9月9日 ── 最後の四・八キロがつながった日、私は完全に凍りついていた|昭和の今日は何があった日?

九月九日。昭和六十二年(一九八七年)のこの日、日本の地図の上で、一本の線がようやくつながりました。 埼玉県の川口ジャンクションと浦和インターチェンジのあいだ、わずか四・八キロ。この短い区間の開通で、東北自動車道は全線開通しました。同じ日、首都高速川口線も開通して、首都高と東北道がひと続きになります。 結果、青森インターチェンジから熊本の八代インターチェンジまで、約二千キロが高速道路一本でつながりました。北の端から南の端まで、一度も一般道に降りずに走り切れる。日本列島に、初めて縦の背骨が通った日でした。 曜日でいえば、水曜日。その日、私は十八歳の高校三年生でした。 十五年かかった、一本の道 東北道が最初に開通したのは、昭和四十七年(一九七二年)十一月十三日。岩槻インターから宇都宮インターまでの九十二・五キロです。私はまだ三歳、葛飾の高砂で、線路のそばの家に暮らしていました。 そこから東北道は、少しずつ北へ伸びていきました。矢板、白河、郡山、白石、仙台、一関、盛岡。年に一区間、二区間というペースで、東北の背骨が一節ずつつながっていきます。そして昭和五十四年(一九七九年)九月、私が小学四年生の秋に、ついに青森インターまで到達しました。 はるか北の青森までは、昭和五十年代のうちにもう届いていたのです。 ところが、です。東京にいちばん近いところが、最後まで残りました。浦和から川口までの四・八キロ。開通は、青森到達から八年も後のことでした。 事業費は三百五十億円。一キロあたり七十億円を超えます。人家の密集した都市部に高速道路を通すのは、山を貫くのとはまるで違う難しさがあったのでしょう。いちばん短い区間が、いちばん最後まで残った。地図の上のほんの数ミリを埋めるために、十五年が必要だったわけです。 「葛飾川口線」という名前 同じ日に開通した首都高速川口線のほうにも、葛飾に住む者として見逃せない話があります。 首都高川口線は、足立区の江北ジャンクションから、埼玉県川口市の川口ジャンクションまでを結ぶ路線です。地図をなぞればわかるとおり、葛飾区は通っていません。 ところが、この道路の道路法上の正式な路線名は、「東京都道・埼玉県道242号 高速葛飾川口線」。葛飾、なのです。 なぜかというと、この路線名の指定区間には、川口線そのものに加えて、中央環状線の小菅ジャンクションから江北ジャンクションまでが含まれているからです。小菅は、葛飾区。つまり法律の上では、この道は葛飾から始まって川口に至る道、ということになっている。 青森から八代までをつないだ最後のピース。その出発点に、こっそり「葛飾」の名前が入っていた。地元の名が、日本列島の背骨の付け根に刻まれていたわけです。 十八歳の秋、私は完全に凍りついていた その歴史的な水曜日、私は何をしていたか。正直に書きます。完全にフリーズ状態でした。 七月二十三日、神宮第二球場での試合を最後に、私の高校野球は終わりました。二対三。あれほど毎日を埋め尽くしていたものが、ある日ぱたりとなくなった。そのあとに残ったのが、九月の私でした。 進路について、やりたいこと、やれること、やらねばならないこと。そのすべてを棚上げしてきた当然の結果です。棚上げ、と書きましたが、正確に言えば違います。考えたくなかったから、逃避していた。それが正しい。 だから、この日のニュースについては、まったく覚えがありません。青森から八代までが一本になった、と新聞もテレビも伝えていたはずですが、十八歳の私には何ひとつ届いていませんでした。 日本の道が縦につながったその日、私はどこへも進めずに止まっていた。並べて書いてみると、ずいぶん皮肉な取り合わせです。 車のない家に育って、二十歳で運転席に座った そもそも子どものころ、うちには車がありませんでした。だから「高速道路」が、生活の中にまったくなかったのです。 高速道路は、テレビの中や地図の上にあるものでした。走ったこともなければ、乗せてもらったこともない。 私が自分で高速道路を運転するようになったのは、一年浪人して大学に入り、運転免許を取って、ローンで車を買ってからです。 当時は、車がなければ彼女もできないような時代の雰囲気がありました。思い込みだったのかもしれませんが、少なくとも私はそう感じていました。 そして、自分の車を持てたときは、本当に嬉しかった。ただ運転しているだけでも、喜びがこみ上げてきました。どこへ行くというわけでもなく、ハンドルを握っているだけで楽しい。あの感覚は、たぶん一生に一度しか味わえないものです。 その道を、私は当たり前のように走っていた 大学時代、私はスキーによく出かけました。宮城県の蔵王、岩手県の安比高原。東北道を使って、いろいろなところへ行きました。 ──ここで、話がつながります。 葛飾から東北のスキー場へ向かうということは、首都高から川口ジャンクションへ入り、東北道に乗るということです。つまり私は、あの四・八キロを通っていたのです。 十五年かかったあの最後の区間。三百五十億円かけて埋められた地図の空白。それを私は、開通からたった二年後に、何も知らないまま、当たり前の顔をして通過していた。「せっかくつながった道だ」などとは、これっぽっちも思っていません。スキー場のことしか頭になかったはずです。 道というのは、そういうものなのでしょう。できあがってしまえば、最初からそこにあった顔をする。誰が苦労してつないだかなど、走っている人間はいちいち考えません。 荷物を運ぶ側から見えた道 大学を出て信用金庫に入り、その後、佐川急便へ移りました。新木場のデポです。 意外に思われるかもしれませんが、佐川急便時代に仕事で東北道を走ったことはありません。担当エリアを回って荷物を集め、届けるのが私の仕事でした。 けれど──と、いまになって思うのです。 私が集荷した荷物は、高速道路のおかげで全国各地へと迅速に届けられていました。反対に、全国各地から、私の担当エリアのお客さまあての荷物が到着していました。当たり前のように毎日を過ごしていましたが、それってとんでもないことですよね。 葛飾で受け取った小さな段ボールが、翌日には青森にある。青森で出された荷物が、翌日には私の手元にある。それを支えていたのが、昭和六十二年九月九日に一本になった、あの背骨でした。 いま私は路線バスの運転士ですから、仕事で高速道路を使うことはありません。けれど、無関係でもないのです。 高速道路が通行止めになると、本来そこを走るはずだった車が下の道へ流れてきて、思わぬ渋滞が発生します。地上の道と高架の道は、そうやってつながっています。 その高速道路そのものを、まるごと一冊で扱った新書があります。なぜサービスエリアはあの間隔なのか、料金はどう決まっているのか。毎日ハンドルを握る人ほど、たぶん面白く読めます。 ...

September 9, 2026

9月8日 ── 毒霧を吹いた日本人と、中間子を予言した日本人|昭和の今日は何があった日?

