十円玉を握って、走った──9月11日、公衆電話の日|昭和の今日は何があった日?

今の子どもに「公衆電話でかけてみて」と言ったら、たぶん固まる。受話器を上げるのが先か、お金を入れるのが先か。それ以前に、受話器という言葉が通じるかどうか。 私たちの世代には、考えるまでもない動作だった。受話器を上げて、十円玉を落として、番号を押す。あの一連の流れを、体のほうが覚えている。 9月11日は「公衆電話の日」。今日は、街角からだんだん姿を消していった、あの箱の話をしたい。 明治三十三年、上野と新橋に置かれた「自働電話」 1900年(明治33年)9月11日、東京の上野駅と新橋駅の構内に、日本で初めての街頭公衆電話が設置された。上野駅は駅長室の前、新橋駅は中等待合室の前。それまで公衆電話は電信局や電話局の建物の中にしかなかったから、この日は「電話が街へ出た日」ということになる。 当時の呼び名は「自働電話」。アメリカの街頭電話に掲げられていた「オートマティック・テレホン」をそのまま直訳したものだといわれている。ところが名前に反して、中身はまったく自動ではなかった。受話器を上げると交換手が出る。つないでほしい相手を口で伝える。そのうえで硬貨を入れる。ダイヤルもボタンも、そもそも付いていない。 面白いのは料金の確認方法だ。5銭と10銭で投入口が二つあって、硬貨が落ちていく途中で音が鳴る仕掛けになっていた。5銭はゴングで「チーン」、10銭はらせん状の鐘で「ボーン」。交換手はその音を電話越しに聞いて、いくら入ったかを判断していたという。耳でお金を数えていたわけだ。しかもこの方式、戦後までおよそ五十年にわたって使われ続けた。 料金は市内一通話五分で15銭。当時の米一升とだいたい同じ値段だったというから、気軽にかけられるものではない。翌10月には、京橋のたもとに六角錐の形をした最初の屋外用電話ボックスが立つ。「公衆電話」という名前に変わるのは1925年(大正14年)、交換手を介さない自動式が入ってからのことだ。 赤、青、黄、そして緑 私が子どもだった昭和40年代から50年代、公衆電話は色で覚えるものだった。 いちばん身近だったのは赤電話だ。昭和26年に委託公衆電話という仕組みが始まり、28年から赤に統一された。店先にちょこんと置かれている、あの丸っこいやつ。その形と色から「赤ダルマ」と呼ばれていたそうだ。高砂でも、たばこ屋の店先には赤電話があったと思う。 ボックス用には青電話があった。昭和47年には100円玉が使える黄電話が登場する。それまでは通話の途中で十円玉を追加で放り込まなければならなかったから、百円が使えるというのは当時としてかなりの進歩だった。 同じ昭和47年には、喫茶店や食堂の帳場に置かれる大型のピンク電話も出てくる。昭和50年にはプッシュ式。十年ほどのあいだに、公衆電話はずいぶんカラフルになっていった。 そして駅前だ。高砂の駅前には電話ボックスがあって、中にあったのは緑色の電話だった。駅前だけではない。街のあらゆる場所にボックスが立っていて、あるのが当たり前の景色だった。 ここで記録と突き合わせておくと、ボックス用として最初に置かれたのは青電話で、緑色が主流になるのは昭和57年のカード式公衆電話が出てからのことになる。つまり、私が子どもの頃に「あそこにボックスがある」と覚えた風景と、自分で扉を開けて中に入るようになった高校時代とのあいだに、電話機のほうも一度入れ替わっていたわけだ。 景色は変わっていないつもりでいて、中身は静かに更新されている。街というのは、だいたいそういうふうにできている。 駅前のボックスに、列ができていた 私が公衆電話を本格的に使うようになったのは、高校生になってからだ。 駅前の電話ボックスに列ができている様子は、はっきり記憶に残っている。一人が入ると、外で二人、三人が待っている。中の人の様子はガラス越しに丸見えで、長引くと自然に視線が刺さる。今思えばあれは、通話のマナーを街ぜんぶで見張っているような光景だった。 ポケットに十円玉が何枚あるか、話しながら頭のどこかで数えている。表示が減っていく。あと一枚しかない。用件を先に言え、と自分に言い聞かせる。そして一番言いたいことを言い残したまま、ぷつりと切れる。 忘れられないのは、友達数名で、気になっている女子の家に順々に電話をかけたことだ。家の電話だから、出るのが本人とはかぎらない。お母さんが出たらどうする。名乗るのか、名乗らないのか。受話器を握る手が汗ばんで、次の一人に代わる。あのハラハラドキドキは、電話が一軒に一台しかなかった時代にしか成立しないものだったと思う。 相手の家族を経由しないと、好きな子の声にたどり着けない。今の子どもたちには、たぶん一生わからない緊張だ。 カードが、通話を持ち歩かせた 昭和57年(1982年)12月23日、東京・銀座の数寄屋橋公園に、日本で初めて磁気式のテレホンカードが使えるカード式公衆電話が設置された。翌昭和58年にはカードの自動販売機が登場し、昭和60年には電電公社が民営化されてNTTが発足する。 テレホンカードは500円から5000円まで四種類。十円単位で引き落とされるから硬貨のような無駄が出ないし、何より、一枚持っていれば十円玉を探さなくてよくなった。今にして思えば、あれは「通話を個人が持ち歩く」という発想の、いちばん最初の形だったのかもしれない。 高校生になってからは、私も常にテレホンカードを持つようになった。買うだけでなく、いろいろな場面でいただくことも多かった。企業が販促に使い、アイドルや風景の写真が刷られ、集める人が現れる。電話をかけるための道具が、かけずに取っておくものになっていった。 ひとつ、今でも引っかかっている光景がある。上野で、イラン人と思われる人たちがテレホンカードを盛んに売っていた。私は買ったことがないが、あれはいったい何だったのか。 調べてみると、あれは昭和ではなく平成に入ってからの風景で、出回っていたのは「変造テレホンカード」と呼ばれるものだったらしい。使い終わったカードの磁気データを書き換えて度数を戻し、額面より安い値段で売る。NTT側の被害は相当な額にのぼり、後の電話機がカード対策を厚くしていく直接の理由になった。 便利なものが広まると、その裏側を突く商売も必ず生まれる。テレホンカードの十数年は、そのことを一枚の薄いカードで見せてくれた気もする。 その公衆電話が、手のひらサイズの模型になっている。緑の機械も、ピンクのダイヤル式も。あの形をもう一度近くで見ると、思い出すことが山ほどあります。 NTT東日本 NTT西日本 公衆電話ガチャコレクション 番外編 全6種セットタカラトミーアーツ(再販)。ダイヤル式ピンク電話を含む全6種のフルコンプセット。手のひらサイズの精巧なミニチュア。星4.0 Amazonで見る › 「なくなってから気づく」もの 公衆電話は今、ずいぶん減った。携帯電話が一人一台になった以上、それは当たり前のことだ。 ...

September 11, 2026

色は先に来て、水はあとから来た──9月10日、カラーテレビと下水道の日|昭和の今日は何があった日?

