5月30日——夢と、ゴミと、あの頃の風景

5月の終わりが近づくと、なんとなく学年のリズムが見えてくる頃だった。運動会が終わって少しぼんやりしたような、けれどまだ夏休みには遠い、中途半端に気持ちのいい季節。グラウンドの土はもう初夏の匂いで、体操着の脇が汗でじわりと湿る頃だ。

そんな5月30日という日に、昭和はふたつの大きな「出来事」を刻んでいる。

ひとつは、日本の自動車史に残る夢のマシンの誕生。もうひとつは、「自分のゴミは自分で持ち帰る」という、今では当たり前すぎて忘れかけた運動の産声だ。どちらの話も、私の子供時代の記憶と、不思議なくらいぴったり重なっている。


走るより、飛ぶ感じ——コスモスポーツ、颯爽と登場

昭和42年(1967年)5月30日。東洋工業(現・マツダ)が、世界をあっと言わせた1台の車を世に送り出した。「コスモスポーツ」である。

それがなぜ世界を驚かせたかというと、搭載していたエンジンが普通のエンジンとまったく違っていたからだ。ロータリーエンジン——三角形のローターがくるくると回転して動力を生み出す、それまで誰も量産化できなかった夢のエンジンを、広島の自動車メーカーがついに実用化してのけた。

このエンジンはもともと、西ドイツのNSU社のフェリックス・ヴァンケルという技術者が発明したものだ。ピストンが上下する従来のレシプロエンジンとは根本的に異なり、三角形のローターが楕円形のハウジングの中で回転することで動力を得る。部品点数が少なく、振動が少なく、小型で高出力。「夢のエンジン」と言われた。

しかし量産化には致命的な壁があった。「チャターマーク」と呼ばれるエンジン内壁の波状摩耗だ。ローターの先端(アペックスシール)がハウジング内壁を高速で摺動するうちに、ハウジング表面が波打つように削れてしまう。これが「悪魔の爪痕」と恐れられた現象だ。

世界中の自動車メーカーがこの壁に直面し、次々と開発を諦めていった。NSU社自身も完全な解決策を見出せないまま、前に進めなかった。しかしマツダは諦めなかった。若い技術者たちが交代でアペックスシールを手作りしては試験を繰り返し、失敗の数は10万回を超えたともいわれる。その執念が、6年間の開発期間を経て実を結んだ。

昭和42年5月30日、その執念はついに市販車として世に出た。最高速度185km/h、0→400m加速16.3秒。低く流線型を描くボディは「走るというより、飛ぶ感じ」と形容された。価格は148万円——当時の大卒初任給が2万円台だったことを思えば、庶民には夢のまた夢だ。月に30台前後しか売れなかったという。それでも意味があった。「日本にこんな車が作れる」という事実そのものが、技術者たちの誇りであり、日本自動車産業の底力を世界に示すものだったからだ。

翌昭和43年(1968年)には、このコスモスポーツが「マラソン・ド・ラ・ルート」という約8万4000kmに及ぶ過酷な長距離耐久レースに参戦し、84時間走り続けて完走した。ロータリーエンジンの耐久性と信頼性を、実戦で証明してみせたのだ。

マツダ・コスモスポーツ(1967年型) マツダ・コスモスポーツ(1967年中期型)。低く流れるようなボディラインと、世界初の量産ロータリーエンジンを搭載。(Photo: Tokumeigakarinoaoshima / CC BY-SA 4.0

それでも私は、コスモスポーツというものに、子供ながらに途方もないロマンを感じていた。

昭和40年代後半、近所を走るのはほとんどがカローラとかサニーといった、四角くて地味な乗用車だった。たまにブルーバードSSS(スリーエス)やセリカが通ると、子供たちは手を止めて見た。それくらい「かっこいい国産車」は珍しかった。そんな中、雑誌のグラビアで見るコスモスポーツのシルエットは、もはや別次元だった。ドア下部にかけてなだらかに落ちるウエストライン、細く切れ上がったテールランプ——宇宙船みたいだと思った。

