6月19日 ── ベトちゃん・ドクちゃんが東京へ運ばれてきた夏、私は十七歳だった

六月十九日。梅雨の重たい雲を見上げるたび、私はこの日のニュースを思い出します。昭和六十一年(一九八六年)のこの日、ベトナムから運ばれてきた二人の幼い兄弟が、東京の病院で手術を受けました。ベトちゃんと、ドクちゃん。下半身がつながったまま生まれた、結合双生児の兄弟です。 そのとき私は十七歳、高校二年生でした。ちょうど高校野球の東東京大会を目前にひかえ、グラウンドと教室を行き来する毎日のなかにいました。ベトちゃん・ドクちゃんのニュースは、テレビで何度も目にしていました。くわしいことは、正直よく分かりませんでした。それでも、ただ「がんばれ」と願っていた——そんな自分を、いまでもはっきりと憶えています。 白状すれば、当時の私にとって、ベトナムはそれほど馴染みのある国ではありませんでした。ただ、物心ついたころから、ベトナム戦争のニュース報道を、何度も何度もテレビで見て育ってきた。だから「ベトナム」という言葉に触れると、私のなかでは決まって「戦争」という言葉が結びつきました。詳しいことは分からないのに、心がふっと「不安」になる。ベトナムとは、当時の私にとって、そういう遠い国だったのです。 いま思うと、不思議なものです。来たる大会のことで頭がいっぱいだったはずの十七歳の私が、それでもテレビの前で足を止め、遠い国の二人の子どもに、手を合わせるように「がんばれ」とつぶやいていた。あの六月の感覚は、四十年がたったいまも、胸のどこかに残っています。 一つの体に、二つの命 ベトちゃんとドクちゃんは、昭和五十六年(一九八一年)二月二十五日、ベトナム中部高原のコントゥム省で生まれました。上半身が二つ、下半身が一つ。Y字のかたちにつながった、「一胴二体」と呼ばれる結合双生児でした。 二人がこうして生まれた背景には、ベトナム戦争があると報じられました。米軍が大量に散布した枯葉剤——その影響ではないか、と。枯葉剤は、一九六一年からのおよそ十年間で、ベトナムの森や畑に七千万リットル以上もまかれたといわれます。その多くに、人体に有害なダイオキシンが含まれていました。直接浴びた人や、その土地の水や作物を口にした人、生まれてくる子どもにまで影響が及んだとされ、二人の母親も、枯葉剤のまかれた地域の井戸水を飲んでいたと伝えられました。はっきりとした因果は、いまも科学的に証明されたわけではありません。けれど、戦争が終わってなお、人の体に爪痕を残しているのかもしれない。そのことは、当時の日本に重く響きました。私の胸の奥にあった「ベトナム=戦争=不安」という結びつきも、たぶんこのあたりから来ていたのだと思います。 兄はベト、弟はドク。越南(ベトナム)の「越」、東ドイツの「徳」。治療を受けたハノイの病院で、そう名づけられたといいます。下半身のつながった幼い兄弟の写真は日本中に紹介され、ベトナム戦争の傷あととして受け止められ、各地で支援の輪が広がっていきました。昭和六十年(一九八五年)には福井県敦賀市で「ベトちゃんとドクちゃんの発達を願う会」が結成され、募金で車椅子が贈られています。ちょうど私が高校一年生のころのことです。戦争を知らない世代だった私の頭にさえ、二人の名前と、あのつながった小さな体の写真は、いつのまにか焼きついていました。 東京へ運ばれてきた六月 昭和六十一年六月十一日。兄のベトちゃんが、急性脳症を発症しました。けいれんの発作を繰り返し、やがて意識を失っていきます。けれど、体のつながった弟のドクちゃんの意識は、はっきりしたままでした。一つの体の上で、二つの命がまったく違う時間を生きている。その事実の重さは、ニュースを見ていた多くの人の胸に、言葉にならないまま残ったはずです。 日本赤十字社の支援で、二人は特別機で日本へ緊急搬送されます。海を越えて運ばれてくる小さな二人の容態を、日本中が固唾をのんで見守りました。