【昭和の今日は何があった日?】7月16日──私が生まれた年、人類は月へ向かった

昭和44年7月16日。世界初の有人月宇宙船「アポロ11号」が、アメリカ・フロリダ州のケネディ宇宙センターから打ち上げられました。 昭和44年生まれの私にとって、これは「同い年」の出来事です。とはいえ、当時の私は生後3ヶ月半。首がようやく据わったかどうかという赤ん坊ですから、当然ながら記憶にございません。 それどころか、白状してしまうと、私はアポロについて詳しく知らないまま50年以上を生きてきました。「アームストロング船長が月に降りた」「人類にとっては偉大な飛躍である、という名言」。知っているのは、せいぜいその程度。物心ついたときには月面着陸はすでに「歴史」であり、教科書の中の出来事だったのです。 今回、この記事を書くにあたって初めてアポロ11号のことを腰を据えて調べました。すると、これが面白い。知らなかったことだらけでした。今日は、55歳を過ぎてようやく「月への旅」を追体験した男の話に、しばしお付き合いください。 昭和44年7月16日、夜10時32分 まず驚いたのは、打ち上げの正確な時刻です。現地フロリダでは7月16日の午前9時32分。日本時間に直すと、同じ7月16日の夜10時32分でした。 つまり、日本では多くの家庭がテレビの前でこの瞬間を見ていたのです。NHKは夜9時45分から75分間の報道特別番組「アポロ11号発射」を放送し、視聴率は43.8%を記録したといいます。夜10時半に、国民の4割以上がロケットの発射を見守っていた。今では考えられない光景です。 発射場の周辺には推定100万人もの見物客が詰めかけ、打ち上げの様子は世界33ヶ国にテレビ中継されました。全長110メートルを超える巨大なサターンVロケットが、3人の宇宙飛行士――アームストロング船長、オルドリン、コリンズ――を乗せて、轟音とともに空へ昇っていく。 その夜、東京の下町・葛飾の片隅では、生後3ヶ月の私が寝ていたはずです。当時、我が家にテレビがあったかどうかは、今となっては確かめようがありません。ただ、ひとつだけ、はっきり覚えていることがあります。 3歳くらいになって、いろいろなことが分かるようになった頃、父が私に何度もこう言ったのです。 「アポロ11号は人を乗せて月に着陸したんだぞ。すごいよな」 一度や二度ではありません。何度も、です。幼い私の記憶に刻み込まれるほど繰り返したということは、父にとってそれだけ強烈な出来事だったのでしょう。あの夜、あるいはあの昼、父もどこかでテレビの前に立っていたのかもしれません。 8年がかりの「月への競争」だった 調べてみて次に驚いたのは、アポロ11号が決して「順風満帆の一発成功」ではなかったということです。 始まりは昭和36年(1961年)。ソ連のガガーリンが人類初の宇宙飛行を成功させ、宇宙開発競争でアメリカは完全に後れを取っていました。そこでケネディ大統領が打ち出したのが「1960年代が終わるまでに、人間を月に着陸させ、安全に地球へ帰還させる」という国家目標です。 しかし道のりは平坦ではありませんでした。昭和42年(1967年)にはアポロ1号が訓練中の火災事故で炎上し、3人の宇宙飛行士が亡くなっています。計画は一時中断。それでも8号で月の周回飛行を、10号で月面1万5000メートルまで接近する「予行演習」を積み重ね、ようやく11号で本番を迎えたのです。 ケネディ大統領の公約から8年。大統領自身はその実現を見ることなく世を去っていました。期限とされた「60年代」の残りは、あと半年もありません。まさに滑り込みの挑戦だったわけです。 日本中が見た「小さな一歩」 打ち上げから約4日後の7月21日(日本時間)、月着陸船「イーグル」が月の「静かの海」に着陸します。早朝5時18分のことでした。 そしてお昼前の11時56分、アームストロング船長が月面に第一歩を踏み下ろします。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」――あの名言が生まれた瞬間です。 日本では平日月曜日の昼前。それなのに、NHKの中継の視聴率は68%に達したといいます。その日のうちに何らかの形で映像を見た人は、実に91%。学校でも職場でも、テレビのある場所に人が集まり、38万キロ彼方から届く白黒の映像に見入っていたのでしょう。 面白いのは、この年、日本の家電メーカーが「月面着陸をカラーで観よう」というキャッチコピーでカラーテレビを売り込んでいたことです。昭和44年のカラーテレビ生産台数は約483万台と、わずか4年前の48倍に跳ね上がりました。ところが肝心の月面からの映像は、機材の重量制限のため白黒だった。なんとも皮肉な話ですが、アポロが日本の茶の間のカラー化を後押ししたのは間違いなさそうです。 3人目の男と、持ち帰られた月 もうひとつ、調べていて心に残ったことがあります。月に降り立ったのは2人ですが、アポロ11号の乗組員は3人だったということです。 アームストロングとオルドリンが月面を歩いている間、司令船操縦士のマイケル・コリンズは、たったひとりで月の周回軌道を飛び続けていました。月の裏側に回れば、地球との交信も途絶えます。人類の歓喜の輪から38万キロ離れた場所で、静かに仲間の帰りを待つ。子供の頃に「月に降りた人」の名前だけを覚えていた私は、この3人目の男の存在をほとんど意識したことがありませんでした。野球で言えば、派手なホームランの裏で黙々と走者を進めるバントのような仕事です。歳を重ねた今だからこそ、この人に一番心を惹かれるのかもしれません。 2人は月面に約21時間半滞在し、およそ21キロの「月の石」を採取しました。3人を乗せた司令船は7月25日(日本時間)、太平洋に無事着水。ケネディの公約――月に人間を着陸させ、安全に地球へ帰還させる――は、ここで完全に達成されたのです。 そして持ち帰られた月の石は、翌昭和45年の大阪万博でも大きな話題になります。アメリカ館に展示された「月の石」(こちらは続くアポロ12号が持ち帰ったものだそうです)を一目見ようと、連日長蛇の列ができたという話は、私も後年何度も耳にしました。当時1歳の私はもちろん万博には行っていませんが、日本中が月に熱狂した時代の余韻は、その後の子供時代のそこかしこに残っていたように思います。 思えば、子供時代の私にとって「月」は、今よりずっと不思議で、特別な存在でした。 夜になると必ず空に現れる、大きくて明るいもの。手を伸ばしても絶対に届かない、遠い世界。「月にはうさぎがいて、おもちをついている」と本気で信じていました。その一方で、ウルトラマンや仮面ライダー、宇宙戦艦ヤマトの影響から、「宇宙人がいる場所」「秘密基地がある場所」というイメージも重なっていました。満月はとてもきれいだけれど、夜遅くにひとりで見上げると少し怖い。「月の裏側には何かいるかもしれない」と想像したこともあります。 きれいで、不思議で、少し怖くて、でもずっと見ていたくなる特別なもの。そんな月に、本当に人が行ったのだと後にテレビや本で知ったときの驚きは、父のあの言葉と地続きだったのだと、今にして思います。 「同い年」として思うこと 先日の記事で、週刊少年チャンピオンが私と同じ昭和44年生まれだと書きました。創刊は7月15日。そしてその翌日の7月16日に、アポロ11号は月へ飛び立っています。私が生まれた年の7月は、少年漫画誌が産声を上げ、人類が月を目指した、そんな夏だったのです。 自分が赤ん坊だった頃の世界を、50年以上経ってから調べてみる。これはなかなか不思議な体験でした。両親がまだ30代だった頃の日本で、人々は夜10時半にテレビの前に集まり、ロケットの発射に固唾を呑んでいた。その熱気を、私は知りません。知らないけれど、その時代の空気の中で育てられたのだと思うと、アポロ11号が少しだけ「自分ごと」に感じられてくるのです。 最後に、余談をひとつ。地元・葛飾の北沼公園には、「月面歩行にチャレンジ!!」という掲示とともに「ムーンウォーカー」という遊具があります。バネの調節によって月面の6分の1の重力を疑似体験できるという、NASAの宇宙飛行士の月面歩行訓練機をもとに子供用に設計されたものだそうです。 アポロが月へ飛び立ってから半世紀以上。下町の公園では、今も子供たちが「月面」を歩いています。 夜、ふと月を見上げます。あそこに人類が立ったのは、私が生まれた年のことでした。 みなさんは、アポロ11号の記憶がありますか? リアルタイムで中継をご覧になった方も、私と同じように「歴史」として知った方も、よろしければ思い出をお聞かせください。 私がこの記事で追体験した「月への旅」を、絵と言葉でまるごと味わえるのがこの一冊です。打ち上げの轟音から、月面の静けさ、そして帰還まで。大人が読んでも胸が熱くなり、お孫さんに読み聞かせるにもちょうどいい。あの夏、人類が本当に月へ行ったのだと、あらためて教えてくれます。 月へ アポロ11号のはるかなる旅ブライアン・フロッカ作/日暮雅通訳(偕成社)。打ち上げから帰還までを、迫力の絵と詩のような文で描く絵本。世代を超えて読める一冊 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月15日】ファミコンは買わなかった。でもチャンピオンは毎週読んでいた | 次の記事:【7月17日】江夏豊、9者連続奪三振。私が生まれた2年後の「見ていない伝説」 ▶

July 16, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月15日──ファミコンは買わなかった。でもチャンピオンは毎週読んでいた

