5月31日「世界禁煙デー」――煙が当たり前だった、あの頃の空気

昭和64年(1989年)の5月31日、世界保健機関(WHO)が「世界禁煙デー」を制定した。

この日付を調べていて、私はふと手が止まった。昭和64年——それは昭和という時代が幕を下ろした年だ。元号としての昭和は1月7日で終わっているけれど、暦の上では5月31日もまだ「昭和64年」と呼べる。煙にまみれた昭和という時代の、いちばん最後の年の5月の終わりに、世界が「もう、煙のない時代へ行こう」と号令をかけた。そう思うと、なんだか出来すぎた偶然のように感じられて、しばらく考え込んでしまった。

私は昭和44年生まれで、子ども時代をすっぽり昭和の中で過ごした世代だ。そして改めて思うのは、あの頃の空気には、文字どおりたばこの煙が溶け込んでいた、ということなのだ。


家じゅうが、煙でできていた

我が家は、父も母も、二人そろって喫煙者だった。

今になって思い返すと、私はずいぶんと濃い煙の中で育ったものだなと、つい苦笑いしてしまう。茶の間にも灰皿があり、台所にも灰皿があり、家のあちこちで細い煙が立ちのぼっていた。両親がそれぞれ火をつければ、狭い家の中は、ちょっとした煙幕のようになる。今なら「子どもがいる部屋でそんなに……」と眉をひそめられるところだろうが、あの頃はそれが我が家の、ごく普通の風景だった。

そして子どもの私は、それを「煙い」とすら思っていなかった。世の中のすべてがそういう匂いだったから、煙を煙と感じる感覚そのものが、まだ育っていなかったのだ。たばこの匂いは、私にとっては父の匂いであり、母の匂いであり、つまりは「家の匂い」だった。


「echo」を買いに走った夕暮れ

そんな家で育ったから、たばこのお使いには、たびたび行かされた。

我が家の銘柄は「echo(エコー)」だった。子ども心にも、たぶん安いやつなんだろうな、と何となく察していた。たしか一箱70円くらいだったと記憶している。親から小銭を握らされて、近所のたばこ屋まで「エコー一つ」と買いに走る。あの頃は年齢確認なんて言葉もなかったから、子どもがたばこを買うのに、誰も何も言わなかった。

たばこ屋というのは、どこも判で押したように同じ店構えをしていた。ガラスのショーケースの中に、色とりどりの箱が定規で測ったように整然と並んでいる。これは専売制のもとで陳列の仕方が細かく決められていたからで、だから日本中のたばこ屋が、似たような顔をしていた。背伸びをして小銭を差し出し、慣れた手つきで箱を渡してもらう、あの短いやりとり。それも昭和の子どもの、ありふれた日課のひとつだった。

昭和の国産たばこ銘柄(わかば・しんせい・エコー・ゴールデンバット) 昭和を代表する国産たばこ銘柄。左からわかば・しんせい・エコー・ゴールデンバット。どれも庶民に親しまれた安価な銘柄だ。(Photo: Haha169 / CC BY-SA 3.0

そして、お使いを頼んできたのは親だけではない。

中学に上がると、今度は部活の顧問の先生に、たびたびたばこを頼まれるようになった。先生の銘柄は「Peace(ピース)」。練習の合間に「おい、ピース買ってきてくれ」と小遣いを渡され、走って買いに行く。今ならまず間違いなく問題になる話だが、当時はそれが当たり前だった。

そもそも、その先生は野球部の指導をしながら、校庭で平然と一服していたのだ。ノックバットを片手に、口の端にたばこをくわえて、「もっと声出せ!」と檄を飛ばす。煙をくゆらせながらグラウンドに立つ先生の姿に、誰一人として違和感を覚えなかった。思い返すと笑ってしまうけれど、あれもまた、まぎれもない昭和の風景だった。

ピース(Peace)たばこのパッケージ 「ピース」のパッケージ。戦後すぐから続く高級銘柄で、贈り物にも使われた。野球部の顧問が「ピース買ってきてくれ」と言っていたあの箱だ。(Photo: Alf van Beem / CC0 パブリックドメイン


