二本のうち、私の人生に最後まで残ったのは、スーパーカーのほうではなく、町の名前のほうだった。 おわりに 『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の連載が始まった昭和51年、私はまだ子どもだった。 ...

September 21, 2026

9月20日 ── 夕やけが終わった日と、「バスの日」が生まれた年|昭和の今日は何があった日?

今日は9月20日。 昭和62年(1987年)のこの日、日曜日の国立代々木競技場第一体育館で、ひとつのグループが解散した。おニャン子クラブである。結成からわずか2年半の幕切れだった。 そして同じ昭和62年、9月20日という日付は「バスの日」に定められた。おニャン子が解散した、その翌月のことである。 終わったものと、生まれたもの。たまたま同じ年に、同じ日付をめぐって起きた二つの話を書いてみたい。 私の高校生活と、ほぼぴったり重なっていた 『夕やけニャンニャン』がフジテレビで始まったのは、昭和60年(1985年)4月1日。平日の月曜から金曜、夕方5時からの1時間番組だった。 この日付を目にしたとき、少し驚いた。昭和60年の4月というのは、私が高校に入学した月そのものだからだ。 番組のコンセプトは「放課後」。出演していたのは、芸能界に染まっていない現役の女子高生たちだった。番組内のオーディション「ザ・スカウト アイドルを探せ!」で合格すれば、翌週にはもうレギュラーとしてテレビに映っている。結成時は11人、解散時には19人が在籍していた。 デビューシングル「セーラー服を脱がさないで」が出たのが、同じ昭和60年の7月5日。これが大ヒットして、「おニャン子旋風」と呼ばれる社会現象になっていく。 つまりおニャン子クラブの活動期間は、私の高校生活とほぼぴったり重なっている。入学した月に始まり、卒業を控えた秋に終わった。 ところが、である。 私は『夕やけニャンニャン』を、ほとんど見ていない。夕方5時といえば、野球部の練習の真っ最中だったからだ。日本中の中高生がテレビの前に座っていたその時間、私はグラウンドにいた。 もちろん、その存在は知っていた。教室では話題になっていたからだ。番組を見ていなくても、おニャン子クラブというものが世の中を席巻していることだけは、しっかり伝わってきていた。 「会員番号○○番の○○ちゃん」 いま振り返ると、おニャン子クラブは、それまでのアイドルとは仕組みからして違っていた。 松田聖子や中森明菜のような、遠くで輝いているスターではない。隣のクラスにいそうな女子高生が、オーディションに受かった次の週にはブラウン管の中にいる。メンバーには会員番号がつき、卒業という形で出ていく。のちのAKB48まで続いていく「手の届くアイドル」の、いちばん最初がここにあったと言われることが多い。 その「会員番号」という仕組みがいかによくできていたかを、私は野球部の部室で知ることになる。 私自身は、特に好きなメンバーがいたわけではなかった。ところが同級生の部員の中には、「会員番号○○番の○○ちゃんがかわいい」と話している者がいた。番号で呼ぶのである。いま思えば、あれは単なる番号ではなく、追いかけている側の熱量を測る物差しだったのだろう。 番組を見ていない私にも、その会話だけはやけに記憶に残っている。 番組を見ていなかった私でも、頭のひと節を聞けば「ああ、これか」となります。あの頃の教室で鳴っていた音が、一枚にまとまっています。 プラチナムベスト おニャン子クラブ(UHQCD)ポニーキャニオン。「セーラー服を脱がさないで」をはじめ、おニャン子クラブ名義の曲を集めたベスト盤。収録1時間8分。星4.3(25件) Amazonで見る › 抜け殻だった秋 昭和62年の夏は、私にとって特別な夏だった。 7月23日、神宮第二球場。東東京大会。2対3で負けて、私の高校野球は終わった。 その、ちょうどひと月あと。8月31日に『夕やけニャンニャン』が最終回を迎え、番組の終了とともにおニャン子クラブも解散することが決まっていた。そして9月19日と20日、代々木第一体育館でファイナルコンサート。20日が、最後の一日だった。 私の夏が終わり、テレビの中の夏も終わった。けれど正直に書いておくと、当時の私はそのことをまったく知らなかった。 高校野球が終わってしまって、私は抜け殻のようになっていた。あれだけ毎日を埋めていたものが、ある日を境にごっそり無くなる。頭を切り替えて受験に向かわなければならないと分かってはいても、体も心も追いつかない。そんな秋だった。 だから、おニャン子解散のニュースは、私の耳には入ってきていない。日本中がひとつの時代の終わりを見届けていたその日に、私は自分の時代の終わりに呆然としていた。 同じ9月20日を生きていながら、私にはまったく別の景色しか見えていなかったのである。 その翌月、「バスの日」が生まれた さて、ここからは話が大きく変わる。 同じ昭和62年の10月。全国バス事業者大会で、日本バス協会が9月20日を「バスの日」と定めた。テーマは「いつでも、どこでも、みんなのバス」。 なぜ9月20日なのか。由来は昭和でも大正でもなく、明治までさかのぼる。 明治36年(1903年)9月20日、京都で二井商会という会社が、堀川中立売から七条を経て祇園までの区間で乗合自動車の運行を始めた。これが日本初の営業バスとされている。 その車がどんなものだったかというと、蒸気自動車を改造したもので、定員は6人。運転手と助手を除けば、乗せられる客はたった4人である。しかも幌がない。風も雨も砂ぼこりも、そのまま浴びる乗り物だった。乗合馬車屋からの妨害や車両の故障も相次ぎ、この事業は翌明治37年の1月には行き詰まって営業を終えている。 ちなみに同じ明治36年の1月には広島でも乗合自動車が走り出していて、そちらが実質的な日本初ではないかとも言われている。京都の9月20日が記念日に選ばれたのは、営業免許証が交付された日付がはっきり分かっているからだそうだ。 定員4人の、屋根もないバス。そこから始まった商売のハンドルを、私はいま握っている。 車掌さんが消えていった昭和 明治の話はさておき、私たちの記憶にある昭和のバスは、どんな乗り物だっただろうか。 東京のバスには、かつて車掌さんが乗っていた。大正13年に東京市営のバスが始まって間もなく、赤襟の制服を着た女性車掌が乗るようになり、「バスガール」と呼ばれて昭和の初めには花形の職業になった。 その車掌さんが、昭和のうちに消えていく。都営バスがワンマンカーの運行を始めたのが昭和40年2月。全系統のワンマン化が完了したのは、昭和53年度のことだった。 ...

