【昭和の今日は何があった日?】7月10日──怪獣ブームより先に、あの男は生まれていた

今日は7月10日。私が生まれる3年前、1966年(昭和41年)のこの日、のちに何十年も子どもたちのヒーローであり続けることになる男が、ブラウン管に初めて姿を現しました。『ウルトラマン』です。 もっとも、正式な第1話が始まったのはこの日ではありません。実はこの日に放送されたのは、ちょっと変わった経緯を持つ番組でした。 「前夜祭」という名の、間に合わせの放送 話は、その前番組にさかのぼります。『ウルトラマン』が始まる前、同じ枠では『ウルトラQ』という怪獣番組が放送され、大ヒットしていました。この人気を受けて、次の作品として企画されたのが『ウルトラマン』です。ところが、ここで思わぬことが起こります。『ウルトラQ』の最終回が、内容が難解すぎるという理由で、放送を見送られることになってしまったのです。 『ウルトラマン』は本来、7月17日から始まる予定でした。しかし『ウルトラQ』の最終回が飛んだことで、その一週間、枠がぽっかり空いてしまいます。そこをどう埋めるか——制作側が用意したのが、前日に杉並公会堂で行われていたウルトラマンの宣伝イベントの映像でした。それを「ウルトラマン前夜祭 ウルトラマン誕生」として放送したのが、1966年7月10日。つまり私たちが「ウルトラマンの日」として記憶しているこの日は、本編ではなく、いわば見切り発車の穴埋め番組が生まれた日だったわけです。ヒーローの初登場が、こんなにも慌ただしい事情から生まれたというのは、なんだか人間くさくて、私は少し好きです。 そして翌週から始まった本編は、平均視聴率36.8%、最高視聴率はなんと42.8%(1967年3月放送分)という、今では考えられない数字を叩き出しました。当時のお茶の間の半分近くが、毎週日曜の夜、あの男の戦いを見つめていたことになります。テレビがまだ一家に一台、それも白黒だった時代に、これほどの人が同じヒーローに熱狂していたのです。 ブームが去っても、消えなかった男 『ウルトラマン』の熱狂は1968年頃には一段落し、子ども向け番組の主役は『巨人の星』のようなスポ根ものへと移っていきます。新しい特撮ヒーロー番組は、しばらく作られませんでした。けれど不思議なことに、ウルトラマンはそこで終わりませんでした。すでに放送された作品が繰り返し再放送され、そのたびに視聴率は18%前後という、新作顔負けの数字を叩き出し続けたのです。怪獣というマグマは、子どもたちの中でずっとくすぶり続けていました。 その間、1970年には、過去の戦闘シーンを再編集し、新たに撮影した怪獣同士の対決を加えた5分間の帯番組『ウルトラファイト』も放送されます。「出がらしだ」と揶揄する声もありましたが、子どもたちはこれにも熱中しました。そうした熱がとうとう抑えきれなくなり、1971年、ついに新作『帰ってきたウルトラマン』が登場します。いったん幕を下ろしたはずのブームが、再び燃え上がる——テレビ番組ではきわめて珍しい「ブームの再燃」でした。作り手たち自身も、驚いたといいます。ウルトラマンという存在が、それほど深く子どもの世界に根を下ろしていたことに、当人たちも気づいていなかったのです。 私が生まれたのは1969年4月。つまり初代『ウルトラマン』の本放送にも、1971年の「帰ってきた」ブームの立ち上がりにも、リアルタイムでは間に合っていません。物心つく頃には、すでにウルトラマンは「新しく始まるもの」ではなく、「気づいたらそこにあるもの」でした。 私にとっての「最初のウルトラマン」 私にとって、最初に出会ったウルトラマンは『帰ってきたウルトラマン』だと、長いあいだ思い込んでいました。MATの隊員服、マットアロー1号・2号、そして郷秀樹を演じた団次郎さん。ベムスター、ツインテール、グドン、ブラックキング、ナックル星人——こうした怪獣や宇宙人の名前が、今でも鮮明に頭に残っています。私の中では「ウルトラマン=郷秀樹」という図式が、ずっと当たり前のものでした。 ところが、あらためて調べて驚きました。『帰ってきたウルトラマン』の本放送は1971年(昭和46年)4月から1972年(昭和47年)3月まで。