九月八日には、まるで似ていない二人の日本人が並んでいます。 一人は、顔を白と赤に塗り分け、口から緑色の霧を吹いた男。もう一人は、原子核の中に誰も見たことのない粒子があると言い当て、日本人で初めてノーベル賞を受けた学者。 ザ・グレート・カブキは昭和二十三年(一九四八年)九月八日に生まれ、湯川秀樹は昭和五十六年(一九八一年)九月八日に亡くなりました。片方は誕生日、片方は命日。共通点は日付だけ。 それでも今日はこの二人を並べてみます。子どもだった私にとって「世界で通用した日本人」は、どういう顔をしていたのか。そう考えると、どうしてもこの二人が同じ線の上に乗ってくるのです。 延岡の自転車屋の三男坊 ザ・グレート・カブキ、本名を米良明久(めら・あきひさ)といいます。宮崎県延岡市に三人兄弟の末っ子として生まれました。お父さんは戦艦大和の元乗組員で、戦後は自転車店を営んでいたそうです。中学二年で愛知県知立市へ移り、学生時代は水泳の選手として活躍、柔道にも打ち込んでいました。 昭和三十九年(一九六四年)一月、日本プロレスに入門。同じ年の十月三十一日、宮城・石巻大会の山本小鉄戦でデビュー。翌年、リングネームを高千穂明久に改めます。 ここまでは、正直に言って、地味です。派手な必殺技があるわけでもない、堅実に試合を組み立てる中堅どころ。日本プロレスが崩壊すると全日本プロレスへ移り、そこでも中堅のまま、やがてアメリカへ渡ります。 昭和五十六年(一九八一年)一月、そのアメリカで、彼は「ザ・グレート・カブキ」になりました。 歌舞伎の隈取りのようなペイント。般若の面をつけた連獅子姿、鎖帷子をまとった忍者スタイル、日本刀を携えた鎧武者姿。両手のヌンチャクを唸らせ、口から霧を吹く。「東洋の神秘」という異名がつきました。 面白いのは、アメリカでの彼の「出身地」が、日本ではなくシンガポールとされていたことです。当時のアメリカには、すでに日本製の自動車も電化製品も行き渡っていた。日本はもう「神秘の国」ではなかったのです。だから、もっと遠い、もっと得体の知れない場所から来たことにする必要があった。日本人が日本人であることを隠して「東洋の神秘」を演じる。あの時代の日本と世界の距離が、そのまま写り込んでいるように思います。 そしてこのギミックが、爆発しました。 昭和五十八年二月、カブキが帰ってきた 昭和五十八年(一九八三年)二月、カブキは凱旋帰国します。全日本プロレスのリングに、カブキのまま登場。馬場や鶴田と並ぶほどの人気を得た、と記録されています。世に言う「カブキブーム」です。 180センチ、110キロ。数字だけなら、当時のプロレス界で飛び抜けて大きいわけではありません。それでも画面の中で、あの顔は明らかに異物でした。 私は全日本も見ていました。土曜日の夕方ではなかったでしょうか。新年恒例の、たくさんのレスラーがリングに上がって生き残りをかけるバトルロイヤルは、毎年の楽しみでした。 毒霧も、もちろん見ました。ただ、かっこいいと言うよりは、あの「異様」さのほうに興味を持ちました。緑色の霧が口から噴き出す。あれには驚かされたものです。 私はタイガーマスクが好きな少年でしたが、怪奇派の悪役が嫌いだったかというと、まったく逆です。タイガーマスクだけでは盛り上がりませんよね。やはり実力と人気もある悪役レスラーが存在してこそ、引き立つヒーローでしょう。カブキは、その役割そのものでした。 そして学校でどうしたか──当然、やりました(笑)。水を口に含んで、思いきり吹く。あれをやらなかった中学生が、あのころどれだけいたでしょうか。 日本を出るときは中堅だった男が、アメリカで別人になって帰ってきた。しかもその別人は、外国人が思い描く「日本」を思いきり誇張した姿をしていた。逆輸入では足りない、奇妙なねじれがそこにはあります。このスタイルは、のちのグレート・ムタに受け継がれていきました。 中学時代まで、プロレスの見方は小学生のころと変わりませんでした。全日本も新日本も、どちらも興味を持って観ていた。ただ感覚的には、周りで話題になっていたのはアントニオ猪木の新日のほうだったように思います。カブキは、その外側から現れました。 その二年前、同じ日に カブキがアメリカで生まれ変わったのが昭和五十六年一月。その同じ年の九月八日、京都で一人の学者が亡くなりました。 湯川秀樹。生まれは東京の麻布、育ちは京都でした。 昭和十年(一九三五年)、二十代の若さで、原子核の中で陽子や中性子を結びつける「中間子」という粒子の存在を、理論的に予言しました。実物は誰も見ていない。計算と理屈だけで、そこに何かがあるはずだと言い切ったのです。 十二年後の一九四七年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが、宇宙線の中からパイ中間子を発見します。紙の上で言い当てたものが、本当にあった。そして昭和二十四年(一九四九年)、湯川秀樹は日本人として初めてノーベル賞を受賞しました。 戦争に負けて四年目です。焼け跡がまだ残る国で、日本人がノーベル賞を受けた。国じゅうが沸いたと伝わっているのも、無理はないと思います。 昭和四十五年(一九七〇年)に京都大学を定年退官。その後は前立腺癌を患い、自宅で療養しながら学術活動を続けました。米ソの緊張が激しくなるなか、亡くなる年の六月には十五年ぶりに第四回科学者京都会議を実現させ、相当に悪い体で車椅子のまま出席して、核兵器の廃絶を訴えています。 その三か月後、急性肺炎から心不全を併発し、京都市左京区の自宅で亡くなります。七十四歳。 昭和五十六年九月八日。私は小学六年生でした。 そして正直に書きますが、私はこの日を覚えていません。 湯川秀樹という名前は、いつの間にか聞き覚えがあるな、という感じで頭の中にありました。学校で習ったのか、テレビで見たのか、伝記で読んだのか、はっきりしません。ノーベル賞という言葉も、詳しくは分かっていませんでした。理科や科学に興味があったかというと、これも正直、特にありませんでした。あのころの私は「あばれはっちゃく」タイプの小学六年生です。日本人初のノーベル賞学者が亡くなった日、私はたぶん、外で走り回っていました。 その湯川秀樹が、自分の子ども時代から物理学の道に入るまでを書いた回想録があります。文庫で七七〇円。難しい数式は出てきません。あの写真の人が、どんな子どもだったのか。 旅人 ある物理学者の回想(角川ソフィア文庫)湯川秀樹/KADOKAWA。日本初のノーベル賞学者が、幼少期から青年期までを自ら綴った回想録。星4.3(190件) Amazonで見る › 「世界で通用した日本人」の顔 この二人を並べたいと思ったのは、子どもの私にとって「世界で通用した日本人」という言葉が、まるで違う二つの顔をしていたからです。 湯川秀樹は、教科書と伝記の中にいる人でした。偉い。すごい。でも、遠い。中間子と言われても、何のことだかわかりません。名前と「日本人初のノーベル賞」という肩書きだけが、記号のように頭に入っている。実感は、ありませんでした。 一方、カブキはテレビの中で動いていました。アメリカで大成功して帰ってきた日本人が、目の前で霧を吹いている。何がどうすごいのか理屈はわからなくても、「向こうで通用した」ということだけは、体でわかった気がしました。 いま並べてみると、この二人は正反対のことをやっています。 湯川秀樹は、誰も見たことのないものを「ある」と言い当てた人です。日本人であることを隠す必要も、誇張する必要もない。数式の前では、国籍は関係がありません。 カブキは逆です。日本人であることを外国人の期待に合わせて思いきり作り込み、しかも出身地はシンガポールということにされた。中身ではなく、見え方で勝負した。 ...

September 8, 2026

9月7日 ── どんぶりを持って、道に出た|昭和の今日は何があった日?

