知らなかったことが、二つ出てきた

このシリーズを書いていると、たまに妙な体験をします。「昭和のあの日」を調べているつもりが、調べた先に出てくるのは、昭和を生きていたはずの自分がまるで知らなかったことばかり、という日です。

8月18日は、まさにそれでした。

一つは、1976年(昭和51年)8月18日。ソ連の月探査機「ルナ24号」が、月に降りた日です。私は小学一年生。まったく、これっぽっちも記憶にありません。

もう一つは、1989年(平成元年)8月18日。作曲家・古関裕而が亡くなった日です。この人が書いた曲を、私は子どもの頃から数え切れないほど口にしていました。それどころか、私の通っていた中学校の校歌まで、この人の作曲だったのです。

知らないうちに人類が月から引き揚げていた日と、知らないうちに自分のそばにいた人がいなくなった日。同じ8月18日の話を、順番にしていきます。


20世紀最後に、月に降りた機械

ルナ24号は、1976年8月9日にバイコヌール宇宙基地から打ち上げられました。月周回軌道を経て、8月18日、「危難の海」と呼ばれる平原に軟着陸します。

やったことは、いま読むと地味です。アームを伸ばし、月面の地下2メートルほどから土をすくい、カプセルに詰める。翌19日、そのカプセルを月面から打ち上げ、22日には西シベリアのスルグト近郊に無事着地させました。持ち帰った月の土は、170.1グラム。手のひらに載る量です。

しかしこの地味な成功には、二つの重い意味がありました。

一つは、これがソ連のルナ計画の最後だったということ。1959年のルナ1号から17年、40機以上を月へ送り続けた計画は、この24号で幕を閉じます。着陸地点から2.3キロ離れた場所には、2年前にサンプル回収に失敗したルナ23号が横たわっていました。24号は、その弔い合戦でもあったわけです。

「危難の海」。左下がルナ23号、右上がルナ24号の着陸地点。(Photo: NASA / LRO, パブリックドメイン, via Wikimedia Commons)

もう一つ。これが、20世紀における最後の月面着陸だったということです。アポロ17号の有人飛行が1972年。無人のルナ24号が1976年。そこから先、月の表面に何かがそっと降りることは、20世紀のあいだ二度と起きませんでした。次の軟着陸は2013年、中国の嫦娥3号。実に37年後です。

1976年8月18日は、人類が月に手を伸ばすのをいったんやめた日でもありました。月は「行くところ」から「見上げるもの」に戻っていったのです。


そのころ私は、区民プールにいた

そんな節目の日、七歳の私は何をしていたか。

水泳が上手くなりたくて、区民プール通いに明け暮れていました。頭にあったのは、あと何メートル泳げるようになるか。それだけです。

だからルナ24号については、当時の記憶がゼロです。子どもの世界に届かなかったのか、届いていたのに素通りしたのか、それすらわかりません。

ただ、月といえば思い出すことが一つだけあります。父が、事あるごとにこう言っていたのです。

「アポロ11号は人を乗せて月に着陸したんだぞ。すごいよなぁ」

私が生まれる二か月ほど前の出来事です。父にとってそれは、生涯語り継ぎたくなるほどの衝撃だったのでしょう。だから私の中の「月」は、ずっとアポロと父の声で出来ていました。ソ連が黙々と無人機を送り続けていたことも、その最後の一機が私の小学一年生の夏に降りたことも、この記事を書くまで知らないままでした。

半世紀後の今、私はようやく知ったわけです。父が繰り返し語っていたあの熱狂の時代は、私がプールで水をかいていた年に、静かに終わっていたのだと。


六甲おろしを書いた人が、母校の校歌も書いていた

話を1989年に移します。

古関裕而。1909年(明治42年)、福島市の呉服店の長男として生まれました。本名は勇治。1930年に日本コロムビアの専属作曲家となり、生涯で約五千曲を書いたとされます。

古関裕而(1956年)。(Photo: 朝日新聞社『アサヒグラフ』1956年9月23日号 / パブリックドメイン, via Wikimedia Commons)

代表作を並べると、たぶん誰でも一曲は知っています。早稲田大学の応援歌「紺碧の空」。阪神タイガースの歌「六甲おろし」。全国高校野球選手権大会の歌「栄冠は君に輝く」。1964年東京五輪の「オリンピック・マーチ」。「長崎の鐘」「君の名は」「鐘の鳴る丘」。

そして巨人ファンの私にとっては、これです。1963年(昭和38年)、球団創立30周年を記念して制定された三代目の球団歌「巨人軍の歌 -闘魂こめて-」。歌詞は読売新聞が公募し、二万篇を超える応募から選ばれました。作曲は古関裕而。つまり「六甲おろし」と「闘魂こめて」は、同じ人の手から出ています。宿敵同士の球団歌を、一人の作曲家が書いていたわけです。

さらに古関は、全国の学校の校歌や応援歌をおびただしい数、手掛けました。福島市古関裕而記念館の調べでは、福島県内だけで101校。全国分は記念館が地方別の一覧を公開しているほどの規模です。そしてその一覧に、私の母校の名前がありました。

