【昭和の今日は何があった日?】8月16日──二死から、二度。延長18回の夜、私は花火をしていた

今日は8月16日。京都の五山送り火が灯り、お盆が静かに終わっていく日です。子どものころの私にとっては、「夏休みが折り返しどころか、下り坂に入った」と気づかされる、少し落ち着かない日でもありました。そして甲子園は、ちょうど大会が佳境に入るころです。 1979年(昭和54年)8月16日、木曜日。夏休みの真ん中のこの日、甲子園球場で一つの試合が始まりました。第61回全国高等学校野球選手権大会の3回戦、和歌山代表・箕島高校と、石川代表・星稜高校。第4試合、プレーボールは午後4時6分でした。 その試合が終わったのは、日がとっぷり暮れたあとのことです。 当時、私は10歳。小学4年生でした。 そして正直に告白すると、私はこの試合をリアルタイムでは見ていません。 その夜、私は花火をしていた 小学4年生の夏、私の野球はプロ野球でした。高校野球というものに、まだそこまでの興味を持っていなかったのだと思います。家でのテレビといえば、当然のように巨人戦のナイター中継。それが私にとっての「野球を見る」ということでした。 そして、テレビの前にいない夜のほうが多かったかもしれません。 あのころの夏休み、私は昼間のうちに友達と花火を買い込んで、夜7時ごろに集合していました。名づけて「花火大会」です。ひと夏に何回やるんだと突っ込まれるレベルで、何度も何度も開催していました(笑)。要するに、花火を口実にした夜遊びです。暗くなってから外に出られるというだけで、あのころは特別なことでした。 午後4時6分に始まった箕島と星稜の試合が、まさにその時間帯まで続いていたことを、私は当時まったく知りませんでした。日本中がテレビにかじりついていたその夜、葛飾の小学4年生は、線香花火の火玉が落ちるのを友達と見つめていたわけです。 春の王者と、北陸のエース 箕島は、この年の春の選抜で優勝しています。夏も勝てば、公立高校としては史上初の春夏連覇。エース石井毅と捕手・嶋田宗彦のバッテリーを擁する、文句なしの優勝候補でした。 対する星稜には、エース堅田外司昭がいました。北陸の高校がまだ全国で無名に近かった時代に、この一戦で全国に名を知らしめてしまう力を、彼らは持っていました。 試合は投手戦になります。4回に両校が1点ずつを取り合ったあとは、スコアボードにゼロが並ぶ。9回を終えて1対1。延長に入り、甲子園の照明のスイッチが入れられました。青空が薄暮になり、やがて星ひとつ見えない夜空に変わっていく。ナイターになった甲子園で、ここから信じがたいことが起こります。 12回裏、二死無走者から 延長12回表、星稜が勝ち越します。打球は二塁への何でもないゴロでしたが、堅守を誇る箕島の二塁手がこれをトンネルしてしまう。 その裏、箕島の攻撃はあっさり二死。走者もいません。あと一人。 箕島の尾藤公監督が敗戦を覚悟したとき、次の打者である一番・嶋田宗彦が、監督の前に立ちはだかってこう言いました。ホームランを狙ってきます、と。我に返った尾藤監督は「よし、狙え」と嶋田の尻を叩いた。 そして嶋田は、本当に打ちました。左翼ラッキーゾーンへの、同点本塁打です。宣言して打つ。漫画でもやりすぎだと言われそうな場面が、この日、甲子園で本当に起きました。 14回の隠し球、16回のつまずき まだ終わりません。 14回裏、箕島はサヨナラのチャンスを作ります。走者の森川康弘が三盗を決めた――ところが、そこで待っていたのは星稜の三塁手による隠し球でした。アウト。12回表の攻撃でスクイズを失敗していた選手が、守備で借りを返した格好です。 そして16回表、星稜が三たび勝ち越します。 16回裏、箕島はまたも二死無走者。打席には、14回に隠し球でアウトになったあの森川。彼が打ち上げた一塁側のファウルフライは、完全に打ち取られた打球でした。星稜の一塁手・加藤が追う。誰もが試合終了を覚悟した、そのとき。 加藤が、つまずいて転倒しました。 原因は、この年から甲子園のファウルグラウンドに敷かれたばかりの人工芝だったといわれています。ボールは落ち、森川は命拾いをした。その直後、森川は左中間へ同点本塁打を放ちます。彼にとって、練習試合を含めても生まれて初めての本塁打でした。 二死無走者から同点本塁打。それが、一試合のうちに二度。 18回裏、3時間50分 18回表、星稜は満塁のチャンスを作りますが、無得点。当時の規定では延長は18回まで。この時点で、星稜の勝ちは消えました。 そして18回裏、箕島がサヨナラ勝ち。4対3。 試合時間3時間50分。観衆は3万4千余。石井毅は18回を257球で投げ抜き、16三振を奪いました。堅田外司昭は17回1/3を208球。甲子園で延長18回まで戦った試合は他にもありますが、18回で決着がついたのは、この試合だけです。ほかはすべて引き分け再試合になっています。 作詞家の阿久悠はこの一戦に感銘を受けて「最高試合」という詩をスポーツ紙に投稿し、作家の山際淳司は「八月のカクテル光線」という短篇を書き上げています。箕島はこのあと大会を制し、公立高校として初めての春夏連覇を達成しました。 日本中が、3チャンネルに回した夜 この試合を調べていて、いちばん「あっ」と声が出たのは、テレビの話でした。 この試合は第4試合です。NHKは総合テレビで中継していましたが、午後6時になると総合はニュースに切り替わらなければならない。そこでNHKは、午後6時から試合終了までを教育テレビに引き継ぐリレー中継を行いました。 つまりあの夜、日本中の茶の間で、テレビのチャンネルが1から3へ回されたわけです。 そして教育テレビの、その時間帯の視聴率は29.4パーセント(関東・ビデオリサーチ)。この数字は、いまもNHK教育テレビの歴代最高記録です。 我が家のテレビが、そのとき3チャンネルに回されたことは、おそらくなかったと思います。私はといえば外で花火に火をつけていたか、家にいたとしても、追いかけていたのは巨人のナイターだったはずですから。 日本中が息を呑んでいた3時間50分と、私の夏休みの夕方は、ぴったり重なっていて、まったく交わっていなかった。同じ夜に、まったく別のものを見ていたわけです。 何度も見た、あの映像 では、私がこの試合を知らないままだったかというと、そうではありません。 何番組だったかまでは特定できませんが、私はこの試合の映像を、後年に何度もテレビの画面で見ています。甲子園の大会期間中、試合と試合の間に流れる名勝負の特集。そういう場面で、あのカクテル光線に照らされた球場と、二死からの本塁打が、繰り返し流れてくるのです。 そのたびに、私は素直に思いました。すごい試合だなぁ、と。 リアルタイムで見た人は「そのとき何をしていたか」を語り、あとから知った私は「何度も見せられて、そのつど驚いた」と語る。同じ一試合が、こんなに違う形で残るのです。 昭和54年の夏、山際淳司はこの試合を「八月のカクテル光線」という短篇に書きました。ホームランを打ったことのない少年が、16回に打った一球の話です。同じ本には、江夏豊の21球を描いた表題作も入っています。私にとっては、あの映像で見た場面が文章になっている、という読み方になりました。 スローカーブを、もう一球(角川文庫)山際淳司/KADOKAWA。この日の箕島-星稜を描いた「八月のカクテル光線」と、江夏の21球を描いた表題作を含む8篇。スポーツノンフィクションのロングセラー Amazonで見る › 「8・16」という日付 この日付には、もう一つ因縁があります。 13年後の1992年8月16日。同じ甲子園で、明徳義塾が星稜の松井秀喜を5打席連続で敬遠しました。星稜が、8月16日に二度、球史に名を刻んだことになります。 さらに驚くのは、この延長18回の試合に星稜の控え選手としてベンチ入りしていた高桑充裕という選手が、のちに地元の中学校で教員兼野球部監督となり、後輩にあたる少年を鍛え上げたことです。その少年が、松井秀喜でした。負けた側のベンチにいた高校生が、13年後の同じ日に敬遠され続ける少年を育てていた。日付というものが、少し不気味に思えてきます。 箕島の尾藤監督は2011年に亡くなりました。葬儀では、星稜の山下智茂前監督が男泣きしながら弔辞を読んだと伝えられています。 この試合は、もう起こらない。それでいい 令和の高校野球では、この試合は物理的に起こりえません。 2018年にタイブレークが導入され、2023年からは延長10回、無死一・二塁から始まることになりました。一人の投手が1日に投げられるのは15イニングまで。2020年からは、1週間の投球数を500球以内とする球数制限もあります。18回を257球で投げ抜くという戦い方は、もう制度が許しません。 こうしたルールには賛否があります。あくまで私個人の意見ですが、私は今のルールを支持する立場です。 たしかに、過去のあの手の凄まじい試合は、もう生まれないでしょう。けれど、ルールが変わったあとには、そのルールの中でまた別の『伝説』がきっと生まれるはずだと、私は信じています。一試合を複数の投手でつないでいくことで、一人ひとりの投手が心理的にも体力的にも持てる全力を発揮できる、ということだってあるかもしれませんしね。 そして何より、将来のある選手たちの「からだ」を守る。この意味は、非常に大きいと考えています。石井投手の257球を語り継ぐことと、いまの球児に同じものを求めることは、まったく別のことですから。 おわりに 宣言してから打った男と、生まれて初めて打った男。隠し球。人工芝のつまずき。作り話にしたら「都合が良すぎる」と没にされそうな出来事が、1979年8月16日の甲子園には、全部そろっていました。 実を言うと私、昨日、その甲子園から帰ってきたばかりです。 令和8年の夏の大会を、社会人の息子、大学1年の娘、中学1年の息子、小学3年の息子と、子ども4人を連れて観てきました。 もう一人、高校2年の息子だけは同行していません。来年の甲子園出場を目指して、この夏も練習と試合に明け暮れているからです。あの球場のスタンドに座りながら、私はどうしても、来年ここに立てるかもしれないもう一人の子のことを考えていました。 ...

August 16, 2026

意味も分からないまま、私も頭を下げた──8月15日、甲子園の正午のサイレン|昭和の今日は何があった日?

