新聞が届いて、まずテレビ欄

昭和52年(1977年)9月5日は、月曜日でした。

私は8歳。小学2年生です。夏休みが終わって、二学期が始まったばかり

当時、新聞は毎朝当たり前のように届いていました。今はもう取っていませんが、あの頃、朝刊が来て私が必ずチェックしていたのが、テレビ欄です。一面でも社会面でもなく、いちばん後ろのページ。

朝刊。私がまず開いたのは、いちばん後ろのページでした。(2009年撮影/Photo: CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

考えてみれば、あれは子どもにとっての一日の予定表でした。今日の夜は何があるのか。それを確かめてから、学校に行く。

その9月5日の月曜、テレビ欄には何が並んでいたのか。当時の番組編成をたどってみると、なかなかすごいことになっていました。


昭和52年9月5日・月曜のテレビ欄

夜七時台を並べると、こうなります。

  • 19:00 日本テレビ『元祖天才バカボン』
  • 19:00 フジテレビ『あしたへアタック!』(最終回)
  • 19:30 テレビ朝日『一休さん』

昭和52年9月5日、月曜の夜七時台。三十分のあいだに三本が並んでいました。

三十分の中に、バカボンのパパと、女子バレー部と、とんち小僧が同時に存在していた。今のテレビ欄では絶対に見られない光景です。

そしてこの日、フジテレビの『あしたへアタック!』は、最終回でした。


記憶にない半年間

正直に書きます。私は『あしたへアタック!』を、まったく憶えていません。

『あしたへアタック!』は、昭和52年4月4日から9月5日まで、フジテレビ系列で毎週月曜19時から放送されていたアニメです。全23話。制作は日本アニメーション。

河田町にあった頃のフジテレビ本社。この日の『あしたへアタック!』も、水曜の『ドカベン』も、ここから流れていました。(1991年撮影/Photo: CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

企画のきっかけは、フジテレビが独占放送していたバレーボールワールドカップが、この年に日本で初めて開催されることでした。原案は『サインはV』の原作者・神保史郎。『アタックNo.1』の演出や脚本を手がけた人たちも参加しています。オープニングを歌っていたのは、アニメソングの女王・堀江美都子さんです。

内容は「全日本の選手として世界に挑む」という話ではなく、高校バレーを舞台にした青春もの。しかも出だしがなかなか重い。橘高校の女子バレー部は、過酷なしごきで部員が亡くなる事故を起こし、事実上の廃部状態になっている。3年生の聖美々が、そこから部を立て直そうと奔走する——という始まり方です。

これだけの布陣で作られた半年間が、私の中には一秒も残っていない。

一方で、同じ月曜の夜に放送されていた『一休さん』は、リアルタイムで観ていた記憶がはっきりあります。『アタックNo.1』は再放送で観ました。『サインはV』は名前だけ知っている。そして昭和54年に始まった『燃えろアタック』——荒木由美子さん主演の、金曜7時半のあれ——は、毎週しっかり観ていました。

バレーものが嫌いだったわけではないのです。ただ、月曜の夜七時、私はおそらく日本テレビにチャンネルを合わせていた。


バカボンから、一休さんへ

『元祖天才バカボン』は、昭和50年10月6日から昭和52年9月26日まで、毎週月曜19時。全103回、204話。赤塚不二夫さんの『天才バカボン』の二度目のアニメ化で、「元祖」と名乗ったのは、一作目が原作から離れすぎたという反省があったからだそうです。ウナギイヌが初めて登場したのも、このシリーズでした。

そして19時30分からは、テレビ朝日の『一休さん』。

こちらは昭和50年10月に始まって、昭和57年6月まで続いた長寿番組です。当初は水曜でしたが、昭和51年4月から月曜19時30分に移ってきました。初期は日本船舶振興会の一社提供で、あの「火の用心のうた」のCMが間に流れていた。作曲は山本直純さんです。

おそらく私は、七時に日本テレビでバカボンを観て、七時半にテレビ朝日へチャンネルを回して一休さんを観ていた。そういう月曜の夜だったはずです。

つまり、私が『あしたへアタック!』を憶えていないのは、遠い番組だったからではありません。同じ時間に、別のものを選んでいたからです。テレビ欄というのは、番組表であると同時に、選ばなかったもののリストでもあったのだと、今になって気がつきました。


その二度目のアニメ化のもとになった原作は、いまも文庫で手に入ります。ウナギイヌもレレレのおじさんも、もとはこの中にいました。

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曜日を、番組で覚えていた

9月5日は月曜でしたから、あの有名どころは別の曜日に並んでいます。当時のテレビ欄を一週間ぶん広げると、こうなります。

  • 水曜19:00 フジテレビ『ドカベン』
  • 土曜18:30 フジテレビ『ヤッターマン』
  • 日曜19:30 フジテレビ『あらいぐまラスカル』

この三本は、全部欠かさず観ていました。

『ドカベン』は当然です。野球少年でしたから。ただ、なかなか場面が進んでいかないことにイライラしていた記憶があります。一球投げるのに何分かかるんだ、と。原作の連載に追いつかないよう引き延ばしていたのでしょうが、子どもにそんな事情はわかりません。