9月10日には、まったく毛色の違う二つの記念日が重なっています。 ひとつは「カラーテレビ放送記念日」。もうひとつは「下水道の日」。 片方は華やかで、もう片方は地味です。片方は茶の間の真ん中にあり、もう片方は地面の下にあります。子どもの頃の私が覚えているのは、当然のように前者だけでした。 ところがこの二つを並べてみると、昭和の家がどう変わっていったのかが、驚くほどはっきり見えてきます。 昭和35年9月10日、茶の間に色がついた 1960年(昭和35年)9月10日、NHK、日本テレビ、ラジオ東京テレビ(現在のTBS)、読売テレビ、朝日放送の5局が、東京と大阪でカラーテレビの本放送を始めました。アメリカ、キューバに次いで世界で3番目のことです。 ただ、この日を境にみんなの家が一斉に色づいたわけではありません。 当時のカラー受像機は21型で50万円ほど。白黒テレビの10倍近い値段でした。しかもカラー番組は、一日に一時間あるかないかという時期が続きます。 数字を見ると、その遅さがよくわかります。カラーテレビの世帯普及率は、統計に現れる最初の年である1966年(昭和41年)でわずか0.3%。そこから急な坂を登り始め、1971年に42.3%、1972年に61.1%、そして1975年(昭和50年)に90.3%。放送開始から15年かかって、ようやく十軒に九軒までたどり着いたことになります。 私が生まれたのは昭和44年。この坂のちょうど途中に生まれ落ちたことになります。 そして実際、私には白黒テレビを見た記憶があります。 『仮面ライダー』の2号。『ウルトラマンA』。『ウルトラマンタロウ』。このあたりは、白黒で観ていた記憶があるのです。 ここで少しややこしいのは、これらの番組はどれもカラーで放送されていたということです。色がなかったのは番組のほうではなく、我が家の受像機のほうでした。テレビ局はとっくに色を送っていたのに、それを受け取る箱がまだ白黒だったのです。 我が家に色がやって来たのは、高砂駅のそばから中川の土手のそばへ引っ越した後のことだったと思います。観音扉のついたテレビ台に載った、18型のカラーテレビ。チャンネルはもちろん、ガチャガチャと回す式でした。 タロウとゴレンジャーのあいだ 面白いのは、テレビが色を手に入れたことで、番組のつくり方まで変わっていったことです。 1966年(昭和41年)の『ウルトラマン』では、胸のカラータイマーが点滅して残り時間を知らせます。白黒テレビで見ている人にもわかるよう、明滅という「動き」で伝える工夫でした。まだ多くの家が白黒だった時代の設計です。 ところが1975年(昭和50年)、『秘密戦隊ゴレンジャー』が始まります。赤、青、黄、桃、緑。もう色そのものが登場人物の名前になっている。白黒テレビでは成立しない番組です。 そして私は、ゴレンジャーははっきりとカラーで観ていました。 自分の記憶を並べ直すと、我が家のテレビが色を手に入れた時期が、かなり狭く絞り込めます。 『ウルトラマンタロウ』が終わったのが昭和49年(1974年)の春。『秘密戦隊ゴレンジャー』が始まったのが昭和50年(1975年)の春。前者は白黒で、後者はカラーで観ている。つまり我が家に18型が来たのは、そのあいだの一年ということになります。 全国の普及率が90%を超えたのが、まさに昭和50年です。我が家は、坂を登りきる集団の、少し後ろのほうを歩いていたことになります。 その『秘密戦隊ゴレンジャー』だけを一冊にまとめたムックがあります。五人の設定も、放送リストも、当時の写真も。あの春に何が始まったのかが、まるごと入っています。 スーパー戦隊 Official Mook 20世紀 1975 秘密戦隊ゴレンジャー(Kindle版)講談社シリーズMOOK。昭和50年春に始まった第1作を一冊で総覧。キャラクター設定から全話リストまで。星4.5(54件) Amazonで見る › もうひとつの9月10日 さて、同じ9月10日は「下水道の日」でもあります。 始まりは1961年(昭和36年)。当時の建設省と厚生省、そして今の日本下水道協会の前身が協議して、「全国下水道促進デー」として定めました。2001年(平成13年)に、より親しみやすい名前へと改称されて今に至ります。 制定の理由は切実でした。当時の日本の下水道普及率は、わずか6%。諸外国に比べて著しく遅れており、全国に訴えかける必要があったのです。 なぜ9月10日なのか。この日がちょうど、立春から数えて220日目の「二百二十日」にあたるからです。昔から大きな台風が来る日とされてきました。下水道の大事な仕事のひとつは、汚水を流すことではなく雨水を流すこと。街を水浸しにしないことです。台風の日に下水道を思い出してほしい、というわけです。 葛飾は、ずっとあとだった ここからが、私にとっての本題です。 葛飾区の下水道整備がどう進んだのか、区史に記録が残っています。 葛飾区の下水道事業が動き出したのは、昭和48年(1973年)6月のことです。小菅処理場の一部が動き始め、小菅・堀切地区で下水道管の設置工事に着手しました。この年度の区の普及率は、1%です。 同じ年度、東京都区部全体の普及率は58%でした。 つまり葛飾は、都心が半分以上終わっている時点で、ようやくスタートラインに立ったのです。昭和59年(1984年)度にやっと50%を超え、100%にほぼ達したのは平成7年(1995年)度。事業開始から23年目のことでした。 昭和48年に私は4歳。昭和59年には15歳、中学三年生です。私が高砂で子ども時代を過ごしたあいだ、葛飾のほとんどの土地には、まだ下水道が通っていなかったことになります。 ...

September 10, 2026

9月9日 ── 最後の四・八キロがつながった日、私は完全に凍りついていた|昭和の今日は何があった日?

九月九日。昭和六十二年(一九八七年)のこの日、日本の地図の上で、一本の線がようやくつながりました。 埼玉県の川口ジャンクションと浦和インターチェンジのあいだ、わずか四・八キロ。この短い区間の開通で、東北自動車道は全線開通しました。同じ日、首都高速川口線も開通して、首都高と東北道がひと続きになります。 結果、青森インターチェンジから熊本の八代インターチェンジまで、約二千キロが高速道路一本でつながりました。北の端から南の端まで、一度も一般道に降りずに走り切れる。日本列島に、初めて縦の背骨が通った日でした。 曜日でいえば、水曜日。その日、私は十八歳の高校三年生でした。 十五年かかった、一本の道 東北道が最初に開通したのは、昭和四十七年(一九七二年)十一月十三日。岩槻インターから宇都宮インターまでの九十二・五キロです。私はまだ三歳、葛飾の高砂で、線路のそばの家に暮らしていました。 そこから東北道は、少しずつ北へ伸びていきました。矢板、白河、郡山、白石、仙台、一関、盛岡。年に一区間、二区間というペースで、東北の背骨が一節ずつつながっていきます。そして昭和五十四年(一九七九年)九月、私が小学四年生の秋に、ついに青森インターまで到達しました。 はるか北の青森までは、昭和五十年代のうちにもう届いていたのです。 ところが、です。東京にいちばん近いところが、最後まで残りました。浦和から川口までの四・八キロ。開通は、青森到達から八年も後のことでした。 事業費は三百五十億円。一キロあたり七十億円を超えます。人家の密集した都市部に高速道路を通すのは、山を貫くのとはまるで違う難しさがあったのでしょう。いちばん短い区間が、いちばん最後まで残った。地図の上のほんの数ミリを埋めるために、十五年が必要だったわけです。 「葛飾川口線」という名前 同じ日に開通した首都高速川口線のほうにも、葛飾に住む者として見逃せない話があります。 首都高川口線は、足立区の江北ジャンクションから、埼玉県川口市の川口ジャンクションまでを結ぶ路線です。地図をなぞればわかるとおり、葛飾区は通っていません。 ところが、この道路の道路法上の正式な路線名は、「東京都道・埼玉県道242号 高速葛飾川口線」。葛飾、なのです。 なぜかというと、この路線名の指定区間には、川口線そのものに加えて、中央環状線の小菅ジャンクションから江北ジャンクションまでが含まれているからです。小菅は、葛飾区。つまり法律の上では、この道は葛飾から始まって川口に至る道、ということになっている。 青森から八代までをつないだ最後のピース。その出発点に、こっそり「葛飾」の名前が入っていた。地元の名が、日本列島の背骨の付け根に刻まれていたわけです。 十八歳の秋、私は完全に凍りついていた その歴史的な水曜日、私は何をしていたか。正直に書きます。完全にフリーズ状態でした。 七月二十三日、神宮第二球場での試合を最後に、私の高校野球は終わりました。二対三。あれほど毎日を埋め尽くしていたものが、ある日ぱたりとなくなった。そのあとに残ったのが、九月の私でした。 進路について、やりたいこと、やれること、やらねばならないこと。そのすべてを棚上げしてきた当然の結果です。棚上げ、と書きましたが、正確に言えば違います。考えたくなかったから、逃避していた。それが正しい。 だから、この日のニュースについては、まったく覚えがありません。青森から八代までが一本になった、と新聞もテレビも伝えていたはずですが、十八歳の私には何ひとつ届いていませんでした。 日本の道が縦につながったその日、私はどこへも進めずに止まっていた。並べて書いてみると、ずいぶん皮肉な取り合わせです。 車のない家に育って、二十歳で運転席に座った そもそも子どものころ、うちには車がありませんでした。だから「高速道路」が、生活の中にまったくなかったのです。 高速道路は、テレビの中や地図の上にあるものでした。走ったこともなければ、乗せてもらったこともない。 私が自分で高速道路を運転するようになったのは、一年浪人して大学に入り、運転免許を取って、ローンで車を買ってからです。 当時は、車がなければ彼女もできないような時代の雰囲気がありました。思い込みだったのかもしれませんが、少なくとも私はそう感じていました。 そして、自分の車を持てたときは、本当に嬉しかった。ただ運転しているだけでも、喜びがこみ上げてきました。どこへ行くというわけでもなく、ハンドルを握っているだけで楽しい。あの感覚は、たぶん一生に一度しか味わえないものです。 その道を、私は当たり前のように走っていた 大学時代、私はスキーによく出かけました。宮城県の蔵王、岩手県の安比高原。東北道を使って、いろいろなところへ行きました。 ──ここで、話がつながります。 葛飾から東北のスキー場へ向かうということは、首都高から川口ジャンクションへ入り、東北道に乗るということです。つまり私は、あの四・八キロを通っていたのです。 十五年かかったあの最後の区間。三百五十億円かけて埋められた地図の空白。それを私は、開通からたった二年後に、何も知らないまま、当たり前の顔をして通過していた。「せっかくつながった道だ」などとは、これっぽっちも思っていません。スキー場のことしか頭になかったはずです。 道というのは、そういうものなのでしょう。できあがってしまえば、最初からそこにあった顔をする。誰が苦労してつないだかなど、走っている人間はいちいち考えません。 荷物を運ぶ側から見えた道 大学を出て信用金庫に入り、その後、佐川急便へ移りました。新木場のデポです。 意外に思われるかもしれませんが、佐川急便時代に仕事で東北道を走ったことはありません。担当エリアを回って荷物を集め、届けるのが私の仕事でした。 けれど──と、いまになって思うのです。 私が集荷した荷物は、高速道路のおかげで全国各地へと迅速に届けられていました。反対に、全国各地から、私の担当エリアのお客さまあての荷物が到着していました。当たり前のように毎日を過ごしていましたが、それってとんでもないことですよね。 葛飾で受け取った小さな段ボールが、翌日には青森にある。青森で出された荷物が、翌日には私の手元にある。それを支えていたのが、昭和六十二年九月九日に一本になった、あの背骨でした。 いま私は路線バスの運転士ですから、仕事で高速道路を使うことはありません。けれど、無関係でもないのです。 高速道路が通行止めになると、本来そこを走るはずだった車が下の道へ流れてきて、思わぬ渋滞が発生します。地上の道と高架の道は、そうやってつながっています。 その高速道路そのものを、まるごと一冊で扱った新書があります。なぜサービスエリアはあの間隔なのか、料金はどう決まっているのか。毎日ハンドルを握る人ほど、たぶん面白く読めます。 ...