鼻が覚えている、外の世界の煙

家の外に一歩出ても、世界はやっぱり煙かった。

駅のホームには大きな丸い灰皿が点々と置かれ、白い煙がいくつも立ちのぼっていた。けれど煙かったのはホームだけではない。電車の中でも、バスの車内でも、人々は当たり前のようにたばこを吸っていた。走る車内に煙がたなびき、座席の肘掛けには小さな灰皿がついている。

極めつけは、病院の待合室だ。体の具合が悪くて来ているはずの場所で、患者さんがゆったりとたばこをふかしている。診察を待ちながら、煙の中で順番を待つ。今思えば何とも倒錯した光景だが、当時はそれを誰もおかしいと言わなかった。それくらい、たばこは生活のすみずみにまで、空気のように溶け込んでいたのである。

長い電車やバスの旅から帰って服を脱ぐと、生地に独特の匂いが染みついていた。今思えばそれはまぎれもなく受動喫煙だったのだけれど、あの頃の子どもは「これが電車の匂い」くらいにしか思っていなかった。

ちなみに当時のたばこの値段はこうだった。

時代 一箱の価格(目安) 代表銘柄
昭和40年代 約60〜70円 エコー・わかば・ゴールデンバット
昭和50年代 約120円前後 しんせい・ハイライト
昭和60年代 200円台 マイルドセブン・セブンスター

今の感覚からすると気が遠くなるほど安かった。


「けむりが苦手です」という小さな声

そんな煙だらけの世の中に、少しずつ別の声が混じりはじめたのも昭和のことだった。

昭和51年(1976年)、新幹線「こだま」のたった一両に、こっそり禁煙車が設けられた。十六両編成のうち、わずか一両。けれどこれが子ども連れの旅行者や女性客に思いのほか喜ばれて、「もっと増やしてほしい」という署名運動にまで広がっていった。

昭和53年(1978年)には「嫌煙権」という、当時としては耳新しい言葉が登場する。「たばこのけむりが苦手です」——そう書かれたバッジを胸につける人が現れた。たばこをやめてくれと迫るのではなく、ただ、きれいな空気を吸わせてほしい、という静かな願いだった。

たった一両の禁煙車と、胸の小さなバッジ。そんなささやかなものから始まった変化が、長い時間をかけて世の中の空気そのものを入れ替えていった。その流れの行き着いた先のひとつが、昭和の最後の年の5月31日、あの「世界禁煙デー」だったのだと思う。


煙の向こうにあったもの

今の子どもたちは、路上でたばこを吸う大人を見ることのほうが珍しくなった。駅のホームから、あの銀色の大きな灰皿はすっかり姿を消した。電車の中はもちろん、病院の待合室でたばこを吸う人など、もうどこにもいない。野球の指導中に校庭で一服する先生など、今では考えられないだろう。

変わってよかったと、心から思う。健康のためにも、子どもたちのためにも。

それでも、と思う。鼻の奥に残るあの煙の匂いは、私にとっては、父と母の匂いそのものだ。二人がそれぞれ火をつけて、狭い茶の間に煙が満ちていく——あの頃はそれが、ごく当たり前の家族の風景だった。「エコー一つ」と握らされた小銭の感触も、「ピース買ってきてくれ」と笑っていた先生の声も、今でもふっと胸の奥でよみがえる。煙そのものを懐かしむわけではないけれど、その煙の向こうにあった昭和という時代は、たしかに、私の子ども時代そのものだった。

ひとつだけ、自分でも不思議に思うことがある。あれだけ濃い煙の中で育ったというのに、私も妹も、大人になってからついにたばこを吸うことはなかった。理由はよくわからない。たばこ屋まで走った日々が、あんなにも当たり前だったのに。あるいは、当たり前すぎたからこそ、自分で火をつけてみようとは思わなかったのかもしれない。煙の中で育った子どもが、煙を選ばなかった——それもまた、昭和から平成へと移りゆく、時代の変わり目に立っていたということなのだろうか。

あなたの家では、たばこはどんな存在だったでしょうか。誰かのお使いで、たばこ屋まで走った夕暮れを、覚えていますか。

「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。


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