夏の甲子園には、年に一度だけ、不思議な瞬間があります。 試合の途中で、突然プレーが止まる。場内アナウンスが流れ、サイレンが鳴り、選手も審判も、スタンドの何万人もが、いっせいに帽子を取って頭を下げる。実況の声も消える。あの騒々しい球場から、音がなくなるのです。 8月15日、正午。 正直に言うと、私は毎日欠かさず大会中継を見ているような子どもではありませんでした。ですから、あの一分間に立ち会ったのも、たまたまです。8月15日の昼、たまたまテレビをつけていて、たまたま試合が映っていた。そういう出会い方でした。 たいてい、一人で見ていました。 そして、サイレンが鳴って画面の中の時間が止まったとき、小学生の私も、テレビの前で一緒に頭を下げたのです。 誰かに言われたわけではありません。何のために下げているのかも、たぶん分かっていませんでした。それでも、頭は下がった。 サイレンが鳴りはじめたのは、昭和38年から 甲子園のあの黙祷は、いつから始まったのか。 調べてみると、1963年(昭和38年)の第45回大会からでした。8月15日は終戦の日にあたるため、正午前にプレーを中断し、正午ちょうどに選手・審判員・観客の全員で一分間の黙祷を捧げる。サイレンも鳴らす。以来、大会日程がこの日にかかる年は、ずっと続けられてきました。 なぜ昭和38年からなのか。理由があります。同じ1963年、東京でも8月15日に政府主催の追悼式が行われるようになったからです。 全国戦没者追悼式そのものは、それ以前にもありました。第1回は1952年(昭和27年)5月2日、新宿御苑。日付も場所も、まだ定まっていません。それが1963年に日比谷公会堂で8月15日に開かれ、翌1964年(昭和39年)は靖国神社、そして1965年(昭和40年)から東京・九段の日本武道館へ。以来この式典は、一度も途切れることなく毎年8月15日に続いています。 正午の時報を合図に、武道館では参列者全員が起立して一分間の黙祷を捧げる。ちょうど同じ時刻、兵庫県西宮市の甲子園球場では、球児たちが帽子を脱いで頭を下げている。 つまり、この連載が扱う昭和40年から64年という時代は、「8月15日の正午に、日本中がいっせいに黙る」という習慣が固まり、あたりまえになっていった時期とぴたりと重なります。1969年(昭和44年)生まれの私にとって、それは物心ついたときにはすでに完成していた、動かしがたい夏の風景でした。 だから私は、何も教わらないまま、頭を下げることだけを覚えたのだと思います。 なぜ、よりによって野球なのか 「その日は日本中で黙祷するのだから、球場だけが特別なわけではないだろう」と思われるかもしれません。 ただ、甲子園と8月15日の縁は、実はかなり深いのです。 戦争が激しくなるなかで、夏の全国大会は1941年(昭和16年)を最後に中止されました。当時は中等学校野球。グラウンドに立っていたはずの若者たちは、次々と戦地へ送られていきました。 その大会が復活したのが、終戦からちょうど一年後——1946年(昭和21年)8月15日です。しかも会場は甲子園ではありませんでした。甲子園球場はGHQに接収されていたため、代わりに西宮球場で開かれています。 物資は何もない時代です。ボールは破れたら縫って使い、折れたバットにはテープを巻いて再利用する。ユニフォームは戦前のものを真似て選手が自分で縫った。全国から集まった代表校はそれぞれ米などの食料を持参して大会に臨み、勝ち進むと滞在が延びて食料が尽きる、と心配したという話まで残っています。 甲子園の正午の黙祷が昭和38年に始まったとき、関係者のなかには、この1946年の夏を身をもって知っている人が大勢いたはずです。あのサイレンは、単に国の行事に合わせただけのものではなかったのだろうと思います。 合宿の真ん中にあった、8月15日 さて、私自身の8月15日です。 高校に入ってからの三度の夏、この日は毎年、決まって野球部の合宿の最中でした。しかも合宿地は長野県です。世間がお盆で帰省したり墓参りをしたりしているその時期に、私たちは葛飾を離れ、信州でボールを追っていたわけです。 1985年(昭和60年)、1年生。この夏の私は足を骨折していて、合宿はほぼ見学でした。 1986年(昭和61年)、2年生。先輩が引退し、新チームの一員として迎えた夏です。 1987年(昭和62年)、3年生。7月の東東京大会で敗れてすでに引退した身で、OBとして合宿の手伝いに入っていました。 三年とも、8月15日の正午は合宿の中にありました。 ところが——黙祷をした記憶が、まったくないのです。 サイレンが鳴った覚えもなければ、監督が集合をかけた覚えもない。テレビの前の小学生だった私は頭を下げていたのに、実際にユニフォームを着てグラウンドに立っていた高校生の私には、その記憶がない。 不思議なものだと思います。甲子園では、まさにその同じ時刻に、球児たちが帽子を取って頭を下げていたはずなのです。あの中に入りたくてボールを追っていた私は、その一分間に加わることのないまま、長野の山あいのグラウンドで汗をかいていた。 近づくほど、遠くなった もうひとつ、正直に書いておきたいことがあります。 甲子園は、私にとってずっと憧れの目標でした。テレビの向こうにある、いつかたどり着きたい場所。 ところが、2年生になって新チームが動きだし、「一年後には自分たちの番だ」となったとき——甲子園は、むしろ遠い存在に感じられるようになったのです。 近づいたはずなのに、遠くなった。 いま振り返ってみて思うのは、自分のいる場所に対する現実感がそうさせたのだろう、ということです。憧れているうちは、距離は測らなくていい。けれど自分が挑戦者の側に立った瞬間、その距離が実寸で見えてしまう。東東京の球場からあの銀傘までが、何段跳びなのかが分かってしまう。 夢が目標に変わると、そこには初めて「届くか、届かないか」という物差しが当てられます。物差しを当てた瞬間に、夢は少しだけ痩せる。 たぶん、これは野球に限った話ではないのだと思います。 正午に、走っている いま、私は路線バスのハンドルを握っています。 この仕事をするようになって気づいたことがあります。8月15日の正午に、私はしばしば、動いているのです。 ダイヤは終戦の日だからといって止まりません。正午に交差点で信号待ちをしていることもあれば、乗客を乗せて次の停留所へ向かっている最中のこともある。目を閉じて頭を下げるわけには、当然いきません。ハンドルを握っている人間に、黙祷はできないのです。 工場のラインも、病院も、鉄道も、きっと同じでしょう。日本中がいっせいに黙るといっても、実際には誰かが動き続けている。動き続けている人がいるからこそ、ほかの誰かが安心して一分間、目を閉じていられる。 そう考えると、甲子園が試合を止めるというのは、なかなかすごいことです。何万人もが集まった真夏の球場で、興行を、勝負を、一分だけ完全に止めてしまう。あれを昭和38年から毎年きっちり続けているというのは、決して簡単なことではないはずです。 21番ゲートの前を、私は何度も通っていた この記事を書くために調べていて、初めて知ったことがあります。 1981年(昭和56年)4月、当時の後楽園球場の脇に「鎮魂の碑」という碑が建立されていました。太平洋戦争などで戦死したプロ野球選手の名を刻んだ碑です。中心になって動いたのは、セントラル・リーグ会長だった鈴木龍二さん。戦前の職業野球の時代からこの世界にいて、選手たちを戦地へ送り出し、戦死の報せを受け取ってきた人でした。八十代半ばになってなお、戦死した選手をそのままにはしておけない、という思いが消えなかったといいます。 ...

August 15, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月12日──甲子園と、御巣鷹と、同じ夏

今日は8月12日。明日からお盆に入るという、一年でいちばん人の動く時期です。 昭和60年(1985年)のこの日も、まさにそういう日でした。新幹線も、高速道路も、空の便も、帰省する人と旅行に出る人でぎっしりと埋まっていた。羽田から大阪へ向かう便は、三週間も前からほとんど満席だったといいます。 その夕方、日本航空123便が群馬県の山中に墜落しました。乗客乗員524名のうち、520名が亡くなった。単独機の事故としては、いまなお世界最悪の航空事故です。 この連載を書きながら、8月12日をどう扱うか、私はずっと考えていました。軽く触れて通り過ぎることはできない。かといって、私が何かを語れる立場でもない。 それでも書こうと思ったのは、あの日が私にとって、忘れようのない「あの夏」の一部だからです。そして今、私が人を乗せて運ぶ仕事をしているからです。 あの夏の関心事は、甲子園だった 昭和60年8月12日。私は16歳、高校1年生でした。 正直に書きますが、あの日の日中の私の頭の中にあったのは、飛行機のことでも、お盆のことでもありません。甲子園でした。 第67回全国高等学校野球選手権大会は、この年の8月8日に開幕していました。そして何より、PL学園の桑田真澄と清原和博――「KKコンビ」にとって、最後の夏だったのです。あの二人が甲子園で戦う姿を見られるのは、この夏で終わり。高校で野球をやっている人間にとって、これ以上の関心事はありませんでした。 その夏、私は足を骨折していたはずです。それでも昼間は学校へ行き、野球部の練習に出ていました。 夕方、家に帰りました。今日の甲子園はどうなったんだろう、と確認するつもりでテレビをつけたのだと思います。 そこに流れていたのは、まったく別のニュースでした。 日航機が、レーダーから消えた。 18時12分から、18時56分まで 事故当日の123便は、定刻より12分遅れて、18時12分に羽田を離陸しました。 離陸から12分後の18時24分。伊豆半島南部の東岸上空にさしかかったあたりで、機体後部の圧力隔壁が壊れました。垂直尾翼の大部分と補助動力装置が吹き飛び、四系統ある油圧の操縦システムを、すべて失いました。 飛行機の操縦は、油圧で舵を動かすことで成り立っています。それが全部なくなった。ハンドルもブレーキも効かない車が、時速数百キロで走り出したようなものです。 普通なら、そこで終わりです。 ところが123便は、そこから32分間、飛び続けました。 機体は上下に激しく揺れ、左右に振られながら、それでも空にとどまり続けた。乗務員は、左右のエンジンの出力をわずかずつ変えることで、機首の向きを変えようとしていました。効くはずのない方法で、それでも機体を立て直そうとし続けたのです。 そして18時56分、群馬県多野郡上野村、高天原山の尾根に墜落しました。標高1,565メートル。のちに「御巣鷹の尾根」と呼ばれることになる場所です。 夜の山中で、墜落地点の特定は難航しました。地上から現場を目で確認できたのは、翌13日の朝7時34分。最初の生存者が見つかったのは、10時45分でした。 生存者は4名。全員が女性で、全員が重傷でした。524名のうち、4名。 原因は、7年前にさかのぼります。事故機は昭和53年6月、伊丹空港で機体の尾部を滑走路に打ちつける事故を起こしていました。そのとき損傷した後部圧力隔壁の修理が、正しく行われていなかった。7年間飛び続けたあとで、その箇所が耐えきれなくなったのです。 名簿に並んだ、名前 翌日から、搭乗者名簿が少しずつ明らかになっていきました。 歌手の坂本九さん。当時43歳。「上を向いて歩こう」が海の向こうで『SUKIYAKI』という題名になり、アメリカのヒットチャートで1位になった、日本でただ一人の歌手です。ただ私たちの世代にとっては、伝説の人というより、テレビでよく見る「九ちゃん」でした。 あの訃報には、本当にショックを受けました。今でもこの事故の話を耳にすると、テレビの中で「上を向いて歩こう」を歌う九さんの映像が、条件反射のようによみがえってきます。 宝塚歌劇団の娘役だった北原遥子さん、24歳。阪神タイガース球団社長の中埜肇さん。 そして、竹下元章さん、47歳。 この方の名前を、私は今回この記事を書くために調べていて初めて知りました。元プロ野球選手で、捕手だった方です。現役引退後は会社勤めをされ、勤務先の関係で群馬県に住んでおられました。 竹下さんは、あの日、甲子園に向かっていました。 群馬県代表として第67回大会に出場していた、東京農業大学第二高等学校。その野球部に、竹下さんの息子さんがいたのです。息子の応援に行くために、羽田発伊丹行きの便に乗った。それが123便でした。 四十年経って、私はこの事実の前でしばらく手が止まりました。 あの夏、私が「今日の甲子園はどうなったかな」とテレビをつけたのと同じ日に、息子の試合を見に甲子園へ向かった父親が、あの飛行機に乗っていた。私の頭の中でまったく別々の場所にあった「甲子園」と「御巣鷹」が、一人の方の上で交差していました。 一日のうちに、終わったものと始まったもの もう一人、名簿に載っていた方がいます。ハウス食品工業社長の、浦上郁夫さん。47歳。 この方の名前のところで、この日のもうひとつの出来事が重なります。 同じ8月12日、報道機関に一通の手紙が届いていました。差出人は「かい人21面相」。1年半にわたって食品会社を脅し続け、日本中を不安に陥れたグリコ・森永事件の犯人グループからの、一方的な終結宣言でした。 脅迫を受けていた企業のひとつが、ハウス食品工業です。浦上社長は、事件が終わったことを、大阪にある父上――同社の創業者――の墓前に報告するため、その日のうちに大阪へ向かいました。 その便が、123便でした。 一日のうちに、昭和を騒がせたひとつの事件が幕を引き、もうひとつの惨事が始まった。そしてその二つが、一人の方の上で交差してしまった。何かの意味を見出したくなるような偶然ですが、意味などありません。ただ、そういうことが起きた、というだけです。 昭和60年の夏というのは、そういう夏でした。 「同じ夏」の記憶 あの頃の我が家は、テレビが必ずついている家でした。朝も、夕方も、夜も。だから事故の報道は、いやでも何度も目に入ってきました。 とりわけ生々しく残っているのが、翌朝の救出の映像です。 自衛隊のヘリコプターが山の上でホバリングして、隊員が降りていき、12歳の少女を吊り上げていく。あの映像は、四十年経った今でも、私の中で色褪せていません。テレビの前で、家族全員が黙って画面を見ていたあの空気ごと、覚えています。 そしてその同じ夏、甲子園ではKKコンビが暴れ回っていました。清原がホームランを打ち、桑田が投げ、PL学園は8月21日の決勝で宇部商業を下して優勝しました。私はそれを、テレビの前で夢中になって見ていたはずです。 不思議なのは、この二つが私の中で、まったく同じ強さで残っていることです。 普通なら、520人が亡くなった事故のほうが圧倒的に重いはずです。でも私の記憶の中では、清原のホームランと、ヘリコプターから吊り上げられる少女の映像が、同じ濃さで並んでいる。 たぶん、それが「同じ夏」だったからなのでしょう。 16歳の私は、あの二つを別々の出来事として整理する術を持っていませんでした。ただ、同じテレビの中で、同じ夏に、続けて起きたこととして受け取った。だから記憶の棚に、隣り合わせで入っている。振り返れば不謹慎な並べ方に思えるかもしれませんが、記憶というのはそういうものなのだと思います。 お命を預かる、ということ 私は今、路線バスの運転士をしています。 初めてお客さまを乗せて運行に出た日のことを、はっきり覚えています。 ...