この時期の私は、放送開始時でわずか1歳11か月、最終回でも2歳11か月です。とても、番組をしっかり覚えていられる年齢ではありません。 では、私が夢中になって見ていたあれは、いったい何だったのか。答えはおそらく「再放送」です。昭和48年、49年、50年——私でいえば4歳から6歳、幼稚園の年長にかけて、ウルトラシリーズの再放送が全国で驚くほど頻繁に行われ、大きなブームになっていたといいます。まさにテレビにかじりつく年頃です。郷秀樹が私の「最初のウルトラマン」になったのは、そういうからくりだったのでしょう。本放送に間に合わなかったはずの私が、再放送という時間差の魔法で、いつのまにかその世界の住人になっていたわけです。 そこから先は、『ウルトラマンA』、『タロウ』と、まっすぐにつながっていきました。どれが一番かと問われても困ります。結局のところ、すべてのウルトラマンが、私のヒーローでした。 スペシウム光線と、100円のカード もちろん、ただ見ているだけでは済みません。空き地や公園に集まれば、ウルトラマンごっこの始まりです。両腕を十字に組むスペシウム光線のポーズは、何度練習したかわかりません。ついでにウルトラセブンのアイスラッガーを頭から投げる真似もしました。今思うと、よくあんな格好で大真面目になれたものです。 そしてもう一つ、あの頃の男子を熱狂させたのが、怪獣図鑑のカードでした。1袋100円で売られていて、そのカードを集めて図鑑を完成させるのです。図鑑の台紙になる本のようなものは別売りで、そちらも買いそろえる必要がありました。学校の男子は、クラス中がこれに夢中でした。誰よりも早く自分の図鑑を完成させたい——その一心で、みんな必死にカードを買い集めていたのを思い出します。 完成が近づくと、今度は同じカードのダブりが大量に出てきます。「これ持ってる」「それ欲しい」と、友達同士で交換し合ったあの時間も、いい思い出です。 ちょっと変な記憶なのですが、図鑑の1番は確か『ミクラス』で、表紙に貼り付けるようになっていた気がします。それが、貼っても貼ってもすぐに剥がれてしまうのに困っていました。セロテープで補強している友達もいて、みんな同じところで苦労していたのが、今となっては微笑ましく思えます。 伝説の余熱で育った世代 考えてみれば、私が本放送を見ることのできなかったヒーローが、再放送という形を借りて、私の子ども時代をこれほどまで彩っていたわけです。1966年に生まれたウルトラマンは、私が生まれる前にすでに伝説になっていて、その伝説の余熱だけで、私を含めた何世代もの子どもを育てていきました。 胸のカラータイマーが点滅し、地球にいられる時間は3分間だけ。M78星雲からやってきた光の巨人が、両腕を十字に組んでスペシウム光線を放つ——あのシンプルな約束事が、これほど長く子どもの心をつかんで離さないとは、いったい誰が予想したでしょうか。ウルトラシリーズは、2013年に「最も多くの派生テレビシリーズが作られたテレビ番組」としてギネス世界記録にも認定され、その後さらに記録を更新しています。始まりが「穴埋め」だったヒーローが、世界記録の持ち主になったのです。 今、当時の映像はYouTubeの公式チャンネルでいつでも見られます。前夜祭という間に合わせから始まった番組が、60年近くたった今もまだ現役だというのは、当のスタッフたちも想像していなかったのではないでしょうか。今の子どもたちもまた、最新のウルトラマンに夢中になっている。私が郷秀樹に胸を躍らせたのと、まったく同じ目の輝きで。 親から子へ、子からまたその先へ。ウルトラマンは、そうやって世代を越えてバトンをつないできました。あの光の巨人は、本当に時間を超えて生き続けているのだと、しみじみ思わされます。私が再放送で受け取った一本のバトンも、たしかにその長いリレーの一区間だったのでしょう。 みなさんは、ウルトラマンとどんなふうに出会いましたか。本放送派でしたか、それとも私のような再放送育ちでしたか。 あの頃、100円のカードを握りしめて集めた怪獣図鑑。あれを大人になった今、決定版として手に入れられるのがこの一冊です。ベムスター、ツインテール、グドン、ブラックキング——名前だけは覚えている、あの顔ぶれに一気に再会できます。孫と一緒にページをめくるにも、ちょうどいい厚みです。 ウルトラ怪獣コレクション ウルトラマン・ウルトラセブン編円谷プロダクション監修。初代からセブンまでの怪獣・宇宙人を、鮮明な写真と解説で網羅した保存版 Amazonで見る › 昭和の今日は何があった日? 明日はどんな日だったのでしょうか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月9日】大井川鉄道、日本初のSL動態保存が始まった日 | 次の記事:【7月11日】私より9か月早く生まれた、あの雑誌のこと ▶