7月15日は、不思議な日です。 昭和の少年文化を代表する「二つの王様」が、14年の歳月を隔てて、同じこの日に生まれているのです。 ひとつは昭和58年(1983年)7月15日に任天堂が発売した家庭用ゲーム機、ファミリーコンピュータ。いわゆるファミコンです。もうひとつは昭和44年(1969年)7月15日に創刊された、秋田書店の「少年チャンピオン」。 そして告白しますと、昭和44年生まれの私は、この二つに対してずいぶん対照的な付き合い方をしていました。ファミコンは、買わなかった。チャンピオンは、毎週読んでいた。 今日はその話をさせてください。 任天堂ファミリーコンピュータ(HVC-001)。昭和58年7月15日発売、14,800円。(Photo: Rama / CC BY-SA 2.0 FR) 昭和58年7月15日、14,800円の革命 昭和58年7月15日、任天堂がファミリーコンピュータを発売しました。価格は14,800円。当時のゲーム機としては驚くほど戦略的な価格設定で、これが後に「テレビゲームといえばファミコン」という時代を作り上げていくことになります。 面白いのは、実は同じ日にセガ・エンタープライゼスもゲーム機「SG-1000」と、ベーシックを搭載したパソコン「SC-3000」を発売していたことです。つまり昭和58年7月15日は、日本の家庭用ゲーム機戦争の火蓋が切られた日でもあったわけです。 同じ昭和58年7月15日に発売された、セガのSG-1000。家庭用ゲーム機戦争は、この日いっせいに始まった。(Photo: Evan-Amos / Public domain) ただし、当時この日を「歴史的な日」だと認識していた人は、ほとんどいなかったはずです。発売当初のファミコンは、あくまで数あるゲーム機のひとつでした。それが決定的な存在になるのは、昭和60年の「スーパーマリオブラザーズ」、そして昭和61年の「ドラゴンクエスト」という怪物ソフトの登場を待ってからのことです。 あの日が「あの日」になるまでには、少し時間が必要だったのです。 買わなかった少年の言い分 昭和58年7月、私は中学2年生でした。14歳。世間的に見れば、ファミコン第一世代のど真ん中です。 でも私は、ファミコンを買いませんでした。それどころか、ファミコンというものが発売されたということすら、気にしていませんでした。 当時の私の興味は、やはり野球だったのです。「何が欲しいか?」と問われれば、真っ先に思い浮かぶのはグローブとか、カッコいいジャージでした。放課後の時間は、画面の中のボールではなく、本物のボールのためにありました。日が暮れるまでグラウンドにいて、家に帰れば飯を食って寝るだけ。テレビの前に座ってコントローラーを握る時間は、私の生活のどこにもなかったのです。 だから、日本中の少年たちの歴史を変えたと言われるあの日も、私にとってはただの夏の一日でした。翌日に迫った練習のことだけを考えて眠った、中学2年の7月15日。歴史というのは、案外そういうふうに通り過ぎていくものなのかもしれません。 一年半遅れの衝撃 そんな私がファミコンの存在に初めて気付いたのは、発売から一年半あまりも経ってからのことでした。 中学3年生。最後の夏の大会が終わり、高校受験の合格発表も済み、中学校生活も残りひと月足らずとなったころです。野球部の友達ではなく、クラスメイトの家に遊びに行ったときに、私は「ファミコン」というものの存在を初めて知り、目にして、手に取りました。 その時の衝撃は、すごかったですね。 小学生の頃にゲームセンターでプレーしていたようなクオリティーのゲームが、家庭用のテレビで出来ちゃうわけですからね。あの日やらせてもらったのは、たしかマッピーとロードランナーだったと思います。 ちなみに、私が初めてファミコンに触れたこの時点では、まだ「スーパーマリオブラザーズ」すら世に出ていません。あれだけの衝撃を受けたのに、実はあの熱狂の序章にしか立ち会っていなかったわけです。 まぁ、それでも欲しくはならずじまいでした。 受験も終わり、時間ならいくらでもあったはずの時期です。それでも「買いたい」とはならなかったのですから、我ながら筋金入りの野球少年だったのだと思います。その後も、友達の家に行ったときにやらせてもらう程度の付き合いのまま、私のファミコン歴は終わりました。 何しろ私には、生まれた時からの相棒とも言うべき、もうひとつの「7月15日生まれ」がいたのですから。 私と同い年の雑誌 さて、もうひとつの7月15日です。 昭和44年(1969年)7月15日、秋田書店が「少年チャンピオン」を創刊しました。創刊号の表紙を飾ったのは、キックボクサーの沢村忠。真空飛び膝蹴りで一世を風靡した、あの「キックの鬼」です。漫画雑誌の創刊号の顔がキックボクサーだったというあたりに、昭和44年という時代の空気を感じます。創刊当初は隔週刊で、翌昭和45年6月から週刊化されて「週刊少年チャンピオン」となります。 昭和44年生まれ。つまりこの雑誌、私と同い年なのです。 私がこの世に生まれて3ヶ月ほど経った頃、書店の棚に創刊号が並んだことになります。もちろん当時の私は知る由もありませんが、同じ年に生まれた雑誌と少年が、やがて毎週顔を合わせる仲になるのですから、縁というのは面白いものです。 チャンピオンの快進撃は、昭和47年に始まります。この年、水島新司先生の『ドカベン』の連載が始まり、翌昭和48年には手塚治虫先生の『ブラック・ジャック』がスタート。昭和50年代に入ると『がきデカ』『マカロニほうれん荘』『750ライダー』などが誌面に並び、昭和52年1月には週刊誌として史上初の発行部数200万部を突破。一時は絶対王者だった少年ジャンプを抜いて、少年誌の頂点に立ったこともあるのです。ちなみに『ブラック・ジャック』は、当時スランプにあったと言われる手塚治虫先生を復活させた作品としても知られています。私と同い年の雑誌が、あの漫画の神様を救っていたのだと思うと、なんだか誇らしい気持ちになります。 ドカベンと野球少年 私にとってのチャンピオンは、何をおいても『ドカベン』でした。 『ドカベン』がありましたから、必ず読んでいました。『ブラック・ジャック』も『750ライダー』も読みました。そして大人になってからは『グラップラー刃牙』シリーズを読んでいました。気がつけば、同い年のこの雑誌とは、少年時代から大人になるまで、ずいぶん長い付き合いになっていたわけです。 『ドカベン』の思い出は、と問われても、正直困ってしまいます。私にとっては、その存在すべてが「野球の参考書」だったからです。ですから、すみずみまで記憶しています。 その『ドカベン』の本誌連載は昭和56年にいったん完結しますが、昭和58年——奇しくもファミコン発売と同じ年——から、続編『大甲子園』が始まります。水島新司先生の野球漫画作品の主人公たちが大集合した、あの『大甲子園』です。当然、見逃すわけがありません。 『大甲子園』の連載期間は、私が白球を追いかけた中学2年から高校3年までと、ぴったり重なっている 連載は昭和58年から昭和62年まで。私が甲子園を目指して白球を追いかけていた、まさに中学2年から高校3年までの日々と、ぴったり重なっているのです。同世代の少年たちがファミコンに熱中していたあの数年間、私は毎週、明訓高校の戦いを追いかけていました。 最後はどうなるんだろうとか、明訓は負けてしまうのかとか、ワクワクとちょっぴりの心配とで、複雑な気持ちになりましたね。なんせ、それぞれの漫画では応援していた主人公たちとの対戦なんですからね。 二つの7月15日のあいだで こうして振り返ってみると、昭和58年7月15日という日は、私にとって象徴的な分かれ道だったのかもしれません。 同世代の少年たちの多くは、あの日に生まれたファミコンに夢中になっていきました。私はといえば、14年前の同じ日に生まれた雑誌のほうと付き合い続けた。画面の中で野球をするより、紙の上の山田太郎に胸を熱くして、そして本物のグラウンドで白球を追いかけるほうを選んだのです。 どちらが正しいという話ではありません。ファミコンに熱中した友人たちの目の輝きも、よく覚えています。ただ、あの頃の私には、ゲーム機に払う14,800円より大切なものが、すでに手の中にあったということなのだと思います。 週刊誌一冊と、使い込んだグローブ。中学2年の私の宝物は、それで十分でした。 そして、ひとつ付け加えておきたいことがあります。私の長男も次男も、『ドカベン』と『大甲子園』が愛読書となっていました。私と同じ年に生まれたあの雑誌が生んだ物語は、時代を超えて、息子たちの本棚にもちゃんと居場所を作っていたのです。父から子へ。これもまた、7月15日が私にくれた縁のひとつなのだと思います。 あなたは、ファミコン派でしたか? それとも……。あの夏、あなたの手の中にあったものを、よかったら聞かせてください。 『ドカベン』も『大甲子園』も、今は新品でそろえやすい形で残っています。山田太郎との出会い直しには文庫版の第1巻を。明訓の最後の夏をもう一度見届けたい方には『大甲子園』を。私と同い年のあの雑誌が生んだ物語は、令和の本棚でもちゃんと生きています。 ドカベン (1)(秋田文庫)水島新司/秋田書店。すべてはここから始まる、柔道編の山田太郎。私にとっては丸ごと野球の参考書だった一作 Amazonで見る › 大甲子園 (1)(少年チャンピオン・コミックス)水島新司/秋田書店。明訓・山田太郎と水島野球漫画のオールスターが激突。中2から高3の私が毎週追いかけた物語 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...

July 15, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月8日──たばこの箱に、小さな一文が生まれた日

今日は7月8日。梅雨明けを待つ、じっとりと重い空気の季節です。 昭和の家には、たいてい煙が満ちていました。ちゃぶ台の上には灰皿があって、朝から晩まで、白い煙がゆらゆらと立ちのぼっている。テレビの画面も、蛍光灯の傘も、いつのまにかうっすらと黄ばんでいる。あれが、当たり前の風景でした。 そして、その煙を切らさないために走るのは、たいてい子どもの役目でした。小銭を握りしめて、近所のたばこ屋まで。「〇〇をひとつ」——そう言えば、子どもにでも売ってくれた時代です。 昭和47年(1972年)の7月8日、その手の中のたばこの箱に、ある小さな一文が初めて刷り込まれました。 「健康のため、吸いすぎに注意しましょう」 今では考えられないほど控えめな、たった一行。けれど、これが日本のたばこに“警告”が載った、いちばん最初の言葉だったのです。 箱の側面の、たった一行 私たちの世代にとって、たばこの箱の側面に注意書きがあるのは、生まれたときからの当たり前でした。けれど、その一行にも、ちゃんと「始まり」があります。 1972年(昭和47年)より前、日本で売られていたたばこには、健康に関する注意文も警告も、いっさい書かれていませんでした。箱には、ただ商品の顔があるだけ。吸うことに国が注意をうながす、という発想そのものが、まだ世の中になかったのです。 その流れを最初につくったのはアメリカでした。そして日本でも、昭和47年の夏、ついにたばこの箱に文字が載ることになります。記録によれば、まず京都・名古屋・大津の三つの街で、「健康のため吸いすぎに注意しましょう」と側面に印刷したたばこの販売が始まり、その年の8月下旬から、全国へと広がっていったといいます。7月8日は、その最初の一歩がしるされた日、というわけです。 面白いのは、我が家の定番だったあの安いたばこも、ちょうどこの昭和47年の夏に、箱へ健康表示が刷られるようになった、という点です。つまり、私が物心つく前から握らされていたあの一行は、じつはこの頃に生まれたばかりの、まだ新しい言葉だったのです。 ちなみにこの文言は、その後ずっと同じだったわけではありません。1972年から1989年まで、つまり昭和のあいだはずっと「健康のため吸いすぎに注意しましょう」。平成に入った1990年からは「あなたの健康を損なうおそれがありますので吸いすぎに注意しましょう」と、少し踏み込んだ言い方に変わりました。そして2005年からは、箱の大きな面をつかって、具体的な病気の名前まで書かれるようになります。あの控えめな一行は、時代とともに、どんどん強い言葉になっていったのです。 正直に言えば、私自身はこの「始まり」をまったく覚えていません。昭和47年7月といえば、私はまだ三歳。箱の文字を読むどころではありませんでした。今回この日について調べていて、はじめて「そうだったのか」と知ったくらいです。 私が本当に覚えているのは、その一行そのものではなく——その一行が刷られた箱を握って走った、お使いの記憶のほうなのです。 70円玉を握って 我が家は、両親そろって喫煙者でした。 父も母も、当たり前のようにたばこを吸っていて、家の中はいつも煙の匂い。今にして思えば、子どももその煙を一緒に吸って育ったわけですが、当時はそんなことを気にする人など、まわりに誰もいませんでした。 だから、たばこのお使いは、私の仕事でした。 小銭を渡されて、近所のたばこ屋まで走る。買ってくるのは、決まってエコーという銘柄でした。オレンジ色に茶色のストライプが入った、あの細長い箱です。値段はたしか、70円ほど。当時のたばこの中でも、いちばん安い部類のものでした。 そのたばこ屋さんは、高砂駅の北口を出て、すぐ目の前にありました。たばこを対面で売る小さな窓口には、いつもおばちゃんかおじちゃんのどちらかが座っていて、「エコー、〇個ください」と声をかけると、茶色の紙袋にたばこを入れて渡してくれます。 そして、そのたびに、小さな箱に入ったミカン味の、丸い球のガムを——たしか四粒だったと思います——毎回くれるのです。じつを言うと私、そのガムが目当てで、喜んでお使いに行っていたようなものでした。 そのたばこ屋さんは、驚くことに、今も同じ場所にちゃんとあります。 エコーというたばこは、1968年(昭和43年)に売り出された、フィルター付きでは日本でいちばん安いたばこでした。税金の区分でいう「旧三級品」というやつで、とにかく安い。だから、我が家のようなごく普通の家では、重宝されていたのだと思います。のちに俳優の松田優作さんが好んで吸っていたことでも知られる銘柄ですが、子どもの私にとっては、ただ「いつもの、うちのたばこ」でした。 なぜ我が家がエコーだったのか。父がよく、「エコーはフィルターがついている中で一番安いんだ」と言っていたのを覚えています。父も母も、そろってエコー。銘柄で迷うことなど一度もなく、私が買いに行くのは、いつも決まってあのオレンジ色の箱でした。 現金のお駄賃をもらった記憶はありません。私にとっての“ごほうび”は、あくまであのたばこ屋さんがくれるガムだけ。それでも、あの頃の私には、それで十分すぎるくらいだったのです。 校庭に、たばこの煙 たばこの煙は、家の中だけのものではありませんでした。 中学、高校と野球を続けた私にとって、たばこの匂いは、グラウンドの記憶とも結びついています。当時の野球部の監督は、校庭で、平気でたばこを吸いながら指導していました。ノックの合間に一服、選手を集めて話しながら一服。今の学校では、まず考えられない光景でしょう。 そして、その監督に「たばこを買ってこい」と使いに出されるのも、また部員の役目でした。 野球部の顧問というのは、どこの学校でも、たいていはおっかない先生と相場が決まっていました。うちの監督も、その例にもれず。今の感覚でいえば、生徒にたばこを買いに行かせるなんて大問題でしょうが、あの頃は、先生も生徒も、誰ひとり何とも思っていませんでした。 それどころか、私たち部員にとって、たばこのお使いは、ちょっとした“役得”だったのです。だって、その間だけは、あのきつい練習から堂々と抜けられる。買いに行かされる仲間を横目に、「いいなぁ〜」と、うらやましく思ったものでした。 ですから、たまに自分が頼まれたときには——これは内緒の話ですが——できるだけゆっくり、ゆっくりと、道草を食いながら帰ったものです。 考えてみれば、昭和という時代は、たばこの煙にとても寛容でした。電車の中でも、駅のホームでも、職場でも、学校の職員室でも、煙は当たり前に漂っていた。子どもがたばこを買いに行き、大人が子どもの前でふかす。その全部が、なんの疑問もない日常だったのです。 煙の中で育った、私たち これだけ濃い煙の中で育ったのに、ひとつ、不思議なことがあります。 私も、ひとつ下の妹も、大人になってから、たばこを一度も吸いませんでした。 といっても、そこに深い理由があったわけではありません。親の吸う煙が、内心いやだった——そういうことでもないのです。ただ、吸うタイミングというものがなかった。そして、吸いたいと思うこともなかった。ほんとうに、それだけのことでした。 あんなに毎日たばこを買いに走らされて、家じゅうが煙だらけで、それでも自分では吸わなかった。人が何かを選ぶ、選ばないというのは、案外、そのくらい他愛のないものなのかもしれません。 いま、たばこの箱を見ると、その変わりように驚きます。箱の半分近くを、黒々とした警告の文字が占めている。あの「健康のため吸いすぎに注意しましょう」という、どこか遠慮がちだった一行の“子孫”が、半世紀をかけて、あそこまで強い言葉になった。時代は、確かに変わったのだと感じます。 おわりに 昭和47年7月8日、たばこの箱に、初めて小さな一文が刷られました。 「健康のため、吸いすぎに注意しましょう」。 その一行が生まれた頃、私はまだ三歳で、そんなことは何も知らないまま、やがてその箱を握りしめて、近所のたばこ屋まで走ることになります。手の中には70円玉。買ってくるのは、オレンジ色のエコーひとつ。家に帰れば、また煙の匂いの中へ戻っていく。 あの煙も、あのお使いも、校庭でたばこをふかしていた監督の姿も、今ではすっかり遠い風景になりました。それでも、たばこの箱の側面をふと見て、あの小さな一行に目がとまると、湿った夏の日の、たばこ屋までの道のりが、すっと目の前によみがえってくるのです。 みなさんは、家族のたばこのお使いに走った記憶はありますか。どんな銘柄を、いくらで買っていたか、覚えているでしょうか。 家じゅうの煙、駄菓子屋のガム、たばこ屋のおばちゃん——。あの頃の「当たり前」は、いまや一枚の写真の中にしか残っていません。昭和の衣・食・住の何気ない風景を、たっぷりの写真で振り返る一冊。ページをめくるたびに、あなたの「お使いの道」も、きっとよみがえってきます。 懐かしくて素敵! 心惹かれる昭和の暮らし(TJMOOK)宝島社。昭和の衣・食・住の“当たり前”を、写真とともに味わう一冊 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