August 12, 2026

同じ8月9日、二年続けて──近藤真一と、私の抜け殻の夏|昭和の今日は何があった日?(8月9日)

「や(8)きゅう(9)」の日 8月9日は「野球の日」だそうです。「や(8)きゅう(9)」の語呂合わせと、ちょうど全国高校野球選手権大会の期間中で野球への関心がいちばん高まる季節だから、という理由でスポーツ用品メーカーの直営店が制定したものです。制定は平成6年ですから、昭和の子どもだった私にとっては、後から知った新しい呼び名にすぎません。 それでも、この語呂合わせを考えた人は、よく八月という月を分かっていたと思います。昭和の八月は、朝から晩まで野球が鳴っている月でした。昼はテレビで甲子園、夜はナイター。窓を開け放した家々から、同じ実況が重なって聞こえてくる。そういう夏でした。 そして私にとって、8月9日は本当に野球の日です。記念日とはまったく関係のないところで、二年続けて、同じ日付に、同じ一人の投手のことを記憶しています。 一年目は、鮮明に。二年目は、まったくの空白として。 1986年8月9日、甲子園のマウンド 最初の8月9日は、1986年(昭和61)です。私は高校2年生でした。 その日、甲子園のマウンドに立っていたのが、享栄高校(愛知)の左腕・近藤真一投手です。3年生。春の選抜では「剛腕」と騒がれながら初戦で新湊(富山)に0対1で敗れていて、雪辱を誓って夏の第68回大会に乗り込んできていました。 1回戦の相手は唐津西(佐賀)。結果は8対0、近藤投手が被安打1、15奪三振の完封です。 私は当時、自分も高校野球の真っただ中にいました。3年生が引退して新チームが動き出したばかりの夏で、毎日、練習に明け暮れていた時期です。汗と土のまま帰ってきて、飯を食って、テレビをつければ甲子園をやっている。同じ高校生が、同じ白球で戦っているのを見る。あの頃の八月は、そういう組み立てでした。 だから近藤投手の姿は、単なる甲子園のスターというより「同じ高校生なのに、ここまで違うのか」と驚かされる存在でした。細かな場面まで鮮明に覚えているわけではありません。それでも、三振を次々と奪っていく左腕の速球と、打者に向かって堂々と投げ込む姿は強く印象に残りました。テレビの前で見ながら、球の速さだけでなく、甲子園の大舞台でもまったく臆する様子がないことに圧倒された記憶があります。 2回戦では優勝候補の一角と言われていた東海大甲府を2対1で破り、3回戦で高知商に敗れました。相手の先発は、後にヤクルトへ進む岡林洋一投手。投手戦の末の惜敗でした。ただ、その時点ですでに「この投手はプロへ行くのだろう」と感じさせる、特別な存在でした。 そのころの私にとって、近藤投手は手の届かない別世界の選手でもありました。同じ高校野球をしていても、こちらは毎日の練習と目の前の試合に精いっぱいです。一方、甲子園のマウンドには、全国から注目され、プロへの道を切り開こうとしている同世代の投手が立っている。憧れよりも先に、その才能の差を思い知らされた——というのが、正直なところだったかもしれません。 それから一年、私の野球は終わった 1987年(昭和62)7月23日。神宮第二球場、東東京大会の四回戦。2対3。一点差で負けて、私の高校野球は終わりました。小学校の路地野球から中学、高校とずっと続けてきたものが、あの日、あの球場で終わったのです。 そのあとの日々は、正直に言えば、何もする気になれませんでした。先の進路も全く決まっていませんでしたから、まさに「抜け殻状態」です。 八月に入ればテレビでは甲子園が始まって、去年の自分と同じ場所に、今年は別の高校生たちが立っている。それを扇風機の前で眺めている。何をするでもなく、何を決めるでもなく、ただ日が過ぎていく。あの座り心地の悪さは、今でも思い出せます。 不思議なもので、負けた直後というのは、案外そこまで堪えないものです。効いてくるのはもっと後で、何でもない時間にふっと来る。今日は練習がない、明日も練習がない、来週も練習がない——十年近く体に染み込んでいた予定が、丸ごと消える。その空白の大きさに気づくまでに、少し時間がかかりました。 前の年の八月は、練習でくたくたになって帰ってきて、それでもテレビの甲子園を見ていました。この年の八月は、くたくたになる用事が何もない。同じ扇風機の前に座っているのに、体の芯の残り方がまるで違うのです。 1987年8月9日、ナゴヤ球場 その抜け殻の十七日目が、8月9日でした。 ナゴヤ球場、中日対巨人19回戦。中日の先発は、前年の同じ日に甲子園で唐津西を1安打に抑えたあの左腕、近藤真一投手です。前日に一軍へ初めて加わったばかりで、投手コーチから「行けるか」と言われ、驚きよりも先に「行きます」と答えたといいます。セ・リーグに予告先発のなかった当時、巨人の王貞治監督は試合前に「近藤はないんじゃないの」と語っていたそうです。 当時の巨人は2位の広島に7ゲーム差をつけて独走中。1番松本、篠塚、原、クロマティ、中畑という黄金打線でした。巨人ファンだった私からすれば、この年の打線は見ていて気持ちのいいものだったはずです。 その打線が、一本もヒットを打てませんでした。 中日は1回に3点を先制。近藤投手はこれを背に無安打投球を続け、6対0になった5回終了時、先輩から「狙ってみろ」と言われて「いっちょう狙うか」とその気になったといいます。9回、巨人の鴻野淳基が三塁にゴロを転がし、スタンドから悲鳴が上がりましたが、この年ロッテから移籍してきたばかりの落合博満が懸命にさばいて間一髪アウト。最後は篠塚利夫が近藤投手のカーブを見送ってゲームセットでした。 9回を投げて無安打無失点、四球2、失策1、奪三振13。プロ初登板・初先発でのノーヒットノーランは日本のプロ野球史上初で、アメリカのメジャーリーグにも例がありませんでした。18歳11か月。試合後、彼は「大変なことをやってしまった」と言い、「記録よりも自分の投球ができたことがうれしい」と続けたそうです。 そして約四十年経った今も、二人目は現れていません。 その夏、私は自分の野球を終えました。同じ夏に、同い年に近い左腕がプロのマウンドで歴史をつくった。80年代のプロ野球というのは、そういう出来事が毎年どこかで起きていた時代でもあります。 懐かしの80年代プロ野球 増補改訂版(TJMOOK)宝島社。江川・掛布・原・落合……テレビをつければ野球があった時代のスターと名場面をまとめた一冊。ちょうど本記事の1986〜87年あたりが、まるごと入っています Amazonで見る › 私には、この夜の記憶がない ここまで書いておいて申し訳ないのですが、私はこの試合を見た記憶がありません。 テレビで見たのか、ラジオで聞いたのか、翌朝のスポーツ紙で知ったのか。何ひとつ思い出せないのです。前年の8月9日、甲子園の同じ投手のことはあれだけ覚えているのに。 でも、たぶん、そういうことなのだと思います。あの夏の私は抜け殻でした。野球が終わって、進路も決まっていなくて、テレビをつけても何も入ってこない。おそらくこの年でいちばん大きな野球のニュースが、私の中を素通りしていったのです。 記憶というのは、そのとき何が起きたかではなく、そのとき自分がどういう状態だったかで残り方が決まるのだと思います。1986年の私には、受け止める側の準備がありました。毎日ボールを握っていて、甲子園の投手が投げる一球一球が、自分の握っている球と地続きだった。だから残った。1987年の私には、その手がありませんでした。同じ投手が、同じ日付に、もっとすごいことをやってのけたのに、私の側に受け皿がなかったのです。 失った記憶を惜しむ気持ちは、正直あります。ただ、あの夏に何も残らなかったこと自体が、あの夏がどういう夏だったかを一番よく語っている気もするのです。 同じ日付の、別々の場所 1986年8月9日、彼は甲子園にいて、私は高校2年生としてテレビの前にいました。 1987年8月9日、彼はナゴヤ球場のマウンドにいて、私は——どこで何をしていたのかも覚えていません。 私はグラウンドを去り、近藤投手はプロのマウンドに立った。同じ一年という時間の中で、それぞれの野球はまったく違う場所へ進んでいました。だからこそ1987年8月9日の快挙は、ただの大記録としてではなく、自分の高校野球が終わった夏と重なって、今も心に残っています。前年の甲子園で見たあの左腕が、本当に別世界へ駆け上がっていった夜でした。 ちなみにこの試合は、結果として「昭和最後のノーヒットノーラン」になりました。この一年半後に昭和は終わります。あの夜、球場にいた人もテレビの前にいた人も、まさか自分が昭和最後の一本を見ているとは思っていません。誰も知らないまま、時代の最後のページがめくられていたわけです。 今、8月9日にプロ野球のナイターがあっても、地上波で中継されることはほとんどありません。あの頃は、夜になればテレビをつければ野球がありました。それが当たり前すぎて、当たり前だと思っていなかった。近藤投手のノーヒットノーランがあれだけ多くの人の記憶に残っているのも、たまたま全国の茶の間にその中継が流れていたからです。私はそれを取りこぼしましたが、取りこぼせるだけの豊かさが、あの頃の八月にはありました。 みなさんは、1987年8月9日の中日対巨人を覚えていますか。あるいは、何かが終わった直後の、記憶がすっぽり抜け落ちている時期を過ごしたことはありますか。よかったら教えてください。 近藤投手のように、一球で球場の空気を変えてしまう投手が、どの球団にも一人はいました。あの時代の「エース」がどんな数字を残し、何を考えて投げていたのかをまとめた一冊もあります。名前を追っているだけで、あの頃のテレビの音が戻ってきます。 昭和プロ野球の豪腕投手(TJMOOK)宝島社。各球団の絶対的エースを、勝率・防御率などのデータと知られざるエピソードで特集。2009年刊『プロ野球「絶対エース」の豪腕伝説』の再編集版 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...