September 9, 2026

9月4日 ── ランランが死んだ日、いつでも見られると思っていた|昭和の今日は何があった日?

午前1時24分 昭和54年(1979年)9月4日の未明、上野動物園のパンダ舎で、ランランが息を引き取りました。午前1時24分のことでした。 前の日の夕刊は、こう伝えています。「こん睡状態続くランラン いちるの望み託して 一時は注射に反応」。日本中が、まだ望みを捨てていませんでした。 ランランは、日本で最初のジャイアントパンダでした。昭和47年(1972年)に中国からやってきて、7年足らず。推定10歳でした。 行列2キロ、観覧時間30秒 パンダが日本に来たのは、昭和47年9月の日中国交正常化を記念してのことでした。北京動物園で飼われていた個体のなかから、容姿も性格も最も優れた2頭が選ばれたといいます。中国名はシンシンとアルシン。来日にあたって、カンカンとランランと名づけ直されました。 2頭が上野動物園に到着したのは、同年10月28日。当時の内閣官房長官・二階堂進が、わざわざ羽田空港まで専用機を出迎えに行ったというのですから、国を挙げての一大事だったことがわかります。 一般公開は11月5日。この日から、日本中が文字どおり熱に浮かされました。公開初日の見物客は約6万人。最盛期には毎日平均1万5千人が訪れ、行列は長さ2キロメートル、待ち時間は2時間。それでいて、実際にパンダを見られる時間はわずか30秒だったといいます。 2時間並んで、30秒。 私はこのとき3歳ですから、この熱狂そのものの記憶はありません。物心ついたときには、パンダはもう「上野にいて当たり前の動物」でした。 京成線で一本、上野動物園 私にとって、上野動物園はかなり身近な場所でした。 京成高砂から京成上野まで、京成線で一本。乗り換えなしで着いてしまう。家族でも行きましたし、保育園の遠足でも行きました。行こうと思えば行ける場所に、それはありました。 だからでしょうか。パンダに対しては、グッズを持つほどの興味はありませんでした。ぬいぐるみも、文房具も、私の身のまわりにはなかったと思います。「見ようと思えばいつでも見られる」という思いが、どこかにあったのかもしれません。 「パンダを見に行った」という友だちの話は、もちろん聞きました。でも、そこで胸が騒ぐということもなかった。当時の私の興味は、もっぱらウルトラマンや仮面ライダーのほうに向いていましたから。 日本中が2時間並んでいたものを、私は電車で一本のところに置いたまま、特に見に行こうともしなかった。今思うと、ぜいたくな話です。 お腹のなかに、いた ランランが倒れたのは、昭和54年8月のことでした。自然妊娠のあとに妊娠中毒症や尿毒症などの合併症を起こし、腎不全に陥ったのです。腹膜透析まで行う懸命な看護が続けられましたが、9月4日、力尽きました。 そして、亡くなったランランのお腹のなかには、10センチほどに育った胎児がいました。 カンカンとランランの間に赤ちゃんが生まれることは、当時の日本人にとって長年の悲願でした。その年の5月には3年連続の交尾成功が報じられ、期待は最高潮に達していたのです。あと少しでした。 翌年の昭和55年6月30日には、残されたカンカンも心不全で亡くなりました。日本の「最初のパンダ」の時代は、こうして2年足らずのうちに終わりました。 憶えていない、ということ さて、ここで正直に書いておかなければなりません。 昭和54年9月4日、私は小学4年生でした。10歳です。ニュースを見た記憶があってもおかしくない年齢ですが、憶えていないのです。 テレビで見たのか、新聞で読んだのか、朝の食卓で親が話していたのか。学校で話題になったのか、先生が何か言ったのか。悲しかったのか、「ふーん」で終わったのか。お腹に赤ちゃんがいたことを当時知っていたのかどうかも。 ひとつも憶えていません。 これを書きながら思うのは、遠かったから憶えていないのではない、ということです。むしろ逆かもしれません。上野は電車で一本で、パンダはいつでもそこにいて、いつでも見られるはずのものでした。あまりに日常の風景の一部になっていたものが欠けたとき、10歳の私はその欠けたことに気づかなかった。 いつでも見られると思っていたものが、その日、見られなくなっていた。そのことに気づかないまま、私は次の日も学校へ行ったのだと思います。 「さよならランラン」というレコード ランランの死から1か月後の昭和54年10月5日、日本クラウンから1枚のシングルレコードが発売されました。タイトルは「さよならランラン」。 収録されていたのは、歌ではありません。A面が「さよならランラン(元気なときのランランの声)」、B面が「がんばってカンカン(かなしいカンカンの声)」。ふたつとも、パンダの鳴き声そのものでした。 追悼盤としてパンダの鳴き声のレコードが売り出され、それが商品として成立してしまう。昭和という時代の熱量を、これほどよく表しているものもない気がします。今なら、まず企画会議を通らないでしょう。 けれども、笑ってしまうと同時に、少しわかる気もするのです。日本中が、あの2頭を本気で自分たちの家族のように思っていた。だから声が聴きたかった。それだけの話なのだと思います。 五人の子の父親になって ランランのことを、こうして今になってあらためて知ると、不思議な気持ちになります。 昭和54年の9月4日、ランランが亡くなったとき、私はまだ10歳でした。この出来事そのものは、ほとんど記憶に残っていません。 でも、いま五人の子どもの父親になった自分が、ランランの最期についての記事を読むと、当時とはまったく違うところに目が行きます。 ランランのお腹の中には、10センチほどの胎児がいた。 この事実です。 当時の私は、そんなことを知ったとしても、たぶん「パンダの赤ちゃんがいたんだ」くらいにしか思わなかったでしょう。でも今は、子どもを五人育ててきたからこそ、その10センチの命を想像してしまいます。 まだ生まれてもいない、小さな命。母親のお腹の中で育っていて、これから生まれてくるはずだった命。ランラン自身も、もう少しで母親になれたのかもしれません。 そう考えると、「ランランが死んでしまった」というニュースだけではなく、そのお腹の中にいた小さな命まで一緒に失われたのだと思えてきます。 子どもを持つ前だったら、ここまで感じなかったでしょうね。自分が親になって、子どもの成長を一人ひとり見てきたからこそ、命というものの重さが少しずつ分かってきたのだと思います。 動物園という場所が、いま何をしているのかを知る本があります。生まれてから死ぬまで、一頭の動物の一生をどう支えるか。あの日のランランに、いまの動物園なら何ができたのだろうかと、つい考えてしまいました。 いのちをつなぐ動物園 生まれてから死ぬまで、動物の暮らしをサポートする京都市動物園 生き物・学び・研究センター編。動物福祉、環境エンリッチメント、繁殖と研究。飼育下で一生を過ごす動物の幸せをどう考えるかを、スタッフ自身が書いた一冊。星4.3 Amazonで見る › 動物園という場所 パンダという存在についても、今は少し違った見方をします。 ...

September 4, 2026

9月3日 ── あいつは、私と同い年だった|昭和の今日は何があった日?