そして六月十九日、東京の病院で手術が行われました。一命はとりとめたものの、ベトちゃんには重い後遺症が残りました。治療のなかで大脳が傷つき、外の世界を感じる力の多くを失ってしまったのです。二人はその後、ベトナムへ帰っていきました。 そして二年後の昭和六十三年(一九八八年)十月四日。ホーチミン市のツーズー病院で、ついに二人を分ける手術が行われます。前例のない手術を前に、医療チームは何度も議論を重ね、マネキン人形を使って手順をたしかめたといいます。七十人を超える医療スタッフ、日本赤十字社の医師の立ち会い。慎重に慎重を期した大手術は、成功しました。一つだった体が、二つになった。二人はそれぞれの人生を、別々の足で歩きはじめたのです。 フジとサクラ、という名前 それから、長い歳月が流れました。 兄のベトちゃんは、分離手術のあとも体調がすぐれず、平成十九年(二〇〇七年)、二十六歳でこの世を去りました。 一方、弟のドクちゃんは生き抜きました。義足で歩く訓練を重ね、コンピュータを学び、やがてツーズー病院の職員として働くようになります。自分がかつて分けられた、あの病院で——です。結婚し、双子の子どもにも恵まれました。その二人の名前が、フジと、サクラ。富士山と、桜。自分を助けてくれた日本への感謝を、わが子の名前に込めたのだといいます。 新型コロナが日本を襲ったとき、ドクさんは日本へマスクを贈りました。かつて助けられた側が、こんどは助ける側にまわっていた。令和になったいまも、ドクさんは枯葉剤被害に苦しむ人たちを支える活動を続けています。二〇二四年には、ドクさんと家族の日々を追ったドキュメンタリー映画『ドクちゃん フジとサクラにつなぐ愛』が、日本各地で公開されました。ベトナム戦争が終わって、五十年あまり。あの夏、テレビのこちら側で「がんばれ」と願っていた十七歳の私が見ていたものは、まだ終わってなどいなかったのだと、いまになって思います。 帝国劇場で観た「ミス・サイゴン」 ここで、個人的な記憶をもう一つ、書かせてください。 あのニュースから数年がたった平成四年(一九九二年)、私は東京・日比谷の帝国劇場へ、一本のミュージカルを観に行きました。『ミス・サイゴン』です。ベトナム戦争末期のサイゴンを舞台に、ベトナム人の少女キムと、アメリカ兵クリスの、引き裂かれていく恋を描いた物語。その背景にあるのは、まさに、あの戦争でした。 東宝が制作した日本初演で、ヒロインのキム役を演じていたのが、本田美奈子さんでした。アイドルとして親しんできた彼女が舞台の上で歌い上げる代表曲「命をあげよう」は、一年半におよぶロングランの語り草となりました。本田さんは、のちに白血病で世を去ります。まだ三十八歳の若さでした。 舞台を観て、私はこれが単なる恋愛や戦争の物語ではないと感じました。当時のベトナムの社会のありさまや、人々の暮らしまでもが、ひしひしと伝わってくる。戦争によって日常も将来も大きく変えられてしまうなかで、登場人物たちは家族を、愛を、大切な人を守るために、必死に生きている。その姿が、強く印象に残りました。とりわけ主人公たちの選択を通して、平和な環境は決して当たり前のものではないこと、そして生まれた国や時代によって人生が大きく左右されてしまう現実を、考えさせられたのです。本田美奈子さんの力強くも繊細な歌声が、その感情や葛藤を、いっそう深く届けてくれました。二十代前半だった私にとって、自分の将来や生き方を改めて見つめ直す、きっかけになった作品でした。 ニュースのなかで「不安」だったベトナムが、このときは、舞台の物語として、音楽とともに胸に流れ込んできた。いま思えばあの夜は、私とベトナムの距離が、ほんの少し縮まった夜だったのかもしれません。 ミス・サイゴン 日本公演ハイライト盤本田美奈子ほか/日本初演キャスト。あの「命をあげよう」を収録 Amazonで見る › お向かいさんは、ベトナムの家族 いま、日本にはたくさんのベトナムの人が暮らすようになりました。