July 10, 2026

昭和の今日は何があった日? 6月1日 ― 父の肩車と、上野のパンダがいた時代

六月になりました。 カレンダーをめくると、一日はちょうど衣替え。学校に通っていたころは、この日を境に冬服が夏服に変わって、教室の景色がいっせいに明るくなったのを覚えています。詰襟の窮屈さから解放されて、白い半袖シャツの軽さが妙に誇らしかった。台所の冷蔵庫に冷えた麦茶が常備されはじめるのも、だいたいこのころでした。 そんな夏のはじまりの六月一日。昭和の時代、この日にはいろいろなことがありました。たとえば昭和六十一年(一九八六年)の六月一日には、上野動物園で日本初の人工授精による赤ちゃんパンダ「トントン」が誕生しています。 でも、私にとっての「上野のパンダ」と言えば、やっぱりこの二頭なのです。 ランランと、カンカン。 今日はこの話を、少し長めに、のんびりと書かせてください。 父の肩車の上で 昭和四十八年(一九七三年)のことだったと思います。私はまだ保育園に通う幼い子どもでした。その日は遠足で、両親も一緒に上野動物園へ行きました。 お目当ては、もちろんパンダです。 昭和四十七年(一九七二年)、日中国交正常化の記念として中国からやってきたランランとカンカン。白と黒の、丸っこくて、笹を抱えてもそもそ食べるあの不思議な生きものを一目見ようと、日本中が熱に浮かされていました。その熱が、私たち親子を上野へと連れて行ったわけです。 ジャイアントパンダ。白と黒の丸い体で笹を食べる姿が、日本中を夢中にさせた。(Photo: J. Patrick Fischer / CC BY-SA 3.0) ところが――です。 正直に告白しますと、私はあの日、ランランとカンカンを本当に見られたのかどうか、思い出せないのです。 覚えているのは、別のことばかり。パンダのいる建物の前には、気が遠くなるような大行列ができていました。長い長い時間を並んで、ようやく中へ入れたこと。そして父が私を肩車してくれたこと。あの高い視界の感触は、今でもはっきりと残っています。 でも、肩車の上から、私はちゃんとパンダを見たのでしょうか。それとも、人垣の向こうの黒い点のような何かを、パンダだと思い込んだだけだったのでしょうか。記憶の肝心なところが、すっぽりと抜け落ちているのです。 そのかわりに鮮明に残っているのは、人、人、人で溢れかえっていた園内の光景。そして、園内放送でやたらと流れていた「迷子のお知らせ」のアナウンスです。 「○○色のズボンに、○○の絵のシャツを着た、○歳くらいの男の子を保護しています……」 あの放送ばかりが、なぜか耳に焼きついている。肝心のパンダではなく、迷子の放送。我ながら「そこっ?」とツッコミたくなりますが、子どもの記憶というのは、案外そういうものなのかもしれません。大人が「これを覚えておきなさい」と思うところより、ぜんぜん別の隅っこを、勝手に大事にしまい込んでしまう。 それでもいいのです。父の肩の温かさと、迷子の放送と、果てしない行列。それが私にとっての「ランランとカンカンに会いに行った日」の、まぎれもない全部なのですから。 V3とタロウの、輝かしい年 ちなみに、その昭和四十八年という年。私にとっては、パンダ以外でも特別に光り輝いている一年でした。 なぜなら、テレビの中のヒーローがいちばん格好よかった時代だからです。 仮面ライダーは、V3。(昭和四十八年二月〜昭和四十九年二月) そしてウルトラマンは、タロウ。(昭和四十八年四月〜昭和四十九年四月) この二人が同じ時期に画面の中で戦っていたのですから、当時の男の子にとって、これ以上の幸福があったでしょうか。