午前1時24分
昭和54年(1979年)9月4日の未明、上野動物園のパンダ舎で、ランランが息を引き取りました。午前1時24分のことでした。
前の日の夕刊は、こう伝えています。「こん睡状態続くランラン いちるの望み託して 一時は注射に反応」。日本中が、まだ望みを捨てていませんでした。
ランランは、日本で最初のジャイアントパンダでした。昭和47年(1972年)に中国からやってきて、7年足らず。推定10歳でした。

行列2キロ、観覧時間30秒
パンダが日本に来たのは、昭和47年9月の日中国交正常化を記念してのことでした。北京動物園で飼われていた個体のなかから、容姿も性格も最も優れた2頭が選ばれたといいます。中国名はシンシンとアルシン。来日にあたって、カンカンとランランと名づけ直されました。
2頭が上野動物園に到着したのは、同年10月28日。当時の内閣官房長官・二階堂進が、わざわざ羽田空港まで専用機を出迎えに行ったというのですから、国を挙げての一大事だったことがわかります。
一般公開は11月5日。この日から、日本中が文字どおり熱に浮かされました。公開初日の見物客は約6万人。最盛期には毎日平均1万5千人が訪れ、行列は長さ2キロメートル、待ち時間は2時間。それでいて、実際にパンダを見られる時間はわずか30秒だったといいます。
2時間並んで、30秒。

私はこのとき3歳ですから、この熱狂そのものの記憶はありません。物心ついたときには、パンダはもう「上野にいて当たり前の動物」でした。
京成線で一本、上野動物園
私にとって、上野動物園はかなり身近な場所でした。
京成高砂から京成上野まで、京成線で一本。乗り換えなしで着いてしまう。家族でも行きましたし、保育園の遠足でも行きました。行こうと思えば行ける場所に、それはありました。

だからでしょうか。パンダに対しては、グッズを持つほどの興味はありませんでした。ぬいぐるみも、文房具も、私の身のまわりにはなかったと思います。「見ようと思えばいつでも見られる」という思いが、どこかにあったのかもしれません。
「パンダを見に行った」という友だちの話は、もちろん聞きました。でも、そこで胸が騒ぐということもなかった。当時の私の興味は、もっぱらウルトラマンや仮面ライダーのほうに向いていましたから。

日本中が2時間並んでいたものを、私は電車で一本のところに置いたまま、特に見に行こうともしなかった。今思うと、ぜいたくな話です。
お腹のなかに、いた
ランランが倒れたのは、昭和54年8月のことでした。自然妊娠のあとに妊娠中毒症や尿毒症などの合併症を起こし、腎不全に陥ったのです。腹膜透析まで行う懸命な看護が続けられましたが、9月4日、力尽きました。
そして、亡くなったランランのお腹のなかには、10センチほどに育った胎児がいました。
カンカンとランランの間に赤ちゃんが生まれることは、当時の日本人にとって長年の悲願でした。その年の5月には3年連続の交尾成功が報じられ、期待は最高潮に達していたのです。あと少しでした。
翌年の昭和55年6月30日には、残されたカンカンも心不全で亡くなりました。日本の「最初のパンダ」の時代は、こうして2年足らずのうちに終わりました。

