【昭和の今日は何があった日?】8月3日──トラと基板とひまわりと。少年に届かなかった三つのニュース

三つ並んで、三つとも空白だった 8月3日という日付を調べていて、少し困ったことになりました。 昭和の出来事が、きれいに三つ出てきたのです。昭和51年のTK-80発売、昭和54年の神野寺トラ脱走事件、昭和59年のひまわり3号打ち上げ。しかも自分の年齢を当てはめてみると、順に小学1年生、小学4年生、中学3年生。少年時代がちょうど三段に切り取られている。 これはいい記事が書けそうだ、と思いました。 思ったのですが、正直に申し上げます。私は、この三つをどれ一つとして覚えていません。 「あの夏か」という手応えが、まったく立ち上がってこない。三つ並んで、三つとも空白でした。 ただ、書きながら気づいたことがあります。同じ「覚えていない」でも、覚えていない理由がそれぞれ違うのです。早すぎて届かなかったもの。近いのに届かなかったもの。近すぎて、届いていることにさえ気づかなかったもの。 その三つの距離の話を、今日は書いてみます。 昭和54年、隣の県でトラが逃げた まずは真ん中の、いちばん派手な話から。 昭和54年8月2日の夜、千葉県君津市の鹿野山にある神野寺という寺で、飼われていたベンガルトラ3頭が檻から逃げ出しました。関東最古とも伝えられる古刹の境内に、当時は観光用の動物園が併設されていて、十二支にちなんだ動物たちが飼われていたのだそうです。 3頭のうち1頭はすぐに戻ってきましたが、生後1年ほどのオスとメスの2頭が行方不明になりました。体長はおよそ1.5メートル、体重は100キロ前後。まだ子どもとはいえ、山に放たれたトラです。 寺からの通報を受けた千葉県警が現地対策本部を設置したのが、翌3日の未明でした。警察官、消防団、猟友会。総勢およそ500人が山に入り、周辺の住民には外出禁止令が出されます。夏休みの真っ最中で、寺の周辺には観光客や合宿中の学生も滞在していました。近くのマザー牧場で予定されていた野外コンサートも中止になっています。 メスは4日の朝に射殺されました。ここで話が複雑になります。全国から「射殺するな」「かわいそうだ」という抗議が殺到し、寺の住職までが射殺という判断を疑問視する発言をした。これに猟友会が激怒して、捜索は一時中断してしまいます。 残るオスは、そこから山中を逃げ続けました。決着がついたのは28日。近隣の民家の飼い犬がトラに襲われて死んでいるのが見つかり、その日のうちに射殺されて、27日間の騒動はようやく終わりました。 日本中がひと夏、山に潜む1頭のトラを追いかけていたわけです。連日ニュースになったはずですし、テレビの前で息を呑んだ子どもも大勢いたはずです。 なのに、私にはその記憶がない。 なぜだろうと考えて、地図を見て、腑に落ちました。君津は、たしかに隣の県です。距離でいえば東京の西のはずれより近いくらいかもしれません。でも当時のわが家に車はなく、父は休みらしい休みがない人で、家族で泊まりがけの旅行に出た記憶も一度もない。房総というのは、私にとって「行ったことのない土地」でした。 行ったことのない土地は、地図の上でどれだけ近くても、遠いのです。10歳の私にとって、鹿野山は月の裏側と大差なかったのだと思います。 昭和51年、8万8500円の基板 次は、いちばん古い話。 昭和51年8月3日、日本電気――今のNECが、TK-80という製品を発売しました。「Training Kit」の頭文字を取った名前のとおり、これは完成品ではありません。ビニール袋に入った部品と、組み立て説明書と、回路図。買った人が自分でハンダごてを握って、一枚の基板の上に組み上げる。そういう代物でした。 価格は8万8500円。中途半端な数字に見えますが、これには理由があって、当時の企業で係長や課長が自分の判断で決裁できる金額の上限が10万円だったからだ、と伝えられています。技術者が上司に相談せずに買える値段。それが8万8500円でした。 そもそも売る側も、これが売れるとは思っていませんでした。マイクロプロセッサという新しい部品を売り込もうにも、客先を回って説明しても理解してもらえない。ならば技術者に触って覚えてもらおう、という販売促進のための教材だったのです。月に200台も出れば上出来、という見込みでした。 ふたを開けたら、月に2000台売れました。 しかも買ったのは想定していた企業の技術者だけではなく、学生や、経営者や、ただの物好きたちでした。秋葉原のラジオ会館に開設されたサポート窓口には人が集まり、そこからパソコンという文化が立ち上がっていく。日本のマイコンブームは、この一枚の基板から始まったといわれています。 このとき、私は7歳。小学1年生の夏休みです。 覚えていないのは当然だ、と胸を張って言えます。だってこれは、大人ですら誰も知らなかった出来事なのですから。売っている本人たちが月200台と踏んでいたものが、どうして下町の小学1年生に届くでしょうか。 ニュースが子どもに届かなかったのではなく、ニュースそのものがまだ存在していなかった。トラの話とは、まるで種類の違う「遠さ」です。 昭和59年、天気予報の裏側が打ち上がった 三つめ。昭和59年8月3日、種子島宇宙センターからN-IIロケット6号機が飛び立ちました。積んでいたのは静止気象衛星「ひまわり3号」です。 ここで少しおかしな話があります。この打ち上げ、本来の予定より2日遅れました。理由は、台風7号の接近です。 台風を見張るために飛ばす衛星が、台風に足止めされていた。昭和の夏らしいというか、なんとも人間くさい話だと思います。 ひまわり3号は、この年の秋から本格的な運用に入りました。地球の雲の画像を1日に何度も送ってきて、それがそのまま夕方のテレビの天気予報に流れる。私たちが「明日は雨か」と口にするとき、その根拠は宇宙から届いていたわけです。 このとき、私は15歳。中学3年生でした。 