今日は8月16日。京都の五山送り火が灯り、お盆が静かに終わっていく日です。子どものころの私にとっては、「夏休みが折り返しどころか、下り坂に入った」と気づかされる、少し落ち着かない日でもありました。そして甲子園は、ちょうど大会が佳境に入るころです。

1979年(昭和54年)8月16日、木曜日。夏休みの真ん中のこの日、甲子園球場で一つの試合が始まりました。第61回全国高等学校野球選手権大会の3回戦、和歌山代表・箕島高校と、石川代表・星稜高校。第4試合、プレーボールは午後4時6分でした。

その試合が終わったのは、日がとっぷり暮れたあとのことです。

夏の甲子園。この写真は令和8年8月、筆者が撮影したもの。

当時、私は10歳。小学4年生でした。

そして正直に告白すると、私はこの試合をリアルタイムでは見ていません。


その夜、私は花火をしていた

小学4年生の夏、私の野球はプロ野球でした。高校野球というものに、まだそこまでの興味を持っていなかったのだと思います。家でのテレビといえば、当然のように巨人戦のナイター中継。それが私にとっての「野球を見る」ということでした。

そして、テレビの前にいない夜のほうが多かったかもしれません。

あのころの夏休み、私は昼間のうちに友達と花火を買い込んで、夜7時ごろに集合していました。名づけて「花火大会」です。ひと夏に何回やるんだと突っ込まれるレベルで、何度も何度も開催していました(笑)。要するに、花火を口実にした夜遊びです。暗くなってから外に出られるというだけで、あのころは特別なことでした。

午後4時6分に始まった箕島と星稜の試合が、まさにその時間帯まで続いていたことを、私は当時まったく知りませんでした。日本中がテレビにかじりついていたその夜、葛飾の小学4年生は、線香花火の火玉が落ちるのを友達と見つめていたわけです。


春の王者と、北陸のエース

箕島は、この年の春の選抜で優勝しています。夏も勝てば、公立高校としては史上初の春夏連覇。エース石井毅と捕手・嶋田宗彦のバッテリーを擁する、文句なしの優勝候補でした。

対する星稜には、エース堅田外司昭がいました。北陸の高校がまだ全国で無名に近かった時代に、この一戦で全国に名を知らしめてしまう力を、彼らは持っていました。

試合は投手戦になります。4回に両校が1点ずつを取り合ったあとは、スコアボードにゼロが並ぶ。9回を終えて1対1。延長に入り、甲子園の照明のスイッチが入れられました。青空が薄暮になり、やがて星ひとつ見えない夜空に変わっていく。ナイターになった甲子園で、ここから信じがたいことが起こります。

延長に入り、照明のスイッチが入れられる。(令和8年8月、筆者撮影)


12回裏、二死無走者から

延長12回表、星稜が勝ち越します。打球は二塁への何でもないゴロでしたが、堅守を誇る箕島の二塁手がこれをトンネルしてしまう。

その裏、箕島の攻撃はあっさり二死。走者もいません。あと一人。

箕島の尾藤公監督が敗戦を覚悟したとき、次の打者である一番・嶋田宗彦が、監督の前に立ちはだかってこう言いました。ホームランを狙ってきます、と。我に返った尾藤監督は「よし、狙え」と嶋田の尻を叩いた。

そして嶋田は、本当に打ちました。左翼ラッキーゾーンへの、同点本塁打です。宣言して打つ。漫画でもやりすぎだと言われそうな場面が、この日、甲子園で本当に起きました。


14回の隠し球、16回のつまずき

まだ終わりません。

14回裏、箕島はサヨナラのチャンスを作ります。走者の森川康弘が三盗を決めた――ところが、そこで待っていたのは星稜の三塁手による隠し球でした。アウト。12回表の攻撃でスクイズを失敗していた選手が、守備で借りを返した格好です。

そして16回表、星稜が三たび勝ち越します。

16回裏、箕島はまたも二死無走者。打席には、14回に隠し球でアウトになったあの森川。彼が打ち上げた一塁側のファウルフライは、完全に打ち取られた打球でした。星稜の一塁手・加藤が追う。誰もが試合終了を覚悟した、そのとき。

加藤が、つまずいて転倒しました。

原因は、この年から甲子園のファウルグラウンドに敷かれたばかりの人工芝だったといわれています。ボールは落ち、森川は命拾いをした。その直後、森川は左中間へ同点本塁打を放ちます。彼にとって、練習試合を含めても生まれて初めての本塁打でした。

二死無走者から同点本塁打。それが、一試合のうちに二度。

二度とも、二死無走者からだった。


18回裏、3時間50分

18回表、星稜は満塁のチャンスを作りますが、無得点。当時の規定では延長は18回まで。この時点で、星稜の勝ちは消えました。

そして18回裏、箕島がサヨナラ勝ち。4対3。

試合時間3時間50分。観衆は3万4千余。石井毅は18回を257球で投げ抜き、16三振を奪いました。堅田外司昭は17回1/3を208球。甲子園で延長18回まで戦った試合は他にもありますが、18回で決着がついたのは、この試合だけです。ほかはすべて引き分け再試合になっています。

あの夜の、数字。

作詞家の阿久悠はこの一戦に感銘を受けて「最高試合」という詩をスポーツ紙に投稿し、作家の山際淳司は「八月のカクテル光線」という短篇を書き上げています。箕島はこのあと大会を制し、公立高校として初めての春夏連覇を達成しました。


日本中が、3チャンネルに回した夜

この試合を調べていて、いちばん「あっ」と声が出たのは、テレビの話でした。

この試合は第4試合です。NHKは総合テレビで中継していましたが、午後6時になると総合はニュースに切り替わらなければならない。そこでNHKは、午後6時から試合終了までを教育テレビに引き継ぐリレー中継を行いました。

