今日は8月7日。暦の上では立秋を迎える頃で、8と7を「ハ・ナ・ビ」と読む語呂から「おもちゃ花火の日」でもあります。夏のいちばん濃いところに刺さっている、そんな日付です。

この日付を、私は昭和のあいだに何度もくぐってきました。ただ、くぐるたびに私の立っている場所は違っていました。

小学2年の夏。中学2年の夏。高校1年の夏。

同じ8月7日に、世の中では別々の大きな出来事が起きていました。そして私は、そのどれとも関係のないところで、その日を過ごしていたのです。

同じ8月7日を、8歳・14歳・16歳で通過した。世の中の出来事と、そのとき私がいた場所。


昭和52年8月7日──私は、区営プールにいた

昭和52年(1977年)8月6日の未明から、北海道の有珠山で有感地震が続発しはじめました。午前3時頃には、山のふもとで人がはっきり感じるほどの揺れになっていたといいます。

そして翌7日の午前9時12分。有珠山の山頂火口原から、真っ白な噴煙が突き上がりました。噴煙はおよそ1時間後には高さ12,000メートルに達したと記録されています。

昭和新山が生まれてから、32年ぶりの噴火でした。噴火は8月14日の未明まで断続的に続き、火山灰は北海道の広い範囲に降り積もりました。前日からの地震で住民が避難していたため、この日の噴火そのものによる人的被害は出ていません。

昭和19年(1944年)、麦畑が盛り上がって昭和新山が生まれたときの航空写真。この32年後の8月7日に、有珠山はふたたび動いた。(Photo: 国土地理院 / Attribution, via Wikimedia Commons)

そのころ、私は8歳。小学2年生の夏休みでした。

あの夏、私はほぼ毎日、午前中を区営プールで過ごしていました。友達と連れ立って出かけていって、水から上がっては入り、また上がる。夏休みの午前中というのは、そういう時間の使い方をするものだと思っていました。

午前9時12分。日本の北の端で山が噴き上がったその時刻、私はたぶん、プールへ向かう途中か、着いたばかりだったはずです。塩素のにおいと、コンクリートの熱と、水面の照り返し。葛飾の8歳にとって、その日の世界はそれで全部でした。

北海道の空が灰色になっていることを、私は知りません。

そもそも当時の私にとって、北海道は地図の上にしかない場所でした。父は仕事の休みがほとんどなく、家族で泊まりがけの旅行に出たことは一度もありません。車もありませんでした。テレビの中の噴煙は、月のクレーターの映像と同じくらい遠いところの出来事です。

有珠山のふもと。いまも斜面のあちこちから噴気が上がり続けている。(Photo: CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

有珠山という山は、20数年から50年ほどの間隔で噴火を繰り返し、しかも噴火の前には必ず前兆の地震が起きる。そのため地元では「ウソをつかない山」と呼ばれています。前の活動は昭和18年から20年にかけてで、このとき麦畑が盛り上がって昭和新山が生まれました。32年たって、山はまた約束どおりに動いたわけです。

記録を読んでいて印象に残ったのは、7日の噴火のとき、洞爺湖を訪れていた多くの観光客が立ちのぼる噴煙に見とれ、それを背にして写真を撮っていたという一節でした。恐怖よりも先に、まず見とれてしまう。人間というのは、そういうものなのかもしれません。


昭和58年8月7日──私は、11時30分に家を出た

それから6年後。昭和58年(1983年)8月7日、フィンランドのヘルシンキで、第1回世界陸上競技選手権大会が開幕しました。

オリンピックとは別に、陸上競技だけの世界一決定戦を開く。その第1回です。153の国と地域から1,355人が集まり、41種目が争われました。アメリカのカール・ルイスが100メートル、走幅跳、リレーで三つの金メダルを持っていき、男子4×100メートルリレーと女子400メートルでは世界新記録が生まれています。

第1回世界陸上の舞台となったヘルシンキ・オリンピックスタジアム。1952年のヘルシンキ五輪のために使われた、あの競技場だ。(Photo: パブリックドメイン, via Wikimedia Commons)

日本からは監督以下22名(男子16名、女子6名)が派遣されました。結果は、入賞者ゼロ。8位以内に一人も入れなかった。当時の日本陸上と世界の距離は、それくらい離れていました。

ちなみに、この大会をテレビ中継したのはテレビ朝日系列でした。『世界陸上』といえば日本テレビ、そしてTBSという印象が強いのですが、第1回だけは別の局だったのです。

そのころ、私は14歳。中学2年生です。

この夏、3年生の先輩たちが引退して、新チームが始まったばかりでした。野球部の練習はほぼ毎日。11時30分に家を出て、練習が終わって帰り着くと19時頃になっている。そういう夏でした。

家を出るのが11時30分というのは、今から思えば妙な時間です。午前中がまるまる残っていて、それでいて何もできない。ヘルシンキと日本には6時間の時差がありますから、開幕日の競技が動いていたのは日本の夕方から夜にかけて。私が土のグラウンドにいた時間と、その中継が流れていた時間は、きれいにすれ違っています。

それに、8月上旬の日本でスポーツといえば、やはり甲子園でした。世の中の目は高校野球のほうを向いていて、その脇でフィンランドの競技場に世界中の選手が集まっていることなど、中学2年の野球部員の耳には届いていません。