「コスモ」という名前がまた宇宙時代にぴったりで、実際に名前の由来はイタリア語で「宇宙」を意味するCosmoだったという。1969年にはアポロ11号が月に着いた。その数年前にコスモスポーツが生まれた、というタイミングも、何かを象徴しているような気がする。あの頃、人類も日本も、宇宙に向かって飛び立とうとしていた。

コスモスポーツは後に「サバンナRX-7」「RX-8」へと系譜をつなぐ。あの独特の甲高いエンジン音は、ロータリーが生み出す独自の音だった。私がはじめてその音を路地で聞いたとき、「なんかすごいものが走り抜けた」としか言えない感覚があった。エンジン音が違う。アクセルを踏んだときの音の伸び方が違う。子供の耳にも、それははっきりとわかった。

マツダ10Aロータリーエンジン(1972年型) マツダ10Aロータリーエンジン(1972年型)。コスモスポーツに搭載されたロータリーエンジンの実物。三角形のローターが回転して動力を生み出す独自の構造が特徴。(Photo: TTTNIS / CC0 パブリックドメイン


マットビハイクルと、銭湯の夜

そしてもうひとつ、コスモスポーツが私の記憶に深く刻まれている理由がある。「帰ってきたウルトラマン」に登場する、あのマットビハイクルだ。

1971年から放送が始まったこの番組で、怪獣攻撃隊MATの隊員たちが乗り込むパトロール特捜車両——それがコスモスポーツをベースにしたマットビハイクルだった。白いボディに赤いライン、天井にはパトランプ。改造といえばそのくらいで、超合金のロボットや宇宙船とは違い、どこか「本物の車感」がにじみ出ていた。

子供だった私は、あの流線型のシルエットをずっと「外車」だと思い込んでいた。国産車にあんなかっこいいデザインがあるはずがない、と。近所を走るカローラやブルーバードとは、まるで別の生き物に見えたのだ。それがまさか広島のメーカーが作った純国産車だと知ったときの驚きは、今でも覚えている。「日本ってすごいじゃないか」と、子供心に誇らしかった。

ところで、つい最近まで私はこう思い込んでいた。「帰ってきたウルトラマン」が、自分がリアルタイムでテレビで見た最初のウルトラマンだ、と。

3歳か4歳のころのぼんやりした記憶がある。当時、我が家はまだ借り住まいで、家風呂がなかった。夕方になると母に連れられて銭湯へ行くのが日課だった。番台のおばちゃんに頭を下げて、脱衣所で服を脱いで、湯船の熱さに「あちっ」と言いながら入る。そのルーティンが終わって、さあ帰ろうとなったとき、私は母にこう言い張ったのだという。「早く帰ろう、ウルトラマンが始まっちゃう!」

金曜日の夜19時——。母に引きずられるように番台を通り抜け、まだ少し濡れた髪のままテレビの前に駆け込む。そんな光景が、記憶のかけらとして残っている。お風呂上がりのほわほわした体温と、テレビから聞こえてくる特撮のBGMが、記憶の中で混ざり合っている。

しかし改めて調べてみると、「帰ってきたウルトラマン」の放送は1971年(昭和46年)4月から翌年3月まで。私が生まれたのは昭和44年(1969年)4月だから、放送開始のときはまだ2歳だ。2歳の記憶が「テレビの前に駆け込む」ほど鮮明に残るはずがない。

では、あの銭湯の記憶は何だったのか。

答えはおそらく、「ウルトラマンA(エース)」か「ウルトラマンタロウ」だ。エースは1972年4月から翌年3月放送、タロウは1973年4月から翌年3月放送。どちらも同じ金曜夜19時、TBS系。私が3歳〜5歳のちょうど「ぼんやり覚えている」年齢と重なる。

つまり、銭湯から急いで帰っていたあの夜のウルトラマンは、郷秀樹ではなく、北斗星司か東光太郎だった可能性が高い。

それでも私の中では「帰ってきたウルトラマン」と「マットビハイクル」が刷り込まれている。「帰ってきた」という言葉のインパクトが強すぎたのだろう。子供はタイトルに引きずられる。「帰ってきた」のだから、きっと自分も見ていたはずだ——そういう無意識の補完が起きていたのかもしれない。