August 9, 2026

甲子園の千羽鶴、どう作る?──高校野球の「文字鶴」の作り方・書く言葉・渡し方【保護者会の実体験】

夏の甲子園、アルプススタンドに大きな千羽鶴が揺れているのを見たことがあると思います。地方大会でも、ベンチの脇や応援席に必ずと言っていいほど飾られています。 あれは誰が、いつ、どうやって作っているのか。 我が家は高校野球部の保護者として、毎年この千羽鶴を折っています。この記事では、実際に手を動かしている立場から、必要なもの・作り方・書く言葉・渡し方まで、具体的にまとめます。これから作る保護者の方、部活のマネージャーさん、お孫さんの応援を考えている方の参考になれば幸いです。 先に結論:作り方の全体像 高校野球で使われる千羽鶴は、多くの場合ふつうの千羽鶴ではなく「文字鶴(もじづる)」です。折り紙の白い面に文字を一字ずつ書いてから折るので、完成した鶴の羽や背中に文字が浮かびます。 違いは「折る前に一字書く」、ただそれだけ。折り方そのものは、子どものころに覚えた鶴とまったく同じです。 必要なもの・枚数の目安 項目 目安 補足 折り紙 1,000枚以上(1,050〜1,100枚あると安心) 失敗ぶんを見て多めに。7.5cm角が扱いやすい 油性ペン 細字 数本 文字を書く用。鉛筆で下書きすると失敗が減る 糸 木綿糸・たこ糸など 1本あたり100羽×10本が定番 針 手縫い針・毛糸針 糸を通すとき使う ビーズ or ストロー 各糸に少量 一番下の鶴が抜け落ちないよう留める リボン・輪 1つ 10本の糸をまとめて吊るす部分 折り紙のサイズは7.5cm角が定番です。15cm角だと大きくなりすぎて、1,000羽が扱いきれません。千羽鶴用として売られている7.5cm角・1,000枚入りを買うのがいちばん手っ取り早いです(色が20色ほど入っていて、仕上がりも華やかになります)。 手順①:折り紙に文字を書く ここが文字鶴のいちばん大事な工程です。 折り紙の白い面(裏)に、鉛筆で薄く一字下書きしてから、油性ペンでなぞります。いきなりペンで書くと、書き損じがそのまま無駄になってしまうからです。 コツは筆圧を軽くすること。強く書くと表側に色が響いてしまいます。また、書く位置は紙の中央でかまいません。折り上がったときに、ちょうど羽や背中のあたりに文字が出てきます。 よく書かれる言葉 我が家や周りの学校でよく使われているのは、こうした言葉です。 勝利を願う言葉:必勝/勝/挑/打/攻/守 姿勢をあらわす言葉:全力/団結/絆/不屈/努力/継続/笑顔 祈りの言葉:無事/健康/感謝/夢/希望 学校によっては、選手ひとりひとりの名前や背番号を書き込むところもあります。3年生の名前を全員分入れて、その子の家族が折る——というやり方をしている保護者会もあると聞きました。 我が家では「必勝」「全力」に加えて、怪我なく無事に戦い抜いてほしいという願いを込めた言葉を多めに入れています。親としては、勝ち負けよりまずそこなのです。 手順②:鶴を折る 折り方は、みなさんがご存じの折り鶴とまったく同じです。文字を書いた白い面が内側になるように折り始めてください。そうすると、完成したとき色のついた表面が外に出て、文字は羽の部分に見えるかたちになります。 1,000羽は、何人で何日かかる? 現実的な数字をお伝えします。 慣れた人で1羽あたり1〜2分。つまり1人で1,000羽折ると、単純計算で20〜30時間かかります。1人では現実的ではありません。 だからこそ、保護者会で分担するのが基本です。 保護者20家庭で分ければ、1家庭あたり50羽 1家庭が1日10羽折れば、5日で完了 我が家は毎年、こどもの日あたりから夫婦2人で少しずつ折り始めます。テレビを見ながら、晩ごはんのあとに数羽ずつ。一気にやろうとすると必ず心が折れるので、「1日10羽」くらいのペースを決めてしまうのがコツです。 手順③:糸に通してまとめる 1,000羽そろったら、糸に通します。 1本の糸に100羽 × 10本 = 1,000羽が最も一般的な形です。 糸を1.5〜2mほどに切る(吊るす場所に合わせて調整) 糸の先端にビーズかストローの切れ端を結び、ストッパーにする 針を鶴の下から刺し、背中の穴へ抜く——を100回くり返す 上端に輪を作る 10本そろったら、輪をまとめてリボンで束ねる 注意点として、鶴を糸に詰めすぎると全体が短くなり、逆にすかすかだと間延びします。100羽で1.2〜1.5mくらいに収まるよう、適度に間隔をあけると見栄えがよくなります。 色をランダムに通すか、グラデーションにするか、学校名を色で表現するか——ここは各校の腕の見せどころです。 手順④:いつ、誰に渡す? タイミングは学校によって違いますが、多くは大会が始まる前、壮行会や最後の練習日に渡します。 ...