今日は9月7日。 この日には、二つの記念日が重なっています。ひとつは「明星チャルメラ」が発売された日。もうひとつは「CMソングの日」。 一見、何のつながりもない二つです。片方はインスタントラーメンで、片方はラジオの広告の話。並べる理由なんてなさそうに見えます。 でも、私はこの二つを並べてみて、あ、と思いました。どちらも音の話なんです。 チャルメラという商品名は、屋台のラーメン屋が吹いていたあの楽器の名前です。テレビから流れてきたCMソングも、耳から入ってきて勝手に居座った音でした。 昭和の子供は、商品を音で覚えていた。そんな気がしてきたのです。 1966年9月7日、チャルメラが発売された 「明星チャルメラ」の発売日は、1966年(昭和41年)9月7日。今日でちょうど発売60周年になります。還暦です。 明星食品には、この4年前に大きな発明がありました。1962年に開発したスープ別添方式です。それまでの即席麺は麺そのものに味を付けて油で揚げていたため、どれを食べても似たような味にしかならない。ところがスープを粉末にして小袋に分けたことで、味の種類が一気に作れるようになった。この方式は各社に模倣されて即席麺の標準型になり、焼そばや和風麺まで生まれます。今スーパーの棚に袋麺が何十種類も並んでいるのは、もとをたどればここに行き着くわけです。 その技術の上に立って作られたのがチャルメラでした。開発はラーメン屋の食べ歩きから始まったといいます。目指したのは「街のラーメンの味」「飽きない味」。ホタテのエキスをスープに加え、仕上げ用に別添の「木の実のスパイス」を付けた。「木の実」と「好み」をかけた名前だそうです。現在は「秘伝のスパイス」と名前を変えていますが、中身は発売当初からほとんど変わっていないとのこと。 そして、あの袋です。夜の町角、明かりの灯る屋台、庇付きの帽子をかぶってチャルメラを高く吹き鳴らすおじさん。あの絵は200点以上の候補から選ばれたもので、描いたのはイラストレーターの木村修二さん。おじさんも、猫も、屋台も、夜景も、すべて同じ人の手によるものでした。 商品名を音から取り、パッケージにその音を吹いている人を描く。考えてみると、ずいぶん大胆なことをしています。袋の中から音は出ないのに、見た人の頭の中では鳴っている。 わが家の袋麺は、サッポロ一番だった 正直に言うと、わが家の定番はチャルメラではありませんでした。 サッポロ一番のしょうゆ味。これが基本です。母が作ってくれて、必ず卵を落としてくれました。あの、白身が半分固まりかけたところをスープごとすする感じ。袋麺の味というより、あれはもう母の作るラーメンの味として記憶に残っています。 ただ、チャルメラもちゃんと食べています。ときどき、しばらくチャルメラが続く時期があった。子供心には理由がわかりませんでしたが、たぶん安売りしていたんでしょうね。母がスーパーで、いつもの棚を見て、こっちが安いからと手を伸ばした。それだけの話だったはずです。 その「それだけの話」が、六十年続いた商品の売り上げの一つになっている。当たり前ですが、ロングセラーというのは、そういう小さな判断の積み重ねでできているのだと思います。 どんぶりを持って、道に出た そして、屋台のほうのチャルメラです。 これははっきり覚えています。昭和五十年ごろ、わが家の前の道を、夜になると屋台が通っていました。チャルメラを鳴らしながら、ゆっくりと引いて歩いてくる。 どんぶりを持って買いに出た記憶があります。家の器を持って、外に出て、道の上でラーメンを受け取る。今の感覚だと、なかなかすごいことをやっています。店に行くのでもなく、出前を待つのでもなく、店のほうが家の前まで来る。 思えばあの頃、うちの前の道はいろいろな商売が通っていく道でした。豆腐屋のラッパ。竿竹屋。石焼き芋屋。チリ紙交換。みんな、それぞれの音を持っていました。 そして私は、石焼き芋屋の後ろをくっついて歩いて、一緒に「いーしやーきいもーおいもー」と叫んでいたことがあります(笑)。今考えると、商売の邪魔以外の何物でもない。よく怒られなかったものです。 引き売りというのは、音で自分の存在を知らせる商売です。看板も出せない、チラシも配れない。だから音を出す。豆腐屋はラッパ、ラーメン屋はチャルメラ、焼き芋屋は自分の声。 ちなみに、こうして売り歩く商売はずいぶん昔からあります。下の絵は室町時代の『七十一番職人歌合』に描かれた豆腐売り(右)と素麺売り(左)。五百年前から、人は物を担いで町を歩いていました。 そのぜんぶが、いつのまにか街から消えました。 9月7日はCMソングの日 もうひとつの記念日にいきます。 1951年(昭和26年)9月1日、日本で民間ラジオ放送が始まりました。この日開局したのは、名古屋の中部日本放送と大阪の新日本放送の二局。それまでNHKだけだった電波に、初めて広告が乗ることになったわけです。 この機会を逃さなかったのが、小西六写真工業——のちのコニカ、現在のコニカミノルタでした。民放の第一声で新番組を始めたいと考え、30分の番組枠を買い、曲づくりを人気の作詞・作曲家、三木鶏郎に委嘱します。 三木が考えたのは、「NHKではできないものは何か」ということでした。そこで出てきた答えがコマーシャルソング。こうして生まれたのが「ボクはアマチュアカメラマン」です。歌ったのは灰田勝彦。 この曲がすごいのは、社名も商品名もいっさい出てこないことです。「さくらフイルム」のCMでありながら、歌の中にその名前が出てこない。代わりに歌われているのは、ピンボケだの露出過度だのブレだのという、アマチュアカメラマンの失敗談ばかり。CMだと気づかれにくく、だからこそ多くの人に抵抗なく受け入れられて、大流行したといいます。 ちなみに、この曲の初オンエアは開局日の9月1日でした。それでも9月7日が記念日になっているのは、この曲が9月7日から始まった三木の担当番組『冗談ウエスタン』のために作られ、その番組で毎週流されていたからだそうです。 三木鶏郎はこの後、誰もが口ずさめるCMソングを次々と世に送り出していきます。「明るいナショナル」も「キリンレモンのうた」も、この人の仕事でした。 「明るいナショナル」——ここまで読んで、頭の中で勝手に鳴り出した方がいるのではないでしょうか。私はそうでした。 その三木鶏郎という人については、まるごと一冊の評伝が出ていました。日本最初のCMソングから、政治家を怒らせた諷刺コントまで。この記事を書きながら、いちばん読みたくなった本です。 冗談音楽の怪人・三木鶏郎 ラジオとCMソングの戦後史(新潮選書)泉麻人/新潮社。戦後最大のラジオスターにして、日本最初のCMソングの作り手。永六輔や野坂昭如を輩出した傑物トリロー、初の評伝。星4.1 Amazonで見る › 三丁目の電柱 私がいまだに全部歌えるCMソングがあります。 ...

September 7, 2026

9月6日 ── 銀のエンゼルと、言えなかった「欲しい」|昭和の今日は何があった日?

今日は9月6日。 数字の語呂合わせでできた記念日が、この日はやたらと多い日です。「く(9)ろ(6)」で黒の日、黒豆の日、黒酢の日。「ク(9)リーム(6)」で生クリームの日。そんな中に、昭和の子どもにとって一番なじみ深い一つがあります。 「キ(9)ョロ(6)ちゃんの日」。森永製菓が制定した、チョコボールの日です。 そしてもう一つ。この9月6日は、昭和の子どもたちの頭の中に巨大ロボットを住みつかせた、あの漫画家の誕生日でもあります。 永井豪。1945年(昭和20年)9月6日生まれ。 駄菓子屋の棚と、テレビの中のロボット。まったく別の場所にあった二つが、9月6日という一日でつながっている。今日はその話をします。 選ぶのは、必ずピーナッツだった チョコボールが世に出たのは1967年(昭和42年)。私が生まれる2年前のことです。 当時、チョコレートといえば板チョコが主流で、子どもが気軽に買えるお菓子ではありませんでした。森永製菓は1964年に大人向けの高級チョコレート「ハイクラウン」を大ヒットさせており、その次に「子どもたちも楽しめるチョコレートを」という発想で生まれたのがチョコボールでした。粒状で、手が汚れない。この「手につかない」というのが、実は大きな発明だったのだと思います。 パッケージにあの鳥のキャラクターが登場したのも1967年。ちょっとドジで憎めないあの顔は、子どもたちのほうが先に受け入れてしまいました。 そして仕掛けが、エンゼルマークです。箱のくちばしの部分を開くと、内側に金か銀のエンゼルが印刷されていることがある。金なら1枚、銀なら5枚で「おもちゃのカンヅメ」がもらえる。景品の歴史は1967年2月の「まんがのカンヅメ」に始まり、1969年4月に「おもちゃのカンヅメ」として本格的にスタートしました。第1弾の缶に描かれていたのは、タツノコプロのアニメ『ドカチン』。1973年にはウルトラマンや『科学忍者隊ガッチャマン』が缶を飾るようになります。テレビっ子の視線を、お菓子メーカーがきっちり読んでいたわけです。 私にとってチョコボールは、頻繁に買えるお菓子ではありませんでした。買ってもらえるのは、母の高砂のイトーヨーカドーへの買い物についていったときです。売り場で「何か買っていいよ」と声がかかる。あの一言のための買い物同行だったと言ってもいい。 選ぶのは、必ずピーナッツでした。他の味に浮気した記憶がありません。今思えば、母のほうも「まあこれを選ぶんだろうな」と分かったうえで声をかけていたのでしょう。 エンゼルは、銀しか当たったことがありません。そして5枚集まるまでくちばしを保管できたことも、ついに一度もありませんでした。集めているつもりでいるうちに、どこかへいってしまう。あれは全国の子どもに共通の結末だったんじゃないでしょうか。 その、必ず選んでいたピーナッツです。20個入りで届きます。くちばしを開ける瞬間だけは、いまも変わりません。 森永製菓 チョコボール〈ピーナッツ〉 28g×20個1967年発売のロングセラー。箱のくちばしを開けると、金か銀のエンゼルが出ることがあります。星4.0(72件) Amazonで見る › テーブルの上の、100円玉が2枚 小学生の頃、私のお小遣いは1日100円でした。 母はパートタイマーの仕事に出ていて、学校から帰ると家には誰もいません。テーブルの上に置き手紙があって、「お帰りなさい」と書かれている。その脇に100円玉が2枚。私の分と、妹の分です。 決して少ない額ではなかったと思います。友だちと比べて劣等感を覚えたことは一度もありませんでした。その100円は、もっぱら遊びの途中の買い食いに消えていきます。駄菓子屋で使い切って帰る、その繰り返しでした。 「これは買っちゃだめ」と言われた記憶がないのは、そもそも言われるほどの金額を持っていなかったからかもしれません。100円という枠が、最初から線を引いてくれていた。 同じ9月6日に生まれた男 さて、もう一人の主役です。 永井豪さんは1945年9月6日、石川県輪島市に生まれました。7歳だった1952年から東京・豊島区で育ち、都立板橋高校を卒業。幼い頃に手塚治虫の『ロストワールド』を読んだことが、漫画家を志すきっかけだったといいます。 石ノ森章太郎のアシスタントを務めたのち、デビューは1967年。『ぼくら』(講談社)に載った『目明しポリ吉』でした。 1967年。チョコボールが世に出て、キョロちゃんが生まれたのと、同じ年です。 翌1968年には『週刊少年ジャンプ』で『ハレンチ学園』の連載が始まり、たちまち大ブームになる一方、PTAをはじめとする大人たちから猛烈な批判を浴びます。1969年4月にはダイナミックプロダクションを設立。奇しくも、おもちゃのカンヅメが始まったのと同じ月でした。 そして1972年(昭和47年)、『デビルマン』と『マジンガーZ』が漫画とテレビで同時に走り出します。 このとき永井豪さんがやったことは、いま振り返ると異様に大きい。それまでの巨大ロボットは、リモコンで外から操縦するものでした。それを「人が乗り込んで、自分の体のように動かす」ものに変えた。ロボットが道具から乗り物になり、子どもは自分がその中に座っている想像ができるようになったのです。 『マジンガーZ』を、私は途中からですが確かに見ています。1974年9月の最終回で、ぼろぼろになったマジンガーZの前にグレートマジンガーが現れる、あの回もリアルタイムで見ました。5歳のときです。続く『UFOロボ グレンダイザー』は、6歳の秋から。こちらは最初からリアルタイムでした。 『デビルマン』は、おそらく再放送だったのだと思います。意識して待っていたわけではなく、夕方にテレビをつけたらデビルマンがやっていたから見る、という温度感でした。 その『デビルマン』の原作は、いまも手に入ります。夕方に何気なく見ていたあの話が、紙の上ではどこへ向かっていたのか。読み返すと、たぶん驚きます。 デビルマン(画業50周年愛蔵版)全5巻永井豪とダイナミックプロ/小学館。1972年連載の原作を全5巻にまとめた愛蔵版。星4.7(30件) Amazonで見る › 60センチの、言えなかった「欲しい」 永井豪さんの発明は、テレビの中だけでは終わりませんでした。玩具メーカーのポピーが、そのロボットを子どもの手の中に持ってきます。1974年末に登場した超合金の第1号がマジンガーZ。ずしりと重い金属の手ざわりで、ロケットパンチが飛ぶ。 ...