そして三つのなかで、この打ち上げを覚えていないことが、いちばん自分でも意外でした。トラや基板と違って、ひまわりの成果は毎日目に入っていたはずだからです。テレビをつければ、白い渦がぐるぐると回っている。あの映像を見ていない日のほうが少なかったでしょう。 ひまわりの初号機が上がったのは昭和52年です。私が小学2年生のときですから、物心ついてからこちら、雲の写真が映る天気予報しか知らずに育ったことになります。3号はその三代目。世代交代が起きていたことにも、当然ながらまるで気づいていませんでした。 つまり私は、恩恵だけを受け取って、その出どころに一度も関心を向けなかったということになります。近すぎて、意識の対象にすらならなかった。空気を覚えていないのと同じことです。 遠すぎて届かないものと、近すぎて見えないもの。人間が取りこぼすものには、どうやら両側があるらしいと、この歳になって思います。 同じ日付、同じ会社 ここまで書いてきて、ひとつ気づいたことがあります。 TK-80をつくったのは日本電気です。そしてひまわり3号を開発・製造したのも、日本電気でした。 8年の隔たりを挟んで、同じ8月3日に、同じ会社が、一方では8万8500円の裸の基板を、一方では宇宙に浮かべる気象衛星を世に出している。片方は日本のパソコン文化の出発点になり、片方は毎日の天気予報を支えた。 昭和という時代の底力みたいなものが、この符合には少しだけ透けて見える気がします。 そして今、私はその基板の子孫にあたる機械でこの文章を書き、朝はその衛星の子孫が撮った雲を見て一日の見通しを立てている。覚えていなかった二つの出来事が、いつのまにか私の生活そのものになっていた。 ...

August 3, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月31日──欠けていく太陽と、黒い下敷き

今日は7月31日。7月の最終日です。 夏休みが始まって十日ほど。宿題帳の白いページと、朝顔の観察日記と、朝から降りそそぐ蝉の声。八月の本番はまだこれからで、子どもにとっては一年でいちばん長くて濃い季節の、入り口のあたりでしょうか。 そんな夏の一日ですが、昭和56年(1981年)の7月31日、日本の空ではちょっと不思議なことが起きていました。 お昼どき、太陽が欠けたのです。 昭和56年、夏の真昼に太陽が欠けた 昭和56年7月31日、日本各地で部分日食が観測されました。 日食というのは、太陽と地球のあいだに月が割り込んで、太陽を隠してしまう現象です。月が太陽をすっぽり覆えば皆既日食、真ん中だけを隠してリングのように見えれば金環日食、そして一部分だけをかじり取るように隠すのが部分日食です。 この日、月の影が地球にいちばん濃く落ちた場所——つまり皆既日食が見られたのは、当時のソ連の南部でした。黒海のあたりからシベリアへと、影の帯が大陸を横切っていったのです。日本はその帯からは外れていましたが、太陽の一部が欠ける部分日食のほうは、昼前から午後にかけての空で、しっかりと見ることができました。 では、どのくらい欠けたのか。記録によれば、名古屋で食分がおよそ0.55。食分というのは太陽の直径がどれだけ隠されたかを表す数字で、0.55なら太陽の半分以上が月に隠されたことになります。関東でもだいたい半分前後、そして北へ行くほど深く欠けました。北日本では、月が太陽をもっとぐいと食べ込んでいったのです。 太陽の半分が消える。しかも夏休みの真っ昼間に。これは子どもにとって、ちょっとした事件だったはずです。 半分も欠けると、あたりの様子も少しだけ変わります。真っ暗になるわけではありませんが、真昼の光がなんとなく薄くなり、影の輪郭がいつもより硬くなる。じりじりと照りつけていた日差しが、ほんの少しだけやわらぐ。空を見上げなくても、「あれ、なんだか変だぞ」と肌で感じる——そういう不思議な明るさになるのです。 太陽が欠けるという出来事を、昔の人はとても恐れていました。平安時代の975年、京の都で皆既日食が起きたときには、太陽が墨のように光を失い、鳥が飛び乱れ、昼なのに空に星が見えたと記録されています。人々は不吉なことの前触れだとおびえ、朝廷は「大赦」——罪人を赦す特別なはからい——まで出したほどでした。 それが、昭和の子どもにとっては、恐怖でもなんでもありませんでした。ただただ「面白いもの」だったのです。学校の理科で、なぜ日食が起きるのかを習っている。だから怖くない。怖くないから、思いきりわくわくできる。太陽と月と地球の位置関係が、自分の頭の真上で実演されている——それは、教科書が本物になる瞬間でした。 ちなみに昭和56年という年は、赤城乳業の「ガリガリ君」や、ロッテの「雪見だいふく」が世に出た年でもありました。黒柳徹子さんの『窓ぎわのトットちゃん』が大ブームになったのもこの年です。冷凍庫の中身も、テレビの中も、少しずつ新しくなっていく——そんな時代の夏でした。 下敷きと、煤ガラスと さて、昭和の子どもは、この欠けた太陽を、いったいどうやって見ていたのでしょう。 太陽をそのまま肉眼で見てはいけない。それは今も昔も同じです。でも、昭和の観察方法はなかなか大胆でした。 いちばん多かったのは、黒い下敷きです。筆箱の横にいつも差してある、あの黒いプラスチックの下敷き。あれを目に当てて、みんなで空を見上げたものです。ほかにも、ロウソクの炎でガラス板を炙って煤をつけた「煤ガラス」、真っ黒なサングラス、使い終わって真っ黒に感光したフィルム。とにかく「黒くて、向こうが透けて見えにくいもの」を、片っ端から太陽にかざしていました。 ただ、ここは正直に書いておかなければなりません。これらの方法は、今では「やってはいけない」とされています。黒い下敷きや煤ガラスは、目に見える光は減らしてくれても、目に見えない赤外線や紫外線までは防げません。気づかないうちに目の奥、網膜を傷めてしまう危険があるのです。当時はそこまで知られていませんでした。