つまりあの夜、日本中の茶の間で、テレビのチャンネルが1から3へ回されたわけです。

そして教育テレビの、その時間帯の視聴率は29.4パーセント(関東・ビデオリサーチ)。この数字は、いまもNHK教育テレビの歴代最高記録です。

我が家のテレビが、そのとき3チャンネルに回されたことは、おそらくなかったと思います。私はといえば外で花火に火をつけていたか、家にいたとしても、追いかけていたのは巨人のナイターだったはずですから。

日本中が息を呑んでいた3時間50分と、私の夏休みの夕方は、ぴったり重なっていて、まったく交わっていなかった。同じ夜に、まったく別のものを見ていたわけです。


何度も見た、あの映像

では、私がこの試合を知らないままだったかというと、そうではありません。

何番組だったかまでは特定できませんが、私はこの試合の映像を、後年に何度もテレビの画面で見ています。甲子園の大会期間中、試合と試合の間に流れる名勝負の特集。そういう場面で、あのカクテル光線に照らされた球場と、二死からの本塁打が、繰り返し流れてくるのです。

そのたびに、私は素直に思いました。すごい試合だなぁ、と。

リアルタイムで見た人は「そのとき何をしていたか」を語り、あとから知った私は「何度も見せられて、そのつど驚いた」と語る。同じ一試合が、こんなに違う形で残るのです。


昭和54年の夏、山際淳司はこの試合を「八月のカクテル光線」という短篇に書きました。ホームランを打ったことのない少年が、16回に打った一球の話です。同じ本には、江夏豊の21球を描いた表題作も入っています。私にとっては、あの映像で見た場面が文章になっている、という読み方になりました。

スローカーブを、もう一球(角川文庫)
山際淳司/KADOKAWA。この日の箕島-星稜を描いた「八月のカクテル光線」と、江夏の21球を描いた表題作を含む8篇。スポーツノンフィクションのロングセラー
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「8・16」という日付

この日付には、もう一つ因縁があります。

13年後の1992年8月16日。同じ甲子園で、明徳義塾が星稜の松井秀喜を5打席連続で敬遠しました。星稜が、8月16日に二度、球史に名を刻んだことになります。

さらに驚くのは、この延長18回の試合に星稜の控え選手としてベンチ入りしていた高桑充裕という選手が、のちに地元の中学校で教員兼野球部監督となり、後輩にあたる少年を鍛え上げたことです。その少年が、松井秀喜でした。負けた側のベンチにいた高校生が、13年後の同じ日に敬遠され続ける少年を育てていた。日付というものが、少し不気味に思えてきます。

箕島の尾藤監督は2011年に亡くなりました。葬儀では、星稜の山下智茂前監督が男泣きしながら弔辞を読んだと伝えられています。


この試合は、もう起こらない。それでいい

令和の高校野球では、この試合は物理的に起こりえません。

2018年にタイブレークが導入され、2023年からは延長10回、無死一・二塁から始まることになりました。一人の投手が1日に投げられるのは15イニングまで。2020年からは、1週間の投球数を500球以内とする球数制限もあります。18回を257球で投げ抜くという戦い方は、もう制度が許しません。

こうしたルールには賛否があります。あくまで私個人の意見ですが、私は今のルールを支持する立場です。

たしかに、過去のあの手の凄まじい試合は、もう生まれないでしょう。けれど、ルールが変わったあとには、そのルールの中でまた別の『伝説』がきっと生まれるはずだと、私は信じています。一試合を複数の投手でつないでいくことで、一人ひとりの投手が心理的にも体力的にも持てる全力を発揮できる、ということだってあるかもしれませんしね。

そして何より、将来のある選手たちの「からだ」を守る。この意味は、非常に大きいと考えています。石井投手の257球を語り継ぐことと、いまの球児に同じものを求めることは、まったく別のことですから。


おわりに

宣言してから打った男と、生まれて初めて打った男。隠し球。人工芝のつまずき。作り話にしたら「都合が良すぎる」と没にされそうな出来事が、1979年8月16日の甲子園には、全部そろっていました。

実を言うと私、昨日、その甲子園から帰ってきたばかりです。

令和8年夏、満員のアルプススタンド。(筆者撮影)

令和8年の夏の大会を、社会人の息子、大学1年の娘、中学1年の息子、小学3年の息子と、子ども4人を連れて観てきました。

もう一人、高校2年の息子だけは同行していません。来年の甲子園出場を目指して、この夏も練習と試合に明け暮れているからです。あの球場のスタンドに座りながら、私はどうしても、来年ここに立てるかもしれないもう一人の子のことを考えていました。

日が落ちて、カクテル光線に照らされる甲子園。(令和8年8月、筆者撮影)

高校野球にまるで興味のなかった小学4年生が、やがて自分で高校球児になり、いまは息子たちの応援に回っている。47年前の同じ日に同じ場所で起きたことを、その球場から帰ってきた翌日に書いているというのは、なんとも不思議な気分です。

みなさんは、あの試合をご覧になっていましたか。それとも私と同じように、あとから何度も映像で見た口でしょうか。あなたにとっての「最高試合」は、どの一戦でしょう。よろしければ、聞かせてください。


阿久悠が夏の甲子園の全試合を観て、一日一試合を詩に詠んだスポーツ紙の連載は、まさにこの1979年から始まりました。「最高試合」もそこに収められています。1979年から2006年までの27年分を、スコア表とトーナメント表つきで全収録した本が出ています。

完全版 甲子園の詩 敗れざる君たちへ
阿久悠/幻戯書房。夏の甲子園の全試合を詩に詠んだ27年分の連載を全収録。リンク先は電子書籍版です(大型本もあります)
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【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。


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