ベトナム料理のお店も、あちこちで見かけます。そして——我が家のお向かいには、ベトナム人のご家族が住んでいます。 子ども同士が本当に仲良しで、いまは一緒に学童野球のチームに入って、同じユニフォームで白球を追いかけています。パパとママからは、ベトナムのことをいろいろ教えてもらいました。おかげで私にとってベトナムは、すっかり身近な存在になったのです。国が違っても関係なく、あっという間に仲良くなってしまう子どもたちを見ていると、なんだか「ほっこり」と、いい気分になります。 思えば、昭和六十一年のあの六月、東東京大会を前にした高校二年の私は、テレビの向こうのベトナムに、ただ「がんばれ」と願うことしかできませんでした。「ベトナム」と聞けば「戦争」が浮かび、胸が「不安」になった、あの遠い国。それが四十年の時を経て、いまは目の前で、子どもたちが同じグラウンドで野球を楽しむ国になっている。ドクさんがわが子に富士と桜の名を授けたように、国境というものは、もう子どもたちのあいだには無いのかもしれません。同じ「ベトナム」という言葉が、私のなかで「不安」から「ほっこり」へと、長い時間をかけて、ゆっくりと姿を変えていったのです。 昭和の終わりに、テレビの向こうにあった「不安」が、令和のいま、すぐお向かいの「ほっこり」になっている。その長い距離を縮めたのは、二人を救おうとした人たちの手であり、そして何より、過去にとらわれることなく、あっさりと手をつないでしまう子どもたちの力なのだと思います。 六月十九日。あなたは、ベトちゃんとドクちゃんのニュースを覚えているでしょうか。あのとき、テレビのこちら側で、何を思っていたでしょうか。よかったら、聞かせてください。 このシリーズ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線で振り返っています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月18日 ── おにぎりの日に、千年の握り飯と母の手を思う | 次の記事:6月20日 ── テレビの「向こう側」だったNHKホールに、息子と立った日 ▶

June 19, 2026

昭和の今日は何があった日? ~5月27日~ドラゴンクエストの日、伝説はこうして始まった

5月27日。 この日付を聞いて、ピンと来る人はきっと「あの音楽」が頭の中で鳴り出す。 ダダダン、ダダダダダン――。 あの壮大な序曲とともに、画面に浮かぶ「ドラゴンクエスト」の文字。昭和61年(1986年)5月27日、この日はのちに「ドラゴンクエストの日」と呼ばれることになる記念日だった。 私は当時、高校2年生だった。 グラウンドにいた。泥まみれで、ボールを追いかけていた。 球児には関係のない話、だったはずが 昭和61年5月27日。私は17歳の高校球児として、日々の練習に明け暮れていた。5月といえば夏の地方大会を前に、チームがいちばん張り詰めてくる時期だ。朝練に始まり、放課後も日が暮れるまでグラウンドに残る。帰り道は足が棒のようで、家に着いたら飯を食って風呂に入ってすぐ眠る。そんな生活の中で、ファミコンが入り込む余地はどこにもなかった。 明治神宮球場で行われる高校野球。あの頃の私も、こんな眩しい夏の空の下でボールを追いかけていた。(Photo: DX Broadrec / CC BY-SA 3.0) だから「ドラゴンクエスト」が発売されたこの日のことを、私はリアルタイムでは知らない。同級生の中にも野球部以外の友人はいて、後から「あのゲームすごいよ」と聞かされた記憶があるような、ないような。それくらい遠い世界の話だった。 でも今、あの日のことを調べてみると、同じ5月27日という日に、まったく別の青春が交差していたのだと気づく。 「今、新しい伝説が生まれようとしている」 キャッチコピーは、そう謳っていた。 