September 20, 2026

十円玉を握って、走った──9月11日、公衆電話の日|昭和の今日は何があった日?

今の子どもに「公衆電話でかけてみて」と言ったら、たぶん固まる。受話器を上げるのが先か、お金を入れるのが先か。それ以前に、受話器という言葉が通じるかどうか。 私たちの世代には、考えるまでもない動作だった。受話器を上げて、十円玉を落として、番号を押す。あの一連の流れを、体のほうが覚えている。 9月11日は「公衆電話の日」。今日は、街角からだんだん姿を消していった、あの箱の話をしたい。 明治三十三年、上野と新橋に置かれた「自働電話」 1900年(明治33年)9月11日、東京の上野駅と新橋駅の構内に、日本で初めての街頭公衆電話が設置された。上野駅は駅長室の前、新橋駅は中等待合室の前。それまで公衆電話は電信局や電話局の建物の中にしかなかったから、この日は「電話が街へ出た日」ということになる。 当時の呼び名は「自働電話」。アメリカの街頭電話に掲げられていた「オートマティック・テレホン」をそのまま直訳したものだといわれている。ところが名前に反して、中身はまったく自動ではなかった。受話器を上げると交換手が出る。つないでほしい相手を口で伝える。そのうえで硬貨を入れる。ダイヤルもボタンも、そもそも付いていない。 面白いのは料金の確認方法だ。5銭と10銭で投入口が二つあって、硬貨が落ちていく途中で音が鳴る仕掛けになっていた。5銭はゴングで「チーン」、10銭はらせん状の鐘で「ボーン」。交換手はその音を電話越しに聞いて、いくら入ったかを判断していたという。耳でお金を数えていたわけだ。しかもこの方式、戦後までおよそ五十年にわたって使われ続けた。 料金は市内一通話五分で15銭。当時の米一升とだいたい同じ値段だったというから、気軽にかけられるものではない。翌10月には、京橋のたもとに六角錐の形をした最初の屋外用電話ボックスが立つ。「公衆電話」という名前に変わるのは1925年(大正14年)、交換手を介さない自動式が入ってからのことだ。 赤、青、黄、そして緑 私が子どもだった昭和40年代から50年代、公衆電話は色で覚えるものだった。 いちばん身近だったのは赤電話だ。昭和26年に委託公衆電話という仕組みが始まり、28年から赤に統一された。店先にちょこんと置かれている、あの丸っこいやつ。その形と色から「赤ダルマ」と呼ばれていたそうだ。高砂でも、たばこ屋の店先には赤電話があったと思う。 ボックス用には青電話があった。昭和47年には100円玉が使える黄電話が登場する。それまでは通話の途中で十円玉を追加で放り込まなければならなかったから、百円が使えるというのは当時としてかなりの進歩だった。 同じ昭和47年には、喫茶店や食堂の帳場に置かれる大型のピンク電話も出てくる。昭和50年にはプッシュ式。十年ほどのあいだに、公衆電話はずいぶんカラフルになっていった。 そして駅前だ。高砂の駅前には電話ボックスがあって、中にあったのは緑色の電話だった。駅前だけではない。街のあらゆる場所にボックスが立っていて、あるのが当たり前の景色だった。 ここで記録と突き合わせておくと、ボックス用として最初に置かれたのは青電話で、緑色が主流になるのは昭和57年のカード式公衆電話が出てからのことになる。つまり、私が子どもの頃に「あそこにボックスがある」と覚えた風景と、自分で扉を開けて中に入るようになった高校時代とのあいだに、電話機のほうも一度入れ替わっていたわけだ。 景色は変わっていないつもりでいて、中身は静かに更新されている。