July 8, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月3日──元気ハツラツ!オロナミンCと、小学5年生の夏

オロナミンCの日、その語呂合わせ 7月3日は「オロナミンCの日」なのだそうです。「オロナ(7)ミ(3)ンC」という、なんとも昭和らしい語呂合わせから、製造元の大塚製薬株式会社が制定した記念日とのこと。累計販売本数が300億本を突破したことを記念して定められたと聞けば、あの独特な甘さと炭酸の刺激が、いかに多くの日本人の記憶に染みついているかがわかります。 私が子供の頃には、すでに「あって当たり前」の飲み物でした。しかし調べてみると、オロナミンCの誕生は1965年(昭和40年)2月。私が生まれる4年前のことです。ちょうど高度経済成長のまっただ中、東京オリンピックの興奮も冷めやらぬ頃に、大正製薬の「リポビタンD」に対抗する形で世に送り出された商品だったそうです。 首都高速道路や東海道新幹線が開通し、日本中が「もっと速く、もっと元気に」と前のめりになっていた時代。そんな空気の中で「元気ハツラツ」を掲げる栄養ドリンクが生まれたのは、ある意味で必然だったのかもしれません。私が物心つく頃には、そうした高度成長の熱気はすでに一段落していましたが、オロナミンCという商品だけは、変わらぬ姿で駄菓子屋の片隅に鎮座していました。 「オロナ」+「ミンC」、名前の由来 オロナミンCという名前、実は大塚製薬の看板商品だった皮膚薬「オロナイン軟膏」の「オロナ」と、「ビタミンC」の「ミンC」を組み合わせたものだと知って、思わず膝を打ちました。子供の頃はそんなことを考えたこともなく、ただ「元気の出る飲み物」として棚に並んでいたわけですが、企業としては薬品のブランド力をうまく橋渡ししていたのですね。 発売当初、炭酸を含んでいることを理由に医薬品としては認められなかったそうです。当時の感覚では少々残念な判断にも思えますが、これが結果的に薬局以外の場所――駄菓子屋や商店、自動販売機――でも自由に売られる清涼飲料水としての普及を後押ししたというのですから、世の中は分からないものです。ライバルであった大正製薬の「リポビタンD」が医薬品として薬局を中心に売られていたのとは対照的に、オロナミンCは子供の生活圏である駄菓子屋にまで入り込んでくることができた。この違いが、私たち昭和の子供世代の記憶に、オロナミンCがより身近な存在として刻まれた理由のひとつかもしれません。 大村崑さんと、ホーロー看板の記憶 オロナミンCといえば、まず思い浮かぶのが大村崑さんの顔です。「うれしいとねぇ、めがねが落ちるんですよ!」という白黒テレビCMから始まり、やがて「元気ハツラツ!」の掛け声とともに、昭和40年代の茶の間にすっかり定着していきました。大村さんは発売当初からおよそ10年もの間CMに出演し続け、1970年の大阪万博の際には、気球に乗って「オロナミンCを飲んで万国博へ行こう!」と呼びかけるCMまで作られたというから驚きです。それだけ長く同じ顔が茶の間に映り続けたということは、それだけ多くの子供たちの記憶に、あの笑顔が刻み込まれたということでもあるのでしょう。 そういえば、家族それぞれが自分好みにオロナミンCをアレンジして飲む、という趣向のCMもあったように記憶しています。ミルクを入れて「オロナミンセーキ」にしたり、大人はウイスキーやジンを垂らしたり。中には、ほぐした卵黄を溶き入れて飲むという飲み方まであったような気がします。私自身は試したことがないのですが、本当だとしたら、今の感覚ではちょっと驚きの組み合わせです。当時の栄養ドリンクには、こうして「混ぜて自分流にする」という遊び心の文化があったのかもしれません。 そして忘れてはならないのが、街角のあちこちに掲げられていたホーロー看板です。大村崑さんの笑顔と一緒に、当時大塚製薬がスポンサーだった『黄金バット』『巨人の星』『天才バカボン』、あるいは『アタックNo.1』といった人気番組のキャラクターが隅に描かれた看板が、全国津々浦々の商店の壁に貼られていたそうです。 私の記憶でも、看板は本当にあちこちにありました。駄菓子屋やたばこ屋の軒先はもちろん、当時はまだ木製の電柱もあちこちに残っていて、そこにも貼られていたのを覚えています。学校への行き帰り、あるいは近所を自転車で走り回っているときに、ふと視界の端に大村崑さんの笑顔が飛び込んでくる。特に意識して見ていたわけではないのに、気がつけばあの独特な看板のデザインは、しっかりと記憶に焼き付いていました。 看板の中には『巨人の星』の星飛雄馬が隅に描かれたバージョンもあったそうで、後から知って「あの頃見ていたのは、もしかしたらそれだったのかもしれない」と、記憶を重ね合わせています。ただ、小学校低学年の頃はテレビCMや看板で目にするばかりで、実際に飲むことはありませんでした。オロナミンCはどこか「大人の飲み物」のような感じがしましたし、瓶もコーラよりひと回り小さかったので、駄菓子屋で選ぶ時にはつい大きいほうのコーラに手が伸びてしまう。子供心にも、量で選んでいたのかもしれません。今思えば、あの小さな瓶には大人の世界への憧れのようなものが詰まっていたのかもしれませんが、当時の私にはただ「ちょっと背伸びした飲み物」に見えていただけでした。 「小さな巨人」と、我が家の応援歌 私にとって特に感慨深いのは、1976年(昭和51年)からおよそ四半世紀にわたって、オロナミンCが読売ジャイアンツとタイアップしていたという事実です。CMの最後には「オロナミンCは小さな巨人です!」というフレーズが使われ、昭和58年頃までは大村崑さんが、それ以降は中畑清選手をはじめとする巨人軍の選手たちがこの台詞を口にしていたといいます。「Cパワーが、Gパワーになる」というキャッチコピーも使われていたそうで、ビタミンCの力が読売ジャイアンツ(G)の力になる、というダジャレのような発想も、なんとも昭和らしい大らかさを感じます。 私が物心つく頃には、すでにジャイアンツファンとしてラジオにかじりついていた身です(先日この欄でも書きましたが、夜のナイター中継を追いかける少年でした)。テレビでもラジオでも、巨人戦の合間に流れてくるオロナミンCのCMは、応援と一体になった風景の一部でした。看板やCMで繰り返し目にしていたあの飲み物が、まさか自分にとって「特別な一本」になるとは、当時は思ってもみませんでした。 小学5年生の夏、初めての一本 初めてオロナミンCを飲んだのは、小学5年生の夏休みのことでした。パートに出ていた母が、職場で6本入りパックをいただいてきたのです。長らく看板とCMの中だけの存在だったオロナミンCが、ついに我が家の食卓に並んだ瞬間、何とも言えぬ喜びがこみ上げてきました。それまで幾度となく看板やテレビの向こうに見ていた、あの小さな瓶が、今まさに自分の手の中にある――そう思うと、栓を抜く前から胸が高鳴っていたのを覚えています。「これがジャイアンツの選手たちが飲んでたやつかー」――そう思いながら王冠の栓を抜いて口に運んだ、あの瞬間は今でも鮮明に覚えています。 味は想像していたよりもずっと不思議なものでした。すっぱくて、シュワシュワしていて、どこか薬っぽい感じもする。そして何より驚いたのは、飲んだ後のオシッコが真っ黄色になっていたことです(笑)。ビタミンB2の色だと知ったのはずっと後のことで、当時は「これはとんでもない飲み物なんだ」と、変な意味で衝撃を受けたのを覚えています。 後になって知ったのですが、これは私だけの体験ではなく、当時オロナミンCやリポビタンDといったビタミン飲料を飲んだ子供たちの多くが同じように驚いていたのだそうです。今なら「ああ、ビタミンB2ね」と笑って済ませられますが、あの頃は誰も教えてくれない、ちょっとした発見でした。テレビの向こうの大村崑さんも巨人軍の選手たちも、まさか子供たちがこんなところで盛り上がっているとは思ってもいなかったでしょう。 今も変わらぬ「元気ハツラツ」 あれから半世紀近くが経ち、オロナミンCは今も店頭に並び続けています。CMキャラクターは時代とともに移り変わり、令和の今では仮面ライダーとタイアップするなど、姿を変えながらも生き続けている。あの木製の電柱も、駄菓子屋の軒先も、今の街並みからはほとんど姿を消してしまいましたが、瓶のデザインや「元気ハツラツ」という言葉だけは、驚くほど当時のまま残っています。 私も令和の今、たまにオロナミンCを手に取ることがありますが、そのたびに、あの小学5年生の夏休みの記憶がよみがえってきます。母が職場からもらってきた6本入りパック、初めて栓を抜いた時の高鳴り、そして誰にも教わらなかった「発見」の驚き。変わらないのは、あの甘酸っぱい味と炭酸の刺激、そして子供の頃の胸の高鳴りなのかもしれません。 皆さんは、オロナミンCにまつわる思い出はありますか。あの看板を、あのCMを、あの味を、今も覚えていらっしゃいますか。 暑さが本番を迎えるこの季節。あの「元気ハツラツ」を、久しぶりに一本いかがでしょう。半世紀変わらないあの味は、飲んだ瞬間、あなたを子どもの頃のあの夏へ連れ戻してくれるはずです。箱で冷やしておけば、夏バテ気味の毎日の、ささやかな相棒になります。 大塚製薬 オロナミンC ドリンク 120ml×50本1965年から変わらない「元気ハツラツ」。冷蔵庫にストックしておきたい、夏の定番の一本 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月2日】手作りの翼が、琵琶湖に落ちていった夏 | 次の記事:【7月4日】テレビが眠らなくなった日、NHK衛星放送・世界初の24時間放送 ▶