世界最高峰の陸上大会が始まったその日、私は葛飾で、白球を追いかけていました。


昭和60年8月7日──私は、スタンドにいた

さらに2年後。昭和60年(1985年)8月7日、宇宙開発事業団(現在のJAXA)が、日本人として初めての宇宙飛行士3人を発表しました。

北海道大学工学部助教授の毛利衛さん、慶応大学医学部助手で心臓外科医の内藤千秋さん(結婚後の姓は向井)、NASAの研究員だった土井隆雄さん。500人を超える応募者から選ばれた3人は、いずれも30代でした。

スペースシャトルに乗って宇宙で実験をする。当時の予定では、飛行は昭和63年の初め頃とされていました。

募集がかかったのは昭和58年12月。ちょうど、第1回の世界陸上が終わって4か月ほどあとのことです。応募は500人を超え、そこから一年半以上をかけて絞り込まれた結果が、この日の発表でした。

そのころ、私は16歳。高校1年生です。

その夏の東東京大会を、私はスタンドから応援していました。1年生ですから、当然といえば当然です。そして3年生が引退して新チームが始まった、その矢先。私は右足の甲を骨折しました。

新チームの秋の大会に出ることは、絶望的になりました。

野球は、走れないと何もできません。素振りはできても、守れないし、走れない。あの夏、私は松葉杖をついていました。両手がふさがっているというのは、思っていた以上に不便なものです。グラブも持てない。ボールも拾えない。

始まったばかりのチームに自分の場所がない。しかも、走れない。悔しい夏でした。あの年の夏の記憶は、その悔しさとセットになっています。

ただ、後から知ったことがあります。

平成4年(1992年)9月、スペースシャトル「エンデバー」STS-47のクルー。右端が毛利衛さん。日章旗の隣に立つまで、選ばれた日から7年かかった。(Photo: NASA / パブリックドメイン, via Wikimedia Commons)

選ばれた3人も、そこからずいぶん長く待たされました。昭和61年1月にチャレンジャー号の事故が起き、スペースシャトルの打ち上げそのものが止まってしまったのです。毛利さんが実際にエンデバーで宇宙へ上がったのは、平成4年(1992年)9月。選ばれた日から、7年が過ぎていました。

向井さんが飛んだのは平成6年、土井さんは平成9年。土井さんはこのとき、日本人として初めて宇宙船の外に出ています。三人とも、選ばれた日から10年前後を待っていることになります。

選ばれた人も待つ。選ばれなかった人も待つ。待っている時間の長さだけで言えば、案外そう変わらないのかもしれません。もっとも16歳の私は、そんなことは考えもしませんでしたが。


あの夏、松葉杖の私にはできないことばかりでした。それでも走れる人にとっては、8月7日はいまでも花火の日です。「ハ・ナ・ビ」の語呂に合わせて、庭先やベランダで小さく火をつける。派手な打ち上げ花火より、こちらのほうがよほど昭和の夏の記憶に近いように思います。

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おわりに

有珠山は、平成12年(2000年)にも噴火しました。このときも前兆の地震をもとにした事前の避難が間に合い、人的被害はありませんでした。ウソをつかない山は、平成になっても約束を守ったわけです。

世界陸上は、平成3年に東京で開かれ、日本のお茶の間にすっかり定着しました。あの第1回大会で入賞者ゼロだった国が、今では当たり前のようにメダルの話をしています。

日本人宇宙飛行士も、いまや10人を超えました。宇宙へ行くこと自体はもうニュースの一行で済んでしまう。昭和60年の夏、それが新聞の夕刊を飾る大ニュースだったことを覚えている人のほうが、そろそろ少数派かもしれません。

そして私は、右足の骨折から復帰し、翌年も、その翌年も夏を迎えました。最後の夏、昭和62年7月の東東京大会は、神宮第二球場での4回戦負けで終わっています。

今になって8月7日という日付を並べてみると、面白いことに気づきます。あの日、私は北海道にも、ヘルシンキにも、記者会見の会場にもいませんでした。プールと、グラウンドと、スタンド。ずいぶん狭い場所ばかりです。

けれど、覚えているのはそちらのほうなのです。噴煙12,000メートルより、水から上がったときの体の重さのほう。世界新記録より、11時30分に家を出るときの家の暗さのほう。

歴史の側から見れば、私は何も見ていない。でも自分の側から見れば、あの夏はぎっしり詰まっていました。

8月7日は立秋です。暦の上ではここから秋ということになっていますが、私がくぐってきた昭和の8月7日は、どれもまだ夏の底でした。プールの水も、グラウンドの土も、スタンドのコンクリートも、いちばん熱い時期です。暦がなんと言おうと、子どもの体感のほうが正直でした。

みなさんの8月7日は、どこにありましたか。


昭和60年8月7日に選ばれた3人が、そのあと何を待ち、宇宙で何を見たのか。日本人宇宙飛行士12人にひとりずつ話を聞いていった一冊です。「選ばれてから飛ぶまで」の時間の話でもあり、私のような地上の人間が読んでも、妙に身につまされます。

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稲泉連/文藝春秋。毛利衛・向井千秋・土井隆雄をはじめ、日本人宇宙飛行士12人へのインタビュー。宇宙で何を感じ、地上に戻って何が変わったのかを、本人の言葉で
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【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。


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