街というのは、だいたいそういうふうにできている。 駅前のボックスに、列ができていた 私が公衆電話を本格的に使うようになったのは、高校生になってからだ。 駅前の電話ボックスに列ができている様子は、はっきり記憶に残っている。一人が入ると、外で二人、三人が待っている。中の人の様子はガラス越しに丸見えで、長引くと自然に視線が刺さる。今思えばあれは、通話のマナーを街ぜんぶで見張っているような光景だった。 ポケットに十円玉が何枚あるか、話しながら頭のどこかで数えている。表示が減っていく。あと一枚しかない。用件を先に言え、と自分に言い聞かせる。そして一番言いたいことを言い残したまま、ぷつりと切れる。 忘れられないのは、友達数名で、気になっている女子の家に順々に電話をかけたことだ。家の電話だから、出るのが本人とはかぎらない。お母さんが出たらどうする。名乗るのか、名乗らないのか。受話器を握る手が汗ばんで、次の一人に代わる。あのハラハラドキドキは、電話が一軒に一台しかなかった時代にしか成立しないものだったと思う。 相手の家族を経由しないと、好きな子の声にたどり着けない。今の子どもたちには、たぶん一生わからない緊張だ。 カードが、通話を持ち歩かせた 昭和57年(1982年)12月23日、東京・銀座の数寄屋橋公園に、日本で初めて磁気式のテレホンカードが使えるカード式公衆電話が設置された。翌昭和58年にはカードの自動販売機が登場し、昭和60年には電電公社が民営化されてNTTが発足する。 テレホンカードは500円から5000円まで四種類。十円単位で引き落とされるから硬貨のような無駄が出ないし、何より、一枚持っていれば十円玉を探さなくてよくなった。今にして思えば、あれは「通話を個人が持ち歩く」という発想の、いちばん最初の形だったのかもしれない。 高校生になってからは、私も常にテレホンカードを持つようになった。買うだけでなく、いろいろな場面でいただくことも多かった。企業が販促に使い、アイドルや風景の写真が刷られ、集める人が現れる。電話をかけるための道具が、かけずに取っておくものになっていった。 ひとつ、今でも引っかかっている光景がある。上野で、イラン人と思われる人たちがテレホンカードを盛んに売っていた。私は買ったことがないが、あれはいったい何だったのか。 調べてみると、あれは昭和ではなく平成に入ってからの風景で、出回っていたのは「変造テレホンカード」と呼ばれるものだったらしい。使い終わったカードの磁気データを書き換えて度数を戻し、額面より安い値段で売る。NTT側の被害は相当な額にのぼり、後の電話機がカード対策を厚くしていく直接の理由になった。 便利なものが広まると、その裏側を突く商売も必ず生まれる。テレホンカードの十数年は、そのことを一枚の薄いカードで見せてくれた気もする。 その公衆電話が、手のひらサイズの模型になっている。緑の機械も、ピンクのダイヤル式も。あの形をもう一度近くで見ると、思い出すことが山ほどあります。 NTT東日本 NTT西日本 公衆電話ガチャコレクション 番外編 全6種セットタカラトミーアーツ(再販)。ダイヤル式ピンク電話を含む全6種のフルコンプセット。手のひらサイズの精巧なミニチュア。星4.0 Amazonで見る › 「なくなってから気づく」もの 公衆電話は今、ずいぶん減った。携帯電話が一人一台になった以上、それは当たり前のことだ。 ...

September 11, 2026

色は先に来て、水はあとから来た──9月10日、カラーテレビと下水道の日|昭和の今日は何があった日?

