八月の道は、いちばん道らしい
八月の道は、暑い。
当たり前のことを書いてどうするのかと自分でも思うのですが、この季節の道には、ほかの月にはない存在感があります。アスファルトから立ちのぼる熱、遠くの景色がわずかに揺れて見えるあの現象、白い横断歩道が目に痛いほど光る昼下がり。冬の道は静かに横たわっているだけですが、八月の道はこちらに向かって何かを主張してきます。

そして8月10日は「道の日」です。
私はこの記念日を、大人になってから、それも仕事に就いてから知りました。子どもの頃の私にとって、道はあまりに当たり前で、記念日をつけるようなものだとは思ってもみませんでした。
昭和61年、道に「日」ができた
「道の日」を制定したのは、建設省——現在の国土交通省——の道路局です。制定は1986年、昭和61年でした。
なぜ8月10日なのか。さかのぼると大正時代に行き着きます。1920年(大正9年)のこの日、日本で最初の近代的な道路整備計画である「第一次道路改良計画」が決定したのです。前年に旧道路法が制定され、明治期の道路路線をいったん廃止して国道を定め直した。その受け皿として、本格的な整備計画が動き出したのがこの日でした。今に続く日本の道づくりのスタート地点、と説明されることがあります。
制定の趣旨には、こんな言い方が使われています。道路は国民生活に欠くことのできない基本的な社会資本なのに、あまりに身近な存在であるために、その重要性が見過ごされがちである——だから改めて関心を持ってほしい、と。
見過ごされがちである。
この一文が、私にはやけに刺さります。子どもの頃の私は、まさに道を完全に見過ごしていました。見過ごしていたどころではありません。そこを自分の縄張りだと思って、毎日転がり回っていたのです。
ちなみに8月は、まるまる一か月が「道路ふれあい月間」でもあります。もとは7月10日から8月9日までの期間だったものが、昭和44年——私が生まれた年です——に、夏休みの啓発活動をやりやすくするという理由で8月1日から31日に変更されました。
制定と同じ年には「日本の道100選」の選定も始まっています。各都道府県が推薦した道路の中から、1986年度に53本、翌1987年に51本、合わせて104本。さらに昭和63年には、制定時に作られたハンミョウのキャンペーンキャラクターに「こっちだヨウ平」という愛称がつきました。ハンミョウは人の前を飛んで先を案内するように見えるので「道教え」とも呼ばれる虫だそうで、なるほど道案内役にはうってつけです。
昭和61年、私は高校2年生でした。「道の日」ができたというニュースの記憶は、まったくありません。あの夏の私が向き合っていたのは道路行政ではなく、野球部の練習だったはずです。
私の最初の運動場は、幅四メートルの道だった
私にとって最初の「道」は、家の前の路地でした。
幅は四メートルほど。車が一台通れば人はよけなければならない、あの寸法です。そこが私たちの野球場でした。いわゆる路地野球です。
ホームベースはいつも決まっていた場所に、ブロックの破片で道路に直接書いていました。それが薄くなるたびに、何度も何度もブロックの破片をガリガリと道路にこすりつけて書き直す。今考えると、道路に落書きをしていたわけですが、当時はそれが球場整備でした。