「みんながやっていたから」で済んでいた時代でした。 そんな中に、道具がいらなくて、しかも安全な方法もひとつありました。木漏れ日です。木の葉と葉のあいだの小さな隙間が、ちょうどピンホールカメラのように働いて、地面に映る木漏れ日のひとつひとつが、欠けた太陽と同じ三日月の形になる。空を見上げなくても、足元に日食が映っていたのです。あれに気づいた子は、ちょっと得意げだったものです。 夏休みという時期も、日食にはうってつけでした。学校は休みでも、こういう日は「自由研究にちょうどいい」と、太陽の欠け具合を時間ごとにスケッチした子もいたはずです。何時何分にどれだけ欠けて、いつ元に戻ったか。画用紙に並んだいくつもの丸い太陽は、それだけで立派な夏の研究になりました。宿題に追われる夏に、空のほうから宿題の題材が降ってきたようなものです。 私の記憶 昭和56年の夏、私は小学6年生、12歳でした。 正直に言うと、太陽が欠けたことそのものは、はっきりとは覚えていません。ただ、7月31日という日づけには、日食とはまったく別の、とても濃い記憶が残っています。 夏休みの朝といえば、まずラジオ体操でした。首から下げた出席カードに、毎朝ひとつずつ判子を押してもらう。そして、その最終日がちょうど7月31日だったのです。最終日には、ためた判子のカードと引き換えに、花火やお菓子、ノートといった景品と交換してもらえました。ひと夏かけて集めた判子が、最後にごほうびに変わる日。子どもにとっては、これがちょっとした晴れ舞台でした。 ラジオ体操が終わると、午前中は学校のプールです。ふた学年ごとに分かれて泳ぎに行く日があって、それがない日には、自転車で5分ほどの区民プールへ友達数人と繰り出して、2時間くらいずっと泳いでいました。プールがなければ虫取り。とにかく、朝から日が暮れるまで、外にいた夏でした。 そう考えると、あの日——太陽が昼前から午後にかけて半分近くも欠けていったころ、私はたぶん、もらったばかりの景品を握りしめていたか、区民プールの水の中で友達とふざけ合っていたかの、どちらかだったのだと思います。頭の真上の空で月が太陽を食べていることよりも、手にした花火のほうが、そのときの私にとっては、よほどの大事件だったのでしょう。 当時はインターネットもスマートフォンもありません。珍しい自然現象があっても、情報源はテレビと新聞、そして近所の口コミくらいでした。だからこそ、ひとつの出来事を、家族や友達と同じ時間に分け合うことに、特別な意味がありました。日食そのものを覚えていない私でも、「太陽を直接見ちゃだめだよ」と大人に言われたような——そんな声の記憶だけは、どこか夏の底に沈んでいる気がします。 そしてうれしいことに、あのラジオ体操は今も同じように続いていて、今度は私の子どもが、あの出席カードに判子を押してもらっています(笑)。 じつは、これは今朝の風景です。夏祭りの提灯がまだ揺れている朝の広場に、子どもたちが集まってくる。そして最終日の今日は、あの頃とまったく同じように、景品の引き換えがありました。 私の子どもがもらってきたのは、手持ち花火のセットと、のり塩のポテトチップスでした。 ——45年前に私がもらった、花火と、お菓子。並べてみれば、ほとんど同じです。カードと景品と、夏の朝のあの眠たさだけは、何ひとつ変わっていません。太陽が半分も欠けたあの夏から45年が過ぎても、子どもの夏の入り口は、ちゃんと同じ場所にありました。 令和の空を見上げる 時代は流れて、令和になりました。 平成に入ってからも、日本では大きな日食が何度かありました。平成21年(2009年)7月22日には、鹿児島のトカラ列島で皆既日食が見られ、日本中が朝から空を見上げました。平成24年(2012年)5月21日には、東京でも金環日食が見られました。朝の通勤・通学の時間帯、駅のホームでも、歩道でも、多くの人が立ち止まって同じ空を見ていた——あの朝を覚えている方も多いでしょう。 このときの主役は、もう黒い下敷きではありませんでした。「日食グラス」です。専用の遮光板が入った観察メガネが、コンビニでも本屋でも売られ、直前には売り切れが続出しました。そしてもうひとつ、昭和にはなかったもの——スマートフォン。欠けていく太陽を写真に撮って、その場でSNSに上げる。日本中が同じ瞬間に、同じ空を、画面越しにも分かち合ったのです。 道具は下敷きから日食グラスへ。ひとりで見上げた空から、みんなで見上げる空へ。ずいぶん変わりました。でも、太陽がだんだん欠けていくのを見上げるときの、あの「うわぁ」という声にならない気持ちだけは、昭和の子どもも令和の子どもも、たぶん同じなのだと思います。 おわりに 次に東京のすぐ近くで大きな日食が起きるのは、そう遠い先ではありません。2035年9月2日、北陸から北関東にかけて、皆既日食の帯が通る予定です。東京でも、太陽がほとんど欠ける大きな部分日食になります。そのとき私は66歳。孫がいれば、一緒に空を見上げているかもしれません。もちろん今度は、ちゃんとした日食グラスで。 昭和56年の、あの夏の真昼。太陽が欠けていったあの日を、あなたは覚えていますか。 そして、何で空を見上げましたか。黒い下敷きでしたか、それとも——。 昭和の子どもは黒い下敷きで見上げましたが、今はもう、それをやってはいけません。太陽観察には、専用の遮光板を使ってください。これは日本製の「たいようめがね」。JIS規格の遮光板で、日食はもちろん、太陽黒点の観察にも使えます。夏休みの自由研究にもぴったりですし、何より安全です。2035年の皆既日食まで、大切に取っておくのもいいかもしれません。 太陽観察の必需品 たいようめがね(遮光板)日食・太陽観察用の遮光板。黒い下敷きや煤ガラスと違い、赤外線・紫外線もしっかりカットして目を守る。自由研究にも Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...