9月10日には、まったく毛色の違う二つの記念日が重なっています。 ひとつは「カラーテレビ放送記念日」。もうひとつは「下水道の日」。 片方は華やかで、もう片方は地味です。片方は茶の間の真ん中にあり、もう片方は地面の下にあります。子どもの頃の私が覚えているのは、当然のように前者だけでした。 ところがこの二つを並べてみると、昭和の家がどう変わっていったのかが、驚くほどはっきり見えてきます。 昭和35年9月10日、茶の間に色がついた 1960年(昭和35年)9月10日、NHK、日本テレビ、ラジオ東京テレビ(現在のTBS)、読売テレビ、朝日放送の5局が、東京と大阪でカラーテレビの本放送を始めました。アメリカ、キューバに次いで世界で3番目のことです。 ただ、この日を境にみんなの家が一斉に色づいたわけではありません。 当時のカラー受像機は21型で50万円ほど。白黒テレビの10倍近い値段でした。しかもカラー番組は、一日に一時間あるかないかという時期が続きます。 数字を見ると、その遅さがよくわかります。カラーテレビの世帯普及率は、統計に現れる最初の年である1966年(昭和41年)でわずか0.3%。そこから急な坂を登り始め、1971年に42.3%、1972年に61.1%、そして1975年(昭和50年)に90.3%。放送開始から15年かかって、ようやく十軒に九軒までたどり着いたことになります。 私が生まれたのは昭和44年。この坂のちょうど途中に生まれ落ちたことになります。 そして実際、私には白黒テレビを見た記憶があります。 『仮面ライダー』の2号。『ウルトラマンA』。『ウルトラマンタロウ』。このあたりは、白黒で観ていた記憶があるのです。 ここで少しややこしいのは、これらの番組はどれもカラーで放送されていたということです。色がなかったのは番組のほうではなく、我が家の受像機のほうでした。テレビ局はとっくに色を送っていたのに、それを受け取る箱がまだ白黒だったのです。 我が家に色がやって来たのは、高砂駅のそばから中川の土手のそばへ引っ越した後のことだったと思います。観音扉のついたテレビ台に載った、18型のカラーテレビ。チャンネルはもちろん、ガチャガチャと回す式でした。 タロウとゴレンジャーのあいだ 面白いのは、テレビが色を手に入れたことで、番組のつくり方まで変わっていったことです。 1966年(昭和41年)の『ウルトラマン』では、胸のカラータイマーが点滅して残り時間を知らせます。白黒テレビで見ている人にもわかるよう、明滅という「動き」で伝える工夫でした。まだ多くの家が白黒だった時代の設計です。 ところが1975年(昭和50年)、『秘密戦隊ゴレンジャー』が始まります。赤、青、黄、桃、緑。もう色そのものが登場人物の名前になっている。白黒テレビでは成立しない番組です。 そして私は、ゴレンジャーははっきりとカラーで観ていました。 自分の記憶を並べ直すと、我が家のテレビが色を手に入れた時期が、かなり狭く絞り込めます。 『ウルトラマンタロウ』が終わったのが昭和49年(1974年)の春。『秘密戦隊ゴレンジャー』が始まったのが昭和50年(1975年)の春。前者は白黒で、後者はカラーで観ている。つまり我が家に18型が来たのは、そのあいだの一年ということになります。 全国の普及率が90%を超えたのが、まさに昭和50年です。我が家は、坂を登りきる集団の、少し後ろのほうを歩いていたことになります。 その『秘密戦隊ゴレンジャー』だけを一冊にまとめたムックがあります。五人の設定も、放送リストも、当時の写真も。あの春に何が始まったのかが、まるごと入っています。 スーパー戦隊 Official Mook 20世紀 1975 秘密戦隊ゴレンジャー(Kindle版)講談社シリーズMOOK。昭和50年春に始まった第1作を一冊で総覧。キャラクター設定から全話リストまで。星4.5(54件) Amazonで見る › もうひとつの9月10日 さて、同じ9月10日は「下水道の日」でもあります。 始まりは1961年(昭和36年)。当時の建設省と厚生省、そして今の日本下水道協会の前身が協議して、「全国下水道促進デー」として定めました。2001年(平成13年)に、より親しみやすい名前へと改称されて今に至ります。 制定の理由は切実でした。当時の日本の下水道普及率は、わずか6%。諸外国に比べて著しく遅れており、全国に訴えかける必要があったのです。 なぜ9月10日なのか。この日がちょうど、立春から数えて220日目の「二百二十日」にあたるからです。昔から大きな台風が来る日とされてきました。下水道の大事な仕事のひとつは、汚水を流すことではなく雨水を流すこと。街を水浸しにしないことです。台風の日に下水道を思い出してほしい、というわけです。 葛飾は、ずっとあとだった ここからが、私にとっての本題です。 葛飾区の下水道整備がどう進んだのか、区史に記録が残っています。 葛飾区の下水道事業が動き出したのは、昭和48年(1973年)6月のことです。小菅処理場の一部が動き始め、小菅・堀切地区で下水道管の設置工事に着手しました。この年度の区の普及率は、1%です。 同じ年度、東京都区部全体の普及率は58%でした。 つまり葛飾は、都心が半分以上終わっている時点で、ようやくスタートラインに立ったのです。昭和59年(1984年)度にやっと50%を超え、100%にほぼ達したのは平成7年(1995年)度。事業開始から23年目のことでした。 昭和48年に私は4歳。昭和59年には15歳、中学三年生です。私が高砂で子ども時代を過ごしたあいだ、葛飾のほとんどの土地には、まだ下水道が通っていなかったことになります。 ...

September 10, 2026

9月9日 ── 最後の四・八キロがつながった日、私は完全に凍りついていた|昭和の今日は何があった日?