September 6, 2026

9月5日 ── 土曜の夕方は嬉しくて、日曜の夜は憂鬱だった|昭和の今日は何があった日?

新聞が届いて、まずテレビ欄 昭和52年(1977年)9月5日は、月曜日でした。 私は8歳。小学2年生です。夏休みが終わって、二学期が始まったばかり。 当時、新聞は毎朝当たり前のように届いていました。今はもう取っていませんが、あの頃、朝刊が来て私が必ずチェックしていたのが、テレビ欄です。一面でも社会面でもなく、いちばん後ろのページ。 考えてみれば、あれは子どもにとっての一日の予定表でした。今日の夜は何があるのか。それを確かめてから、学校に行く。 その9月5日の月曜、テレビ欄には何が並んでいたのか。当時の番組編成をたどってみると、なかなかすごいことになっていました。 昭和52年9月5日・月曜のテレビ欄 夜七時台を並べると、こうなります。 19:00 日本テレビ『元祖天才バカボン』 19:00 フジテレビ『あしたへアタック!』(最終回) 19:30 テレビ朝日『一休さん』 三十分の中に、バカボンのパパと、女子バレー部と、とんち小僧が同時に存在していた。今のテレビ欄では絶対に見られない光景です。 そしてこの日、フジテレビの『あしたへアタック!』は、最終回でした。 記憶にない半年間 正直に書きます。私は『あしたへアタック!』を、まったく憶えていません。 『あしたへアタック!』は、昭和52年4月4日から9月5日まで、フジテレビ系列で毎週月曜19時から放送されていたアニメです。全23話。制作は日本アニメーション。 企画のきっかけは、フジテレビが独占放送していたバレーボールワールドカップが、この年に日本で初めて開催されることでした。原案は『サインはV』の原作者・神保史郎。『アタックNo.1』の演出や脚本を手がけた人たちも参加しています。オープニングを歌っていたのは、アニメソングの女王・堀江美都子さんです。 内容は「全日本の選手として世界に挑む」という話ではなく、高校バレーを舞台にした青春もの。しかも出だしがなかなか重い。橘高校の女子バレー部は、過酷なしごきで部員が亡くなる事故を起こし、事実上の廃部状態になっている。3年生の聖美々が、そこから部を立て直そうと奔走する——という始まり方です。 これだけの布陣で作られた半年間が、私の中には一秒も残っていない。 一方で、同じ月曜の夜に放送されていた『一休さん』は、リアルタイムで観ていた記憶がはっきりあります。『アタックNo.1』は再放送で観ました。『サインはV』は名前だけ知っている。そして昭和54年に始まった『燃えろアタック』——荒木由美子さん主演の、金曜7時半のあれ——は、毎週しっかり観ていました。 バレーものが嫌いだったわけではないのです。ただ、月曜の夜七時、私はおそらく日本テレビにチャンネルを合わせていた。 バカボンから、一休さんへ 『元祖天才バカボン』は、昭和50年10月6日から昭和52年9月26日まで、毎週月曜19時。全103回、204話。赤塚不二夫さんの『天才バカボン』の二度目のアニメ化で、「元祖」と名乗ったのは、一作目が原作から離れすぎたという反省があったからだそうです。ウナギイヌが初めて登場したのも、このシリーズでした。 そして19時30分からは、テレビ朝日の『一休さん』。 こちらは昭和50年10月に始まって、昭和57年6月まで続いた長寿番組です。当初は水曜でしたが、昭和51年4月から月曜19時30分に移ってきました。初期は日本船舶振興会の一社提供で、あの「火の用心のうた」のCMが間に流れていた。作曲は山本直純さんです。 おそらく私は、七時に日本テレビでバカボンを観て、七時半にテレビ朝日へチャンネルを回して一休さんを観ていた。そういう月曜の夜だったはずです。 つまり、私が『あしたへアタック!』を憶えていないのは、遠い番組だったからではありません。同じ時間に、別のものを選んでいたからです。テレビ欄というのは、番組表であると同時に、選ばなかったもののリストでもあったのだと、今になって気がつきました。 その二度目のアニメ化のもとになった原作は、いまも文庫で手に入ります。ウナギイヌもレレレのおじさんも、もとはこの中にいました。 天才バカボン 1(竹書房文庫)赤塚不二夫/竹書房。日本ギャグマンガ界不滅の金字塔。実験期のハチャメチャさもそのまま。星4.1(21件) Amazonで見る › 曜日を、番組で覚えていた 9月5日は月曜でしたから、あの有名どころは別の曜日に並んでいます。当時のテレビ欄を一週間ぶん広げると、こうなります。 水曜19:00 フジテレビ『ドカベン』 土曜18:30 フジテレビ『ヤッターマン』 日曜19:30 フジテレビ『あらいぐまラスカル』 この三本は、全部欠かさず観ていました。 『ドカベン』は当然です。野球少年でしたから。ただ、なかなか場面が進んでいかないことにイライラしていた記憶があります。一球投げるのに何分かかるんだ、と。原作の連載に追いつかないよう引き延ばしていたのでしょうが、子どもにそんな事情はわかりません。 そして今でもはっきり憶えているのは、番組そのものより、番組と結びついた気持ちのほうです。 『ヤッターマン』は土曜の夕方六時半。観ながら「まだ明日は休みだー」と思っていました。 『あらいぐまラスカル』は日曜の七時半。観ながら「明日は学校だー」という気持ちになっていました(笑)。 同じフジテレビの、同じような時間の、同じアニメなのに、片方は嬉しくて、片方は憂鬱だった。曜日を覚えるより先に、番組で曜日を覚えていたのだと思います。 日曜の夜の、あの気持ちのほうです。いま観たら、たぶん憂鬱ではなくなっているはずですが。 世界名作劇場・完結版 あらいぐまラスカル [DVD]バンダイビジュアル。全52話を1枚にまとめた完結版。日曜7時半のあの主題歌から。星4.1(30件) Amazonで見る › 同じ日、大人の世界では ところで、この9月5日は、大人のニュースのほうでも大きな日でした。 ...

September 5, 2026

9月4日 ── ランランが死んだ日、いつでも見られると思っていた|昭和の今日は何があった日?