風見志郎が変身する三段変身に胸を躍らせ、ウルトラの父と母の息子であるタロウの登場に、ウルトラ兄弟の世界がどこまでも広がっていくのを感じていました。 保育園からの帰り道、私はきっとV3かタロウになりきって、見えない怪人や怪獣と戦っていたはずです。そして週末になれば、上野のパンダのように、テレビの前にもまた「人、人、人」――いや、こちらは家族みんなが集まって、かじりつくようにして見ていたのでした。 パンダもV3もタロウも、ぜんぶ同じ年の出来事。そう並べてみると、昭和四十八年というのは、私の幼い心がいちばん豊かに満たされていた年だったのだなと、しみじみ思います。 そして、令和八年の六月 さて、ここからは少し、今の話をしなければなりません。 令和八年(二〇二六年)の六月一日、現在。日本国内に、ジャイアントパンダは一頭もいません。 これを書いていて、自分でも信じられないような気持ちになります。 まず、令和七年(二〇二五年)の六月。和歌山のアドベンチャーワールドにいた四頭――良浜(らうひん)、結浜(ゆいひん)、彩浜(さいひん)、楓浜(ふうひん)――が、中国へ返還されました。涙ながらに見送ったファンの姿が、ニュースで大きく取り上げられていたのを覚えている方も多いでしょう。 そして、日本に残ったのは、東京・上野動物園の双子、「シャオシャオ」と「レイレイ」だけ。この二頭も、令和八年の一月下旬、ついに中国へと返還されました。 これをもって、日本国内のパンダの飼育頭数は、ゼロ。 昭和四十七年にランランとカンカンがやってきてから、五十四年。半世紀以上にわたって途切れることなく続いてきた「日本の動物園でパンダに会える時代」が、今、いったん幕を閉じたのです。 笹をもそもそと食べるパンダ。この姿を日本の動物園で見られる日が、また来ることを願っている。(Photo: Manyman / CC BY-SA 3.0) いなくなって、はじめてわかること 「上野にパンダがいない。」 この一文を、昭和の子どもだった私が読んだら、いったいどんな顔をするでしょう。たぶん、まったく信じないと思います。上野の動物園にパンダがいないなんて、空に太陽がないと言われるくらい、ありえないことに感じられたはずですから。 あの日、果てしない行列に並び、父に肩車をしてもらってまで会いに行った白黒の生きもの。見られたのかどうかも怪しい、けれども確かにそこに「いた」はずのランランとカンカン。その末裔とも言える時代の流れが、半世紀の時を経て、ひとつの区切りを迎えた。 考えてみれば、私が肩車の上で見たかもしれない(見られなかったかもしれない)あの光景は、「日本にパンダがいる時代」の、ほんとうに初期の一場面だったわけです。そしてその時代の終わりを、私は今、こうして大人になって見届けている。 なんだか、不思議な巡り合わせです。 時代は変わります。当たり前にそこにあったものが、ある日ふっと姿を消す。パンダだけの話ではありません。近所の駄菓子屋も、屋上の遊園地も、いつの間にか消えていきました。そして私たちは、なくなってからようやく、「ああ、あれは特別なものだったんだな」と気づくのです。 でも――きっと、また会える日が来ると、私は思っています。 いつかまた、上野の動物園に黒と白のあの姿が戻ってきて、孫の手を引いたおじいさんやおばあさんが、長い行列に並ぶ日が来る。そのとき子どもたちは、肩車の上から、ちゃんとパンダを見られるでしょうか。それとも、私のように迷子の放送ばかり覚えて帰るのでしょうか。 どちらでもいい。その記憶は、きっと一生ものになるのですから。 みなさんにとっての「上野のパンダ」は、どの子でしょうか。ランランとカンカンでしょうか。トントンや、シャンシャンでしょうか。よろしければ、あなたのパンダの思い出も、聞かせてください。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月31日~「世界禁煙デー」――煙が当たり前だった、あの頃の空気 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ── 6月2日、月にそっと手を伸ばした日 ▶ ...