九月九日。昭和六十二年(一九八七年)のこの日、日本の地図の上で、一本の線がようやくつながりました。 埼玉県の川口ジャンクションと浦和インターチェンジのあいだ、わずか四・八キロ。この短い区間の開通で、東北自動車道は全線開通しました。同じ日、首都高速川口線も開通して、首都高と東北道がひと続きになります。 結果、青森インターチェンジから熊本の八代インターチェンジまで、約二千キロが高速道路一本でつながりました。北の端から南の端まで、一度も一般道に降りずに走り切れる。日本列島に、初めて縦の背骨が通った日でした。 曜日でいえば、水曜日。その日、私は十八歳の高校三年生でした。 十五年かかった、一本の道 東北道が最初に開通したのは、昭和四十七年(一九七二年)十一月十三日。岩槻インターから宇都宮インターまでの九十二・五キロです。私はまだ三歳、葛飾の高砂で、線路のそばの家に暮らしていました。 そこから東北道は、少しずつ北へ伸びていきました。矢板、白河、郡山、白石、仙台、一関、盛岡。年に一区間、二区間というペースで、東北の背骨が一節ずつつながっていきます。そして昭和五十四年(一九七九年)九月、私が小学四年生の秋に、ついに青森インターまで到達しました。 はるか北の青森までは、昭和五十年代のうちにもう届いていたのです。 ところが、です。東京にいちばん近いところが、最後まで残りました。浦和から川口までの四・八キロ。開通は、青森到達から八年も後のことでした。 事業費は三百五十億円。一キロあたり七十億円を超えます。人家の密集した都市部に高速道路を通すのは、山を貫くのとはまるで違う難しさがあったのでしょう。いちばん短い区間が、いちばん最後まで残った。地図の上のほんの数ミリを埋めるために、十五年が必要だったわけです。 「葛飾川口線」という名前 同じ日に開通した首都高速川口線のほうにも、葛飾に住む者として見逃せない話があります。 首都高川口線は、足立区の江北ジャンクションから、埼玉県川口市の川口ジャンクションまでを結ぶ路線です。地図をなぞればわかるとおり、葛飾区は通っていません。 ところが、この道路の道路法上の正式な路線名は、「東京都道・埼玉県道242号 高速葛飾川口線」。葛飾、なのです。 なぜかというと、この路線名の指定区間には、川口線そのものに加えて、中央環状線の小菅ジャンクションから江北ジャンクションまでが含まれているからです。小菅は、葛飾区。つまり法律の上では、この道は葛飾から始まって川口に至る道、ということになっている。 青森から八代までをつないだ最後のピース。その出発点に、こっそり「葛飾」の名前が入っていた。地元の名が、日本列島の背骨の付け根に刻まれていたわけです。 十八歳の秋、私は完全に凍りついていた その歴史的な水曜日、私は何をしていたか。正直に書きます。完全にフリーズ状態でした。 七月二十三日、神宮第二球場での試合を最後に、私の高校野球は終わりました。二対三。あれほど毎日を埋め尽くしていたものが、ある日ぱたりとなくなった。そのあとに残ったのが、九月の私でした。 進路について、やりたいこと、やれること、やらねばならないこと。そのすべてを棚上げしてきた当然の結果です。棚上げ、と書きましたが、正確に言えば違います。考えたくなかったから、逃避していた。それが正しい。 だから、この日のニュースについては、まったく覚えがありません。青森から八代までが一本になった、と新聞もテレビも伝えていたはずですが、十八歳の私には何ひとつ届いていませんでした。 日本の道が縦につながったその日、私はどこへも進めずに止まっていた。並べて書いてみると、ずいぶん皮肉な取り合わせです。 車のない家に育って、二十歳で運転席に座った そもそも子どものころ、うちには車がありませんでした。だから「高速道路」が、生活の中にまったくなかったのです。 高速道路は、テレビの中や地図の上にあるものでした。走ったこともなければ、乗せてもらったこともない。 私が自分で高速道路を運転するようになったのは、一年浪人して大学に入り、運転免許を取って、ローンで車を買ってからです。 当時は、車がなければ彼女もできないような時代の雰囲気がありました。思い込みだったのかもしれませんが、少なくとも私はそう感じていました。 そして、自分の車を持てたときは、本当に嬉しかった。ただ運転しているだけでも、喜びがこみ上げてきました。どこへ行くというわけでもなく、ハンドルを握っているだけで楽しい。あの感覚は、たぶん一生に一度しか味わえないものです。 その道を、私は当たり前のように走っていた 大学時代、私はスキーによく出かけました。宮城県の蔵王、岩手県の安比高原。東北道を使って、いろいろなところへ行きました。 ──ここで、話がつながります。 葛飾から東北のスキー場へ向かうということは、首都高から川口ジャンクションへ入り、東北道に乗るということです。つまり私は、あの四・八キロを通っていたのです。 十五年かかったあの最後の区間。三百五十億円かけて埋められた地図の空白。それを私は、開通からたった二年後に、何も知らないまま、当たり前の顔をして通過していた。「せっかくつながった道だ」などとは、これっぽっちも思っていません。スキー場のことしか頭になかったはずです。 道というのは、そういうものなのでしょう。できあがってしまえば、最初からそこにあった顔をする。誰が苦労してつないだかなど、走っている人間はいちいち考えません。 荷物を運ぶ側から見えた道 大学を出て信用金庫に入り、その後、佐川急便へ移りました。新木場のデポです。 意外に思われるかもしれませんが、佐川急便時代に仕事で東北道を走ったことはありません。担当エリアを回って荷物を集め、届けるのが私の仕事でした。 けれど──と、いまになって思うのです。 私が集荷した荷物は、高速道路のおかげで全国各地へと迅速に届けられていました。反対に、全国各地から、私の担当エリアのお客さまあての荷物が到着していました。当たり前のように毎日を過ごしていましたが、それってとんでもないことですよね。 葛飾で受け取った小さな段ボールが、翌日には青森にある。青森で出された荷物が、翌日には私の手元にある。それを支えていたのが、昭和六十二年九月九日に一本になった、あの背骨でした。 いま私は路線バスの運転士ですから、仕事で高速道路を使うことはありません。けれど、無関係でもないのです。 高速道路が通行止めになると、本来そこを走るはずだった車が下の道へ流れてきて、思わぬ渋滞が発生します。地上の道と高架の道は、そうやってつながっています。 その高速道路そのものを、まるごと一冊で扱った新書があります。なぜサービスエリアはあの間隔なのか、料金はどう決まっているのか。毎日ハンドルを握る人ほど、たぶん面白く読めます。 ...

