昭和53年(1978年)8月30日。水曜日でした。

夏休みは、あと2日。9歳、小学3年生の夏の終わりです。

その日の昼間、私が何をしていたかといえば、たぶんプールに行ったか、路地で野球をしていたか、セミを追いかけていたか。宿題のことも気にはなっていたはずですが、それ以上に「今日、何して遊ぶ?」で頭がいっぱいの毎日でした。

そして、その日の夜。私はテレビの前にいました。

後楽園球場で、ひとつの数字が動いた夜です。

800。

1974年ごろの後楽園。右下が後楽園球場、上の楕円が競輪場。(Photo: 国土交通省 国土地理院 空中写真, via Wikimedia Commons)


1回、大川浩から

相手は横浜大洋ホエールズでした。この年、大洋は川崎から横浜に本拠地を移し、チーム名も「横浜大洋ホエールズ」に変わったばかりでした。

1回。マウンドにいたのは大川浩投手。王貞治がその球を捉え、打球は後楽園のスタンドへ飛び込みました。通算800号ホームラン。

試合が始まってすぐの、あっけないような一発でした。もっとも、王貞治のホームランというのは、たいていそういうものだったのかもしれません。物語のクライマックスのように打つのではなく、ごく普通の顔をして、当たり前のように打つ。そういう打者でした。

このとき王は38歳。プロ20年目のシーズンです。

1962年ごろの王貞治。22歳、一本足打法にたどり着いた年でした。(Photo: 『青春ホームラン王 実録小説王貞治』ベースボール・マガジン社/パブリックドメイン, via Wikimedia Commons)


テレビの前にいた9歳

私は、その瞬間をリアルタイムで見ていました。

9歳の私が「800号」という数字の持つ本当のすごさを理解していたかというと、正直、そんなことはありません。それでも「王さんが800本打った」ということが、とてつもない記録なのだということは、子どもなりに分かっていたと思います。

当時の私にとって、王さんはテレビの中にいる特別な存在でした。巨人の4番で、ホームランを打つのが当たり前のような人。「王さんなら打つでしょ」という感覚も、どこかにはあったのかもしれません。

ただ、この800号だけは、それまでの「ホームランをたくさん打つ王さん」とは少し違って見えました。800本。子どもにも分かりやすい、大きくて、きれいな数字です。「すごいことをやったんだな」という印象が、いまも強く残っています。

新聞やニュースで後から知ったのではなく、テレビでその瞬間を見ていた。振り返ってみると、これはずいぶん貴重な記憶です。


「800」という数字が持っていた重さ

いま「800本」と聞いても、実感がわきにくいかもしれません。何しろその後、王自身が868本まで積み上げてしまったからです。800はあくまで通過点で、記録としては868のほうが有名になりました。

けれど、あの当時の800には、独特の手ざわりがありました。

前の年、昭和52年(1977年)9月3日に、王はハンク・アーロンの記録を抜く通算756号を放っています。世界新記録でした。その2日後の9月5日には、第1回の国民栄誉賞を受けています。この賞は、王を表彰するために新しく作られたようなものでした。

つまり、王貞治はすでに「世界一」だったのです。ゴールテープはもう切っていた。それなのに、そこから1年足らずで、さらに44本を積み増して800に届いた。

756号で世界記録を作ったあと、1年足らずで800号に届いた。

昭和の子どもにとって、王貞治は「記録を作る人」ではありませんでした。「記録が、あの人の後ろからついてくる人」でした。誰も走っていない道を、ひとりで先へ先へと進んでいく。800という切りのいい数字は、そのことをあらためて教えてくれる数字だったのだと思います。


その道を、本人の言葉でたどれる一冊があります。早実の投手だったころから、打者への転向、一本足打法、そして世界記録まで。当時テレビの前にいた側からすると、答え合わせのような本です。

もっと遠くへ(私の履歴書)
王貞治/日本経済新聞出版。早稲田実業のエースだった少年時代から、巨人V9、一本足打法、ハンク・アーロン超えまでを本人が語った自伝。星4.4
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中継が終わってからが、私の時間だった

当時のナイター中継は、9時前に終わってしまうこともありました。試合はまだ続いているのに、画面が切り替わってしまう。あれが子どもには耐えられませんでした。

だから、中継が終わると布団に入り、イヤホンを耳に突っ込んで、ラジオで続きを聴くのです。家族に聞こえないように、小さな音で。親に叱られた記憶は、不思議とありません。

布団の中で目を閉じて、アナウンサーの声だけを頼りに試合を追う。テレビで見た場面を思い出しながら、「今、どうなっているんだろう」「巨人は勝っているかな」と想像していました。私にとって後楽園球場は、映像であると同時に、あの「音」でもあったのです。

そして、あの年の巨人の打順は、いまでも口をついて出てきます。

1番・センター柴田勲。2番・セカンド土井正三。3番・レフト張本勲。4番・ファースト王貞治。5番・ライト柳田真宏。6番・サード高田繁。7番・ショート河埜。8番・キャッチャー吉田孝司。9番・ピッチャー堀内恒夫。

昭和53年夏の読売ジャイアンツ。布団の中で、イヤホン越しに何度も聴いた9人。

こうして並べてみると、本当にすごい面々です。柴田選手から始まって、張本選手、王選手と続く打線には、子ども心にも迫力がありました。私がいちばん好きだったのは、やはり王さん。それから、柴田選手の俊足と、堀内投手のピッチングにも憧れていました。