ほかの各ベースについても、「4メートル路地球場」のいつもの位置が決まっていました。「1塁は玄関の前のこの位置ね」「今日の2塁はこれね」と言い合って、ベースに見立てたちょうどいい大きさの、捨ててあったガラクタを拾ってきて置く。誰かが図面を引いたわけでもないのに、球場の設計は毎回きっちり再現されるのです。
バットはいわゆる「プラバット」、ボールは「カラーボール」でした。
ルールは、その道の形に合わせて育ちました。道の両サイドに建つ家の壁に当たって跳ね返ってきたボールを、地面につく前にキャッチしたらアウト。屋根の上に上がったボールも、地面に落ちる前にキャッチすればアウト。——プロ野球の中継を見ながら育った子どもたちが、自分たちの球場の壁と屋根を、そのままルールブックに書き足していったわけです。
そして、試合はしょっちゅう中断しました。気が付いた人が「車!」「自転車!」と叫ぶ。そこで全員が止まって、道の端に寄る。通り過ぎたら、また何ごともなかったように再開する。
いま思えば、あれは当たり前の話です。あそこは球場ではなく、道路だったのですから。
叱られた記憶も、いろいろあります。家の敷地内に打ち込んでしまったボールを、無断で入り込んで取りに行き、その家の人に見つかって叱られたことは何度もありました。打ったボールでガラスを割ってしまったときは母親に叱られましたし、車にボールを当てて叱られたこともあります。
つまり私は、道を借りて遊んでいたのに、その自覚がまるでなかったのです。舗装のわずかな傾き、マンホールの位置、どの家の塀が跳ね返りやすいか——そういうことは自分の家の間取り以上に正確に把握していたのに、その道が誰かのつくったものだという発想だけが、すっぽり抜け落ちていました。
いまの子どもは路地で野球をしません。それでも、公園や河川敷でプラバットを振る楽しさは変わりません。孫と外に出るときに一組あると、あの頃と同じ音がします。
同じ道を、いまも歩いている
私はいまも、子どもの頃に育った町で暮らしています。だから当時通っていた道を、今も普通に使っています。
これが、ときどき妙なことを起こします。
何気なく、道路の脇に立っている木を見て、「この木に子どもの頃上ったな」と思う。当時から変わっていないものを見た瞬間に、五十数年前の記憶に一瞬で飛ぶことがあるのです。
不思議なもので、思い出そうとして思い出すのではありません。歩いていて、目に入って、勝手に飛ぶ。道そのものは舗装も直され、建物も変わっているのに、たまたま残っていた一本の木が、当時の高さの感覚まで連れて戻ってくる。
道というのは、記憶の保管場所でもあるのだと思います。日記も写真も残していないのに、あの路地の傾きは体が覚えている。それは私が偉いのではなくて、道が変わらずにそこにあってくれたからです。
いま、私は道で働いている
それから五十年近くたって、私は路線バスの運転士をしています。
つまり、道が職場になりました。

仕事で毎日、決まった道を走っています。すると、「道」がいたるところで思いのほか傷んでいることに気が付きます。同じ場所を毎日通るからこそ、少しずつの変化が見える。ここの継ぎ目が広がってきたな、あの白線が薄くなってきたな、と。
そして、誰かがそれを見つけては補修をしてくれていることも知ります。ある日通ったら、傷んでいた場所がきれいになっている。誰がいつ直したのか、私は知りません。それでも、確実に誰かが見つけて、直してくれている。

普通に生活している中では、あまり気にしていなかったことでした。子どもの頃の私にいたっては、路地の舗装をやり直す工事があっても「うるさいな」くらいにしか思っていなかったはずです。
現在の私は、道を使わせていただいて仕事をさせていただいています。だから、道を守ってくださっている方々に、感謝の気持ちがわいてきます。
「道の日」の制定趣旨にあった、あまりに身近な存在であるために重要性が見過ごされがちであるという言葉に戻ります。あれは、たぶん整備する側から見た実感なのでしょう。直しても、誰も気づかない。気づかれないことが、いちばんうまくいっている状態でもある。
でも、毎日同じ道を走る仕事に就いて、私はようやく気づく側にまわりました。四十年遅れの、ずいぶん時間のかかった理解です。
ブロックの破片で書いたホームベースの上を
昭和61年8月10日に「道の日」ができたとき、17歳の私はそんな記念日の存在すら知りませんでした。あの頃の私にとって道とは、走るもの、渡るもの、そしてかつてプラバットを振った場所でした。
いまの私にとって道とは、お客さまを乗せて進む場所です。同じものを見ているはずなのに、意味がすっかり入れ替わってしまいました。
それでも、住宅街の狭い区間でハンドルを切っているとき、幅四メートルの感覚が体の奥から出てくることがあります。この幅は、私がいちばんよく知っている幅です。ブロックの破片でホームベースを書き直していた子どもの勘が、まだどこかに残っているような気がするのです。
あのホームベースは、とっくに消えています。舗装も何度か直されたでしょう。それでも、あの位置は今でも指させます。
みなさんにとって、子どもの頃の「道」はどんな場所でしたか。路地でしょうか、田んぼのあいだの農道でしょうか、それとも団地のあいだの通路でしょうか。よかったら教えてください。
路地野球のほかにも、メンコ、ベーゴマ、ゴム跳び、缶けり。あの頃、道と空き地でやっていたことを一冊にまとめた本があります。ページをめくっていると、名前を忘れていた遊びのほうから戻ってきます。
【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。
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