August 5, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月26日──僕はいつも別の場所にいた

「昭和の今日は何があった日?」——このシリーズを書くために、私はまず7月26日という日を調べてみました。すると、有名な出来事が三つ、目に飛び込んできます。 「ゲームは1日1時間」という、あの名言が生まれた日。「幽霊の日」という、いかにも夏らしい記念日。そして、月へ向かうロケットが打ち上がった日。 ところが、三つを並べて、私は正直に告白しなければなりません。——どれ一つとして、私の「思い出」ではないのです。ファミコンは買ったこともなかった。幽霊に震えた記憶もない。月ロケットに至っては、私はまだ2歳でした。 いつもなら、この欄には子ども時代の私の記憶が並びます。でも今日は違います。今日は、この三つの出来事を、読者のみなさんと一緒に、初めて調べていくことにします。そしてたぶん、最後に分かるはずです。世界がこの日を記憶しているあいだ、私はいったい、どこにいたのか。 ゲームは1日1時間、僕は一日中グラウンドに まず、あの名言です。「ゲームは1日1時間」。 調べてみて驚きました。生まれたのは、1985年7月26日。福岡市のダイエー香椎店で開かれた、ファミコンの全国キャラバン大会でのことでした。ハドソンの社員だった高橋名人が、集まった子どもたちに向けて、即興でこう言ったのだそうです。「ゲームが上手くなりたいなら、1時間くらい集中してやったほうがいいよ」と。それがいつしか「ゲームは1日1時間」という合言葉になり、日本中の親のお墨付きになっていきました。 任天堂がファミコンを発売して、ちょうど2年。あの『スーパーマリオブラザーズ』が世に出るのは、この年の9月です。つまり1985年の夏は、ファミコンブームがまさに夜明けを迎えようとしていた季節でした。コントローラーのボタンを1秒間に16回押す「16連射」で、高橋名人は子どもたちの憧れの的でした。『月刊コロコロコミック』の誌面をにぎわせ、全国のデパートやスーパーを回るキャラバン大会には、黒山の人だかりができたといいます。 そして「ゲームは1日1時間」。この一言は、ゲームに夢中になる子どもと、それを心配する親の、ちょうど真ん中に立つ言葉でした。ゲームをつくって売る側の人間が「やりすぎるな」と言う。そのふしぎな説得力もあって、この合言葉は日本中の家庭に広まっていったのでしょう。 ……と、ここまで書いて、私は気づきました。この夏、私は16歳。高校1年生でした。そして、ファミコンを持っていませんでした。興味も、正直なところ、まるでありませんでした。 理由ははっきりしています。野球です。 しかも、あのブームの真ん中にいたのは、小学生から中学生——つまり『コロコロ』を読む年頃の子たちでした。16歳の私は、ちょうどその世代の、一つ上のふちに立っていたことになります。 みんなが16連射を練習していたその夏、私は素振りのバットを振っていました。日本中の子どもたちがマリオを走らせていたその時間、私はグラウンドで白球を追いかけ、土にまみれていました。朝は誰よりも早くグラウンドに立ち、日が暮れるまでボールを追う。夏休みも、お盆も、その繰り返しです。ゲームに費やす1時間など、私にはありませんでした。仮にあったとしても、私はきっと、バットを振っていたと思います。 野球に夢中で、ゲームには本当に、これっぽっちも興味がありませんでした。だから、友達とゲームの話をしたという記憶さえ、私には一つもないのです。誰かの家に集まってコントローラーを奪い合う——そんな、いかにも昭和の子どもらしい光景の中に、私はとうとう一度も入っていきませんでした。ゲームというものは、私にとって、最後まで「よその世界の出来事」だったのです。 だから「ゲームは1日1時間」という名言も、当時の私の耳には一度も届いていませんでした。今の子どもたちが聞けば「そんなの当たり前」と笑うこの言葉が、実は40年も前に、しかも福岡のスーパーの店先で生まれていた——そのことを、私はこの歳になって、ようやく知ったのです。 幽霊も、僕を訪ねてはこなかった 二つめは「幽霊の日」です。 これも調べて知りました。1825年のこの日、鶴屋南北の歌舞伎『東海道四谷怪談』が、江戸の中村座で初めて上演された。それにちなんで、7月26日は「幽霊の日」とされているのだそうです。お岩さんの、あの怪談です。 そして昭和の夏といえば、怪談はごく身近なものでした。テレビをつければ夏の怪奇特番や心霊写真、遊びに行けばお化け屋敷や夜の肝試し。口裂け女のうわさに、学校の理科室や階段にまつわる怖い話。思えば昭和の子どもは、そこかしこで「怖いもの」と隣り合わせに夏を過ごしていました。背筋をひやりとさせて涼をとる——それが昭和の夏の定番だったはずです。 ところが、ここでもまた、私にはこれといった思い出がありません。怪談にも、お化け屋敷にも、心霊写真にも——どういうわけか、私は縁がありませんでした。 思い返せば、中学、高校と、私の夏の夜は早く更けていきました。翌日の練習のために、幽霊よりも早く床につく。テレビの前で夜ふかしをして震える、という夏の楽しみを味わう暇は、私にはありませんでした。体は疲れ果てていて、怖い話に付き合っている余裕など、なかったのかもしれません。四谷怪談のお岩さんも、心霊写真のあの手この手も、汗と泥にまみれた野球少年のところには、どうやら訪ねてこなかったようです。 2歳の僕は、月を見上げてもいなかった そして三つめ。1971年7月26日、アメリカの月ロケット「アポロ15号」が打ち上げられました。 これは三つの中でも、私からいちばん遠い出来事です。なにしろ当時、私は2歳。記憶があろうはずもありません。 それでも調べてみると、これがなかなか面白いミッションでした。アポロ15号は、月の上を走る車——「月面車」を初めて使った探検だったのです。船長のデビッド・スコットは、月面でちょっとした実験をしてみせます。左手に羽根、右手にハンマーを持ち、同時に手を離す。空気のない月では、重い鉄のハンマーと軽い羽根が、まったく同じ速さで、すとんと同時に地面に落ちました。「空気がなければ、物の落ちる速さは重さに関係ない」——400年ほど前にガリレオが唱えたこの法則を、人類は月の上で、その目で確かめてみせたのです。月の上を車が走り、その車から中継の映像が届く。冷静に考えれば、とんでもないことをやっていた時代でした。 ただ、月に人が降り立つという偉業も、このアポロ15号で四度目。世界の驚きは、少しずつ「見慣れたもの」へと変わりつつあった頃でもありました。 月といえば、私には一つだけ思い出があります。父が、事あるごとに「アポロ11号は月に行ったんだぞ。すごいよなぁ」と口にしていたことです。あの言葉は、それこそ何度も何度も聞かされました。けれど不思議なことに、その2年後に打ち上がったこの15号の話は、父の口から一度も聞いた覚えがありません。人類が二度目、三度目と月へ通ううちに、月はいつしか、わざわざ語るまでもない、当たり前の場所になっていたのかもしれません。 2歳の私は、もちろん月を見上げてなどいませんでした。きっと、眠っていたことでしょう。 僕の7月26日は、いつも同じ場所にあった こうして三つを調べ終えて、私は妙に納得しています。 ゲームの名言も、夏の幽霊も、月のロケットも——世界はちゃんと、この7月26日を記憶している。けれど私には、そのどれもが「自分ごと」ではありませんでした。 理由は、たぶん、いつも同じだったのです。私はその日、別の場所にいた。あるときは2歳で親の腕の中にいて、あるときは翌日の練習に備えて眠っていて、そしてあるときは——炎天下のグラウンドで、ただひたすらに白球を追いかけていた。 世界を沸かせた名言も、夏を彩った怪談も、人類の偉業も、私の横をすうっと通り過ぎていきました。同じ時代の空気を吸いながら、私はまるで違うものを見ていたのです。 みんなが夢中になったものを、私は知らずにいました。それは少しさびしいことのようでいて、でも、そうではないのだと思います。ファミコンを知らなかったのは、私の両手が、別のもので塞がっていたからです。そしてその「別のもの」こそが、あの頃の私にとっては、月よりも、幽霊よりも、どんなゲームよりも大切なものでした。 みんなと同じ思い出を持たないことは、思い出がないことと同じではありません。私の7月26日は、ただ、みんなとは違うかたちをしていた。それだけのことなのだと、今は思えます。 みなさんの7月26日は、どんな一日でしたか。ファミコンに夢中だった方、怪談に震えた方、月を見上げた方——それぞれの「あの日、いた場所」を、よかったら聞かせてください。 「ゲームは1日1時間」の一言が、福岡のスーパーの店先から日本中へ広まっていった顛末。それを当の高橋名人本人が振り返ったのが、この一冊です。ファミコンに背を向けて野球ばかりしていた私のような人間が読んでも、めっぽう面白い。あの夏、コントローラーを握っていた側の"答え合わせ"として、同世代におすすめします。 高橋名人のゲーム35年史(ポプラ新書)高橋名人。16連射と「ゲームは1日1時間」の伝説を、本人がユーモアたっぷりに語る。ファミコン世代の必読書 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月25日】「これが本物か」。私が回していたキューブは、偽物だった | 次の記事:【7月27日】毎朝、テレビは「ロッキード」と言っていた ▶

July 26, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月23日──午後1時19分、東京の電気が消えた。私はそれを知らずに、高校野球を終えた

1987年、昭和62年7月23日。 この日、私の高校野球が終わりました。 そして同じ日の午後、首都圏の電気が消えました。280万戸。地震でも台風でもなく、ただ暑かったという理由だけで、東京の都市機能が止まった日です。 その時刻が、午後1時19分。 私たちの試合開始は、午後1時ちょうどでした。 つまり私は、プレイボールから19分後に街の電気が落ちた、そのど真ん中にいたことになります。神宮第二球場のグラウンドに、ユニフォーム姿で立っていました。 そして——何も、覚えていないのです。 五日で三試合、そして幕が下りた あの夏のことは、日付まで正確に言えます。 7月19日、二回戦。神宮球場。相手は強豪のシード校でした。雨の中の試合です。こちらは2本のホームランが飛び出し、壮絶な点の取り合いになりました。9対8、劇的なサヨナラ勝ちです。 7月22日、三回戦。同じく神宮球場。相手は私立校。この日は猛暑でした。終盤にかけて、またもホームランをきっかけに追いつき、8対7。これも劇的なサヨナラ勝ち。ベスト16に駒を進めました。 そして7月23日、四回戦。神宮第二球場。力のある私立校が相手でした。 勢いよく臨んだ試合です。この日もホームランが出ました。しかし接戦のまま、2対3。何度も追いつけそうなチャンスがあり、私にも打席が回ってきていました。それでも、この日は逆転できませんでした。 最後のアウトの瞬間、涙が自然と溢れてきて、止めることができませんでした。整列を終え、控室に戻っても止められなかった。高校野球生活の終わりを認め、ここまで仲間とともに過ごしてきたなかでの数々の思い出が次々と押し寄せてきて、どうにもならなかった。 そうです。青春です。 三試合とも、ホームランが出ていました。それでも最後は、一点足りませんでした。 足の裏が、熱かった 五日で三試合、しかも最後は連戦です。今にして思えば、よく体がもったものだと思います。 汗だくになったユニフォームで、ヘッドスライディングから立ち上がると、胸から太ももまで土がべっとりとついて、真っ黒になりました。 そして足の裏です。当時のスパイクは、靴底に天然皮革が使われていました。その革を通してグラウンドの熱が伝わってきて、足裏が熱かった。これは鮮明に記憶しています。 ただ、いちばんきつかったのは暑さそのものではありませんでした。当時の大会は日程がかなり詰まっていましたから、疲労が抜けないのです。体が回復する間がない。体力、気力の勝負で、私たちは負けていたのだと思います。 午後1時19分、首都圏が止まった さて、その同じ時間、グラウンドの外で何が起きていたか。 原因は、暑さでした。 気象庁の統計を見ると、あの三日間の変わりようがはっきり出ています。二回戦のあった19日、全国で最高気温30度以上を記録した地点は、わずか29でした。雨の中で戦っていたのですから、当然です。それが21日には210地点、三回戦の22日には356地点、そして敗れた23日には460地点にまで跳ね上がっています。35度以上の地点数にいたっては、22日がたった1、23日が79です。 私たちの三試合は、そのまま昭和62年の夏が本気を出していく過程を、なぞっていたことになります。 梅雨明け直後の、逃げ場のない暑さ。首都圏じゅうのクーラーが、一斉に回りはじめました。 ここで問題になったのが、無効電力というものでした。電気には、実際に機械を動かして働く分と、働きはしないけれど電気を送り届けるために必要な分があります。冷房のようなモーターを使う機器が増えると、この「働かない分」が急激に膨らんでいく。電力会社は変電所に置いてある電力用コンデンサを次々と投入して、これを抑え込もうとしました。 午後1時07分、コンデンサを全量投入。それでも追いつきません。基幹の変電所では、50万ボルトの母線電圧が37万から39万ボルトまで落ち込んでいたといいます。 そして午後1時19分。不足電圧リレーが働き、基幹系の変電所が停電しました。豊島、京北、北東京、多摩、上尾、池上。笹目、北相模、新秦野、新富士。名前の挙がった変電所の下にぶら下がっていた地域が、連鎖的に落ちていきます。 停電した戸数は280万。停止した電力は816.8万キロワット。範囲は東京、埼玉、神奈川、静岡、山梨、千葉の6都県に及びました。 東北・上越・東海道の各新幹線が止まり、在来線も都営地下鉄も私鉄も、運休と遅れが相次ぎました。信号機が消え、エレベーターには人が閉じ込められました。国会議事堂のある永田町も停電し、予算委員会が開けなくなっています。 東京23区内は午後1時36分に復旧しました。しかし関東全域が完全に復旧したのは、午後4時40分。三時間を超えて電気の来ない地域が、いくつも残っていたのです。 皮肉なのは、当時普及しはじめていたインバーター式エアコンが、事態を悪化させたと言われていることです。この方式は電圧が下がっても冷房能力を落とさないように働きます。すると電圧が下がった分だけ電流が増え、それがさらに電圧を下げる。省エネのための新技術が、悪循環の輪をまわしてしまったわけです。 短絡も地絡もありません。設備が壊れたわけでもない。ただ、暑かった。それだけで首都が止まりました。 なぜ、私は気づかなかったのか こうして調べてみると、自分が何も覚えていない理由が、だんだん分かってきました。 まず、私は屋外にいました。真昼です。照明はいりません。 そして神宮第二球場のスコアボードは、手書きでした。電光掲示ではなく、係の人が数字の板を掛け替える方式です。つまりあの球場は、電気が来ていようがいまいが、試合を続けられる場所だったのです。 停電した区域の記録も、資料によって書き方に幅があります。「東京都区内北部・南部」とだけ記したものもあれば、荒川区・足立区・文京区・北区といった具体名を挙げたものもある。私が生まれ育った葛飾も、球場のあった神宮外苑一帯も、実際に消えたかどうかは、私の手元の資料では断定できませんでした。 けれど、たとえあのとき球場の周りが真っ暗になっていたとしても、私は気づかなかったと思います。 18歳の私にとって、あの日の世界は、白いラインと黒い土と、相手投手の球筋だけでできていました。三年間の全部がかかった一試合です。その外側で何が起きていようと、目に入るはずがなかった。 大人たちが「首都機能が麻痺した」と大騒ぎしていた三時間と、球児が最後の夏を終えていった三時間が、同じ空の下で、まったく交わらずに流れていた。 そういう日だったのだと思います。 私が帰り着いたとき、東京はもう明るかった 神宮からは、JRと京成線を使って、普通に帰ってきたと思います。帰宅したのは18時頃でしょうか。 そして正直に言えば、テレビのニュースも含めて、大規模な停電があったという記憶が、まったくないのです。 これも、調べてみて腑に落ちました。 関東全域の完全復旧は、午後4時40分。私が高砂の家の玄関を開けたのは、その一時間以上あとです。電車も、とっくに動いていました。 つまり私が帰り着いたとき、東京はもう何事もなかったかのように電気が点いていたわけです。復旧を待つ人の列も、止まったエスカレーターも、消えた信号機も、私は一つも見ていない。都市が止まって、また動き出すまでの一部始終を、私は丸ごと通り過ぎていたのです。 あの日、私が家まで持って帰ったのは、都市の話ではありませんでした。ユニフォームにこびりついた土と、まだ収まりきらない涙の残りだけです。 消えたのは、球場のほうだった この停電のあと、東京電力は徹底的に手を打ちました。無効電力を補う装置の設置、コンデンサの増設、系統の電圧を高めに運用すること、需要をオンラインで測って先回りすること。そのおかげで、同じ原因による広域停電は、その後今日まで起きていません。 つまり、あの日消えた電気は、三時間で戻ってきて、それきり二度と消えなかったのです。 戻ってこなかったのは、球場のほうでした。 ...

