8月14日は「国民皆泳の日」だそうです。

正直に言うと、私はこの記念日を知りませんでした。この連載のために日付を調べていて、初めて出会った名前です。「皆泳」——みんなで泳ぐ。ずいぶん堂々とした、そして少し古めかしい響きの言葉だと思いました。

国民全員が泳げるように。そんなことを国民的な目標として掲げていた時代があった。

ところが、その言葉を眺めているうちに気づいたのです。私自身、スイミングスクールになど一度も通わずに、小学1年生の夏には25メートルを泳いでいた。あの頃の私は、まさしく「皆泳」の中にいたのだと。


「国民皆泳の日」という記念日

この記念日を制定したのは日本水泳連盟です。1953年(昭和28年)、8月14日を「国民皆泳の日」と定めました。

「皆泳」という言葉づかいに、時代がよく出ています。健康増進という面もありますが、より切実だったのは水難事故を減らすという目的でした。四方を海に囲まれた国で、泳げない人が多すぎる。それは命に直結する問題だ——そういう認識です。

この記念日はその後いったん中断し、2014年(平成26年)に日本水泳連盟があらためて「水泳の日」として引き継ぎました。今は「泳いでつながる笑顔の輪」というスローガンが掲げられています。

昭和28年の「皆泳」と、平成26年の「笑顔の輪」。同じ日付に、まったく手触りの違う言葉が乗っている。この60年ほどの間に、日本人と水の関係が根本から変わったということなのだと思います。


泳げないと、死ぬ

その変化を引き起こした出来事のひとつが、1955年(昭和30年)に起きています。

瀬戸内海で、宇高連絡船の紫雲丸が沈没しました。死者168人。そのうち100人以上が、修学旅行の途中だった小中学生でした。

修学旅行です。船に乗って、これから何日か楽しいことがあるはずだった子どもたちが、朝の海で亡くなった。この事故が全国に与えた衝撃は、私の想像できる範囲を超えているのだと思います。

そこから出てきた答えが「泳ぎを教えよう」でした。学校にプールをつくり、体育の授業として水泳を教える。子どもを水難から守るには、まず泳げるようにするしかない——その気運が全国に広がっていきます。

背中を押したのが行政でした。1961年(昭和36年)にスポーツ振興法が成立し、国からの補助金が出るようになると、各地の学校に次々とプールが造られます。東京オリンピック以前の学校プール設置率はおよそ12パーセント。それが1975年(昭和50年)には50パーセントを超えました。10年あまりで、日本の学校の風景が変わったわけです。

数字で見る、学校プールの時代。

私が小学校に入学したのは1976年(昭和51年)の春でした。設置率がちょうど半分を越えた、その翌年ということになります。


校庭の端の、あと付けのプール

私の通った小学校にも、もちろんプールがありました。

校庭の端に据えられた、屋外のプール。低学年用の小さいほうが隣にある。(Photo: CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

校舎からは離れた、屋外です。今になって思い返すと、校庭の端に「あと付け」したのではないか、という感じの立地でした。もともとそこにあった建物ではなく、あとから場所を捻出して据えたような。全国で設置率が12パーセントから50パーセントへ駆け上がっていったあの時期のことを知ると、その「あと付け」感にも納得がいきます。校庭を削ってでもプールを造れ、という号令が、確かに全国に響いていたのでしょう。

6月の中旬になると、体育の授業はすべてプールに切り替わりました。実施の可否は、気温と水温を足した数字で決まります。定められた数値以上なら、雨でもプールでした。

そして当時の私たち子どもは、常にプールの授業を望んでいました。だから雨が本降りの中でプールに入った記憶があります。今から思えば、先生はやりたくなかったんじゃないかな(笑)。

手順もよく覚えています。まず教室で海水パンツに着替える。そのまま校庭に集合する。男性の先生が朝礼台の上に上がって、みんなで準備運動の「ラジオ体操」をする。もちろん朝礼台の上の先生も、海水パンツ一丁です。

そして校庭からプールサイドに向かう途中に、全員が一列に並んで順番にシャワーを通る。あの、冷たさに声が出る一瞬。

書きながら、笑ってしまいました。夏の校庭に、海水パンツ姿の小学生がずらりと並んで、朝礼台の上の先生に合わせて腕を回している。あの光景は、昭和の学校でしか成立しないものだったのかもしれません。


帽子に黒い線を三本

泳力には、明確な等級がありました。

技術が上がっていくにつれて進級していく仕組みで、級に応じてスイミングキャップに赤い線や黒い線を縫い付けていくのです。最上級は1級で、黒い線が三本。

級が上がるたびに、帽子の線が増えていった。

私はあの黒三本が欲しくて、一生懸命に練習しました。目標が帽子の上に見える形で示されているというのは、子どもにとって強烈な動機でした。誰が何本かは、プールに並べば一目でわかってしまう。

つまり「泳げる子」と「泳げない子」を分ける仕組みが、そこには明確にあったということです。

今の感覚からすれば、残酷な仕組みだと言われるかもしれません。でも当時の私にとっては、あれはただ純粋に「登っていける階段」でした。線が増えるたびに、自分が確かに前へ進んでいるとわかる。