今日は9月3日。 この日が誕生日だという有名人は、たぶん何人もいます。けれど、日本でいちばん有名な「9月3日生まれ」は、人間ではありません。 2112年9月3日生まれ。ドラえもん。 まだ生まれていないのです。あと86年、待たなければならない。それなのに私たちは、毎年この日を誕生日として祝ってきました。考えてみると、ずいぶん不思議な記念日です。 あいつは、私と同い年だった このシリーズを書いていると、たまに驚くことがあります。今日もそうでした。 『ドラえもん』の連載が始まったのは、1969年(昭和44年)12月。小学館の学年誌6誌——『よいこ』『幼稚園』『小学一年生』から『小学四年生』まで——の1970年1月号に、いっせいに載りました。 1969年。私が生まれた年です。私は4月生まれですから、ドラえもんが世に出たとき、私は生後8か月ということになります。 つまり、あいつは私と同い年でした。このブログの名前が「昭和44年男」であることを思うと、なんだか可笑しい。 もっとも、最初からうまくいったわけではありません。6誌に同時連載されたにもかかわらず、当初はさして注目されなかったといいます。1973年(昭和48年)に日本テレビでアニメ化されたものの、制作会社の解散により半年で終了。人気も一段落したとみなされ、連載終了さえ検討されました。 そして1974年(昭和49年)3月、『小学四年生』に「さようなら、ドラえもん」が掲載されます。ドラえもんが未来へ帰る、あの回です。当時4歳の私はまだ何も知りませんが、あれは本当に最終回として描かれたのでした。 けれど作者は思い直し、翌月「帰ってきたドラえもん」を描きます。あの一回の翻意がなければ、今日という記念日そのものが存在しなかったことになります。 ちなみに誕生日が「2112年9月3日」と決められたのも、連載開始からしばらく経ってからでした。1975年(昭和50年)4月号の『小学四年生』に載った「ドラえもん大事典」で、はじめてドラえもんの誕生から出発までが描かれたのです。身長129.3センチ、体重129.3キロという数字も有名ですが、これは連載当時の小学4年生の平均身長にちなんだものだといわれています。のび太を見下ろさない、同じ高さの目線。学年誌に載る漫画は、その学年の子どものために描かれるのだと、あらためて思います。 私の出会いは、のろいのカメラだった 私がドラえもんとはっきり出会った場面を、いまでも覚えています。 小学3年生。イトーヨーカドー高砂店の3階にあった本屋さんでした。棚から手に取ったのが、てんとう虫コミックスの『ドラえもん』第4巻です。 そのとき私は、まだコロコロコミックを知りませんでした。テレビでの放映も、まだ始まっていません。学年誌でもなく、友達の家でもなく、本屋の棚。あの一冊が、私とドラえもんの最初の一歩でした。 そして第4巻の巻頭に載っているのが、「のろいのカメラ」です。 つまり私がドラえもんという漫画で最初に読んだ話は、これでした。 シャッターを切ると、写した相手そっくりの人形が出てくるカメラ。その人形を叩けば、本人にも痛みが伝わる。バラバラにすれば、本当にバラバラになる。ドラえもん自身が、出すのをためらった道具です。 いま思えば、ずいぶんなご挨拶でした。空を飛ぶでも、どこかへ行けるでもない。人を呪うための道具です。それが、私にとってのひみつ道具の第一号だった。 もっとも、9歳の私はそんなことは考えていません。ただ、面白いものを見つけた、と思っただけです。 本はその本屋さんで買っていました。そしてもうひとつ、読める場所がありました。児童館です。あそこにはドラえもんがかなり揃っていて、私はよく読んでいました。買うのと、借りて読むのと。あの頃の子どもにとって、漫画に手が届く道は、そう多くはありません。その両方が、私の場合は高砂にありました。 その第4巻は、いまも同じ形で売られています。目次を確かめてみたら、やはり第1話が「のろいのカメラ」でした。四十数年前に本屋の棚で開いた、あのページです。 ドラえもん(4)(てんとう虫コミックス)藤子・F・不二雄/小学館。第1話「のろいのカメラ」から「ソノウソホント」「アベコンベ」「石ころぼうし」まで収録。星4.7(273件) Amazonで見る › 放送が始まるまでの、あのワクワク いま私たちが「ドラえもん」と聞いて思い浮かべるアニメが始まったのは、1979年(昭和54年)4月2日。テレビ朝日系です。 当初は今のような形ではありませんでした。月曜から土曜までの帯番組で、1回10分。夕方に毎日ちょっとずつ流れる、そういう番組だったのです。あの金曜夜7時の30分枠に移ったのは、1981年(昭和56年)10月2日から。私が小学6年生の秋でした。 私にとって強く残っているのは、圧倒的に前者——夕方の帯番組のほうです。 正確に言えば、番組そのものよりも、始まると知ってから、実際に放送されるまでの間の記憶です。あのワクワク感は凄かった。クラスの友達との話題も、その事についてが大半を占めていたと思います。 考えてみれば当然でした。私はもう第4巻を読んでいる。あいつがどんな顔で、どんな道具を出すのかを知っている。その知っているものが、動いて、喋る。しかも毎日夕方にやってくる。始まる前から面白いに決まっていたのです。 一方で、映画のほうは記憶がありません。翌1980年(昭和55年)3月15日に第1作『のび太の恐竜』が公開され、以後、春休みに映画館へ行くという習慣が日本中の子どもに生まれるわけですが、私はそこに加わっていない。 理由ははっきりしています。すでに私は野球少年でした。興味は、完全にそちらへ向かっていたのです。 なお、この夕方という時間帯には、私はもう一度べつの作品と出会うことになります。そちらは再放送でしたが。 「どこでもドアがあったら」 ひみつ道具の話は、よくしました。 私が欲しいと言っていたのは、どこでもドアだったと思います。 下校途中でした。友達と歩いて帰りながら、「どこでもドアがあったら、一瞬で家に着くのにな〜」なんて話していた。 いま思えば、笑ってしまうような望みです。歩いて帰るのが面倒だ、ただそれだけの理由でした。けれど子どもの願いというのは、たいていそういうものです。壮大な夢ではなく、目の前のちょっと面倒なことを、なんとかしてほしい。 そしてこの願いだけは、いまだに叶っていません。 連載開始のあの1970年1月号は、6誌それぞれで違う第1話が載っていました。その6種類を全部まとめた一冊が出ています。私が生まれた年に、6つの学年に向けて別々に描かれたものが、いま一冊で読めるわけです。 ドラえもん 0巻(てんとう虫コミックス)藤子・F・不二雄/小学館。6種類の「幻の第1話」を初出バージョン&完全カラーで収録。伝説の予告や、創作秘話まんが「ドラえもん誕生」も。星4.4(1,435件) Amazonで見る › 五人の子どもと、ドラえもん 今、私は五人の子どもを持つ父親になりました。 ...

September 3, 2026

9月2日 ── 金曜の夜十時は、父の休みの日だった|昭和の今日は何があった日?