July 3, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月30日──布団の中の、小さな実況中継

今日は6月30日。一年のちょうど真ん中、折り返しの日です。梅雨の重たい雲の下、それでも夏がもうそこまで来ているのを、肌のどこかで感じはじめる頃です。 この日は「トランジスタの日」でもあります。1948年(昭和23年)6月30日、アメリカのベル研究所で、三人の物理学者が生み出した小さな小さな部品が、はじめて世の中に公開されました。トランジスタです。 理科の授業に出てきそうな、なんだか難しい話に聞こえるかもしれません。けれども、この豆粒のような部品こそが、やがて昭和の子どもの手のひらに、ひとつの宝物を届けてくれることになります。トランジスタラジオです。 トランジスタという、小さな魔法 トランジスタが発明されるまで、ラジオの心臓部には「真空管」という、ガラスでできた電球のような部品が使われていました。だからラジオは大きくて、重くて、電源を入れてもすぐには鳴らず、温まるのをしばらく待たなければなりませんでした。茶の間にどっしりと置かれ、家族みんなで囲むもの。ラジオは「家具」だったのです。 ところがトランジスタは、爪の先ほどの大きさで、電気も食わず、衝撃にも強い。この小さな部品が真空管に取って代わったとき、ラジオは劇的に小さくなりました。 世界で最初のトランジスタラジオは、1954年にアメリカのリージェンシー社が発売しました。世界初の栄冠こそ譲りましたが、その翌年、日本でも快挙が起こります。1955年(昭和30年)、東京通信工業——のちのソニーが、「SONY」の名を冠した日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を世に送り出したのです。 当時の東京通信工業は、社員数が三百人にも満たない、まだ無名の小さな会社でした。井深大(いぶか・まさる)と盛田昭夫(もりた・あきお)という二人の創業者が、「自分たちの手でトランジスタを作り、それでラジオをこしらえる」という、無謀とも言われた目標に、まさに社運を賭けて挑んだのです。トランジスタでラジオを作るなど不可能だ——そんな声を一つひとつはねのけ、彼らは小さな箱の中に、新しい時代を詰め込みました。 さらに1957年(昭和32年)、ソニーは当時世界最小の「TR-63」を完成させます。「ポケッタブルラジオ」というキャッチコピーで売り出されたこの一台は、サラリーマンの月給ほどもする高級品でしたが、アメリカで飛ぶように売れ、「SONY」の名を世界中に知らしめました。やがてこの会社が、ウォークマンを生み、世界を代表する電機メーカーへと駆け上がっていくのですが、その出発点に、手のひらにのる一台のラジオがあったというのは、なんだか胸が熱くなる話ではありませんか。 このとき、ラジオの意味そのものが変わりました。家族でひとつを囲む「家具」から、一人ひとりが、聴きたいときに、聴きたい場所で耳を傾ける「自分だけの道具」へ。「トランジスタグラマー」なんて流行語まで生まれたほど、トランジスタは時代の合言葉になっていきました。 私が生まれる二十年以上も前の話です。けれども、この小さな魔法が、のちに私の少年時代の夜を、こっそりと彩ってくれることになるのです。 布団の中の、小さな実況中継 トランジスタラジオと聞いて、私の胸に最初に浮かんでくるのは、やっぱり野球のことです。 私の手にトランジスタラジオがやってきたのは、小学校三年生、九歳の誕生日プレゼントとしてでした。昭和53年(1978年)のことです。子どもの頃から無類の巨人ファンだった私にとって、これほどうれしい贈り物はありませんでした。 というのも、当時のテレビのナイター中継は、試合の終盤になると放送時間が来て、ぷつりと終わってしまうことがしょっちゅうあったのです。いちばんいいところで、画面がほかの番組に変わってしまう。あの悔しさといったらありませんでした。そんなとき、毎回活躍してくれたのが、誕生日にもらったこの小さなラジオでした。 布団に入って、そっとラジオのスイッチを入れる。イヤホンを耳に押し込む。テレビとちがって、映像はありません。それでも、ラジオから聞こえてくるアナウンサーの実況だけで、私の頭の中には、その試合の光景がはっきりと、まるで映像のように映し出されていたのです。打球の伸びも、走者の足も、ぜんぶ見えている気がしました。 その証拠に、と言ってはなんですが、いまでも私は当時の巨人の打順をそらで言えます。1番センター柴田、2番サード高田、3番レフト張本、4番ファースト王、5番セカンドのシピン、6番ライト淡口、7番ショート河埜、8番キャッチャー吉田、9番ピッチャー堀内……(笑)。ほら、こうしてすらすら出てくる。布団の中で毎晩のように聞いていた名前は、半世紀近くたった今も、しっかりと私の体に染みついているのです。 そうしてラジオで知った試合の続きは、翌朝の学校での、またとない自慢の種でもありました。「ゆうべの試合、王さん打ったぞ」「堀内、最後まで投げきった」。テレビの中継が終わったあとの展開を知っているのは、布団の中でこっそりラジオを握りしめていた者だけ。教室でそれを得意げに話すのは、子どもなりの、ちょっとした誇りだったのです。あの頃の巨人は、私たち少年にとって、まぎれもないヒーローでした。 「聴く」から「する」へ そんなふうに、布団の中でラジオの野球にのめり込んでいた少年も、中学、高校と進むうちに、ラジオを手にする時間は少しずつ減っていきました。 理由は、いたって単純です。野球部の活動に、すっかり夢中になっていたからです。 考えてみれば、これはちょっと面白い変化でした。小学生の私は、ラジオの実況を聴きながら、見えないグラウンドを頭の中に思い描く「聴く側」の子どもでした。それが気づけば、自分自身がそのグラウンドに立ち、白球を追いかける「する側」になっていたのです。耳をすませて憧れていた世界に、いつのまにか、自分の足で踏み込んでいた。 イヤホンから流れてくる誰かの実況ではなく、自分のスパイクが土を蹴る音、バットが芯でボールをとらえる音。私にとっての夏の音は、そうやって少しずつ、入れ替わっていったのでした。 茅の輪をくぐって、もう半分 さて、6月30日に話を戻しましょう。 この日は、昔から各地の神社で「夏越の大祓(なごしのおおはらえ)」が行われる日でもあります。一年の前半でたまった穢れを祓い落とし、残り半年を無事に過ごせるよう願う、古くからの神事です。神社によっては、茅(ちがや)で編んだ大きな輪が境内に設えられ、人々はそれをくぐって身を清めます。「茅の輪くぐり」です。 正直に告白すると、子どもの頃の私は、こんな神事があることなど、まるで知りませんでした。6月30日が一年の折り返しだということも、半年の穢れを祓う日だということも、すっかり大人になってから知ったことばかりです。 当時の私にとっての6月30日は、ただただ「夏休みが、もうすぐそこまで来ている日」。それ以上でも、それ以下でもありませんでした。一学期の終わりが近づくこの時期の、あのそわそわとした高揚感だけは、今でもはっきりと思い出せます。 それでも、こうして大人になって暦を眺めてみると、6月30日というのは不思議な日だと思います。一年のちょうど真ん中。半分が終わって、半分が残っている。あの頃の私の心は、茅の輪のことなど露知らず、もうすっかり、ラジオから聞こえてくる夏の音のほうへ飛んでいっていたのでしょう。 おわりに あの「ポケッタブルラジオ」から数えて七十年近く。今、私たちは一人一台、手のひらにのる小さな箱を持ち歩いています。スマートフォンです。あれもまた、トランジスタという小さな部品の、はるか遠い子孫なのだと思うと、少し不思議な気持ちになります。 今では、どんな球場の試合も、手のひらの画面で映像つきで観られるようになりました。便利になったものです。けれども、あのモノラルのスピーカーから流れる実況に耳をすませ、見えないグラウンドを頭の中で必死に描いていた、あの時間。映像がないからこそ、想像することそのものが、楽しみの大きな一部だったように思うのです。アナウンサーの声色ひとつで、ホームランの大きさも、内野ゴロの惜しさも、ぜんぶ自分の頭の中でふくらませていた。あれはあれで、ぜいたくな野球の楽しみ方でした。 バスのハンドルを握る今も、私の運転席にはいつも何かの音が流れています。形は変わっても、声と一緒に時間を過ごすという習慣だけは、あの布団の中の夜から、ずっと変わっていないのかもしれません。 一年の折り返しの日。あなたにとって、あの小さなラジオから流れていたのは、どんな音でしたか。 あの頃の「手のひらの相棒」は、令和のいまも姿を変えて生き続けています。なかでも、手回しとソーラーで充電でき、いざというときスマホの充電もできる防災ラジオは、ひとつ備えておくと心強いものです。枕元のナイター中継に、そして梅雨明けから本番を迎える台風・地震への備えに。 ソニー 防災ラジオ ICF-B99(FM/AM/ワイドFM・手回し充電・ソーラー充電・スマホ充電対応)手回しと太陽光で充電でき、スマホ給電・LEDライトも。枕元にも、防災の備えにも一台 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【6月29日】生まれる前に来た四人、私が夢中になった音楽の“源流”をたどって | 次の記事:【7月1日】変わり続けた箱と、変わらない一本 ▶

June 30, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月29日──生まれる前に来た四人、私が夢中になった音楽の“源流”をたどって