憶えていない、ということ
さて、ここで正直に書いておかなければなりません。
昭和54年9月4日、私は小学4年生でした。10歳です。ニュースを見た記憶があってもおかしくない年齢ですが、憶えていないのです。
テレビで見たのか、新聞で読んだのか、朝の食卓で親が話していたのか。学校で話題になったのか、先生が何か言ったのか。悲しかったのか、「ふーん」で終わったのか。お腹に赤ちゃんがいたことを当時知っていたのかどうかも。
ひとつも憶えていません。
これを書きながら思うのは、遠かったから憶えていないのではない、ということです。むしろ逆かもしれません。上野は電車で一本で、パンダはいつでもそこにいて、いつでも見られるはずのものでした。あまりに日常の風景の一部になっていたものが欠けたとき、10歳の私はその欠けたことに気づかなかった。
いつでも見られると思っていたものが、その日、見られなくなっていた。そのことに気づかないまま、私は次の日も学校へ行ったのだと思います。
「さよならランラン」というレコード
ランランの死から1か月後の昭和54年10月5日、日本クラウンから1枚のシングルレコードが発売されました。タイトルは「さよならランラン」。
収録されていたのは、歌ではありません。A面が「さよならランラン(元気なときのランランの声)」、B面が「がんばってカンカン(かなしいカンカンの声)」。ふたつとも、パンダの鳴き声そのものでした。
追悼盤としてパンダの鳴き声のレコードが売り出され、それが商品として成立してしまう。昭和という時代の熱量を、これほどよく表しているものもない気がします。今なら、まず企画会議を通らないでしょう。
けれども、笑ってしまうと同時に、少しわかる気もするのです。日本中が、あの2頭を本気で自分たちの家族のように思っていた。だから声が聴きたかった。それだけの話なのだと思います。
五人の子の父親になって
ランランのことを、こうして今になってあらためて知ると、不思議な気持ちになります。
昭和54年の9月4日、ランランが亡くなったとき、私はまだ10歳でした。この出来事そのものは、ほとんど記憶に残っていません。
でも、いま五人の子どもの父親になった自分が、ランランの最期についての記事を読むと、当時とはまったく違うところに目が行きます。
ランランのお腹の中には、10センチほどの胎児がいた。
この事実です。
当時の私は、そんなことを知ったとしても、たぶん「パンダの赤ちゃんがいたんだ」くらいにしか思わなかったでしょう。でも今は、子どもを五人育ててきたからこそ、その10センチの命を想像してしまいます。
まだ生まれてもいない、小さな命。母親のお腹の中で育っていて、これから生まれてくるはずだった命。ランラン自身も、もう少しで母親になれたのかもしれません。
そう考えると、「ランランが死んでしまった」というニュースだけではなく、そのお腹の中にいた小さな命まで一緒に失われたのだと思えてきます。
子どもを持つ前だったら、ここまで感じなかったでしょうね。自分が親になって、子どもの成長を一人ひとり見てきたからこそ、命というものの重さが少しずつ分かってきたのだと思います。
動物園という場所が、いま何をしているのかを知る本があります。生まれてから死ぬまで、一頭の動物の一生をどう支えるか。あの日のランランに、いまの動物園なら何ができたのだろうかと、つい考えてしまいました。
動物園という場所
パンダという存在についても、今は少し違った見方をします。
私が3歳だった昭和47年にカンカンとランランがやって来て、日本中が大騒ぎになった。その後、私自身も大人になり、子どもを連れて動物園へ行く立場になりました。自分の子どもが動物を見て喜んでいる姿を見ると、結局、大人になっても子どもにとって動物園という場所は特別なんだなと思います。
ただ、昔の「2時間並んで30秒」という熱狂ぶりを見ると、今の感覚では「そこまでして見るのか」と少し笑ってしまいます。でも、たぶん当時の人たちにとっては、それだけの価値が本当にあったのでしょう。
私たちの世代にとっては、パンダは最初から「日本にいる動物」でした。けれど、その当たり前の風景を作った最初の2頭が、カンカンとランランだった。
そう考えると、パンダを見るという何気ない経験の向こう側に、1970年代の日本の空気や、日中国交正常化という大きな時代の出来事までつながっていることに気づきます。
なお、ランランの剥製は昭和55年6月17日から多摩動物公園で展示されています。カンカンの剥製も、上野での展示期間を経て、昭和56年3月から同じく多摩動物公園に。2頭は今も、そこにいます。

47年たって
そして今、ランランが亡くなった日のことを振り返ると、私は「かわいそうだった」というだけでは終わりません。
一頭のパンダにも、母親になるはずだった時間があり、そのお腹の中には、これから生まれてくるはずだった小さな命があった。五人の子どもの父親になった今だからこそ、そのことが胸に残ります。
昭和54年9月4日。私はまだ10歳。
当時はただ過ぎていった一日の出来事だったのかもしれません。でも、47年たって振り返ってみると、同じニュースでも、人生のどこにいるかによって見えるものがまったく違う。
それが、歳を重ねるということなのかもしれません。
みなさんは、上野のパンダにどんな記憶がありますか。行列に並んだ方、ランランの死をニュースで見た方、あるいは私と同じように「気がついたらパンダはいた」世代の方。よろしければ、コメントで教えてください。
孫と読むなら、こちらのほうがいいかもしれません。歴代のパンダが200頭ぶん載っていて、カンカンとランランの名前も、そこにあります。
【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。
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