July 23, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月6日──「本を読むなら、バットを振る」、サラダ記念日がわからなかった高3の夏

7月6日は「サラダ記念日」です。歌人・俵万智さんの第一歌集『サラダ記念日』の表題歌にちなんだ、いまではすっかりおなじみの記念日ですね。 けれど、白状します。この歌集が世に出た1987年(昭和62年)の夏、当時18歳・高校3年生だった私は、「サラダ記念日」という言葉の意味が、まったくわかっていませんでした。今日はその「わからなかった私」の話から、始めさせてください。 一冊で短歌を変えた歌集 『サラダ記念日』は、俵万智さんの第一歌集です。河出書房新社から1987年5月8日に刊行されました。作者の俵さんは1962年生まれ。当時は神奈川県立橋本高校で国語を教える先生で、まだ24歳の新人歌人でした。 俵さんは大阪府の生まれ。早稲田大学で歌人・佐佐木幸綱さんと出会って短歌を始め、卒業後は高校の先生をしながら作品を発表していました。1985年には「野球ゲーム」という一連で角川短歌賞の次席に選ばれるなど、口語短歌の期待の新星として、すでに名を知られはじめていた人です。 じつは、この歌集にはちょっとした裏話があります。もともとは角川書店から出す話もあったのですが、当時の社長・角川春樹さんが「短い詩の本は売れない」と反対したというのです。結局よそから出た一冊がミリオンセラーになり、角川さんはのちに「人生最大の失敗だった」と振り返ったと伝わっています。それほど、誰にも売れると予想できなかった一冊でした。 歌集の初版は、わずか8,000部。短歌の本など、数百部も刷れば十分という世界です。それがこの一冊は爆発的に売れ、最終的に280万部を超え、1987年度のベストセラーランキングで、あらゆる本を抑えて堂々の第1位に輝きました。歌集が売上のてっぺんに立つなど、前にも後にも例のない出来事です。 何がそんなに新しかったのか。俵さんは、それまで「難しくて格調高いもの」と思われていた短歌を、私たちが普段しゃべる言葉──口語で詠んでみせたのです。恋人が手料理をほめてくれた。ただそれだけの日常のひとこまを、五・七・五・七・七の三十一文字にすくい取る。「与謝野晶子以来の天才歌人」とまで言われました。 『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日 刊行から2ヶ月後、本のなかで名づけられた「7月6日」を、現実のカレンダーで初めて迎えた日。朝日新聞の「天声人語」がこの歌を取り上げると、出版社には1日で約1,500本もの電話注文が殺到したそうです。その年の新語・流行語大賞では「新語部門・表現賞」に選ばれ、「記念日」という言葉そのものを世間に広めました。まさに、社会現象です。 「本を読むなら、バットを振る」 さて、その社会現象のまっただ中にいたはずの、18歳の私です。 1987年の夏、私は高校3年生。最後の夏の大会を目前に控えた、野球部の球児でした。来る日も来る日も、白球を追って土にまみれていました。 恥ずかしながら、当時の私には本を読む習慣がまるでなく、「本を読むなら、バットを振る」と、それはもう大まじめに思っていました(笑)。歌集どころか、活字そのものが、遠い世界の話でした。 それでも、『サラダ記念日』という本の名前や、俵万智さんというお名前は、なんとなく知ってはいました。テレビだったか、新聞だったか──どこで知ったのかは、いま思い出そうとしても、まるで思い出せません。ただ、はっきりしているのは、短歌そのものには、まったくの無関心だったということです。あの頃の私は、たぶん野球以外のことには、何ひとつ興味がわかなかったのだと思います。 よく覚えているのは、同級生の部員に一人、勉強のよくできる奴がいて、そいつが会話のなかで「〇〇だから〇月〇日は〇〇記念日な」なんて言い回しを、さらりと使っていたことです。仲間うちで流行っていたわけではありません。ただ、その頭のいい一人だけが、なぜか口にしていた。今になって、ふと思い出します。 正直に言うと、それを聞いても私は「はぁ?何、それ!」という感じで、何のことやらよくわかっていませんでした。私のまわりの仲間も、たぶん似たような温度感だったと思います。汗と土埃のグラウンドに、短歌なんてものが入り込んでくる隙間は、これっぽっちもなかったのです。 いま振り返ると、あの夏の自分について、一つだけ言い直しておきたいことがあります。さきほど、私は「野球のことしか考えていなかった」と書きました。けれど、正確には──「野球のことしか考えたくはなかった」。そう書くほうが、たぶん正しいのです。 当たり前のことですが、高校野球は、残りひと月ほどで終わりを迎える。それは自分でもわかっていました。終われば、卒業後の進路を考えなければならない。うちの家の経済状況で、大学進学なんて可能なのか。そもそも、今の自分の学力では、進学などお話にならないのではないか。──そんな思いは、頭の奥で、もくもくと湧いては来ていたのだと思います。 でも私は、そのどれ一つにも正面から向き合うことなく、ただ「野球」に逃げ込んでいました。白球を追いかけている間だけは、面倒なことを何も考えずにいられたからです。いまこの年になって振り返ると、あの夏のグラウンドには、そうやって逃げ込んでいた一人の自分が、確かにいたのだと思います。 いま、あの夏の「はぁ?」がわかる あれから39年。57歳になった私は、ようやく、あの夏の「はぁ?」の正体がわかるようになりました。せっかくなので、当時の私にも通じるように、かみ砕いて書いてみます。 なぜ、たった一冊の歌集が280万部も売れたのか。答えは、俵さんが短歌を「自分たちの言葉」に取り戻してくれたからです。かしこまった言葉づかいではなく、友だちと話すみたいなことばで、恋やごはんや、なんでもない一日を歌にしていい。そう教えてくれたのです。 それまで短歌といえば、年配の人の趣味か、教科書の中の古めかしいもの、というイメージでした。それを俵さんは、同じ時代を生きる若者のことばで歌ってみせた。だからこそ、ふだん短歌に縁のなかった若い世代、とりわけ同世代の女性たちの心を、一気につかんだのです。 そしてもう一つ、大きな発明がありました。それは「記念日」という考え方です。特別な日というのは、誰かに決めてもらうものではなく、自分の気持ちひとつで名づけていいものなんだ──。じつは「7月6日」という日付も、その日に何かが起きたわけではなく、恋のイメージが強い七夕(7日)のあえて前日を選び、「なんでもない日こそ記念日にしたい」という思いから決められたものだそうです。 だから、たくさんの人が「それなら私も」と動きました。出版社が募った投稿短歌は、なんと20万首にも上ったといいます。みんなが自分の言葉で、自分の記念日を詠みはじめたのです。 熱は、本の外へもあふれ出しました。「〇〇記念日」という言い回しは巷にあふれ、スポーツ新聞の見出しにまで躍り、パロディ本や英語の対訳版、テレビドラマまで生まれたといいます。──そう考えると、あの頭のいい同級生が「〇〇記念日な」と口にしていたのも、けっして気取った特別なことではなかったのですね。彼はただ、その夏の世の中の空気を、そのまましゃべっていただけだったのです。 そして──ここが私にとっての、いちばんの発見でした。あの表題歌が生まれたきっかけは、じつはサラダではなく、お弁当に入れたカレー味の唐揚げだったこと。しかもその一首は、お弁当を持って“野球を見に行った日”に思いついたものだというのです。俵さんが歌人として注目されるきっかけになった作品の題名も、「野球ゲーム」でした。 世間が短歌に沸いていたあの夏、グラウンドにいた私はまったく知らなかったけれど。「サラダ記念日」は、私が大好きな野球場の空気のなかから生まれた歌でもあったのです。なんだ、ちゃんと地続きだったんじゃないか──39年越しに、そう思いました。 それぞれの「記念日」 こうして背景を知ってみると、短歌にまるで興味のなかったあの頃の私にも、確かに"記念日"はあったのだと気づきます。 そう、最後の夏の大会です。勝っても負けても、あの一日は、間違いなく私の人生の記念日でした。記念日は自分で名づけていいものだと俵さんが言うのなら、私にとっての「サラダ記念日」は、あの土のグラウンドの上に、ちゃんとあったのです。バットを振っていた私は、私なりのやり方で、ひと夏の記念日を刻んでいたのだと思います。 それは、進路の不安から逃げ込んだ先だったのかもしれません。それでも、あれほど夢中で逃げ込める場所があったこと自体、いま思えば、とても幸せなことでした。あの夏の自分を、責める気にはなりません。むしろ「よく最後まで白球を追いかけたな」と、そっと声をかけてやりたいくらいです。 令和のいま、私たちは毎日のようにスマホで「いいね」を押しています。「この味がいいね」の"いいね"が、時代を越えて別の意味を持つようになったのも、なんだか面白いものです。俵さんご自身、後年になって「いいねの元祖ですね」と言われる、と語っていました。たった一つの「いいね」で幸せになれる──そんな歌だったと知ると、あの頃「はぁ?」と首をかしげていた自分が、少しかわいく思えてきます。 「はぁ?何、それ!」だったあの一首の背景を、こうして39年越しに知って、静かに腑に落ちる。これもまた、遅れてやってきた、私だけの小さな記念日なのかもしれません。 あなたには、誰かに決められたのではなく、自分で「これは記念日だ」と思えた一日がありますか。そして1987年の夏、あなたは「サラダ記念日」を、どんなふうに聞いていましたか。よかったら、コメントで聞かせてください。 あの夏、私が「はぁ?」と首をかしげた一冊。39年越しにページを開いてみると、かしこまらない言葉で日常のきらめきをすくい取る、その心地よさに驚かされます。若い日に読み逃した方も、あの頃むさぼり読んだ方も。この機会に、あなたの「サラダ記念日」を探しに。 サラダ記念日(河出文庫)俵万智。短歌を“自分たちの言葉”に取り戻した、280万部の不朽の第一歌集 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月5日】センターコートに立った日本人、沢松和子のウィンブルドン制覇 | 次の記事:【7月7日】三角屋根の向こうのハンバーグ、すかいらーくと「外食元年」 ▶