September 9, 2026

9月4日 ── ランランが死んだ日、いつでも見られると思っていた|昭和の今日は何があった日?

午前1時24分 昭和54年(1979年)9月4日の未明、上野動物園のパンダ舎で、ランランが息を引き取りました。午前1時24分のことでした。 前の日の夕刊は、こう伝えています。「こん睡状態続くランラン いちるの望み託して 一時は注射に反応」。日本中が、まだ望みを捨てていませんでした。 ランランは、日本で最初のジャイアントパンダでした。昭和47年(1972年)に中国からやってきて、7年足らず。推定10歳でした。 行列2キロ、観覧時間30秒 パンダが日本に来たのは、昭和47年9月の日中国交正常化を記念してのことでした。北京動物園で飼われていた個体のなかから、容姿も性格も最も優れた2頭が選ばれたといいます。中国名はシンシンとアルシン。来日にあたって、カンカンとランランと名づけ直されました。 2頭が上野動物園に到着したのは、同年10月28日。当時の内閣官房長官・二階堂進が、わざわざ羽田空港まで専用機を出迎えに行ったというのですから、国を挙げての一大事だったことがわかります。 一般公開は11月5日。この日から、日本中が文字どおり熱に浮かされました。公開初日の見物客は約6万人。最盛期には毎日平均1万5千人が訪れ、行列は長さ2キロメートル、待ち時間は2時間。それでいて、実際にパンダを見られる時間はわずか30秒だったといいます。 2時間並んで、30秒。 私はこのとき3歳ですから、この熱狂そのものの記憶はありません。物心ついたときには、パンダはもう「上野にいて当たり前の動物」でした。 京成線で一本、上野動物園 私にとって、上野動物園はかなり身近な場所でした。 京成高砂から京成上野まで、京成線で一本。乗り換えなしで着いてしまう。家族でも行きましたし、保育園の遠足でも行きました。行こうと思えば行ける場所に、それはありました。 だからでしょうか。パンダに対しては、グッズを持つほどの興味はありませんでした。ぬいぐるみも、文房具も、私の身のまわりにはなかったと思います。「見ようと思えばいつでも見られる」という思いが、どこかにあったのかもしれません。 「パンダを見に行った」という友だちの話は、もちろん聞きました。でも、そこで胸が騒ぐということもなかった。当時の私の興味は、もっぱらウルトラマンや仮面ライダーのほうに向いていましたから。 日本中が2時間並んでいたものを、私は電車で一本のところに置いたまま、特に見に行こうともしなかった。今思うと、ぜいたくな話です。 お腹のなかに、いた ランランが倒れたのは、昭和54年8月のことでした。自然妊娠のあとに妊娠中毒症や尿毒症などの合併症を起こし、腎不全に陥ったのです。腹膜透析まで行う懸命な看護が続けられましたが、9月4日、力尽きました。 そして、亡くなったランランのお腹のなかには、10センチほどに育った胎児がいました。 カンカンとランランの間に赤ちゃんが生まれることは、当時の日本人にとって長年の悲願でした。その年の5月には3年連続の交尾成功が報じられ、期待は最高潮に達していたのです。あと少しでした。 翌年の昭和55年6月30日には、残されたカンカンも心不全で亡くなりました。日本の「最初のパンダ」の時代は、こうして2年足らずのうちに終わりました。 憶えていない、ということ さて、ここで正直に書いておかなければなりません。 昭和54年9月4日、私は小学4年生でした。10歳です。ニュースを見た記憶があってもおかしくない年齢ですが、憶えていないのです。 テレビで見たのか、新聞で読んだのか、朝の食卓で親が話していたのか。学校で話題になったのか、先生が何か言ったのか。悲しかったのか、「ふーん」で終わったのか。お腹に赤ちゃんがいたことを当時知っていたのかどうかも。 ひとつも憶えていません。 これを書きながら思うのは、遠かったから憶えていないのではない、ということです。むしろ逆かもしれません。上野は電車で一本で、パンダはいつでもそこにいて、いつでも見られるはずのものでした。あまりに日常の風景の一部になっていたものが欠けたとき、10歳の私はその欠けたことに気づかなかった。 いつでも見られると思っていたものが、その日、見られなくなっていた。そのことに気づかないまま、私は次の日も学校へ行ったのだと思います。 「さよならランラン」というレコード ランランの死から1か月後の昭和54年10月5日、日本クラウンから1枚のシングルレコードが発売されました。タイトルは「さよならランラン」。 収録されていたのは、歌ではありません。A面が「さよならランラン(元気なときのランランの声)」、B面が「がんばってカンカン(かなしいカンカンの声)」。ふたつとも、パンダの鳴き声そのものでした。 追悼盤としてパンダの鳴き声のレコードが売り出され、それが商品として成立してしまう。昭和という時代の熱量を、これほどよく表しているものもない気がします。今なら、まず企画会議を通らないでしょう。 けれども、笑ってしまうと同時に、少しわかる気もするのです。日本中が、あの2頭を本気で自分たちの家族のように思っていた。だから声が聴きたかった。それだけの話なのだと思います。 五人の子の父親になって ランランのことを、こうして今になってあらためて知ると、不思議な気持ちになります。 昭和54年の9月4日、ランランが亡くなったとき、私はまだ10歳でした。この出来事そのものは、ほとんど記憶に残っていません。 でも、いま五人の子どもの父親になった自分が、ランランの最期についての記事を読むと、当時とはまったく違うところに目が行きます。 ランランのお腹の中には、10センチほどの胎児がいた。 この事実です。 当時の私は、そんなことを知ったとしても、たぶん「パンダの赤ちゃんがいたんだ」くらいにしか思わなかったでしょう。でも今は、子どもを五人育ててきたからこそ、その10センチの命を想像してしまいます。 まだ生まれてもいない、小さな命。母親のお腹の中で育っていて、これから生まれてくるはずだった命。ランラン自身も、もう少しで母親になれたのかもしれません。 そう考えると、「ランランが死んでしまった」というニュースだけではなく、そのお腹の中にいた小さな命まで一緒に失われたのだと思えてきます。 子どもを持つ前だったら、ここまで感じなかったでしょうね。自分が親になって、子どもの成長を一人ひとり見てきたからこそ、命というものの重さが少しずつ分かってきたのだと思います。 動物園という場所が、いま何をしているのかを知る本があります。生まれてから死ぬまで、一頭の動物の一生をどう支えるか。あの日のランランに、いまの動物園なら何ができたのだろうかと、つい考えてしまいました。 いのちをつなぐ動物園 生まれてから死ぬまで、動物の暮らしをサポートする京都市動物園 生き物・学び・研究センター編。動物福祉、環境エンリッチメント、繁殖と研究。飼育下で一生を過ごす動物の幸せをどう考えるかを、スタッフ自身が書いた一冊。星4.3 Amazonで見る › 動物園という場所 パンダという存在についても、今は少し違った見方をします。 ...