昭和の子供の記憶なんて、どれもそんなふうに、いくつかの断片がひとつに溶け合っているものだ。でもそれはそれで、悪くない気がしている。記憶が混ざり合うのは、それだけ夢中になっていた証拠でもあるから。


「自分のゴミは自分で持ち帰る」——530運動、豊橋から全国へ

さて5月30日というこの日付は、もうひとつの昭和の記憶とも重なっている。「530(ゴミゼロ)運動」だ。

昭和50年(1975年)の5月、愛知県豊橋市で「自分のゴミは自分で持ち帰りましょう」という合言葉のもと、市民運動が産声を上げた。その名称の由来は、日付の語呂合わせ——5(ゴ)、3(ミ)、0(ゼロ)。5月30日だから「ゴミゼロ」。言われてみれば単純明快なのに、それまで誰も言わなかった。

発端は、豊橋市東部の山を歩く登山者や行楽客が増えるにつれ、空き缶やゴミが山道に散乱するようになったことだった。豊橋山岳会の会長が「これはおかしい」と立ち上がり、市に提唱したのがはじまりだという。昭和50年11月に行われた初の一斉清掃には、147団体・約12万人が参加した。その後、この運動は全国に広がり、今では5月30日が「ゴミゼロの日」として定着している。

この頃の日本を思い返すと、正直、ゴミに対する感覚は今とはまったく違った。

昭和40年代、私が野球をやっていた公園には、普通に空き缶が転がっていた。誰かが飲んだコーラの缶、アイスのゴミ、菓子の袋。今で言えば「ひどい」話なのだが、当時の子供たちはそれを当たり前の風景として受け入れていた。誰も拾わなかったし、叱られることもなかった。「ゴミ問題」という言葉自体、テレビのニュースで難しいおじさんたちが話すことで、子供には遠い話だった。

川にゴミを捨てることも、当時は珍しくなかった。近所の用水路には、ときどき古い自転車や家電の残骸が沈んでいた。大人たちも見て見ぬふりをしていた。「誰かが片付けるだろう」という、ぼんやりした空気が漂っていた。高度成長期の日本は、豊かになることに必死で、その豊かさが生み出すゴミのことをあまり考えていなかったのだと思う。

だから、学校でリヤカーを引いて廃品回収をしたときの記憶は、少し違う質感がある。あれは先生に言われたからやるのではなく、「瓶や新聞紙が資源になる」という感覚が、どこかで子供心に本物だと伝わっていた気がする。大人たちの意識が変わり始めていた時期と、私が物心ついた時期がちょうど重なっていた。

昭和52年(1977年)には空き缶の路上投棄を規制する条例が各地で制定され始め、昭和60年代に入ると「ポイ捨て禁止」の看板が公園や道路に目立ち始めた。530運動が豊橋から全国に広がっていった昭和50年代、日本の街と人の意識は、少しずつ、でも確かに変わろうとしていた。

私が子供のころに感じた「ゴミのある風景」は、今の子供たちにはほとんど想像できないかもしれない。それは悪いことではなく、その変化を積み重ねてきた大人たちの努力の証だ。豊橋の山岳会の会長が「これはおかしい」と声を上げた日から、半世紀近くが過ぎた。


5月の終わりに思うこと

コスモスポーツと530運動。並べると不思議な組み合わせだが、どちらも昭和という時代の「欲望と反省」の両面を映しているような気がする。

高度成長の夢を詰め込んだロータリーエンジンの夢の車が誕生した一方で、その成長が街に撒き散らした空き缶を拾い集める運動が生まれた——どちらも同じ昭和という時代の日本の空の下にある出来事だ。

前に突き進む力と、足元を見直す力。その両方がなければ、時代はうまく動いていかない。マツダの技術者たちが「悪魔の爪痕」に諦めなかったように、豊橋の一人の市民が「これはおかしい」と声を上げたように、昭和という時代はそういう「諦めない人たち」の集積で動いていた。

夢に向かって突き進んでいたあの時代が、少しずつ自分の足元を見直しはじめた瞬間が、この5月30日という日のどこかに刻まれているようで、私には妙に感慨深い。

あなたは昭和の「ゴミ」の風景を、どんなふうに覚えていますか?

「昭和の今日は何があった日?」は昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で掘り起こすエッセイシリーズです。


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