July 31, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月26日──僕はいつも別の場所にいた

「昭和の今日は何があった日?」——このシリーズを書くために、私はまず7月26日という日を調べてみました。すると、有名な出来事が三つ、目に飛び込んできます。 「ゲームは1日1時間」という、あの名言が生まれた日。「幽霊の日」という、いかにも夏らしい記念日。そして、月へ向かうロケットが打ち上がった日。 ところが、三つを並べて、私は正直に告白しなければなりません。——どれ一つとして、私の「思い出」ではないのです。ファミコンは買ったこともなかった。幽霊に震えた記憶もない。月ロケットに至っては、私はまだ2歳でした。 いつもなら、この欄には子ども時代の私の記憶が並びます。でも今日は違います。今日は、この三つの出来事を、読者のみなさんと一緒に、初めて調べていくことにします。そしてたぶん、最後に分かるはずです。世界がこの日を記憶しているあいだ、私はいったい、どこにいたのか。 ゲームは1日1時間、僕は一日中グラウンドに まず、あの名言です。「ゲームは1日1時間」。 調べてみて驚きました。生まれたのは、1985年7月26日。福岡市のダイエー香椎店で開かれた、ファミコンの全国キャラバン大会でのことでした。ハドソンの社員だった高橋名人が、集まった子どもたちに向けて、即興でこう言ったのだそうです。「ゲームが上手くなりたいなら、1時間くらい集中してやったほうがいいよ」と。それがいつしか「ゲームは1日1時間」という合言葉になり、日本中の親のお墨付きになっていきました。 任天堂がファミコンを発売して、ちょうど2年。あの『スーパーマリオブラザーズ』が世に出るのは、この年の9月です。つまり1985年の夏は、ファミコンブームがまさに夜明けを迎えようとしていた季節でした。コントローラーのボタンを1秒間に16回押す「16連射」で、高橋名人は子どもたちの憧れの的でした。『月刊コロコロコミック』の誌面をにぎわせ、全国のデパートやスーパーを回るキャラバン大会には、黒山の人だかりができたといいます。 そして「ゲームは1日1時間」。この一言は、ゲームに夢中になる子どもと、それを心配する親の、ちょうど真ん中に立つ言葉でした。ゲームをつくって売る側の人間が「やりすぎるな」と言う。そのふしぎな説得力もあって、この合言葉は日本中の家庭に広まっていったのでしょう。 ……と、ここまで書いて、私は気づきました。この夏、私は16歳。高校1年生でした。そして、ファミコンを持っていませんでした。興味も、正直なところ、まるでありませんでした。 理由ははっきりしています。野球です。 しかも、あのブームの真ん中にいたのは、小学生から中学生——つまり『コロコロ』を読む年頃の子たちでした。16歳の私は、ちょうどその世代の、一つ上のふちに立っていたことになります。 みんなが16連射を練習していたその夏、私は素振りのバットを振っていました。日本中の子どもたちがマリオを走らせていたその時間、私はグラウンドで白球を追いかけ、土にまみれていました。朝は誰よりも早くグラウンドに立ち、日が暮れるまでボールを追う。夏休みも、お盆も、その繰り返しです。ゲームに費やす1時間など、私にはありませんでした。仮にあったとしても、私はきっと、バットを振っていたと思います。 野球に夢中で、ゲームには本当に、これっぽっちも興味がありませんでした。だから、友達とゲームの話をしたという記憶さえ、私には一つもないのです。誰かの家に集まってコントローラーを奪い合う——そんな、いかにも昭和の子どもらしい光景の中に、私はとうとう一度も入っていきませんでした。ゲームというものは、私にとって、最後まで「よその世界の出来事」だったのです。 だから「ゲームは1日1時間」という名言も、当時の私の耳には一度も届いていませんでした。今の子どもたちが聞けば「そんなの当たり前」と笑うこの言葉が、実は40年も前に、しかも福岡のスーパーの店先で生まれていた——そのことを、私はこの歳になって、ようやく知ったのです。 幽霊も、僕を訪ねてはこなかった 二つめは「幽霊の日」です。 これも調べて知りました。1825年のこの日、鶴屋南北の歌舞伎『東海道四谷怪談』が、江戸の中村座で初めて上演された。それにちなんで、7月26日は「幽霊の日」とされているのだそうです。お岩さんの、あの怪談です。 そして昭和の夏といえば、怪談はごく身近なものでした。テレビをつければ夏の怪奇特番や心霊写真、遊びに行けばお化け屋敷や夜の肝試し。口裂け女のうわさに、学校の理科室や階段にまつわる怖い話。思えば昭和の子どもは、そこかしこで「怖いもの」と隣り合わせに夏を過ごしていました。背筋をひやりとさせて涼をとる——それが昭和の夏の定番だったはずです。 ところが、ここでもまた、私にはこれといった思い出がありません。怪談にも、お化け屋敷にも、心霊写真にも——どういうわけか、私は縁がありませんでした。 思い返せば、中学、高校と、私の夏の夜は早く更けていきました。翌日の練習のために、幽霊よりも早く床につく。テレビの前で夜ふかしをして震える、という夏の楽しみを味わう暇は、私にはありませんでした。体は疲れ果てていて、怖い話に付き合っている余裕など、なかったのかもしれません。四谷怪談のお岩さんも、心霊写真のあの手この手も、汗と泥にまみれた野球少年のところには、どうやら訪ねてこなかったようです。 2歳の僕は、月を見上げてもいなかった そして三つめ。