September 4, 2026

9月3日 ── あいつは、私と同い年だった|昭和の今日は何があった日?

今日は9月3日。 この日が誕生日だという有名人は、たぶん何人もいます。けれど、日本でいちばん有名な「9月3日生まれ」は、人間ではありません。 2112年9月3日生まれ。ドラえもん。 まだ生まれていないのです。あと86年、待たなければならない。それなのに私たちは、毎年この日を誕生日として祝ってきました。考えてみると、ずいぶん不思議な記念日です。 あいつは、私と同い年だった このシリーズを書いていると、たまに驚くことがあります。今日もそうでした。 『ドラえもん』の連載が始まったのは、1969年(昭和44年)12月。小学館の学年誌6誌——『よいこ』『幼稚園』『小学一年生』から『小学四年生』まで——の1970年1月号に、いっせいに載りました。 1969年。私が生まれた年です。私は4月生まれですから、ドラえもんが世に出たとき、私は生後8か月ということになります。 つまり、あいつは私と同い年でした。このブログの名前が「昭和44年男」であることを思うと、なんだか可笑しい。 もっとも、最初からうまくいったわけではありません。6誌に同時連載されたにもかかわらず、当初はさして注目されなかったといいます。1973年(昭和48年)に日本テレビでアニメ化されたものの、制作会社の解散により半年で終了。人気も一段落したとみなされ、連載終了さえ検討されました。 そして1974年(昭和49年)3月、『小学四年生』に「さようなら、ドラえもん」が掲載されます。ドラえもんが未来へ帰る、あの回です。当時4歳の私はまだ何も知りませんが、あれは本当に最終回として描かれたのでした。 けれど作者は思い直し、翌月「帰ってきたドラえもん」を描きます。あの一回の翻意がなければ、今日という記念日そのものが存在しなかったことになります。 ちなみに誕生日が「2112年9月3日」と決められたのも、連載開始からしばらく経ってからでした。1975年(昭和50年)4月号の『小学四年生』に載った「ドラえもん大事典」で、はじめてドラえもんの誕生から出発までが描かれたのです。身長129.3センチ、体重129.3キロという数字も有名ですが、これは連載当時の小学4年生の平均身長にちなんだものだといわれています。のび太を見下ろさない、同じ高さの目線。学年誌に載る漫画は、その学年の子どものために描かれるのだと、あらためて思います。 私の出会いは、のろいのカメラだった 私がドラえもんとはっきり出会った場面を、いまでも覚えています。 小学3年生。イトーヨーカドー高砂店の3階にあった本屋さんでした。棚から手に取ったのが、てんとう虫コミックスの『ドラえもん』第4巻です。 そのとき私は、まだコロコロコミックを知りませんでした。テレビでの放映も、まだ始まっていません。学年誌でもなく、友達の家でもなく、本屋の棚。あの一冊が、私とドラえもんの最初の一歩でした。 そして第4巻の巻頭に載っているのが、「のろいのカメラ」です。 つまり私がドラえもんという漫画で最初に読んだ話は、これでした。 シャッターを切ると、写した相手そっくりの人形が出てくるカメラ。その人形を叩けば、本人にも痛みが伝わる。バラバラにすれば、本当にバラバラになる。ドラえもん自身が、出すのをためらった道具です。 いま思えば、ずいぶんなご挨拶でした。空を飛ぶでも、どこかへ行けるでもない。人を呪うための道具です。それが、私にとってのひみつ道具の第一号だった。 もっとも、9歳の私はそんなことは考えていません。