午前1時24分 昭和54年(1979年)9月4日の未明、上野動物園のパンダ舎で、ランランが息を引き取りました。午前1時24分のことでした。 前の日の夕刊は、こう伝えています。「こん睡状態続くランラン いちるの望み託して 一時は注射に反応」。日本中が、まだ望みを捨てていませんでした。 ランランは、日本で最初のジャイアントパンダでした。昭和47年(1972年)に中国からやってきて、7年足らず。推定10歳でした。 行列2キロ、観覧時間30秒 パンダが日本に来たのは、昭和47年9月の日中国交正常化を記念してのことでした。北京動物園で飼われていた個体のなかから、容姿も性格も最も優れた2頭が選ばれたといいます。中国名はシンシンとアルシン。来日にあたって、カンカンとランランと名づけ直されました。 2頭が上野動物園に到着したのは、同年10月28日。当時の内閣官房長官・二階堂進が、わざわざ羽田空港まで専用機を出迎えに行ったというのですから、国を挙げての一大事だったことがわかります。 一般公開は11月5日。この日から、日本中が文字どおり熱に浮かされました。公開初日の見物客は約6万人。最盛期には毎日平均1万5千人が訪れ、行列は長さ2キロメートル、待ち時間は2時間。それでいて、実際にパンダを見られる時間はわずか30秒だったといいます。 2時間並んで、30秒。 私はこのとき3歳ですから、この熱狂そのものの記憶はありません。物心ついたときには、パンダはもう「上野にいて当たり前の動物」でした。 京成線で一本、上野動物園 私にとって、上野動物園はかなり身近な場所でした。 京成高砂から京成上野まで、京成線で一本。乗り換えなしで着いてしまう。家族でも行きましたし、保育園の遠足でも行きました。行こうと思えば行ける場所に、それはありました。 だからでしょうか。パンダに対しては、グッズを持つほどの興味はありませんでした。ぬいぐるみも、文房具も、私の身のまわりにはなかったと思います。「見ようと思えばいつでも見られる」という思いが、どこかにあったのかもしれません。 「パンダを見に行った」という友だちの話は、もちろん聞きました。でも、そこで胸が騒ぐということもなかった。当時の私の興味は、もっぱらウルトラマンや仮面ライダーのほうに向いていましたから。 日本中が2時間並んでいたものを、私は電車で一本のところに置いたまま、特に見に行こうともしなかった。今思うと、ぜいたくな話です。 お腹のなかに、いた ランランが倒れたのは、昭和54年8月のことでした。自然妊娠のあとに妊娠中毒症や尿毒症などの合併症を起こし、腎不全に陥ったのです。腹膜透析まで行う懸命な看護が続けられましたが、9月4日、力尽きました。 そして、亡くなったランランのお腹のなかには、10センチほどに育った胎児がいました。 カンカンとランランの間に赤ちゃんが生まれることは、当時の日本人にとって長年の悲願でした。その年の5月には3年連続の交尾成功が報じられ、期待は最高潮に達していたのです。あと少しでした。 翌年の昭和55年6月30日には、残されたカンカンも心不全で亡くなりました。日本の「最初のパンダ」の時代は、こうして2年足らずのうちに終わりました。 憶えていない、ということ さて、ここで正直に書いておかなければなりません。 昭和54年9月4日、私は小学4年生でした。10歳です。ニュースを見た記憶があってもおかしくない年齢ですが、憶えていないのです。 テレビで見たのか、新聞で読んだのか、朝の食卓で親が話していたのか。学校で話題になったのか、先生が何か言ったのか。悲しかったのか、「ふーん」で終わったのか。お腹に赤ちゃんがいたことを当時知っていたのかどうかも。 ひとつも憶えていません。 これを書きながら思うのは、遠かったから憶えていないのではない、ということです。むしろ逆かもしれません。上野は電車で一本で、パンダはいつでもそこにいて、いつでも見られるはずのものでした。あまりに日常の風景の一部になっていたものが欠けたとき、10歳の私はその欠けたことに気づかなかった。 いつでも見られると思っていたものが、その日、見られなくなっていた。そのことに気づかないまま、私は次の日も学校へ行ったのだと思います。 「さよならランラン」というレコード ランランの死から1か月後の昭和54年10月5日、日本クラウンから1枚のシングルレコードが発売されました。タイトルは「さよならランラン」。 収録されていたのは、歌ではありません。A面が「さよならランラン(元気なときのランランの声)」、B面が「がんばってカンカン(かなしいカンカンの声)」。ふたつとも、パンダの鳴き声そのものでした。 追悼盤としてパンダの鳴き声のレコードが売り出され、それが商品として成立してしまう。昭和という時代の熱量を、これほどよく表しているものもない気がします。今なら、まず企画会議を通らないでしょう。 けれども、笑ってしまうと同時に、少しわかる気もするのです。日本中が、あの2頭を本気で自分たちの家族のように思っていた。だから声が聴きたかった。それだけの話なのだと思います。 五人の子の父親になって ランランのことを、こうして今になってあらためて知ると、不思議な気持ちになります。 昭和54年の9月4日、ランランが亡くなったとき、私はまだ10歳でした。この出来事そのものは、ほとんど記憶に残っていません。 でも、いま五人の子どもの父親になった自分が、ランランの最期についての記事を読むと、当時とはまったく違うところに目が行きます。 ランランのお腹の中には、10センチほどの胎児がいた。 この事実です。 当時の私は、そんなことを知ったとしても、たぶん「パンダの赤ちゃんがいたんだ」くらいにしか思わなかったでしょう。でも今は、子どもを五人育ててきたからこそ、その10センチの命を想像してしまいます。 まだ生まれてもいない、小さな命。母親のお腹の中で育っていて、これから生まれてくるはずだった命。ランラン自身も、もう少しで母親になれたのかもしれません。 そう考えると、「ランランが死んでしまった」というニュースだけではなく、そのお腹の中にいた小さな命まで一緒に失われたのだと思えてきます。 子どもを持つ前だったら、ここまで感じなかったでしょうね。自分が親になって、子どもの成長を一人ひとり見てきたからこそ、命というものの重さが少しずつ分かってきたのだと思います。 動物園という場所が、いま何をしているのかを知る本があります。生まれてから死ぬまで、一頭の動物の一生をどう支えるか。あの日のランランに、いまの動物園なら何ができたのだろうかと、つい考えてしまいました。 いのちをつなぐ動物園 生まれてから死ぬまで、動物の暮らしをサポートする京都市動物園 生き物・学び・研究センター編。動物福祉、環境エンリッチメント、繁殖と研究。飼育下で一生を過ごす動物の幸せをどう考えるかを、スタッフ自身が書いた一冊。星4.3 Amazonで見る › 動物園という場所 パンダという存在についても、今は少し違った見方をします。 ...

September 4, 2026

9月3日 ── あいつは、私と同い年だった|昭和の今日は何があった日?