July 6, 2026

6月19日 ── ベトちゃん・ドクちゃんが東京へ運ばれてきた夏、私は十七歳だった

六月十九日。梅雨の重たい雲を見上げるたび、私はこの日のニュースを思い出します。昭和六十一年(一九八六年)のこの日、ベトナムから運ばれてきた二人の幼い兄弟が、東京の病院で手術を受けました。ベトちゃんと、ドクちゃん。下半身がつながったまま生まれた、結合双生児の兄弟です。 そのとき私は十七歳、高校二年生でした。ちょうど高校野球の東東京大会を目前にひかえ、グラウンドと教室を行き来する毎日のなかにいました。ベトちゃん・ドクちゃんのニュースは、テレビで何度も目にしていました。くわしいことは、正直よく分かりませんでした。それでも、ただ「がんばれ」と願っていた——そんな自分を、いまでもはっきりと憶えています。 白状すれば、当時の私にとって、ベトナムはそれほど馴染みのある国ではありませんでした。ただ、物心ついたころから、ベトナム戦争のニュース報道を、何度も何度もテレビで見て育ってきた。だから「ベトナム」という言葉に触れると、私のなかでは決まって「戦争」という言葉が結びつきました。詳しいことは分からないのに、心がふっと「不安」になる。ベトナムとは、当時の私にとって、そういう遠い国だったのです。 いま思うと、不思議なものです。来たる大会のことで頭がいっぱいだったはずの十七歳の私が、それでもテレビの前で足を止め、遠い国の二人の子どもに、手を合わせるように「がんばれ」とつぶやいていた。あの六月の感覚は、四十年がたったいまも、胸のどこかに残っています。 一つの体に、二つの命 ベトちゃんとドクちゃんは、昭和五十六年(一九八一年)二月二十五日、ベトナム中部高原のコントゥム省で生まれました。上半身が二つ、下半身が一つ。Y字のかたちにつながった、「一胴二体」と呼ばれる結合双生児でした。 二人がこうして生まれた背景には、ベトナム戦争があると報じられました。米軍が大量に散布した枯葉剤——その影響ではないか、と。枯葉剤は、一九六一年からのおよそ十年間で、ベトナムの森や畑に七千万リットル以上もまかれたといわれます。その多くに、人体に有害なダイオキシンが含まれていました。直接浴びた人や、その土地の水や作物を口にした人、生まれてくる子どもにまで影響が及んだとされ、二人の母親も、枯葉剤のまかれた地域の井戸水を飲んでいたと伝えられました。はっきりとした因果は、いまも科学的に証明されたわけではありません。けれど、戦争が終わってなお、人の体に爪痕を残しているのかもしれない。そのことは、当時の日本に重く響きました。私の胸の奥にあった「ベトナム=戦争=不安」という結びつきも、たぶんこのあたりから来ていたのだと思います。 兄はベト、弟はドク。越南(ベトナム)の「越」、東ドイツの「徳」。治療を受けたハノイの病院で、そう名づけられたといいます。下半身のつながった幼い兄弟の写真は日本中に紹介され、ベトナム戦争の傷あととして受け止められ、各地で支援の輪が広がっていきました。昭和六十年(一九八五年)には福井県敦賀市で「ベトちゃんとドクちゃんの発達を願う会」が結成され、募金で車椅子が贈られています。ちょうど私が高校一年生のころのことです。戦争を知らない世代だった私の頭にさえ、二人の名前と、あのつながった小さな体の写真は、いつのまにか焼きついていました。 東京へ運ばれてきた六月 昭和六十一年六月十一日。兄のベトちゃんが、急性脳症を発症しました。けいれんの発作を繰り返し、やがて意識を失っていきます。けれど、体のつながった弟のドクちゃんの意識は、はっきりしたままでした。一つの体の上で、二つの命がまったく違う時間を生きている。その事実の重さは、ニュースを見ていた多くの人の胸に、言葉にならないまま残ったはずです。 日本赤十字社の支援で、二人は特別機で日本へ緊急搬送されます。海を越えて運ばれてくる小さな二人の容態を、日本中が固唾をのんで見守りました。そして六月十九日、東京の病院で手術が行われました。一命はとりとめたものの、ベトちゃんには重い後遺症が残りました。治療のなかで大脳が傷つき、外の世界を感じる力の多くを失ってしまったのです。二人はその後、ベトナムへ帰っていきました。 そして二年後の昭和六十三年(一九八八年)十月四日。ホーチミン市のツーズー病院で、ついに二人を分ける手術が行われます。前例のない手術を前に、医療チームは何度も議論を重ね、マネキン人形を使って手順をたしかめたといいます。七十人を超える医療スタッフ、日本赤十字社の医師の立ち会い。慎重に慎重を期した大手術は、成功しました。一つだった体が、二つになった。二人はそれぞれの人生を、別々の足で歩きはじめたのです。 フジとサクラ、という名前 それから、長い歳月が流れました。 兄のベトちゃんは、分離手術のあとも体調がすぐれず、平成十九年(二〇〇七年)、二十六歳でこの世を去りました。 一方、弟のドクちゃんは生き抜きました。義足で歩く訓練を重ね、コンピュータを学び、やがてツーズー病院の職員として働くようになります。自分がかつて分けられた、あの病院で——です。結婚し、双子の子どもにも恵まれました。その二人の名前が、フジと、サクラ。富士山と、桜。自分を助けてくれた日本への感謝を、わが子の名前に込めたのだといいます。 新型コロナが日本を襲ったとき、ドクさんは日本へマスクを贈りました。かつて助けられた側が、こんどは助ける側にまわっていた。令和になったいまも、ドクさんは枯葉剤被害に苦しむ人たちを支える活動を続けています。二〇二四年には、ドクさんと家族の日々を追ったドキュメンタリー映画『ドクちゃん フジとサクラにつなぐ愛』が、日本各地で公開されました。ベトナム戦争が終わって、五十年あまり。あの夏、テレビのこちら側で「がんばれ」と願っていた十七歳の私が見ていたものは、まだ終わってなどいなかったのだと、いまになって思います。 帝国劇場で観た「ミス・サイゴン」 ここで、個人的な記憶をもう一つ、書かせてください。 あのニュースから数年がたった平成四年(一九九二年)、私は東京・日比谷の帝国劇場へ、一本のミュージカルを観に行きました。『ミス・サイゴン』です。ベトナム戦争末期のサイゴンを舞台に、ベトナム人の少女キムと、アメリカ兵クリスの、引き裂かれていく恋を描いた物語。その背景にあるのは、まさに、あの戦争でした。 東宝が制作した日本初演で、ヒロインのキム役を演じていたのが、本田美奈子さんでした。アイドルとして親しんできた彼女が舞台の上で歌い上げる代表曲「命をあげよう」は、一年半におよぶロングランの語り草となりました。本田さんは、のちに白血病で世を去ります。まだ三十八歳の若さでした。 舞台を観て、私はこれが単なる恋愛や戦争の物語ではないと感じました。当時のベトナムの社会のありさまや、人々の暮らしまでもが、ひしひしと伝わってくる。戦争によって日常も将来も大きく変えられてしまうなかで、登場人物たちは家族を、愛を、大切な人を守るために、必死に生きている。その姿が、強く印象に残りました。とりわけ主人公たちの選択を通して、平和な環境は決して当たり前のものではないこと、そして生まれた国や時代によって人生が大きく左右されてしまう現実を、考えさせられたのです。本田美奈子さんの力強くも繊細な歌声が、その感情や葛藤を、いっそう深く届けてくれました。二十代前半だった私にとって、自分の将来や生き方を改めて見つめ直す、きっかけになった作品でした。 ニュースのなかで「不安」だったベトナムが、このときは、舞台の物語として、音楽とともに胸に流れ込んできた。いま思えばあの夜は、私とベトナムの距離が、ほんの少し縮まった夜だったのかもしれません。 ミス・サイゴン 日本公演ハイライト盤本田美奈子ほか/日本初演キャスト。あの「命をあげよう」を収録 Amazonで見る › お向かいさんは、ベトナムの家族 いま、日本にはたくさんのベトナムの人が暮らすようになりました。ベトナム料理のお店も、あちこちで見かけます。そして——我が家のお向かいには、ベトナム人のご家族が住んでいます。 子ども同士が本当に仲良しで、いまは一緒に学童野球のチームに入って、同じユニフォームで白球を追いかけています。パパとママからは、ベトナムのことをいろいろ教えてもらいました。おかげで私にとってベトナムは、すっかり身近な存在になったのです。国が違っても関係なく、あっという間に仲良くなってしまう子どもたちを見ていると、なんだか「ほっこり」と、いい気分になります。 思えば、昭和六十一年のあの六月、東東京大会を前にした高校二年の私は、テレビの向こうのベトナムに、ただ「がんばれ」と願うことしかできませんでした。「ベトナム」と聞けば「戦争」が浮かび、胸が「不安」になった、あの遠い国。それが四十年の時を経て、いまは目の前で、子どもたちが同じグラウンドで野球を楽しむ国になっている。ドクさんがわが子に富士と桜の名を授けたように、国境というものは、もう子どもたちのあいだには無いのかもしれません。同じ「ベトナム」という言葉が、私のなかで「不安」から「ほっこり」へと、長い時間をかけて、ゆっくりと姿を変えていったのです。 昭和の終わりに、テレビの向こうにあった「不安」が、令和のいま、すぐお向かいの「ほっこり」になっている。その長い距離を縮めたのは、二人を救おうとした人たちの手であり、そして何より、過去にとらわれることなく、あっさりと手をつないでしまう子どもたちの力なのだと思います。 六月十九日。あなたは、ベトちゃんとドクちゃんのニュースを覚えているでしょうか。あのとき、テレビのこちら側で、何を思っていたでしょうか。よかったら、聞かせてください。 このシリーズ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線で振り返っています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月18日 ── おにぎりの日に、千年の握り飯と母の手を思う | 次の記事:6月20日 ── テレビの「向こう側」だったNHKホールに、息子と立った日 ▶