そして長嶋茂雄さんは、このときすでに監督でした。私は長嶋さんの現役時代を詳しく知りません。「昔の巨人の大スターで、今は監督をしている人」という印象でした。その一方で、王さんはまだグラウンドに立ち、4番を打っていた。

長嶋さんが巨人の歴史を象徴する人だとすれば、王さんは、その歴史をいまもグラウンドで続けている人。9歳の私の中で、ONはそういう二人でした。


翌日の路地は、全員が一本足になる

王貞治の一本足打法は、昭和の子どもにとって「真似するもの」でした。

家の前の、幅4メートルほどの路地。プラスチックのバットとビニールボール。細かいローカルルールで成り立っていた、あの野球です。あそこで右足を高く上げてみた子どもは、日本中に何百万人といたはずです。もちろん、上げたところで当たりません。ぐらぐらして、空振りして、笑われて終わりです。

それでも、やりました。特に、王さんが前の晩にホームランを打った翌日は、絶対にやりました。誰に言われるでもなく、その日の路地はみんな一本足になるのです。

だとすれば、800号の翌日、8月31日の路地の光景も、想像がつきます。夏休み最後の日、宿題を積み残した小学生たちが、全員そろって右足を上げていた。当たらなくても、いいのです。あの形をとった瞬間だけ、自分が王貞治になれたのですから。


そして、優勝はヤクルトのものになった

ここから先は、巨人ファンにはあまり楽しくない話です。

昭和53年の巨人は、長嶋監督の4年目。8月が終わった時点で首位に立っていました。2位ヤクルトとは1.5ゲーム差。8月下旬には一時4.5ゲーム差をつけ、優勝マジックの点灯目前まで迫っていたのです。

王が800号を打ったのは、まさにその、いちばん高いところにいた時期でした。

ところがそこから、チームは坂を転げ落ちるように失速します。3試合連続サヨナラ勝ちで勢いづくヤクルトとは対照的に、巨人は下位相手に取りこぼしを重ねた。10月4日、優勝を逃すことが決まりました。日本一になったのは、広岡達朗監督のヤクルト。球団創立以来、初めての優勝でした。

あの驚きは、いまも覚えています。万年弱小と言われていたヤクルトが、広岡監督のもとで優勝してしまった。子どもの世界の常識が、ひっくり返ったような出来事でした。

そして王さんは、この2年後、昭和55年(1980年)11月4日に現役を引退します。通算868本。

「まだ早い。もっと見ていたい」

それが、当時の正直な気持ちでした。800号を打ったあの夜からたった2年で、テレビの中の4番打者がいなくなってしまう。子どもだった私には、うまく飲み込めませんでした。

800号は、坂の頂上で打たれた一本だったのです。


800という数字を、いま数え直す

大人になって、この数字を別の角度から見るようになりました。

いま、私の子どもが野球をやっています。その姿を見ているからこそ、800号という数字が、当時以上にとんでもないものに感じられるのです。

子どもが一本ホームランを打つだけで、親は大騒ぎです。練習をして、試合に出て、何十打席、何百打席と積み重ねて、その中でようやく一本が出る。それを800本。

しかも王さんは、「ホームランを打てる選手」だったというだけではありません。毎年のように何十本も打ち続け、それを何年も何年も重ねて800本まで到達したのです。

王貞治の年度別本塁打。1959年から1980年までの合計が868本になります。

子どもの野球を見ていると、一試合、一打席、一球の重さが少しずつ分かってきます。そう考えると、王さんの800号は「800本ホームランを打った」という記録である以上に、野球人生の一打席一打席を積み上げた結果なのだと思えてくる。

当時の私は「王さん、800号!すごい!」でした。でも今は、

「これを800本まで積み上げたのか……」

という驚きのほうが、はるかに大きいのです。

子どもの野球を応援する立場になった今だからこそ、あの記録は「昔の大記録」ではなく、とてつもなく遠い場所にある数字として見えてきます。


「まだ早い」と思ったあの引退についても、本人が語っている一冊があります。目次にそのまま「早すぎた現役引退」という章があるのを見つけて、少し驚きました。当時9歳だった私と、たぶん同じことを思っていた人が、ほかにもたくさんいたのでしょう。

野球にときめいて 王貞治、半生を語る(中公文庫)
王貞治/中央公論新社。ガキ大将だった少年時代、一本足打法の誕生、長嶋茂雄の意外な素顔、そして「早すぎた現役引退」まで。星4.6
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おわりに

昭和53年8月30日。夏休みが終わろうとしていた水曜日の夜、後楽園球場で、38歳の男が右足を高く上げ、800本目のボールをスタンドに運びました。

その夜、9歳の私はテレビの前でそれを見届け、中継が終わると布団にもぐってイヤホンで続きを聴いていました。そしてその日の昼間は、プールと路地野球とセミ捕りで一日をつぶしていた。

日本中が沸いた大記録と、どうということのない夏休みの一日が、同じ時間の中にありました。あの頃は、それが全部ひとつながりだったのです。

今思えば、それこそが昭和の夏休みだったのだと思います。

あなたは、あの夏の終わりの夜を、覚えていますか。


【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。

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