1971年7月26日、アメリカの月ロケット「アポロ15号」が打ち上げられました。 これは三つの中でも、私からいちばん遠い出来事です。なにしろ当時、私は2歳。記憶があろうはずもありません。 それでも調べてみると、これがなかなか面白いミッションでした。アポロ15号は、月の上を走る車——「月面車」を初めて使った探検だったのです。船長のデビッド・スコットは、月面でちょっとした実験をしてみせます。左手に羽根、右手にハンマーを持ち、同時に手を離す。空気のない月では、重い鉄のハンマーと軽い羽根が、まったく同じ速さで、すとんと同時に地面に落ちました。「空気がなければ、物の落ちる速さは重さに関係ない」——400年ほど前にガリレオが唱えたこの法則を、人類は月の上で、その目で確かめてみせたのです。月の上を車が走り、その車から中継の映像が届く。冷静に考えれば、とんでもないことをやっていた時代でした。 ただ、月に人が降り立つという偉業も、このアポロ15号で四度目。世界の驚きは、少しずつ「見慣れたもの」へと変わりつつあった頃でもありました。 月といえば、私には一つだけ思い出があります。父が、事あるごとに「アポロ11号は月に行ったんだぞ。すごいよなぁ」と口にしていたことです。あの言葉は、それこそ何度も何度も聞かされました。けれど不思議なことに、その2年後に打ち上がったこの15号の話は、父の口から一度も聞いた覚えがありません。人類が二度目、三度目と月へ通ううちに、月はいつしか、わざわざ語るまでもない、当たり前の場所になっていたのかもしれません。 2歳の私は、もちろん月を見上げてなどいませんでした。きっと、眠っていたことでしょう。 僕の7月26日は、いつも同じ場所にあった こうして三つを調べ終えて、私は妙に納得しています。 ゲームの名言も、夏の幽霊も、月のロケットも——世界はちゃんと、この7月26日を記憶している。けれど私には、そのどれもが「自分ごと」ではありませんでした。 理由は、たぶん、いつも同じだったのです。私はその日、別の場所にいた。あるときは2歳で親の腕の中にいて、あるときは翌日の練習に備えて眠っていて、そしてあるときは——炎天下のグラウンドで、ただひたすらに白球を追いかけていた。 世界を沸かせた名言も、夏を彩った怪談も、人類の偉業も、私の横をすうっと通り過ぎていきました。同じ時代の空気を吸いながら、私はまるで違うものを見ていたのです。 みんなが夢中になったものを、私は知らずにいました。それは少しさびしいことのようでいて、でも、そうではないのだと思います。ファミコンを知らなかったのは、私の両手が、別のもので塞がっていたからです。そしてその「別のもの」こそが、あの頃の私にとっては、月よりも、幽霊よりも、どんなゲームよりも大切なものでした。 みんなと同じ思い出を持たないことは、思い出がないことと同じではありません。私の7月26日は、ただ、みんなとは違うかたちをしていた。それだけのことなのだと、今は思えます。 みなさんの7月26日は、どんな一日でしたか。ファミコンに夢中だった方、怪談に震えた方、月を見上げた方——それぞれの「あの日、いた場所」を、よかったら聞かせてください。 「ゲームは1日1時間」の一言が、福岡のスーパーの店先から日本中へ広まっていった顛末。それを当の高橋名人本人が振り返ったのが、この一冊です。ファミコンに背を向けて野球ばかりしていた私のような人間が読んでも、めっぽう面白い。あの夏、コントローラーを握っていた側の"答え合わせ"として、同世代におすすめします。 高橋名人のゲーム35年史(ポプラ新書)高橋名人。16連射と「ゲームは1日1時間」の伝説を、本人がユーモアたっぷりに語る。ファミコン世代の必読書 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月25日】「これが本物か」。私が回していたキューブは、偽物だった | 次の記事:【7月27日】毎朝、テレビは「ロッキード」と言っていた ▶

July 26, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月16日──私が生まれた年、人類は月へ向かった

昭和44年7月16日。世界初の有人月宇宙船「アポロ11号」が、アメリカ・フロリダ州のケネディ宇宙センターから打ち上げられました。 昭和44年生まれの私にとって、これは「同い年」の出来事です。とはいえ、当時の私は生後3ヶ月半。首がようやく据わったかどうかという赤ん坊ですから、当然ながら記憶にございません。 それどころか、白状してしまうと、私はアポロについて詳しく知らないまま50年以上を生きてきました。「アームストロング船長が月に降りた」「人類にとっては偉大な飛躍である、という名言」。知っているのは、せいぜいその程度。物心ついたときには月面着陸はすでに「歴史」であり、教科書の中の出来事だったのです。 今回、この記事を書くにあたって初めてアポロ11号のことを腰を据えて調べました。すると、これが面白い。知らなかったことだらけでした。今日は、55歳を過ぎてようやく「月への旅」を追体験した男の話に、しばしお付き合いください。 昭和44年7月16日、夜10時32分 まず驚いたのは、打ち上げの正確な時刻です。現地フロリダでは7月16日の午前9時32分。日本時間に直すと、同じ7月16日の夜10時32分でした。 つまり、日本では多くの家庭がテレビの前でこの瞬間を見ていたのです。NHKは夜9時45分から75分間の報道特別番組「アポロ11号発射」を放送し、視聴率は43.8%を記録したといいます。