8月11日は「きのこの山の日」だそうです。
株式会社明治が制定した記念日で、由来がなかなか凝っています。チョコレートの部分を縦に2つ並べると「8」に見える。クラッカーの部分を横に2つ並べると「11」に見える。そこに国民の祝日「山の日」が重なる。だから8月11日、というわけです。
ただし正直に申し上げておくと、この記念日が登録されたのは2016年です。昭和の8月11日にきのこの山をめぐる出来事が何かあったわけではありません。明治自身、山の日の制定に「真っ向から便乗しました」という趣旨のことを言っていたと伝わっています。潔いというか、なんというか。
それでも私がこの日を選んだのは、記念日ではなく主役のほうに用があったからです。
きのこの山が世に出たのは1975年、昭和50年。私が6歳の年です。小学校に上がる前の年に、あのお菓子は生まれていました。そしてその後の十数年で、山ができ、里ができ、そして村がひとつ、地図から消えていきます。

アポロが売れなかったから、きのこが生まれた
きのこの山の始まりは、実はまったく別のお菓子の失敗でした。
1969年、明治の大阪工場でアポロの生産が始まります。あの円錐形の、上がピンクで下が茶色の小粒チョコです。ところが当初は売れ行きが振るわなかった。そこで大阪工場の担当者が考えたのが、「この円錐形の生産ラインを、何か別のものに使えないか」ということでした。思いついたのが、円錐のアポロを傘に見立てて、その底面にクッキーの軸を挿す。つまり、きのこの形にしてしまうというアイデアです。
1970年、この試作品が明治の研究所に持ち込まれます。当時のチョコレートといえば板チョコかチョコバーが当たり前で、ポッキーがようやく出始めたという時代です。そこにきのこの形をしたチョコが現れた。反応は賛否両論だったといいます。無理もない話です。
そこから5年かかりました。軸を食べやすくするためにクッキーからクラッカーに変える。焼き方を工夫する。形にかわいらしさを足す。チョコに軸を挿す工程そのものを何度も試す。何百という試作を重ねて、ようやく形になったそうです。

売れ残った生産ラインが動き始めたのは、奇しくも私が生まれた年でした。それが私の6歳の年に、あのお菓子を送り出したことになります。
「きのこの山」という、時代に逆らった名前
商品が固まった後、明治はもうひとつ大きな決断をしています。名前とパッケージです。
当時は暮らしの欧米化が進んでいて、お菓子の世界でもスタイリッシュな欧米風のネーミングとデザインが流行っていました。カタカナで、横文字で、都会的で。そのほうが売れると誰もが思っていた時代です。
ところが明治は逆に振りました。高度経済成長が一段落して安定成長に入ったこの時期、消費者はむしろ自然ののどかさを求めているのではないか、と読んだのです。そこで「郷愁や自然、人間のやさしさといったイメージを表現する親しみやすいネーミング」として選ばれたのが、「きのこの山」でした。パッケージも、当時は菓子に向かないとされていた緑をあえて基調にして、のどかな里山を描いています。
そして1975年、発売。結果は爆発的な大ヒットでした。新発売の菓子の販売記録を塗り替え、大阪工場はラインを増やしてフル稼働させても生産が追いつかない。営業からは納品を催促する電話が鳴りやまなかったそうです。
さて、ここで白状しておかなければなりません。
私が初めてきのこの山を食べたときの記憶が、まったくないのです。
発売の年に6歳ですから、最初の一箱はおそらく小学校に入ってからでしょう。しかし、それがどういう経緯で私の手元に届いたのかが、どうしても思い出せない。誰かにもらったのか、自分でねだったのか、気づいたら家にあったのか。何も出てこないのです。
大ヒット商品というのは、こういうものなのかもしれません。あまりにも当たり前にそこにあったから、「初めて」という区切りが残らない。出会った瞬間がないまま、いつのまにか私の世界の一部になっていた。
覚えているのは、その後のことです。母と買い物に行ったとき、スーパーマーケットの棚の前でおねだりして買ってもらう。あの緑の箱は、私にとってはっきりと特別なお菓子でした。日常的にいつでも食べられるものではなく、買ってもらえた日はうれしい、そういう位置づけのお菓子です。
食べ方も昔から変わっていません。一個をまるごと口に放り込んで、チョコとクラッカーを一緒に噛む。傘だけ先に舐めるとか、軸を残すとか、そういう分解をした覚えがない。あれは一緒に食べてこそのお菓子だと、体が最初から知っていた気がします。
そして今も、私はきのこの山が大好きです。
昭和54年、里ができた。でも「戦争」はまだなかった
きのこの山の発売から4年後の1979年、昭和54年。姉妹品の「たけのこの里」が登場します。
きのこの山が軸にクラッカーを使っているのに対して、たけのこの里はクッキー生地。型を整えながら焼く「型焼」という手法で、あの三角の形を作っています。同じ兄弟のようでいて、食感の設計思想がまるで違うわけです。