9月2日。 この日に始まったものと、この日に決められたものを、ふたつ書きます。ひとつは土曜の夜10時に流れ始めた時代劇。もうひとつは「く(9)じ(2)」という語呂合わせでつくられた記念日です。 まったく関係のない二つに見えます。実際、関係はありません。ただ、書いているうちに、私のなかでは同じ場所につながってしまいました。 昭和47年9月2日、土曜22時 1972年(昭和47年)9月2日、土曜日の夜10時。『必殺仕掛人』の第1回「仕掛けて仕損じなし」が放送されました。朝日放送と松竹の共同製作で、当時はTBS系。翌1973年4月14日までの全33話でした。 原作は池波正太郎。表向きは人足の口入屋を営む音羽屋半右衛門(山村聡)を元締めに、鍼医者の藤枝梅安(緒形拳)、浪人剣客の西村左内(林与一)が、金銭と引き換えに、晴らせぬ恨みを晴らしていく。 いま思えば、とんでもない企てです。当時のテレビ時代劇は勧善懲悪が基本でした。正義の側が悪を裁く。それが約束ごとだった場所に、「金をもらって人を殺す者たち」を据えたのです。 その企てが当たりました。以後この作品は『必殺シリーズ』として、昭和が終わるまで続いていくことになります。 ちなみに私は、このとき3歳です。 記憶にございません。土曜の夜10時、3歳の私はとっくに寝かされていたはずです。あの伝説は、私の知らないところで始まっていました。 その第1回「仕掛けて仕損じなし」は、いまは分冊百科のかたちで手に入ります。三話ぶん入って900円ほど。3歳で寝ていた夜を、あとから見に行けるわけです。 必殺シリーズDVDコレクション 創刊号(必殺仕掛人 第1話〜第3話)第1話「仕掛けて仕損じなし」を含む3話収録。マガジンでは各話の解説、裏稼業のヒーローたちの関係や殺し技、時代背景まで。星4.2(69件) Amazonで見る › 私の必殺は、金曜の夜10時だった 私が必殺シリーズをリアルタイムで観るようになったのは、それから13年後です。 1985年(昭和60年)1月11日から7月26日まで放送された『必殺仕事人V』。テレビ朝日系、毎週金曜22時。このシリーズから、京本政樹さん演じる組紐屋の竜と、村上弘明さん演じる花屋の政が登場しました。 始まった1月、私は中学3年生。4月から高校1年生になりました。同じ年の11月15日からは続編の『必殺仕事人V・激闘編』が始まります。つまり高校1年生の一年間、私はずっと金曜の夜10時に必殺を観ていたことになります。 高校では野球部です。毎日ボールを追いかけて、泥だらけになって帰ってくる。それでも金曜の夜だけは、テレビの前に座っていました。 なぜ観られたのか。理由ははっきりしています。 父の休みが、金曜日だったからです。 週に一日しかない父の休み。その夜、父は必殺を観ていました。父も大好きだったのです。だから私も隣に座っていた。中学生が、高校生が、親と並んで夜10時のテレビを観る。あの時間だけは、そういう時間でした。 我が家のテレビに、はっきりした門限はありませんでした。とはいえ小学生の頃は「9時まで」というのが暗黙の了解だったように思います。それが中学、高校と上がるにつれて、なんとなく緩んでいった。金曜の夜10時に父の隣に座れるようになったことは、たぶん、私にとってひとつの通過点だったのだと思います。 中村主水という人 主演は藤田まことさん演じる中村主水。 あのギャップが、とにかく良かった。 昼間は奉行所の同心で、上司にも、家の姑と妻にも頭が上がらない。「昼行灯」と呼ばれて役所でも軽んじられている。ところが夜になると、まったく別の顔を持っている。 能ある鷹は爪を隠す──と言うと、ちょっと違うでしょうか。でも、そういう気持ちよさがありました。 毎回必ず人が死にますし、内容はちょっと薄暗い。決して明るい話ではありません。それでも中村主水の、あの「おとぼけ」の加減がいい塩梅なのです。あれがあるから観ていられる。 そして今になって思うのは、ストーリーそのものが、なんとなく現代の世の中を風刺しているように感じられたことです。江戸の話をしているはずなのに、どこかで今の話をしている。あの絶妙さがあったから、高校生の私も面白いと感じたのだと思います。 法では裁けない悪がある。訴え出ることもできない理不尽がある。それを子どもに教えたのは、学校でも新聞でもなく、金曜の夜10時のテレビでした。 教室で真似したもの 真似している子は、いました。というより、私もやりました。 中条きよしさん演じる三味線屋の勇次、京本政樹さんの組紐屋の竜。これはもう定番です。 そして『激闘編』から加わった、柴俊夫さん演じる「壱」。この人の技は「怪力」でした。ものすごい握力で相手の首を素手で締め上げる。あれを真似するのです。手加減がわからない年頃ですから、いま思えば危ない遊びでした。 『必殺仕事人』(1979年)の、三田村邦彦さん演じる飾り職人の秀は、のちの再放送で観ました。確かにかっこよかった。最初はまだ仕事人として未熟だったのが、回を重ねるうちに技が洗練されていく。あの成長が描かれていたのを覚えています。その役柄は、のちに村上弘明さんの花屋の政へと受け継がれていきました。 観てはいけない時間のテレビ 必殺は父と一緒に観ていたので、堂々としたものでした。 けれど、そうではないものもあります。 中学生になってからですが、『11PM』と『トゥナイト』。これは思い出しますね。観てはいけないと明確に言われたわけではありません。ただ、あれは明らかに子どもが観る番組ではなかった。だからこそ記憶に残っています。 一方で、両親と一緒に観ていた時代劇もたくさんありました。『水戸黄門』『暴れん坊将軍』『桃太郎侍』『長七郎江戸日記』。家族で観るものと、こっそり観るもの。昭和の家庭のテレビには、その両方がありました。 いま、我が家には5人の子どもがいます。「これは早い」という線引きは、特にありません。 というより、そもそも地上波のテレビをほとんど観なくなりました。みんなYouTubeなどで、それぞれ好きなものを観ています。同じ時間に、同じ画面を、家族で囲むということ自体がなくなった。 父の休みが金曜日で、だから私は必殺を観ていた。あんな理由で番組と出会うことは、もうないのだろうと思います。 映像より先に、活字のほうを読んでみるのもいいかもしれません。緒形拳さんが演じたあの鍼医者が、池波正太郎の文章のなかでどう動いていたのか。第1弾がこれです。 新装版・殺しの四人 仕掛人・藤枝梅安(一)(講談社文庫)池波正太郎/講談社。品川台町の鍼医師・藤枝梅安。表の顔は名医、その実、金次第で「生かしておいてはためにならぬやつ」を闇へ葬る仕掛人。『鬼平犯科帳』『剣客商売』と並ぶシリーズの第1弾。星4.4(325件) Amazonで見る › もうひとつの9月2日 ──「く(9)じ(2)」 同じ9月2日は、「宝くじの日」でもあります。 制定は1967年(昭和42年)。「く(9)じ(2)」の語呂合わせで、第一勧業銀行(現・みずほ銀行)が定めました。私が生まれる2年前です。 目的は、お祝いでもキャンペーンでもありません。時効防止でした。 当たっているのに引き換えられないまま、支払期限を過ぎてしまう宝くじが、あまりに多い。だから「もう一度、手元のくじを確認してください」と呼びかける日をつくった。1973年(昭和48年)からは、ハズレ券を対象にした「宝くじの日 お楽しみ抽せん」も始まっています。いわば敗者復活戦です。 捨てる前に、もう一度見てくれ。そういう日なのです。 ...

September 2, 2026

9月1日 ── 防災頭巾をかぶって、机の下にもぐった日|昭和の今日は何があった日?