夜10時半に、国民の4割以上がロケットの発射を見守っていた。今では考えられない光景です。 発射場の周辺には推定100万人もの見物客が詰めかけ、打ち上げの様子は世界33ヶ国にテレビ中継されました。全長110メートルを超える巨大なサターンVロケットが、3人の宇宙飛行士――アームストロング船長、オルドリン、コリンズ――を乗せて、轟音とともに空へ昇っていく。 その夜、東京の下町・葛飾の片隅では、生後3ヶ月の私が寝ていたはずです。当時、我が家にテレビがあったかどうかは、今となっては確かめようがありません。ただ、ひとつだけ、はっきり覚えていることがあります。 3歳くらいになって、いろいろなことが分かるようになった頃、父が私に何度もこう言ったのです。 「アポロ11号は人を乗せて月に着陸したんだぞ。すごいよな」 一度や二度ではありません。何度も、です。幼い私の記憶に刻み込まれるほど繰り返したということは、父にとってそれだけ強烈な出来事だったのでしょう。あの夜、あるいはあの昼、父もどこかでテレビの前に立っていたのかもしれません。 8年がかりの「月への競争」だった 調べてみて次に驚いたのは、アポロ11号が決して「順風満帆の一発成功」ではなかったということです。 始まりは昭和36年(1961年)。ソ連のガガーリンが人類初の宇宙飛行を成功させ、宇宙開発競争でアメリカは完全に後れを取っていました。そこでケネディ大統領が打ち出したのが「1960年代が終わるまでに、人間を月に着陸させ、安全に地球へ帰還させる」という国家目標です。 しかし道のりは平坦ではありませんでした。昭和42年(1967年)にはアポロ1号が訓練中の火災事故で炎上し、3人の宇宙飛行士が亡くなっています。計画は一時中断。それでも8号で月の周回飛行を、10号で月面1万5000メートルまで接近する「予行演習」を積み重ね、ようやく11号で本番を迎えたのです。 ケネディ大統領の公約から8年。大統領自身はその実現を見ることなく世を去っていました。期限とされた「60年代」の残りは、あと半年もありません。まさに滑り込みの挑戦だったわけです。 日本中が見た「小さな一歩」 打ち上げから約4日後の7月21日(日本時間)、月着陸船「イーグル」が月の「静かの海」に着陸します。早朝5時18分のことでした。 そしてお昼前の11時56分、アームストロング船長が月面に第一歩を踏み下ろします。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」――あの名言が生まれた瞬間です。 日本では平日月曜日の昼前。それなのに、NHKの中継の視聴率は68%に達したといいます。その日のうちに何らかの形で映像を見た人は、実に91%。学校でも職場でも、テレビのある場所に人が集まり、38万キロ彼方から届く白黒の映像に見入っていたのでしょう。 面白いのは、この年、日本の家電メーカーが「月面着陸をカラーで観よう」というキャッチコピーでカラーテレビを売り込んでいたことです。昭和44年のカラーテレビ生産台数は約483万台と、わずか4年前の48倍に跳ね上がりました。ところが肝心の月面からの映像は、機材の重量制限のため白黒だった。なんとも皮肉な話ですが、アポロが日本の茶の間のカラー化を後押ししたのは間違いなさそうです。 3人目の男と、持ち帰られた月 もうひとつ、調べていて心に残ったことがあります。月に降り立ったのは2人ですが、アポロ11号の乗組員は3人だったということです。 アームストロングとオルドリンが月面を歩いている間、司令船操縦士のマイケル・コリンズは、たったひとりで月の周回軌道を飛び続けていました。月の裏側に回れば、地球との交信も途絶えます。人類の歓喜の輪から38万キロ離れた場所で、静かに仲間の帰りを待つ。子供の頃に「月に降りた人」の名前だけを覚えていた私は、この3人目の男の存在をほとんど意識したことがありませんでした。野球で言えば、派手なホームランの裏で黙々と走者を進めるバントのような仕事です。歳を重ねた今だからこそ、この人に一番心を惹かれるのかもしれません。 2人は月面に約21時間半滞在し、およそ21キロの「月の石」を採取しました。3人を乗せた司令船は7月25日(日本時間)、太平洋に無事着水。ケネディの公約――月に人間を着陸させ、安全に地球へ帰還させる――は、ここで完全に達成されたのです。 そして持ち帰られた月の石は、翌昭和45年の大阪万博でも大きな話題になります。アメリカ館に展示された「月の石」(こちらは続くアポロ12号が持ち帰ったものだそうです)を一目見ようと、連日長蛇の列ができたという話は、私も後年何度も耳にしました。当時1歳の私はもちろん万博には行っていませんが、日本中が月に熱狂した時代の余韻は、その後の子供時代のそこかしこに残っていたように思います。 思えば、子供時代の私にとって「月」は、今よりずっと不思議で、特別な存在でした。 夜になると必ず空に現れる、大きくて明るいもの。手を伸ばしても絶対に届かない、遠い世界。「月にはうさぎがいて、おもちをついている」と本気で信じていました。その一方で、ウルトラマンや仮面ライダー、宇宙戦艦ヤマトの影響から、「宇宙人がいる場所」「秘密基地がある場所」というイメージも重なっていました。満月はとてもきれいだけれど、夜遅くにひとりで見上げると少し怖い。「月の裏側には何かいるかもしれない」と想像したこともあります。 きれいで、不思議で、少し怖くて、でもずっと見ていたくなる特別なもの。