そして今でもはっきり憶えているのは、番組そのものより、番組と結びついた気持ちのほうです。

『ヤッターマン』は土曜の夕方六時半。観ながら「まだ明日は休みだー」と思っていました。

『あらいぐまラスカル』は日曜の七時半。観ながら「明日は学校だー」という気持ちになっていました(笑)。

水曜のドカベン、土曜のヤッターマン、日曜のラスカル。曜日は番組で覚えていました。

同じフジテレビの、同じような時間の、同じアニメなのに、片方は嬉しくて、片方は憂鬱だった。曜日を覚えるより先に、番組で曜日を覚えていたのだと思います。


日曜の夜の、あの気持ちのほうです。いま観たら、たぶん憂鬱ではなくなっているはずですが。

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同じ日、大人の世界では

ところで、この9月5日は、大人のニュースのほうでも大きな日でした。

9月3日に通算756号本塁打の世界記録を打ち立てた王貞治さんに、この日、第1回の国民栄誉賞が贈られています。国民栄誉賞という制度そのものが、王さんのために新しく作られたものでした。9月5日が「国民栄誉賞の日」とされているのは、これが理由です。

王貞治(1962年)。世界記録の15年前。(Photo: 『青春ホームラン王 実録小説王貞治』ベースボール・マガジン社/パブリックドメイン, via Wikimedia Commons)

756号は憶えています。野球少年だった私のまわりでも大変な話題でした。みんなで王さんの真似をしました。あの一本足です。そして私は、背番号1のパジャマを着ていました(笑)。

ただ、国民栄誉賞のほうは、たぶんよくわかっていなかったと思います。賞というものの意味も、それが新しく作られたということも。

とにかく王さんが世界一なんだ、ということだけが嬉しかった。8歳の理解なんて、そんなものです。


テレビ欄に載らなかったこと

そしてもうひとつ、この日には、テレビ欄には一行も載らなかった出来事がありました。

昭和52年9月5日午後9時10分、吉田竜夫さんが亡くなっています。肝臓がんでした。45歳。

タツノコプロの創設者で、初代社長です。『マッハGoGoGo』『科学忍者隊ガッチャマン』『昆虫物語 みなしごハッチ』『新造人間キャシャーン』『破裏拳ポリマー』、そして『タイムボカン』『ヤッターマン』。

タツノコプロの本社が入るビル(東京都武蔵野市)。(2024年撮影/Photo: CC0, via Wikimedia Commons)

私はこのことを、今回初めて知りました。正直、「えっ、そんなに若くして亡くなっていたのか」と驚きました。

『ヤッターマン』も『ガッチャマン』も『ハッチ』も、子どもの頃には、ただ夢中になって観ていたテレビアニメです。その向こう側に、これだけ多くの作品を生み出したタツノコプロという会社があり、その会社を作った人がいたことまでは、子どもの私には知る由もありませんでした。

しかも、吉田さんが亡くなったあとも『ヤッターマン』はいつもどおり放送されていた。そう考えると、なんとも不思議な感じがします。テレビの中ではドロンジョたちが相変わらず騒いで、失敗して、おしおきされている。その一方で、その世界を作った人は、もうこの世にはいなかったわけです。

もちろん、当時の私はそんなことを何も知らず、ただ「ヤッターマン、面白いな」と笑っていたはずです。

「世界の子供たちに夢を」——これが吉田竜夫さんの口癖で、そのまま会社の社是になっていたそうです。この言葉も、今回初めて知りました。

今になって振り返ると、私たちが子どもの頃に当たり前のように見ていたアニメは、当たり前にそこにあったわけではないんですね。誰かが「子どもたちに夢を見せたい」と思って作り、それが私たちのところまで届いていた。

そう考えると、あの頃テレビの前で夢中になっていた時間そのものが、吉田さんが残してくれたものの一つだったのかもしれません。


とりあえずテレビをつける

昭和52年9月5日、月曜日。

『あしたへアタック!』が終わり、『元祖天才バカボン』は残り三週間で終わろうとしていて、『一休さん』はまだ五年近く続く。王貞治は賞をもらい、吉田竜夫は45歳で亡くなった。

8歳の私にとっては、ただの月曜の夜だったはずです。朝刊のテレビ欄を見て、夕飯を食べて、バカボンと一休さんを観て、寝る。それだけの日。

今、うちの子どもたちは、主にネットで動画を観ています。まさに「見たい時に見たいものを見る」。

私の子どもの頃の、「起きたらとりあえずテレビをつける」とか「なんとなくテレビが流れている」とかいう感覚とは、まるで変わりました。

いいか、悪いかではなく、そういう時代なのだと思います。

ただ、朝刊のテレビ欄をめくって、今日の夜を確かめていた8歳の私は、あれはあれで、けっこう幸せだったような気がします。

みなさんは、月曜の夜七時に何を観ていましたか。バカボンでしょうか、一休さんでしょうか。それとも、日曜の夜になると憂鬱になる番組が、別にあったでしょうか。よろしければ、コメントで教えてください。


【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。

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