「や(8)きゅう(9)」の日

8月9日は「野球の日」だそうです。「や(8)きゅう(9)」の語呂合わせと、ちょうど全国高校野球選手権大会の期間中で野球への関心がいちばん高まる季節だから、という理由でスポーツ用品メーカーの直営店が制定したものです。制定は平成6年ですから、昭和の子どもだった私にとっては、後から知った新しい呼び名にすぎません。

それでも、この語呂合わせを考えた人は、よく八月という月を分かっていたと思います。昭和の八月は、朝から晩まで野球が鳴っている月でした。昼はテレビで甲子園、夜はナイター。窓を開け放した家々から、同じ実況が重なって聞こえてくる。そういう夏でした。

そして私にとって、8月9日は本当に野球の日です。記念日とはまったく関係のないところで、二年続けて、同じ日付に、同じ一人の投手のことを記憶しています。

一年目は、鮮明に。二年目は、まったくの空白として。

同じ8月9日。彼が投げた日、私がいた場所。


1986年8月9日、甲子園のマウンド

最初の8月9日は、1986年(昭和61)です。私は高校2年生でした。

その日、甲子園のマウンドに立っていたのが、享栄高校(愛知)の左腕・近藤真一投手です。3年生。春の選抜では「剛腕」と騒がれながら初戦で新湊(富山)に0対1で敗れていて、雪辱を誓って夏の第68回大会に乗り込んできていました。

1回戦の相手は唐津西(佐賀)。結果は8対0、近藤投手が被安打1、15奪三振の完封です。

昼はテレビで甲子園、夜はナイター。昭和の八月は、朝から晩まで野球が鳴っていた。(Photo: CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

私は当時、自分も高校野球の真っただ中にいました。3年生が引退して新チームが動き出したばかりの夏で、毎日、練習に明け暮れていた時期です。汗と土のまま帰ってきて、飯を食って、テレビをつければ甲子園をやっている。同じ高校生が、同じ白球で戦っているのを見る。あの頃の八月は、そういう組み立てでした。

だから近藤投手の姿は、単なる甲子園のスターというより「同じ高校生なのに、ここまで違うのか」と驚かされる存在でした。細かな場面まで鮮明に覚えているわけではありません。それでも、三振を次々と奪っていく左腕の速球と、打者に向かって堂々と投げ込む姿は強く印象に残りました。テレビの前で見ながら、球の速さだけでなく、甲子園の大舞台でもまったく臆する様子がないことに圧倒された記憶があります。

2回戦では優勝候補の一角と言われていた東海大甲府を2対1で破り、3回戦で高知商に敗れました。相手の先発は、後にヤクルトへ進む岡林洋一投手。投手戦の末の惜敗でした。ただ、その時点ですでに「この投手はプロへ行くのだろう」と感じさせる、特別な存在でした。

そのころの私にとって、近藤投手は手の届かない別世界の選手でもありました。同じ高校野球をしていても、こちらは毎日の練習と目の前の試合に精いっぱいです。一方、甲子園のマウンドには、全国から注目され、プロへの道を切り開こうとしている同世代の投手が立っている。憧れよりも先に、その才能の差を思い知らされた——というのが、正直なところだったかもしれません。


それから一年、私の野球は終わった

1987年(昭和62)7月23日。神宮第二球場、東東京大会の四回戦。2対3。一点差で負けて、私の高校野球は終わりました。小学校の路地野球から中学、高校とずっと続けてきたものが、あの日、あの球場で終わったのです。

そのあとの日々は、正直に言えば、何もする気になれませんでした。先の進路も全く決まっていませんでしたから、まさに「抜け殻状態」です。

八月に入ればテレビでは甲子園が始まって、去年の自分と同じ場所に、今年は別の高校生たちが立っている。それを扇風機の前で眺めている。何をするでもなく、何を決めるでもなく、ただ日が過ぎていく。あの座り心地の悪さは、今でも思い出せます。

不思議なもので、負けた直後というのは、案外そこまで堪えないものです。効いてくるのはもっと後で、何でもない時間にふっと来る。今日は練習がない、明日も練習がない、来週も練習がない——十年近く体に染み込んでいた予定が、丸ごと消える。その空白の大きさに気づくまでに、少し時間がかかりました。

前の年の八月は、練習でくたくたになって帰ってきて、それでもテレビの甲子園を見ていました。この年の八月は、くたくたになる用事が何もない。同じ扇風機の前に座っているのに、体の芯の残り方がまるで違うのです。


1987年8月9日、ナゴヤ球場

その抜け殻の十七日目が、8月9日でした。

ナゴヤ球場、中日対巨人19回戦。中日の先発は、前年の同じ日に甲子園で唐津西を1安打に抑えたあの左腕、近藤真一投手です。前日に一軍へ初めて加わったばかりで、投手コーチから「行けるか」と言われ、驚きよりも先に「行きます」と答えたといいます。セ・リーグに予告先発のなかった当時、巨人の王貞治監督は試合前に「近藤はないんじゃないの」と語っていたそうです。