そんな月に、本当に人が行ったのだと後にテレビや本で知ったときの驚きは、父のあの言葉と地続きだったのだと、今にして思います。 「同い年」として思うこと 先日の記事で、週刊少年チャンピオンが私と同じ昭和44年生まれだと書きました。創刊は7月15日。そしてその翌日の7月16日に、アポロ11号は月へ飛び立っています。私が生まれた年の7月は、少年漫画誌が産声を上げ、人類が月を目指した、そんな夏だったのです。 自分が赤ん坊だった頃の世界を、50年以上経ってから調べてみる。これはなかなか不思議な体験でした。両親がまだ30代だった頃の日本で、人々は夜10時半にテレビの前に集まり、ロケットの発射に固唾を呑んでいた。その熱気を、私は知りません。知らないけれど、その時代の空気の中で育てられたのだと思うと、アポロ11号が少しだけ「自分ごと」に感じられてくるのです。 最後に、余談をひとつ。地元・葛飾の北沼公園には、「月面歩行にチャレンジ!!」という掲示とともに「ムーンウォーカー」という遊具があります。バネの調節によって月面の6分の1の重力を疑似体験できるという、NASAの宇宙飛行士の月面歩行訓練機をもとに子供用に設計されたものだそうです。 アポロが月へ飛び立ってから半世紀以上。下町の公園では、今も子供たちが「月面」を歩いています。 夜、ふと月を見上げます。あそこに人類が立ったのは、私が生まれた年のことでした。 みなさんは、アポロ11号の記憶がありますか? リアルタイムで中継をご覧になった方も、私と同じように「歴史」として知った方も、よろしければ思い出をお聞かせください。 私がこの記事で追体験した「月への旅」を、絵と言葉でまるごと味わえるのがこの一冊です。打ち上げの轟音から、月面の静けさ、そして帰還まで。大人が読んでも胸が熱くなり、お孫さんに読み聞かせるにもちょうどいい。あの夏、人類が本当に月へ行ったのだと、あらためて教えてくれます。 月へ アポロ11号のはるかなる旅ブライアン・フロッカ作/日暮雅通訳(偕成社)。打ち上げから帰還までを、迫力の絵と詩のような文で描く絵本。世代を超えて読める一冊 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月15日】ファミコンは買わなかった。でもチャンピオンは毎週読んでいた | 次の記事:【7月17日】江夏豊、9者連続奪三振。私が生まれた2年後の「見ていない伝説」 ▶

July 16, 2026

昭和の今日は何があった日? ── 6月2日、月にそっと手を伸ばした日

6月2日。梅雨入りを前にした空は、晴れたり曇ったりと、どっちつかずの顔をしている。蒸し暑い昼のあと、夜になって雲が切れると、まだ低いところに月が出ていたりする。今日は、その月の話から始めたい。 私が生まれる三年前、月にそっと降りた機械があった 正直に書くと、私はこの日付をつい最近まで知らなかった。 私にとって「人類と月」といえば、まずアポロ11号だ。ニール・アームストロングが月面に足跡を残し、「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」と語った、あの夏。昭和44年(1969年)の7月のことだ。 ところが、その昭和44年というのは、私が生まれた年でもある。私が生まれたのは4月だから、人類が初めて月に立ったとき、私はまだ生まれて三か月ほどの赤ん坊だった。当然、何ひとつ覚えていない。母に抱かれて、月のことなどつゆ知らず、すやすや眠っていたのだろう。 つまり、私の世代にとって月とは、物心ついたときには「もう人間が行ったことのある場所」だった。教科書にもテレビにも、月は当たり前のように「行ける星」として出てきた。月へ行くというのが、どれほど途方もない挑戦だったのか、私たちはほとんど実感しないまま大きくなった。 そんな私たちの「当たり前」を、こっそり用意してくれていたのが、今日6月2日の出来事だ。 昭和41年(1966年)6月2日。アメリカの無人月探査機「サーベイヤー1号」が、月面にそっと軟着陸した。アメリカにとって、初めての月軟着陸だった。 それまでの探査機は、月にぶつかる寸前まで写真を撮りながら、最後は文字どおり月面に激突して終わっていた。「届く」ことと「降りる」ことは、まったく別の難しさだったのだ。空気のない月では、パラシュートは使えない。だから逆噴射のロケットだけを頼りに、落ちていく速度を、ぎりぎりまで自力で殺さなければならない。 サーベイヤー1号は、それをやってのけた。エンジンを噴かしてゆっくりと速度を落とし、四本の脚で、静かに月面に立った。そして、何ごともなかったかのように、1万枚を超える月面の写真を地球に送り続けた。砂利のような地面。小さなクレーター。地球からは決して見えなかった、足もとの月の素顔。 月面に静かに立つサーベイヤー1号。NASAの月周回探査機「ルナー・リコネサンス・オービター」が撮影。昭和41年6月2日、この機械が月に降りたことで、アポロへの道が開かれた。(Photo: NASA / パブリックドメイン) これは、来たるべきアポロ計画──人間を月に着陸させる計画──のための、いわば下見であり、リハーサルだった。人を乗せて降ろす前に、まず機械だけで「本当にちゃんと降りられるのか」「月の地面はやわらかすぎて沈んでしまわないか」を確かめておく。その地味で慎重な一歩が、今日という日だったわけだ。 派手なアポロ11号の陰に隠れて、私はこの「先に降りた機械」のことをずっと知らずにいた。