June 19, 2026

6月10日 ── 時を計る日に、手作りの時計と夜の高速バスを思う

梅雨の入り口、六月十日は「時の記念日」です。 由来は、ずいぶんと古い。『日本書紀』によれば、六七一年のこの日(新暦に換算して六月十日)、天智天皇が漏刻(ろうこく)という水時計を新しい台に据え、鐘や鼓で人々に初めて時を知らせた——とあります。それにちなんで、大正九年(一九二〇年)、東京天文台と生活改善同盟会が「時間を大切にしよう」と呼びかけて定めたのが、この記念日のはじまりだそうです。 千三百年以上も昔の人が、水の落ちる音で時を計っていた。そう思うと、なんだか不思議な気持ちになります。 そして「時の記念日」と聞くと、私がまっさきに思い出すのは、保育園で作った、あの手作りの時計のことなのです。 空き箱で作った、私だけの時計 私が保育園に通っていたのは、昭和四十七年から五十年ごろ。歳でいえば、三歳から六歳のあいだです。その保育園では毎年、この六月十日の「時の記念日」にちなんで、子どもたちがそれぞれに「時計」を作る工作をしました。 材料は、空き箱や色画用紙。お菓子の箱だったか、何かの包み紙だったか、家から持ち寄ったような気もします。丸く切った画用紙に数字を書き込んで、短い針と長い針をつけて、思い思いの時計をこしらえる。みんなが作るから、出来あがる時計は一つとして同じものがない。針の角度も、数字の並びも、それぞれにいいかげんで、それぞれに誇らしかった。 いま思えば、まだ時計の読み方さえおぼつかない年ごろです。長い針と短い針が何を指しているのか、本当のところはわかっていなかったでしょう。それでも保育園は、この日に「時間って大切なものなんだよ」と、工作という形でそっと教えてくれていたのですね。あの先生たちの心づかいに、五十年も経ってからようやく気づくのですから、私もずいぶんとのんびりしたものです。 そういえば、当時の我が家には、本物の時計がありました。柱にかけられた、縦長で、振り子が左右にゆっくりと揺れるタイプの時計です。文字盤の下で振り子がチクタクと時を刻み、毎正時になると、ボーン♪ ボーン♪……と、低い音で時を打ちました。三時には三回、十時には十回。鳴る数をかぞえれば、まだ文字盤のうまく読めない子どもにも、今が何時なのかが、ちゃんと伝わってきたのです。 思えば、天智天皇が鐘や鼓を打ち鳴らして時を知らせたのと、あの柱時計がボーンと鳴って時刻を告げていたのは、案外、同じことだったのかもしれません。水時計から、保育園児の空き箱の時計、そして柱の振り子時計まで。時を計り、時を告げようとする気持ちだけは、千三百年、ちっとも変わっていないのですね。 黄色い箱の中の、ゆっくりした時間 六月十日は、もうひとつの記念日でもあります。「ミルクキャラメルの日」。 森永製菓がこの日を選んだのには理由があります。一九一三年(大正二年)六月十日、それまでただ「キャラメル」と記して売っていたお菓子に、“ミルク"の二文字を冠して「ミルクキャラメル」として売り出した。創業者の森永太一郎が、西洋菓子になじみのなかった時代に「日本の人々に栄養価の高いおいしいお菓子を」と願って世に出した、森永の原点ともいえる一粒です。発売当初はバラ売りで一粒五厘。翌年には、二十粒入り十銭の、あの携帯用の箱が登場しました。 私が覚えているのは、もちろん大正の話ではありません。あの黄色い箱です。「滋養豊富・風味絶佳」という、子どもにはむずかしい字が並んでいて、けれど中身は文句なしに甘かった。 ただ、正直に打ち明けると、私はいつもミルクキャラメル一筋だったわけではありません。お店の前では、たいてい迷っていました。森永のミルクキャラメルにするか、それとも、グリコのおまけ付きキャラメルにするか。おまけのおもちゃが欲しい日もあれば、ただ甘いものを口にしたい日もある。子どもなりに、毎回それなりの葛藤があったのです。 ところが、不思議なことがひとつ。小学校の遠足の前は、おやつが「三百円以内」と決められていて、その限られた予算で何を買うかは、子どもにとって一大事でした。あれこれ手に取っては戻し、さんざん迷う。——のに、遠足のときだけは、どういうわけか毎回ミルクキャラメルを選んでいたのです。普段はあれだけおまけに心を揺らしていたはずの私が、遠足の朝には、なぜか黄色い箱に手が伸びる。理由は、自分でもよくわかりません(笑)。 今になって思えば、こういうことだったのかもしれません。ミルクキャラメルは、噛まずに舌の上でゆっくり溶かしていけば、一粒で長くもつ。バスに揺られ、野山を歩き、お弁当を広げ……長い長い遠足の一日に、少しずつ取り出して味わうには、ちょうどよかったのでしょう。おまけは手に入れた瞬間に終わってしまうけれど、キャラメルの甘さは、一日かけてゆっくり続いてくれる。あれもまた、時間を味わうお菓子だったのです。 あの黄色い箱は、今もそのままの姿で売られています。久しぶりに一粒、舌の上で溶かしてみると、遠足の朝の気持ちが、ふっとよみがえるかもしれません。 森永 ミルクキャラメル 大箱 149g×5箱あの懐かしい黄色い箱/森永製菓 Amazonで見る › 夜のうちに、時間を飛び越える ── ドリーム号 そして、きょうのもう一本。昭和四十四年(一九六九年)六月十日、東名ハイウェイバスの開業と同時に、夜行高速バス「ドリーム号」が走り出しました。高速道路を走り抜ける、日本で初めての夜行バスです。東京と大阪を、夜のあいだに結んでしまう。当時としては、ずいぶんと夢のある乗り物だったはずです。 この夜行バスが走り出す少し前、昭和四十四年五月に、東名高速道路が全線開通したばかりでした。それまで東京と名古屋・関西を結ぶ大動脈といえば、その五年前に開業した東海道新幹線。ドリーム号は、いわばその新幹線を夜のあいだに補う足として登場したのです。運行開始当初は、東京〜大阪が二往復、東京から名古屋を経て京都へ向かう便が一往復。眠っているうちに目的地へ届けてくれるこのバスは、開業からしばらくのあいだ、日本でいちばん長い距離を走る路線バスでもありました。 少しあとの、昭和五十年ごろの時刻表が残っています。それを見ると、東京から名古屋までのおよそ三百五十キロを、速い便でも五時間半あまりかけて走っていました。運賃はその区間で千九百円ほど、夜行に乗るにはさらに三百円の指定料金が必要だったといいます。今の感覚からすれば、ずいぶんのんびりとした道のりです。それでも、ひと晩を乗り物の中で過ごして遠い街へ向かうという体験そのものが、あのころはまだ、真新しいものだったのでしょう。 昭和四十四年という年は、私にとって少しだけ特別です。私が生まれたのが、この年の四月。つまり私がこの世に出てきて、わずか二ヶ月後に、ドリーム号は東京の夜を初めて出発していたことになります。自分が生まれた年に走り始めたものと聞くと、勝手に親近感がわいてくるのです。 その「同い年」のバスに、私が実際に乗ったのは、ずっとあとのことでした。平成二十二年(二〇一〇年)。長男が小学六年生だった年です。その春と夏、私は息子を連れて、甲子園へ高校野球を観に行きました。その足に選んだのが、夜行のドリーム号だったのです。 東京駅の八重洲南口を、夜の十時ごろ出発する。大阪に着くのは、翌朝の七時ごろ。夜行バスの乗り場には、行き先の違うバスが何台も連なって停まっていて、それぞれの行灯のような行き先表示が、夜の中にぽつぽつと浮かんでいました。これからどこかへ運ばれていく人たちの気配。そのなかに、息子と私もいる。「さあ、息子との旅が始まるぞ」という高揚感で、胸がいっぱいになったのを、今でもよく覚えています。いい思い出です。 考えてみれば、不思議なものです。私が生まれた二ヶ月後に走り出したバスに、四十年あまりが過ぎて、今度は私が自分の息子と並んで揺られている。夜のうちに距離を飛び越える乗り物が、いつのまにか、親子の時間まで運んでくれていた。 令和の今、時間は手のひらの中に いま、時刻を知るのに苦労する人は、もういません。スマートフォンの画面には、いつでも秒まで表示されている。時間は、手のひらの中に常にあります。空き箱で時計を作らなくても、針の読み方を覚えなくても、数字はいつでもそこにある。 それでも、ミルクキャラメルは今も、あの黄色い箱のまま店に並んでいます。夜行バスは全国を縦横に走り、行き先も種類も、私が子どものころには想像もつかなかったほど増えました。時を計る道具は変わっても、一粒を急がず溶かす時間や、夜のうちに遠くへ運ばれていく時間は、きっと今も変わらずそこにある。 わが子が小学生だったあの夜、八重洲のバス乗り場で胸を高鳴らせたのも、もう十数年前のこと。時間というのは、計るそばから、こうして思い出に変わっていくものなのですね。 みなさんにとって、「時間をかけて味わったもの」は、何でしょうか。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。 あわせて読みたい:アルプススタンドの千羽鶴に込められた思いを、親の目線で書きました▼ 千羽鶴に込められた思い――甲子園を目指す高校野球を「親の目線」で見て気づいたこと ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月9日 ── ロックの日に、木曜九時のザ・ベストテンを思い出す | 次の記事:6月11日 ── 入梅。ビニール傘と、列島改造の槌音と ▶

June 10, 2026