私自身は、1年生の夏休みには25メートルを泳げるようになっていました。


夏休みも、毎日プールだった

なぜそんなに早く泳げるようになったのか。理由は単純で、とにかく毎日プールに入っていたからです。

夏休みに入っても、午前中にプール開放がありました。ふた学年ごとに時間が割り振られていて、参加の温度感としては「全員参加の授業」に近いものでした(笑)。判子カードもありました。当番の先生というより、該当クラスの先生が全員来ていたように記憶しています。先生は大変だったでしょうね。

友達と連れ立って歩いて行きました。そして学校のプールが開いていない日には、自分たちで区民プールに行っていたのです。

プールの水面。学校のプールと区民プール、私が泳いだのはこの二つだけだった。(Photo: CC0, via Wikimedia Commons)

当時、葛飾のあちらこちらに区民プールがありました。小学生は1時間10円です。10円で泳げるのですから、行かない理由がありません。

学校のプール開放と区民プール。この二つを合わせれば、私はほとんど毎日のようにプールに入っていたことになります。スイミングスクールに通う必要などまったくなく、いつのまにか泳げるようになっていた。そのことに、今になって深く納得します。

「国民皆泳」という大きな言葉は、標語として達成されたのではありませんでした。校庭の端にあと付けされたプールと、1時間10円の区民プールと、夏休みの午前中の判子カード。その積み重ねが、地味に、確実に、子どもたちを泳げるようにしていったのです。


「足を引っ張られるから」

ところで、8月14日はお盆の真ん中です。

「お盆に泳ぐと足を引っ張られる」という言い伝えは全国的に知られていますし、この記事を書き始めたとき、私はその話から入るつもりでいました。ところが自分の記憶を掘り返してみると、お盆だから泳ぐな、と言われた覚えがないのです。

代わりに思い出したのは、母の言葉でした。

中川へオタマジャクシを取りに行くようなとき、母はこう言いました。

「足を引っ張られるから、水に入るんじゃないよ」

お盆に限らず、でした。つまりあれはお盆の禁忌ではなく、川そのものへの禁止だったのです。

葛飾を流れる川。当時、ここで泳ごうとは思わなかった。(Photo: CC BY 2.5, via Wikimedia Commons)

もっとも、言われなくても川で泳ごうとは思いませんでした。当時の川は、汚かったですから(笑)。私にとって泳ぐ場所とは、あくまでプールでした。学校のプールと、区民プール。それだけです。

面白いものだと思います。プールでは級を上げるために毎日必死に泳ぎ、その一方で、家のすぐ近くを流れる川には決して入らなかった。管理された水では泳ぎを学び、自然の水は敬遠する。私の泳ぎは、最初から「プールの泳ぎ」でした。

そして、それは正しかったのかもしれません。水難による中学生以下の死者・行方不明者は、昭和54年(1979年)に年間1,044人を数えています。翌昭和55年に初めて1,000人を割り、そこから長い時間をかけて減り続けました。令和5年には27人です。

1,044人。私が小学4年生だった年の数字です。「泳げるようにしよう」という国の号令が大げさでもなんでもなかったことが、この数字を見るとよくわかります。


いま区民プールに行くと、あの頃と同じように水はけのいいメッシュの水泳帽が売られています。線を縫い付ける欄はもうありませんが、かぶってみると、あの冷たいシャワーの記憶まで戻ってきます。

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体が覚えてしまうということ

今、私は路線バスを運転しています。

毎日同じ道を走りながら、ときどき思うことがあります。運転というのは、泳ぎに少し似ているのかもしれない、と。

どちらも、できない人にはまったくできません。そして一度できるようになると、なぜ以前できなかったのかがわからなくなる。体が覚えてしまうからです。私は今でも水に入れば泳げますが、どうやって泳いでいるのかを説明することはできません。あの黒い線三本を目指して練習した日々が、体の側に沈み込んでしまっている。

違うのは、泳ぎは自分の命を守るための技術で、運転は他人の命を預かる技術だということです。

「国民皆泳」という言葉が目指したのは、一人ひとりが自分で自分を守れるようになることでした。私の仕事はその逆で、預かった何十人ぶんの安全を、私ひとりが背負っています。

だからこそ、体が覚えてしまうということの怖さも知っています。慣れは技術であると同時に、油断の入り口でもある。海水パンツで朝礼台に上がった先生が、あの日、雨の中で子どもたちを数えていたであろうことを思うと、なおさらそう感じます。

校庭の端のプール。朝礼台の上の海水パンツ。帽子に縫い付けた線。1時間10円の区民プール。

8月14日が「国民皆泳の日」だったと知ったのは、恥ずかしながら今年のことです。けれど私は、その言葉を知らないまま、確かにその中で育っていました。

皆さんは、いつ、どこで泳げるようになりましたか。学校のプールでしたか。それとも、近所の川や海だったでしょうか。


大人になってから泳ぎ直すなら、まずゴーグルです。私たちの子ども時代には裸眼が当たり前でしたが、いまの区民プールでゴーグルなしの人はまず見かけません。日本製で曇り止めのついたフィットネス向けのものが、千円台からあります。

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【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。


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