【昭和の今日は何があった日?】8月12日──甲子園と、御巣鷹と、同じ夏
今日は8月12日。明日からお盆に入るという、一年でいちばん人の動く時期です。 昭和60年(1985年)のこの日も、まさにそういう日でした。新幹線も、高速道路も、空の便も、帰省する人と旅行に出る人でぎっしりと埋まっていた。羽田から大阪へ向かう便は、三週間も前からほとんど満席だったといいます。 その夕方、日本航空123便が群馬県の山中に墜落しました。乗客乗員524名のうち、520名が亡くなった。単独機の事故としては、いまなお世界最悪の航空事故です。 この連載を書きながら、8月12日をどう扱うか、私はずっと考えていました。軽く触れて通り過ぎることはできない。かといって、私が何かを語れる立場でもない。 それでも書こうと思ったのは、あの日が私にとって、忘れようのない「あの夏」の一部だからです。そして今、私が人を乗せて運ぶ仕事をしているからです。 あの夏の関心事は、甲子園だった 昭和60年8月12日。私は16歳、高校1年生でした。 正直に書きますが、あの日の日中の私の頭の中にあったのは、飛行機のことでも、お盆のことでもありません。甲子園でした。 第67回全国高等学校野球選手権大会は、この年の8月8日に開幕していました。そして何より、PL学園の桑田真澄と清原和博――「KKコンビ」にとって、最後の夏だったのです。あの二人が甲子園で戦う姿を見られるのは、この夏で終わり。高校で野球をやっている人間にとって、これ以上の関心事はありませんでした。 その夏、私は足を骨折していたはずです。それでも昼間は学校へ行き、野球部の練習に出ていました。 夕方、家に帰りました。今日の甲子園はどうなったんだろう、と確認するつもりでテレビをつけたのだと思います。 そこに流れていたのは、まったく別のニュースでした。 日航機が、レーダーから消えた。 18時12分から、18時56分まで 事故当日の123便は、定刻より12分遅れて、18時12分に羽田を離陸しました。 離陸から12分後の18時24分。伊豆半島南部の東岸上空にさしかかったあたりで、機体後部の圧力隔壁が壊れました。垂直尾翼の大部分と補助動力装置が吹き飛び、四系統ある油圧の操縦システムを、すべて失いました。 飛行機の操縦は、油圧で舵を動かすことで成り立っています。それが全部なくなった。ハンドルもブレーキも効かない車が、時速数百キロで走り出したようなものです。 普通なら、そこで終わりです。 ところが123便は、そこから32分間、飛び続けました。 機体は上下に激しく揺れ、左右に振られながら、それでも空にとどまり続けた。乗務員は、左右のエンジンの出力をわずかずつ変えることで、機首の向きを変えようとしていました。効くはずのない方法で、それでも機体を立て直そうとし続けたのです。 そして18時56分、群馬県多野郡上野村、高天原山の尾根に墜落しました。標高1,565メートル。のちに「御巣鷹の尾根」と呼ばれることになる場所です。 夜の山中で、墜落地点の特定は難航しました。地上から現場を目で確認できたのは、翌13日の朝7時34分。最初の生存者が見つかったのは、10時45分でした。 生存者は4名。全員が女性で、全員が重傷でした。524名のうち、4名。 原因は、7年前にさかのぼります。事故機は昭和53年6月、伊丹空港で機体の尾部を滑走路に打ちつける事故を起こしていました。そのとき損傷した後部圧力隔壁の修理が、正しく行われていなかった。7年間飛び続けたあとで、その箇所が耐えきれなくなったのです。 名簿に並んだ、名前 翌日から、搭乗者名簿が少しずつ明らかになっていきました。 歌手の坂本九さん。当時43歳。「上を向いて歩こう」が海の向こうで『SUKIYAKI』という題名になり、アメリカのヒットチャートで1位になった、日本でただ一人の歌手です。