今日は8月17日。夏の夜が、いちばん濃くなる頃だ。
昭和の子どもにとって、夏の夜といえば、まだ寝たくない時間だった。窓を開け放てば、扇風機の風、遠くの花火の音、そしてどこかの家から漏れてくるナイター中継の実況の声。それが、夏の夜の空気だった。
きょう8月17日は、その「ナイター」が日本のプロ野球に初めて灯った日、プロ野球ナイター記念日である。昭和23年(1948年)のこの日、日本の野球は初めて「夜」を手に入れた。
そしてそれから30年後の夏、小学3年生だった私は、その「夜の野球」を、布団の中で、イヤホン越しに聴いていた。
日本の野球が、夜を手に入れた日
昭和23年8月17日、横浜の球場で、日本プロ野球史上初のナイトゲームが行われた。カードは、東京巨人軍対中日ドラゴンズ。
会場は、当時「横浜ゲーリック球場」と呼ばれていた球場だ。終戦から3年、この球場は進駐軍に接収され、大リーグの名選手にちなんで「ルー・ゲーリック・スタジアム」と改称されていた。そして他の球場に先駆けて照明設備が設けられていた。とはいえ、それは駐留部隊の兵士が余暇に野球を楽しむためのもので、決して明るいものではなかったという。

出場した選手のうち、ナイトゲームを経験したことがあるのは、巨人の2人の選手と、2人の審判だけ。昭和11年の渡米時に体験しただけで、あとの全員が初めての夜間試合だった。
連盟は慎重だった。この日の横浜の日の入りは午後7時29分。薄暮の、いちばん白球が見えにくい時間帯を避けるため、空が完全に真っ暗になる午後8時8分まで、あえて試合開始を遅らせている。夜の野球に、誰もがまだ手探りだった。
球場には2万人の観衆が詰めかけた。入りきれないファンのために、グラウンド内にまで特設シートが作られたというから、その熱気が伝わってくる。
だが、案の定というべきか、暗さは試合に影を落とした。1回裏、巨人の青田昇は、速球が見えにくかったのか、顔面に死球を受けて退場。8回裏には、川上哲治の当たりを照明の暗さで審判がとっさに見極められず、判定をめぐって試合が10分間も中断したという。
試合は3対2で中日が競り勝った。

もう一つ、忘れがたい逸話がある。試合の前日、海の向こうでベーブ・ルースが亡くなっていた。そのため日本初のナイターは、球場全体でルースに黙祷を捧げるところから始まっている。「ナイター」という和製英語が定着するのは、実はこの2年後のことだったというが──ともあれ、日本の夜の野球は、こうして薄暗い照明の下から始まった。
夜の野球は、いつも途中で終わった
それから30年。昭和53年(1978年)の夏、私は小学3年生になっていた。
このころには、テレビをつければ、どこかのチャンネルで必ずプロ野球中継をやっていた。もちろん、葛飾の野球少年だった私が観るのは、読売ジャイアンツ一択である。
ところが、子どもにとって、テレビのナイター中継には一つの大きな「壁」があった。
放送が、試合の途中で終わってしまうのだ。
当時のテレビ中継は、だいたい午後9時前後にきっちり終わる。試合がまだ7回だろうが8回だろうが、放送時間が来れば画面はぷつりと切り替わり、次の番組が始まってしまう。競った展開のまま「この続きは……」と放り出される、あの無情さ。夜の野球は、子どもにとって、いつも最後まで見せてもらえないものだった。
その悔しさを埋めてくれたのが、トランジスタラジオだった。

3年生のとき、誕生日のプレゼントに、手のひらに収まる小さなトランジスタラジオをもらった。テレビ中継が切れても、ラジオならまだ試合をやっている。それに気づいてからの私は、夜になると布団に入り、ラジオを枕元に置いて、イヤホンを片耳に差し込み、ジャイアンツ戦の続きを聴くようになった。
真っ暗な部屋で、布団にくるまって、耳の奥だけに、実況の声とスタンドのざわめきが響いている。家族と観るのとはまた違う、自分ひとりだけの野球中継。あの時間が、たまらなく好きだった。
そのまま、試合の途中で眠ってしまった夜も、何度もあった。それでも困ることはなかった。朝、目が覚めれば、新聞のスポーツ欄で結果を知ることができたからだ。ゆうべ聴きながら寝落ちしたあの試合がどうなったのか、朝刊で確かめるのも、一日の楽しみだった。
しかも、あの昭和53年の夏の巨人は、ただの巨人ではなかった。この年、ジャイアンツは首位を走っていた。8月下旬には2位ヤクルトに4ゲーム半もの差をつけ、優勝目前まで迫っていたのだ。(結局この年は終盤に失速し、球団初優勝を遂げたヤクルトに優勝をさらわれるのだが──それはまだ、夏の私の知らない秋の話だ。)
首位を走るジャイアンツを毎晩、布団の中で追いかける。あの夏の熱を、私は今でも覚えている。だからだろうか、あのころの打順は、今でもすらすら口をついて出てくる。