今日は9月3日。 この日が誕生日だという有名人は、たぶん何人もいます。けれど、日本でいちばん有名な「9月3日生まれ」は、人間ではありません。 2112年9月3日生まれ。ドラえもん。 まだ生まれていないのです。あと86年、待たなければならない。それなのに私たちは、毎年この日を誕生日として祝ってきました。考えてみると、ずいぶん不思議な記念日です。 あいつは、私と同い年だった このシリーズを書いていると、たまに驚くことがあります。今日もそうでした。 『ドラえもん』の連載が始まったのは、1969年(昭和44年)12月。小学館の学年誌6誌——『よいこ』『幼稚園』『小学一年生』から『小学四年生』まで——の1970年1月号に、いっせいに載りました。 1969年。私が生まれた年です。私は4月生まれですから、ドラえもんが世に出たとき、私は生後8か月ということになります。 つまり、あいつは私と同い年でした。このブログの名前が「昭和44年男」であることを思うと、なんだか可笑しい。 もっとも、最初からうまくいったわけではありません。6誌に同時連載されたにもかかわらず、当初はさして注目されなかったといいます。1973年(昭和48年)に日本テレビでアニメ化されたものの、制作会社の解散により半年で終了。人気も一段落したとみなされ、連載終了さえ検討されました。 そして1974年(昭和49年)3月、『小学四年生』に「さようなら、ドラえもん」が掲載されます。ドラえもんが未来へ帰る、あの回です。当時4歳の私はまだ何も知りませんが、あれは本当に最終回として描かれたのでした。 けれど作者は思い直し、翌月「帰ってきたドラえもん」を描きます。あの一回の翻意がなければ、今日という記念日そのものが存在しなかったことになります。 ちなみに誕生日が「2112年9月3日」と決められたのも、連載開始からしばらく経ってからでした。1975年(昭和50年)4月号の『小学四年生』に載った「ドラえもん大事典」で、はじめてドラえもんの誕生から出発までが描かれたのです。身長129.3センチ、体重129.3キロという数字も有名ですが、これは連載当時の小学4年生の平均身長にちなんだものだといわれています。のび太を見下ろさない、同じ高さの目線。学年誌に載る漫画は、その学年の子どものために描かれるのだと、あらためて思います。 私の出会いは、のろいのカメラだった 私がドラえもんとはっきり出会った場面を、いまでも覚えています。 小学3年生。イトーヨーカドー高砂店の3階にあった本屋さんでした。棚から手に取ったのが、てんとう虫コミックスの『ドラえもん』第4巻です。 そのとき私は、まだコロコロコミックを知りませんでした。テレビでの放映も、まだ始まっていません。学年誌でもなく、友達の家でもなく、本屋の棚。あの一冊が、私とドラえもんの最初の一歩でした。 そして第4巻の巻頭に載っているのが、「のろいのカメラ」です。 つまり私がドラえもんという漫画で最初に読んだ話は、これでした。 シャッターを切ると、写した相手そっくりの人形が出てくるカメラ。その人形を叩けば、本人にも痛みが伝わる。バラバラにすれば、本当にバラバラになる。ドラえもん自身が、出すのをためらった道具です。 いま思えば、ずいぶんなご挨拶でした。空を飛ぶでも、どこかへ行けるでもない。人を呪うための道具です。それが、私にとってのひみつ道具の第一号だった。 もっとも、9歳の私はそんなことは考えていません。ただ、面白いものを見つけた、と思っただけです。 本はその本屋さんで買っていました。そしてもうひとつ、読める場所がありました。児童館です。あそこにはドラえもんがかなり揃っていて、私はよく読んでいました。買うのと、借りて読むのと。あの頃の子どもにとって、漫画に手が届く道は、そう多くはありません。その両方が、私の場合は高砂にありました。 その第4巻は、いまも同じ形で売られています。目次を確かめてみたら、やはり第1話が「のろいのカメラ」でした。四十数年前に本屋の棚で開いた、あのページです。 ドラえもん(4)(てんとう虫コミックス)藤子・F・不二雄/小学館。第1話「のろいのカメラ」から「ソノウソホント」「アベコンベ」「石ころぼうし」まで収録。星4.7(273件) Amazonで見る › 放送が始まるまでの、あのワクワク いま私たちが「ドラえもん」と聞いて思い浮かべるアニメが始まったのは、1979年(昭和54年)4月2日。テレビ朝日系です。 当初は今のような形ではありませんでした。月曜から土曜までの帯番組で、1回10分。夕方に毎日ちょっとずつ流れる、そういう番組だったのです。あの金曜夜7時の30分枠に移ったのは、1981年(昭和56年)10月2日から。私が小学6年生の秋でした。 私にとって強く残っているのは、圧倒的に前者——夕方の帯番組のほうです。 正確に言えば、番組そのものよりも、始まると知ってから、実際に放送されるまでの間の記憶です。あのワクワク感は凄かった。クラスの友達との話題も、その事についてが大半を占めていたと思います。 考えてみれば当然でした。私はもう第4巻を読んでいる。あいつがどんな顔で、どんな道具を出すのかを知っている。その知っているものが、動いて、喋る。しかも毎日夕方にやってくる。始まる前から面白いに決まっていたのです。 一方で、映画のほうは記憶がありません。翌1980年(昭和55年)3月15日に第1作『のび太の恐竜』が公開され、以後、春休みに映画館へ行くという習慣が日本中の子どもに生まれるわけですが、私はそこに加わっていない。 理由ははっきりしています。すでに私は野球少年でした。興味は、完全にそちらへ向かっていたのです。 なお、この夕方という時間帯には、私はもう一度べつの作品と出会うことになります。そちらは再放送でしたが。 「どこでもドアがあったら」 ひみつ道具の話は、よくしました。 私が欲しいと言っていたのは、どこでもドアだったと思います。 下校途中でした。友達と歩いて帰りながら、「どこでもドアがあったら、一瞬で家に着くのにな〜」なんて話していた。 いま思えば、笑ってしまうような望みです。歩いて帰るのが面倒だ、ただそれだけの理由でした。けれど子どもの願いというのは、たいていそういうものです。壮大な夢ではなく、目の前のちょっと面倒なことを、なんとかしてほしい。 そしてこの願いだけは、いまだに叶っていません。 連載開始のあの1970年1月号は、6誌それぞれで違う第1話が載っていました。その6種類を全部まとめた一冊が出ています。私が生まれた年に、6つの学年に向けて別々に描かれたものが、いま一冊で読めるわけです。 ドラえもん 0巻(てんとう虫コミックス)藤子・F・不二雄/小学館。6種類の「幻の第1話」を初出バージョン&完全カラーで収録。伝説の予告や、創作秘話まんが「ドラえもん誕生」も。星4.4(1,435件) Amazonで見る › 五人の子どもと、ドラえもん 今、私は五人の子どもを持つ父親になりました。 ...

September 3, 2026

9月2日 ── 金曜の夜十時は、父の休みの日だった|昭和の今日は何があった日?

9月2日。 この日に始まったものと、この日に決められたものを、ふたつ書きます。ひとつは土曜の夜10時に流れ始めた時代劇。もうひとつは「く(9)じ(2)」という語呂合わせでつくられた記念日です。 まったく関係のない二つに見えます。実際、関係はありません。ただ、書いているうちに、私のなかでは同じ場所につながってしまいました。 昭和47年9月2日、土曜22時 1972年(昭和47年)9月2日、土曜日の夜10時。『必殺仕掛人』の第1回「仕掛けて仕損じなし」が放送されました。朝日放送と松竹の共同製作で、当時はTBS系。翌1973年4月14日までの全33話でした。 原作は池波正太郎。表向きは人足の口入屋を営む音羽屋半右衛門(山村聡)を元締めに、鍼医者の藤枝梅安(緒形拳)、浪人剣客の西村左内(林与一)が、金銭と引き換えに、晴らせぬ恨みを晴らしていく。 いま思えば、とんでもない企てです。当時のテレビ時代劇は勧善懲悪が基本でした。正義の側が悪を裁く。それが約束ごとだった場所に、「金をもらって人を殺す者たち」を据えたのです。 その企てが当たりました。以後この作品は『必殺シリーズ』として、昭和が終わるまで続いていくことになります。 ちなみに私は、このとき3歳です。 記憶にございません。土曜の夜10時、3歳の私はとっくに寝かされていたはずです。あの伝説は、私の知らないところで始まっていました。 その第1回「仕掛けて仕損じなし」は、いまは分冊百科のかたちで手に入ります。三話ぶん入って900円ほど。3歳で寝ていた夜を、あとから見に行けるわけです。 必殺シリーズDVDコレクション 創刊号(必殺仕掛人 第1話〜第3話)第1話「仕掛けて仕損じなし」を含む3話収録。マガジンでは各話の解説、裏稼業のヒーローたちの関係や殺し技、時代背景まで。星4.2(69件) Amazonで見る › 私の必殺は、金曜の夜10時だった 私が必殺シリーズをリアルタイムで観るようになったのは、それから13年後です。 1985年(昭和60年)1月11日から7月26日まで放送された『必殺仕事人V』。テレビ朝日系、毎週金曜22時。このシリーズから、京本政樹さん演じる組紐屋の竜と、村上弘明さん演じる花屋の政が登場しました。 始まった1月、私は中学3年生。4月から高校1年生になりました。同じ年の11月15日からは続編の『必殺仕事人V・激闘編』が始まります。つまり高校1年生の一年間、私はずっと金曜の夜10時に必殺を観ていたことになります。 高校では野球部です。毎日ボールを追いかけて、泥だらけになって帰ってくる。それでも金曜の夜だけは、テレビの前に座っていました。 なぜ観られたのか。理由ははっきりしています。 父の休みが、金曜日だったからです。 週に一日しかない父の休み。その夜、父は必殺を観ていました。父も大好きだったのです。だから私も隣に座っていた。中学生が、高校生が、親と並んで夜10時のテレビを観る。あの時間だけは、そういう時間でした。 我が家のテレビに、はっきりした門限はありませんでした。とはいえ小学生の頃は「9時まで」というのが暗黙の了解だったように思います。それが中学、高校と上がるにつれて、なんとなく緩んでいった。金曜の夜10時に父の隣に座れるようになったことは、たぶん、私にとってひとつの通過点だったのだと思います。 中村主水という人 主演は藤田まことさん演じる中村主水。 あのギャップが、とにかく良かった。 昼間は奉行所の同心で、上司にも、家の姑と妻にも頭が上がらない。「昼行灯」と呼ばれて役所でも軽んじられている。ところが夜になると、まったく別の顔を持っている。 能ある鷹は爪を隠す──と言うと、ちょっと違うでしょうか。でも、そういう気持ちよさがありました。 毎回必ず人が死にますし、内容はちょっと薄暗い。決して明るい話ではありません。それでも中村主水の、あの「おとぼけ」の加減がいい塩梅なのです。あれがあるから観ていられる。 そして今になって思うのは、ストーリーそのものが、なんとなく現代の世の中を風刺しているように感じられたことです。江戸の話をしているはずなのに、どこかで今の話をしている。あの絶妙さがあったから、高校生の私も面白いと感じたのだと思います。 法では裁けない悪がある。訴え出ることもできない理不尽がある。それを子どもに教えたのは、学校でも新聞でもなく、金曜の夜10時のテレビでした。 教室で真似したもの 真似している子は、いました。というより、私もやりました。 中条きよしさん演じる三味線屋の勇次、京本政樹さんの組紐屋の竜。これはもう定番です。 そして『激闘編』から加わった、柴俊夫さん演じる「壱」。この人の技は「怪力」でした。ものすごい握力で相手の首を素手で締め上げる。あれを真似するのです。手加減がわからない年頃ですから、いま思えば危ない遊びでした。 『必殺仕事人』(1979年)の、三田村邦彦さん演じる飾り職人の秀は、のちの再放送で観ました。確かにかっこよかった。最初はまだ仕事人として未熟だったのが、回を重ねるうちに技が洗練されていく。あの成長が描かれていたのを覚えています。その役柄は、のちに村上弘明さんの花屋の政へと受け継がれていきました。 観てはいけない時間のテレビ 必殺は父と一緒に観ていたので、堂々としたものでした。 けれど、そうではないものもあります。 中学生になってからですが、『11PM』と『トゥナイト』。これは思い出しますね。観てはいけないと明確に言われたわけではありません。ただ、あれは明らかに子どもが観る番組ではなかった。だからこそ記憶に残っています。 一方で、両親と一緒に観ていた時代劇もたくさんありました。『水戸黄門』『暴れん坊将軍』『桃太郎侍』『長七郎江戸日記』。家族で観るものと、こっそり観るもの。昭和の家庭のテレビには、その両方がありました。 いま、我が家には5人の子どもがいます。「これは早い」という線引きは、特にありません。 というより、そもそも地上波のテレビをほとんど観なくなりました。みんなYouTubeなどで、それぞれ好きなものを観ています。同じ時間に、同じ画面を、家族で囲むということ自体がなくなった。 父の休みが金曜日で、だから私は必殺を観ていた。あんな理由で番組と出会うことは、もうないのだろうと思います。 映像より先に、活字のほうを読んでみるのもいいかもしれません。緒形拳さんが演じたあの鍼医者が、池波正太郎の文章のなかでどう動いていたのか。第1弾がこれです。 新装版・殺しの四人 仕掛人・藤枝梅安(一)(講談社文庫)池波正太郎/講談社。品川台町の鍼医師・藤枝梅安。表の顔は名医、その実、金次第で「生かしておいてはためにならぬやつ」を闇へ葬る仕掛人。『鬼平犯科帳』『剣客商売』と並ぶシリーズの第1弾。星4.4(325件) Amazonで見る › もうひとつの9月2日 ──「く(9)じ(2)」 同じ9月2日は、「宝くじの日」でもあります。 制定は1967年(昭和42年)。「く(9)じ(2)」の語呂合わせで、第一勧業銀行(現・みずほ銀行)が定めました。私が生まれる2年前です。 目的は、お祝いでもキャンペーンでもありません。時効防止でした。 当たっているのに引き換えられないまま、支払期限を過ぎてしまう宝くじが、あまりに多い。だから「もう一度、手元のくじを確認してください」と呼びかける日をつくった。1973年(昭和48年)からは、ハズレ券を対象にした「宝くじの日 お楽しみ抽せん」も始まっています。いわば敗者復活戦です。 捨てる前に、もう一度見てくれ。そういう日なのです。 ...