ナゴヤ球場(1977年の航空写真)。住宅にぐるりと囲まれた、あの球場だ。(Photo: 国土地理院 / Attribution, via Wikimedia Commons)

当時の巨人は2位の広島に7ゲーム差をつけて独走中。1番松本、篠塚、原、クロマティ、中畑という黄金打線でした。巨人ファンだった私からすれば、この年の打線は見ていて気持ちのいいものだったはずです。

その打線が、一本もヒットを打てませんでした。

中日は1回に3点を先制。近藤投手はこれを背に無安打投球を続け、6対0になった5回終了時、先輩から「狙ってみろ」と言われて「いっちょう狙うか」とその気になったといいます。9回、巨人の鴻野淳基が三塁にゴロを転がし、スタンドから悲鳴が上がりましたが、この年ロッテから移籍してきたばかりの落合博満が懸命にさばいて間一髪アウト。最後は篠塚利夫が近藤投手のカーブを見送ってゲームセットでした。

1987年8月9日、ナゴヤ球場。18歳11か月の左腕が残した数字。

9回を投げて無安打無失点、四球2、失策1、奪三振13。プロ初登板・初先発でのノーヒットノーランは日本のプロ野球史上初で、アメリカのメジャーリーグにも例がありませんでした。18歳11か月。試合後、彼は「大変なことをやってしまった」と言い、「記録よりも自分の投球ができたことがうれしい」と続けたそうです。

そして約四十年経った今も、二人目は現れていません。


その夏、私は自分の野球を終えました。同じ夏に、同い年に近い左腕がプロのマウンドで歴史をつくった。80年代のプロ野球というのは、そういう出来事が毎年どこかで起きていた時代でもあります。

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私には、この夜の記憶がない

ここまで書いておいて申し訳ないのですが、私はこの試合を見た記憶がありません。

テレビで見たのか、ラジオで聞いたのか、翌朝のスポーツ紙で知ったのか。何ひとつ思い出せないのです。前年の8月9日、甲子園の同じ投手のことはあれだけ覚えているのに。

でも、たぶん、そういうことなのだと思います。あの夏の私は抜け殻でした。野球が終わって、進路も決まっていなくて、テレビをつけても何も入ってこない。おそらくこの年でいちばん大きな野球のニュースが、私の中を素通りしていったのです。

記憶というのは、そのとき何が起きたかではなく、そのとき自分がどういう状態だったかで残り方が決まるのだと思います。1986年の私には、受け止める側の準備がありました。毎日ボールを握っていて、甲子園の投手が投げる一球一球が、自分の握っている球と地続きだった。だから残った。1987年の私には、その手がありませんでした。同じ投手が、同じ日付に、もっとすごいことをやってのけたのに、私の側に受け皿がなかったのです。

失った記憶を惜しむ気持ちは、正直あります。ただ、あの夏に何も残らなかったこと自体が、あの夏がどういう夏だったかを一番よく語っている気もするのです。


同じ日付の、別々の場所

1986年8月9日、彼は甲子園にいて、私は高校2年生としてテレビの前にいました。

1987年8月9日、彼はナゴヤ球場のマウンドにいて、私は——どこで何をしていたのかも覚えていません。

私はグラウンドを去り、近藤投手はプロのマウンドに立った。同じ一年という時間の中で、それぞれの野球はまったく違う場所へ進んでいました。だからこそ1987年8月9日の快挙は、ただの大記録としてではなく、自分の高校野球が終わった夏と重なって、今も心に残っています。前年の甲子園で見たあの左腕が、本当に別世界へ駆け上がっていった夜でした。

ちなみにこの試合は、結果として「昭和最後のノーヒットノーラン」になりました。この一年半後に昭和は終わります。あの夜、球場にいた人もテレビの前にいた人も、まさか自分が昭和最後の一本を見ているとは思っていません。誰も知らないまま、時代の最後のページがめくられていたわけです。

いまのナゴヤ球場。一軍の試合はもうここでは行われていない。(Photo: CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

今、8月9日にプロ野球のナイターがあっても、地上波で中継されることはほとんどありません。あの頃は、夜になればテレビをつければ野球がありました。それが当たり前すぎて、当たり前だと思っていなかった。近藤投手のノーヒットノーランがあれだけ多くの人の記憶に残っているのも、たまたま全国の茶の間にその中継が流れていたからです。私はそれを取りこぼしましたが、取りこぼせるだけの豊かさが、あの頃の八月にはありました。

みなさんは、1987年8月9日の中日対巨人を覚えていますか。あるいは、何かが終わった直後の、記憶がすっぽり抜け落ちている時期を過ごしたことはありますか。よかったら教えてください。


近藤投手のように、一球で球場の空気を変えてしまう投手が、どの球団にも一人はいました。あの時代の「エース」がどんな数字を残し、何を考えて投げていたのかをまとめた一冊もあります。名前を追っているだけで、あの頃のテレビの音が戻ってきます。

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【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。


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