ただ、面白いものを見つけた、と思っただけです。 本はその本屋さんで買っていました。そしてもうひとつ、読める場所がありました。児童館です。あそこにはドラえもんがかなり揃っていて、私はよく読んでいました。買うのと、借りて読むのと。あの頃の子どもにとって、漫画に手が届く道は、そう多くはありません。その両方が、私の場合は高砂にありました。 その第4巻は、いまも同じ形で売られています。目次を確かめてみたら、やはり第1話が「のろいのカメラ」でした。四十数年前に本屋の棚で開いた、あのページです。 ドラえもん(4)(てんとう虫コミックス)藤子・F・不二雄/小学館。第1話「のろいのカメラ」から「ソノウソホント」「アベコンベ」「石ころぼうし」まで収録。星4.7(273件) Amazonで見る › 放送が始まるまでの、あのワクワク いま私たちが「ドラえもん」と聞いて思い浮かべるアニメが始まったのは、1979年(昭和54年)4月2日。テレビ朝日系です。 当初は今のような形ではありませんでした。月曜から土曜までの帯番組で、1回10分。夕方に毎日ちょっとずつ流れる、そういう番組だったのです。あの金曜夜7時の30分枠に移ったのは、1981年(昭和56年)10月2日から。私が小学6年生の秋でした。 私にとって強く残っているのは、圧倒的に前者——夕方の帯番組のほうです。 正確に言えば、番組そのものよりも、始まると知ってから、実際に放送されるまでの間の記憶です。あのワクワク感は凄かった。クラスの友達との話題も、その事についてが大半を占めていたと思います。 考えてみれば当然でした。私はもう第4巻を読んでいる。あいつがどんな顔で、どんな道具を出すのかを知っている。その知っているものが、動いて、喋る。しかも毎日夕方にやってくる。始まる前から面白いに決まっていたのです。 一方で、映画のほうは記憶がありません。翌1980年(昭和55年)3月15日に第1作『のび太の恐竜』が公開され、以後、春休みに映画館へ行くという習慣が日本中の子どもに生まれるわけですが、私はそこに加わっていない。 理由ははっきりしています。すでに私は野球少年でした。興味は、完全にそちらへ向かっていたのです。 なお、この夕方という時間帯には、私はもう一度べつの作品と出会うことになります。そちらは再放送でしたが。 「どこでもドアがあったら」 ひみつ道具の話は、よくしました。 私が欲しいと言っていたのは、どこでもドアだったと思います。 下校途中でした。友達と歩いて帰りながら、「どこでもドアがあったら、一瞬で家に着くのにな〜」なんて話していた。 いま思えば、笑ってしまうような望みです。歩いて帰るのが面倒だ、ただそれだけの理由でした。けれど子どもの願いというのは、たいていそういうものです。壮大な夢ではなく、目の前のちょっと面倒なことを、なんとかしてほしい。 そしてこの願いだけは、いまだに叶っていません。 連載開始のあの1970年1月号は、6誌それぞれで違う第1話が載っていました。その6種類を全部まとめた一冊が出ています。私が生まれた年に、6つの学年に向けて別々に描かれたものが、いま一冊で読めるわけです。 ドラえもん 0巻(てんとう虫コミックス)藤子・F・不二雄/小学館。6種類の「幻の第1話」を初出バージョン&完全カラーで収録。伝説の予告や、創作秘話まんが「ドラえもん誕生」も。星4.4(1,435件) Amazonで見る › 五人の子どもと、ドラえもん 今、私は五人の子どもを持つ父親になりました。 ...

September 3, 2026