夏休みが終わった翌朝のことを、私はいまだに体が覚えている。 久しぶりのランドセル。少し重くなった気がする体。校庭に集まった同級生の、日焼けした顔。そして、二学期の始業式が終わったあとに必ずやってきた、あの時間。 「訓練、訓練。ただいま大きな地震が発生しました」 9月1日は、二学期の始まりの日であると同時に、防災の日だった。 防災の日は、なぜ9月1日なのか 防災の日が定められたのは、昭和35年(1960年)の閣議了解による。私が生まれる9年前のことだ。 日付の由来は二つある。一つは、大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が発生したこと。もう一つは、この時期が暦の上で二百十日にあたり、台風の襲来しやすい厄日とされてきたこと。地震と風水害、日本を襲う二つの災いが、この一日に重ねられている。 つまり防災の日は、何かが「始まった」記念日ではない。忘れないための日として作られた日だ。 子どもの頃の私は、そんな由来など何も知らなかった。ただ、9月1日には訓練があるものだと思っていた。理由を考えたことすらなかった。 防災頭巾と、「お・か・し」 私の記憶にある避難訓練は、いつも同じ手順だった。 防災頭巾をかぶって机の下にもぐる。その後は校庭に整列して、集団下校という流れだった。 合言葉は「お・か・し」。おさない、かけない、しゃべらない。三つだけ。今の学校では「おかしも」「おかしもち」と、後ろに「もどらない」「ちかづかない」が足されているらしいが、私たちの頃は三つで足りていた。 椅子の背にくくりつけてあった防災頭巾は、ふだんは座布団を兼ねていた。あれをかぶって机の下にもぐると、視界が急に狭くなる。木の床の匂いと、あちこちで押し殺した笑い声。訓練というより、少しだけ非日常の遊びに近かった。 そもそも防災頭巾という道具は、戦時中の防空頭巾の流れをくむものだといわれる。関東大震災と空襲、その両方を経験した街の学校に、布一枚の備えが座布団の顔をして残り続けた。私たちはその由来を知らないまま、毎日それに座っていたことになる。 校庭に整列したあとは、そのまま集団下校だった。地区ごとに並び、上級生が先頭に立って歩く。訓練の日だけは、いつもの帰り道が少しだけ儀式めいて見えた。もっとも、角を曲がって班が解散してしまえば、あとはいつもと同じ寄り道である。 いま売られているものも、形はほとんど変わっていない。アルミ加工で、耳穴が開いていて、たたむと座布団になる。あの銀色を店で見かけると、木の床の匂いまで戻ってきます。 大明企画 セーフティクッションES アルミタイプ(日本防炎協会認定品)小学校低学年から大人まで。耐熱耐火のアルミ加工、防災無線が聞き取れる耳穴付き、暗闇で光る反射テープ付き。たためば座布団に。星4.4(675件) Amazonで見る › 昭和53年、世の中が「地震」を意識しはじめた ただ、私の子ども時代の避難訓練は、単なる年中行事ではなかったのかもしれない。 昭和51年(1976年)の秋、いわゆる東海地震説が唱えられた。駿河湾を震源とする巨大地震が、いつ起きてもおかしくない――そういう指摘だった。政府は観測体制の強化に動きはじめる。 そして昭和53年(1978年)。1月14日に伊豆大島近海地震が起き、6月12日には宮城県沖地震が発生した。マグニチュード7.4、仙台を中心に死者28人。このうち18人が、ブロック塀や門柱の下敷きになって亡くなっている。東京でも震度4を記録した。その三日後の6月15日、大規模地震対策特別措置法――いわゆる大震法が制定される。地震の直前予知を前提にした法律は、国内でこれ一つしかない。 昭和53年、私は小学3年生だった。 学校でも家でも、地震の話はたぶんされていたと思う。ただ正直に言うと、小学生当時の私は、自分ごととしては受け止めていなかった。どこか遠い話だった。 けれど、ブロック塀については注意された。これははっきり覚えている。 なにしろ本当にあちこちにブロック塀が立ち並んでいて、私を含む子どもたちは日常的にそのブロック塀の上に上がって、そこを歩いていたのだから。塀の上は近道であり、平均台であり、ちょっとした冒険だった。大人が真顔で「あれは危ない」と言いはじめたとき、私は危険よりも、遊び場を一つ取り上げられたような気分のほうを強く覚えている。 仙台で18人が亡くなった、その事実と私の通学路が地続きだったことに気づくのは、ずいぶん後になってからだ。 葛飾の子どもにとっての災害は、水だった もっとも、葛飾で育った私にとって、災害という言葉が最初に結びついたのは地震ではなかったかもしれない。 葛飾区は東京の東部低地にあり、区の大部分がいわゆるゼロメートル地帯だ。荒川と江戸川に挟まれ、中川が区の真ん中を流れている。台風が近づくたび、大人たちの顔つきが変わる土地だった。 台風に備えて、まず雨戸を閉める。現在のように軽く閉められるものじゃなかった。戸袋にしまってあって、そこから木製の戸に青色のとたん板が張られた雨戸2枚を引っ張りだすのだが、小学校低学年の頃の私では力が足りなかったんじゃないかと思う。父か母が閉める音を、家の中で聞いていた気がする。 我が家は私が保育園の年中か年長の時に、高砂駅の近くから、同じ高砂の中川の土手近くへと引っ越していた。だから台風などの大雨のあとには、友達と中川の土手へ行き、増水した川を見に行った。 やっちゃダメなやつである。 いつもは穏やかな中川が、茶色く濁って速く流れている。あの光景を見に行くことが、子どもにとってどれほど危ない行為かなど、当時の私は考えもしなかった。ブロック塀の上を歩いていたのと、まったく同じ神経である。 家の押し入れには、銀色のナップサックがあった。非常持ち出し袋だ。中を覗いたことはなかったし、実際に使われることもなかった。良かったと思う。 二百十日という言葉が防災の日の由来になっているのも、思えばこの土地の感覚に近い。地面が揺れることより、水が上がってくることのほうが、ここでは身近だった。 あの銀色のナップサックにあたるものを、いまは自分で用意する番になりました。中身を一から揃えるのは骨が折れるので、まずひとつ、封を切らずに置いておく。それだけでもずいぶん違うと思います。 防災グッズ 32点セット(防災士監修・1人用リュック)保存食、保存水、簡易トイレ、高輝度の懐中電灯、マスク、スリッパなど32点。全品が長期保管に対応。星4.8 Amazonで見る › 平成23年3月11日、私はバスの運転席にいた 遠い話だったものが、自分ごとになる日がいつか来る。子どもの私はそれを知らなかった。 ...

September 1, 2026

8月27日 ── わたくし、生まれも育ちも葛飾高砂です|昭和の今日は何があった日?

1969年、昭和44年8月27日。 映画『男はつらいよ』の第1作が公開されました。山田洋次監督・脚本、渥美清主演。舞台は、東京都葛飾区柴又です。 このときの私は、生後4か月です。 そして柴又は、私が生まれ育った高砂の、隣町でした。京成金町線で一駅。高砂──柴又──金町、たった三駅しかない短い路線の、真ん中の駅です。 この日付を見つけたとき、正直なところ、少し身構えました。生まれた年、生まれた月のすぐあと、そして地元。ここまで重なると、かえって何を書けばいいのか分からなくなる。 でも、調べていくうちに気づいたことがあります。この映画が公開された時点では、まだ誰も「柴又」を知らなかった、ということです。 テレビの中で、寅さんは一度死んでいる ご存じの方も多いと思いますが、『男はつらいよ』はもともとテレビドラマでした。 1968年10月から翌1969年3月まで、フジテレビで全26回。渥美清が少年時代に見てきたテキヤの記憶を語ったところから、山田洋次が膨らませた企画だったといいます。 問題は、その最終回でした。寅次郎はハブ酒でひと儲けしようと奄美大島に渡り、ハブに咬まれて死んでしまう。 ところが放送後、テレビ局に抗議が殺到しました。手紙、電話。山田監督自身が後年書いているところによれば、その中には「てめえの局の競馬は二度と見ねえ」といった調子のものも少なくなかったそうです。 ここが、私はいちばん面白いところだと思っています。 抗議した人たちは、番組の出来に文句を言ったわけではありません。知り合いが死んだことに怒ったんです。視聴者のなかでは、すでに寅さんが生きた人間として息づいていた。それを作者が自分の料簡で勝手に殺してしまったのは間違いではなかったか──山田監督は、そう反省させられたと書き残しています。 そして、映画のスクリーンの中でもう一度、寅を生き返らせようと決めた。 松竹の上層部は難色を示したそうです。一度テレビでやったものを、いまさら映画にして客が入るのか、と。もっともな話です。山田監督は当時の社長・城戸四郎に喧嘩腰で掛け合って、企画を通したと伝えられています。 つまりこの映画は、視聴者の怒りと、監督の後悔と、反対を押し切った押しの強さから始まっています。国民的シリーズという言葉から想像する、穏やかな始まりではありません。 そのテレビ版は、長く「幻」でした。いまはマスターテープの残っていた第1話と最終回が、そのままDVDになっています。つまり、寅さんが死ぬ回を、いまは家で観ることができる。 テレビドラマ版「男はつらいよ」 [DVD]昭和43年からフジテレビで全26回。奇跡的に残っていた初回と最終回を完全収録。柴又が舞台に決まるまでの経緯もスタッフ証言で収められています。星4.0 Amazonで見る › 二本立ての、54万3000人 昭和44年8月27日、公開。上映時間91分。同時上映は伴淳三郎主演の『喜劇 深夜族』でした。当時の日本映画は二本立てが当たり前で、『男はつらいよ』もその一本として封切られています。 観客動員は54万3000人。 正直に言うと、この数字を見たとき、私は「思ったより少ないな」と感じました。後にシリーズが1作あたり100万人、200万人を動員するドル箱になっていくことを知っているからです。第1作は、まだ大当たりではなかった。 評価のほうは高く、この年のキネマ旬報ベストテンで第6位、毎日映画コンクールでは山田洋次が監督賞、渥美清が男優賞を受けています。ただ、それは映画好きの世界の話です。 しかもこの第1作は、「これで完結」とも取れる終わり方をしています。1969年8月27日の時点では、まだ誰も、この先50年続くとは思っていません。 四人で歩いた、帝釈天への道 私が生まれた1969年の夏、柴又での撮影はもう終わっていました。 物心がついたころ、柴又はすでに「寅さんの町」になり始めていたはずです。けれど私にとっての柴又は、映画の舞台である前に、まず帝釈天でした。 物心ついた頃から今日まで、初詣は毎年、帝釈天です。一年も欠かしていません。 子どもの頃は、父、母、妹、私の四人そろってお詣りに行っていました。 ──ここは、書きながら少し立ち止まったところです。 父は仕事が極端に忙しい人で、連休らしい連休は正月しかありませんでした。母と妹と三人で出かけることのほうが、我が家では普通だった。その中で、帝釈天の初詣だけは四人そろっている。父が一年でほとんど唯一、家族と並んで歩いていた行事が、この参道だったことになります。 行き方は決まっていませんでした。ひと駅だけでも電車に乗ったこともあれば、歩いて行ったこともあります。いまは家族みんなで歩いて行くのが恒例です。 金町線というのは、柴又から金町までの区間を柴又街道の真ん中を通っていきます。改めて言われてみれば、たしかに路面電車のような走り方です。地元の人間には当たり前すぎて、そういう目で見たことがありませんでした。 参道の店も、ひととおり体に入っています。髙木屋老舗では、いまでも草団子を買います。ゑびす家さんは、信用金庫に勤めていた時代、職場の初詣の帰りに必ず寄って食事をした店です。 そして川千家。ここで、私たち夫婦の結納を行いました。 映画のロケ地として全国に知られている参道が、私にとっては初詣の道であり、職場の恒例行事の場所であり、結婚に向かう日の座敷でもある。そういう順番で、この町は私の中に積み上がっています。 観光地であり、近所であること 柴又が観光地であるという認識は、子どもの頃からありました。それは分かっていた。 ただ、無意識のところでは、やっぱり近所の延長なんです。 この二つは、どちらかが本当でどちらかが嘘、というものではありません。同時に成立しています。観光地だと知っていながら、身体のほうは「そこらへん」として扱っている。地元というのは、たぶんそういうものです。 寅さんの映画の撮影に出くわした記憶は、私にはありません。第1作の撮影は生まれる前ですし、それ以降も、たまたま通りかかることはなかった。 そのかわり、柴又をレポートする撮影には何度も遭遇しています。テレビカメラとレポーターが参道に立って、草団子の店の前で何かしゃべっている。あの光景なら、数えきれないほど見ました。 映画そのものではなく、映画になった町を取材しに来る人たち。私が育った柴又は、もうその段階に入っていたということです。 「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い──」 あの啖呵を、自分の土地の話として聞いていたか、と言われると、正直、映画のセリフだという認識のほうが強かった。それでも、誇らしい気持ちになったのは確かです。 地元が全国に知られていること自体は、メチャクチャ誇らしかった。子どもの正直な感覚として、そこはごまかしようがありません。 それでも、映画館では一度も観ていない ここまで書いてきて、白状しなければならないことがあります。 私は『男はつらいよ』を、映画館で一度も観たことがありません。 一作もです。隣町が舞台で、あれだけ誇らしかったのに、封切りに足を運んだことがない。 お盆と正月に必ず新作がかかる、という感覚も、子ども時代にはありませんでした。家族の中に特別な寅さんファンがいたわけでもない。 では、どこで観たのか。 ひとつは、テレビです。「〇〇ロードショー」の類で流れているのを、なんとなく観ていました。 そしてもうひとつが、観光バスの中です。 信用金庫に勤めていた時代、お客様をお連れして旅行に行く機会がありました。その道中、バスの中で寅さんのビデオがよく流されていたんです。 柴又の隣で生まれ育った人間が、東京を離れる高速道路の上で、備え付けの小さなモニターに映る柴又を観ている。 いま思うと、なかなか妙な話です。地元だから観に行かなかった映画を、地元から遠ざかる乗り物の中で観ていた。しかも私は、その後バスを運転する側になりました。 近すぎるものを、人は正面から見ません。毎年通っている参道が映画の中に出てきても、「ああ、ここね」で終わってしまう。誇らしさと、わざわざ観に行くこととは、別なんです。 その第1作を、いまさらながら家で観ることはできます。マドンナは光本幸子、91分。1969年8月27日に二本立ての一本として封切られた、あの91分です。 男はつらいよ [DVD](第1作・HDリマスター版)山田洋次監督/松竹。渥美清、倍賞千恵子、森川信ほか。1969年製作、1時間31分。特典に撮影時のオフショットを収録。星4.5(144件) Amazonで見る › 隣町が、観光地になっていく 昭和が終わり、平成に入ると、柴又の変化は目に見えるものになりました。 ...