けれど、考えてみればこのサーベイヤーがいなければ、私が赤ん坊だったあの夏の偉業もなかった。私たちの「月は行ける場所」という当たり前は、この日、誰にも気づかれないくらい静かに始まっていたのだ。 「アポロ11号は月に行ったんだぞ。すごいよなぁ」 私が宇宙を意識するようになったきっかけは、はっきりしている。父だ。 物心ついてから何度も、父は私にこう言った。 「アポロ11号は月に行ったんだぞ。すごいよなぁ」 何度も、何度も聞いた。テレビで月が映るたび、夜空に月が出ているのを見つけるたび、父はまるで自分のことのように、誇らしげにそう言うのだった。その「すごいよなぁ」には、嘘やお世辞のない、心からの感嘆がこもっていた。 子どもだった私は、父がそこまで言うのだから、よほどすごいことなのだろう、と素直に思った。今思えば、父は私が生まれたまさにその年に人類が月へ行くのを、大人として、リアルタイムで目撃した世代なのだ。あの興奮を、息子にも分けてやりたかったのだろう。父にとって月は「行ける場所」になったばかりの、まだ熱を持った夢だったのだ。 そうして父から受け取った「宇宙ってすごい」という気持ちは、私の中でどんどん育っていった。 スペースシャトルが、筆箱の上を飛んでいた 小学生になると、私たちの宇宙の主役は、アポロからスペースシャトルへと変わっていた。 ロケットは打ち上げると使い捨て。それが当たり前だった時代に、スペースシャトルは「翼を持ち、宇宙から滑空して帰ってきて、また飛ぶ」という、まるでSFそのものの乗り物だった。打ち上げのときはロケットなのに、帰りは飛行機のように滑走路に降りてくる。あの白い機体が大気圏に突入してくる映像を、私は固唾をのんで見ていた。 そして気がつけば、スペースシャトルは、私たちの身のまわりのありとあらゆる文房具の上を飛んでいた。筆箱にスペースシャトル。下敷きにスペースシャトル。ノートの表紙にも、消しゴムのケースにも、スペースシャトル。あの精悍な白い翼が、青い地球を背景にプリントされていた。 スペースシャトル「チャレンジャー」の打ち上げ(1983年4月)。あの白い翼と噴煙が、昭和の子どもたちの筆箱や下敷きの上を飛んでいた。(Photo: U.S. Department of Defense / パブリックドメイン) もちろん、テレビの中の宇宙も負けてはいなかった。「宇宙戦艦ヤマト」で地球を救うために十四万八千光年の旅に出て、「銀河鉄道999」で汽車に乗って星々を渡り、「キャプテンハーロック」の黒い髑髏の旗に胸を熱くした。私はもう、すっかり夢中だった。 夜、近所の空き地から見上げる月は、ただの白い丸ではなかった。「あそこに人が行ったんだ」「あそこに、足跡があるんだ」と思いながら見上げる月だった。父の「すごいよなぁ」と、筆箱のスペースシャトルと、テレビのヤマトとが、すべて一本につながって、私の頭の上の夜空に広がっていた。 そして令和、宇宙はとうとう「商売」になった 時は流れて、令和8年(2026年)。 宇宙の主役は、いまやイーロン・マスク氏が率いる民間企業「スペースX(SpaceX)」だ。国家がしのぎを削っていた宇宙開発を、一企業が引っ張る時代が来た。これだけでも、昭和の子どもだった私には、十分に未来の話である。 マスク氏が掲げる究極の目標は途方もない。「人類を多惑星種族にする」──つまり、地球に大災害が起きても人類が絶滅しないように、火星に自立した都市を作る、という構想だ。百人以上を一度に運べる超大型宇宙船「スターシップ」を完成させ、やがて数十万人から百万人規模の火星都市を目指す。 野球にたとえるなら、こうなるだろうか。使い捨てないロケット「ファルコン9」は地区大会の優勝。衛星網「スターリンク」で甲子園出場決定。火星に着陸できたら、いよいよ全国制覇。そして火星に都市を建設するというのは──プロリーグをまるごと一つ新設するようなものだ。それくらい、一段ごとの難しさが桁違いなのである。 すべては、あの慎重な一歩の延長線上に こんな時代が来るなんて、昭和の子どもだった私には、想像もつかなかった。 筆箱の上を飛んでいたスペースシャトルが、まさか民間企業のロケットに主役を譲る時代が来るとは。ヤマトやハーロックが旅した宇宙の、その手前の火星に、人が町を作ろうとしているとは。 けれど、忘れてはいけない。それもこれも、すべては今日6月2日の、あの「サーベイヤー1号 月面軟着陸」からの、まっすぐな延長線上にあるのだ。 逆噴射でそろりそろりと速度を落とし、四本の脚で静かに月へ降りた、あの小さな機械。誰にも気づかれないほど慎重だったあの一歩がなければ、アポロの足跡も、父の「すごいよなぁ」も、私の筆箱のスペースシャトルも、そしてマスク氏の火星都市の夢も、何ひとつ始まらなかった。 夢というのは、いきなり大きく見えるものではない。たいていは、誰かがそっと脚を伸ばした、地味で慎重な一歩から始まっている。六十年かけて、その一歩は火星にまで届こうとしている。 今夜、もし雲が切れて月が見えたら、ぜひ一度、見上げてみてほしい。あの白い丸の上には、六十年前の小さな機械が、今もまだ静かに立っている。父が「すごいよなぁ」と言った、あの月だ。 あなたの宇宙への入り口は、いったい誰の、どんな一言でしたか。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? 6月1日 ― 父の肩車と、上野のパンダがいた時代 | 次の記事:「世界の盗塁王」福本豊と、すりこぎ棒のバット──昭和の今日は何があった日?(6月3日) ▶

June 1, 2026