夏の甲子園には、年に一度だけ、不思議な瞬間があります。

試合の途中で、突然プレーが止まる。場内アナウンスが流れ、サイレンが鳴り、選手も審判も、スタンドの何万人もが、いっせいに帽子を取って頭を下げる。実況の声も消える。あの騒々しい球場から、音がなくなるのです。

8月15日、正午。

何万人もが集まった真夏の球場が、正午に一分だけ止まる。(Photo: CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

正直に言うと、私は毎日欠かさず大会中継を見ているような子どもではありませんでした。ですから、あの一分間に立ち会ったのも、たまたまです。8月15日の昼、たまたまテレビをつけていて、たまたま試合が映っていた。そういう出会い方でした。

たいてい、一人で見ていました。

そして、サイレンが鳴って画面の中の時間が止まったとき、小学生の私も、テレビの前で一緒に頭を下げたのです。

誰かに言われたわけではありません。何のために下げているのかも、たぶん分かっていませんでした。それでも、頭は下がった。


サイレンが鳴りはじめたのは、昭和38年から

甲子園のあの黙祷は、いつから始まったのか。

調べてみると、1963年(昭和38年)の第45回大会からでした。8月15日は終戦の日にあたるため、正午前にプレーを中断し、正午ちょうどに選手・審判員・観客の全員で一分間の黙祷を捧げる。サイレンも鳴らす。以来、大会日程がこの日にかかる年は、ずっと続けられてきました。

なぜ昭和38年からなのか。理由があります。同じ1963年、東京でも8月15日に政府主催の追悼式が行われるようになったからです。

全国戦没者追悼式そのものは、それ以前にもありました。第1回は1952年(昭和27年)5月2日、新宿御苑。日付も場所も、まだ定まっていません。それが1963年に日比谷公会堂で8月15日に開かれ、翌1964年(昭和39年)は靖国神社、そして1965年(昭和40年)から東京・九段の日本武道館へ。以来この式典は、一度も途切れることなく毎年8月15日に続いています。

日本武道館。昭和40年から、全国戦没者追悼式はここで行われている。(Photo: CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

正午の時報を合図に、武道館では参列者全員が起立して一分間の黙祷を捧げる。ちょうど同じ時刻、兵庫県西宮市の甲子園球場では、球児たちが帽子を脱いで頭を下げている。

つまり、この連載が扱う昭和40年から64年という時代は、「8月15日の正午に、日本中がいっせいに黙る」という習慣が固まり、あたりまえになっていった時期とぴたりと重なります。1969年(昭和44年)生まれの私にとって、それは物心ついたときにはすでに完成していた、動かしがたい夏の風景でした。

だから私は、何も教わらないまま、頭を下げることだけを覚えたのだと思います。

8月15日の正午が、かたちになるまで。


なぜ、よりによって野球なのか

「その日は日本中で黙祷するのだから、球場だけが特別なわけではないだろう」と思われるかもしれません。

ただ、甲子園と8月15日の縁は、実はかなり深いのです。

戦争が激しくなるなかで、夏の全国大会は1941年(昭和16年)を最後に中止されました。当時は中等学校野球。グラウンドに立っていたはずの若者たちは、次々と戦地へ送られていきました。

その大会が復活したのが、終戦からちょうど一年後——1946年(昭和21年)8月15日です。しかも会場は甲子園ではありませんでした。甲子園球場はGHQに接収されていたため、代わりに西宮球場で開かれています。

物資は何もない時代です。ボールは破れたら縫って使い、折れたバットにはテープを巻いて再利用する。ユニフォームは戦前のものを真似て選手が自分で縫った。全国から集まった代表校はそれぞれ米などの食料を持参して大会に臨み、勝ち進むと滞在が延びて食料が尽きる、と心配したという話まで残っています。

甲子園の正午の黙祷が昭和38年に始まったとき、関係者のなかには、この1946年の夏を身をもって知っている人が大勢いたはずです。あのサイレンは、単に国の行事に合わせただけのものではなかったのだろうと思います。


合宿の真ん中にあった、8月15日

さて、私自身の8月15日です。

高校に入ってからの三度の夏、この日は毎年、決まって野球部の合宿の最中でした。しかも合宿地は長野県です。世間がお盆で帰省したり墓参りをしたりしているその時期に、私たちは葛飾を離れ、信州でボールを追っていたわけです。

1985年(昭和60年)、1年生。この夏の私は足を骨折していて、合宿はほぼ見学でした。

1986年(昭和61年)、2年生。先輩が引退し、新チームの一員として迎えた夏です。

1987年(昭和62年)、3年生。7月の東東京大会で敗れてすでに引退した身で、OBとして合宿の手伝いに入っていました。

三年とも、8月15日の正午は合宿の中にありました。

ところが——黙祷をした記憶が、まったくないのです。

サイレンが鳴った覚えもなければ、監督が集合をかけた覚えもない。テレビの前の小学生だった私は頭を下げていたのに、実際にユニフォームを着てグラウンドに立っていた高校生の私には、その記憶がない。

頭を下げた日と、下げなかった日と、下げられない日。

不思議なものだと思います。甲子園では、まさにその同じ時刻に、球児たちが帽子を取って頭を下げていたはずなのです。あの中に入りたくてボールを追っていた私は、その一分間に加わることのないまま、長野の山あいのグラウンドで汗をかいていた。