1979年、私は10歳。小学4年生です。
私は昔からきのこ派でした。理由ははっきりしていて、食感です。たけのこの里のあの「モサッ」とした感じよりも、きのこの山の「カリッ」としたクラッカーのほうが好きだった。それだけです。そしてこの好みは、今に至るまで一度も変わっていません。
ただ、ひとつ正直に書いておきたいことがあります。
私の家では、きのこかたけのこかで兄妹が言い合いになったことは、一度もありませんでした。
今でこそ「きのこたけのこ戦争」などと呼ばれて、令和になってもネットで定期的に燃え上がっていますが、昭和のわが家にそんな戦線はありませんでした。私はきのこが好き、それだけの話です。相手を論破する必要も、陣営に属する必要もなかった。
考えてみれば、あの2つがライバルとして大々的に売り出されたのは平成に入ってからのことです。明治が「きのこ・たけのこ総選挙」で両者の対立をアピールしたのは2001年。売上が落ち込んでいたブランドを立て直すための一手でした。それが当たって、今の「戦争」につながっていきます。
つまり、私たち昭和の子どもは戦争をしていたわけではなかった。ただ好きなほうを食べていただけです。あとから戦争の名前がついた、というのが正確なところなのだろうと思います。
いまは1つの袋に両方入ったものまで売られています。争わせておいて、最後は仲良く箱に詰める。商売というのは、たいしたものです。
そして、私が知らないうちに消えた村がある
ここからが、今日いちばん書きたかった話です。
きのこの山があり、たけのこの里がある。それなら次は何か。明治が出した答えが、1987年、昭和62年に発売された「すぎのこ村」でした。
細長いビスケットに、クラッシュアーモンドを混ぜたミルクチョコレートをまとわせて、杉の木に見立てたお菓子です。パッケージにはやはりのどかな村の風景が描かれ、背景の山には小さな杉がびっしり生えている。当時の商品紹介では「きのこの山」「たけのこの里」に続くチョコスナックの傑作誕生、とまで言われていたそうです。価格は150円。CMにも、きのこ・たけのこと一緒に登場しました。
発売当初はヒットしました。しかし、その後は出荷が伸びず、1988年、昭和63年に販売終了。実質わずか1年ほどの命でした。明治の担当者は後年、終売の理由をこう説明しています。一時はヒットしたが、きのこ・たけのこに比べて出荷が減少したため、と。

山は残り、里は残り、村だけが消えた。
──と、まるで見てきたように書いていますが、これも白状しなければなりません。
私は、すぎのこ村というお菓子を知りませんでした。
今回この記事を書くために調べていて、初めてその存在を知ったのです。1987年に発売され、1988年に消えた。この2年間、私は何をしていたか。1987年は高校3年生で、7月23日に神宮第二球場で高校野球が終わり、そこから先の進路も決めきれずにぼんやりしていた年です。翌1988年は浪人していました。大学に入ったのは、そのさらに翌年になります。
18歳と19歳。チョコスナックの新商品を追いかける年齢ではなくなっていた、ということなのでしょう。子どもの頃はあれほど棚の前で立ち止まっていたのに、いつのまにか、お菓子の棚は私の視界から外れていた。
お菓子は、消えるときに何のお別れもしてくれません。閉店の貼り紙も出なければ、最終日の行列もない。それどころか私の場合は、生まれたことにすら気づいていなかった。誕生も終売も、まるごと視界の外で起こっていたわけです。
ちなみにすぎのこ村はその後、1992年から「ラッキーミニアーモンド」と名前を変えて2008年まで売られ、2005年には一度だけ復刻もされています。名を変えて20年近く。それを生き延びたと呼ぶのか、消えたと呼ぶのかは、なんとも言えないところです。
後づけの記念日が、いちばん大事なものを指していた
最初に書いた通り、きのこの山の日は2016年にできた後づけの記念日です。それでも、結果的にいちばん大事なところを指していると思うのです。
昭和50年に明治が賭けたのは、味でも技術でもなく、「山」と「里」という言葉が持つ懐かしさでした。欧米風の名前が売れると誰もが思っていた時代に、あえて日本の里山を選んだ。そして半世紀後、その商品は国民の祝日「山の日」に便乗できるほどの存在になっていた。便乗できるということは、その名前が定着しているということです。緑の箱を選んだ判断が、50年かけて祝日と握手したわけです。
私は今、路線バスの運転士をしています。毎日同じ道を走っていると、沿線の店が変わっていくのがよく分かります。開いた店、閉じた店。気づいたら別の看板になっている場所。すぎのこ村の話を読んでいて、そういう景色のことを思い出しました。
残るものと、消えるもの。そして、消えたことにすら気づかれないもの。その差は、案外紙一重なのかもしれません。
みなさんは、きのこ派でしたか。たけのこ派でしたか。そして、すぎのこ村のことをご存じでしたか。私は今回、まったく知りませんでした。もし覚えていらっしゃる方がいたら、それはかなり貴重な記憶だと思います。
こう書いているうちに、当然のように食べたくなりました。うちでは箱で買っておくと、たいてい私がいちばん減らしています。あの緑の箱は、五十年たっても棚から手が伸びる箱です。
【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。
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