August 27, 2026

8月25日 ──「うどん一玉六円」の時代に三十五円。魔法のラーメンが、高砂の戸棚に届くまで|昭和の今日は何があった日?

8月25日は、即席ラーメン記念日です。 1958年、昭和33年のこの日、日清食品が「チキンラーメン」を発売しました。世界で最初に、商売として成り立ったインスタントラーメンです。 昭和33年といえば、私が生まれる十一年前。長嶋茂雄が巨人でデビューした年で、東京タワーがまだ完成していない年です。当然、この日の記憶はありません。 けれど、私が物心ついたころ——昭和四十年代の葛飾区高砂の、我が家の台所の戸棚には、もうそれが当たり前のように積んでありました。 生まれる前に始まっていて、生まれたときにはもう「昔からあるもの」の顔をしていた。インスタントラーメンというのは、私の世代にとってそういう存在です。 うどん一玉六円の時代に、三十五円 チキンラーメンを作ったのは、日清食品の創業者・安藤百福さんです。 発売のとき、四十八歳。四十七歳のときに、理事長を務めていた信用組合の倒産で築いてきた財産をほとんど失っています。無一文からの再出発でした。 きっかけは、戦後の大阪の闇市だったといわれます。屋台のラーメンに、寒空の下で人が行列を作っている。あれをもっと手軽に食べさせられないか——そう考えて、自宅の裏庭に小屋を建て、そこにこもりました。 つまずいたのは、麺の乾かし方でした。ある日、奥さんが台所で天ぷらを揚げているのを見て、ひらめきます。油の熱で水分を飛ばせばいい。こうして「瞬間油熱乾燥法」が生まれました。麺に味をつけ、蒸して、油で揚げる。今のチキンラーメンと、中身はほとんど変わりません。 そして昭和33年8月25日。 ところが、この商品はまったく歓迎されませんでした。 理由は値段です。85グラム入りで35円。当時、うどん玉ひとつが6円、普通の乾麺で25円という時代でした。国鉄の初乗りが10円、銭湯が16円。ラーメン屋で一杯食べるのと変わらない値段の袋麺を、誰が買うのか。しかも安藤さんは、二、三か月の手形が常識だった時代に、現金決済を要求しています。 問屋の主人たちは、そろって顔をしかめたそうです。 その日、大阪の問屋がひとつだけ、納入を引き受けてくれました。日清食品はのちにこの日を「ラーメン記念日」と定め、日本即席食品工業協会も8月25日を「即席ラーメン記念日」としています。つまりこの記念日は、大ヒットした日ではなく、やっと一軒だけが置いてくれた日なのです。 けれど、実際に食べた人たちの評判が、じわじわと広がっていきました。お湯をかけて二分(当時は三分ではありませんでした)で食べられるラーメンは「魔法のラーメン」と呼ばれ、やがて注文が殺到します。あれほど渋っていた問屋が、今度は「現金前払いでもいいから」と言ってくるようになった。工場の前に、仕入れのトラックが列を作ったといいます。安藤さんは後年、工場用地の代金を一か月分の売上でまかなえた、と語っています。 「中華そば」が「ラーメン」になった このチキンラーメンが、日本語をひとつ変えました。 それまで、あの食べ物は「支那そば」あるいは「中華そば」と呼ばれるのが普通でした。「ラーメン」という言い方が全国に広まったのは、商品名にその三文字が入っていたからだといわれています。 私たちが何気なく使っている「ラーメン」という言葉は、昭和33年8月25日に大阪の問屋に納められた、あの袋から来ている。そう考えると、少し不思議な気持ちになります。 ヒットには真似が続きます。似た即席麺が次々に出て、意匠権や特許の争いが激しくなり、食糧庁の指導で昭和39年に業界団体が作られました。昭和35年には森永製菓のインスタントコーヒーが出て、「インスタント」は流行語の筆頭になります。そして昭和46年、カップヌードル。アメリカへ売り込みに行った安藤さんが、丼のない向こうで現地の人が麺を割って紙コップに入れ、フォークで食べているのを見た。そこから生まれた発想でした。 ——このあたりが、ようやく私の記憶に届く時代です。 うちの戸棚にあったのは、サッポロ一番しょうゆ味だった 正直に書きます。 即席ラーメン記念日の記事を書いておいてなんですが、我が家の戸棚にチキンラーメンが積んであった記憶は、ほとんどありません。 うちは、サッポロ一番しょうゆ味でした。 買っていたのは、高砂のイトーヨーカドーです。この連載でもう何度も出てきている、あの五階にボウリング場のあったヨーカドーです。母がまとめて買ってきて、台所の戸棚に積んでおく。それが我が家のラーメンでした。 サッポロ一番しょうゆ味の発売は、昭和41年1月。私が生まれる三年前です。作ったのは群馬・前橋のサンヨー食品で、もともとは乾麺の会社でした。 面白いのは、その会社が即席麺に乗り出したきっかけです。当時専務だった井田毅さんが、「関西でお湯をかけるだけで食べられる麺が流行っているらしい」と聞きつけた。それがチキンラーメンでした。井田さんは会社の方向を即席麺へ切り替え、全国で通用する醤油ラーメンを作ろうと各地を食べ歩いて、札幌のラーメン横丁で食べた一杯に感銘を受けます。そこから生まれたのが、サッポロ一番でした。 つまり我が家の戸棚にサッポロ一番が積んであったのも、もとをたどれば昭和33年8月25日に行き着くわけです。あの日、大阪の問屋が一軒だけ「置いてみる」と言わなければ、私が食べていた味も、たぶん存在しなかった。 ちなみにこのしょうゆ味は、長いあいだ関西より東を中心に売られていた商品だそうです。あの袋と、別添えの「特製スパイス」の小袋は、東日本の子どもの当たり前でした。 作ってくれていたのは、母でした。 そして父は、即席ラーメンを食べませんでした。 この連載で何度か書いてきたとおり、父は本当に休みのない人で、連休といえば正月の一日と二日だけ、という働き方をしていました。深夜に帰ってきて袋麺をすする父——そういう画は、私の記憶のなかにはありません。 いまも、あの袋はスーパーの棚にあります。別添えの「特製スパイス」も、あのままです。 サンヨー食品 サッポロ一番 しょうゆ味 5食パック 3個セット昭和41年1月発売。群馬・前橋のサンヨー食品が、札幌のラーメン横丁で食べた一杯から作り上げた醤油味。別添えの特製スパイス付き Amazonで見る › 小学六年生の鍋 インスタントラーメンは、多くの昭和の子どもにとって「生まれて初めて自分で作った料理」だったのではないでしょうか。 私の場合は、小学六年生でした。 鍋に水を入れて、火をつけて、沸くのを待って、袋を破って麺を落とす。そして、卵を落としました。最初から卵を入れているあたり、我ながら強気だったと思います。 思い返すと、親から「火を使うな」と言われた記憶がありません。危ないからやめなさい、とも言われなかった。台所に立って、ガスをひねって、鍋の前で三分待つ。それが小学六年生に許されていた家でした。 いまの感覚だと、少し驚かれるかもしれません。けれど当時は、たぶんどこの家もそうでした。学校から帰れば親は仕事か家事で手が離せず、子どもは自分の腹を自分で満たすのが普通だった。そのための道具として、袋麺が戸棚に積んであった。安藤さんが掲げた「手間がかからないこと」という条件は、昭和の子どもに台所を開放したのだと思います。 中学の夜と、高校の帰り道 中学に上がると、自分で作る回数が増えました。 試験勉強で夜更かしをする日です。夜中に腹が減る。母を起こすわけにもいかない。そういうとき、台所へ降りていって、自分で鍋に火をつける。 深夜のガスコンロの青い火と、鍋のなかで麺がほぐれていく音。家族が寝静まったあとの、自分ひとりの時間でした。あの夜を重ねるうちに、ラーメンは「作ってもらうもの」から「自分で確保するもの」に変わっていったのだと思います。 高校に入って野球部に入ると、今度は少し様子が変わります。 遠征試合の帰り。仲間数名で、決まって遠征先の最寄駅の近くのラーメン屋に入りました。試合に勝った日も、負けた日もです。学校での練習の帰りにも、馴染みの中華屋に寄って食べて帰ることがよくありました。 ...