私が生まれる、三年前の水曜日 今日は六月二十九日。振り返ってみると、この日は私にとって少し不思議な意味を持つ日でした。というのも、1966年(昭和41年)の今日、ビートルズが初めて日本の地を踏んだ日だからです。 正直に申し上げます。私はこの出来事を、自分の記憶として語ることができません。私が生まれたのは1969年の四月。ビートルズ来日は、それより三年近くも前のできごとです。つまり、その朝、日本中が沸き返っていたとき、私はまだこの世にいませんでした。 ですから今日は、いつもとは少し趣向を変えてみようと思います。「子どもの頃の記憶」ではなく、「この記事を書きながら、私自身がビートルズという存在を一から知っていく」という形で進めてみたいのです。そしてその先で、私が子ども時代に夢中になった歌い手たちと、この四人組とが、どこかでつながっているのではないか──そんな予感を、確かめてみたいと思います。 あの五日間に、日本で起きたこと 調べはじめて、まず驚いたのは、その騒ぎの途方もない大きさでした。 ドイツでの公演を終えたビートルズを乗せた飛行機が、台風の影響で予定より遅れて羽田空港に降り立ったのは、1966年6月29日の午前三時三十九分。深夜にもかかわらず、四人は日本航空のハッピをはおってタラップを降りたといいます。その日の午後には、宿泊先の東京ヒルトンホテルで記者会見。そして6月30日から7月2日までの三日間、日本武道館で計五回、一回あたり十一曲・約三十五分のコンサートが開かれ、のべ五万人を動員しました。 あとで知って意外だったのは、この1966年が、ビートルズ自身にとっても大きな曲がり角の年だったということです。彼らはこの来日の直前に名盤『リボルバー』を録り終えており、しかもこの世界ツアーが、結果的に彼らの最後のツアーになりました。観客の悲鳴で自分たちの演奏も聞こえない巡業に疲れ、「アイドル」から「アーティスト」へと脱皮していく、ちょうどその境目だったのです。日本でも分刻みのスケジュールに縛られ、日中はホテルに缶詰めだったといいます。武道館で歌われたのは、「イエスタデイ」「ペイパーバック・ライター」「デイ・トリッパー」といった曲々。その曲名を並べて眺めているだけで、あの夜の熱気が少しだけ立ちのぼってくる気がします。 ただ、すんなり実現したわけではなかったようです。武道館はもともと武道のための「神聖な殿堂」とされ、「そんな場所で不良の音楽をやらせるとは何事か」という右翼団体の反対や、「観に行ってはならない」と通達を出した学校まであったといいます。三日間のコンサートには、機動隊員を含めのべ五千五百人もの警官が配されたそうです。今の私たちの感覚では、ちょっと想像がつきません。 そしてもう一つ、私の胸に残ったのが、テレビのことでした。7月1日昼の公演を日本テレビが録画し、その日の夜に放送したところ、視聴率はなんと56.5パーセント。これは特別番組として、今なお破られていない歴代最高記録だといいます。さらに調べると、私が小学生だった1978年にも、この武道館公演はテレビで特別に再放送されていました。つまり私の子ども時代には、ビートルズはもう「歴史」であり「伝説」だったのです。 武道館という、「最初の扉」 ここで「武道館」という名前が出てきて、私は思わずハッとしました。 実はつい三日前、私はこの連載で、1976年の猪木とアリの一戦を取り上げたばかりでした。あの異種格闘技戦の舞台もまた、日本武道館だったのです。 つまり武道館は、ビートルズがロックの「聖地」に変え、その十年後には格闘技の「聖地」にもなった場所でした。後の時代に数えきれないミュージシャンが「いつかはあのステージに」と夢見る、あの大きな箱の、いちばん最初の扉を開けたのが、この四人だった──そう知ると、三日前に書いた猪木の汗と、今日のビートルズの歓声とが、同じ床の上でつながっているような気がしてきます。 そもそも武道館は、1964年の東京オリンピックの柔道会場として建てられた、当時はまだ真新しい建物でした。武道のために生まれたその場所が、わずか二年後に世界一のロックバンドを迎え入れ、やがて音楽の殿堂へと姿を変えていく。一つの建物がたどる運命というのも、ずいぶん数奇なものだなと思います。 おもしろいことに、肝心のコンサートそのものは、必ずしも絶賛ばかりではなかったようです。当時のビートルズはツアー暮らしに疲れ切っていた頃で、十一曲の歌い回しは散漫で、肩透かしを食らった熱心なファンも少なくなかった、という記録が残っています。完璧ではなかったのに、伝説になった。これもまた、猪木とアリのあの一戦とそっくりだなと、私は少しおかしくなりました。 あの客席に、若き日の“ジュリー”がいた さて、ここからが、私が本当に知りたかったことです。 ビートルズの来日は、日本の若者たちに途方もない衝撃を与えました。髪を伸ばし、仲間と楽器を持ち寄ってバンドを組む若者が次々に現れ、やがて「グループ・サウンズ(GS)」という空前のブームが、日本中を覆っていきます。長髪に、おそろいの衣装。今の私たちが思い浮かべる「昭和のバンド像」の原型は、この頃にできあがったのですね。 そのGSの頂点に立ったのが、ザ・タイガースでした。ザ・スパイダース、ジャッキー吉川とブルー・コメッツとともに「GS御三家」と呼ばれ、人気を競い合い、テレビにも映画にも引っ張りだこになります。そして、そのザ・タイガースのボーカルこそ、のちに私が子どもの頃にテレビで見ていた沢田研二さん──ジュリーだったのです。 調べていて、思わず声が出たのはここでした。1966年のビートルズ武道館公演の客席に、まだデビュー前の沢田さんがいた、というのです。前身バンドのファンから「絶対に観た方がいい」とチケットを渡されて足を運び、そして彼は、こう漏らしたと伝えられています。「こんなものにはなれないと思った」と。 私がブラウン管の中の堂々たる「スター」として眺めていたジュリーが、その出発点では、生身のビートルズを見上げて打ちのめされていた。私が生まれる前の武道館の客席と、私の子ども時代のお茶の間とが、一本の線でつながった瞬間でした。 「騒がしいバンド」から、「路地裏の少年」へ そしてもう一人、どうしても確かめたい人がいました。桑田佳祐さんです。 少し前にこの連載で、私はサザンオールスターズのことを書きました。1978年、「ザ・ベストテン」の「今週のスポットライト」で初めて彼らを見たとき、私は「何だ、この騒がしいバンドは!?」と面食らった──そんな思い出です。 その桑田さんが、筋金入りのビートルズ好きだということを、私は今回あらためて知りました。ご本人が「外国の文化にもろに影響を受けている」と語りつつ、「日本語の“ワビ”“サビ”の感覚を出していきたい」とも言う。憧れと、そこから日本語の歌へと向き直っていく姿勢。サザンのあの不思議な日本語の響きの奥には、確かにビートルズがいたのです。しかも桑田さんは2015年の武道館公演で、「武道館は、私が小五のとき、ビートルズが来日してライブをやった場所です」と語り、敬意を込めてビートルズの「HELP!」を歌い上げたといいます。私が生まれる前に来た四人を、桑田さんは十歳の少年として見上げていたのですね。 そして──ここからが、私自身のいちばん個人的な話になります。 数えきれない歌い手の中で、私が心の底から惚れ込んだのは、浜田省吾さんでした。出会いは、大学に入って間もない頃です。知り合ったばかりの友達の車に乗せてもらったとき、カーステレオから流れてきた一曲に、私は思わず「なんだこれ、めちゃくちゃいい!!」と身を乗り出していました。「これ、誰?」と尋ねて教えてもらったその曲は──たしか「路地裏の少年」だったと思います(笑)。浜田さんの、ソロデビュー曲でした。 あとになって、この出会い方そのものに、私はちょっと震えました。というのも、浜田さんもまた、少年の頃に友人の部屋でラジオから流れてきたビートルズに「一瞬で恋に落ちた」人だったからです。スピーカーから不意に飛び込んできた音に、頭を殴られたように夢中になる──その同じ瞬間を、私は二十年近くもあとに、友達の車の助手席で味わっていたわけです。「なんだこれ!?」という、あの胸の高鳴り。ジュリーから、桑田さんを経て、それは確かに私のところまで受け継がれていたのかもしれません。 その浜田さんもまた、武道館を「聖なる場所」と呼びます。理由を問われて、「心に残っている武道館のイメージは、ビートルズの初来日。1966年、俺は中学二年生で、十四歳だった」と語っているのです。そして彼がいちばん好きなアルバムに挙げるのは、よりによって、あの四人が来日直前に録り終えたばかりの『Revolver』だといいます。 結局のところ、私はビートルズをリアルタイムでは知りません。けれど今日、書きながら、はっきりと気づきました。私はずっと、彼らの“こだま”を聴いて育っていたのだと。テレビの中のジュリーを通して、子どもの私を驚かせたサザンを通して、そして何より、大人になった私が自分で見つけて惚れ込んだ浜田省吾さんを通して。生まれる前に鳴ったはずのあの音は、長い回り道をしながら、確かに私のところまで届いていたのです。 みなさんにとって、「自分が生まれる前のはずなのに、なぜか懐かしい曲」はありますか。 私がこの記事で何度も書いた、あの武道館の五回のステージ。その三十日と七月一日の演奏は、実は録音が残り、いまも『ライブ・アット・ブドウカン 1966』として聴くことができます。悲鳴に半ばかき消されながら、それでも確かに鳴っていた“最初の音”。記事を読んで「あの夜の音を、実際に聴いてみたい」と思った方に。 ライブ・アット・ブドウカン 1966(ザ・ビートルズ)1966年6月30日・7月1日、まさにこの記事の武道館公演を収めた実況録音盤 Amazonで見る › 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和四十〜六十四年(1965〜1989年)のできごとを、当時子どもだった私の目線で振り返る連載です。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【6月28日】世界が石油に揺れた日、十歳の私はドラえもんに夢中だった | 次の記事:【6月30日】布団の中の、小さな実況中継 ▶

June 29, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月28日──世界が石油に揺れた日、十歳の私はドラえもんに夢中だった