発売したのはエニックス(現・スクウェア・エニックス)。プラットフォームは任天堂のファミリーコンピュータ。プレイヤー自身が勇者となり、広大な世界を歩き回りながら魔王を倒す――いわゆるロールプレイングゲームというジャンルを、日本の子どもたちに初めて届けた作品だった。 任天堂ファミリーコンピュータ(HVC-001)。昭和58年(1983年)に発売され、日本中の子ども部屋を変えた。(Photo: Rama / CC BY-SA 2.0 FR) シナリオを書いたのは堀井雄二。「週刊少年ジャンプ」でゲームコーナー「ファミコン神拳」を担当していたライターあがりの男だ。キャラクターデザインには『ドラゴンボール』『Dr.スランプ』で一世を風靡していた鳥山明。音楽はすぎやまこういち。後に堀井自身が「奇跡のメンバーだった」と述懐する顔ぶれが、一本のカセットに詰まっていた。 発売当初、売り上げは芳しくなかったという。それが口コミでじわじわと広がり、最終的に約150万本にまで膨らんでいく。テレビゲームソフトが「社会現象」という言葉で語られた、初めての瞬間に近いものだったかもしれない。 あの頃、甲子園が消えた年 高校野球の話を少しさせてほしい。 昭和61年というのは、甲子園を知る人間には特別な意味を持つ年だ。前の年、昭和60年の夏、PL学園の桑田真澄と清原和博――KKコンビと呼ばれた二人が、涙をのんで甲子園を去った。1年生の夏から3年連続で甲子園の土を踏んだ二人が卒業し、あの二人がいなくなった甲子園は、なんとなく空洞になったように感じた。 私たちのような高校球児にとって、桑田と清原は神様みたいな存在だった。テレビの中で見る甲子園は遠くて眩しくて、ああいう選手になりたいという気持ちと、自分とは違う世界の話だという諦めが、いつも胸の中で混ざっていた。 昭和61年の夏の甲子園は天理(奈良)が優勝した。しかしその夏を目指して、全国3800校以上の球児たちが地方の土を踏んでいた。私もその中の一人だった。グラウンドに転がるボールを、まるで命がけで追いかけていた。 二つの「伝説」が生まれた年 ドラゴンクエストが生まれた日、私はバットを振っていた。 それは単なるすれ違いではなく、あの頃の昭和という時代が持っていた、ある種の豊かさだったのかもしれない。画面の中で勇者が剣を抜く子どもたちがいた。グラウンドで泥に塗れながらノックを受ける子どもたちがいた。誰かの青春は誰かの知らないところで静かに燃えていた。 「ふっかつのじゅもん」を紙に書き留めて、書き間違えて、また最初からやり直した子どもたちの話を今になって聞くと、妙に懐かしい気持ちになる。私はやり直すたびに素振りをしていた。同じ時代に、同じように何度も何度も繰り返した者同士として、どこかで通じるものがある気がして。 あの音楽がある限り すぎやまこういちは2021年に90歳で亡くなった。鳥山明も2024年に逝ってしまった。堀井雄二だけが今も筆をとり続けている。 三人がともに作り上げたあの「序曲」は、いまも世界中の耳に残っている。コンサートホールでオーケストラが演奏し、お客さんがスタンディングオベーションを送る。昭和61年の5月27日に生まれた音楽が、令和の今も鳴り続けている。 あの日、グラウンドにいた私には聞こえなかった音楽が、こうして何十年も経ってから耳の中で鳴っている。不思議な話だと思う。 あなたは、初めてドラゴンクエストを遊んだのはいつ頃でしたか? ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ―5月26日― | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月28日~ ▶

May 26, 2026

千羽鶴に込められた思い――高校野球を「親の目線」で見るようになって気づいたこと