ただ私たちの世代にとっては、伝説の人というより、テレビでよく見る「九ちゃん」でした。 あの訃報には、本当にショックを受けました。今でもこの事故の話を耳にすると、テレビの中で「上を向いて歩こう」を歌う九さんの映像が、条件反射のようによみがえってきます。 宝塚歌劇団の娘役だった北原遥子さん、24歳。阪神タイガース球団社長の中埜肇さん。 そして、竹下元章さん、47歳。 この方の名前を、私は今回この記事を書くために調べていて初めて知りました。元プロ野球選手で、捕手だった方です。現役引退後は会社勤めをされ、勤務先の関係で群馬県に住んでおられました。 竹下さんは、あの日、甲子園に向かっていました。 群馬県代表として第67回大会に出場していた、東京農業大学第二高等学校。その野球部に、竹下さんの息子さんがいたのです。息子の応援に行くために、羽田発伊丹行きの便に乗った。それが123便でした。 四十年経って、私はこの事実の前でしばらく手が止まりました。 あの夏、私が「今日の甲子園はどうなったかな」とテレビをつけたのと同じ日に、息子の試合を見に甲子園へ向かった父親が、あの飛行機に乗っていた。私の頭の中でまったく別々の場所にあった「甲子園」と「御巣鷹」が、一人の方の上で交差していました。 一日のうちに、終わったものと始まったもの もう一人、名簿に載っていた方がいます。ハウス食品工業社長の、浦上郁夫さん。47歳。 この方の名前のところで、この日のもうひとつの出来事が重なります。 同じ8月12日、報道機関に一通の手紙が届いていました。差出人は「かい人21面相」。1年半にわたって食品会社を脅し続け、日本中を不安に陥れたグリコ・森永事件の犯人グループからの、一方的な終結宣言でした。 脅迫を受けていた企業のひとつが、ハウス食品工業です。浦上社長は、事件が終わったことを、大阪にある父上――同社の創業者――の墓前に報告するため、その日のうちに大阪へ向かいました。 その便が、123便でした。 一日のうちに、昭和を騒がせたひとつの事件が幕を引き、もうひとつの惨事が始まった。そしてその二つが、一人の方の上で交差してしまった。何かの意味を見出したくなるような偶然ですが、意味などありません。ただ、そういうことが起きた、というだけです。 昭和60年の夏というのは、そういう夏でした。 「同じ夏」の記憶 あの頃の我が家は、テレビが必ずついている家でした。朝も、夕方も、夜も。だから事故の報道は、いやでも何度も目に入ってきました。 とりわけ生々しく残っているのが、翌朝の救出の映像です。 自衛隊のヘリコプターが山の上でホバリングして、隊員が降りていき、12歳の少女を吊り上げていく。あの映像は、四十年経った今でも、私の中で色褪せていません。テレビの前で、家族全員が黙って画面を見ていたあの空気ごと、覚えています。 そしてその同じ夏、甲子園ではKKコンビが暴れ回っていました。清原がホームランを打ち、桑田が投げ、PL学園は8月21日の決勝で宇部商業を下して優勝しました。私はそれを、テレビの前で夢中になって見ていたはずです。 不思議なのは、この二つが私の中で、まったく同じ強さで残っていることです。 普通なら、520人が亡くなった事故のほうが圧倒的に重いはずです。でも私の記憶の中では、清原のホームランと、ヘリコプターから吊り上げられる少女の映像が、同じ濃さで並んでいる。 たぶん、それが「同じ夏」だったからなのでしょう。 16歳の私は、あの二つを別々の出来事として整理する術を持っていませんでした。ただ、同じテレビの中で、同じ夏に、続けて起きたこととして受け取った。だから記憶の棚に、隣り合わせで入っている。振り返れば不謹慎な並べ方に思えるかもしれませんが、記憶というのはそういうものなのだと思います。 お命を預かる、ということ 私は今、路線バスの運転士をしています。 初めてお客さまを乗せて運行に出た日のことを、はっきり覚えています。 ...