September 2, 2026

9月1日 ── 防災頭巾をかぶって、机の下にもぐった日|昭和の今日は何があった日?

夏休みが終わった翌朝のことを、私はいまだに体が覚えている。 久しぶりのランドセル。少し重くなった気がする体。校庭に集まった同級生の、日焼けした顔。そして、二学期の始業式が終わったあとに必ずやってきた、あの時間。 「訓練、訓練。ただいま大きな地震が発生しました」 9月1日は、二学期の始まりの日であると同時に、防災の日だった。 防災の日は、なぜ9月1日なのか 防災の日が定められたのは、昭和35年(1960年)の閣議了解による。私が生まれる9年前のことだ。 日付の由来は二つある。一つは、大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が発生したこと。もう一つは、この時期が暦の上で二百十日にあたり、台風の襲来しやすい厄日とされてきたこと。地震と風水害、日本を襲う二つの災いが、この一日に重ねられている。 つまり防災の日は、何かが「始まった」記念日ではない。忘れないための日として作られた日だ。 子どもの頃の私は、そんな由来など何も知らなかった。ただ、9月1日には訓練があるものだと思っていた。理由を考えたことすらなかった。 防災頭巾と、「お・か・し」 私の記憶にある避難訓練は、いつも同じ手順だった。 防災頭巾をかぶって机の下にもぐる。その後は校庭に整列して、集団下校という流れだった。 合言葉は「お・か・し」。おさない、かけない、しゃべらない。三つだけ。今の学校では「おかしも」「おかしもち」と、後ろに「もどらない」「ちかづかない」が足されているらしいが、私たちの頃は三つで足りていた。 椅子の背にくくりつけてあった防災頭巾は、ふだんは座布団を兼ねていた。あれをかぶって机の下にもぐると、視界が急に狭くなる。木の床の匂いと、あちこちで押し殺した笑い声。訓練というより、少しだけ非日常の遊びに近かった。 そもそも防災頭巾という道具は、戦時中の防空頭巾の流れをくむものだといわれる。関東大震災と空襲、その両方を経験した街の学校に、布一枚の備えが座布団の顔をして残り続けた。私たちはその由来を知らないまま、毎日それに座っていたことになる。 校庭に整列したあとは、そのまま集団下校だった。地区ごとに並び、上級生が先頭に立って歩く。訓練の日だけは、いつもの帰り道が少しだけ儀式めいて見えた。もっとも、角を曲がって班が解散してしまえば、あとはいつもと同じ寄り道である。 いま売られているものも、形はほとんど変わっていない。アルミ加工で、耳穴が開いていて、たたむと座布団になる。あの銀色を店で見かけると、木の床の匂いまで戻ってきます。 大明企画 セーフティクッションES アルミタイプ(日本防炎協会認定品)小学校低学年から大人まで。耐熱耐火のアルミ加工、防災無線が聞き取れる耳穴付き、暗闇で光る反射テープ付き。たためば座布団に。星4.4(675件) Amazonで見る › 昭和53年、世の中が「地震」を意識しはじめた ただ、私の子ども時代の避難訓練は、単なる年中行事ではなかったのかもしれない。 昭和51年(1976年)の秋、いわゆる東海地震説が唱えられた。駿河湾を震源とする巨大地震が、いつ起きてもおかしくない――そういう指摘だった。政府は観測体制の強化に動きはじめる。 そして昭和53年(1978年)。1月14日に伊豆大島近海地震が起き、6月12日には宮城県沖地震が発生した。マグニチュード7.4、仙台を中心に死者28人。このうち18人が、ブロック塀や門柱の下敷きになって亡くなっている。東京でも震度4を記録した。その三日後の6月15日、大規模地震対策特別措置法――いわゆる大震法が制定される。地震の直前予知を前提にした法律は、国内でこれ一つしかない。 昭和53年、私は小学3年生だった。 学校でも家でも、地震の話はたぶんされていたと思う。ただ正直に言うと、小学生当時の私は、自分ごととしては受け止めていなかった。どこか遠い話だった。 けれど、ブロック塀については注意された。これははっきり覚えている。 なにしろ本当にあちこちにブロック塀が立ち並んでいて、私を含む子どもたちは日常的にそのブロック塀の上に上がって、そこを歩いていたのだから。塀の上は近道であり、平均台であり、ちょっとした冒険だった。大人が真顔で「あれは危ない」と言いはじめたとき、私は危険よりも、遊び場を一つ取り上げられたような気分のほうを強く覚えている。 仙台で18人が亡くなった、その事実と私の通学路が地続きだったことに気づくのは、ずいぶん後になってからだ。 葛飾の子どもにとっての災害は、水だった もっとも、葛飾で育った私にとって、災害という言葉が最初に結びついたのは地震ではなかったかもしれない。 葛飾区は東京の東部低地にあり、区の大部分がいわゆるゼロメートル地帯だ。荒川と江戸川に挟まれ、中川が区の真ん中を流れている。台風が近づくたび、大人たちの顔つきが変わる土地だった。 台風に備えて、まず雨戸を閉める。現在のように軽く閉められるものじゃなかった。戸袋にしまってあって、そこから木製の戸に青色のとたん板が張られた雨戸2枚を引っ張りだすのだが、小学校低学年の頃の私では力が足りなかったんじゃないかと思う。父か母が閉める音を、家の中で聞いていた気がする。 我が家は私が保育園の年中か年長の時に、高砂駅の近くから、同じ高砂の中川の土手近くへと引っ越していた。だから台風などの大雨のあとには、友達と中川の土手へ行き、増水した川を見に行った。 やっちゃダメなやつである。 いつもは穏やかな中川が、茶色く濁って速く流れている。あの光景を見に行くことが、子どもにとってどれほど危ない行為かなど、当時の私は考えもしなかった。ブロック塀の上を歩いていたのと、まったく同じ神経である。 家の押し入れには、銀色のナップサックがあった。非常持ち出し袋だ。中を覗いたことはなかったし、実際に使われることもなかった。良かったと思う。 二百十日という言葉が防災の日の由来になっているのも、思えばこの土地の感覚に近い。地面が揺れることより、水が上がってくることのほうが、ここでは身近だった。 あの銀色のナップサックにあたるものを、いまは自分で用意する番になりました。中身を一から揃えるのは骨が折れるので、まずひとつ、封を切らずに置いておく。それだけでもずいぶん違うと思います。 防災グッズ 32点セット(防災士監修・1人用リュック)保存食、保存水、簡易トイレ、高輝度の懐中電灯、マスク、スリッパなど32点。全品が長期保管に対応。星4.8 Amazonで見る › 平成23年3月11日、私はバスの運転席にいた 遠い話だったものが、自分ごとになる日がいつか来る。子どもの私はそれを知らなかった。 ...