古関裕而記念館が公開している校歌一覧の、東京都の部分。この中に、私の母校の名前がある。

記念館のサイトに、こんな話も載っています。ある日、北海道の小さな小学校の校長から手紙が届く。校歌を作ってほしいが、予算がなく、お礼らしいお礼もできない──それでも思い切って書きました、と。古関は「お礼は結構です」と伝えて曲を送りました。しばらくして届いたお礼は、一斗缶いっぱいの小豆。児童たちが一人ひと握りずつ、家から持ち寄ったものだったそうです。

こういう人が、五千曲を書いた。数の異様さの中身が、少し見えた気がしました。


確かめなかった名前

私は中学の校歌を、歌詞もメロディーも、今でもはっきりと歌えます。

行事のあるごとに歌いました。入学した当初の音楽の授業では、「校歌」と「君が代」を繰り返し、しっかりと歌わされました。あのころ体に叩き込まれたものは、四十年以上たっても抜けないものです。

そして、これが今回いちばん自分でも驚いたことなのですが──当時から、思っていたのです。

「うちの校歌の作曲のところに書いてある名前、なんだか聞き覚えがあるな」

思っていたのに、確かめなかった。

十三歳の私は、その名前を目にしていました。聞き覚えがあるという感覚まで持っていました。あと一歩、誰かに聞くか、家で調べるかしていれば、そこで繋がっていたはずなのです。甲子園で流れるあの曲、六甲おろし、そして東京ドームの五回裏に鳴るあの曲と、自分が体育館で歌っている校歌が、同じ人の手から出ているということに。

私が中学に入った1982年(昭和57年)、古関裕而は72歳。まだ生きていました。私が音楽室で校歌を繰り返し歌っていたその時、作曲者は現役の人間として、この世のどこかにいたのです。その七年後の夏に亡くなりました。

1989年8月18日午後9時30分、脳梗塞。八十歳の誕生日を迎えてから一週間足らずでした。前年11月に福島市に記念館が開館していましたが、すでに入院生活に入っており、自分の名を冠した建物を訪ねることはできなかったといいます。

その夏、私は大学一年生でした。高校野球を追いかけていた時間が終わり、浪人の一年を経て、ようやく別の生活が始まったところです。訃報の記憶は、まったくありません。母校の校歌を書いた人が亡くなった日を、私は何も知らずに通り過ぎていました。


気づかないうちに、そばにあった

いま東京ドームで巨人戦を見ていると、五回が終わったところで「闘魂こめて」が流れます。水道橋駅では、2006年から発車メロディにこの曲が使われています。夏になれば甲子園で「栄冠は君に輝く」が鳴り、私は子どもたちの試合を追いかけながらそれを聞いています。中学の三年間は、行事のたびに校歌を歌っていました。

全部、同じ人が書いた音だったのです。

ルナ24号のことは、知らなかったから記憶がありません。古関裕而のことは、名前に聞き覚えがありながら確かめなかったせいで、記憶だけが山ほどあります。素通りしたものと、体に入ったまま名前を持たなかったもの。同じ日付の両側に、ちょうど対になって並んでいました。


古関裕而には、自分の言葉で書いた自伝が残っています。福島で作曲に目覚めた小学生時代から、山田耕筰に見いだされてのデビュー、そしてあの名曲たちの誕生秘話まで。文庫で手に入ります。

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四十四年後の入学式

月の話には、続きがあります。ルナ24号から37年後の2013年、中国の嫦娥3号が軟着陸に成功。2024年1月には日本のSLIMが月面に降りました。そして今年、2026年4月。NASAのアルテミスII号が四人の宇宙飛行士を乗せて打ち上げられ、月をまわって帰ってきました。着陸こそしていませんが、有人で月の近くまで行ったのはアポロ以来、半世紀ぶりです。父に見せたかったな、と思います。

そして校歌のほうにも、続きがありました。

うちの子どもたちのうち、社会人になった長男と高校二年の次男は、私立の中学に進みました。大学一年の長女は、私と同じ中学に通っています。ただ、あのコロナ禍でした。入学式をはじめ、保護者が出席する行事はことごとく中止。娘がどんな顔で、どんな声で校歌を歌っていたのか、私は結局知らないままです。

今年の4月、三男が同じ中学に進みました。今度は入学式に出席できました。

そして式次第が進み、「君が代」と「校歌」の場面になったとき、私は声高らかに歌いました。四十四年前、音楽の授業で繰り返し叩き込まれた、あの二曲です。体が全部覚えていました。周りの保護者より、たぶん大きい声だったと思います(笑)。

ただ、その時の私はまだ知らなかったのです。あの日、体育館で自分が大声で歌っていた旋律を書いたのが、誰だったのか。「聞き覚えのある名前」のまま、四十四年目の春を通り過ぎていました。それを確かめたのが、今日、この記事を書きながらのことです。

考えてみれば、それが校歌という曲のいちばん幸せな在り方なのかもしれません。誰が書いたかを意識させないまま、何十年も体に残り、親になって同じ体育館で口をついて出てくる。私は五十七歳になって、ようやくその名前を確かめました。遅すぎるとは思いません。確かめられたことのほうが、うれしい。

みなさんの母校の校歌は、誰が作曲したものでしたか。楽譜の隅に書かれていた名前を、確かめたことはありますか。


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【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。


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