六月になりました。
カレンダーをめくると、一日はちょうど衣替え。学校に通っていたころは、この日を境に冬服が夏服に変わって、教室の景色がいっせいに明るくなったのを覚えています。詰襟の窮屈さから解放されて、白い半袖シャツの軽さが妙に誇らしかった。台所の冷蔵庫に冷えた麦茶が常備されはじめるのも、だいたいこのころでした。
そんな夏のはじまりの六月一日。昭和の時代、この日にはいろいろなことがありました。たとえば昭和六十一年(一九八六年)の六月一日には、上野動物園で日本初の人工授精による赤ちゃんパンダ「トントン」が誕生しています。
でも、私にとっての「上野のパンダ」と言えば、やっぱりこの二頭なのです。
ランランと、カンカン。
今日はこの話を、少し長めに、のんびりと書かせてください。
父の肩車の上で
昭和四十八年(一九七三年)のことだったと思います。私はまだ保育園に通う幼い子どもでした。その日は遠足で、両親も一緒に上野動物園へ行きました。
お目当ては、もちろんパンダです。
昭和四十七年(一九七二年)、日中国交正常化の記念として中国からやってきたランランとカンカン。白と黒の、丸っこくて、笹を抱えてもそもそ食べるあの不思議な生きものを一目見ようと、日本中が熱に浮かされていました。その熱が、私たち親子を上野へと連れて行ったわけです。
ジャイアントパンダ。白と黒の丸い体で笹を食べる姿が、日本中を夢中にさせた。(Photo: J. Patrick Fischer / CC BY-SA 3.0)
ところが――です。
正直に告白しますと、私はあの日、ランランとカンカンを本当に見られたのかどうか、思い出せないのです。
覚えているのは、別のことばかり。パンダのいる建物の前には、気が遠くなるような大行列ができていました。長い長い時間を並んで、ようやく中へ入れたこと。そして父が私を肩車してくれたこと。あの高い視界の感触は、今でもはっきりと残っています。
でも、肩車の上から、私はちゃんとパンダを見たのでしょうか。それとも、人垣の向こうの黒い点のような何かを、パンダだと思い込んだだけだったのでしょうか。記憶の肝心なところが、すっぽりと抜け落ちているのです。
そのかわりに鮮明に残っているのは、人、人、人で溢れかえっていた園内の光景。そして、園内放送でやたらと流れていた「迷子のお知らせ」のアナウンスです。
「○○色のズボンに、○○の絵のシャツを着た、○歳くらいの男の子を保護しています……」
あの放送ばかりが、なぜか耳に焼きついている。肝心のパンダではなく、迷子の放送。我ながら「そこっ?」とツッコミたくなりますが、子どもの記憶というのは、案外そういうものなのかもしれません。大人が「これを覚えておきなさい」と思うところより、ぜんぜん別の隅っこを、勝手に大事にしまい込んでしまう。
それでもいいのです。父の肩の温かさと、迷子の放送と、果てしない行列。それが私にとっての「ランランとカンカンに会いに行った日」の、まぎれもない全部なのですから。
V3とタロウの、輝かしい年
ちなみに、その昭和四十八年という年。私にとっては、パンダ以外でも特別に光り輝いている一年でした。
なぜなら、テレビの中のヒーローがいちばん格好よかった時代だからです。
仮面ライダーは、V3。(昭和四十八年二月〜昭和四十九年二月)
そしてウルトラマンは、タロウ。(昭和四十八年四月〜昭和四十九年四月)
この二人が同じ時期に画面の中で戦っていたのですから、当時の男の子にとって、これ以上の幸福があったでしょうか。風見志郎が変身する三段変身に胸を躍らせ、ウルトラの父と母の息子であるタロウの登場に、ウルトラ兄弟の世界がどこまでも広がっていくのを感じていました。
保育園からの帰り道、私はきっとV3かタロウになりきって、見えない怪人や怪獣と戦っていたはずです。そして週末になれば、上野のパンダのように、テレビの前にもまた「人、人、人」――いや、こちらは家族みんなが集まって、かじりつくようにして見ていたのでした。
パンダもV3もタロウも、ぜんぶ同じ年の出来事。そう並べてみると、昭和四十八年というのは、私の幼い心がいちばん豊かに満たされていた年だったのだなと、しみじみ思います。
そして、令和八年の六月
さて、ここからは少し、今の話をしなければなりません。
令和八年(二〇二六年)の六月一日、現在。日本国内に、ジャイアントパンダは一頭もいません。
これを書いていて、自分でも信じられないような気持ちになります。
まず、令和七年(二〇二五年)の六月。和歌山のアドベンチャーワールドにいた四頭――良浜(らうひん)、結浜(ゆいひん)、彩浜(さいひん)、楓浜(ふうひん)――が、中国へ返還されました。涙ながらに見送ったファンの姿が、ニュースで大きく取り上げられていたのを覚えている方も多いでしょう。
そして、日本に残ったのは、東京・上野動物園の双子、「シャオシャオ」と「レイレイ」だけ。この二頭も、令和八年の一月下旬、ついに中国へと返還されました。
これをもって、日本国内のパンダの飼育頭数は、ゼロ。
昭和四十七年にランランとカンカンがやってきてから、五十四年。半世紀以上にわたって途切れることなく続いてきた「日本の動物園でパンダに会える時代」が、今、いったん幕を閉じたのです。
笹をもそもそと食べるパンダ。この姿を日本の動物園で見られる日が、また来ることを願っている。(Photo: Manyman / CC BY-SA 3.0)
いなくなって、はじめてわかること
「上野にパンダがいない。」
この一文を、昭和の子どもだった私が読んだら、いったいどんな顔をするでしょう。たぶん、まったく信じないと思います。上野の動物園にパンダがいないなんて、空に太陽がないと言われるくらい、ありえないことに感じられたはずですから。
あの日、果てしない行列に並び、父に肩車をしてもらってまで会いに行った白黒の生きもの。見られたのかどうかも怪しい、けれども確かにそこに「いた」はずのランランとカンカン。その末裔とも言える時代の流れが、半世紀の時を経て、ひとつの区切りを迎えた。
考えてみれば、私が肩車の上で見たかもしれない(見られなかったかもしれない)あの光景は、「日本にパンダがいる時代」の、ほんとうに初期の一場面だったわけです。そしてその時代の終わりを、私は今、こうして大人になって見届けている。
なんだか、不思議な巡り合わせです。
時代は変わります。当たり前にそこにあったものが、ある日ふっと姿を消す。パンダだけの話ではありません。近所の駄菓子屋も、屋上の遊園地も、いつの間にか消えていきました。そして私たちは、なくなってからようやく、「ああ、あれは特別なものだったんだな」と気づくのです。
でも――きっと、また会える日が来ると、私は思っています。
いつかまた、上野の動物園に黒と白のあの姿が戻ってきて、孫の手を引いたおじいさんやおばあさんが、長い行列に並ぶ日が来る。そのとき子どもたちは、肩車の上から、ちゃんとパンダを見られるでしょうか。それとも、私のように迷子の放送ばかり覚えて帰るのでしょうか。
どちらでもいい。その記憶は、きっと一生ものになるのですから。
みなさんにとっての「上野のパンダ」は、どの子でしょうか。ランランとカンカンでしょうか。トントンや、シャンシャンでしょうか。よろしければ、あなたのパンダの思い出も、聞かせてください。
「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。
▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事)
◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月31日~「世界禁煙デー」――煙が当たり前だった、あの頃の空気 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ── 6月2日、月にそっと手を伸ばした日 ▶