August 25, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月23日──腹いっぱい食べたい、と思っていた

今日は8月23日。夏休みも、もう終わりが見えてくる時期だ。昭和の子どもにとっては、宿題の山を前にして胃が重くなりはじめる、あの頃である。 そして今日は「湖池屋ポテトチップスの日」でもある。 昭和37年(1962年)のこの日、**「湖池屋ポテトチップス のり塩」**が発売された。日本で初めて本格的に世に出たポテトチップス。その最初の味が「うすしお」ではなく「のり塩」だったという事実を、私はずいぶん長いあいだ知らずにいた。 飲み屋で出てきた「高級珍味」 湖池屋の創業は昭和28年(1953年)。創業者は小池和夫という人だ。 社名の由来がなかなか面白い。小池氏の郷里は長野県の諏訪市。地元の諏訪湖を見ながら「会社も諏訪湖のように大きくしたい」と願い、「小池」の「小」を「湖」に置き換えて「湖池屋」とした。 創業当初に作っていたのは、豆やさくらえびを油で揚げて混ぜた「お好み揚げ」のようなおつまみ菓子である。 転機は、小池氏が仕事仲間と飲みに行った店で訪れる。そこで出されたのがポテトチップスだった。当時の日本では手作りが主流の珍しい食べ物で、飲み屋では高級珍味の扱いだったという。 一口食べた小池氏は「こんなにおいしいものが世の中にあったのか」と感動する。そして、これを多くの人に届けたいと考えた。ここが、日本のポテトチップスの出発点だ。 「せっかく日本で作るのだから」 とはいえ、作るのは簡単ではなかった。 お好み揚げも油で揚げる菓子だから、その釜を流用して開発に乗り出した。ところが、じゃがいもの品種、スライスの厚み、揚げる温度──どれをとってもノウハウがなく、品質がまるで安定しなかったという。 そのうえ、味付けをどうするかという問題があった。 本場アメリカでは塩をふりかけただけの「塩味」が主流。だが小池氏はこう考えた。 「せっかく日本でポテトチップスを作るのだから、日本人になじみのある味にしよう」 そこで目をつけたのが「のり」だった。青のりとあおさをまぶす。じゃがいもと海苔という、いま考えれば当たり前すぎる組み合わせも、当時は誰も試していない発想だった。 そうして昭和37年8月23日、「湖池屋ポテトチップス のり塩」が世に出た。世界で初めての「のり塩ポテトチップス」の誕生である。 日本のポテチは、うすしおではなく、のり塩から始まったのだ。 手で揚げていた五年間 ただし、この時点ではまだ「大量生産」ではなかった。 当時のポテトチップスは、どのメーカーも手作業で揚げていた。安定した量を作れない。だから店に並ぶ数も限られる。 「もっとたくさんの人に食べてもらいたい」──その一心で機械化を模索し、湖池屋が国産のオートフライヤーを導入して量産化に成功したのは、発売から五年後の昭和42年(1967年)のことだった。日本で初めてのポテトチップス量産化とされている。さらに原料を安定させるため、北海道で馬鈴薯の契約栽培にも踏み切った。 こうして、飲み屋の高級珍味だったポテトチップスは、少しずつ、町へ降りてきた。 私が生まれたのは昭和44年(1969年)。量産化から二年後のことになる。 山車を引いて、もらった袋 正直なところ、私は「人生で初めてポテトチップスを食べた日」を覚えていない。 気がついたら食べていた、という感覚に近い。強いて言えば、保育園の年長の頃──昭和50年(1975年)あたりだったのではないかと思う。六歳になるかならないかの頃だ。 ただ、はっきり言えることが一つある。 母が買い物のときにポテトチップスを買っていた記憶が、まったくないのだ。つまり我が家では、ポテトチップスは日常的に食卓や茶の間に出てくるものではなかった。 では、どこで食べていたのか。 盆踊りや、祭りの山車を引いたときにもらうお菓子。あれがポテトチップスだったことが、よくあった。 葛飾の夏である。綱を握って、大人に混じって山車を引く。声を出しながら町内をぐるりと回って、帰ってくると菓子の袋を渡される。その中にポテトチップスが入っている。 子どもながらに「うまいな」と思った。 いま振り返ると、この記憶の位置づけが面白い。あの頃のポテトチップスは、私にとって「買うもの」ではなく「もらうもの」だった。祭りとか、行事とか、そういう非日常のときに、大人の側から降ってくるもの。 飲み屋の高級珍味からは遠く離れた。けれど、まだ完全な日常品にもなっていない。ちょうどその途中の、微妙な位置にあった。 味が増えていく時代 私が物心ついた昭和50年代は、ちょうどポテトチップスが「珍しいもの」から「あって当たり前のもの」へ変わっていく時期にあたる。 大手のカルビーがポテトチップス市場に参入したのが昭和50年(1975年)。「うすしお味」を出したのがこの年で、翌昭和51年(1976年)に「のりしお」、昭和53年(1978年)に「コンソメパンチ」が続く。 私は昭和44年4月生まれ。小学校に上がったのが昭和51年の春だから、コンソメパンチが世に出た昭和53年は小学3年生ということになる。 つまり私の小学生時代は、まるごと「ポテトチップスの味が増えていく時代」だった。棚に行くたびに知らない味が並んでいる。あの感覚は、いまの子どもにはたぶん想像しにくい。 そして子どもたちのあいだで激しかったのが「のり塩派」と「うすしお派」の対立である。あれは子どもながらに、けっこう真剣な議論だった。 私の中では、はっきりしていた。湖池屋といったら、のり塩である。 買う場所は、近所の駄菓子屋か、高砂のイトーヨーカドー。ただし、日々のお小遣いからポテトチップスを買った記憶はない。大袋がたしか100円くらい。何グラム入っていたかまでは覚えていないが、10円20円の駄菓子を握りしめて選んでいた子どもにとって、100円という数字は明らかに別の階層にあった。 駄菓子屋の棚に置いてあるのに、駄菓子ではない。ポテトチップスとは、そういう位置の菓子だった。 ちなみに、市場の話をすると、昭和59年(1984年)の時点でカルビーが約80%、湖池屋は約9%。先に始めたほうが、後から来たほうに大きく引き離されていた。子どもの私はそんなことを知る由もなく、ただ袋の色で選んでいた。 いまでも歌えるあの歌 湖池屋といえば、あのCMソングである。 ...

August 23, 2026