今日は6月28日。梅雨の晴れ間に、夏の重たい空気が少しずつ混じりはじめる頃です。 カレンダーの上では何でもない一日に見えますが、この6月28日という日付は、戦後の日本が「世界の中の自分」をどう見つめてきたかを、不思議なほど映し出しています。 1979年(昭和54年)のこの日、東京で初めての先進国首脳会議――「東京サミット」が開かれました。そしてそのちょうど十年前、1969年(昭和44年)の同じ6月28日。私が生まれた年の新宿で、夜ごと若者たちが歌い、ついに機動隊と衝突した日でもありました。 赤坂に世界の宰相が集った日。新宿に名もなき若者が集った日。同じ日付の十年違いに、昭和という時代の二つの顔が見えてきます。 赤坂に集った、七人の宰相 1979年6月28日から二日間、東京・赤坂の迎賓館に、世界の主要国の首脳が集まりました。第五回先進国首脳会議、通称「東京サミット」。サミットが日本で開かれるのは、これが初めてでした。 そもそもサミットとは、先進国の首脳が一堂に会し、世界経済や国際政治の難題を膝詰めで話し合う場です。第一回は1975年、フランスのランブイエに集まったのが始まりでした。敗戦からわずか三十数年、その「先進国クラブ」の主催国に日本がなったということは、この国が名実ともに世界経済の一角を担う大国へと駆け上がった証でもありました。焼け野原から立ち上がった国が、世界の宰相をもてなす側に回る――東京サミットは、戦後日本の一つの到達点だったのです。 議長を務めたのは、日本の大平正芳首相。「アーウー宰相」とも呼ばれた、あの独特の語り口の人です。そのテーブルには、アメリカのカーター大統領、フランスのジスカール・デスタン大統領、西ドイツのシュミット首相、イタリアのアンドレオッティ首相、カナダのクラーク首相、そしてイギリスのサッチャー首相が顔をそろえました。 議題の中心は、石油でした。前年に起きたイラン革命の余波で原油の供給が激減し、世界は「第二次石油危機」のただ中にあったのです。各国は日本に石油輸入の数値目標を示すよう迫り、大平首相は「数値を出せば内閣がつぶれる」との危機感から抵抗を重ねたと、後の外交文書には残っています。最後には押し切られる形で、日本は目標値を受け入れました。 二度目の石油危機は、六年前の第一次石油危機ほどの大混乱こそ招きませんでしたが、それでも「省エネルギー」という言葉が日常に浸透し、節電や節約が盛んに呼びかけられた時代でした。 会議の前には、物騒な事件もありました。開催前の6月8日未明、迎賓館の正門めがけて無人の小型トラックが突っ込み、街路樹に衝突して炎上したのです。過激派による犯行声明が出され、東京は厳戒態勢に包まれました。 そんな大ニュースの渦中、小学四年生の私は何を見ていたのか――。 正直に申し上げます。このサミットのことを、私は今もってまるで覚えていないのです。少し前に流行った国会答弁の言葉を借りるなら、「記憶にございません」。世界の宰相が赤坂に集まろうと、大平首相が石油に頭を悩ませていようと、十歳の私の関心は、まったく別のところにありました。 「記憶にございません」──十歳の私の1979年 では、小学四年生だった私の1979年は、いったい何でできていたのか。サミットの記憶は空っぽなのに、こちらは驚くほど鮮明によみがえってきます。 まず、この年に『ドラえもん』のテレビアニメが始まりました。「どこでもドア」さえあれば、行きたい場所へひとっ跳び。「もしもボックス」があれば、どんな世界だって作り出せる。あの未来の道具たちに、私はどれほど憧れたことでしょう。 木曜の夜は、家族そろって『ザ・ベストテン』の前に陣取るのが我が家の決まりでした。1979年は本当に名曲ぞろいで、「魅せられて」「関白宣言」「ガンダーラ」「銀河鉄道999」「YOUNG MAN」「夢追い酒」……毎週のランキング発表に、家族で一喜一憂したものです。土曜の夜には『8時だョ!全員集合』、ほかにも『クイズダービー』や『欽ちゃんのどこまでやるの!』。茶の間は、いつも笑い声で満ちていました。 マンガといえば、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』『ドカベン』『がきデカ』、そしてこの年に連載が始まった『キン肉マン』。少し前から続くインベーダーゲームの熱もまだ冷めず、ポケットにはスーパーカー消しゴム、店先にはガチャガチャ、友達はラジコンやBB弾の鉄砲に夢中でした。 サミットも石油危機も、まるで別世界の話。十歳の私の世界は、テレビとマンガと駄菓子屋とで、ぴかぴかに輝いていたのです。 サッチャーから高市へ──四十七年越しの縦糸 ふたたび、赤坂のテーブルに目を戻します。あの東京サミットのテーブルにいたサッチャー首相は、実はこのとき、首相になってまだ二か月足らずでした。1979年5月に就任したばかりの、イギリス史上初の女性首相。その初めての大きな国際舞台が、この東京だったのです。女性が一国の宰相を務めること自体がまだ世界的にも珍しかった時代、男性ばかりが居並ぶ首脳の中で、サッチャーの姿はひときわ目を引いたことでしょう。 それから四十七年。2026年6月、フランス東部の保養地エビアンで開かれたG7サミットに、日本の高市早苗首相が出席しました。2025年10月に就任した、日本で初めての女性総理大臣。彼女にとっても、これが初めてのG7でした。 不思議な縁を感じたのは、高市首相がサミットに先立って訪れた英国で、サッチャー元首相がかつて使っていた執務室を訪ねていたことです。報道によれば、高市首相はその仕事ぶりに思いを馳せ、自らも強い意志をもって必要な変革を成し遂げる、と語ったといいます。 1979年の東京で世界デビューを飾った女性宰相サッチャー。2026年のエビアンで、その背中に思いを重ねた日本初の女性宰相。同じ六月のサミットという舞台で、四十七年の時を越えて二人の女性指導者が結ばれている――そう思うと、少し胸が熱くなります。 そして、もう一つ繰り返されていたものがあります。石油です。1979年がイラン革命による石油危機なら、2026年はホルムズ海峡をめぐる中東情勢の緊迫。エネルギーの安定供給が、またもサミットの主要議題になりました。資源を持たないこの国は、半世紀近くたっても、同じ不安の前に立たされ続けているのです。 十年前の同じ日──昭和44年、私が生まれた年の新宿 ここで時計を、東京サミットのちょうど十年前に戻します。 1969年(昭和44年)。私が四月に、この世に生まれた年です。 当時の日本は、高度経済成長のただ中にありながら、足元では学生運動が燃え盛っていました。この年の1月には、東大の安田講堂に立てこもった学生たちが機動隊によって排除され(東大安田講堂事件)、全国の大学が紛争に揺れ、翌1970年の日米安保条約改定を見すえて、街には不穏な熱気が満ちていました。 その熱気が歌になって噴き出した場所が、新宿駅の西口でした。 1969年の春ごろから、毎週土曜の夕方になると、西口の地下広場に若者たちが集まり、ギターを手に反戦歌を歌うようになります。「ベトナムに平和を!」を掲げるベ平連の青年たちが中心でした。岡林信康の「友よ」、高田渡の「自衛隊に入ろう」をもじった「機動隊に入ろう」――歌は人を呼び、議論を呼び、最大で約七千人が地下広場を埋めたといいます。人々はそこを「反戦広場」と呼びました。 彼らが訴えたのは、ベトナム戦争への反対でした。アメリカの戦争に、日本も加担しているのではないか――そんな問いが、若者たちの口から歌になって響いたのです。決まった指導者がいるわけでも、整然とした組織があるわけでもありません。仕事帰りの勤め人や通りすがりの学生までが足を止め、見知らぬ者同士が肩を並べて声を合わせる。地下広場は、誰もが主役になれる不思議な熱気に包まれていました。 しかし、膨れあがった集会を当局は見過ごしませんでした。そして6月28日の夜、ついに機動隊と若者が衝突します。地下に催涙弾が撃ち込まれ、六十名以上が逮捕され、通りがかりの女性まで巻き添えで負傷する騒ぎとなりました。 翌日、警察は地下広場に道路交通法を適用し、案内表示はひと晩のうちに「西口広場」から「西口通路」へと書き換えられました。「広場」であれば人は立ち止まり、歌い、語り合える。けれど「通路」では、立ち止まることすら許されない。名前を変えるだけで、空間の意味が一変したのです。歌声は、七月を最後に姿を消しました。 このとき、私は生後二か月あまりの赤ん坊でした。当然、何ひとつ覚えてなどいません。けれど、私が産声をあげたその年、私の生まれた東京の街で、これほどの熱と衝突があったのだと思うと、妙に感慨深いものがあります。 思えば昭和44年という年は、高度経済成長の繁栄と、それに異を唱える若者たちの叫びとが、激しくぶつかり合った年でした。豊かさへ向かって突き進む大人たちと、その足元で「本当にこのままでいいのか」と問いを突きつける若者たち。私は、そんな時代の只中に生まれ落ちたことになります。 おわりに 世界を変えようと新宿の路上で歌った若者たちの熱は、わずか十年のうちに鎮められ、「広場」は「通路」へと姿を変えました。その同じ十年で、日本は世界の首脳を迎える経済大国へと駆け上がります。私はちょうどその十年を、赤ん坊から十歳の少年へと育ちながら生きていたわけですが、当の本人ときたら、『ドラえもん』と『ザ・ベストテン』に夢中の毎日でした。 東京サミットの議長を務めた大平正芳首相は、その約一年後、1980年(昭和55年)6月12日、首相在任のまま急逝します。日本で初めてのサミットをやり遂げた人が、一年も経たぬうちにこの世を去ったのです。 1969年、私が生まれた年の新宿では、若者が「世界を変えたい」と歌い、1979年、十歳の私の頭の中は「どこでもドア」でいっぱいで、その傍らで世界の宰相たちが石油に頭を悩ませていました。そして2026年、日本初の女性首相が、フランスでまた同じ石油の心配をしている。 6月28日という一日を手がかりにたどってみると、世界の中の日本の姿が、半世紀分つながって見えてきます。あなたが生まれた年、あなたの街では、どんなことが起きていたでしょうか。少し調べてみると、思いがけない時代の顔に出会えるかもしれません。 あの夏、新宿の地下広場で本当は何が起きていたのか。当時その場に立っていた一人の女性が、半世紀の時を経て、写真と言葉で「広場」の記憶をたどった一冊があります。歴史の教科書には数行で終わってしまう出来事の、その熱と息づかいにふれてみたい方に。 1969 新宿西口地下広場大木晴子・鈴木一誌/新宿書房。あの「反戦広場」に立っていた当事者が綴る、写真と記憶の記録 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

June 28, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月27日──「○○さんちの工事、止まったんだってよ」──昭和の町と「日照権」

今日は6月27日。梅雨の晴れ間に、久しぶりのお日さまが差すと、なんだかほっとする季節です。 「日当たりのいい家」「南向きの部屋」。私たちは、あたりまえのようにそう口にします。ところが、その「日当たり」が、法律で守られるべき大切なものなのだと裁判所がはじめてはっきり認めたのは、じつは、それほど昔のことではありません。 昭和47年(1972年)6月27日。最高裁判所が、「日照(にっしょう)」と「通風(つうふう)」は法律で守られるに値する生活の利益だ、という判断をくだしました。これが、6月27日が「日照権の日」と呼ばれるようになったきっかけです。 法律の話、と聞くと身がまえてしまいますが、その底にあるのは、子どもの頃に空き地で遊んでいた私たちがいちばんよく知っている、ごく素朴な気持ちでした。きょうは、その「陽だまり」をめぐる昭和の話を、私の育った町の風景とともに、少し書いてみたいと思います。 「日なた」が、裁判になった ことのおこりは、東京・世田谷の、ある住宅街でした。 南隣の家が、二階部分を増築しました。ところが、その増築のせいで、北側にあったお宅には、日中の陽がほとんど差さなくなってしまったのです。風の通りも悪くなりました。しかも、その増築は建築基準法に違反したもので、東京都知事から「工事をやめなさい」「違反した部分を取りこわしなさい」という命令まで出ていたのに、それを無視して建ててしまったものでした。 陽の当たらなくなった家の人は、とうとう引っ越しを余儀なくされます。そうして、争いは裁判になりました。 最高裁判所は、こう述べました。日照や通風は、快適で健康な生活に欠かせない「生活上の利益」である、と。お日さまの光や、家を抜けていく風は、ただの気分の問題ではなく、人が健やかに暮らすために守られるべきものなのだ、とはっきり言いきったのです。 もちろん、「少しでも陰ったら、すぐにいけない」という話ではありません。世の中、おたがいさまで、ある程度は我慢しあって暮らしている。けれど、その「我慢の限度」を超えてしまったときには、相手に責任を問える――。そういう考え方が、このときに定まりました。 判決がくだったのは、昭和47年。私はまだ三歳で、もちろん、この裁判のことなど知るよしもありません。 それにしても、と思うのです。お日さまが当たるかどうかなど、それまでは、わざわざ裁判で争うようなことではなかったはずです。陽は、空から、ただで、みんなに降りそそぐもの。誰のものでもないからこそ、誰のものでもあった。その当たり前が、当たり前でいられなくなってきた。だからこそ、こんな裁判が必要になったのでしょう。なぜこの時代に、こんな争いがわざわざ起きたのか。それを考えると、あの頃の町の景色が、すうっとよみがえってくるのです。 空き地が、どんどん消えていった 私が生まれ育ったのは、葛飾区の高砂です。京成電車の線路際で、来る日も来る日も電車を眺めて育ちました。 昭和40年代から50年代にかけての日本は、とにかく「建てる」時代でした。高度経済成長のまっただなか。人が都市にどっと集まり、住む家が足りず、土地が足りず、建物は空に向かってぐんぐん伸びていきます。木造の平屋がならんでいた町に、鉄筋の団地やマンションが、にょきにょきと姿をあらわしていきました。 子どもにとって、それは「権利」だの「法律」だのという、難しい話ではありませんでした。もっと単純で、もっと切実な変化でした。 きのうまで草野球をしていた空き地に、ある日、ぐるりと囲いができる。気がつけば基礎が打たれ、足場が組まれ、シートがかけられ、見上げるほどの建物が建っていく。遊び場がひとつ、またひとつと消えていく。そして、当たり前のように広がっていた空が、少しずつ、少しずつ狭くなっていく――。 昭和50年代、私が小学生だった頃は、近所にもまだ、空き地が点々と残っていました。なかには、硬いボールを使って野球ができるほど広い場所も、何ヶ所かはあったのです。私たちにとっては、またとないグラウンドでした。 それが、一つ、また一つと消えていきました。ある場所は建売住宅に、ある場所はマンションに。気がつけば、きのうまでボールを追いかけていたその土地に、知らない誰かの新しい暮らしが建っている。そんなふうにして、私たちの野球場は、静かに数を減らしていったのです。 そして、そんな時代でしたから、大人たちの会話のなかにも、ときどき、こんな話がまじるようになりました。 「○○さんのところ、二階の増築工事が止まっちゃったんだってよ」 「なんか、誰かにさされたみたいだよ」 「○○さんの建て替え、ストップさせられたらしい」 子どもだった私には、その意味の半分もわかっていませんでした。けれど、いまになって思うのです。これはまさに、あの世田谷の裁判で争われたのと、そっくり同じ出来事だったのだ、と。二階の増築。工事の差し止め。判決の舞台になったのと同じことが、私のすぐ近所でも、現実に起きていたのです。 当時の町の工務店だって、「日照権」のことも、守らなければいけない決まりも、本当はちゃんとわかっていたはずです。それでも、お客さんからの頼みだし、これくらいならバレやしないだろう――。そんな空気も、どこかにあったのかもしれません(笑)。 ただ、それを頭から責める気には、なれないのです。あの判決をきっかけに、ようやく法律の整備が進みはじめた、ちょうどその過渡期。新しいルールが、まだ世の中のすみずみまでは行きわたっていなかった。あの時代だからこそ生まれた、すきま風のようなトラブルだったのだろうと思います。 そういえば、ああいう「工事が止まった」「さされた」という話、いまではめっきり、耳にしなくなりました。 みんなの夢は、「土地付きの一戸建て」だった 正直に言うと、子どもだった私には、団地やマンションへの特別なあこがれは、ありませんでした。 むしろ、あの頃の大人たちが胸に抱いていた夢は、もっとはっきりとした、別のかたちをしていたように思います。自分の土地を持ち、そこに一戸建ての我が家を構える――いわゆる「マイホーム」です。私の親も、まさにそうでした。家を「持つ」というのは、土地ごと自分のものにすることであり、それが一国一城のあるじになる、ということだったのです。分譲マンションを買う、という選択肢は、まだあまり一般的ではありませんでした。 そう考えると、少しだけ、切ない気持ちにもなります。私が硬球を追いかけていた、あの空き地に建っていった建売住宅は、見方を変えれば、どこかの家族の「マイホームの夢」が、ひとつかなった姿でもあったのですから。私の遊び場が消えていくことと、よその誰かの夢がかなうことは、じつは同じひとつのできごとの、表と裏だったのです。 そうやって、限られた土地に、それぞれの「我が家」が、肩を寄せ合うようにして建っていきました。みんなが自分の城を求めれば、当然、隣の家との間で「日当たり」はぶつかります。日照権をめぐる争いというのは、思えば、誰もがマイホームを夢見た、その熱気の裏側で生まれてきたものだったのかもしれません。 「お日さま」を分けあう、ものさし 世田谷の判決のあと、日本のあちこちで、同じような「日照権」をめぐる争いが起きるようになりました。あとから建った高い建物のせいで、もとからあった家に陽が差さなくなる。そういうトラブルが、都市のいたるところで噴き出していたのです。 そこで、国も動きます。昭和51年(1976年)には建築基準法が改正され、「日影規制(にちえいきせい)」というものが設けられました。建物が、周りの家にどれだけの時間、影を落としてよいか。それを地域ごとに線引きする決まりです。いわば、限りあるお日さまを、ご近所みんなで分けあうための「ものさし」でした。 思えば、「日照権」という言葉が新聞やテレビをにぎわせたあの頃は、ひたすら前へ前へと進んできた日本が、ふと立ち止まって「このままでいいんだろうか」と考えはじめた時代でもありました。工場の煙、川の汚れ――「公害」という言葉が世の中に広まったのも、ちょうど同じ頃のことです。豊かになるのは、うれしい。背の高いビルも、新しい団地も、まぶしい。けれど、その豊かさが、誰かの陽だまりや、子どもの遊び場や、きれいな空気を、知らないうちに奪ってはいないか。そんな問い直しが、日本のあちこちで芽を出しはじめていた時代だったのだと思います。 いまの住宅街を歩いてみると、家と家のあいだに、それなりの空が残されています。冬の昼間でも、路地のどこかには、ちゃんと陽だまりができている。それは、あの時代に「陽の当たる暮らし」を守ろうとした人たちの、争いと、工夫と、知恵の積み重ねの上にあるのだ――。そう思うと、足もとに落ちている何でもない日なたが、少しだけ、ありがたく見えてくるのです。 令和の空を見上げて 時は流れ、令和になりました。 街を見渡せば、昭和の頃には考えられなかったような高さの、タワーマンションが立ちならんでいます。日照をめぐる話は、いまも消えてはいません。新しいビルが一棟建つたびに、その足もとの町では、同じような相談やもめごとが、いまも静かに続いているようです。 私はいま、路線バスの運転席から、毎日この町の空を眺めています。長年、同じ道を走っていても、年々、沿道のビルの背が高くなり、フロントガラスの先に見える空が、また少し狭くなったな、と感じることがあります。 それでも、信号待ちでふと窓の外に目をやると、住宅街の小さな庭先で、洗濯物が陽を浴びてゆれている。その何気ない光景を見るたびに、ああ、この陽だまりは、ちゃんと守られてきたものなんだな、と思うのです。 昭和47年6月27日。あの日、最高裁が「お日さまの光は、守るに値する」と認めたこと。難しい法律の判決に見えて、その底にあったのは、空き地で日が暮れるまで遊んでいた私たちがいちばんよく知っている、あの感覚――「陽の当たる場所は、気持ちがいい」という、ただそれだけの、あたりまえの願いだったのかもしれません。 あなたの育った町にも、いつのまにか消えてしまった空き地や、知らないうちに狭くなっていった空は、ありませんでしたか。 同じ場所に立って、昭和の町と令和の町を重ねてみる――そんな一冊があります。写真家・善本喜一郎さんが、1984年に撮ったまさにその場所に、何十年もたって同じアングルで立ち、いまの東京を撮り直した写真集です。消えた空き地、高くなったビル、狭くなった空。ページをめくるたびに、この記事に書いたような「町の移り変わり」が、目の前にくっきりと立ちあらわれます。 東京タイムスリップ1984⇔2021善本喜一郎/河出書房新社。同じ場所・同じアングルで撮り比べた、昭和と令和の東京。シリーズ累計のヒット作 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ...