September 1, 2026

8月31日 ── 「や・さ・い」の日に、夏休みは終わった|昭和の今日は何があった日?

今日は8月31日。8月の最終日です。 そして昭和の子どもにとっては、一年でいちばん落ち着かない一日でした。 いまは夏休みの終わりが8月の下旬だったり、地域によってはもっと早かったりしますが、私が子どものころ、東京の公立小中学校の夏休みは8月31日までと決まっていました。つまり今日という日は、四十日ほど続いた自由の、最後の一日だったわけです。 朝から気持ちが妙にざわつく。遊びに行っても、どこか身が入らない。夕方になると、その落ち着かなさがはっきりした形をとってやってくる。 ——宿題である。 正直に告白しますと、小学生時代の私は、最終日まで宿題をたっぷりと残しちゃっているタイプでした。しかも困ったことに、途中から開き直る。「やーらない」。追い込みすらしないのですから、手のつけようがありません。 当然その後、新学期が始まると肩身の狭い思いをすることになります。提出できない。先生に呼ばれる。まわりはちゃんと出している。あの居心地の悪さは、いまでもうっすら覚えています。 そして翌年の8月31日、私はまた同じことをやっているのです。毎年その繰り返しでした。 「や・さ・い」の日が生まれた日 さて、この8月31日という日付には、昭和の終盤にひとつの記念日が誕生しています。 1983年(昭和58年)、「野菜の日」が制定されました。「や(8)さ(3)い(1)」の語呂合わせです。制定したのは全国青果物商業協同組合連合会をはじめとする、野菜にかかわる9団体。もっと野菜のことを知ってほしい、もっと野菜を食べてほしい——そういう願いが込められた記念日でした。 1983年8月31日は水曜日。私は14歳、中学2年生でした。 正直に申し上げて、当時の私がこの記念日の誕生を知っていたとは思えません。中学2年の男子が「今日から野菜の日だってさ」と話題にする姿は、どう想像しても浮かんできません。 ただ、この記念日が昭和58年に生まれたという事実そのものが、時代を映していると思うのです。 わざわざ「野菜を食べよう」と旗を立てなければならなくなった。裏を返せば、そう言わなければならないほど、日本人の食卓が変わりつつあった、ということでしょう。 カゴとざるの、八百屋さん 昭和58年がどんな年だったか、少し並べてみます。 4月に東京ディズニーランドが開園しました。同じ4月、NHKの朝の連続テレビ小説『おしん』が始まっています。そして7月には、任天堂がファミリーコンピュータを発売しました。 外食産業が広がり、家庭にビデオデッキが入りはじめ、子どもの遊びが屋外から屋内へ移りはじめた時代です。「野菜の日」は、ちょうどそんな時代の入り口で生まれました。 そして、八百屋さんという商売が、まだ街の主役だった最後のころでもあります。 当時は駅前に限らず、商店街が街のあちこちに点在していました。もちろん私も、母に頼まれて近所の八百屋へ買い物に行きました。 いま思い出しても笑ってしまうのが、あの会計です。店の天井から、カゴだったか、ざるだったか、とにかくそういうものが吊り下げられていて、お店の人はそこにお金を入れ、お釣りもそこから出す。実にざっくりしたものでした。 レジ? ないない(笑)。 野菜が、値札とバーコードではなく、店の人の手と声で売られていた時代です。「今日はこれが安いよ」と言われれば、母の頼んだものと違っていても買って帰ることがありました。あれもまた、野菜との付き合い方のひとつだったのだと思います。 給食と、母の躾 野菜と昭和の子ども、といえば、やはり給食の話になります。 昭和の給食には、いまでは考えられない光景がありました。食べ終わるまで席を立たせてもらえない。掃除の時間になっても、ひとりぽつんと食器を前にしている子がいる。そして残されるものは、たいてい野菜でした。 ただ、私自身にはその記憶があまりありません。苦手な野菜が、特になかったのです。 理由ははっきりしています。母から、食べ物の好き嫌いについては結構厳しく躾けられていました。出されたものは食べる。それだけのことですが、家でそう育てられていれば、学校の給食でつまずくこともありません。 昭和13年に新潟で生まれた母にとって、食べ物を残すという発想そのものがなかったのだろうと思います。 そして時代のほうも、少しずつ変わっていきました。「食べ終わるまで残される」という指導は、私が小学生でいるあいだに、だんだんなくなっていったように記憶しています。 強引に食べさせる時代が終わっていく。その少し先に、「野菜の日」のような記念日が生まれる。無理やり食べさせるのではなく、知ってもらって、食べたいと思ってもらう。そういう時代の変わり目が、この記念日の背景にはあったのかもしれません。 あの「食べ終わるまで席を立てない」時間が何だったのかを、正面から書いた本があります。楽しかった人にも、苦痛だった人にも、それぞれの給食があったのだと分かります。 給食の歴史(岩波新書)藤原辰史/岩波書店。子どもの味覚への権力行使という側面と、命をつなぎ新しい教育を模索する側面。貧困・災害・運動・教育・世界の五つの視角から給食をたどった一冊。星4.3(115件) Amazonで見る › 中学2年の、静かな8月31日 ところで、中学2年の私の8月31日は、小学生のころとはまるで違っていたはずです。 中学生になると、高校進学のことを真剣に考えるようになりました。それで、学習への取り組み姿勢がすっかり変わったのです。普段から予習と復習をし、宿題も余裕を持って終わらせている。 あの「やーらない」と開き直っていた小学生が、です。変わればかわるものです。 ですから昭和58年8月31日の私は、たぶん、宿題に追われていません。夏休み最終日を、静かな気持ちで迎えていたはずです。四十日の自由が終わることへの寂しさはあっても、机の上に未提出の山があるという、あの胃の重さはない。 そして翌9月1日は木曜日。始業式です。 もちろん、夏休みが終わってしまう寂しさはありました。けれど、クラスの友達と会えるワクワク感もありましたから、どっちと問われれば「楽しみ」のほうが勝っていた。日焼けした顔で校門をくぐって、真っ黒になった友達と久しぶりに顔を合わせる。あの朝は、そんなに悪いものではなかったのです。 8月31日が、見守る日になった 社会人になると、8月31日はただの日付になります——と、書きかけて、やめました。そんなことはなかったからです。 子どもたちが小さいころ、8月31日になると、宿題の追い込みをしている姿がありました。「もっと早くやっておけばいいのに」と思いながら見ていましたが、考えてみれば自分も子どものころは似たようなものだったのです。というより、追い込みすらしていなかったのですから、私のほうがよほど質が悪い(笑)。 親になってから、8月31日が「宿題をやる日」から「子どもを見守る日」に変わった。これは、ちょっと面白いところだと思います。 いまは路線バスの運転士をしていますので、仕事をしていても、この日には独特の季節感があります。夏休みのあいだは、お子さんの姿や家族連れのお客様が増えて、「夏休みだな」と感じることがある。それが9月に入ると、学校へ向かう子どもたちが一気に増えて、街の空気がガラッと変わります。バスを運転していると、そういう季節の変化をかなり身近に感じます。 自分は8月31日を卒業したのに、8月31日はずっと、誰かの上に降り続けている。 57歳の「野菜の日」 そして自分自身のことです。 57歳になったいま、8月31日だから何か特別なことをするというより、「これからも元気に動ける身体を維持したい」ということを強く意識するようになりました。 野菜も、若いころは「食べたほうがいいんだろうな」くらいの感覚でしたが、いまはかなり意識して食べています。筋トレやランニングも続けていますし、これから先も仕事をしながら、野球を楽しんだり、子どもたちと一緒に動いたりしたい。そのためにも、食事は単なる楽しみだけではなく、身体を維持するための大事なものだと思うようになりました。 母に叱られて食べていた野菜を、いまは自分の意志で選んで食べている。昭和58年に「野菜の日」を作った人たちが願ったのは、たぶんこういうことだったのでしょう。四十三年かかって、私はようやくその願いに追いついたことになります。 とはいえ、毎日きっちり350グラムは、正直しんどい。足りない分をどう埋めるかという話で、うちの冷蔵庫にはこれが常備してあります。砂糖も食塩も入っていない、野菜100パーセントのやつです。 ...

August 31, 2026