1番・センター 柴田 2番・セカンド 土井 3番・レフト 張本 4番・ファースト 王 5番・ライト 柳田 6番・サード 高田 7番・ショート 河埜 8番・キャッチャー 吉田 9番・ピッチャー 堀内
我ながら、よく覚えているものだと思う。学校の勉強はとっくに忘れてしまったのに、この9人の名前と守備位置だけは、40年以上たった今も順番どおりに出てくる。布団の中でイヤホン越しに何度も聴いた名前は、頭ではなく、体のどこかに刻まれているのだろう。
いまも、手のひらに収まるラジオは売られている。ワイドFM対応で、イヤホン付き。単4電池2本でイヤホン使用なら150時間以上もつというから、あのころより性能はずっと上だ。枕元に置くのはもちろん、災害のときにも役に立つ。
球場のナイターは、もっと遠かった
テレビとラジオでこれだけ夢中になっていたのだから、当然、本物の球場でナイターを観たくてたまらなかった。
だが、後楽園球場のナイターへは、小学生の私にも、中学生の私にも、行くことはできなかった。

父は食堂の仕事で忙しく、そうそう夜に家族を連れ出せる立場ではなかった。だが、子どもだった私が一番強く感じていたのは、時間の問題より、お金の問題だった。後楽園のナイターに家族で行くなんて、うちの家計では無理なことなのだと、子ども心にそう思い込んでいた。だから「後楽園に連れていってよ」と、私はついに一度も強くはねだらなかったように思う。
もっとも、今になって振り返ると、本当のところはどうだったのだろう、とも思う。無理を言えば、案外、一度くらいは連れていってくれたのかもしれない。親が「うちには無理だ」と言ったわけではなく、子どもの私が勝手にそう決めていただけなのかもしれない。真相はもう分からない。ただ「ナイターは、そう簡単には行けない特別なものだ」という感覚だけは、確かに私の中にあった。
そんな私にも、一度だけ、本物のナイターを観る機会が訪れた。
新聞屋さんから、神宮球場のチケットをいただいたのだ。あのときばかりは、父も、母も、妹も、私も、家族4人が揃って出かけた。うちにとっては、本当に珍しい「お出かけ」だった。
ただ、ひとつ正直に打ち明けておくと、あの日の試合は、ヤクルト対中日だった。あれほどジャイアンツに焦がれていた私が、初めて本物のナイター照明の下で観た試合に、巨人はいなかったのである。もらったチケットに贅沢を言える筋合いはないが、それでも、これはこれで忘れられない一夜になった。
というのも、見渡すかぎり、観客席がガラガラだったのだ(笑)。ナイター照明に照らされた広いスタンドに、人がぽつり、ぽつり。テレビで観る球場はいつも満員のイメージだったから、「本物の球場って、こんなに空いているのか」と、子どもながらに拍子抜けした。

今では、想像もつかない光景だ。神宮も、東京ドームも、対戦カードを問わず、どの試合にもたくさんのお客さんが足を運んでいる。ガラガラのスタンドで家族4人、のびのびと観たあの一夜は、今思えば、あの時代ならではの贅沢だったのかもしれない。
昭和23年の横浜で、2万人が特設シートにまで詰めかけて熱狂したのと、昭和のある夜、ガラガラのスタンドに家族4人で座っていた私と。観客の数はまるで違うけれど、「夜の球場に来られた」という特別な気持ちは、案外、同じだったのかもしれない。
おわりに
今、私は東京ドームや神宮球場へ、家族とナイターを観に行く。しかも9回裏まで、最後までしっかり見届けて帰ってくる。
子どものころ、あれほど焦がれた「夜の野球を最後まで見る」ということを、今の私は当たり前のようにやっている。放送が途中で切れる心配も、布団の中でイヤホンを差して続きを聴く必要もない。
そのことを思うと、正直、「生活が豊かになったなあ」としみじみ実感する。
昭和53年の夏、うちの家族が球場のナイターにそう簡単には行けなかったのは、あの時代の普通の家庭が、時間とお金の両方で、今よりもずっとギリギリのところで暮らしていたからだと思う。自分が親になり、家族を球場に連れていける今の暮らしと比べてみると、あのころの親の余裕のなさが、かえってよく分かる。日本という国が少しずつ豊かになって、その分だけ、親の懐にも、少しだけ余裕が生まれた。私自身の生活を振り返ってみても、それは確かに実感できることだ。
夜の仕事は、私にとって遠い話ではない。バスのハンドルを握っていると、夜の街を走る時間が必ずある。日が暮れてからの街には、昼間とはまた違う独特の空気が流れている。あの夏、布団の中のイヤホンから聴いた「夜の野球」の空気と、どこかでつながっている気がすることがある。
昭和23年8月17日、日本の野球は、薄暗い照明の下で初めて夜を手に入れた。そこからテレビが、ラジオが、球場のナイターが、少しずつ夏の夜を彩っていった。布団の中の小さなイヤホンから聴こえた9回裏も、その歴史の、ささやかな一コマだったのだろう。
みなさんには、「夜の野球」にまつわる、どんな記憶がありますか。テレビが途中で切れて悔しかったこと。ラジオで続きを聴いたこと。初めて球場のナイター照明を見たときのこと。よかったら、聞かせてください。
あの打順の3番と4番、張本勲と王貞治。二人がどんな4番打者だったのかを、記録とエピソードでたどったムックがあります。長嶋、野村、落合、原、清原まで、昭和の4番がひととおり並んでいます。
【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。
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