June 27, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月26日──「猪木なら勝ってくれる」と信じていた、七歳の夜

今日は六月二十六日。梅雨の晴れ間に、夏の気配がじわりと混じりはじめるころです。 昭和の家庭の夜といえば、茶の間のブラウン管テレビでした。チャンネル権は家族の誰かが握り、子どもはその後ろで寝転がって画面を見上げる。そんな数えきれない夜のなかに、日本中が、いや世界中が、固唾をのんで見つめた一戦がありました。 昭和五十一年(一九七六年)六月二十六日。東京・日本武道館で、「格闘技世界一決定戦」と銘打たれた一戦が行われました。プロレスラー・アントニオ猪木と、ボクシング世界ヘビー級チャンピオン・モハメド・アリ。畑のまったく違う格闘技の頂点に立つ二人が、同じリングの上で向かい合ったのです。 アリの「挑発」から始まった、世紀の一戦 ことの発端は、その前年にさかのぼります。 昭和五十年(一九七五年)、「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と謳われた世界の英雄モハメド・アリが、こう言い放ちました。「東洋人で、俺と闘う勇気のある者はいないか」。世界中のメディアに向けられた、いかにもアリらしいビッグマウスでした。 多くの人がリップサービスと聞き流すなかで、その言葉を本気で受け止めた男がいました。アントニオ猪木です。猪木は自らアメリカへ飛び、粘り強く交渉を重ね、ついにこの「夢の対決」を現実のものにしてしまいます。当時、猪木は三十三歳、アリは三十四歳。アリは紛れもない世界のスーパースターで、いっぽうの猪木は、まだアメリカではほとんど無名のレスラーでした。 試合に先立つ六月十八日、東京で行われた記者会見も語り草になっています。アリは猪木に「松葉杖」をプレゼントするという挑発的なパフォーマンスを見せ、会場をどよめかせました。猪木も通訳を介して冷静に切り返し、二人は上半身裸になってファイティングポーズで威嚇し合いました。世界の注目は、否が応にも高まっていきます。 この一戦は、新日本プロレスが企画した「格闘技世界一決定戦」シリーズの第二戦にあたります。同じ年の二月、猪木は柔道のミュンヘン五輪金メダリスト、ウィレム・ルスカと闘い、プロレスの強さを世に示したばかりでした。その勢いのまま、相手は現役のボクシング世界王者。世界三十四カ国に同時中継され、視聴者数は推定十五億人とも言われる、文字どおり前代未聞のスポーツイベントとなったのです。 茶の間も、世界も──中継がつないだお祭り騒ぎ この一戦がすごかったのは、リングの中だけではありません。世界中の人々が、まったく同じ瞬間を見ようとしていたことです。 当時、衛星生中継は今ほど身近ではありませんでした。そこでこの試合は、各地の映画館に有料で中継を流す「クローズドサーキット」という方式で、世界へ届けられました。その数、全米だけで百七十か所。カナダやイギリスなど、海を越えた劇場のスクリーンにも、猪木とアリの姿が映し出されたのです。一人二十ドルの入場料を払ってでも、人々はこの一戦をその目で見届けようとしました。 もちろん、日本中も大騒ぎでした。試合の三日前、六月二十三日の夜には、テレビで前夜祭の生中継まで組まれ、当時の人気タレントたちが顔をそろえて、期待をあおりにあおりました。リングを直接見られない茶の間の子どもにも、「なにか、とんでもないことが起きるらしい」という空気だけは、ひしひしと伝わっていたはずです。大人も子どもも、世界中が、たった一つのリングに視線を集めていた――それが、あの六月二十六日でした。 蹴りも寝技も封じられて──十五ラウンドの真実 子どもだった私が「なんで立って戦わないんだろう」と首をかしげた、あの寝転がる闘魂。じつはあの戦法には、切実な理由がありました。 アリ陣営は、当初この試合をショー的なエキシビションだと考えていたふしがありました。しかし、猪木の本気の公開練習を目の当たりにして警戒を強め、試合直前になってルールが大きく書き換えられます。パンチもキックも、そして寝技も――プロレスの得意技の多くが、封じられてしまったのです。 がんじがらめのルールのなかで、猪木が選んだのは、リングに寝転がったまま、アリの脚を執拗に蹴り続けるという戦法でした。のちに「アリキック」「スライディングキック」と呼ばれるあの蹴りです。立つアリと、寝た猪木。片方が立ち、片方が寝たままにらみ合うこの異様な攻防は、後年、総合格闘技の世界で「猪木アリ状態」と呼ばれる定番の形になりました。 立てば強烈なパンチが待っている。かといって寝たままでは攻めきれない。アリは「立て」「臆病者」と挑発しますが、猪木は乗りません。観客もセコンドもいらだち、会場には重い空気が流れます。それでも回が進むにつれ、猪木のローキックは確実にアリの左脚へ突き刺さっていきました。 勝負は十五ラウンドをフルに闘い抜き、三者三様の判定の末、引き分け。派手なKOシーンを期待していたマスコミは、この地味な展開に困惑し、翌日には「世紀の凡戦」「世紀の茶番」という酷評の言葉が紙面に躍りました。 しかし――蹴られ続けたアリの左脚は、赤く腫れ上がっていました。試合後、アリは左脚の血栓症で入院することになります。あの「蝶のように舞う」軽快なフットワークを、彼はこの一戦を境に失っていったとも言われています。茶番どころか、それは紛れもない真剣勝負でした。 「猪木なら勝ってくれる」と信じていた、七歳の私 ここからは、当時小学一年生だった、私自身の記憶です。 あの頃、世の中には「人類最強は誰だ?」という空気が、たしかにありました。試合の一週間前くらいになると、テレビのワイドショーやニュースは、毎日のようにこの話題で持ちきりです。「世界チャンピオンのアリ来日!」「猪木は本当に勝てるのか?」――あくまで私の主観ですが、そんな見出しばかりが、頭に残っています。 学校でも同じでした。休み時間になると、「猪木が勝つ!」「いや、アリは世界チャンピオンだから無理だ」と、子どもたちの予想がぶつかり合います。今でいうなら、ワールドカップの日本代表戦と、大谷翔平のワールドシリーズと、オリンピックの決勝。あれが全部いっぺんに来たくらいの注目度だったと言っても、大げさではありません。 今のように録画も配信もない時代です。見逃したら、それで終わり。だから誰もが、リアルタイムでテレビにかじりつきました。私も、そのうちの一人です。 テレビで見るアリは、外国からやってきた本物のヒーローでした。「アリって、世界一強い人なんだ」。子ども心にそう思いながら、それでも私は信じていました。日本には、猪木がいる。「猪木なら、勝ってくれる!」と。友達とも、「猪木がバックドロップするんだ!」「コブラツイストでギブアップさせるんだ!」なんて、得意技の話で盛り上がっていた気がします。 試合の日は、夕方からもうソワソワしていました。「早く始まらないかな」。家族みんなで、テレビの前に集まります。 ところが、試合が始まると――「あれ?」。 猪木が、寝転がっているのです。立たない。ひたすら、蹴るばかり。子どもにルールなど分かりません。「なんで立って戦わないんだろう?」。正直、途中から少し退屈にもなりました。それでも、「最後にはきっと、猪木が必殺技を出すはずだ」と、最後まで信じて画面を見つめていたのです。 けれど、十五ラウンド終了。引き分け。 テレビが終わっても、胸に残ったのは「結局、どっちが強かったんだろう」という、もやもやした気持ちだけでした。 それでも――翌日の学校は、朝から晩までこの話題で持ちきりです。「昨日、見た?」「猪木のキック、すごかったな!」「でも、アリも本当に強かったよな!」。あのモヤモヤすら、友達と分かち合えば、立派なお祭りの続きでした。 「凡戦」と笑われた一戦が、「伝説」になるまで おもしろいのは、この試合の評価が、時とともにまったく逆転していったことです。 当時は嘲笑された一戦が、年月を経るにつれて「実はあれは本物の真剣勝負だったのだ」と再評価されていきました。派手な技の応酬を勝手に想像していたマスコミが、想像と違う展開に取り上げ方を見失った――そんな見方もされるようになります。一ラウンド開始直後に猪木がスライディングキックを放った瞬間、「ああ、こういう闘い方があったか!」と武道館の観客がどよめいた、という証言も残っています。 この一戦で、猪木の名は一気に世界へ知れ渡りました。直後にはパキスタンやドイツへ遠征し、新日本プロレスはヨーロッパ各国でテレビ放送されるまでになります。「アリと闘った男」という肩書きが、猪木を別のステージへと押し上げたのです。 その代償も小さくはありませんでした。猪木はこの興行で十億円近いとも言われる多額の借金を背負い、その返済のために、人気のあった異種格闘技路線を走り続けることになります。皮肉にも、その苦肉の選択が、のちの数々の名勝負を生んでいきました。 そして、闘い合った二人のあいだには、不思議な友情が芽生えていきます。アリは、自身の伝記映画で使われた曲「アリ・ボンバイエ」を猪木に贈りました。この曲こそ、のちに猪木の入場テーマ「イノキ・ボンバイエ(炎のファイター)」となる、あの旋律です。リングの上で本気でぶつかり合った者同士にしかわからない何かが、国境を越えて通い合ったのでしょう。 あの「凡戦」と笑われた十五ラウンドは、いまでは映像できちんと見ることができます。先入観なしに見返すと、子どものころには分からなかった、猪木の執念とアリの戦慄が、はっきりと伝わってきます。 格闘技世界一 モハメッド・アリ vs アントニオ猪木 [DVD]昭和51年6月26日、日本武道館。あの15ラウンドを、いま自分の目で確かめてみる Amazonで見る › おわりに──「世界格闘技の日」になった、あの夜 異なる競技の頂点同士が真剣に闘う。今でこそ、総合格闘技(MMA)という言葉とともに、私たちはそれを当たり前のように受け止めています。「猪木アリ状態」という専門用語が今も使われていることが、あの一戦がどれほど時代を先取りしていたかを物語っています。 平成二十八年(二〇一六年)、あの試合からちょうど四十年を機に、六月二十六日は「世界格闘技の日」と制定されました。そしてその制定が報じられた矢先、まるで運命のように、モハメド・アリはこの世を去りました。同年六月三日、享年七十四。さらに令和四年(二〇二二年)には、アントニオ猪木も七十九歳でその生涯を閉じています。リングの上で向かい合った二人は、もう二人ともいません。 ...