近づくほど、遠くなった

もうひとつ、正直に書いておきたいことがあります。

甲子園は、私にとってずっと憧れの目標でした。テレビの向こうにある、いつかたどり着きたい場所。

ところが、2年生になって新チームが動きだし、「一年後には自分たちの番だ」となったとき——甲子園は、むしろ遠い存在に感じられるようになったのです。

近づいたはずなのに、遠くなった。

いま振り返ってみて思うのは、自分のいる場所に対する現実感がそうさせたのだろう、ということです。憧れているうちは、距離は測らなくていい。けれど自分が挑戦者の側に立った瞬間、その距離が実寸で見えてしまう。東東京の球場からあの銀傘までが、何段跳びなのかが分かってしまう。

夢が目標に変わると、そこには初めて「届くか、届かないか」という物差しが当てられます。物差しを当てた瞬間に、夢は少しだけ痩せる。

たぶん、これは野球に限った話ではないのだと思います。


正午に、走っている

いま、私は路線バスのハンドルを握っています。

この仕事をするようになって気づいたことがあります。8月15日の正午に、私はしばしば、動いているのです。

ダイヤは終戦の日だからといって止まりません。正午に交差点で信号待ちをしていることもあれば、乗客を乗せて次の停留所へ向かっている最中のこともある。目を閉じて頭を下げるわけには、当然いきません。ハンドルを握っている人間に、黙祷はできないのです。

工場のラインも、病院も、鉄道も、きっと同じでしょう。日本中がいっせいに黙るといっても、実際には誰かが動き続けている。動き続けている人がいるからこそ、ほかの誰かが安心して一分間、目を閉じていられる。

そう考えると、甲子園が試合を止めるというのは、なかなかすごいことです。何万人もが集まった真夏の球場で、興行を、勝負を、一分だけ完全に止めてしまう。あれを昭和38年から毎年きっちり続けているというのは、決して簡単なことではないはずです。


21番ゲートの前を、私は何度も通っていた

この記事を書くために調べていて、初めて知ったことがあります。

1981年(昭和56年)4月、当時の後楽園球場の脇に「鎮魂の碑」という碑が建立されていました。太平洋戦争などで戦死したプロ野球選手の名を刻んだ碑です。中心になって動いたのは、セントラル・リーグ会長だった鈴木龍二さん。戦前の職業野球の時代からこの世界にいて、選手たちを戦地へ送り出し、戦死の報せを受け取ってきた人でした。八十代半ばになってなお、戦死した選手をそのままにはしておけない、という思いが消えなかったといいます。

後楽園球場のナイター(1951年)。私にとっては、テレビの中の球場だった。(Photo: パブリックドメイン, via Wikimedia Commons)

碑には、沢村栄治をはじめとする選手たちの名前が刻まれています。そして1988年(昭和63年)3月、東京ドームの完成にともなって、碑は現在の場所へ移されました。いまも21番ゲートの前に静かに建っていて、毎年8月15日ごろになると、その前に季節の花が供えられます。

——私は、この碑の存在をまったく知りませんでした。

後楽園球場は、私にとって「なかなか行くことのできなかった場所」です。巨人ファンの子どもでしたから、行きたくてたまらない。けれど葛飾の子どもにとって、水道橋はそう気軽な場所ではありませんでした。テレビの中の球場、という感覚のほうがずっと強かった。

東京ドーム。この21番ゲートの前に、碑は建っている。(Photo: CC0, via Wikimedia Commons)

いまは違います。プロ野球観戦といえば東京ドームか神宮で、毎年足を運んでいます。子どもたちを連れて行くたびに、行けなかったころの自分の気持ちがよみがえってくる。あの頃の私が、いまの私を見たら、うらやましがるだろうなと思いながら、ゲートをくぐっています。

その、何度もくぐってきたゲートのすぐそばに、碑は建っていたわけです。私は毎年その前を通りながら、一度も気づかずにいた。


さて、最後に白状しておかなければなりません。

小学生の私はテレビの前で頭を下げました。高校生の私は合宿のグラウンドにいて、頭を下げませんでした。そしていま、57になった私は——あの一分間の意味を、正直なところ、まだ深く分かっているとは言えません。

戦争のことを本当に理解しているかと問われれば、違うと答えるほかない。分かったふりをして書くのは、この連載の趣旨にも反すると思います。

ただ、それでも、あのサイレンが鳴ると頭が下がる。理由を説明できないまま、体のほうが先に動く。

もしかすると、それでいいのかもしれません。意味を完全に理解した人だけが黙祷するのだとしたら、あの一分間はとうに消えていたはずです。分からないまま、それでも毎年きちんと止まる。頭を下げる。そうやって受け渡されてきたものが、昭和38年から六十年以上も途切れずに続いてきた。

今年の夏、東京ドームへ行くことがあったら、21番ゲートの前で少し足を止めてみようと思います。

みなさんは、8月15日の正午を、どこで迎えていましたか。甲子園のサイレンを覚えている方も、そうでない方もいらっしゃると思います。よかったら、聞かせてください。


この記事を書くきっかけになったのが、「鎮魂の碑」に名を刻まれた69人の選手を一人ずつたどったノンフィクションです。碑の話から始まり、沢村栄治をはじめ、球場から戦地へ送られていった選手たちの生涯を追っています。私はこの本の存在を通じて、初めて碑のことを知りました。

戦場に散った野球人たち
早坂隆/文藝春秋。東京ドーム21番ゲート前の「鎮魂の碑」に祀られた69名の選手たちを、一人ずつたどったノンフィクション。電子書籍版もあります
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沢村栄治については、戦時下の職業野球連盟が彼をどう扱ったのかを追った新書もあります。私たちが「伝説の大投手」として知っている名前の、その裏側の記録です。

兵隊になった沢村栄治 戦時下職業野球連盟の偽装工作(ちくま新書)
山際康之/筑摩書房。三度の応召を受けた沢村栄治と、選手を送り出す側だった連盟の動きを資料からたどった一冊
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【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。


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