こどもの日の朝、夫婦でせっせと鶴を折る 5月5日、こどもの日。 わが家のリビングテーブルには、色とりどりの折り紙が広がっている。妻と私、ふたりで黙々と鶴を折り続ける。これが今年もはじまった。 「文字鶴」という。折る前の紙に一文字ずつ言葉を書き込み、そのまま鶴に仕上げていく。書く言葉はだいたい決まっている。「必勝」「全力」、そして怪我なく無事に戦い抜いてほしいという祈りを込めた言葉たち。一羽折るたびに、息子のことを思う。 息子は高校野球部の2年生だ。 夏の甲子園へ向けて、各地で熱戦が始まる 「全国高等学校野球選手権大会」、通称・夏の甲子園。 その出場をかけた地方大会が、これから全国各地ではじまっていく。どのチームも、この舞台に立つためだけに冬を越え、春を駆け抜けてきた。球児たちの練習はもちろん、それを支える保護者会も動き出す。お茶当番、遠征の送迎、応援の段取り……そのなかでも毎年欠かせないのが、この千羽鶴(文字鶴)づくりだ。 学校によって多少の違いはあるが、どこも気合いは同じ。1000羽、ひとつひとつ手で折る。 負けたチームから、勝ったチームへ 高校野球の大会を見ていると、こんな場面に出会うことがある。 試合に敗れたチームの千羽鶴が、勝ったチームに手渡される光景だ。 決まったルールがあるわけではないし、すべての試合で見られるものでもない。でも、大会を通じて「あ、またそういう場面があったな」と思うことが、親になってから確かに増えた。 「うちはここで終わりになったけど、あとはよろしく頼む」という、言葉にならない引き継ぎ。負けた悔しさと、勝者への期待と、これまで戦ってきたすべてへの敬意が、鶴のなかに凝縮されている。 大会が終盤を迎えるころ、勝ち進んできたチームのそばには、いくつもの学校から集まった千羽鶴が積み重なっていることがある。それはもう、そのチームだけのものではない。脱落していったたくさんのチームの「思い」がそこに乗り移っている。 「親になって」はじめて見えた景色 高校野球は、もともと好きだった。テレビ中継もよく見ていたし、名勝負もいくつか記憶している。でも正直なところ、選手たちの「向こう側」まで想像することは、あまりなかったと思う。 息子が野球部に入り、保護者として関わるようになってから、見え方がまったく変わった。 グラウンドで戦っている子どもたちの後ろには、折り紙と格闘している親たちがいる。早朝から弁当を作り、炎天下で旗を振っている家族がいる。ひとつのアウト、ひとつのヒットに、いくつもの人生が重なっている。 「一戦ごとに強くなる」の本当の意味 高校野球の解説でよく耳にする言葉がある。 「このチームは一戦一戦勝ち進むたびに、強くなってきましたね」 以前はその言葉を、選手たちの成長や経験値の話として聞いていた。でも今は、少し違う解釈が加わっている。 勝ち進むたびに、その肩に乗ってくるものが増えていく。負けたチームの鶴、脱落した仲間たちの思い、遠くから見守る家族の祈り。それを受け取るたびに、選手たちは「自分たちだけのため」ではなくなっていく。背負うものが増えることが、人を強くすることがある。 高校野球が「特別」な理由 多くの人が高校野球に夢中になるのは、なぜだろう。 プロ野球より技術は劣る。ミスも多い。それでも目が離せない。 きっと多くの人が、グラウンドの向こう側にあるものを直感的に感じ取っているからだと思う。解説者の言葉や、スタンドの応援、ベンチの涙。その断片から、「このチームにはなにかある」と感じる。それが高校野球の磁力だ。 千羽鶴に込められた思い、そして時に見かける「負けたチームから勝ったチームへの鶴の受け渡し」。そういった「見えないもの」が確かにそこにある。 親になってはじめて、私はその「見えないもの」の重さを、少しだけ知ることができた気がしている。 今年も、いくつもの鶴を折り終える前に、夏がやってくる。 息子よ、怪我なく、全力で。 それだけでいい。

May 4, 2026