June 26, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月24日──父と観た「空飛ぶ円盤」、家で描き続けた円盤の絵

六月二十四日は「UFOの日」。昭和二十二年(1947年)にアメリカで「空飛ぶ円盤」が目撃された日にちなみます。父に連れられて通った東映まんがまつり、映画館を出たあとしばらく描き続けたUFOの絵、そして昭和六十年にゲームセンターへやってきた「UFOキャッチャー」。空のかなたにあこがれた、昭和の子どもの記憶の話です。 今日は六月二十四日。梅雨の真っただ中で、どんよりとした雲が空をおおう日が続きます。窓の外を見上げても、見えるのは灰色の雲ばかり。けれど昭和の子どもにとって、その雲の向こうにはいつも、もう一つの世界が広がっていました。 六月二十四日は「UFOの日」、別名「空飛ぶ円盤記念日」です。なんとも昭和の子ども心をくすぐる、わくわくする記念日ではありませんか。今日はこの日にちなんで、私たちの世代が夢中になった「空飛ぶ円盤」と、それにまつわる思い出を振り返ってみたいと思います。 「空飛ぶ円盤」が生まれた日 そもそも、なぜ六月二十四日が「UFOの日」なのでしょうか。 話は昭和二十二年(1947年)にさかのぼります。この日、アメリカの実業家ケネス・アーノルドさんが自家用機を操縦して飛んでいたところ、ワシントン州のレーニア山付近の上空で、ものすごい速さで飛ぶ九つの奇妙な物体を目撃しました。物体は鎖のように一直線につながり、平たい形をしていて、ジェットエンジンのような音もしなかったといいます。 アーノルドさんが、その飛び方を「水面を切って跳ねる円盤のようだった」と語ったことから、「空飛ぶ円盤(フライング・ソーサー)」という言葉が生まれました。これが近代UFO史の幕開けとなった、有名な「アーノルド事件」です。以来、世界中で「円盤を見た」という証言が相次ぎ、日本でも「空飛ぶ円盤」という言葉が、新聞や雑誌をにぎわせるようになっていきました。世界はこの記念すべき日を「UFOの日」と名付けたのです。 つまり六月二十四日は、人類が「空の向こうに、私たち以外の何かがいるのかもしれない」と、本気で空想しはじめた日なのです。 父と通った、東映まんがまつり UFOと聞いて、私の胸にまっさきによみがえってくるのは、暗い映画館の中の記憶です。 保育園の年長から小学校の低学年にかけての頃、夏休みや冬休みになると、「東映まんが祭り」という、アニメや特撮の映画を何本かまとめて上映するプログラムが映画館にかかりました。一本の入場料で、人気のキャラクターが何本も観られる。子どもにとっては、まさに夢のような時間でした。 そのたびに、父が私を映画館へ連れて行ってくれたのです。 東映まんが祭りには、入場のときに必ずもらえる紙の帽子がありました。あれをかぶるのが、子ども心にうれしくてうれしくて。映画が終わって外に出ても脱がず、帰り道、家に着くまでずっとかぶっていたものです。 ただ、紙の帽子よりも、さらに強烈に記憶に残っているものがあります。それは——映画館の入口の、左右の壁に貼られたポスターでした。 片側は、たいていお目あての『東映まんが祭り』のポスター。ところが決まって、もう片方の壁には、普段その映画館で上映しているものなのでしょうか、なんとも悩ましいポーズでこちらを見つめる、裸のお姉さんが映ったポスターの数々が貼られていたのです。 「見たいけど、見ちゃいけないよね。でも、ちょっと見たい」 入場の列に並びながら、毎回そのポスターを横目に、胸をドキドキさせていたものでした(笑)。まんが祭りへのわくわくと、見てはいけないものへのこっそりした好奇心。あの入口の数分間は、幼い私にとって、ある意味で本編の映画に負けないくらい、忘れがたいひとときだったのかもしれません。 さて、その東映まんが祭りには「UFO」ものが、けっこうあったのです。 巨大なロボットが空飛ぶ円盤と一体になって、宇宙からの敵と戦う。スクリーンいっぱいに広がる宇宙と、銀色に光る円盤。子どもだった私は、もう夢中になって見入っていました。 そして、ここが自分でも不思議なのですが——映画を観たあと、家に帰ってからしばらくの間、私はずっとUFOの絵を描いていたのです。何枚も何枚も、飽きずに描いていた記憶があります。それだけ、あの映画館で観た「空飛ぶ円盤」が、幼い私の心に強く焼きついていたのでしょう。 「UFOロボ」が飛んでいた時代 ところで、なぜあの頃の映画やテレビには、あれほどUFOものが多かったのでしょうか。 実はこれには、はっきりとした理由があります。昭和五十年代の初め、日本中に空前の「空飛ぶ円盤(UFO)ブーム」が巻き起こっていたのです。 その象徴ともいえるのが、昭和五十年(1975年)に登場したテレビアニメ『UFOロボ グレンダイザー』でした。実はこの作品、もともとは別の企画が立ち消えになったところへ、「当時のUFOブームに乗ろう」という思惑から生まれたものだったといいます。だからこそ「UFOロボ」という名前がつき、敵もはじめて本格的に「宇宙人」が据えられました。その前身となった映画『宇宙円盤大戦争』が東映まんが祭りで公開されたのも、まさに昭和五十年の夏のことです。 私が父と映画館でUFOものに夢中になっていたのは、ちょうどこの時期と、ぴったり重なっています。あの頃、銀色の円盤は、日本中の子どものノートの上を飛び回っていたのです。 ブームを支えたのは、映画やアニメだけではありませんでした。テレビでは、日本テレビの「木曜スペシャル」で、矢追純一さんが手がけたUFO特番が大人気を博していました。あの独特の効果音とともに映し出される、ぼんやりとした円盤の写真と、世界中の不思議な事件の数々。半分は嘘かもしれないと薄々感じながらも、画面に釘づけになってしまう。あの引き込まれる感覚を、同世代の方ならきっと覚えているはずです。昭和五十二年(1977年)の暮れには、ピンク・レディーが「UFO」を歌い、両手を空へ広げるあの振り付けを、誰もが真似していました。 ゴールデン☆ベスト ピンク・レディー(「UFO」収録・全シングル集)あの「UFO」も「サウスポー」も。両手を空へ広げた、昭和の歌がここに Amazonで見る › 学校へ行けば、誰それがUFOを見たという噂が、まことしやかに飛び交いました。夏の夜、夕涼みをしながら空をよぎる光を見つけては、「あれ、UFOじゃないか」と本気で胸を高鳴らせたものです。今思えば他愛のないことばかりですが、空の向こうに何かがいると信じられた、あの感覚こそ、昭和の子どもにとっての何よりのごちそうだったのかもしれません。 空の向こうへのあこがれが、テレビからも映画からも歌からも、洪水のようにあふれ出していた時代。それが、私たちの子ども時代だったのです。 ゲームセンターに着陸した「UFO」 時は流れ、昭和六十年(1985年)。「UFO」の名を持つ、もう一つの忘れがたいものが登場します。 セガが発売した、クレーンゲームの「UFOキャッチャー」です。 それまでのクレーンゲームといえば、上からのぞき込んでお菓子をすくうような、小さな機械が主流でした。ところがこの新しい機械は、二本の爪のアームを操作して、ガラスケースの中に並んだ景品をつかみ取る。そのアームの動きが空飛ぶ円盤のように見えたことから、「UFOキャッチャー」と名づけられたといいます。やがてこの名前は、クレーンゲームそのものの代名詞になっていきました。 この昭和六十年、私はもう高校生になっていました。映画館でUFOの絵を描いていたあの小さな子どもが、いつのまにかゲームセンターに出入りする年頃になっていたわけです。 正直に打ち明けると、あれほど「UFO」に夢中だった私も、この「UFOキャッチャー」そのものには、これといって強い思い出があるわけではありません。同じ「UFO」の名を持ちながら、幼い頃に映画館で円盤に胸をときめかせていたあの熱とは、もう少し冷めた距離で眺めていたように思います。それでも、子ども時代から青春時代まで、形を変えて「UFO」という三文字が私のそばにあり続けたのだと思うと、なんだか不思議な縁を感じます。 ちなみに、この「UFOキャッチャー」が誕生から三十五年を迎えたのを記念して、後の世になって、六月二十四日の「UFOの日」が「UFOキャッチャーの日」にも定められました。空飛ぶ円盤の記念日が、ゲームセンターの記念日にもなった。これもまた、なんとも昭和生まれにはくすぐったい話です。 おわりに 令和のいま、「空の向こう」は、ずいぶん身近なものになりました。 スマートフォンを開けば、宇宙ステーションから見た地球の映像も、遠い惑星の写真も、いつでも手のひらの中で眺めることができます。民間のロケットが次々と打ち上げられ、UFOは「UAP(未確認航空現象)」などと呼ばれて、各国の政府が大真面目に調査する時代にもなりました。あの頃あれほど謎めいていた「空飛ぶ円盤」も、すっかり日常の話題の一つです。 それでも——です。 ...

June 24, 2026