May 31, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月8日──あの土曜日の夜が、一番好きだった

今日は5月8日。 この日付を調べていて、昭和40年(1965年)の5月8日にタツノコプロのテレビアニメ第1号作品「宇宙エース」が放送開始したことを知った。 正直に言う。「宇宙エース」を観た記憶が私にはない。再放送も含めて、まったく記憶にないのだ。 でも「そこから始まったのか」と知ったとき、じわじわと感慨がわいてきた。なぜなら、この番組が礎を作ったタツノコプロは、私にとって忘れられない土曜日の夜と深く結びついているから。 タツノコプロの、すべての始まり 昭和38年(1963年)、東京都国分寺市に「竜の子プロダクション」──のちのタツノコプロが生まれた。 創業者は人気漫画家・吉田竜夫と弟たちの三兄弟だ。「自分の漫画をアニメにしたい」という夢を抱いて立ち上げた会社だったが、アニメ制作のノウハウはゼロだった。新聞に求人広告を出すと、夢を持った若者が約60人集まった。専門家ではない、ほぼ素人の集団だ。 その60人が必死に作り上げたのが、昭和40年5月8日放送開始の「宇宙エース」だった。 宇宙船団からはぐれて地球にたどり着いた惑星パールム星の王子・エースが、スーパーパワーで悪と戦うSFアドベンチャーだ。当時はカラーテレビがまだ普及していなかったため、モノクロで制作された。視聴率は平均16.5%。大ヒットとは言えない数字だったが、1年間・全52話を走り切った。 そしてこの経験が、すべての土台になった。 「宇宙エース」で培ったノウハウと人材が、マッハGoGoGo、科学忍者隊ガッチャマン、そして「タイムボカン」シリーズへと受け継がれていく。ちなみに「ガッチャマン」の悪の組織名「ギャラクター」は、宇宙エースに登場した悪役の名前からそのまま引き継がれたものだ。 昭和40年5月8日に産声を上げた白黒の宇宙人の少年が、昭和アニメの歴史を動かした。 土曜日の夜が、一番好きだった 宇宙エースを私は知らない。でもタツノコプロが作り上げていったその世界は、私の子ども時代の中心にあった。 昭和50年代のある時期から、私にとって土曜日は特別な日になった。 正確に言えば、土曜日の夜6時30分から始まるあの時間帯のためだけに、一週間を生きていたと言っても過言ではないくらいだった。 18時30分──タイムボカンシリーズ。 ヤッターマン、ゼンダマン、オタスケマン……タツノコプロが生んだあの黄金のコメディシリーズだ。毎週ドロンジョ一味が悪巧みをして、最後に爆発してやられる。わかっているのに笑ってしまう。あのパターンの心地よさといったらなかった。ドロンジョ様はなぜか怖くなくて、むしろ愛おしかった。 19時00分──まんが日本昔ばなし。 「♪むかし むかし そのむかし」のオープニングとともに始まる、あたたかいアニメ。コミカルな話もあれば、ちょっと怖い話もあった。常田富士男と市原悦子の二人が何役もこなす語りは、今思い返しても唯一無二の味わいだ。 19時30分──仮面ライダーV3。 仮面ライダーといえば1号・2号という刷り込みがあったが、V3はそれを軽く超えてきた。風見志郎のスタイリッシュな戦いぶり、ダブルタイフーンの必殺技。デストロン怪人のおどろおどろしいデザインに毎週ビビりながら、それでも目を離せなかった。 20時00分──8時だよ!全員集合。 加藤茶のちょっとだけよ、いかりや長介のバカヤロー、志村けんのバカ殿……土曜の夜8時になると日本中の茶の間が爆笑に包まれた。「ドリフのコントが終わったら今週も終わりだ」という感覚があった。そして、ドリフが終わった後の9時台に始まる番組が、また最高だった。 21時00分──Gメン'75。 ドスの利いた丹波哲郎が率いる捜査チームが、大物犯罪者を追い詰めていく。子どもには少し難しいドラマだったけれど、あの重厚な雰囲気に引き込まれた。 そして、必ず来る。 「もう寝なさい!」 母か父の声が飛んでくる。9時を過ぎると、子どもは布団に入らなくてはいけない。Gメンの核心に差し掛かったところで、強制終了だ。しぶしぶ布団に入りながら、「今日の犯人は誰だったんだろう」と天井を見つめた。翌日、友達に結末を聞くのがまた楽しみだった。 あの夜のことを、今も覚えている 18時30分から21時まで。2時間半の土曜の夜。 タイムボカン、まんが日本昔ばなし、仮面ライダーV3、全員集合、Gメン'75。このラインナップを思い出すだけで、今でも胸がじわっと熱くなる。 昭和の土曜日は、学校が午前中で終わった。給食を食べて、午後からは自由だ。友達と外で遊んで、日が暮れて家に帰って、ご飯を食べて風呂に入って、そしてあの時間が始まる。 一週間の中で、あの夜が一番好きだった。 そしてそのすべての始まりが、昭和40年5月8日の夜6時15分に、白黒のテレビ画面に映し出された無名のアニメだったとは、当時の私には知る由もなかった。 おわりに 「宇宙エース」を私は知らない。でも宇宙エースがなければ、あの土曜日の夜はなかった。 素人60人が新聞広告で集まり、ノウハウもないまま作り上げた一本の白黒アニメが、タツノコプロという会社を育て、タイムボカンシリーズを生み、あの土曜日の夜の記憶を作った。 始まりはいつも、誰にも気づかれないところにある。 あなたが子どもの頃に夢中になっていた、あの土曜日の夜のことを、少しだけ思い出してもらえただろうか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月7日──フライみたいなアイスの、あの衝撃 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月9日──100円玉2枚と、母からの手紙 ▶

May 7, 2026